天地燃ゆ   作:越路遼介

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外伝さえ 十【出生秘話】

 上杉景勝から届けられた反感状。さしもの隆広も初めてもらった書である。敵軍の士の武功を記す反感状。景勝ほどの者から贈られれば隆広も嬉しい。微笑み読んで、照れくさそうに頬を掻いている。何度も読み返している。よっぽど嬉しかったようだ。

 

「嬉しいみたいですね。反感状」

 さえが言った。

「そりゃ嬉しいさ。敵軍から称賛を受けるのは武士の誉れだからな」

「ふふっ、ところでお前さま、昼ご飯を終えたら私とお福は市場に出かけてきます」

「そうか」

「お前さまも一緒にどうです?」

「え?」

「当家に女童の着物や日用品なんてありませんから買いに行かないと」

「俺も行くのか?」

「はい、途中に福が疲れたらおんぶしてあげて下さい。私では無理ですから」

「わ、分かったよ」

 

 かくして隆広とさえ、そしてお福は城下に買い物に出た。さえはお福と手を繋いでいる。

 いつの時代も妻と娘の買い物に付き合わされるのは疲れるものだ。北ノ庄の城下町は楽市も導入されているので栄えている。坂本の城下町も栄えていたが光秀の謀反以降は寂れている。お福は賑やかな北ノ庄の城下町をキョロキョロして歩いた。掘割と云う仕組みが成され、城下町の中に大きな用水路が流れ、船で荷や人を運んでいる。それを珍しそうに見つめるお福。

 

「あれは掘割と云うのよ。あのお船は高瀬舟」

 さえが説明した。

「ほりわり、たかせぶね」

「そう、北陸に流れる大きな川、九頭竜川とあの用水路は繋がっていて人と荷物を運んでお城や商家に運ぶの。これが出来てから北ノ庄の人々は大変便利になって喜んでいるのよ」

「ふうん」

 あえて、隆広がやった仕事とは言わないさえだった。

 

「これから行く呉服屋さんも、この掘割で良い着物を越前国内や加賀、若狭、丹波、京都から仕入れているの。だからお福の気に入る着物もたくさんあるわ。我が家にはお福の着物が一枚も無いのだから好きなの選んでいいわよ」

「どれでもいいです」

 無愛想に返すお福。安堵を与えてくれたとはいえ、まだ水沢家に来て二日。そう心開かないのも無理はない。しかし、さえは特に気にしない。分かっている反応だった。

 

「じゃあ母の私が選んでいいかな」

「……」

「お福はね、薄い黄色の着物がきっと似合うわよ」

 呉服屋に着き、お福の手を引いて店内に入ったさえ。

 

「これは水沢家の奥方様、今日は何が入りようで」

 店主が出てきた。

「これは何とも可愛らしい娘さんですな。奥方の妹さんで?」

「娘なの」

「ほえ、ずいぶんと若いお母さんだ」

 福は右手に父の利三からもらった毬を大切に持ったまま黙っていた。

 

「お福」

 隆広が呉服屋で巾着袋を見つけ、それをお福に見せた。

「…?」

「その毬、いつも手に持っていては手からこぼれ、毬を追って道を渡れば荷台や馬に当たり、時には怪我で済まない時もある。これに入れておきなさい」

 よく見ればお福の持っている毬と同じような柄のものだ。偶然とはいえよく見つけたと感心するさえ。

「いつも手に持っていたいんです」

「気持ちは分かるが、それでは手脂で汚れるし、水たまりに落としてしまったらどうする?」

 お福の視線に腰を落としてにこりと笑う隆広。

「……」

「ほら、この袋もおしゃれでお福に似合うぞ」

 顔を赤くしながら巾着袋を受け取るお福。

 

「店主、いくらだ?」

「ああ、お前さま、いいですよ。他の着物と一緒にお勘定しますから」

 その巾着袋で少し緊張が解けたか、お福はさえにあの着物がいい、この着物がいいと娘らしく父母にねだった。髪飾りなども置いてあるので、それを隆広がとって付けさせてみる。

