天地燃ゆ   作:越路遼介

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外伝さえ 六【九頭竜川治水】

 私のお腹に赤ちゃんが…。

 

 さえは嬉しかった。身投げしようとした自分がまさか母親になれる日が来るなんて。良人と一生懸命子作りに励んだかいがあった。良人も大喜びだ。何かと云えばすぐにお腹に頬ずりしている。早く赤ちゃんに会いたい、母上と呼んでほしい、さえは生まれる子のことを考えると胸が高鳴って仕方なかった。

 

「お前さま、名前は考えてあるの?」

「うん、男なら竜之介だ」

 それは良人隆広の幼名である。つまり水沢家の世継ぎと云うことだ。武家の母親にとって息子が家の世継ぎになるのは最たる喜びである。

「この子が世継ぎに」

「おいおい、俺だってまだ十九だぞ。当分現役だよ」

「うふ、そうですね。で、女子ならば?」

「監物と八重に考えてもらおうと思う」

「良かった…。織田の大殿みたいに奇妙な顔だから『奇妙』とか三月七日生まれだから『三七』とか適当につけられてはかないませんもの」

「あはは」

 

「殿」

 侍女頭の八重が来た。

「なんだ」

「私の息子、直賢が目通りを願っております」

「通してくれ」

「お前さま、私は外します」

「いいよ、一緒にいてくれ」

 

 吉村直賢が隆広の部屋に来た。軽く頭を垂れたあと

「姫様、御懐妊祝着に存じます」

「ありがとう直賢殿」

「今後は滋養をつけねばなりますまい。母の八重に名卵と鯉を渡しておきましたゆえ、食して下さいませ」

「まあ」

「直賢、俺にはないの?」

「ありません」

「ちぇ」

 笑い合う隆広、さえ、直賢。

 

「しかし、殿には名卵と鯉よりも良き知らせを持ってまいりました」

「え?」

「九頭竜川の治水資金、用意できましてございます」

 びっくりした隆広とさえ。

「そ、そ、それまことか!」

「はい、それがしを召し抱える時に御注文ありました治水資金、用意整いました」

「さ、さえ、監物と八重を!」

「は、はい!」

 さえが大急ぎで監物と八重を呼んだ。

「総額八万貫にございます」

「そ、それだけあれば九頭竜川に今後氾濫の二字はない!」

 直賢の手を握り、何度も礼を言う隆広。そしてその後にさえのお腹を頬ずり。

「良いことは重なるものだな~」

「んもう、お前さま直賢殿の前ですよ」

(でも本当、良いことは重なるわ)

 隆広の頭を撫でながらさえ

「お見事です、直賢殿」

「恐れ入ります姫様」

「ようやった弥吉(直賢)」

 少し申し訳なさそうに言う監物、武技がダメで算術に長けていた息子をずっと認めなかった負い目か。八重も同じ気持ちだったかもしれない。

「ああ…。武士が算術に長けていても仕方ないと幼き日のそなたを叱った思慮のない母を許しておくれ…。そなたは越前の守り神とも…」

「お、大げさでござるよ母上…」

 

 床の間に置かれる朝倉景鏡の甲冑を見つめる隆広。

「舅殿も喜んでくれよう…。あの地形図を見れば九頭竜川の治水が、どれほどの悲願であったか、よく分かる」

「お前さま、ありがとう…」

「殿、景鏡様が描かれた地形図は未完と聞いていますが」

 と、直賢。

「ああ心配いらない。俺が引き継いで、すでに完成しているよ」

 驚いたさえと監物。

「お、お前さま、それ本当ですか!?」

「殿が完成させたと!?」

「あれ?言ったことなかったか」

「初耳です!引き継いで完成させてみせると言って下さいましたが、お前さまは戦や内政でそんなゆとりも!」

「まあ戦の時は無理だったが、内政の時は指示を与えてからいそいそと九頭竜川に測量に行っていたよ。さえとの約束はすぐにやりたいからな」

「お前さま…。私、嬉しい!」

 泣き出してしまったさえ。

 現在、その地形図は北ノ庄城の図籍庫に保管してある。領内の地形図だから個人所有は出来ない決まりなのだ。

「治水資金は出来た。図面もある。あとは実行あるのみだ」

「はい!」

「じゃあ、さっそく殿に報告だ」

 

