天地燃ゆ   作:越路遼介

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外伝さえ 六【側室騒動】

 竜之介の誕生からほどなく、水沢隆広には武田攻め総大将の織田信忠の寄騎として参戦せよと織田本家から通達があった。

 

 これより少し前、隆広は山内一豊の元を訪れ江北地震に巻き込まれたが無事に帰還している。しかし背中に裂傷を負い山内家の丁重な手当てを受けて帰って来たばかりであった。今は傷も治っている。

 

 良人隆広は自分の軍勢二千と勝家から与えられた五千も合わせ七千もの大軍で出陣する。正室さえもその準備に追われた。隆広の屋敷には米問屋や馬問屋が慌ただしく行き来していた。算盤を弾いて帳面に記載し商人たちに代価を払うさえ。三成が来た。甲斐までの行軍と滞陣に対して十分な備えが出来たとさえに言った。

「さすが佐吉さん、兵糧の確保は万全ね」

「はい、それは滞りなく。それはそうと奥方」

「はい?」

「産後間もないのですから、そうした雑務は我らに任せて」

「いやね、そんな腫れ物に触るみたいに。大丈夫です」

「はあ…」

「米以外の食材の確保は我ら女衆がやっておきますから、佐吉さん、いや三成殿は弾薬と人足の確保を」

「承知しました」

 

 額の汗を拭い、さえは生き生きと働いていた。こうした裏方の仕事一つ一つに良人の無事を願う心を込めている。怠けてなんかいられない。祝言直前、前田利家の妻まつが祝言の時に教えてくれた。ただ隆広殿に尽くすだけでは駄目なんだ、水沢家全体を見て行かなくてはならないのだと。

 本当にそう思う。私は柴田の侍大将水沢家の女将さんなのだ。その自負が多少の労苦など問題にしない。しかしそんな中でも

「姫様、お乳の時間です」

「はい、いま行きます」

 

 八重に呼ばれて屋敷の奥に行ったさえ。そこには水沢家の赤子たちが一杯眠っていた。大将隆広がまだ十九歳の若者だから兵にも若者が多く、子も竜之介と同じ赤子ばかり。戦の準備に男と女たちが追われる時は水沢家の母親や祖母たちが八重の元に集い子供の面倒を見ていたのだ。

 

「竜之介、母上でちゅよ~」

 満面の笑みで竜之介を抱きあげるさえ。ついさっき竜之介のオシメを変えた侍女見習いの千枝が

「奥方様、今日の竜之介さまのウンチは硬くて健康です」

「ありがとう千枝」

 ニコリと笑い乳房を出したさえ。

「さあ、たんと飲んでね」

 チュウチュウと美味しそうに母乳を飲む竜之介。

「まあ、美味しそうに竜之介さま」

「いつも乳が空になるまで飲むのよ」

 やがて満腹となった竜之介は豪快な放屁をしてスヤスヤと眠った。鼻を押さえて爆笑するさえと千枝だった。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 出陣準備も整え、いよいよ明日に信忠の居城である岐阜城に進発することになった。夜も更けてさえも眠たかったが寝姿で出陣前夜の良人を迎えるわけにはいかない。だが睡魔には勝てずウトウトしていると

「起きていたのか」

 隆広が帰ってきた。甲冑姿のままだった。

 

「はい、出陣前夜の夫を寝姿でお送りはできませんから」

 竜之介の寝顔をしばし見つめるとさえの前に座った隆広。

「武田家を攻めるそうですね」

「ああ、油断する気はないが、長篠合戦以降から武田の没落は明らかだ。勝てる見込みは十分あるが正直気の進まない合戦だ」

「お前さまは武田家の兵法を学んでいましたものね…。手取川の合戦では信玄公に化けてまで謙信公に突撃をして…」

「それもあるが…高遠の仁科盛信殿に仕える将の中に、俺に槍術を教えてくれた方がいる」

「お前さま、剣術だけでなく槍術も?」

「養父隆家と諸国漫遊をしている時、甲斐にも立ち寄った。その時、数ヶ月手ほどきを受けたんだ。槍の基本的な使い方を教えてくれた」

「そうだったのですか…。槍の先生が敵に…」

「うん…できれば高遠城を攻めたくないが、そうもいかないだろう。理想論かもしれないが…俺が大殿なら勝頼殿を降伏させ、改めて甲信を与えて統治させる。今後の合戦で大いに活躍してくれるだろうに残念だ。また恵林寺の快川和尚は…」