「お福、とても似合うぞ」

「本当、これも買いましょう」

 娘を持ってまだ二日目の夫婦、お福が可愛くてたまらないのか、まさに蝶よ花よだ。これは良い客だと思ったか、店主が

「そうだ、娘さんにピッタリの小袖がありますよ!」

 と、奥から出してきた。薄い黄色の小袖で派手すぎず、童らしく慎ましい花々が刺繍されている小袖だった。寸法もお福と合っている。お福もそれを見て

「わあ、きれい」

「本当にきれいね。お福、気に入った?」

「はい」

「じゃあその小袖と、あとさっきこの子が選んだ着物を全部下さい」

「毎度ありい!」

「しかしホントに美しい小袖だな。店主、なんで奥に引っ込めておいたんだ?」

「いや実は城の江与姫様のためにお市様から注文を受けた小袖なんですが、完成した日が本能寺の変の日でございましてね。織田の娘が纏うに不吉と言われて代金は下さいましたが着物は受け取ってもらえなかったのですよ」

「なるほど、では本来は江与姫様が着ていたかもしれないということか。どうりで上品でありながら可愛らしい」

 

 しかしお福はそれを聞くや

「柴田の姫のお下がりなんて嫌です」

 と、拗ね出した。店主が困ったように説明。

「お下がりじゃありませんよ。江与姫様は袖を通していませんから」

「嫌なものは嫌!」

 お福はプイと店を飛び出していく。頭を掻く店主。

「ありゃりゃ…。難しい年頃ですなぁ」

「そうなんだ。だからかわいい」

「はは、確かに」

「さえ、俺はお福を追いかけるから勘定を頼む。今の小袖も買っておいてくれ」

「はい」

 

 店先に拗ねた顔で立っていたお福。お福の視線に腰を下ろす隆広。

「はは、でも巾着袋は気に入ってくれたみたいだな、お福」

 小さく頷くお福。

「あれでいいんだ。嫌なものは嫌と言う娘でいい」

「え…」

 

 しばらくして、大なり小なりの袋を持ってさえが出てきた。

「手伝って、お福~」

「は、はい!」

 袋を抱きしめるように受け取ったお福。隆広も袋を持った。

「気がつけば、ずいぶんと買ったな」

「ええ、もう寝間着やら浴衣やら、その他もろもろ」

「浴衣か、お福にきっと似合うだろうな」

「福は、お人形さんじゃありません」

「あらあら、お福、お人形さんはそんなかわいい脹れっ面はしませんよ。ふふっ」

「そ、そんなことじゃ…」

 

 その後もお福の枕とか、とにかくお福が日常使う物を買いまくり、持って帰れなくなった。市場の者が『明日、まとめてお屋敷に届けますよ』と言っていると隆広の家臣である松山矩久、高崎次郎、白がその場を通りかかった。三人は飲み屋に向かっていたらしいが捕まってしまい、思わぬ荷物持ちをさせられるハメとなった。

 隆広は遠慮を申し出たが、さえに遠まわしに頼まれて断るに断れなかったらしい。

 

「ごめんなさい、今日にでも着させてあげたいものや使わせてあげたいものがあって」

「い、いや良いんですよ奥方様。ははは…」

 大きな袋を持ちながら笑顔が引きつっている矩久。

「すまんな白」

「いえいえ」

「ちぇ、俺も飲みに行きたいよ…」

「ははは、しかし殿、お福殿の寝顔はかわいいですな」

 と、高崎次郎が言った。お福は疲れてすでにスヤスヤと隆広の背で眠っていた。

「うん、娘っていいもんだな。本当にかわいいよ」

 

 

