天地燃ゆ   作:越路遼介

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外伝さえ 八【上杉攻め】

 柴田家の宿願であった加賀の国、新領主として迅速に民心の掌握を図らなければならない。当時すでに柴田家の内政官筆頭であった水沢隆広は鳥越城に城代として入城した。この鳥越城を本拠地として加賀の内政に励む。

 

 水沢家は当主隆広が大掛かりな内政主命を受けた時、兵は無論のこと、その家族まで現地に丸ごと移動すると云う形を執っている。今日で云う単身赴任を家臣に課し、その妻子に寂しい思いをさせないためである。もちろん彼自身がさえとすずから離れたくなかったからでもあろうが。

 

 鳥越城に到着して数日が経ち、生活にも慣れ出した。さえも城代夫人として水沢家を切り盛りしていた。女たちを束ねて給仕の指揮や、時に自ら先頭に立って田畑を耕す。良人隆広がやっていた。隆広は偉そうにふんぞり返ることもなく、土木作業に汗をかいた。上に立つ者が手本を示す、隆広はそれを実践しているのだ。水沢家の女衆に対してさえも同じことをしなければならない。侍女として厳しく仕込まれた経緯はあれど、野良仕事はまったく初めてだったさえ。いざ鍬を持った時、隣にいた伊呂波に

「ところで鍬ってどうやって使うの?」

 と、真顔で訊ねて周囲を爆笑の渦にしている。土木の達者である山崎俊永の娘だけあり伊呂波は心得たものだ。田畑に出るに相応しい野良着を着ている。さえは着物に前掛けをつけているだけ。

「奥方様、鍬の使い方より先に着物です。そんな身なりで田畑を耕せません」

「そ、それもそうね。あはは」

 

 歩行不自由なすず、それでも役に立ちたいと思い調理場に行き食材の下ごしらえなどを手伝っていた。

「すず様」

 水沢家の料理人筆頭の星岡茶之助がすずに碗を差し出した。

「これは?」

「殿の好きな大根の煮物です。食べてみますか?」

「まあ、いただきます」

 熱い大根を頬張るすず。

「美味しい…!」

「今度作り方を伝授いたしましょう。すず様、男心をくすぐるのは美味しい煮物にございますぞ。あっははは」

「ふふ、ありがとう茶之助殿」

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 毎日、戦場のような鳥越城だった。三成のもとには次々と報告が届き、隆広は地元加賀の豪農や土豪を訪ね歩き、各々が柴田寄りとなってもらうため交渉に当たっていた。一向宗門徒だった者もいたため、それらの交渉には困難を極めたが加賀のそういう有力者たちも織田に逆らうのは賢明ではないと分かっているので結局は柴田寄りとなることを了解している。

 

「では、さっそく柴田にご助力せんといけませんな。水沢様は今、鳥越城を拠点に加賀内政を行っているのでしたな」

 加賀南部の有力土豪の長、伊勢谷甚介が言った。元一向宗門徒であるが、加賀に入った本願寺の坊官の七里頼周の専横が目立っており、土豪や豪農に無理なお布施を強要していた。快く思っていなかったうえに兵として駆り出された。収穫期だから無理と拒絶したが聞き入れられず忍耐も限界であった。だが七里はその戦いにて柴田勢に討ち取られた。これ幸いと甚介は棄教してしまったのだ。門徒と言っても『元』の冠をつける。

 

「では当家から二百ばかり出しましょう。いかようにも使われるがよかろう」

「嬉しく思います。もう猫の手も借りたいほどで」

「ははは、そういえば水沢様は大聖寺の戦が初陣であったとか」

「そうです」

「私は敵方におりましたが…。いや、あの大声攻撃は見事でしたな。みんなあれで腰を退かせて逃げてしまいましたわ」

「あのときの戦で敵方に?」

「はい、お見込みの通り、渋々参戦していましたよ」

「柴田に…怨みはございませんか?」

「今日ここに来たのが柴田勝家か前田利家、佐々成政であったなら生かして帰さなかったでしょうな。いささか彼らはやりすぎた」

「……」

 加賀攻めのさい、甚介があげた将帥は門徒を大量に殺している。殺された者たちへ門徒同士と云う考えは甚介にないが同じ加賀の民である。甚介の怒りも当然であろう。

 