「殿お待ちを、一つ難題が残っています」

「難題?」

「工事を委ねられる人材にございます」

「あっ…」

「殿も治水技術はお持ちですが、殿は今城下町拡大の主命を受けておいでです。兼務などできますまい」

「確かに…。俺が指揮を執りたいのは山々だが…」

「それがしの知る限り、織田の家中で治水にもっとも長けているのは三成殿の舅の山崎俊永殿。お借りできませんか?」

「難しいな…。山崎俊永殿は磯野家の家臣だぞ。しかもこんな大事業、たとえ同じ織田家でも他家の臣にやらせることなんて殿が許すはずがない」

「確かに…」

「大殿の直臣の中で治水に長けた者がいたとしても、大殿が治水ごとき自分の裁量で出来ないのかと殿を判断するのは明白だ。借りられない。柴田で見つけて登用するしかない」

「お前さま、佐吉さんは?」

「いや、佐吉も俺と共に城下町の拡張を行わなければならない。ちょっとな…」

 

「困りましたな…」

「いや、すまん直賢、治水資金の調達を要望しておいて、いざ揃えてくれたら人がいないとは面目ない」

「いえ殿のせいではございませぬよ。そう簡単にあの川を治水できる者など見つからなくて当然にございます。何にせよ、一度この件を勝家様に報告しては?」

「そうしよう。今日殿はいるはずだ。一緒に来てくれるか?」

「承知しました」

「よし、出かけるぞ、さえ」

「はい!」

 

 隆広と直賢が出ていった。玄関先で見送ったさえ。二人の背中が何とも頼もしく思う。その横にいた監物が言った。

「よもや八万貫とはのう…。儂の倅は大した男じゃったんじゃなぁ…」

「直賢殿は父上にも同じく治水資金を渡したと聞いています」

「はい、しかし景鏡様はそれを儂に教えてくれませなんだ。殿が直賢を登用する時になって初めて知りましたからな」

「どうして父上は監物に言わなかったんだろう」

「小賢しいと思うだけ、そう思った倅は景鏡様に口止めを願ったのでしょう」

「小賢しい…」

「武骨な儂には理解できない倅の才覚でした。いや理解しようとしなかった」

「母親も一緒です」

「伯母上」

「でも今なら分かる。弥吉の才の素晴らしさが。ね、お前さん」

「うむ…」

「息子にはいい父母ではなかったのだから!孫にいいおじいちゃんとおばあちゃんになればいいのよ!」

「うん!伯母上の言う通り!」

「たっははは」

 

 九頭竜川の治水は隆広の家臣である石田三成が担当することになった。図籍庫から地形図を持った三成が隆広を訪ねたが、隆広は帰宅しておらず

「それでは御家にある景鏡殿の甲冑に目通りを」

 と、頼んだ。さえは快諾して三成を家に入れて景鏡の甲冑を置いている床の間に通した。

「すでに墓前でそれがしが工事の総奉行になったのは伝えましたが、これをお見せしたくて」

「父上とあの人が作った図面ですね」

「はい、墓前では地につけることになるので、こちらに」

 監物と八重も来た。大きな図面を広げていく三成。

「景鏡殿、これが完成図です」

 図面に見入った一同、九頭竜川全域地形図、南は景鏡製図、北は隆広製図である。

 

「見事な…」

 思わずうなる監物。

「父上とあの人の共同作業なのね…」

 “いつか、さえの婿殿とこの仕事をしたいものだ”かつて景鏡が言った言葉が思い出される。一度も合わずとも父と私の愛する良人は一緒にこんな素晴らしい仕事をしたのだ。そう思うとさえの心は嬉しさで一杯だった。

 