 

「……」

「…ん?」

 眠ってしまっているさえ。彼女も昼間の仕事で疲れていた。隆広はさえを起こさないように抱きあげて竜之介の横に寝かせ布団をかぶせた。しばらく飽きることなく愛妻と愛息の寝顔を眺めていた隆広。

 

「う~ん」

 さえが寝返りを打つと胸元がはだけた。我が妻ながら艶っぽいとしみじみ思う。

 やがて隆広は甲冑を脱いで風呂に入り、横になった。しばらくして

「おぎゃあ、おぎゃあ」

 起きた隆広。

「おお、どうした竜之介。よしよし」

 オシメを触れてみると湿っている。

「小便か、よしよし」

 枕元に置いてあるオシメを取って換える隆広。さえが起きると良人が鼻歌交じりに竜之介のオシメを交換していた。手際がいい。

「済んだぞ。湿った手拭で尿も拭き取ったから大事無い」

 茫然としているさえ。七千も率いる将帥の良人が息子のオシメを交換している。

 現代では不思議のない光景だが、当時では考えられないことだった。もうスヤスヤと眠っている竜之介。

 

「そなたは一日中竜之介と一緒にいるのだから、いる時くらいは俺にやらせてくれよ」

 さえは表にこそ出さなかったが、隆広の気持ちは涙が出そうなほど嬉しかった。夜泣きを鬱陶しがる亭主の方が多いのに、起きたら良人が全部済ませていた。

「ありがとう、お前さま」

「…ん?なんの礼だ?」

「いいの、うふ♪」

「しかし可愛くてたまらない寝顔だ。さえ以上に可愛い寝顔はないと思ったが竜之介の前では一歩ゆずるな」

「まあ、それは誇るべき敗北です」

「この頬の柔らかいのがたまらない」

 指で優しくつつく隆広。

「私の乳と云い、お前さまは柔らかいものがお好きなのですね」

「あはは」

 

「ずいぶんオシメを替える手際が良いです」

「寺の坊主をしていた時、近隣の子らの子守も修行の一つだった。つくづく養父が課して下された修行は何一つ無駄がなく実用向きだと思う。あははは」

 そう言いながら隆広は寝巻きのはだけたさえの胸元と足をチラチラ見ている。

「コホン、竜之介もまた眠りだしたし、我らも寝よう」

「…目が覚めてしまいました」

「ん?」

「出陣前の血のたぎり。鎮めて差し上げとうございます」

「疲れていないか…?」

「大丈夫です。お前様、私を…」

「うん、たっぷり堪能させていただく」

「んもう…助平な言い方しないで下さい」

 

 

 晴天、水沢勢は岐阜城へと出発した。さえや水沢家の女たちも見送る。

 その時だった。

「奥方様」

「星岡殿、どうしました?」

 それはさえの推薦で水沢勢の戦場料理人となった星岡茶之助だった。

「これは当家に伝わる秘伝の汁物の作り方です」

「汁物?」

「魚と野菜の捨てる部分を上手に活用し美味にする汁です。栄養もあるので乳の出がようなりますぞ」

「それは!ありがとう星岡殿」

「奥方が会得したら他の女衆にも」

「もちろん教えますわ。ありがとう」

「では」

 

 こうして水沢勢は織田信忠の寄騎として武田領に進行を開始した。今まで良人が戦場に出ると寂しかったが今は息子がいる。新米母のさえは毎日戦場だ。でもこれも承知のうえだ。

「子育てって大変だなぁ。でもその大変さがすごく幸せに感じる」

 

 話は少し時を戻すが、出産後に隆広と八重が乳母の人選をしていると聞くや、産後のだるさも忘れて二人のいる部屋へと殴りこんで

「乳母など不要です!竜之介には私の乳を飲ませて育てます!」

 すかさず八重が諭すように言った。

「正室はお家が大事。奥方様は水沢家の要です。それが子育てに忙殺されてはなりません。どこの武家でもやっています」

「…お前さまも同じ意見なのですか?竜之介に私以外の女子の乳を与えると!」

「それは不満だが、そなたが子育てに忙殺されるわけにもいかないのも事実だ」

「ならば、私はそれを見事両立してみせます。子育ても水沢家の奥向きの仕事も!」

「無茶言うな、体を壊すぞ!」

「越前女はそんな軟弱じゃありません!とにかく乳母はいりません。いいですね!」

 