 帰宅して目が覚めたお福。さっそく買ってきた着物を着た。本来は江与が着るはずだった着物。

「わあ、かわいらしい。よく似合うわよ、お福」

 満面の笑みで言うさえに顔を赤くしたお福。

「本当によくお似合いですよ」

 侍女の千枝も褒めた。おせじではなく本当に似合っている。

 後年に長宗我部信親の正室となるお福だが、信親が『土佐一番の美女』と言って憚らなかったのを鑑みて、幼年のころから見目麗しい美少女だったのだろう。すっかりその気になって体を回して毬の入った巾着袋を可愛らしく振るお福。やはり女の子だ。

 

「ありがとう、お福、この着物大事にします!」

 あえて隆広はその場にいなかった。警戒する自分がいては、せっかくの着物を着ても気持ちを正直に出さないかもしれない。まずはさえが母親と思われればいい。離れた部屋からはお福の喜ぶ声が聞こえてくる。今はこれだけ聞ければ十分と思った隆広だった。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 さて、水沢隆広は明智攻めの武功で朝廷から正式に官位を得ている。従五位下美濃守、隆広が智慧美濃と呼ばれるのもこのころからである。

 

 隆広は勝家の指示で上杉家と和睦すべく越後の春日山城に訪れた。そこで旧友の直江兼続と再会した。当主景勝のいる評定の間に隆広を案内する兼続。

 

「竜之介」

「何だ」

「魚津を攻めし時、主君景勝率いる援軍に対し、陣固めさせ寄せる我らを無視するよう修理亮殿(勝家)に進言したのはお前か」

「…ああ、確かに俺だ」

「良ければ理由を聞かせてくれないか」

 

 廊下で立ち止まり、隆広を見つめる兼続。幼馴染、かつ使者であっても返答によっては上杉将士の誇りを傷つけた者として許す気はない。

「我ら上杉将士の中で豪勇を誇る将が陣の前で名乗りを上げて一騎打ちを挑んでも、柴田軍から帰ってきた返事は鉄砲の弾のみ。これは戦陣の作法に背くこと由々しきことではないのか」

 前田慶次が兼続の殺気を読み、隆広の前に立とうとしたが隆広は慶次を止め、そして答えた。

「『どんな武辺の者が名乗りを上げても無視をせよ。鉄砲の号砲こそが織田の名乗りぞ』亡き織田信長公が長篠の戦いで家臣に言った言葉だ」

「それがどうしたのか」

「与六、我ら織田の兵は弱い」

「な、なに?」

 

 唖然とする兼続、一緒にいた兼続の弟、小国実頼もあっけにとられた。

 どこに自軍の兵を弱いと公言はばからない将がいるか。

 しかも言っている相手はつい最近まで矛を交えた上杉勢の家老にである。

 

「濃尾は農業に向いている肥えた土地で、商業も発展している。織田の兵は恵まれた場所で育った。反して上杉の者は幼年からやせ地を耕し、大雪に揉まれている。そんな越後の精兵に正面から当たっても勝てない。だから弱いなりに工夫するしかなかった。兵と農民を分けて常時戦える仕組みを作り、兵数を要し、かつ鉄砲を多く持ち戦うしかない。そういうことだ」

「…天下の軍も内実は大変だったということか?」

「それに加えて上杉の取り巻く情勢をつぶさに調べておいた。景勝殿が遠からず引き上げざるを得ないことは分かっていたこと。ほっておいても戦場離脱する精強な軍と戦う必要はない。ゆえに失礼なれど無視と云う形を執った」

「…敵を知り、己を知れば百戦して危うからず。戦わずして勝つ。長庵禅師様の教えを思い出すな」

「『越前を留守にした柴田に変わり、越前国内の治安のために睨みを利かせる。さすれば柴田勝家は越中と能登を上杉に返すであろう』それを景勝殿に進言したのは与六、お前か」

「そうだ、中々の『戦わずして勝つ』であったろう?」

「はは、確かに主君勝家の性格を突いた策だ」

「とにかく希望以上の話は聞けた。ついてこい、主君景勝に会わせよう」

 

