天地燃ゆ   作:越路遼介

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12000文字ですよ、このお話。つい15年前は何の苦労もなく一気にこの文章量を書けたんだなと自分に感心しました。


外伝さえ 四【再会】

 水沢隆広は十代の若さながら柴田家の内政の中心人物となり、軍事においても働きを示している。良人は大した武士だったのだなぁと感心していた。

 家臣も奥村助右衛門、前田慶次、石田三成と器量と才覚を備えた者たちが揃った。後世観点から見れば、よくこんな英傑たちが織田の一陪臣に過ぎない隆広のもとに集結したと思えてくる。

 さえは隆広の家臣たちにも気配りをして彼らの主君の妻としての役目を果たし、そして助右衛門の妻の津禰、助右衛門の妹にて慶次の妻である加奈とも深い友誼を結んだ。ある日の水沢屋敷。

 

「ええ?それじゃさえ様はいつも床の上で受け身ばかりなのですか?」

 と、加奈。

「だって恥ずかしいし…」

 顔を真っ赤にして答えるさえ。貞淑な津禰もどちらかと云えばさえの考えに賛同する。

 しかし勝気な加奈は時に良人の上に乗るのを好む。

 

「それでは隆広様もやがて飽きてしまいます。妻がいつも受け身では」

「で、でも女子から攻めるなんてはしたないとあの人に嫌われては元も子も…」

 意地悪い顔を浮かべる加奈。

「そんな殿方なんていません。よろしい、私が殿方を悦ばせる術を伝授いたしましょう。ほら義姉上様(津禰)も一緒に」

「わ、私も?」

「はい、堅物の兄上が惚れ込む房中術を伝授して…」

「そ、そんな房中術なんか持っていません!」

 津禰も顔が赤くなってきた。逃げ出そうとしているさえの着物をしっかり掴んでいる加奈。

「は、離して下さい!け、結構です!」

 

 武家娘は長じて婚期になると母親や年長の侍女から床の技などを教えられたと云う。しかしさえは誰からも教わっていない。恥ずかしがり屋であるさえにとって自分から攻めるなんて想像もしていない領域である。

 

「加奈殿、さえ様はまだ十六、これからおいおい覚えていけば…」

 津禰が取りなすが

「いえいえ、万一隆広様とさえ様に情事が原因で不和にでもなれば水沢家に悪影響が。これは水沢家幹部夫人として、やらねばならぬ務めでございますよ」

 筋が通っている。津禰も加奈も嫁ぐ前に母や姉、そして年長の侍女たちに床の技を教わっている。さえには教える者がいなかった。ならば我らが、と思ったのだろう。観念したさえは二人から男を悦ばせる術を学んだ。実践するのは当分先だが。

 

 

 さて、軍事内政と勲功を重ね、隆広は若干十七歳で柴田家の侍大将となった。二千から三千の軍勢を統べる軍団長と云える。信長の息子たちを除けば隆広は織田家最年少の侍大将であった。水沢軍の結成も行われ、『歩の一文字』の軍旗はさえも生涯の誇りとする。

 怒涛のごとく出世街道を歩く男の妻であるさえ。しかし彼女自身はけして驕らなかった。正しく云えば驕りようもなかった。将兵を養う身、相変わらず水沢家の懐は厳しく、さえのやりくりも重要な役割だった。

 良人が人の上に立つほどにさえの責任も重くなってきた。さえは幹部や隆広三百騎、工兵隊の妻たちとも連携して家中の情報を集めた。誰が病に倒れたか、誰に子供が生まれたか、誰の父母や祖父母が亡くなったか、誰が隆広の扱いに不満を持っているか。さえは自分が対応できるものは自分で行い、なるべく隆広の手を煩わせまいと考えていた。あとで隆広に事後報告をしていたのだ。

 

「そうか、茶之助が俺に不満を」

「身に覚えが」

 苦笑して答える隆広。

「ある」

 星岡茶之助は隆広三百騎の一人で、元は札付きの不良少年であった。武技も立つが伊丹城の戦いの野戦にて隆広の指示に従わず、敵陣に突っ込んでいった。

 隆広は激しく叱責し謹慎処分としたのだ。

 