「完成したものを見たいだろうと思いました。ありがたく使わせてもらいます」

「佐吉さん…」

「僭越ながら名前もつけさせてもらいました。『広鏡図』」

「広鏡図…」

「はい、隆広様の『広』、景鏡殿の『鏡』を合わせました」

 絶妙な名前に感心してしまうさえ。そして嬉しい。

「ありがとう佐吉さん!」

「それがしもこんな大仕事の責任者は初めてにございます。奥方様のお父上に褒められるよう頑張ります」

「はい、私もたまに給仕に伺わせてもらいます」

「はっ」

 

 粋なことをする、帰宅して三成のことを聞いた隆広は静かに微笑んだ。

「お前さまは良き家臣に恵まれています」

「妻にもな」

「まあ(ポッ)」

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 石田三成の九頭竜川治水、これは彼の功績の中で三指に入るものであったろう。彼の治水によって九頭竜川は二度と氾濫することがなく、何より出来栄えは山水画のごとく美しかった。

 雑草だらけの沿岸も整備して美田に作り替えた彼は九頭竜川沿岸に住む民に大変感謝され、三成はこの地で豊作の神として敬われることになる。

 

 後年に柴田明家の側近中の側近となる彼の家臣には、九頭竜川沿岸の町や村の出身者が多かった。彼らは石田家で九頭竜衆と呼ばれ、三成の馬廻り衆を務めて四国攻め、九州攻め、関ヶ原の戦いや徳川領進攻戦、日欧と日清の役にも活躍して主君三成を助けた。

 そして柴田家の天下統一後は時に政治家として怨みを被る三成を守り続けたのだ。

 

 

 工事期間五ヶ月、勝家は半年と言い渡していたが三成は一月早く成し遂げた。

 さえは工事期間中時々訪れていた。そして女たちと一緒になって給仕に励んだ。父の景鏡が断腸の思いで中止した九頭竜川の治水、それを良人が叶えてくれるのだ。身重だったがジッとなんかしていられなかった。

 

 そして完成した日、さえは良人と共に九頭竜川沿岸を訪れた。工事に携わった者たちが宴を開いている。みんな難工事を成し遂げた喜びでいっぱいであった。

「見事な仕事だ」

「本当に…」

 夜のとばりのなか、良人と共に沿岸を歩くさえ。

「お前さま、ありがとう…」

「ん?」

「父が断念せざるを得なかった事業を継いでくれました」

「ははは、それなら佐吉に言ってくれ。俺は何もしていないよ」

「でも佐吉さんの治水術はお前さまから学んだこと、そして工事資金を用立てた直賢殿を蘇らせて登用したのはお前さま、私はお前さまが成し遂げたと思っています」

「俺じゃこんな山水画のようにはいかない。しかし嬉しいよ、さえがそう思ってくれて」

「かつてこうして父と九頭竜川の沿岸を歩きました。九頭竜川は大人しいのにどうして工事をするの?と聞いて」

「何と答えられた?」

「九頭竜川には色んな顔がある…。今のようなおとなしい顔、そして名前の通り、怒れる竜神様のような恐ろしい顔」

 幼いころであったが、大好きな父の言葉ゆえよく覚えている。

「台風が来れば暴れだし、人々の汗水の結晶である田畑を一瞬で沈め、そして人々を飲み込んでいく。でも九頭竜川は越前の人々に恵みもくれる川。父は九頭竜川を退治しているのではない。仲良くしてもらうため、ちょっと手を加えさせてもらっている」

「正しいな」

「はい、幼いころにはよく分かりませんでしたが」

「こう締めくくっていなかったか」

「え?」

「『治水とは川を押さえこむ技ではない。その恵みを賜る技なのだ』」

「……!?」

 驚いたさえ、まったくその通りに父の景鏡は言っている。優しい微笑を浮かべる隆広。

「な、なんで分かったんです?」

「なんでかなぁ…。舅殿の地形図を見てそんな感じがした」

「お前さま…」

 優しくさえを抱きよせた隆広はそのまま唇を奪った。月明かりで二人の影が重なり、そして九頭竜川の静かなせせらぎが心地よかった。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 年の暮れとなった。師走のいま水沢家も色々と忙しい。さえも正月の準備に追われていた。そんなある日の夜、良人隆広は相変わらず自分の膝枕とお腹を満喫している。しばらく堪能すると、やっと膝枕を離れ