「柴田に怨みはある。しかしそれが乱世、我が祖先も加賀を治めていた富樫氏を滅ぼした一翼にございますからな。因果は巡ると云うことか」

「今後の仁政を見ていただくしかございません」

「いかにも、じっくり観察させてもらいましょう」

「しかし、その過程にも伊勢谷殿のような地方巧者が必要、お頼み申す」

「働きに対して正当に報いてくれれば、喜んで犬馬の労は執りましょう」

 

 かくして隆広は加賀中を奔走して民心掌握にかかった。その途中、供をしていた高橋紀茂が

「御大将、佐久間様は何をしてらっしゃるのでしょうか」

 元来国主は盛政ではないか、しかし隆広の前にも後にも土豪、豪農、豪商と接触した形跡がない。

「今は家中のことと金沢城のことで手が一杯なのだろう」

「さりとて、御大将が領民に頭を下げずとも」

「おいおい、頭を下げるのがそんなに変か?」

「は?」

「これから加賀の民には協力してもらわなければならない。年貢も出してもらわねばならない。助力を得るのに頭を垂れて頼むのは当然だ」

「御大将はもしかして大野内政の時にも」

「ああ、現場はそなたらに任せて大野の東西を奔走していたよ」

「そうでしたか…」

「『実るほど頭を垂れる稲穂かな』そなたもいずれそんな時が来よう」

「そんなに出世しないと」

「ははは、分からないぞ。さ、次の豪農、宮坂家に向かうぞ」

「はっ」

 

 民心掌握は内政で不可欠、隆広は根気ある交渉と同時進行で加賀の地に開墾と治水、道路拡張などを実施し領主柴田家としての姿勢を見せて行く。隆広は地道に続けて行った。隆広は生涯一度も一揆と部下の裏切りを経験したことがないと云う稀な大将である。為政者としての才覚と器量が備わったのは少年のころより、厳しい内政主命を経験し続けて行ったからだろう。勝家での元で内政官として身を粉にして働いてきた期間は得難い経験であったに違いない。

 

 しかし後年に名将の中の名将と呼ばれる彼もこの時は若かった。遅々として進まない治水工事に短気を起こして現場監督を叱りつけた時があった。『褒める時は衆目で、叱るときは陰で』その鉄則を忘れて衆目の前で叱った。鳥越城に戻り、経理担当に『なぜ、あんな簡単な工事にそんなに金がかかるのだ』と怒鳴ったことも。

 疲れて部屋に帰って来た時、さえに心配かけまいと無理して笑っている隆広。しかし女衆の繋がりを侮るなかれ。みんな耳に入ってきている。

 

「本日もお疲れさまでした、お前さま」

「うん」

 苦言をするには機を見極めなくてはならない。食事をしたあと、ふうと白湯を飲んでいる良人に向きあい、さえは言った。

「お前さま、ご主君勝家様は鬼だ閻魔だと恐れられておりますが…」

「え?」

「家臣を理不尽に怒鳴ったことはありましょうか」

「…なに」

「本日、四人の家臣を怒鳴ったと聞いています。昨日は二人、一昨日は三人」

「失敗すれば叱るのが当り前だろう」

「叱っているのではありません。お前さまは怒っているだけです」

「怒って何が悪い。俺は神様じゃないんだ!」

「もう一度主命の内容をお考えください。当人の器量を越えたものを望んではいませんか」

「上司はいつも無理を言う者と知れ!」

「すべてに適材適所は無理が当然です。ましてや柴田の気風は尚武、内政が苦手な者は多く、お前さまの苦労も分かります」

「…わ、分かっているじゃないか」

「だからこそ、お前さまの内政官としての器量が問われる時ではないですか。そして成果を出すには家臣たちの手助けは不可欠なものです。中にはお前さまの父親ほどの歳の方もいるのです。そんな方たちに恥をかかせてどうするのですか」

「恥…?」

「今日、衆目で治水方の松吉殿を叱ったと聞きました」

「う…」

「褒める時は衆目で、叱る時は陰で。疑ったら使うな、使ったら疑うな。これは上に立つ者の鉄則です。それを忘れてはなりません。お前さま」

 への字口をしている隆広。

「もういい、俺寝る!」

「はい、お休みなさいませ」

 

