天地燃ゆ   作:越路遼介

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いよいよ手取川の戦いです。


外伝さえ 五【手取川の戦い】

 ついに上杉謙信が春日山を出陣して信長との直接対決に乗り出した。その知らせは吉村直賢からさえに届いた。

 

「あの人が安土へ?」

「はい、大殿への援軍要請と云うことです」

 柴田勝家は水沢隆広を使者に織田信長に援軍を要請。それを入れた信長は勝家を総大将に五万の軍勢で迎え撃つ。

「いよいよ…上杉謙信公と…」

 さえとて戦国を生きる女、当然謙信の強さは伝え聞いている。軍神と称される常勝の武将。そんな戦の天才と良人隆広は戦うのか、体が震えてきた。

「お前さま…」

 

 

 一方、上杉陣。能登七尾城攻めの最中だった。樋口与六、後の直江兼続は主君景勝と共に上杉軍の中にいた。陣屋で兵糧の数量をこまめに記録している。与六は兵糧奉行を兼務していた。

「与六」

「おう、又五郎」

 与六に声をかけたのは泉沢又五郎と云い、与六とは景勝の小姓仲間である。そして

「織田軍の柴田勝家のもとに竜之介がいるって本当か?」

「…ああ、本当だ」

「どこで聞いたんだよ」

「軒猿からだ。軒猿の忍びはかなり早いうちから警戒している」

「本当か?」

「刺客まで送ったらしいぞ」

「でも竜之介は生きているんだろ?あいつ軒猿を返り討ちにするほどに強かったっけ?」

「刺客になった加藤段蔵と竜之介の首を狙った一向宗の雇われ忍びが獲物を取りあい、そして加藤がやられたと聞く」

「飛び加藤も年齢には勝てなかったか」

「で、一向宗の忍びは竜之介の部下たちにやられたらしい。これが叔父景綱を経て知りえた情報だ」

 上杉の忍びの軒猿衆は直江家が統括していた。直江家の当主景綱の妹が兼続の母のお藤である。

「…やりづらいな、同門の友と戦うのか」

「確かにな」

 

 樋口与六と泉沢又五郎は少年時代に上杉家の計らいで剣聖上泉信綱に剣を学んでいた。竜之介こと水沢隆広は二人にとって同門となる。共に泣き、共に笑った同門の友だ。

 何より二人を含めた上田衆の少年たちは竜之介養父の長庵に学問を教わった。短期間であったが与六は真綿が水を吸収するように長庵から知識を会得した。与六は隆広と上泉信綱の同門であると同時に長庵門下としても同門であった。

 また上田衆の少年たちを監督していたのが与六の実父の樋口惣右衛門であり、彼と長庵もまた友誼を結ぶ。父親同士が友でもあり与六も隆広と生涯の友と誓った。確かにやりづらい。義を尊ぶ与六には友情もまた重いものであった。

 

「あ、そういえば竜之介の士分は?」

 と、又五郎。

「侍大将と聞いている」

「十七で柴田の部隊長か!ほえ~」

「あはは、そうだな大したものだ」

「ではお手並み拝見といくか」

「ああ、油断するなよ。何せ軒猿が警戒した男だ」

「おう」

 友である又五郎に言い、我が身も引き締めた与六だった。やがて七尾城は陥落、勢いに乗る上杉勢は西進を開始。上杉勢には柴田勢が湊川(手取川)を渡河し、水島の地に布陣したと届いており、かつ三万もの一向宗門徒が柴田勢を襲うべく北上しているとも伝わっている。挟撃して殲滅すべく進軍する上杉勢。

 

「川を背にするとはな、音に聞こえた鬼柴田は兵法を知らぬわ。今ごろは門徒が襲撃してくると聞いて青くなっているかもしれぬな」

 勝家の失策を笑う上杉軍宿老の斉藤朝信。

「越後の鐘馗(しょうき)と呼ばれし我が槍を馳走してやるわ」

「ふはは、確か勝家は砦を六角勢に包囲された時に、水の瓶をすべて叩き割って将兵の覚悟を決めさせたこともあるとか。今回の背水の陣もそれと様相を類似させておる。背水の陣で我ら上杉と対するわけか。ふん、我らは六角勢と違う」