 怒鳴って疲れたか、さえは再び自分の寝所に戻っていった。八重は困り果て

「困った姫ね、もう…。あんなわがままじゃなかったのに…」

「そう言うな、子供を取られたくない気持ちは分かる」

「はあ…」

「ただし、さえが両立できないと見た時はすぐに乳母をつける。人選は済ませておくように」

「承知しました」

 

『私の愛する竜之介に他の女子の乳なんてやるもんか』

 武家の女として、この考えは我ながらどうかとも思った。武家の男子は乳母が乳を与えて育てるものだ。分かってはいたが、いざ生んでみると受け入れられないさえだった。

 良人隆広は家の運営となると案外厳しいので両立できなければ、すぐに乳母をつけられることは分かっていた。だからさえは両立すべくがんばり、八重もまた温かくそれを支えた。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 さて、水沢軍が武田攻めに向かい、しばらく経った朝。

 

「ごめんなんしょ」

 水沢家の屋敷の玄関口、そこに農民の男が来た。千枝が応対すると

「奥方様」

 奥で八重と共に竜之介をあやしていたさえに報告した。

「殿の使いの方です。文を持参しています」

「本当に?」

 使いの男に会ったさえ。

「私が水沢の室さえです。良人の手紙を持ってきて下されたそうで」

「はい、あっしは岐阜城にてお殿様に召し抱えられた越前池田村の百姓二毛作と申しますだ」

「はあ…」

 

 どうみても水沢軍の正規兵ではない。しかし持っていたのはまぎれもなく良人隆広からの文だった。

「確かに」

「ご返事を」

「は?」

「お殿様は首長くして待っているに違いねえだよ」

「その方、渡した直後に返事をよこせとは」

 と、八重が叱ると

「だってそういう命令だもんよ」

「二毛作殿と申しましたね」

「んだ」

「失礼ながらどういう経緯で良人に仕えたのです?」

 

 二毛作、農民でありながら柴田明家に息子の末吉と二代に渡って仕え、三代になって士分となり柴田勝明の幕僚入りをする池田家の祖である。もっとも明家は自分が大名になると二毛作に士分取り立てを申し出ているが堅苦しい武家勤めはいやだと断られている。二毛作は水沢家ではなく水沢隆広個人に雇われた使い番だった。役目は戦場と城を往来し隆広とさえの文を運ぶことだった。

 

 水沢家が岐阜城にて陣をしいた時、二毛作は何とも大胆不敵に馬泥棒として隆広の前に現れた。しかも盗もうとしたのは松風である。だがあえなく松風に振り落とされて捕まってしまった。

『松風に乗りたかった』

 と、白州で隆広と慶次に言った。

 

『オラは馬の扱いなら誰にも負けねえ。しかし池田村の仲間たちが言うんだ。いかにお前でも前田様の松風は乗れまいと。だから岐阜城から乗って連れてきてやると啖呵切ってしまっただ』

 苦笑しながら二毛作の申し開きを聞く隆広と慶次。兵が

『こいつ馬盗人のくせに!』

 と、二毛作に蹴りを入れた。

「いて!ちきしょ!確かにオラは馬を盗もうとした!しかしオメらの殿様の織田信長は越前の国を盗んだじゃねえか!」

 隆広をしっかと指さして言った二毛作。

『こいつ!』

 槍の柄で叩いてやろうとした兵を止めた隆広。

『よいよい』

 

 フッと笑い隆広は言った。

『面白い男だ。しかし北条早雲殿のように、ただでは許せない』

 これと同じ場面であの北条早雲は『器量ある男よ、許してやれ』と無罪放免にしている。

『へん、煮るなり焼くなり好きにしろい』

『馬なら誰にも負けないと言ったな二毛作』

『ん』

『ならば俺と競ってみよう。見事俺に勝てたら構いなし(無罪)としよう』

 ゴクリと唾を飲んだ二毛作。

『オ、オラが負けたら?』

『さあ、どうしようかな』

 

 こうして隆広は二毛作と岐阜城の馬場で競争することになった。隆広の愛馬ト金は柴田家はおろか織田家一の俊足と言われている名馬。話を聞いてやってきた二毛作の妻子も心配そうだ。