 

「さえ、すまないが正月は一緒に過ごせそうにない」

 話によると、隆広は勝家と前田利家と共に安土に行き大評定に参加すると云う。名誉なことだ。正月を一緒に過ごせないのは残念だが。

「三日後には発つよ、しばらく会えないが体には注意してな。もうそなただけの体ではないのだから」

「はい」

 

 年が明けて正月になった。年始の挨拶はさえが身重ゆえ差し控えるようにと奥村助右衛門が事前に家臣たちに通達している。さえは監物や八重、直賢や絹と言った縁者のみと静かな正月を過ごした。

 

「はい幾弥殿、お年玉よ」

「わあ、ありがとう奥方様!」

 直賢の嫡子幾弥にお年玉をあげたさえ。

「ありがとうございます姫様」

 礼を述べる絹。

「昨年は直賢殿が見事九頭竜川の治水資金を用立ててくれて、そして越前の民の悲願である治水も成し遂げられました。本当によい一年でした」

「はい、私も良人直賢を誇りに思います」

「今年は私も母親になるし。絹殿、母親として私は後輩、色々と教えて下さいね」

「はい、微力ながらお助けいたします」

 と、言いつつ絹もまた懐妊していた。

「生まれ来る私たちの子、友となれたら良いですね」

「幾弥同様に水沢家の良き家臣になれるようしつけるつもりです」

一通りの話を終えると、さえは別室に行き横になることに。何せ身重だ。絹が一緒に付いていった。

 

 お年玉をもらったあと、幾弥は祖父母のもとに行った。

 八重に抱きついて甘える幾弥。

「おばばさま~」

「おう、よしよし」

 その様子を微笑んで見つめる監物と直賢。

 

「聞いた。幾弥を後年武将に取りたててほしいと勝家様に願ったそうじゃな」

「はい」

「何故じゃ。そなたの後を継げば戦で死ぬこともないぞ」

「ははは、絹にも大変叱られました」

「そりゃあそうじゃろう」

「それがしは商人司を世襲にする気はありません」

「なぬ?」

「交易はそれなりに才知と実力を備えた者が陣頭に立つべきなのです。だからそれがし隠居する時は部下から後継者を指名します」

「それは殿の?」

「いえ、それがしの考えでございます」

「ふうむ…」

「だから幾弥に初代吉村家を立ち上げてもらいたいと」

「そのために武将にしたいと」

「そうです、幾弥が絹や母上に甘えられる正月は今年で最後となりましょう」

「そ、そんなに厳しい師をつけるのですか?」

 

 幾弥は八重に抱っこされながら寝てしまった。孫の寝顔を見つめていた八重が直賢に訊ねた。

「殿は当初永平寺の高僧である宗闇和尚を見込んでいたようですが」

「「そ…!?」」

 絶句する監物と八重、永平寺の高僧宗闇と云えば越前で怖い坊主の代名詞となっている僧侶だ。宗闇和尚が来るぞと言えば越前の童子はみんな泣きやんだと言われている。まさに泣く子も黙る厳しく恐ろしい僧侶なのだ。

 

「しかし絹が殿に宗闇和尚だけはお許しをと願い出て…」

 直賢は大乗り気だったが、絹は宗闇の名前を聞くや腰を抜かさんばかりに驚き、大急ぎで水沢邸に走り、隆広に宗闇和尚だけはやめてくれと泣いて頼んだ。

「殿は女の涙に弱いですからな。あっさり頼みを受けてしまいました」

「いや、殿は正しいぞ。宗闇和尚じゃ幾弥が可哀想じゃ」

 と、監物。後年にその宗闇は隆広嫡子竜之介の学問の師となる。

 さえもまた宗闇和尚だけは許してほしいと懇願するが、それは勝家の推薦であり隆広も断れなかった。

「殿も養父長庵様に厳しく育てられたから今がある。宗闇和尚なら長庵様に引けを取らないと思っていたのに残念でございます」

「とんでもない。幼い幾弥には無理ですよ」

 八重も添えた。

「師は福志寺の立慶殿の紹介で丸岡の林照寺の僧、正臨殿と相成りました」

「どんな師なのです?」

「若いがかなりの学識と伺っています」

 