「それでは茶之助殿の不満は逆恨みですね」

「そうだが、こじれたら問題だな…」

「ところで」

「ん?」

「お前さま、星岡家は朝倉家で料理番をしていた家です」

「そうなのか?」

「とはいえ本城の一乗谷ではなく戦場料理人です。かの宗滴公は軍勢に料理番を随行させていました。限られた兵糧で美味い食事を作らせて士気が落ちるのを防いだと言います」

「それが星岡と?」

「はい、武士が料理などと揶揄されたこともあったみたいですが宗滴公は重く用いたと言います」

「……」

「星岡の家には戦場の料理に伴う秘伝書などもあるかもしれません。その末裔たる茶之助殿にはもしかしたら…」

 

 思いだしたことがある。隆広の初陣である大聖寺の戦い、その行軍中に雑炊を食べたが大変美味だった。誰が作ったと聞くと、それが星岡茶之助だった。

「いいことを聞かせてくれた」

「役に立ちました?」

「さえはやっぱり俺に運を呼ぶ観音様だ。ありがたやありがたや」

「まあ、お前さまったら」

 

 謹慎中の星岡茶之助に辞令がおりた。水沢軍の戦場料理人に任命すると云う辞令だ。腹が減っては戦が出来ない、飯はあっても握り飯ばかりでは飽きるし、栄養が偏り体調も崩す。

 何より食事が美味しければ士気も上がる。隆広は辞令書に『そなたの先祖が宗滴公を支えたように、そなたも俺を支えてくれ』と加筆していた。武士が料理など、反発してもおかしくない辞令だが星岡家では事情が違う。先祖が料理で朝倉家随一の名将宗滴を支えたのは誇りであった。

 病気がちの茶之助の父は床の上で辞令書を見て感激し

 

「誰に聞いて下さったのか、当家の本来のお務めを与えて下さった!」

「親父…」

 料理も得意だが、何より茶之助は戦好きの男。宗滴は戦場料理人を前線には出さなかった。隆広も工兵は一切前線に出していない。自分も槍働きを禁じられることになるのが分かった。

 

「俺は嫌だよ。殿にたまに美味い雑炊を作って差し上げることくらいいいが専門で料理番になるなんて。俺は武功で立身出世したいんだ」

「殿には奥村様と前田様と云う豪傑がついている。加えて柴田の家風は尚武、お前ほどの武辺者ならゴロゴロいる」

「……」

「槍働きで目立てぬのであれば、お前は料理で水沢家を支えて功名を立てるのだ。薄氷を踏むような局面、美味くて栄養のある食事が勝敗を分けることもあるのだぞ。宗滴公はそれを存じておられた」

「親父…」

「ああ…嫌がるお前に幼きころから料理を仕込んでおいて良かった…」

「……」

「儂にお前に与えられるものはそれしかなかったからな…」

 かくして茶之助は戦場料理人と云う他の軍勢には存在しない役割を与えられた。

 さえの進言によって任命に至ったと茶之助が知るのはしばらく後のことである。

 工兵隊と同じく戦場には出ないが水沢軍、そして柴田明家軍を陰で支える料理集団の頭領として茶之助は活躍していくことになる。

 

 

 水沢隆広が侍大将になって最初の戦いが小松城の戦いであった。合戦そのものは勝利、しかし勝ち戦だったのに良人の隆広は大敗でもしたかのように意気消沈していた。勝家の厳命により小松城にいる一向宗門徒を皆殺しにしたことに心を痛めていたのだ。沈んだ顔で帰宅した隆広を迎えるさえ。

「お疲れさまでした。さあ、お風呂が沸いております」

「……」

「お前さま?」

「さえ…ッ!」

 隆広はさえに抱きついて泣き出したのだ。驚くと同時にたまらなく良人が愛しくなった。良人をギュウと抱きしめて

「つらいことがあったのですね…」

 妻の膝に顔をうずめて泣いている隆広。さえは思った。

(この人は母の愛を知らずに育った方…。私に慈母を求めているかもしれない…)

「泣いて下さい。男だからって我慢することはないのです…」

 