『アンタ、なんて馬鹿な真似をしたんだよ、よりによって前田様の馬を奪うなんて』

『いや、なんか成り行きでな』

『父ちゃん!』

『心配すんな末吉、父ちゃんは頭悪いが馬だけは負けねえだ』

 岐阜城の馬場で二毛作は好きな馬を選んでも良いと言われた。しばらく馬場を見渡し

『あれがいいだ』

 と指名。しかしその馬は岐阜城の軍馬責任者でさえ持てあます暴れ馬だった。

 

 慶次は二毛作の目利きを見て

『ほう…』

 素直に感心した。隆広も同じ気持ちのようだ。

(なるほど馬なら誰にも負けないを自負するだけはある)

 二毛作がその暴れ馬に近づくと不思議と暴れなかった。たいしたものだと慶次。

『ふふ、これは隆広様危ないぞ』

 

 いよいよ競争が始まった。馬場を二周する勝負。先行して走るト金。一周は早くも過ぎ、もう次の角を曲がれば終点まで一直線だ。その角を曲がったト金。

『見込み違いか…』

 と、隆広が思った瞬間だった。二毛作は一気に差してきた。ものすごい追い込みの速さである。

『え…?』

 そう思った時は抜かれてしまった隆広とト金。見事二毛作は隆広に勝ったのだ。慶次は大笑い。

『先行逃げ切り、成らずですな、あっははは!』

『うん、悔しいが俺の負けだ。あっははは!』

 

 そして隆広は二毛作を無罪放免で許し、その馬の技術を見込んで

『どうだ、俺に仕えないか』

『水沢家に』

『違う、俺個人にだ。俺個人の用向きの使い番として、そなたを雇いたい』

 どう違うのか、よく分からないが田畑だけでは生活が苦しかった二毛作は喜んで了承した。

 

 

 話しは戻る。

「と、云うわけでお殿様と奥方の手紙を持って陣場とお城の往来のお役目を受けただ」

 面白い登用をされる、さえは苦笑した。

「分かりました。千枝、二毛作さんに食事とお風呂を」

「はい」

「と、とんでもねえ!」

「いいのです。じっくり読んで返事を書きたいですから」

 

 二毛作は高齢により馬に乗れなくなるまで、この役目を続けた。隆広とさえの恋文を運ぶ役目とはいえ命がけの仕事であるには変わらない。

 事実後年の徳川家康との尾張犬山の戦いでは捕らわれの身ともなっている。士分にすると云う申し出を受けていたら高禄を得られたかもしれないのに二毛作はこの仕事をまっとうする道を選んだ。それは主君と奥方の手紙を運び、いつまでも仲睦まじくあってほしいと云う願いがあったかもしれない。

 主君の家庭が温かいこと。それが水沢家、柴田家の繁栄となる。二毛作はそれを自負とし誇りとしていたのだろう。息子の末吉がそれを継ぎ日欧、日清の役の最中でも文を届け、やがて功績を認められ、二毛作の孫は大名となり柴田勝明を支える幕臣の一人となっていくのである。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 武田攻めは終わった。隆広はあまり戦場のことを話さない。どうでしたか、と訊ねても

「ああ、何とか勝つことが出来たよ」

 としか言ってくれなかった。ここで慶次のいたずら好きがうずいてくる。

「武田の松姫なる美女が隆広様と面識がありましてな」

「松姫、中将様(信忠)の婚約者の方」

「こう申していましたよ。『信忠様より先に竜之介殿を知っていれば私は貴方の妻になることを望んだでしょう』と」

 このくらいで夫婦げんかにならないことは分かっている。ただやきもちを妬くさえの顔が見たかったのだが、さえは思いのほか平然としていた。残念がった慶次だった。

 

 聞けば松姫と隆広は十二のころに会い、そして長じて敵味方に分かれ、良人隆広は何とか命を救おうとしていたと。結果松姫の命は助かり武州に隠棲したと云う。

「武田の姫か…。もしあの人が私と巡り合っていなければ水沢隆広の妻はその方であったかもしれない…」

 そう思うと何か縁を感じるさえ。

「どんな女性なんだろう…」

 後年に本能寺の変が起こり、織田信忠が死んだ。松姫の心痛いかばかりかと、さえは松姫に手紙を出している。二人の親交はそれ以降、死ぬまで続いたと云う。

 

 

 さて、武田攻めも終えた水沢家。同時進行して行われた加賀攻めも柴田勝家が総大将になって勝利し念願の加賀の地を手に入れた。隆広は新領地の加賀の検地、治水、開墾、民心掌握のため一時期加賀の鳥越城の城代を任された。その出発準備中のある日。