 クスッとさえは笑った。今の反応は隆広に自分の意見が伝わったと云うものだった。結婚して五年、そういう勘も働く。

 

 翌日より隆広は家臣や職人たちを怒鳴ることはなくなった。無論、明らかな怠惰なら叱ったが感情に任せて怒鳴ることはせず、加賀の豪農や土豪たちに根気よく当たったように家臣たちにも当たった。

 

 やがて治水方面はほぼ完了した。総奉行の辰五郎と共に工事完成の視察に訪れ、満足そうに笑みを浮かべた。兵と職人はホッと胸を撫で下ろした。

「松吉」

「へ、へい!」

 辰五郎率いる工兵隊の一人松吉を呼んだ。彼が治水の現場監督であった。さえの言う『隆広の父親ほどの歳』の男だ。

「よい仕事だ。いつぞやは済まなかった」

「は?」

「気が立っていたんだ。治水工事は天候にも左右されることを知っていながら…そなたを理不尽に、しかも衆目で怒鳴ってしまった。本当に済まない」

 素直に謝った。隆広の良い点は自身が当代屈指の知恵者にも関わらず人の話を聞き、過ちと分かれば誰であろうと素直に謝ったことだ。出来そうで出来ないこと。もっとも愛妻には時々素直になれない時もあるが。小姓の持つ袋を手に取った隆広。銭袋だった。

「よい出来栄えにつき臨時手当だ。お疲れ様、みなで一杯やるがいい」

「は、はい!」

「飲みすぎるなよ。そなたの一団にはもう次の仕事は決まっているからな」

 

 治水現場を去った隆広。横を歩く辰五郎が

「奥方に叱られましたかな」

「…かなわないな辰五郎には」

「とはいえ、謝るにも機が必要。ましてや殿のようなお立場では簡単に謝っては威厳が保てません」

「そうなんだ。頭を下げるくらいは何でもない。しかし機を見出すのは中々な。叱るのも褒めるのもまた難しい。人使いは大変だ」

「人使いは武将である以上、一生勉強にございます。今回の加賀内政でとくと学び下され。今のうちならば『まあ若いから』と家臣も寛大に受け取ってくれますゆえ」

「ああ、今のうちに失敗しておくよ」

「さて、次は鳶吉が担当している用水開拓でしたな。参りましょう」

「うん」

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 隆広に上杉家の『御館の乱』の情報がもたらされたのは、その夜のことだった。

 御館の乱、上杉謙信の死後に養子である上杉景勝と上杉景虎の間で起こった後継者争いの戦である。謙信は死に、上杉領に攻め入るのは絶好の好機。御館の乱そのものの決着は景勝の勝利ですでに終わっているが、遠からず信長から上杉攻めが柴田に下命されると思っていた隆広はその合戦の様子を藤林忍軍に内偵させていた。白、六郎、舞は他の主命で動いている。後に白の妻となる葉桜を始め数人の忍びが越後に潜み情報を集めていた。

 

 葉桜は景勝と景虎の争いの詳細を隆広に報告した。奥村助右衛門、前田慶次、石田三成も同席して聞いた。景勝側は謙信没した直後に春日山城を占拠した。これで謙信の残した膨大な金銀が景勝のものとなった。景虎は出しぬかれた形となった。

「その采配を執りしは樋口兼続と申す者」

 と、葉桜。

「樋口…?」

「存じている者ですか、隆広様」

 三成が訊ねた。

「新陰流を共に学んだ男に樋口姓の者がいる。彼は上杉家だった」

「ではその同門の男が」

「…それは分からない。俺の知る樋口与六は自分に厳しく他人に優しい男だった。新陰流の腕前は俺より数段も上、しかし人を打つのもためらう優しい男だ。その男が謙信公の喪も明けぬ時に上杉景虎を出し抜く采配を執ると…」

「そういう優しい男だからこそ、やったとも思えますぞ」

「ふむ…。慶次の言う通りかもな。後継者争いが長引き泥沼となれば越後の民は苦しむ。ならば自分が主君景勝の代わりに泥をかぶり機先を制して領内に安寧と秩序をもたらす、と云うわけか。しかし、その樋口兼続。俺の知る与六と同一人物か云々はともかく用心せねばなるまい」