 声をあげて泣く良人を優しく抱きしめた。戦国時代最たる名将と呼ばれた水沢隆広。しかし、その弱さを誰よりも理解して癒したのがさえであった。

 隆広は後々までこの小松城の戦いにおける過酷な戦後処理が頭から離れずに苦しむことになる。悪夢に目覚め、時に頭を抱えて落涙して苦しんだ。

 しかしそんな隆広の姿を側室や愛人と云う女たちは無論、家臣たちも一度も見たことがない。さえだけが見ている。隆広はさえだけにしか見せていないのだ。

 宝にて命――。母上以上の存在――。隆広はさえにそう言っている。母親の愛を知らずに育った隆広に初めて手放しの女の愛情を向けたさえだからこそ、天下人を支えることが出来たのだろう。

 

 小松城攻めからしばらくして隆広は屋敷替えとなった。理由は刺客に襲われたからである。今までの隆広の屋敷は夫婦二人暮らしでちょうどいいと云う程度のもので番兵を置くことが出来なかった。

 それ以前に隆広が置こうとしなかったのであるが、刺客から救ってくれた源蔵こと加藤段蔵から『驚いたと云うより呆れた』と不用心を叱られ、夫婦の甘い生活は捨てがたいが勝家からの指示もあり柴田家の侍大将として適した屋敷に移った。しかし刺客に襲われてからさえの機嫌は悪かった。

 

「さえ、これからの家では広間で兵や職人を労うこともある。食器類を多く注文しておいてくれ」

「分かりました」

 引っ越し作業をしながら、ぶっきらぼうに返すさえ。

「なあ、もう機嫌直せよ」

「つん」

 隆広は刺客からさえを命がけで守るべく命がけで戦おうとしたが、その刺客は居合わせた源蔵が難なく討ち取った。その後に隆広の忍びたちが大急ぎで駆けつけたが、さえの知らない美女二人がいた。すずと舞である。刺客に襲われて怖くてたまらなかったのに隆広は抱きしめてもくれず、その美人くノ一と話していた。腹が立った。

 翌朝に旅立つ源蔵を見送り、忍びたちも帰っていった。ふう、と一呼吸入れた隆広は

「台風一過だったな、さえ」

 その隆広をジーと睨むさえ。源蔵の前では可愛らしい笑顔を浮かべていたのに、今では別人。

「な、なんだよ」

「なに、あの女忍び」

 隆広は説明した。養父に仕えていた忍びの子弟たちだと。何で女なのかと問えば

「し、仕方ないだろう!その忍び衆が俺の元に派遣したのは白を入れた、あの三人だったんだから!」

「二人とも美人だったけれど…妙なことしていないでしょうね!」

「してないよ!俺はさえ一筋だよ!」

「…あんな怖い思いをした後なのに、抱きしめてもくだされず、それどころかさえの前でよその女子と親しく話すなんてあんまりです。さえは怒りました。当分房事お預け!」

「そ、そんなあ…」

 さえの怒りはまだ収まっていなかった。自分を命がけで守ろうとしたことは嬉しいが、そのあとがいけない。抱きしめて恐怖を払拭してくれず、何より目の前で美女二人と話すなんて。

「さえ」

「食器類の注文は分かりました」

「そうじゃなくて、そろそろ笑顔を見せてくれよ」

「つん」

「拗ねた顔も可愛いけど、笑顔の方がさえは可愛いよ」

「また上手いこと言って」

「しかしヤキモチを妬かれるって初めてだけど…」

「え?」

「そんなに悪い気もしないな」

「まあ、よくもそんな!」

「俺もさえが他の男と親しく話していたら、きっとヤキモチ妬くんだろうなぁ」

「……」

「俺が先にやっておいて何だけど、そういう場面、俺に見せないでくれよ」

「む、虫のいい!」

「あはは」

 

 やがてさえの機嫌も直り、無事に引っ越しを済ませた。このころには石田三成も妻を娶り、水沢家の女衆も充実していった。三成の妻は伊呂波と云い、さえの生涯の友となる女だった。良人が隆広の右腕ならば、伊呂波もまたさえにとってそれに近い存在だった。

 

