天地燃ゆ   作:越路遼介

165 / 176
外伝さえ 十一【安土城の戦い】前編

 安土城の焼け跡に到着した隆広、工兵隊頭領の辰五郎を伴い、安土山や琵琶湖畔の地形を調べるため馬でゆっくりと回った。

 

「匠聖、岡部又右衛門の作りし城も短命でございましたな…」

 と、辰五郎。

「ふむ…。今ごろあの世で悔しがっているだろうな。心血注いだ城が火に包まれアッと云う間だ」

 馬を止めて絵図を描く隆広。隣に来て覗く辰五郎。

「なるほど、橋は一か所のみですか」

「ああ、大殿は五箇所も架橋したがな。新たな安土は一つでいい。貫一郎、新しい紙を」

「はっ」

 新たな紙を画盤につける。もう十枚以上書いている。隆広がおおむねの形を決めて辰五郎たちが築いていく。これが水沢の土木である。

 

「しかし石垣が丸々残っているのは僥倖でしたな。城壁もそんなに破壊されていないですし」

「ああ、土台が出来ているのは大きいぞ。それと辰五郎」

「はっ」

「大殿は畳も襖も一級の職人を雇って安土を築いたが、俺はそんな資金の無駄遣いをする気はない。とはいえ、必要だと思う職人はそなたの判断でどんどん雇っていい。給金は水沢家で出す」

「分かりました」

「辰五郎、今まで城の増改築と砦の建築くらいであったが、ここまでの城を振り出しから作るのは我らも初めてだ。頼りにしているぞ」

「お任せを」

「まずは我らの住まいから作らないとなぁ…。女房子供を迎えられない」

 

 それからしばらくして北ノ庄にいるさえやすずのもとに迎えが来た。すでに荷造りは終えて待っていた水沢家の面々。当初すずは北ノ庄で子を生んでから安土に行く気であったが、さえは歩行不自由で、かつ身重のすずの体に触らないよう横になって行ける輿を作らせておいた。さえ自身もすでに腹が膨れているので二台ある。

「生んだ直後に見る良人の喜ぶ顔は何よりの産後の薬よ」

 と、すずに言い

「安土で一緒に生みましょ」

 

 すずは大喜び。少し体はきついが一緒に行くことにした。水沢家の女子供、そして新たに越前と加賀で雇われた人足たち、それを前田慶次と藤林忍軍が護衛して安土に向かった。

 輿の横を歩くすずの父の銅蔵は身重の娘が心配でならない。

「すず、お腹が苦しくないか。気持ち悪くないか」

 その銅蔵の後ろを歩く妻のお清。

「お前さん、一寸ごとに聞かれちゃすずも気が休まらないでしょ」

「そ、そうだが心配で」

 かつて鉄面皮の非情の忍びであった銅蔵も娘のことならば心配でならない。で、すずの返事がないので

「すず?」

 輿の小窓を開けると

「スピー、スピー」

 のんきに寝ているすず。

「脅かしおって。寝ているなら寝ていると言わんか」

 無茶言うな、同じく忍軍の柴舟は苦笑して進んだ。そして琵琶湖から吉村直賢の用意した船に乗って安土に向かう。安土山が見えてきた。木槌を叩く音と煮炊きの炊煙が上がっている。安土山の周囲すでに足場は出来ていて、兵や人足たちが汗だくで働いている。

 

「ご覧、お福。ここがしばらく私たちのお家よ」

「はい母上」

 船の上で安土山を見上げるさえとお福。隆広の元にさえとすずの到着が知らされた。出迎えに行く隆広。

 

「さえ、すず、お福、竜之介!」

 隆広は大将然とした格好はしておらず、手拭いを鉢巻代わりにまいて、上半身は裸であった。人足や兵と共に働いていたのだ。部下に示すためにしていることではなく、彼は本心から土木工事に汗を流すことが大好きなのだ。さえとすずもそれを知っているから驚かないが、お福はびっくりした。養父となった隆広が柴田家で偉いお侍とは幼心に分かっているが、それが兵や人足と同じ格好で働いている。さえとすずへの抱擁を済ませると、お福の視線に腰を下ろした隆広。