「「はっ」」

「早晩、大殿から上杉を攻めよと云う下命はあるだろう。その樋口兼続が知略を縦横に駆使出来ない状態に今のうちからしておく」

「具体的には?」

 と、奥村助右衛門。

「安土にいる乱法師(森蘭丸)に使いを出せ。御館の乱は越後の内乱ゆえ勝っても領土は増えることはない。必ず論功行賞に不満を持つ者が出てくるだろう。大殿が上杉攻めを発する際、その不穏分子に織田の後ろ盾をチラつかせ謀反を起こさせ春日山に兵力分散を余儀なくさせるよう進言せよと伝えておく」

 名案だ、三成は思わず手を叩いた。

「まあ大殿自身、すでにこれに気づいて水面下でやっておられるかもしれないが、もしそうでないなら側近の乱法師に言ってもらうしかないからな。多少姑息な根回しであるが謙信公亡きとて上杉は上杉、打てる手は打っておく」

 

 隆広が気付くことを信長が気付かないわけがない。森蘭丸は隆広の使いに

『すでに実行中であるゆえ、水沢殿には懸念無用とお伝えあれ』

 と返している。

 

 話は戻り、鳥越城。

「葉桜」

「はい」

「鳥越から越中魚津に至るまでの地形を調べ上げておいてくれ」

「上杉の内偵はどうなさいます?」

「我らはここまで分かっただけでいい。今後は殿と大殿の密偵に任せよう。我ら水沢軍の進軍経路の把握の方が大事だ」

「承知しました」

「さあ、我らの今の仕事はあくまで加賀内政だ。明日からまた忙しい。たっぷり寝ておいてくれ」

「「はっ」」

 

 助右衛門たちは隆広の部屋をあとにした。しかし隆広には上杉より気になっていることがあった。明智光秀である。舞と柴舟は北ノ庄に留まり情報収集を務めており、白と六郎は明智家に侵入していた。

 

 今年の安土大評定、評定後に明智家の茶会に招待された隆広は光秀に違和感を覚えた。茶会のあとの夕餉。斉藤利三や明智秀満と歓談していた隆広。その時に利三が光秀に話題を振った。

 しかし光秀には聞こえておらず箸を握ったまま動かず、床を凝視したままだった。隆広が声をかけても同様だった。この時に隆広は家令の監物から聞かされたことを思い出した。

 

『義景様に謀反すると言われた時は驚きましたが、今にして思うと殿はずいぶんと前からそれをお考えになられていました。食事中に姫が話しかけても何の反応もなく、箸と碗を持ったまま、ただ床を眉間にしわ寄せて見つめておりました。あれはきっと謀反のことをずっと考えておられたのでしょう。人が重大事を考えている時は他のことなど耳や目にも入らぬものです』

 

 まさに安土で見た光秀がそれだった。隆広にとって朝倉景鏡の娘を妻にしたからこそ得られた知識。何が幸いするか分からない。『明智様は何か重大なことを考えている』と隆広は見抜いたのだ。

 明智光秀が考え込む重大事とは何かと隆広は消去法で割り出してみた。領国経営は上手くいっている。家臣団も強固な忠誠心を持っている。妻子とも仲が良い。では何だ。最後まで消去されなかった項目は信長の四国攻めに強く反対している光秀の心中だった。四国を切り取った長宗我部元親と織田家の折衝をしたのは光秀である。だが信長は切り取り次第と約束したのに突如それを反故にして四国攻めを決定した。光秀の面目は丸つぶれである。加えて武田攻めのあとの理不尽な仕打ち。

 

 謀反…。

 

 これしかないと思った。因果な性格、恩人を疑わなくてはならないとはと自身を呪いながら隆広は忍びに明智家の内偵を下命したのだ。

「まさかとは思うが…」

 しばらくして水沢家の加賀内政は達成となった。六郎から光秀の出雲と石見への国替えと上杉攻めが決定したと報告があったのはその日だった。主命達成の喜びもつかの間だった。妻子のいる部屋に行った隆広。

 