 話をしていると絹が来た。

「殿、義父上、義母上、姫様が気分の悪さを訴えております」

「なに」

「白湯を飲んで横になっていただきましたが」

 八重が動いたので幾弥は起きてしまった。

「あらあら、ごめんなさい幾弥」

 幾弥を絹に渡した八重。

 

「ふうむ、殿のいない寂しさもあるやもな」

「そんな父上、殿が安土に行って数日ですぞ」

「それほど姫様は殿に惚れていなさると云うことよ」

 よっこいしょと立ち、監物もさえの伏所に歩いていった。

 

 出産前の不安も相まってか、さえは体調を崩して横になった。

 白湯は何とか飲むものの

「姫様、食べなければお体とお腹の子に…」

「ごめんなさい、分かっているのですけどどうしても喉を通らないのです…」

 これは早く愛する良人に帰ってきてもらうしかない、そう思う八重だった。

 

 

 やがて安土大評定を終えて北ノ庄に帰ってきた隆広。

 身重の愛妻の元に隆広は急いで駆けた。

「ただいま―ッ!」

 いつも門まで出迎えに来てくれるさえの姿がなかった。

 変わりに侍女頭の八重が出迎えた。

 

「殿様、安土からの旅路、お疲れ様でした」

「八重も留守をありがとう。さえの容態は?」

「それが…ここのところ食欲もなく…」

「なんだって?」

「おそらく…殿様が側にいてくれなくて寂しいのかと」

 務めだから仕方ない…。さえはそう思い留守がちの良人を責めないが、本心はやはり寂しがっているのである。八重が代弁してくれたことを隆広は感謝した。

「すまん」

「さ、お早く姫の元に!」

「うん」

 

 廊下の足音でさえは目覚めた。

「あの人が…」

「おお、姫様、寝ておらぬと…」

「監物、あの人が帰ってきたのね?」

「左様です!」

「ああ…早くここに…」

「さえ!」

「お前さま…!」

「さえ…会いたかった!」

「私も…!」

 精気を取り戻したさえの顔に安堵する監物だが

(しかし大げさよなぁ…。まるで何年も離れていた夫婦の再会だが、実際は十日しか離れておらんぞ…)

 

 監物や他の侍女たちも気を利かせて部屋から出た。出産間近なので抱くことはできないが、さえは良人の口付けと優しい愛撫に満足すると横になった。

「お前さまの顔を見たら安心して…お腹が空いてきました」

「そうかそうか!」

 時間を見計らい、八重が葱を入れた粥を持ってきた。美味しそうな匂いにさえは起き上がった。

「美味しそうな匂い…」

「これは美味そうだな、どれ」

「ほら、アーン」

「アーン」

 スルリと粥はさえの口に入った。

「アツツ!」

「あはは、ほらゆっくり食べろよ」

「うん」

 

 粥を食べ終わると、洗濯したての手拭でさえの口を拭った。

「ごめんな、さえ。身重で、しかも初めての出産で不安も大きいだろうに…ろくに側にいてやれなくて」

「そんな…」

 

 さえは隆広の顔を見て、この時は理解ある妻をやめた。少し責められた方が良人はらくになると思ったからだった。

「…まったくです。あなたの子を産むのですよ。そんな妻を放っておいたらバチ当たります」

「そうだなァ…」

 さえのお腹を愛しく撫でる隆広。でも現実、隆広はこれから忙しくなることはあっても、暇になることはない。

 

「でも…ごめん、ごめんな。働かなくちゃ俺」

 申し訳なさそうにさえに詫びる隆広。

「うん、今ので気が済んだから、もう我儘言いません。お前さまはさえ一人のものではないですもの」

「だから、こうして二人になれた時は離さない…。このお腹にいる子にだって邪魔はさせないぞ」

「んもう、お前さまったら」

「さえ、今日は安土から帰って来て少し疲れたよ。このままここで眠っていいかな?」

「うん、一緒に寝ましょう、お前さま」

「……」

 