「元気だったか、お福」

「は、はい…」

「文字の手習い、家の手伝い、ちゃーんとやったか?」

「もちろんです」

「ようし、偉いぞ」

 お福を抱っこするが

「ち、父上、汗臭いです!」

「え、あ、そうか?あっははは!」

 さえとすずも大爆笑している。子供は正直だ。

 

「とにかく、よく来てくれたな。そろそろ昼御飯だ。握り飯と漬物だけだが美味いぞ。お福も腹いっぱい食べろ」

「はい」

「竜之介、そなたは父と共に現場に来るのだ」

「はい父上」

 隆広は息子竜之介を肩車して現場に戻った。

 交代するように大野貫一郎が来た。隆広と同じく工事に従事していたが奥方が来ると云うので衣服と髷を整えてやってきた。

 

「奥方様、お待ちしていました。殿の御屋敷に案内いたします」

「お願いね」

 石垣の階段を上るさえとすず、身重なので監物がさえを、すずを銅蔵が押して歩いている。

 

 しかしさえとすずは階段を凝視して注意深く歩いている。それに気付いた貫一郎。

「どうなさいました奥方様」

「い、いえ、亡き信長公は石仏も階段の石に使ったと聞いています。仏様を踏むのは恐れ多いことゆえ…」

「階段にあった石仏は撤去し、元々ありました場所に戻しました」

「本当に?」

「はい、ご承知の通り殿はそんなに信心深くないですが、結果信長公の作った安土は燃えてしまいましたから念を入れた次第で。石垣に組み込まれているのは外すのは無理なので」

 眼下に見える廟を指した貫一郎。

「そこで安土の支えになってくれるよう、我ら全員でお願いした次第です」

「まあ、それでは我らも後で手を合わせませんと」

「はい、殿もそれを頼もうとしていたようです。さ、こちらを右です」

 右に曲がってすぐに着いた。城が出来れば撤去される仮住居ゆえ作りは簡素だ。それでも広く、隆広とその家族が住むに支障はない。だが

「あらあら、殿ったら散らかしっぱなしでもう…」

 苦笑するさえ。

「殿は寝るだけに帰ってくるようなものなのでしょう」

「女の匂いは?すず」

「大丈夫、ありません」

(本当は一つ二つ残り香があるのですけど黙っておいてあげましょう)

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 すずは到着して数日後に男子を出産、隆広と銅蔵、お清の喜びようは大変なものであった。後年の若狭美浜城、藤林家二代目当主藤林隆茂である。

 生んだ直後に見る良人の笑顔は何よりの産後の薬とさえは言ったが、本当にそうだとすずは思った。嬉しそうに手を握ってくれて、戦を無事にやりとげた自分を見て嬉し涙を流してくれた。

 

 さて、水沢家の女子供が到着し、活気づく現場。この城普請のおりに小山田信茂の遺臣たちである月姫を始めとする投石部隊が召し抱えられ、明智光秀の四女英姫を始めとする遺臣たちが庇護されることになった。

 

 水沢家臣団に小山田と明智の遺臣が加わることを機に隆広は盛大な討論会を開いて融和を図り、かつ城の骨組みが完成されたのを祝い、琵琶湖湖畔で祭りが行われた。酒と料理は無料でふるまわれ、子供たちには菓子が与えられた。炎の祭壇を気付き、櫓では前田慶次が大太鼓を叩き、女たちが笛を吹く。みんな踊りに酔いしれた。それは水沢・小山田・明智の女子供の融和を図り、そして工事の士気をあげるためだ。

 

 しかし悲しいこともあった。石田三成が羽柴家に帰参することを決めて水沢家から去っていったのだ。三成は妻子を伴い姫路へと去った。

 

 それからも工事は続き、ついに着工期間わずか一年と云う驚異的な早さで新たな安土城が完成された。中世最大の要塞と言われる生まれ変わった安土城。信長のように豪奢な天守閣はないものの安土山の天嶮と琵琶湖の天然の堀。出入り口は一箇所しかなく、その道に対して出丸が築かれている。水沢隆広の工夫が随所に仕込まれた堅固な平山城であった。

 

 完成を祝い、織田家当主である織田信孝が二条城より訪れた。

「美濃、見事な城普請だ」

「はっ」

 水沢家一同が信孝に平伏する。

「この安土と二条を橋頭保に筑前を屠る。兄の信忠を支えたように儂の傍らに付き知恵を出してくれ。頼んだぞ」

「はっ、この美濃、浅学非才の身ではございますが織田家のために一意専心に努める所存でございますので、今後とも変わらぬお引き立てのほどよろしくお願い申し上げます」

 