 同じく宿老の直江景綱も柴田勢を笑った。

「ですが柴田勢は我らより兵数が多うございます。挟撃が上手くいったとて『窮鼠、猫を噛む』の例えもございます。油断は禁物かと」

「そうであったな、与六」

(圧倒的に我らが優勢…。それゆえ気になる)

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 さて、北ノ庄にいるさえはと云うと

「父上、良人をお守りください…」

 亡き父景鏡の甲冑にひたすら願っていた。伯母の八重がそばにいた。

「姫様、かつて父上様はこう言ったそうです。『さえは、俺など足元にも及ばない立派な若者に嫁がせる』と」

「え?」

「今ごろ、あの世で喜んでいるでしょう。大願成就で」

「うん…。でもあの人より父上が劣っているなんて思わない。良人も父上もさえには大切な方なのだから」

「さあ景鏡、こうまで言われたら婿殿を守るしかないわよ。貴方にとっては自慢の婿殿、あの世でもう一度死んでも守りなさいよ!」

 庭で薪割りをしていた監物、よいしょと腰を伸ばす。良人の無事を父の御霊に祈るさえの背を見て微笑んだ。

「思えば不思議なものじゃ。もし朝倉が今も健在ならば、姫は義景様の側女。暮らしに不自由はないであろうが好きでもない男に抱かれ続ける日々は地獄さながらであったろう…。しかし朝倉は滅び、姫は敵方であった柴田家の若手将校と好きあって結ばれた。裕福ではないが実に満たされている日々をお過ごしじゃ。何が幸いするか分からんな。『人間万事、塞翁が馬』とはこのことじゃ」

 監物も亡き主君景鏡の御霊に若い主人の生還を願った。

 

 

 柴田軍、最大の危機に陥った手取川の戦い。

 この戦いが水沢隆広の名前を轟かせることになる。

 柴田軍は殿軍の一隊を残して一向宗門徒と戦うべく南下を開始。そしてその殿軍こそが隆広である。戦場において、もっとも困難とされる殿軍。

 しかも相手は上杉謙信で軍勢は三万。隆広の手勢は二千、さらに驚がく的なことは当時の水沢隆広は十七歳の少年である。いかに十五歳にもなれば元服し大人と見なされた当時とはいえ、十七歳の少年が任される役目ではない。おそらく世界の戦史を見ても十七歳の少年が万単位の味方兵の命を左右する役目を背負うなんてことはなかっただろう。

 

 しかし総大将の柴田勝家は殿軍に水沢隆広を指名した。志願したのが彼一人であったのもあるだろうが隆広は浮足立つ柴田陣の武将たちのなか冷静で落ち着いていた。勝家はその胆力に賭けたのだ。隆広はよく甘すぎる大将、優しすぎる大将と言われるが、ならば何故そんな男に奥村助右衛門や前田慶次のような豪傑が付き従うだろうか。

 水沢将兵は知っていたのだ。隆広の優しさや甘さ、それは強さがあってのことだと。

 

 この上杉謙信との戦い、隆広は敗戦を少なからず予期していた。彼が参戦した合戦において唯一の負け戦である手取川の戦い。負け戦の時こそ大将の器量が問われるもの。殿軍をやると知らされた時、水沢軍はその誉れに武の心が高揚したが、無論一部の者は生還不可能と悲観した。奥村助右衛門の次男静馬(後に雑賀孫市を名乗る)である。彼はこの合戦が初陣だった。北ノ庄出陣以来に発生した一向宗門徒らとの小競り合いも腰を退かせていた。兄の兵馬が何とか庇って敵前逃亡に近い失態を隠し続けている。

 