 

「お前さん、行くたびに源吾郎殿の屋敷で昼食を御馳走になっていちゃ迷惑よ。はいお弁当」

「そうじゃな」

 八重が監物に手弁当を渡すのを見たさえは

「あら、今日も監物はどこかに出かけるの?」

「お、あ!いやいや!あははははは!」

 と、笑ってごまかして出て行った。

 

「…?どうしたの伯母上、このごろ監物は変よ」

「そ、そうですか?私にはいつもと同じようにしか。あははは!」

 八重も笑ってごまかして逃げた。監物と同じように八重も時々出かけて行く。

 最初は気にもならなかったが

 

「…あやしい」

 さえは敏感に何かを隠していると察した。そのさえの後ろを通りかかった侍女見習いの千枝に訊ねた。

「千枝」

「はい」

「加賀内政の準備に追われていると云うのに監物と伯母上は私に行き先を告げずに出かけていくことがしばしばです。行き先を聞いていますか」

「い、いえ、私は」

 まずいと思った千枝はいそいそと立ち去ろうとしたが、千枝の腕を掴んださえ。

「お、奥方様」

「言いなさい」

「…お八重様に私が言ったとは」

「約束します」

「当家の御用商人である源吾郎殿の屋敷に行っているのです」

「え?」

「それ以外には存じません」

 

 加賀内政の準備のため当然ながら御用商人の源吾郎も働いている。

 だから監物と八重が仕入れ等の確認で源吾郎の屋敷に行くことは不自然ではない。でも何故自分に隠して行くのか。よくよく考えれば隆広も何か変だ。何か言いだそうとしてやめてしまったり、八重や監物から何か報告も受けていた。何かみんなして隠している。さえは確信した。

 

「みんなして私に隠しごとなんて…」

「あ、あの奥方様」

「え?」

「加賀に出発する前日、水沢家はお休みになるのですよね…」

「え?ええ、そう聞いていますが」

「では、その日は久しぶりに父上と母上と過ごしても良いでしょうか」

「もちろんよ」

「わあ、ありがとうございます!」

 喜んで千枝は仕事に戻っていった。

「そうか、そう言えば千枝の言う通り加賀行き前日は休みとするとあの人が言っていたっけ」

 では、その日に問いただす。そう決めたさえだった。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 話は数日前にさかのぼる。八重と監物は隆広に相談された。ヒソヒソと。

「実は武田攻めで鉄砲玉から俺を庇って歩行がままならなくなった女がいる」

「まあ」

「それは男として責任を取らねばなりませんぞ殿」

「うん、そこで…俺はその女子を側室として迎えようと思うんだ」

「そ…!」

 八重の口を塞いだ隆広と監物。目で分かった分かったと合図する八重。

 

「でもさえが許してくれるとは思えない」

「そんなことはないのでは?殿様の命を助けて歩けなくなった女子にございましょ?姫様とて得心されると思いますが」

「八重、そりゃお前のように世の中の酸いも甘いも見て、歳を経た女子の見解じゃ。姫様にはまだ無理じゃ」

 と、監物。

「そうかしら…」

「で、まず将を射よとするなら何とやら、まずそなたらを味方につけようと思ってな」

「どうせよと」

「それを一緒に考えてくれよ。さえを傷つけず怒らせず円満に側室を迎えることを許してもらえるよう運ぶために」

 

「殿様…」

 半ば呆れた顔で八重が言った。

「そんな虫の良いことが出来るなら私の方こそお教え願いたいものです」

 隆広の家臣たちも同じことを言っていた。

「やっぱり虫が良いかな」

「「はい」」

「でも、ちょっと怖くて言えないよ」

「やれやれ、上杉謙信にも挑んだ殿様が嫁を怖いと」

「監物だってそうだろ」

「とんでもない、儂はいつでもバシッと」

「言われたことはございません」

「…ふむ」

 

 私がこの場にいなかったら偉そうなことを言っていたのだろうな、八重は苦笑し、そして隆広に言った。

「ふふ、でも殿様、やっぱり正直に事の次第を告げるしかありません」

「でもなあ…」

「ところで、その女子は?」

「ああ、すずと言って今は源吾郎殿の屋敷で歩行訓練に励んでいるよ」

「ふむ、殿様の命を救ってかような身となったのだ。八重、水沢家の家令と侍女頭としてはお訪ねして礼を言わないと」

「そうですね。訓練が大変ならば我らも手伝わなければ」

「まったくじゃ」

「二人ともそうしてくれるか」

「「はい」」

「俺も寸暇を利用して行くが、いかんせん今は加賀内政の準備でな」

「承知しています。後々殿様の側室になられるのでは我らの家族になるということ。面倒を見させていただきます」

 と、八重。

「おりを見て、さえに正直に切り出すよ。できればすずは鳥越城に連れて行きたい」

 