 神妙な隆広の態度に安堵し二条城に戻っていく信孝。彼とて隆広が柴田勝家の子と知っている。織田の家督相続、もっとも力を尽くしてくれた勝家の子。兄信忠の軍師として松永久秀と武田勝頼と戦った若き名将。それが自分のために働くのだ。

 信孝はすでに秀吉に勝ったかのように安土を出て行った。城門で信孝を見送り、城に戻る隆広に

 

「浮かぬ顔ですな殿」

 と、奥村助右衛門。

「…口幅ったいようだが信孝様には危機感が足りない。我らが羽柴攻めに向かう前に、どうして羽柴様が動かぬ保証があるか」

「確かに…」

「播磨に放った密偵からもたらされる報告はみな同じ『筑前動かず、姫路の内政に集中』だ…。それゆえ気になる」

「殿が筑前殿ならどうしますか?」

「織田や柴田が放った忍びを欺くため、先の『姫路の内政に集中』を示し、水面下で徴兵をする。羽柴様にはそれが出来る豊富な財があるし、佐吉ならそれを遂行出来る」

「それで十分な兵力が揃ったら…」

「二条城の信孝様を討ち東進するであろうな。羽柴様にとって主君は亡き大殿のみ。何のためらいもすまい」

「兵数はどれくらいと見込みますか」

「多くても四万くらいではないかな。織田に滅ぼされた大名の残党を積極的に雇い入れれば可能だ。ところで六郎はまだ帰らないか」

「はい、やはり交渉は難航しているのではないかと」

 その六郎がやってきた。

「ただいま戻りました」

「待ちかねたぞ。で、首尾は?」

「はい、蒲生、九鬼、筒井は援軍を承知して下さいました」

「そうか!見事だぞ六郎!」

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 安土城完成してほどなく、さえは八重を伴い安土山を散歩していた。お産が近いので適度な運動ということだ。

「よいしょ、よいしょ」

「姫様、ご無理をされては殿に叱られますよ」

「でも屋敷の中で安静しているの退屈なんですもの」

「しかし、やはり今回も屋敷の中で生むことに相成りましたね」

「うん、でも殿の気持ちは心底嬉しい。確かに血の儀式である出産だけど、馬糞の臭い漂う場所でなんか、やっぱり遠慮したいし」

「殿と姫様の影響で水沢家では屋敷内での出産が普通になったそうな。あの時に殿が言っていました『そんな悪しき慣習、俺が根こそぎ無くしてやる』が何か現実味を帯びてきましたね」

「ふふっ、後の世に女を大切にした大将として伝えられるかもしれませんね」

 水筒を渡した八重。

「ありがとうございます」

「まだ歩きます?」

「はい、琵琶湖を見たいのです」

 そして安土山中腹、琵琶湖が一望できる丘に着いた。

 

「すう~」

 思い切り息を吸い込んださえと八重。さえの額ににじんだ汗を拭く八重。

「姫様、ご気分は?」

「平気です。ああ琵琶湖がきれい…」

「本当に」

 

 安土城の郭内、水沢屋敷ではすずが息子鈴之介に乳を飲ませていた。

「こらこら鈴之介、そこは父のものだぞ」

「殿ったらもう!」

「あはは、しかしよく飲むな、すずの乳がしぼんでしまわないか心配だよ」

「もう知りません。恥ずかしいからジロジロ見ないでください」

「そうはいかない。すずの乳の出が良いかも見ているのだから」

「それならば心配いりません。滋養のあるものを食べていますから」

「ああ、あの茶之助が教えてくれたと云う野菜くずと魚くずで出汁を取った汁か?」

「あれ本当に美味しいです。飽きることがないし、すずは大好きです」

「ははは、俺もだ。今度あれで粥も作ってみるか…」

 