 隆広はそのままさえの横に体をくずし、すぐに眠ってしまった。

「疲れておいでだったのね…。それなのに私にお粥を…」

 起こさないよう、さえは静かに甲冑を脱がせた。頑是無い子猫のような寝顔を見て信長が良人をネコと呼ぶのが少し分かる気がしたさえ。良人が帰って来てさえも安心したのか、そのまま彼女も眠りについた。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 いよいよ出産まで秒読みに入った。さえはなるべく動いた方が良いと医者に言われており出来る家事はやっていた。そして八重と出産について話す。

 

「伯母上、血の儀式なのですからやはり馬小屋で産むべきでしょうね」

「はい、いつでもお運びする準備は整えておきます」

 

「おう、何の話だ?」

 隆広が部屋に来た。

「はい、出産する場所について話していました」

「場所?」

「出産は血の儀式、やはり通例どおり馬小屋にて」

 次の瞬間、隆広の顔が真っ赤になった。そして初めて

 

「そんなことは絶対に許さないッ!!」

 さえに怒鳴った。驚いたさえと八重。何故怒る。かの聖徳太子も馬小屋で生まれたのだ。現代の時代劇では出産はたいてい屋敷内で行われているが、これは誤りで馬小屋もしくは納屋などで出産は行われている。血の儀式として生まれる子宝は大切でも出産そのものの行為は忌み嫌われていたのだ。

 当時を生きるさえと八重には普通の常識として理解していることだった。

 しかし隆広には許せないことだった。

 

「掃き清めて、壁も拭いたうえの清潔な部屋で産むんだ!馬小屋なんてとんでもない!屋敷内で産まなければ許さないぞ!!」

「お、お前さま…」

「と、殿様、お言葉ながら出産は血の儀式、武家に凶事をもたらすことに」

 八重が言ったが隆広は応じない。

 

「血の儀式ではない。神聖なものだ」

「殿様…」

「凶事をもたらすなら、人の世はとっくに終わっている。つまらない因習にこだわるな」

 

 現代からすれば隆広のこの観点は当たり前だが、当時としてはまったく考えられないことだった。まだ戸惑うさえと八重に

「今に俺がそんな悪しき慣習、根こそぎ無くしてやる!」

 

 隆広は正直言うと驚いていた。

 かけがえのない我が子を生んでくれる妻に対して馬小屋で出産しろなんてとんでもないことだ。何より出産する当人であるさえ自身が当たり前のように認識していることに唖然とした。

 血の儀式を屋敷内で行ったなんて水沢家の将兵が知ったら士気に関わる。どうしようとさえは迷ったが、隆広は侍女たちに命じて一室をとことん綺麗に清掃させ、布団も真新しいのを買って用意した。観念するしかないさえは良人の言う通り屋敷内で産むことを決めたのだ。

 今日か明日か、今にも生まれそうなさえのお腹。そのさえが隆広の朝食の給仕をしている。

 

「おかわり」

「はい」

 さえはそんな体調でも隆広の食事は自分で作った。大事な体なのだからいい、と言っても『医者になるべく動くように言われていますから』と笑顔で応える。料理は相変わらず愛情こもった美味しいものだった。朝から三杯食べてしまう。

 

「今日の朝餉もまた格別だ」

「うふ、ありがとう、お前さま」

 腰に刀を差して立ちあがる。出仕の時間だ。隆広は気が気でない。

 いつお産が始まるのか。

 

「心配しないでください。伯母上がついていますから」

「う、うん…」

「ほら、今日は城下産業の打ち合わせと言っていたではないですか。遅れますよ」

「わ、分かったよ」

 後ろ髪引かれる思いで家を出た隆広。心底自分を案じてくれている良人の気持ちが嬉しい。

(あの人のためにも丈夫で元気な子を生まなくちゃ!)