「さえ様、松山矩久殿のご母堂が亡くなったとのこと」

「それは…」

「矩久殿は悲しんでおられますが、前々より病がちであり覚悟は出来ていたとのこと」

「確かお父上も他界されていましたね」

「はい」

「それでは喪主は矩久殿と相成りましょう。すぐに葬儀の支度をいたしましょう」

「分かりました」

 水沢家将兵の家族は水沢家の名前で葬儀を行えた。本来は各々の家で取り行うものなのだが水沢家では違ったのだ。

 これがより一体感を上げさせるに至るが、さえもまた忙しい日々であった。しかしさえが不満をもらすことはなかった。良人やその家臣たち、その妻や子供たちに支えられているのだから苦になどならなかった。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 水沢隆家の祥月命日、隆広とさえは隆家と景鏡の墓参をした。もはや景鏡の墓は壊されることはないが、献花されることはない。さえが寸暇を利用してこまめに来ているが、今日は景鏡の墓に献花があり、線香のあともあった。さえの手によるものではない。

 

「誰だろう…」

 ふと漏らす隆広。

「どなたでもいいです。父上の墓に墓参して下さった方がいるだけで、さえは満足です」

 さえはいつものように墓を清めて花を手向けた。その時だった。

「…姫?」

「……?」

 

 隆広がそう言った男を見た。老いた農夫だった。さえの背中を凝視している。当のさえは気付かず父の墓に手を合わせている。農夫はヨロヨロとさえに歩む。

「さえ姫様では?」

(…え?)

 振り向いたさえは絶句した。そこには信じられない人物がいた。

「まさか…監物?」

「お、おお…姫様!」

 監物と呼ばれた農夫は涙を流してさえに平伏した。その監物の手を握るさえ。

「生きていたのですね…!」

「はい…!」

「どうしてここに…」

「はい、殿の旧領の大野郡にて帰農して百姓として暮らしておりましたが、こんな話を聞いたのです。北ノ庄の侍が殿の遺骨と遺品を回収し持ち帰ったと…!もしやと思いまして、北ノ庄中の墓地を見てまわったのです…!そしてここに殿の墓が!」

「そうだったの…よく生きていてくれましたね。でも直信殿は…」

「弟は姫を守れて死ねたのですから本望でございましたでしょう…!ああ、それにしても姫こそよく生きていて下さいました!さぞやあの後はお辛い目に…。う、うう」

 

「さえ、このお方は?」

「はい…父の景鏡に仕えていた老将、吉村監物にございます」

「…この方が吉村監物殿か。聞いたことがある。景鏡殿の家老で、景鏡殿の謀反を頑強に反対したと聞く。土橋信鏡と名を変えた景鏡殿からは疎まれて遠ざけられてしまったというが平泉寺の凶変のおりは命を賭けて主君の景鏡殿を守り戦ったと…。気骨ある老将として父から聞いた」

「もったいない仰せにございます。それでは貴方が…大野郡で殿の遺骨を持ち帰ったという侍ですね」

「はい、貴方が大事に思う姫の良人です。水沢隆広と申します」

「貴方が…!水沢隆広様でございますか!」

「はい」

「で、では先の言葉は斎藤が戦神と呼ばれた水沢隆家殿が…ッ!?」

「ええ、その通りです。そういう年寄りを家臣に持てるように励めと教えられました」

「なっ、なんという光栄の極み!戦神殿が儂などを…。うっ、うう」

 

「さえ、とにかくここではなんだ。屋敷にお招きしよう。さえの知らない景鏡殿のご最期も監物殿ならご存知のはず。ゆっくり聞かせてもらってはどうだ?」

「はい、さあ監物。我が家に来て」

「ありがたき仰せにございます」

「ところで伯母上は?」

「家内なら元気にございます」

「良かった…」

 

 隆広夫婦は監物をもてなした。今はただの百姓にすぎない自分をもてなしてくれるのが監物には嬉しくてたまらなかった。そして愛する姫君が素晴らしい男児と夫婦になっていたことも嬉しかった。

 

 そして、今までさえも知らなかった父朝倉景鏡の最期が明らかになった。景鏡は監物と敵勢に突撃した。二人での突貫、生きることは考えていなかったろう。

 裏切り者と呼ばれる景鏡だが最後に武士の死に様、いや意地を示したと言える。もはや死兵と化していた二人は思う存分に戦い、そしてさえと直信が敵勢の目から離れたと見て平泉寺の中に戻り、そして景鏡は切腹して果てた。監物が介錯した。