「さえ、鳥越の城は加賀国主である佐久間様の支城となる。我らは退去しなければならない」

「はい」

「俺は手勢を率いてこのまま東に行くが、そなたは殿への報告書を持たせた佐吉と共に北ノ庄に帰るといい」

「それはかまいませんが…お前さまはろくにお休みも…」

「仕方がない。今が上杉を攻める好機なんだから」

 苦笑してさえの前に座る隆広。

「この加賀内政、よくやってくれた。子育てに女衆の束ね、目が回るほどの忙しさだったろうに疲れた顔を見せず俺を癒してくれ、時に叱ってくれた。ありがとう」

「お前さま、そのお言葉は嬉しい限りなれど戦の前に言われては私も不安になります」

「なんでだ?」

「だって…」

 戦場に出る前に優しい言葉をかけられると逆に不安に、いや悲しくなる時もあるものだ。

「あはは、そんな深い意味はないよ。ありがたいと思うから礼を言っただけさ」

 さえの横でスヤスヤ眠っている息子の寝顔を見つめる隆広。

「竜之介、父が帰るまで母上を守るのだぞ」

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 翌日、三成の先導で水沢家の非戦闘員は北ノ庄へと帰っていった。そしてその翌朝、水沢軍は出陣した。二千の軍勢である。越中と加賀の境あたりで柴田本隊と合流し北陸街道を東進した。

 

 織田北陸部隊が総力を挙げて挑んだ上杉攻め。智将隆広の采配が冴えわたり上杉軍を翻弄。アッと云う間に越後と越中の国境付近である魚津城に寄せた。また御館の乱の論功行賞の不満から新発田重家が反乱して景勝を悩ませた。重家は豪勇の猛将である。織田の後ろ盾を得て同じく景勝に不満を持つ者を取り込んで勢力を広げて行った。同時に関東の滝川一益と信濃の森長可が越後に迫る。直江姓となった景勝の懐刀である直江兼続も知恵を絞るが、あまりにも状況が悪すぎた。

 

「愚かなり重家…。織田に踊らされているとも知らずに…」

 吐き捨てるように言う景勝。

「新発田殿の反乱、織田にとっては成功する必要もございません。ただ主力を春日山に留めておくための策」

 と、兼続。

「魚津では城代の吉江宗信と阿部政吉が踏ん張り、織田勢をしのいでいると聞くが…もはや落城は免れまい」

「…は」

「このままでは全員討ち死に。兼続、無念であるが吉江たちに降伏させようと思う」

「吉江様は謙信公以来の古強者、敵に屈するのを是といたしますまい」

「だが、このままでは無駄死にじゃ」

「確かに…」

「織田方の大将は柴田勝家であったな」

「はい」

「その軍師があの手取川の水沢隆広か…」

「何度も降伏勧告をしてきているそうですが…」

 

 

 城を包囲して数通目の書が魚津城に投げ込まれた。柴田軍軍師、水沢隆広の書である。

『見ての通り、退路を東に用意したゆえ、降伏しないなら逃げられよ。追撃はしない』

 

「なめられたもんじゃのう!」

 吉江宗信は書を丸めて地に投げ捨てた。その書を広げて読んでみた阿部政吉。

「何度見ても、まれなる達筆ですな…」

「のんきなことを言うな政吉!」

「水沢隆広とは、あの手取川で謙信公に信玄のいでたちで突撃したと云う…」

「そうじゃ、儂も度肝を抜かれたわ。敵ながら見事な若者と思ったが買いかぶりだったようじゃ。かような武人の心を知らぬ書を敵方によこすとはな!」

「返事はどうしますか」

「必要ない!」

 

 魚津城から返事はない。うすうす予想はしていた反応だった。水沢本陣、床几に座り魚津城を見つめる隆広。

「おそらく武人の心を知らぬとでも隆広様を謗っていましょうな」

 傍らの床几に座る奥村助右衛門が言った。

「だろうな。だが、その武人の心とやらが無用に兵を死なせる」

「『討ち取った敵将の首を誇るより、無事に帰した兵の家族の笑顔こそ誇れ』養父殿の言葉でしたな」

「うむ…」

「それを分かっていても退くわけにはいかない。それが上杉なのでしょうな…」

「ともあれ東の退路を使い落ちる者に手出しは絶対にさせぬよう徹底させよう。改めて本陣に言ってくる」

 