「なんで隆広様は殿軍なんて引き受けたんだ。俺たちを殺す気なのか」

 愚痴る静馬。

「侍をやってりゃこういう時もある。腹を括れ」

 兄の兵馬は戦好きである。むしろ殿軍の誉れを喜んでいた。

「俺は侍なんかに生まれたくなかったよ兄上!」

「でも侍に生まれてしまった。困ったな?」

「……」

「『死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死す』」

「…?」

「奇縁にもこれから戦う上杉謙信の言葉だ」

「兄上…」

「殿軍だ。もう俺もお前を庇って戦えない。好きにせよ」

「……」

 

 

 静馬の危惧はもっともであるが、隆広は玉砕精神で殿軍を志願したわけではない。奥の手があった。軍神謙信に生半可なことは通じないと知る隆広は一種の心理作戦に出たのだ。行軍中ずっと開封を禁じていた数個の大きな箱、中身を知った瞬間に水沢将兵は驚いた。

 

「赤備え?」

 と、松山矩三郎。

「左様です、上杉陣に突撃される方はこれを装備してください」

 説明する石田三成、兵たちは戸惑った。掲げる旗が歩ではなく

「風林火山…」

 旗をしみじみ眺める小野田幸之助。兵たちは武田軍になれと指示されているのが分かった。なんのために?と考えていたところ水沢隆広、奥村助右衛門、前田慶次が陣幕を払い入ってきた。

 兵たちは驚いた。隆広が武田信玄のいでたちをしていたからである。諏訪法性兜に金小実南蛮胴具足、そして赤い法衣。まさに水沢の若者たちが伝え聞いてきた戦国の巨獣、信玄のいでたちである。何とも凛々しい。

 前田慶次は全身が朱色の甲冑、山県昌景の軍装で、また朱槍が合っている。そして奥村助右衛門は馬場信房の黒甲冑のいでたちだった。同じく愛槍の黒槍が調和していた。

 

「全軍、武田軍となる。急ぎ装着せよ」

「「はっ!」」

 全軍が理解した。上杉の宿敵である武田軍に化けて突撃すれば、信玄の死を嘆いていた謙信には何か効果があるはず。何より水沢の若者たちにとっては赤備えになれることが嬉しくてたまらない。別働隊となる石田三成と白に作戦を説明し終えたころ、軍勢すべてが赤備えとなった。整列し隆広の言葉を待つ。

 

「絶対とは言えない。これは賭けだ」

「「はっ」」

「謙信公に生半可な策は通じない。これは心理作戦と言える。何より上杉の将兵には武田軍の恐ろしさが骨身に染みているのも多い。少しはこの軍装によって得られることもあると思う。よいか、上杉軍を迎撃するのではない。我らは敵中を突破し、迂回して湊川にいたる。全員、北ノ庄に帰るぞ!」

「「ハハッ」」

 隆広は藤林家が作った吉岡一文字を抜いた。吉岡一文字は信玄の太刀である。そして天に掲げて言った。

 

「御旗、楯無、御照覧あれ!」

 

 武田家歴代の当主は家臣たちと合戦の前に家宝である『御旗(日の丸)』と『盾無しの鎧』に向かって『御旗、盾無、御照覧あれ』と必勝を誓い出陣した。隆広はそれを再現したのである。この二年後に織田信忠の軍師として武田に引導を渡す水沢隆広が、一か八か、と云う戦場に向かう時に発したのが武田必勝の誓いとは不思議な縁であろう。

 

「「御旗、楯無、御照覧あれ!!」」

 

 兵たちも続いた。気合の充実、そして戦意の高揚が押さえきれない。

 この赤備えの甲冑や風林火山の旗は藤林家が隆広の指示で調達したが、その責任者である柴舟は武田大敗の地である長篠の地で現地領民から買い取ったと云う。

 無念に織田・徳川連合軍に敗れた武田の将兵たちが装備していた鎧である。この甲冑に宿る武田の英霊たちが加勢したかもしれない。上杉謙信と戦える。武田武者にこれ以上の喜びはない。一部いた殿軍の役目に怯えていた者も戦意が高まる。奥村静馬も赤備えを装着したが、まるで鎧に宿る武田武者に士気を得たような思いだ。隣にいる兄の兵馬も戦いたい気持ちでいっぱいだ。