 しかし、やっぱり隆広は言えなかった。

 さあ、明後日は鳥越城に出発。準備に追われていた部下たちを労うつもりで隆広は出発前日を休みとした。早朝、木刀と木槍を振っている隆広。

 武田攻め以来、早朝の鍛錬には槍の修練も追加された。体から湯気が立つほどに集中している。

 

「ふう~」

「お前さま、そろそろ朝餉です。汗を拭いてお召し物を」

「うん」

 縁側に座り汗を拭く隆広。

「明日、加賀に出発ですね」

「うん、今までの内政で一番の大掛かりだ」

「だから出発前日の今日をお休みに?」

「ああ、現地ではいつ休ませてやれるか分からないからな」

「そうですね」

「さえも鳥越に着けば城代夫人だ。女衆の束ねを頼むぞ」

「はい」

 

 さえの優しい笑みに隠れた一つの気合いに隆広は気付かなかった。

 それで朝餉、さえの手料理を美味しそうに食べている隆広。

「お前さま」

「なんださえ」

 つい先刻、縁側で見た妻の顔でないことに気付く隆広。

 目が据わって不気味な静けさの笑みを浮かべていた。

 

「伯母上、監物」

「ブホッ」

 監物は白湯を思わず吹きだした。『バレた』直感で思った。

「三人とも私に隠していることあるわね?」

 箸を落とした隆広。

「三人して、源吾郎殿の屋敷に何しに行っているの?」

「あ、いや、あらあら!若君が何かぐずっていますよ!姫、そろそろお乳の時間…」

 ジーと八重を見るさえ。ごまかしきれないと八重は悟った。

「殿、もう正直に申されては…」

「う、うん」

 椀を膳に置く隆広。少し手が震えている。さえを正面から見られない。

「じ、実はなさえ」

「はい」

「怒らずに聞いてくれ」

「保証できません」

「…や、やっぱり後日に」

「お前さま!」

「は、はい!」

「何を隠しているのです?」

「実は…側室を持つことにした」

 蚊の鳴くような声で述べる隆広。

「はい?」

「いやだから側室を持つことに…」

「ちゃんと私の目を見て!大きい声で申してください!」

 意を決してさえの正面に向いて言った。

「だから側室を持つことにした!」

 言ってしまった。

 

「もう見ちゃおれん」

「わ、私も!」

 監物と八重は竜之介を連れて、その場から逃げだしてしまった。

(は、薄情者…!)

「お前さま、今なんと?」

「だから!側室を持つことにしたんだ!」

(やっぱり女がらみだったのね!)

 両の手で隆広の頬をつねるさえ。渾身の力を込めているうえ爪がめり込んでいる。これは痛い。

「なんですって…?」

「ひゃ、ひゃから、ひょくひふほほふほほひ(だ、だから側室を持つことに)…」

「側室ですって!」

「ひゃひ(はい)」

「なんで!私に飽きたのですか!」

 

 つねったまま隆広の顔を振り回すさえ。首がゴキゴキと二度三度鳴き、頬をつねる手は『ホントに女子の力か』と思うほどに強い。痛くて涙が出てきた。

「ひょんにゃんにゃにゃい!ひゃえほはひふほひんへんやよお!(そんなんじゃない!さえとはいつも新鮮だよお!)」

 

 両頬をつねられていて上手く喋られないに加えて涙声にもなってきた。

「私は!私はお前さまだけはどんなに偉くなっても私だけ見てくれると信じていました!ひどい!」

 泣き出すさえ。

(ひどい!信じていたのに!)