 しばらくして上杉景勝と直江兼続が援軍として寄せてきた。兵数は三千、柴田勢に寄せた。柴田勢を撃破しない限り、景勝率いる援軍が魚津城兵を助けることは出来ない。およそ十倍の兵力を有する柴田軍だが、景勝率いると云うことは上杉でもっとも強い軍勢と云うことである。隆広は

「城兵は千五百、援兵は三千、挟撃策は取れず景勝殿ができることは柴田から部隊を突出させて各個撃破することのみです。どのみち景勝殿は森勢と滝川勢の北上によって春日山に戻らなければならないのですから、いま精強の上杉本隊と戦って危ない橋を渡る必要はございません。ほっておいても帰る上杉景勝本隊は無視しましょう」

 

 その意見を入れた勝家は自軍の陣の周りに空堀と防柵を張り巡らせた。上杉兵は十倍の兵を要しながら我ら上杉を恐れる腰抜けの柴田勝家と揶揄したが、勝家は無視した。

 

 櫓のうえで景勝と兼続は歯ぎしりをしていた。隆広の見た通り、景勝率いる援軍は柴田から部隊を突出させ各個撃破して行くしかないのだ。それなのに柴田勢は魚津城を見据えたままで、景勝側には強固な陣構えで備えられている。

「ほっておいても退却して行く軍など戦うにも値せずとも言うのか!」

 櫓の柱に拳を撃ちつける景勝。

「あの野郎…!こっちがやられて一番痛いことをしてきやがった!」

 遠めに見える歩の一文字の軍旗を睨む兼続。上杉本隊を無視することを立案した男はきっとあいつだ。侮ってではない。恐ろしいから無視をするのだ。やがて景勝に時間切れが訪れた。景勝と兼続は後ろ髪退かれる思いで退却した。

 

 景勝は退却のおり、特に優れた軒猿忍びに書を持たせて魚津に忍びこませた。それには柴田に降伏開城し、一時の恥をしのび越後に戻ってこいと云う内容だった。

 景勝からの書を読み慟哭した魚津の将たち。降伏開城を決意した。生き残っていた兵やその家族たちが柴田軍の用意してあった退路で越後へと逃げて行く。手出しせぬよう勝家がきつく通達していたのだ。しかし城代の吉江宗信や中条景泰、竹俣慶綱、阿部政吉と云った守将たちは自刃して果てたのだった。

(史実では降伏開城と同時に柴田軍が魚津城内に押し寄せ、皆殺しとなっている)

 

 

 だが、この時に中央では歴史的大事件が起きていた。織田信長が明智光秀の謀反によって討ち死にしていたのである。隆広の危惧は的中してしまったのだ。

 

 北ノ庄城、水沢家。

「奥方様!」

 三成家臣の渡辺新之丞が来た。すぐに玄関に出たさえ。

「新之丞殿、どうされた?」

「大殿、織田信長様が京都本能寺において明智光秀の謀反によって討たれました!」

「ええ!?」

「ご主君様(隆広)より我が主三成は中央に異変あらば、すぐに北陸街道に撤退の準備を整えておくよう指示されておりますゆえ、北ノ庄を発つ準備をしておいでです。持ち場を離れられないゆえ、家臣のそれがしが伝達に参りました」

「信長公が明智殿に討たれたのですか…」

「その通りです。ご主君様は薄々こうなることを感じていたようにございます」

「あの人が…」

「すぐに魚津から総退陣なさいましょう。それがしは主君三成の補佐がござれば、ここはこれにて」

「委細承知しました。三成殿には存分にお働きあるよう伝えて下さい」

「はっ」

 

 新之丞は水沢屋敷を去っていった。

「伯母上…。信長公が亡くなった今、我ら柴田はどうなるのでしょうか」

「姫様、新之丞殿の話では殿はこの事件が起こることを薄々気づいていたとのこと。姫の前では笊の頭でも敵に対しては諸葛孔明のような智慧を発揮される方、事件を察していたならば、必ず何か手を打っているはずです」

「織田信長の死…。我らにとって吉か、それとも凶か…」


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