 首を持って逃げようとしたが監物は捕捉され、ところどころ斬られた揚句に首を取られてしまった。もはやこれまでと思ったが監物は地元領民に慕われていて命を助けられたのだ。

 

 八重もまた捕らわれていたが酷い仕打ちは受けずにいた。捕らわれていたと云うより匿われていたと思われる。監物も八重の元に連れて行かれ、やがて回復していった。自害しようと思ったが八重の『姫の安否が分かるまでは』と説得され、帰農して生きていくことに決めたのだ。

 

 しかし生活は貧しかった。朝倉氏のあとに越前入りした柴田勝家は一向宗門徒との戦いに追われ、内政に割く資金も時間も、そして全面的に内政を委ねるに足る臣下がいなかった。

 

 朝倉景鏡の元領地である大野郡もその例外ではなく、加えて凶作も続いたので監物と妻の八重の暮らしは困窮を極めた。彼らには息子もいたが、彼は景鏡ではなく、本家の朝倉義景に仕えており、あの織田の猛攻である『刀禰坂の戦い』で左腕を失い、また左足の指は全部なで斬りにされ、大事な腱を切られてしまい歩行にも支障がある。生活のほとんど父母に頼りきりの自分に嫌気がさして酒に溺れた。監物は妻子と苦しい生活を送っていた。

 

 そんなある日に優秀な行政官が越前大野の地にやってきた。水沢隆広である。彼の陣頭指揮とその部下の兵たちにより、大野郡の開墾が進められた。

 暮らしが楽になるかもしれぬと、監物も割り当てられた仕事に全力を注いでいた。そしてふと聞いた。開墾の現場に来ていた北ノ庄の侍が、旧領主の景鏡の遺品を捜していたと。無論、監物は何も持っていない。だが他の景鏡を慕う領民が平泉寺から戦の後に持ち去っており、それをその侍に献上したと聞いた。

 

 監物はいてもたってもいられずに、不自由な体で北ノ庄にやってきた。そして見つけた。主君の墓を。そしてきれいに掃き清められ、献花もされていることに感激した。誰が…と思い、ずっと墓地で主君の墓を墓参する者を待ち続けた。待つこと二日、彼は見つけたのである。大切な姫を。

 

 やがて話し疲れたか、監物はさえと隆広の前でウトウトとし、そのまま眠ってしまった。

「お疲れだったようだ。さえ、寝具の用意はできているか?」

「はい」

「よし、お運びしよう」

 

 監物を寝かせると隆広は書斎に行ってしまった。

 さえは監物の眠る顔をしばらく見つめていた。子供のころから伯母と共に慈しんでくれた監物。大好きだった。

 いつも楽しくて面白い越前のお話や童話を聞かせてくれた。後年にさえが息子や娘に寝床で話すことはみんな監物から聞いたお話である。それほどに幼き日のさえに影響を与えた人物であった。

 

「このまま、また別れるなんていやだ。ずっとここにいてほしい…」

 さえは隆広の書斎に行った。算盤を弾く音が聞こえる。いつもならばその音を聞けば入室を遠慮するさえだが、どうしても今聞いてもらいたい。

「お前さま…」

 算盤の音が止まった。

「なんだ?先に寝ていろと…」

「お話があるのです。お仕事中申し訳ありませんが入ってよいですか?」

「さえに閉じる戸を俺は持っていないよ。お入り」

「はい」

 さえが入ってきた。隆広は算盤と帳面を置いた。

「なんだ?」

「はい…あの…」

「…何も言わなくてもいい。分かっている」

「…え?」

「『監物殿を召抱えて欲しい』だろ?」

「え…!」

「そのかわいい顔に書いてある。分かりやすいなァ、さえは」

「んもう!からかわないで下さい。さえは真剣なのですから!」

「ははは、悪い悪い。だけど監物殿を召抱えるのは、愛しいさえのためだけじゃない。俺のためでもある。言うまでもないが俺はまだ越前に来てから短い。まだこの土地で知らない事が多すぎる。この越前の気候や風土、慣例、風俗、伝承、歴史など知らぬ事だらけだ。監物殿ならばすべて知っていると思うが…どうか?」