 

 隆広が屋敷を出たあと、さえは庭を軽く歩き回った。

「よいしょ、よいしょ」

 そこに八重が来た。

「姫様、そんなに無理をされては」

「座っていても落ち着かないのです。大丈夫、やや子、しょっちゅうお腹を蹴るんだもの」

「まあ」

「父上に似ず、暴れ者なのかも…」

「姫様?」

 さえは膝をついた。

「アイツツツ…」

 産気づいた。八重が急ぎ

「お前さん、みんな!庭に来て!奥方様が産気づかれたわ!」

「なにこの痛み…。うわぁ…想像以上じゃない…」

 

 急ぎ用意されていた部屋に搬送されたさえ。

 いつでもお産が始まってもいいように隆広はその部屋の清掃を半日ごとにさせていた。産婆も駆け付けた。

「八重、頼むぞ!」

「分かっているわお前さん、それより早くお城の殿へ!」

「分かった!」

 

 

「ああああああッッ!!」

 激痛に悶えるさえの叫びを背に監物は城に駆けた。

「はぁふぅ、門番さん」

「おう、水沢家にいるじい様ではないか、…まさか」

「その通りですじゃ。当家の奥方が産気づかれた。殿にお知らせを」

「承知した!すぐに帰宅するように伝える!」

「かたじけのう」

 

 監物はトンボ返りして屋敷へと駆ける。

「ああ、姫様姫様、気張りなされ!」

 お産とはこういうものなのか、初産のさえには地獄のような痛みだった。

「あううううッ!!」

「気張りなせ!もう少し!もう少し!」

 

 産婆も必死に励ます。地獄のような痛みでも、いま自分は愛する良人の子を生んでいるのだ。体は痛みで苛まれても心は歓喜であった。

 玄関の方で大きな音がした。誰かが転んだのだろうか。

 

「さ、さえーッ!!」

 あの人だ、私を心配するあまり大慌てで帰ってきたのだろう。心配無用、さえはこの戦やり遂げます。

 

 帰ってきたのは良いが隆広がやることは何もない。ただ屋敷の中でウロウロしているだけだ。生きた心地がしない。さっきからさえの苦痛の叫びが聞こえてくる。

「俺に何か出来ることはないのかな。さえがあんなに苦しがっているのに」

「男と云うものはこういう時、何の役にも立たぬものです」

 と、たしなめる監物。我ながらよく言う、隆広が来る前は自分が屋敷内をウロウロとしていたのに。やがて…。

 

「おぎゃあ、おぎゃあ」

 

 思わず抱き合った隆広と監物。急ぎ八重が来た。

「母子ともに健やかにございます!」

「そうか!」

「若君にございます!」

「男の子か!」

 監物は旧主景鏡の甲冑に手を合わせた。

「殿!お孫さまの誕生でござるぞ!」

 後の大坂幕府二代将軍柴田勝明の誕生の時であった。

 

「さえ―ッ!」

 隆広はさえがいる部屋へと駆けた。そして愛妻の横でスヤスヤと眠る赤子を見つけた。

「お前さま…」

「さえ…お疲れ様。もうそなたを褒める言葉も見つからないよ…。大手柄だ」

「はい…」

「これが…俺たちの子か」

「はい…」

「男子だが…顔はそなたに似ているな。さぞや美男になるだろうな」

「どんなに美男に成長しても…この日の本では二番目の美男子です」

「一番は誰なんだ?」

「んもう…分かっているくせにぃ…」

 

 赤子を取り上げた産婆も、場の空気を持て余し、いそいそと部屋から出て行った。監物も一目赤子を見て、部屋の外で八重と共に待った。

「今頃…殿もあの世で喜んでいよう…。初孫じゃ」

「そうですね…。弟景鏡の分まで可愛がってあげなきゃ…」

「しかし、女の子なら名付け親になれた儂らなのにのォ。少し残念じゃ」

「何を申しますか、さえ姫様はまだ十九歳です。いくらでも子は出来ます」

「そうじゃな、あははは」

 

「け、監物殿―ッ!」

 侍女が慌しく廊下を駆けてきた。

「これこれ!静かにせねば若君が起きて…」

「か、か、か!」

「『か』では分からんだろうが」

「勝家様がお越しです!」

「な、なぬ!八重、急ぎ出向かえじゃ!」

 