 ようやく満足した鈴之介はスヤスヤと眠りだした。

「よく乳を飲んで、よく寝て。きっと健やかに育つだろう」

「出来ることなら忍びになんてなってもらいたくないのですが…」

 思わず出た本音、口を手で押さえたすず。

「す、すいません軽率なことを。この子が後継ぎになるのを父の銅蔵は楽しみにしているのに」

 ちなみに銅蔵はすでに藤林の里に帰っている。銅蔵の表の顔は濃尾一帯の杣工(木材を育成、伐採する木こり)の棟梁であるので今回の安土築城においては彼が多くの材木を工面した。仕事と娘の出産のために安土に訪れたのだが、今はどちらも済んだので里に帰ったというわけだ。孫を一人前の忍びの頭領にすることを楽しみにしている。

「すず、俺も銅蔵殿には言えないが、それは母親なら当然な気持ちだよ。どんなに優れた忍びとなろうとも危険と隣り合わせだしな」

「はい…」

「鈴之介が大人になるころは戦のない世になっていれば良いのだがな…」

 

 

 それから数日後のことだった。羽柴秀吉が挙兵した。二条城の織田信孝は秀吉に討たれた。水沢家が手に入れた第一報がそれだった。報告に来た白から

「兵数、およそ六万!」

「ろ、六万だと!馬鹿な!ちゃんと調べたのか!」

 さしもの奥村助右衛門も驚いた。隆広もまた想像以上の兵数に驚いた。まともに戦ったらとても勝ち目はない。

 

「そうか…。いよいよ羽柴様は立ったか…」

「しかし六万とは…」

「最初は五万にちょい欠ける数の出陣であったかもしれないが、細川と池田、中川、高山の軍を入れてその数になったのであろうな…。しかし、にわかには信じがたいが羽柴様なら動員可能だ。清洲会議から丸一年、沈黙を守ってきたのはそれか…。羽柴様には小西行長殿や増田長盛殿のような当家の吉村に比肩する商才と計数に長けた将がいるので、うなるほどに金がある。それで伊賀の乱や、浅井、朝倉、六角、松永、波多野の残党を雇ったのだろう。また越前の雪は溶け出しているが越後はまだ雪の中、上杉の援軍が無理なのも分かっているだろう。とにかく柴田を討てば何とかなるからな…」

「確かに…」

 

「しかし…俺の忍びも殿の忍びは姫路を張らせていた。それさえも欺くとは…」

「佐吉でしょうか」

「だろうな、播磨に柴田の密偵が侵入済みと云うのも知っていたはずだ。兵の徴用、おそらく播磨の国内ではやってはいまい…」

 

 隆広の見た通りである。石田三成と大谷吉継は兵の徴用を播磨国内では一切やっていない。かつ三成は秀吉に表では兵の徴用を他の武将に担当させる事を願い出て、その徴兵があまりはかどっていない事を内外に示させていた。

 羽柴家の真の徴兵は石田三成と大谷吉継が増田長盛や小西行長らの助力も得て実行していたのである。丹波、摂津、和泉で実施した。かつ余りある金を使い織田家に滅ぼされた雑賀党の残党や大名の牢人に使いを出して集めた。主君秀吉も人たらしと呼ばれ、何より三成が徴兵の際に言った言葉が効いた。

 

『羽柴筑前守様は元百姓である。だから民の苦しみを知っている!一年の田畑への汗が戦一つで台無しになる悲しみを知っている!だから羽柴筑前守様が天下を取らなければならない!誰よりも民の苦しみを知る者が天下様にならなければならない!ともに織田の天下を乗っ取った柴田を討つべし!そして戦のない太平の世を共に築くのだ!』

 

 この言葉で続々と羽柴軍に身を投じる者は数え切れなかった。秀吉は絶対に勝家を討たなくてはならない。そのためにまずは軍勢である。それにしても石田三成さすがである。秀吉に付いたからには徹底している。そして兵の集合場所にしたのは淡路島。播磨国内では軍事的な動きはほとんどなく、三成はまんまと旧主隆広を出し抜いた。

「指揮する将は黒田官兵衛殿や蜂須賀正勝殿や一流揃い。寄集めとは云え強力な軍団に化けような。しかも六万…」

「敵に回したら…これほど恐ろしい男だったのか佐吉は…」

「しかも当家にもたらされた第一報が信孝様の死だ。恐ろしいほどの神速で攻め入っている。だが参ったな…。安土の兵は俺の直属兵のみだから二千四百…。まともにやったら到底勝ち目はない。すぐに軍議を始める。白、舞と六郎と共に羽柴勢の動向をさぐれ。そして柴舟に北ノ庄に赴かせ、羽柴軍安土に迫ると殿に知らせて援軍を請うよう伝えよ」