 その後に水沢隆広と上杉景勝が対面し、上杉家と柴田家の和睦が成立した。

 これよりしばらくして、この和議締結は強固な同盟に発展しているが勝家の代では実現せず、その後を継いだ柴田明家の時に実現している。

 

 

 柴田家と上杉家の和議もまとめ、前田利家と共に清州城で行われる会議のために動き出した。そんなころ北ノ庄城、お市が勝家に真剣な面持ちで話を切り出した。

「殿、聴いていただきたい願いがございます」

「聞かずとも分かる。隆広に母の名乗りをしたいと云うのだろう」

「はい…」

「もはや止めぬ。名乗るがよい。儂もその際に父と名乗ろう」

「ああ、やっと!やっとあの子を抱きしめられるのですね!」

「あ…」

「え?」

「すまん、お市。いま隆広は清州に又佐(利家)と共に出向している」

「ええ…っ」

「そんながっかりとした顔をするな。会議が終わればすぐに戻るゆえ」

「もう一刻も早く母と名乗りたいのです!殿もしばらくすれば清州に行くのですよね?」

「ああ、そうだが」

「ならば私も行きます!」

「まあ、よかろう。久しぶりに清州に行くのも悪くなかろうからな。ただし会議の場に出てくるでないぞ」

「心得ています」

 

 後継者に織田信孝を推すのが勝家の意思。隆広はその根回しに追われた。すでに丹羽長秀を味方に付けていたが、念を押して池田恒興にも勝家寄りを要望し、恒興は了承。会議後に信長と信忠の葬儀も行うと勝家は言っていたので、すでに大徳寺の方にも隆広は使者を送り日取りを講じていた。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 良人隆広が清洲会議に出かけている時、一方のさえはと云うと

「あの人が安土築城に?」

 吉村直賢が訪ねてきてさえに報告した。

 

「はい、大殿様(勝家)より安土普請の資金を出してほしいと言われたので。それで普請奉行は誰にするのですかと間うと、殿にするつもりだそうです」

 安土城は本能寺の変のあとに明智秀満が入り、秀満が退去したあとは織田信雄が入ったものの突如大火に包まれ炎上してしまった。今は焼け野原だが石垣や基礎はまだ十分使える。明智光秀を討ち、主君信長の仇をとった勝家は織田家中で一番の発言力を持つ。そのまま安土の跡地を柴田のものにするに否など言わせない。新しい安土の城を作り中央に進出するつもりだ。

 

「またあの人と離れ離れに…」

 良人が大仕事を得たのに最初に出るのがそれか。直賢は苦笑した。

「いや姫様、殿が大掛かりな内政主命を得たら、水沢家はすべて移動する仕組みを取っているのはご承知でしょう」

「それはもちろん。でも今はまだ安土は焼け野原、私たちが行けるのは殿たちよりずっと後じゃないですか」

「まあ、そうでしょうな。まずは安土より水沢将兵と人足たちの家々を作らなければなりませんから」

「家老になったあの人、最初は私も大喜びしちゃいましたが、偉くなればなるほど私といる時間が減ってしまいます。出世も考えものです」

「ははは、いつまでも殿と姫は新婚さんのようですな」

「はい、白髪が生えても心は新妻ですから」

 

 清洲会議が終わって隆広が北ノ庄城に帰ってきた。さえとすず、そしてお福や竜之介も出迎える。相変わらずお福はふて腐れたような出迎えようであるが、最近はそんな素振りが可愛く見える隆広だった。そんなお福を抱き上げ、そして竜之介も抱きしめる。柴田家のご家老様も家に帰れば子煩脳なただの父親だ。

 

 水沢家の夕餉はにぎやかだ。家長の隆広を中心にさえ、すず、監物、八重、お福、竜之介と七人で食べる。笑い声が絶えない楽しい夕餉。お福も遠慮などせずおかわりを頼む。一度は天涯孤独となった隆広とさえにとっては本当に幸せな時間だ。