「はい、子供のころ、よく越前の昔話を聞かせてもらいましたもの」

「だろう?それに名将である朝倉宗滴公の事もよく存じているようだ。宗滴公の話をぜひ伺いたい」

「お前さま…」

 

「だが…あのお体と年齢では戦場や開墾や普請の現場には連れて行けない。それは理解してくれるか?」

「はい、我が家の家令として召抱えて下さいますれば」

「だったら奥さんにも来てもらわないとな」

「い、いいんですか?」

「さえの母上みたいな人だったのだろう?ならば俺にも母上と同じだ」

「お前さま…大好き…!」

「分かっている」

「んもう!」

「それじゃ明日にでも二人でそれを監物殿に言うとしよう」

「はい」

 

「ところで一つ質問だが…」

「なんです?」

「朝倉本家には名勘定方と言われた吉村直賢(なおまさ)と云う人物がいた。同じ吉村姓、もしや…」

「はい、監物の息子です。しかし…」

「うむ…『刀禰坂の戦い』の戦いで左腕が斬られ、左足の自由もなくなったと言っていたな。織田を恨んでいるだろうな…」

「おそらく…。伯母上は召出しに応じてくれるでしょうが直賢殿は無理と…」

「ふむ…」

 

 隆広はさっきまで見ていた報告書をさえに見せた。

「よろしいのですか?」

「うん、読んでみるがいい」

「はい」

 そこには、吉村直賢の人物と能力、そして今の生活の現状が書かれていた。監物の言葉と一致している。

 柴田家に商人集団を作る、と云う隆広の構想のもと、隆広に仕える忍びたちが調べ上げたことであった。

 

「前に話したな。柴田家中に商人集団を作りたいと。民からの搾取だけで国費を賄う時代は終わらせて、柴田家自らが軍資金を稼がなくてはならないと」

「はい、聞きました」

「俺は…その長に直賢殿を考えている。他の長の候補は越前育ちではない。他国だから雇わぬと云うわけではないが、さっきも言ったようにその土地に明るいものが長になってくれれば頼りになるからな…」

「ですがお前さま…直賢殿は現在ほとんど自棄になっている毎日と…」

「そんなものは働き場所とやりがいを得ればなくなる。思慮に欠けた言い草かもしれないが、俺が必要なのは名勘定方と呼ばれた直賢殿の持つ算術技能だ。左腕がなく、左足が不自由でも任務遂行は可能だ。報告では彼は敦賀港流通もやっていたとのこと。弁舌に長けているそうだし、かつ主君義景殿の浪費に毅然と諫言を言ったほどに胆力もあると評している。今は時勢に乗り遅れて自棄になっているだけ。よみがえらせれば大化けするかもしれないぞ」

 

「織田を恨んでいる、と云う点はどうなさいます…?」

「問題はそれだ。だが説得する自信はある。明日に監物殿を大野にお送りして、会ってみるつもりだ。さえも来るか?」

「はい!」

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 翌朝、隆広とさえは監物を当家で召し抱えたい旨を伝えた。当初は断った監物。彼とて耕す田畑がある。このまま百姓でいいと。

「監物殿、さえと俺に親孝行の真似ごとをさせていただけまいか」

 隆広とさえ、双方に両親はいない。

「水沢様…」

「無論、奥方も一緒にと思う。さえの母も同じの方ならば俺にとっても母上。大事にさせてもらえませんか」

 隆広の横顔をウットリして見つめるさえ。

「当家はそんなに裕福ではないので贅沢な暮しはできませぬが、それでも良ければ是非来ていただきたい」

 監物はしばらく考え

 

「分かりました。この老骨の残りし時を姫と水沢様、いやいや殿にお預けいたします」

 こうして隆広とさえは監物を連れて大野郡へと向かった。隆広の馬に乗る監物、その馬を引いて歩く隆広。小春日和、三人は散策するように歩いた。

 