「はっ」

 白は姿を消した。

「助右衛門」

「はっ」

「水沢家の女子供すべて城に入れ、この普請のために雇った人足や領民に賃金を渡して大至急この城から退去させよ」

「ははっ」

 

 隆広の家族も城郭の屋敷から城の奥へと移動した。奥御殿は勝家しか入れないものだが今の隆広は城代と言える立場なので問題ない。奥にいる家族に会いに行った隆広。

「殿、羽柴勢が六万と云うのはまことですか?」

「そのようだ」

 あぜんとするさえ。水沢勢は二千ほどである。

「幸いなことはこの安土がすでに完成しているということだな。兵糧は十分だし、二千なら自給も出来る城だ。水の心配もない」

「殿、籠城戦守備側の指揮の経験は?」

 と、すず。

「ない、初めてだ」

 隆広は苦笑した。

「しかし、薄々は想定していたことだから準備はぬかりない。とにかくさえとすずは女たちが浮足立たないよう束ねを頼む」

「「はい」」

 

 奥から去っていった隆広。

「どうしよう…。籠城戦なら城代夫人の私もみなの鼓舞に務めなければ…。でも」

 自らの腹を触るさえ。

「さえ様、今はお腹の子を無事に生むことだけ考えて下さい」

「だけど…」

「いえ、すず様の申す通りですよ姫様。今はそれに集中すべきです」

「…はい」

 

 六万の羽柴勢が姿を見せた。天守閣からそれを見つめる隆広。

「さすがに六万となると壮観だな」

「はは、確かに」

 煙管を吸いながら眼下の軍勢を見る慶次。羽柴軍は安土に攻撃を仕掛けずにそのまま通過するかに見えた。しかし羽柴秀長率いる二万の軍勢が安土に転進し、包囲した。

「ざっと二万と云うところですかな殿」

「うん、俺もそのくらいと見る。二万なら互角に戦えるな」

 

 備えあれば十倍の兵力にも耐えられるのが籠城戦というもの。二千対二万ならば互角ということだ。

 また羽柴秀吉と軍師の黒田官兵衛は隆広の築城した新たな安土城を見て力攻めでは落とせないと察し、安土に寄せる秀長に『攻めるにおよばず』と命令している。越前で勝家を屠ってから、ゆっくり攻めるか降伏させれば良いのだから。

 

 四万の秀吉本隊が越前に向かうと察した隆広は援軍要請を取り消した。籠城戦において本城の援軍なしで戦うのは無謀。しかし隆広は事前に手は打ってある。水沢隆広、後年の柴田明家の生涯でただ一度だけの籠城戦が始まろうとしている。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 睨みあいに入り、数日が経った。奥にいるさえとすず。

「すず、昨日も殿は貴女の部屋に渡らなかったの?」

「ええ、伽を務めるとはお伝えしたのですが…」

「心配ね…。こんな緊張状態だからこそ女子を抱いて心身を癒してほしいのに」

「今日も伽を務める旨を殿に伝えます。ところで奥方様の具合の方は?」

「ええ、もう明日か明後日と云うところでしょうね」

 

 さえとすずが話していたこの時、

『おい勝家の色小姓出て来い!』

『尻の穴でお城をもらったか腰抜け美濃!』

 城の外から城代隆広を罵る大声が響いた。

「敵勢の挑発です…。奥方様?」

 顔を真っ赤にして怒っているさえ。

「許せない!」

 鴨居にかけてある薙刀をむんずと掴んださえ。

「ひ、姫様?」

 慌てて薙刀を取り上げた八重。

「どうしました、そんなに怒ってはお腹のややに触りますよ!」

「殿の悪口は許せません!しかも殿が一番嫌う色小姓呼ばわりなんて!」

 

 両耳の穴を塞いでいるすず。

「すず?」

「奥方様、言われている殿ご本人は何とも思っていないでしょう。でも良人の悪口は私たちに取って許し難いもの。しかし今の我らにそれを黙らせることは出来ません。こうして聞かないことにするのが」

「…悔しいけれど、その通りね」

 

 さえとすずは耳の穴を塞いで、かつ布団を頭からかぶって聞かないことにしたが、まったく聞こえなくなるのは無理な相談。敵勢とて隆広が色小姓呼ばわりされるのを嫌うのは知っている。聞くに堪えない下品な中傷が嫌でもさえの耳に入る。悔しくて涙が出てきた。

(ちくしょう!私の旦那様はあんたらなんかより何千倍何万倍もいい男よ!)