 

 

 その夜、隆広はさえ、すず、監物、八重を白分の部屋に呼んだ。

「殿、みんな揃いました。お話とは何でしょう」

 と、さえ。これから隆広から発せられる言菓はあまりに衝撃的なことであった。隆広も緊張した面持ちである。

「みんな、落ち着いて聞いてほしい。今から話すことはみんなからすれば、到底信じられないことかもしれないが、すべて事実である」

 

 真剣な良人の面もちに戸惑いながら、さえ

「な、何ですか殿、改まって」

 隆広は一つ咳払いをして言った。

「俺の実の父母が分かった」

 さえたちは驚き、そしてさえが祝福した。

「それは!殿おめでとうございまする!」

「何とも朗報じゃあ!すぐにこちらにお招きせんと!」

「本当に」

 監物と八重も嬉しそうだ。そしてすずが

「それで殿、どちらのお方にございますか?」

「父の名は柴田勝家、母の名はお市」

「…は?」

 すずはもちろん、さえ、監物、八重も隆広が何を言っているのか分からなかった。問い直すさえ

「殿、すいません、もう一度言っていただきますか?」

「だから…父の名は柴田勝家、母の名はお市、そう言ったんだ」

 

 ようやく意味が掴めた四人。

「と、殿、ご冗談が過ぎますよ」

 さえが言うと

「いや、事実なんだ。順を追って説明する」

 隆広は清洲会議での出来事を家族に話した。お市が浅井長政に嫁ぐ前、君臣の間ながら互いに想っていた勝家とお市が一夜だけ結ばれたと。その時にお市の胎内に生を宿したのが自分で、兄の信長に露見することを恐れたお市は信長正室の帰蝶姫を経て、斉藤家の名将である水沢隆家に養育を託したのだと。

 

 そして清洲会議、織田家の幹部居並ぶ中、お市が水沢隆広は自分と勝家の息子であると明言、勝家もまた儂がそなたの実父であると明かした。ことが落ち着き次第、正式に息子として迎えると勝家が言ったこと。すべて話した。さえたちは、ただ呆然として隆広の言葉を聞いた。

 

「そ、それじゃ殿は柴田の嫡男、お世継ぎに?」

 と、監物。

「そんなのは分からない。養子の勝豊様や勝政様もいらっしゃるし、何より殿も『あくまで家老、若殿ではない』と言っておられる。とにかくさえ」

「は、はい」

「俺が殿の実子ということが無用に広まれば柴田家に混乱が生じる。俺も家族のそなたら以外に話すつもりはない。殿の言うように俺は柴田家の家老だ。それ以上でもそれ以下でもない。そなたらもそのつもりでいてくれ」

「「はっ…」」

「うん、なおすでに存じていると思うが、俺は新たな安土築城を仰せつかった。現地は焼け野原、家がないから一緒には行けない。最初は兵と人足だけ連れていく。おって迎えにこさせるゆえ、待っていてほしい」

「分かりました」

「今日のところ話は終わりだ。風呂にする」

「用意できております」

「うん、さえその後に」

「はい、寝所に参ります(ポッ)」

 

 隆広は湯殿へと歩いていった。まだ半ば信じられない気持ちのさえたち。

「まさか殿が大殿様の実の息子なんて…」

 驚きを隠せないさえ。

「しかし、ならば何故、奥方様(お市)は私を大事な息子の使用人にしたのだろう。私は、私は…」

 朝倉景鏡の娘なのに。そう思った。

 たとえ使用人とはいえ年頃の男女が一つ屋根の下に住むのだ。主従ではなく男女の仲に、やがては夫婦と云うことも考えられたはず。裏切り者の娘が息子の妻になるかもしれなかったのに。さえの顔からそんな考えを見抜いたか、八重が