「そうそう監物殿」

「監物でようございます殿」

「では監物」

「はい」

「昨日言い忘れていたが大野城の図籍庫から義父殿の遺品が見つかったんだ」

「なんと?」

「九頭竜川の地形図だよ」

「おお、あのおりに景鏡様が熱心に描いていた!」

「すごい製図技術だなぁ義父殿は。実際の地形と照らし合わせてみたんだけど、ほとんど狂いはなかったよ」

「はい、亡き景鏡様は軍事より内政の方に向いておられた。ゆえに九頭竜川の治水を途中でやめることを大変悔しがっていましてなぁ…」

「今に俺が継ぐよ」

「お前さま…」

「はは、さえや義父殿のためだけじゃない。越前の民のためにしなければならないことなんだ」

「嬉しい、ね、監物」

「はい、景鏡様の工事を婿殿が継いでくれる。こんな嬉しいことはございませぬ」

「お前さま、父上は『いつかお前の婿殿と、この仕事を一緒にしたいもの』と言っていました」

「俺もだよ。しかし何だ、あんまり仲の良い舅と婿にならなかったんじゃないか。ははは」

「どうしてです?」

「ははは、それは娘を溺愛する父親と妻を溺愛する良人が姫を取りあって」

 と、監物。さえはクスッと笑い

「まあ、そんなことが起きたら私はどっちの味方をすれば良かったのかしら」

「俺に決まっているだろ」

 笑い合う三人。

 

 やがて監物の家に着いた。家の前で野菜を洗っていた八重が監物に気付いたが、その横にいる娘がさえと分かるや感涙して出迎えた。

「ひ、姫様!」

「あああ…!伯母上、お会いしたかった!」

 泣いて抱き合うさえと八重、伯母とはいえ実母も同じほどにさえを慈しんだ八重、さえにとっては八重が母親であり、八重にとっては娘と同じ。再会が嬉しくてならない。

 

しかし

「貴様というヤツはッ!また昼間から酒を飲んでおるな!」

 家の中から監物の怒鳴り声が響いた。

「うるさいな」

 やさぐれた反論が聞こえる。声の主が吉村直賢と隆広が知るに時間は要さなかった。

「ああ、なんと情けない!こんな晴れの日に!」

「晴れェ?何云っている。曇りじゃねえか。とうとうボケたか?」

「天気のことではないわ!我が主君、景鏡様の姫が婿と共に来て下されたのだぞ!」

「あっははは、そうか、裏切り者の娘が食うに困って旧臣を訪ねてきたのかァ?しかも亭主を連れてとはなァ。あっはははは」

「……!」

 さえにも聞こえたこの言葉、さえは父親が罵られることが一番悲しい。せっかくの再会が水を差され、さえの顔は沈んだ。

 

 これに怒った八重は家に駆け込み

「弥吉(直賢の幼名)!姫になんてこと言うの!あやまりなさい!」

 息子を叩いた。

「はいはい、ごめんなさい」

「ああ…!なんて情けない!そんな弱い子に育てた覚えはないわよ!」

 隆広が家に入って直賢に言った。

「おぬしはどうやら酒の飲み方を知らぬらしいな」

「なんだおめえは?」

「人に名前を尋ねるなら、まず自分から名乗れ。そんな礼儀を知らぬヤツが金庫番をしていたから朝倉は滅んだんだ」

「ああそうかもな」

(怒りさえ忘れたか…。だが才があるのは確か、引き下がらないぞ)

 

「まあいい、俺から名乗ろう。柴田家侍大将、水沢隆広だ」

「ああそう」

「なんだ、てっきり織田の家臣と聞いて噛み付いてくると思ったがな。どうやらそんな気概もなくしたか」

「ふん…」

「用件だけ言おう。おぬしの父母は今日から俺に仕える。おぬしごとき穀潰しの面倒を見るよりはるかに充実した日々を提供する。異存ないな」

「勝手にさらせ」

「お前さま、姫の夫に仕えるとは…?」

「ああ、今朝に姫から申し出てくれて…勝手ですまないがお話をお受けした。姫は母も同然だったお前もと望み…今こうして自ら迎えに来て下されたのじゃ…」

「そうでしたか…」

「伯母上…お願いします。私と一緒に…」

「お話は嬉しいのですが…あんな状態の弥吉を…」

 

「行けばいいだろ。俺はここで飢え死にして死ぬよ」

「弥吉!なにその言い方は!」

「ふん、さすがは裏切り者景鏡の姉夫婦だ。越前を攻め滅ぼした織田に尻尾をふるか。親が親なら娘も娘だな。朝倉家宿老の姫の誇りも捨てて、信長の家来の家来の女房になりやがった。あっはははははッ!」