 隆広の元にもそれが知らされた。

「殿様!」

「どうした八重?」

「ご主君、勝家様がお越しにございます!」

「え!」

「お前さま、早くお出迎えを」

「分かった、さえは寝ているがいい」

「はい」

 

「かまわんかまわん!出迎えなどいらん!」

 勝家はすぐに隆広たちの元にやってきてしまった。

「おお!」

「と、殿?」

 さえは産後のだるさがあったが、勝家の前で寝ているわけにもいかず起き上がろうとするが

「よいよい!寝ておれ!」

 生まれた赤子の元に嬉々として走る勝家。

「おおッ!大手柄じゃぞ、さえ!」

「は、はい」

 

「本当に大手柄ですよ、さえ!」

「お、奥方様!?」

 何と、お市まで隆広の屋敷にやってきていた。またさえは起き上がろうとするが、お市に静かに制された。

「おお、どう抱いたら良いのじゃ、お市よ教えてくれ!」

「こうですよ、ああ…なんとかわいらしい」

 

 隆広とさえ、他の水沢家の者たちも茫然としていた。

 家臣の子の誕生に城から大急ぎでやってきて、しかも勝家だけならまだしも、お市まで来て嬉々として赤子を抱いている。

 家臣の子の誕生にしては異常な喜びようである。

 

「どうなっとるのじゃ…八重?」

「いや…私も…」

「まるで初孫の誕生を喜ぶかのようじゃ…」

 

 まだ秘事ゆえ分からないことだった。勝家とお市にとっては初孫である。

 こんなに嬉しいことはない。鬼や閻魔と呼ばれる勝家がこんな優しく嬉しそうな顔をするとは。

 

「隆広、名は決めてあるのか?」

「は、はい。それがしと養父の幼名である『竜之介』と…」

「竜之介か!よい名じゃ!」

 お市は愛しく竜之介の頬に頬擦りしていた。

(おばあちゃんですよ竜之介、ああ…赤子の時の隆広と同じ顔…。何と愛しい…)

 

「奥方様…」

「あ、ごめんね、さえ。母親から取り上げちゃうなんて」

 お市はさえの横に竜之介を優しく寝かせた。

「隆広」

「はい」

「丈夫に育てよ」

「はい!」

「守り刀を与える」

 勝家は自分の腰に差していた刀を隆広に与えた。

 

「『貞宗』…!これを竜之介に!?」

「うむ」

「あ、ありがとうございます!」

「こらこら、お前にやるのではない。竜之介にやるのだぞ」

「はい!必ず丈夫に育て!元服の折に授けます!」

「うむ、体を厭えよさえ、隆広に思い切り甘えるが良い」

「はい…!」

「ん、では帰るぞお市」

「はい」

 

 勝家とお市は隆広の家を後にした。

「ふうビックリした。まさか殿があそこまで俺たちの子の誕生を喜んでくれるなんて」

「ほんとです」

「しかし…俺も今日から父親か」

「私も今日から母親です」

「そうだな。俺たち、いい父上と母上になろうな」

「はい、お前さま」

「さ、疲れただろう。今日のところはゆっくり眠るがいいよ」

「うん…」

 さえは隆広の言葉に安心すると静かに眠りについた。

 そのさえの横でスヤスヤと眠る我が子竜之介。

 その日は一日中、産後の疲れでぐっすり眠る愛妻の寝顔と、眠る我が子の顔を飽きることなく見ていた隆広。

「この寝顔を…俺は一生守る…!」




ニコニコ動画版のアイドルマスター×天地燃ゆ『社長水沢政勝』ですが、隆広(動画版では政勝)は、この時系列のあと間もなく現代へ魂が飛ばされてしまい、赤羽根賢志という若者に憑依します。アイドルを自分の出世のための踏み台程度しか思っていない冷酷なプロデューサー赤羽根、彼の死と入れ替わるように隆広が乗り移ります。

そして彼は現代でも悪徳又一という頼りになる老将を側近にして、各オーディションに落ちまくっている不遇なアイドルたちを集めて事務所を旗揚げ。快進撃が始まるというお話です。

アドレスは小説トップ画面にありますから、よろしければ見てチョンマゲ。

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