「あの織田信長は生まれや身分を度外視した人材登用をされました。妹のお市様もまたそうなのでしょう。たとえ父にどれだけの汚名があろうと娘には関係ない。家の滅亡、父の非業の死、そんな艱難辛苦を経てきた姫様には器量があると見て、やがて大事な息子の妻になってほしいと思い、そういう人事をしたのではないかと」

「伯母上…」

「当主が代わり、織田家も柴田家も大変な時、お市様の見込んだ嫁の手腕見せるのは今ですよ」

「うん、私やるわ。さあ明日から安土築城の準備ですよ」

「「はっ」」

「でも」

「なに?すず」

「殿の顔がお父上似でなくて良かったです」

 ドッと笑ったさえたち。確かに母親お市の美貌がそのまま男になったと言えるほど整った顔立ちの隆広である。鬼や閻魔と呼ばれる勝家の顔とはほど遠い。

「あっははは!すずったら大殿様に怒られるわよ、そんなこと言っちゃ!あはは!」

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 以後、公式発表があるまでは水沢家でも秘事とされた隆広の出生。

 しかしお市が織田家幹部の居並んだ中で明言したのだ。自然とそれは流布されていく。元気でいるとは云え勝家は還暦を越した老体。いつ何があるかわからない。柴田家の行く末を案じていた者たちにとって実は優れた嫡男がいたと云うのは朗報だった。若殿としての出発ではなく、下っ端武将から自力で家老に上り詰めた隆広の足跡がここで生きてきた。無論、一部を除いてではあるが。

 

 柴田勝豊は水沢隆広が養父勝家の実子と聞き呆然とした。長浜の城を得た喜びもどこかに飛んでしまった。これで柴田の家督を継ぐのは絶望的と思えた。

 

 反して同じ養子の柴田勝政はそれを聞くや

『それはめでたい。美濃ならば柴田の舵取りも立派にやれよう』

 と、次代当主の隆広を認めていた。勝政は佐久間盛政の実弟で武勇に優れていた。それが勝家に気に入られて佐久間家から勝家の養子となっていたが、武勇だけではなく居城の越前勝山城では善政をしいている名君でもあった。

 

 それに一役買ったのが隆広である。隆広が勝家の伝言を持って勝山城に訪れた時があった。しかし勝政は留守で翌日に戻ると云うことだった。仕方なく城下の宿に一泊しようと向かっていたところ、城下町のはずれに隆広はふと立ち止まった。そこは小川が流れる雑草地帯だった。

『なんともったいない。この雪解け水を用水とすれば多くの水田を作ることができるのに』

 と、両手の指で枠を作り、構図を練り帳面に水田開発の工法の手段を箇条書きにし、絵図面も描いた。自分ならこうすると常日頃から向学心旺盛な隆広だった。

 そこにたまたま老僕を連れた勝政の妻が通りかかり、隆広に何をしているのか訊ねた。隆広は勝政の妻と知らぬまま、自分がしていたことを説明した。勝政の妻が帳面に書いたものを欲したので、隆広はそれを渡して宿へ去っていった。

 

 勝政の妻は机上の空論ではないと思い、その書を勝政に提出。その新田開発案に勝政は大変喜んだ。その案を出したのが水沢隆広と勝政が知るのはしばらく後であるが、当時の隆広はまだ足軽組頭で仕官したてである。

 勝政は『父上も何とも大した若者を登用したもの』と誉めて、実兄の佐久間盛政が隆広を嫌おうとも勝政は隆広を高く評価して認めていた。勝政と隆広は親しかった。伊丹攻めの時も総大将に隆広が就いたことに不平漏らす兄の盛政に『備大将が総大将を軽んじれば勝てる戦も勝てなくなりますぞ』と諫めている。

 

 後日談となるが、勝政は隆広が絵図面を描いた雑草地域を見事に美田としている。今もその田は現存して実りをもたらし勝政は今も勝山で慕われている。また勝政の妻は勝政亡き後に隆広の勧めで再婚し、勝政の二人の息子は隆広嫡男の柴田勝明に仕えることとなる。

 