 

 痛む頬を撫でながら弱り果てる隆広。

「泣かないでくれよう、そなたに泣かれるのが一番つらい…」

「泣かせているのは誰ですか!」

「いやそうだけど…」

 キッと隆広を睨んで

「その女は源吾郎殿の屋敷にいるのですね?」

「あ、ああまあ…」

 怒気をたっぷり含んだ足を畳に叩きつけて立ち上がり部屋を飛び出していったさえ。

 

「ど、どこ行くんだよ!竜之介に乳をやってから出かけ…!」

 部屋を飛び出すとき、さえが戸を勢いよく閉めたために追いかけようとした隆広の顔面がその戸に直撃した。

「…いっ、いたたた…!!」

 

 顔面を襲う激痛に悶える隆広。顔を押さえてヨロヨロとしながら廊下に出るが、すでにさえは屋敷から飛び出していた。

「さえ~」

 弱々しく妻を呼ぶ隆広の声が屋敷に虚しく響いた。

 

 

「監物も伯母上もどうしてあの人の味方をするの!?子をたくさん作るため側室を娶るのは当主の務めとでも?でも私、そんな理屈で割り切れない!」

 一目散に源吾郎の屋敷へと駆けるさえ。店先にいた源吾郎は駆けてくるさえを見て(ああ、とうとうバレたか)と悟った。

「こ、これは奥方様、何か入用で?」

 

「うちの亭主に色目使った女はどこ!」

「は、はあ?」

「ここにいるのでしょ!会わせて下さい!」

 店の奥で声が聞こえた。

「ほら、すず、もうちょっとよ!」

「う、うん…」

「失礼します!」

 さえが声の方に走った。

「あ、奥方様!」

 奥の戸を開けて、さえが見たものは…

 

「よいしょ、よいしょ!」

 それは不自由な体を叱咤して、歩行訓練しているすずの姿だった。先日の刺客騒動の時に駆けつけてきた良人に仕えるくノ一。

 そのくノ一である彼女が手すりに掴まらなければ歩けない状態であった。

 

「え…?」

 すずは汗だくで訓練に励んだ。痛むから、歩けないからと歩行訓練を避けていたら筋肉が萎んでしまい、しまいには立つことも出来なくなると里の医師に言われていた。苦しくとも歩行訓練に励むしかない。

 舞と白が訓練の補助している。庭にすずの歩行訓練用に作った手すり、それに掴まりすずは一歩一歩懸命に歩いた。舞と白はさえが来たことに気付いたが、すずは気付かない。それほど集中していた。

 

「こ、これは奥方様」

 舞と白がさえに跪き頭を垂れた。

「まさか…」

 やっとすずが気付いた。

「奥方様…あっ」

 すずはそのまま尻餅をついた。そして自力で起き上がれない。

「すず!」

 舞がすずを支えてさえの前に来させた。

「すずさん…」

「源蔵殿の時以来に、お久しぶりです」

「え、ええ…」

 

 汗だくのすずを見かねたさえは、すずの額の汗を拭った。

「ありがとうございます」

「まさか…すずさんが?」

「え?」

「主人の側室に…?」

「…はい、もったいなくも…そう望まれて下さいました」

 

 すずの体の事情を説明する舞と白。

「では、主人を鉄砲の弾から庇って?」

「はい、それで隆広様は責任を感じられ…」

「そうだったのですか…。あの人もこういう事情なら隠すこともないのに…」

「申し訳ございません、奥方様」

「どうして謝るのですか?私こそすずさんにどれだけ感謝してよいか…!」

「奥方様…」

「古来、正室と側室は仲が悪いものですが、私とすずさんならそんな風習が打破できると思います。主人の側室としてだけではなく、私と友となって下さいますか?」

「は、はい!」

 

 この後、二人は見事、正室と側室は不仲で当たり前と云う因習を打破している。

 すずの歩行訓練にはさえも寄り添い、屋敷内の廊下すべてにすず用の手すりを備えるよう良人隆広に要望している。

 

 これは後に隆広が居城とした安土城、大坂城、江戸城の廊下すべてに設置されている。いかに水沢隆広が側室すずを慈しんでいたか、そして正室さえとすずの友情がどれほど深かったのかが知れる。

 

 さえは我が身を省みず良人の命を助けたすずに心から感謝し、そしてそれは強固な絆となった。佐久間盛政謀反の時、急ぎ安土城に入れとお市に命令された時、さえは我が子竜之介ではなく、歩行不自由なすずの代わりに、すずの子である鈴之介を抱いて城へ駆けている。それほどの二人であったのだ。

 

 さらに数年後、さえが重病で倒れた時、すずはさえの下の世話までして看病に当たっている。もはや友と云う領域ではなく家族と言えた。

 

 だが、この後、もう二人側室が出来た時、さえの怒りは並大抵のものではなかった。それはまた後の話…。


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