「兄上、俺やるよ」

「もちろんだ。御旗…え~何とか御照覧あれ!」

「うん!」

 隆広もまた不思議な高揚感の中にいた。鼓舞のために出た言葉は信玄さながら。

「武田の強さ示すは今ぞ!我に続けえッ!!」

「「「オオオオオオオッッッ!!」」」

 

 

 前方に殿軍である水沢勢がいると知った謙信はいったん進軍を止めて斎藤朝信と直江景綱に一万の軍勢を預けて仕掛けさせた。しばらくすると鉄砲の間断なき轟音が上杉陣にも届いた。待ち伏せをされたと悟った謙信は全軍の突出を下命しようとしたその時であった。突如赤い激流が迫ってきた。

 

「敵襲―ッ!!」

 与六が叫んだ。

「味な真似を」

 と、謙信は敵勢を見つめた。

 しかし次の瞬間に目を疑った。殿軍は水沢軍と聞いた。水沢軍の軍旗は『歩の一文字』であるが、その旗ではなかった。戦場で何度も見てきた軍旗。そして先頭を駆ける武者、あの川中島の戦いで直接刃を交えた宿敵そのもの。

「ふ、風林火山の旗…!し、信玄!」

 

 信玄が太刀を抜いた。実際の信玄よりは若くて華奢であるが眼光は川中島の信玄に劣るものではない。

「ば、馬鹿な!信玄だと!」

「我こそは武田大膳太夫信玄なり!進めぇ!侵略すること火の如くじゃあーッ!!」

「「オオオオオオオオオオッッッ!!」」

 

 信玄の両翼を務める山県昌景と馬場信房が先頭に躍り出た。実際の山県昌景と馬場信房は陣頭の豪傑と云う武将ではなく用兵と武略に長けた一級の指揮官である。

 しかしこの手取川では三国志の関羽と張飛さながらの両名。

 

 このまま赤い激流に分断されて突破されては上杉の恥、上杉景勝と樋口与六が急ぎ迎撃態勢を執った。強行突破が困難と見た山県昌景と馬場信房は一瞬で互いの馬を寄せて己の左側をかばい死角をなくした。

「さあ行くぞ鬼美濃!」

 鬼美濃とは助右衛門が化けている馬場信房の通称である。

「おお源四郎!」

(ふはは、慶次のヤツ、なりきっておるわ!)

 その源四郎も慶次の化けている山県昌景の通称、助右衛門もなりきっている。

「「疾きこと風のごとく!」」

 

 二人は大回転しながら突き進んだ。竜巻に吹っ飛ばされるように蹴散らされる上杉兵。上杉景勝と樋口与六はその攻撃に呆然。恐ろしいと思うと同時に言葉にならないほどの美しさであったからである。与六はつばを飲んだ。

「かような豪傑を左右に置く…。竜之介はとんでもないほどにデカい男になっている!」

 

 後の世に明家関張と呼ばれる助右衛門と慶次の武勇はすさまじい。槍を構えて突進していた静馬は父の雄姿と主君隆広の鮮やかな信玄のいでたちに惚れ惚れしながらついていった。

 やがて武田軍は上杉軍を分断、武田信玄は上杉謙信の眼前まで迫った。

 

「ふふ、川中島と逆ではないか」

 静かに笑う謙信。そして川中島当時の謙信の名前を発する信玄。

「政虎ああーッ!!」

 信玄の太刀が振り落とされる!そして謙信の軍配がそれを受け止めた!

 笑みを浮かべている謙信。信玄、いや水沢隆広もまた静かに笑った。

 

「駆け抜けえーッ!!」

「「オオオオオオオッッ!!」」

 赤い激流はそのまま上杉軍を突破、景勝が追撃を主張、しかし謙信はそれを認めず静かに立ち去った武田軍、いや水沢軍を見つめた。

「良い夢を見させてもらった…」

 

 樋口与六もまた水沢軍が向かった先を見つめていた。

「竜之介…。お前、不敗の御実城様に勝ちよった…」

 負けることの知らない上杉謙信からただ一人、一本取ったと言われる水沢隆広。この突撃は遠く甲斐の地にいた武田勝頼の耳にも入り

「恐ろしい男になったな竜之介は」

 嬉しそうな顔を浮かべ、そう言った。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 さて、無事に湊川に着いた水沢軍。