 勝政があっさりと隆広の次代当主を認めたと聞いた勝豊は

『あいつは腑抜けよ、いやしくも戦国に生を受けながら大名への野心がない。あんな者を俺より重用する父上も見る目がない』

 と、吐き捨てた。勝豊と勝政は大変仲が悪く、勝家も勝豊ではなく勝政の方を何かと用いていた。それが後の柴田勝豊が柴田家を裏切る要因ともなったかもしれない。

 

 

 隆広が安土に向けて出発する時が来た。隆広の屋敷に前髪のある少年がやってきた。

「殿!朝にございます、いざ安土に!」

 すでに甲冑を着て、出かける準備を終えていた隆広は

「お、さっそく迎えに来たか」

「殿、誰なんです?聞きなれない声でしたが」

 さえが訊ねた。

「殿の肝いりで当家に召し抱えた大野貫一郎(後の治長)と云う少年だ。前々から見所があると思っていたが、何とも運のいいことに俺に仕えてくれることになったんだ」

「まあ、それなら私が出迎えなければ」

 

 さえが玄関に行くと、凛々しい少年が立っていた。前髪があり、まだ元服前の少年。なかなかの美童である。

「水沢の室、さえです」

「奥方様ですか!私は大野貫一郎と申します」

 律儀に折り膝してさえに頭を垂れる貫一郎。

「貫一郎殿、良人は知将だのと色々と持ち上げられていますが、それは家臣の助力あってのこと。良人の助けになって下さいね」

「はい!がんばります!」

「しばらくお待ちを、もう軍装は終えていますから」

「はい!」

 

 そんなに大きい声で返事せずとも聞こえるのに、と、さえが苦笑していると

「貫一郎、出迎えご苦労」

 甲冑の音を鳴らして隆広が来た。すずも手すりに掴まりながら一緒にいる。再び頭を垂れる貫一郎。

「殿、おはようございます」

(うわあ、正室側室とも美人だなあ…)

「すず、しばらく会えないが出産までは安土に呼べると思う。お腹の子と共に、そなた自身も体調には気をつけるのだぞ」

「はい、殿」

 左右の頬を付け合うすずと隆広。人前でも平気で嫁とイチャつくと噂には聞いていたが貫一郎は目のやり場に困る。

「さえ」

「はい」

 さえとは口づけである。独り者の貫一郎には目の毒だ。

「さて、参るぞ貫一郎」

「はい!」

 家族が見送る中、馬に乗る隆広、その轡を取る貫一郎。水沢軍が集まっている北ノ庄城の練兵場へと向かった。

 

「私には目の毒です」

「お前も早く嫁をもらえばいいではないか。いいものだぞ」

 後に隆広の妹を妻にするとは想像もしていない貫一郎だった。

 隆広と貫一郎の姿が見えなくなるまで見送っていたさえとすず。すずがさえの横顔を見ると、さえの顔は少し晴れない。またしばらく隆広と離れるのが寂しいのだろう、と、すずは思っていたのだが

 

「何か不安です」

「なにがです?さえ様」

「大殿様はご自身の知恵袋を遠方に出してしまいました。羽柴様が何をしでかすか分からない状況だと云うのに」

「…確かに言われてみれば。元々殿は領地ではなく金銭で厚遇を受けておられた方です。それはいつも主君についていなければならないと云うお役目ゆえ」

「そうです。加賀内政にしたって北ノ庄に何かあればすぐに戻ってこられました。逆もまた然り。相互に行き来はそんなに難しくはありませんでした。でも安土と北ノ庄ではそうはいかない。もし羽柴様が越前の冬を待っていて、柴田軍が動けない時に播磨から安土に寄せてきたら殿は孤立無援です。女が口を出すことではないかもしれませんが何か不安で…」

 

 さえの予言は的中することになる。水沢隆広、生涯ただ一度の籠城戦となる安土城攻防戦、さえにとってもそれは最初で最後の籠城戦である。


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