「ひ、ひどい…!」

 隆広の手が直賢の顎を掴み、そして体を壁に叩きつけた。

「…ぐっ」

「元朝倉の家臣。織田への恨みは骨髄まで至っているだろう。だから俺のことは無論、大殿や殿の悪口を言っても我慢するつもりでいた。だが妻を…さえを景鏡殿の名をもって侮辱するヤツは許さない!」

 

「なら斬れ!こんな俺生きていたって仕方ねえ!」

「そうか…なら斬る前に伝えておこう。おぬしの女房だった絹、それは監物殿より先に召抱えた」

「……?」

 

 何を言っている?さえは良人の発している言葉の意味が分からなかった。

「姫様?」

 八重がそれは本当なのかと目でさえに聞いた。さえは知らないと首を振った。

「静かに…!殿様には何か考えがあるようじゃ」

(そういうことか…)

 隆広は監物に直賢の妻のことを少し詳しく聞いてきた。その理由が今分かった。

 

「絹を…!?」

「ああ、俺はさえのような同年代の女も好きだが、脂の乗った年上の女も好きなんだ。侍女として雇ったが、中々いい肢体だ。側室にしたぞ」

「…ふ、ふざけるな…!」

 直賢の妻の絹、彼女は朝倉家臣の萩原宗俊の娘である。朝倉滅んだあとは直賢と共に帰農したが、自暴自棄となっていた直賢は絹に暴力を振るいだし、たまりかねた絹は出て行ってしまったのだ。

 

「何を怒っている?追い出したのは貴様だろうが?絹は閨が終わると言っていたぞ。前の亭主は腑抜けだったとな」

「嘘だ!」

「嘘じゃない、腑抜けが!」

「キ、キッサマァァ―ッッ!」

 

 直賢は右手で思い切り隆広を殴った。そして体が自由になると、立てかけてあった鍬を持ち隆広にかかっていった。

「ブッ殺す!」

「面白い!かかってこい!」

 

 隆広は脇差を置き、直賢の振り下ろした鍬の柄を掴んで取り上げた。そして直賢の顔面を思い切り殴打した。たまらず直賢は吹っ飛んだが、すぐに立ち上がり隆広に殴りかかった。

 

「こういうことだったのね…」

 と、さえ。

「はい、倅を怒らせるために…」

「怒る弥吉を見るなんて…何年ぶりか…」

 だがここ数年の酒びたりがたたり、すぐに直賢は息を切らせた。ふるった拳も弱弱しい。

 

「ハアハア…若僧が…」

「水沢隆広だ」

「ふん…」

 直賢はあぐらをかいて座った。

「吉村直賢である」

 隆広に名乗った直賢、これが後年にただの一度も柴田明家に金の心配をさせなかったと言われる吉村備中守直賢である。

 柴田家商人司の頭領として巨万の金銀を稼ぎ『隻腕の商聖』『稀代の商将』とも言われ、柴田明家をして『毛利家に石見銀山があるのならば、俺には吉村備中がいる』と言わしめた。

 かつて朝倉景鏡は『直賢は義景などではなく、天下を取れる昇竜のごとき男に仕えるべき』と言ったが、それが現実となったのだ。

 

 

 さて、晴れて伯母夫婦と吉村直賢を召し抱えた水沢隆広とさえ。

 隆広は直賢に武人らしからぬ嘘をついたと反省し、やがて直賢と絹の再会を取り持つ。直賢は場所を得て生き生きと働き勝家にも功績が認められて部下の増員がされ、かつ褒美を得た。

 懐妊して腹の膨れた絹と共に水沢家に訪れた直賢。そのお腹を羨ましそうに見つめるさえ。

 

「いいなぁ、早くさえも欲しい」

「姫様はまだ十七、これからいかようにも」

 と、絹。間髪いれず隆広が

「そうともさえ、早速子づくりしよう」

「んもう、何でそうなるのです!」

 と、楽しい時間を過ごしていた水沢家。

 しかしそれが破られる。北ノ庄城から陣太鼓が鳴った。

 諸将の臨時召集である。ついに越後の龍、上杉謙信が立った。




やはり天地燃ゆの山場は手取川の戦いですよね。

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