「ふう、辿りついたか。昌景、信房、怪我はないか?」

「はっ、我らは無傷にございます。お屋形様こそお怪我など…」

 武田信玄、山県昌景、馬場信房はプッと吹きだした。

 

「おいおい!二人ともいつまでなりきっているんだよ!いいかげんバチ当たるぞ!」

 豪快に笑う前田慶次。

「いやいや、面白い負け戦でござった」

 確かに今回の戦いは柴田軍の負けである。しかし隆広は勝った。

「負け戦を勝ち戦にしてこそ武功でござる。隆広様、お見事にございました」

「うん、助右衛門と慶次もよくやってくれた。しかしあの大回転攻撃はすごいな」

「とっさに思いついただけでござる。あっははは!」

 胸を張る慶次、この手取川の撤退戦は水沢隆広、奥村助右衛門、前田慶次の武名を轟かせ、そして水沢将兵すべての誇りとなる戦となった。

「さあて、北ノ庄に帰ろう。俺は早くさえを抱きたくてたまらない」

 

 

「静馬」

「父上」

 助右衛門が息子たちのもとに歩いてきた。

「よく最後までついてきたな」

「は、はい!」

「この殿軍にも腰を引かせていたら、俺はお前を勘当していたかもしれぬ」

「実は及び腰でした。しかしこの赤備えを着たら勇気が湧いて」

「ふはは、俺も馬場美濃殿より力をもらったかもしれないな」

「隆広様はすごいや、一人も戦死者を出さない退却戦なんて誰が出来るだろう。しかも謙信公を相手に!」

「同じ思いだ。奥村家は本当に良き主君に出会えた」

 兵馬も微笑んだ。この後、三男の冬馬も初陣を迎えて奥村三兄弟は軍事内政ともに水沢隆広、後年の柴田明家に欠かせぬ家臣となっていく。

 

 

 北ノ庄城、さえは良人の無事を毎日祈り続けていた。戦場で死ぬのは武士の誉れと云うがさえはそんなの嫌だった。早く会いたい、抱かれたい、そう思い無事の帰還を願った。

「姫様―ッ!」

「監物?」

「ハアハア…お味方、帰路につかれておるとのことです!」

「本当ですか!」

「く、詳しくは城で中村文荷斎様と共に留守を預かる倅が…」

「さえ姫様!」

 吉村直賢がやってきた。

「直賢殿!お味方勝利なのですね!」

「いえ、肝心の謙信公とは引き分けのようです。今のところ入ってきたお味方の情報を述べさせていただきます」

「お願いします!」

 

「ハッ、まず湊川(手取川)渡河直後に能登七尾城が上杉により陥落したとの報が入り、勝家様は退却を決断。しかしそこに門徒三万五千が攻め込んでくると云う知らせが入ったよし。背後に増水した湊川、西に謙信公、南に門徒、絶体絶命の危機に陥ったそうですが、殿が上杉への殿軍を志願し、水沢隊以外の軍勢が門徒に当たり、殿の隊二千が上杉三万に対したそうです」

「う、上杉三万に、殿様の手勢だけで?」

 監物が驚くのは無理がない。当時の上杉軍は戦国最強と言われていた。それを寡兵で対せるはずがない。

「そ、それで良人は?た、隆広様は?」

「はい、前もって用意してあった武田軍の軍装を身につけて突撃。殿は謙信公と一太刀打ち合い上杉陣を突破!殿軍の役を見事に成し遂げる大活躍!しかも一兵も失わずに!」

「ホ、ホントに!」

「はい!殿はその後に合流した勝家様にお褒めのお言葉をいただき!今回の合戦における勲功一位と相成り!士分も部将に昇格とのこと!」

「姫様!聞かれましたか!」

 着物の前掛けで涙を拭きながら八重の言葉に何度もうなずくさえ。

「さすがは姫の婿じゃあ!よもや謙信公に一太刀とは!」

「弥吉(直賢の幼名)、お味方の到着はいつごろに?」

「はい母上、明日にでも!」

「こうしてはいられませんよ姫!すぐにご馳走を仕入れないと!」

「うん!」

 