 

 すずの予想通り、隆広自身は何もないように書き物をしている。しかし効果なしと見た羽柴勢は隆広からさえの悪口に切り替えた。

「ほっ、私の悪口なら、いくらでも言うがいいわよ」

 耳の穴の栓をしていた指を取ったさえ。

「はははっ、すず聞いてごらんなさい。知性の欠片もない貧相な悪口…どうしたの青い顔をして?」

「奥方様の悪口を聞けば…殿は怒り狂うのではないでしょうか…?」

「あっ…」

 

『裏切り者景鏡の娘をもらうなんて頭がおかしいのじゃないか~ッ!!』

 

「まずいわ!」

 良人隆広が義父景鏡の汚名をもって妻である自分を謗られることを一番許さないことを知っているさえは身重の体で血相変えて城門に行った。城門についてみれば案の定だった。奥村助右衛門や松山矩久が暴れる隆広を必死に押さえている。

 

「離せ!俺の悪口なら笑って聞いてやるがさえの悪口は絶対に許さん!」

「お気持ちは分かりますが落ち着きなされ!殿ともあろう方が何たる短気を!」

 鼻息が荒い隆広。

 何でこの男が智慧美濃なんて大層な通り名で呼ばれるか分からないほどの短気ぶりだ。

 

「殿!」

「さえ…」

「堪えて下さいませ。むざむざ殺されに行くようなもの」

「だがさえのことをあいつら…」

「殿がご自分を悪く言われても堪えるように、私も自分の悪口雑言は堪えます。だから…」

 さえは泣いていた。

「羽柴が殿の悪口を言っている時、私は悔しくて涙が止まりませんでした…。そして今、私の悪口を聞いて我を忘れるほどにお怒りになられた殿が…私は嬉しゅうございました」

「さえ…」

 二人の世界に入ってしまった。

「うん、二人で堪えよう」

「はい…」

「身重のそなたなのに…苦労をかけるな」

「苦労などと思っておりませぬ」

 

「もう勝手にやって下さい」

 馬鹿馬鹿しい、やっていられるかと奥村助右衛門や家臣たちはその場をあとにした。だがその時

「イツツツ…」

 産気づいてしまった。

 隆広たちは大慌てでさえを奥御殿へと運び、無事の出産を願った。

 まだ外では羽柴勢の悪口作戦は続いていたが、もう隆広の耳には入らない。

 そして

 

「オギャアオギャア」

 無事にさえは大仕事をやり遂げた。生まれたのは女の子だった。

「よくやったぞ、さえ…」

「はい…」

「姫か…。きっと母親に似て美人になるぞ…」

 

 部屋の外でお福が不安そうに自分と隆広を見ていることに気付いたさえ。きっと実の娘が生まれたことで養女の自分への愛情が薄れるのではないか、と心配しているのだろう。それを察したさえは

「お福、こっちに来てごらん」

「は、はい」

 

 隆広の横に座ったお福。ずっとふて腐れた態度を取っても常に優しくしてくれる養父隆広を徐々に好きになっていたお福。実の娘を得て、本当に幸せそうな養父の横顔。複雑な気持ちだった。その隆広がお福を見てにこりと笑い

「ほら福、妹だぞ。抱っこしてみるか?」

「い、良いのですか?」

「何を言っている。お前は当家の長女だぞ。この子のお姉ちゃんだ」

「ほらお福、妹よ。抱っこしてごらん」

「は、はい!」

 お福は妹を抱いた。

「あったかい…」

 妹を抱くお福を優しく見つめる隆広とさえ。

 お福の目にだんだん涙が浮かんできた。

“お前は当家の長女だぞ”

 その言葉がたまらなく嬉しかった。

「お福、いいお姉ちゃんになる…」

 やっとお福は隆広とさえに本当の意味で心を開いたのだった。

 お福の顔からそれが分かった隆広とさえは見つめ合い微笑んだ。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。