 水沢軍が帰還した。隆広の痛快な撤退戦はすでに届いており、領民は歓呼して出迎えた。軍勢解散のあと、急ぎ我が家に賭ける隆広。

「さえーッ!」

 玄関で出迎えるさえ。

「ああ、ご無事に!」

 抱き合い熱烈な口づけをする隆広とさえ。

「会いたかった!ああ、このさえの匂い、戦場で夢にまで見たよ」

「さえも!」

「さあ、風呂と食事を済ませたら子作りしよう!今宵は離さない、寝かせないぞ!」

「はい…(ポッ)」

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 部将に昇格した隆広は、その後に未完であった掘割を完成させる。現在この掘割の跡地は水郷公園や用水路となっており、今も福井県福井市に恵みをもたらしている。この仕事は隆広がいかに治水と開墾の技能に優れていたかと示すに十分であり、現地の人々は氏神として『りゅうこうさん』と呼び慕っている。隆広を音読みすれば『りゅうこう』となる。親しみを込めて付けられた呼び名であろう。

 

 掘割の完成間もなく、隆広は織田信忠の寄騎が命じられて松永久秀攻めに向かう。その陣中で隆広はくノ一の舞を相手に初めての浮気をするわけであるが、さえにばれずに済んでいる。松永攻めを終えて帰国した隆広は城下町拡大工事を担当することになった。忙しい日々だが毎日ちゃんと家に帰れて、さえと睦みあえるのは嬉しいことだ。

 

 事件はそんな時に起こった。さえと一緒に朝食を取る隆広。

「北ノ庄もだいぶ人口が増えましたね、お前さま」

「うん、しかし増えるにつれ好ましくない者も出てくる。治安奉行の金森様も大変だ」

「良いとこ取りは出来ないものですね」

「そうなんだよ」

 食べ終えた隆広。箸と茶碗を膳において手を合わせる。

「御馳走様でした」

「お粗末さまです」

「さえ、今日の朝食も美味しかった」

「うふ、ありがとうございます。さ、お弁当です」

 弁当の包みを持ち、

「じゃ、行ってくるよ」

 玄関先で見送るさえ。

「いってらっしゃいませ」

 

 見送った後に家に入ると、さえは立ちくらみを感じた。

「あれ?」

 侍女頭の八重がさえに

「姫様、本日の工事本陣の昼食なのですが」

 隆広の内政主命に伴い、現地で給仕するのは水沢家の女たちの仕事である。隆広や三成は愛妻弁当で済ませるが職人や兵たちには温かい麦飯と味噌汁、一菜と焼き魚を給仕するのだ。さえも家での用事を済ませてから現場に向かう予定だった。しかし

 

「うっ…」

「姫様?」

 厠に駆け込み、さえは嘔吐、朝食全部戻してしまった。

「ひ、姫様、どうなさったのですか」

「き、気分が悪い…」

 その後、めまいを起こして倒れてしまった。

「ひ、姫様!お前さん!姫様がーッ!」

 ことの知らせを聞いた監物は慌てて駆けつけ

「姫様!」

「お前さん、医者を!」

「分かった!」

 

 一方の隆広、彼は家を出てすぐに現場に行ったわけではない。本日は勝家に目通りを願った若狭水軍頭領の松波庄三を勝家に会わせる約束があった。柴田の交易には海の技に長けた水軍の助力は不可欠。隆広の言を入れた勝家は若狭水軍を召し抱えた。

 

 無事に責任を果たした隆広は庄三と別れた後に現場へ向かったが、その道中にある源吾郎の店に立ち寄った。源吾郎は北ノ庄城の城下町に設けられた楽市の責任者、週に一度ほど収支の報告を彼から受けるのである。そのために寄ったのだが

 

「ごめん」

 すると奥から源吾郎が血相を変えて出てきた。

「おお!やっとおいで下さりましたか!お探しするより待っていた方が良いと思いましたが気をもみました!」

「は?」

「大変にございます水沢様!奥方様が倒れられたそうです!」

「え、えええッッ!!」

 

 大急ぎで隆広は屋敷に駆けた。

「今朝まで何ともなかったのに!」

 屋敷に着いた隆広、玄関口で草鞋が上手く脱げず転んでしまった。

 冷静沈着な彼でも愛妻のことになると知恵者の欠片も見られない。

 痛む顔面を押さえながら、やっと草鞋を脱いで部屋に入った隆広。

 

「さえ!」

 さえはグッタリして横になっていた。顔色も悪く苦悶して呼吸も荒い。

「さ…」

「今眠っておりますから!」

 心配のあまり大声を出しそうな隆広を諫めた八重。

「医者は?」

「夫が呼びに行っています。しばしお待ちを」

 さえの眠る蒲団の横に座り、小声で訊ねた。

「八重、仔細を申せ」

「はい、殿を朝にお送りしてからほどなく嘔気を訴え…そして朝食すべて嘔吐してしまいました。その後も嘔気は消えず、眩暈を起こして倒れてしまいました…」

「なんてことだ…さえ…!」

(そなたは俺の宝、そして命だ!治ってくれ…!)

 

 

 やがて監物が医者を連れてきた。

「ホラ急いで下され!」

「分かった分かった落ち着きなさい」

 医者は草鞋を脱ぎながら答えた。

「ええい!土足でもいいから上がってすぐに姫様を診てくだされ!」

「そうもいかんでしょうが」

 やれやれと医者は薬箱と医療具の入った箱を持ち、さえの眠る部屋に来た。

「どれどれ…」

 蒲団をめくり、さえを触診する医者。

「ふむ…ところで倒れる前にどんな症状を見せたのかな?」

 八重はさえが倒れる前の症状を医者に説明した。

「なるほどのう…」

 蒲団を戻した医者。

「ど、どうなんでしょうか先生!」

 すがるように医者を見る隆広。

「ああ…殿、姫をお守り下さい…」

 監物は一心に亡き主君の朝倉景鏡に願った。

「どうしたもこうも…」

 医者は苦笑していた。

「おめでたです」

「…へ?」

「奥方様はご懐妊しております」

「「……」」

 

 隆広、八重、監物はしばらく固まり、そしてようやく医者の言葉を理解した。

「本当ですか!さえが懐妊!?」

「覚えはあるのでしょう?」

「む、無論です!聞いたか八重、監物!さえに子が宿ったぞ!」

「お、おめでとうございます殿!」

「ああ…ありがたやありがたや!生きているうちに姫の子を見ることができようとは!」

 

「う、ううん…」

「をを!さえ起きたか!」

「…そうか私…倒れちゃったんだ…」

「聞いて驚けよ、さえ!」

「…?」

 懐妊していると隆広と医者から聞かされたさえ。

「え…!?」

 思わず自分の下腹部に触れる。

「私のお腹に…赤ちゃんが?」

「その通りです奥方様。これから私の診療所で産婆を務めています女を呼んでまいりますので、改めて彼女から診断を受けるがよろしい」

「は、はひ」

 医者は自分の診療所に戻っていた。

 

「さえ、大手柄だぞ!」

「そんな、まだ男子と決まったわけでは…」

「何を言っている。男だ女だ関係ない。俺とさえの子供じゃないか」

「お前さま…」

「さあ、今日からさえの体は、さえ一人のものじゃない。ゆっくり休んでくれ」

「はい」

 言葉に甘え、さえは横になった。

「ありがとう、さえ。大好きだ」

「私も…」




ホームページに連載開始する前、一緒に物語を考えた佐野楽人君と謙信3万、隆広二千で何とか勝たずとも突破する方法はないものかと思案を重ねて、ようやくたどり着いたお話が、今回のお話にある信玄の姿形をして突撃するということでした。
まあ、実際にこんな方法取ったら謙信公激怒するでしょうがね…。

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