安土夜戦を明けて間もなく、水沢軍は賤ヶ岳に出陣となった。若狭水軍の頭領の松波庄三と商人司の吉村直賢が琵琶湖の湖賊である堅田衆を味方に付けてやってきたのだ。これにより隆広率いる援軍部隊は琵琶湖を北上して戦場にたどり着ける。
出陣直前に
「殿、ご武運を」
「ああ、留守を頼む」
隆広はさえの頬を撫でてにこりと笑い、部屋から出ていった。聞けば賤ヶ岳の羽柴勢は五万とのこと。それに対して水沢軍は半分以下の二万。相手より兵数が少ないうえで戦う。さえは心配でならない。
「手柄なんていりません。どうか生きて帰ってきて…」
琵琶湖を大船団が出発。出陣の法螺貝が響く。さえは安土の奥の窓から良人の乗る船を見送った。
「父上、私の良人を守ってください…」
「姫様」
侍女頭の八重がきた。
「何です?」
「工兵隊頭領の辰五郎殿が目通りを願っていますが」
「分かりました。城に行きます」
今、奥に入ることが出来るのは勝家か城代の隆広だけである。さえは奥から城に行き辰五郎に会った。
「奥方様、留守の我らは城の外にある羽柴勢の亡骸を片づけなければ…」
「辰五郎殿、片づけるのではなく『弔う』です」
「これは失言を」
隆広は留守を預かるさえと辰五郎に羽柴勢の戦死者の弔い、負傷者には治療を下命して出陣していった。敵兵は野ざらし、負傷者には止めをさす、これが当たり前の乱世で生きてきた辰五郎には信じ難い命令であった。
しかし隆広は一概に人情論で弔いを下命したのではない。死体が腐乱して異臭が立ちこめ、かつ伝染病が蔓延するかもしれない。迅速に荼毘に付して丁重に埋葬すれば羽柴の残党の怨みを被ることもない。
負傷者への治療は南北朝時代の武将である楠木正行が大河に飲まれそうになった足利兵を救出させた故事に隆広がならってのことだ。
『戦えぬ者は敵ではない』
勝利した武将にとって捕虜は厄介なものだった。見張りはつけねばならないし兵糧も減る。だから信長などは捕虜など作らずみんな殺してしまった。しかし隆広はまったく真逆なことをしている。そして昨日までの敵を今日の味方にしてしまうのだ。隆広のやり方はさえにも伝わっている。
「辰五郎殿、近隣の領民を雇って下さい。多くの戦死者がいます。留守の我々だけでは手に余りますので。それと身元が判明した者には遺骨と遺品を届けるように」
「分かりました。されど一つだけ臣としてお願いがございます」
「なんです?」
「奥方様とすず様は一切外に出ないで下さいませ。中には殿の思慮も分からず復讐に狂う者もいるやもしれませぬ。そういう者には止めを刺すしかございませぬし、また奥方様に危害及べば私は殿に合わす顔がございませぬゆえ」
「…分かりました。言うとおりにいたします」
「では領民への賃金とその他の雑費合わせ、およそ千五百貫のご用立てを」
「すぐに勘定方に手配いたします。辰五郎殿は外で指揮を」
「承知しました」
辰五郎は工兵と援軍諸将が残していった兵を率いて安土城外に放置されたままの亡骸の処置に入った。負傷者は城内の女たちが治療に当たった。負傷程度はどれも重く、助かったのは全体の二割ほどだ。
「ありがとうごぜえやす…。野ざらしで朽ちて死んでいくはずだったオラなのに」
「生きて帰ったら武士になるなんて夢は捨てて田畑に生きるのよ」
前田慶次の妻加奈は羽柴の足軽の手当をしながら微笑んだ。
「そうしやす…。今度こそ妹を泣かせない兄貴に…なるんじゃ…」
その兵はそのまま息を引き取った。その加奈の横で同じく敵兵を看取り涙ぐんでいる少女。さえの侍女千枝である。
「千枝、貴女には無理よ」
「ぐすっ、大丈夫です。あっ」
千枝の尻を撫でてニッと笑う敵兵。顔を真っ赤にして立ちあがった千枝。
「かわいいお尻だ」
「そんな元気があるのなら、もう平気でしょ!アンタも手伝いなさいよ!」
包帯を入れていた木箱をその兵の顔面に叩きつけた千枝は走っていった。
「いったーッ!何とも気の強い娘さんだ。ははは」
むくりと起きあがった敵兵。首を回して骨を鳴らした。
「よく寝た。いや治療のほど感謝いたす」
「動けるならアンタも手伝いなさいよ」
と、加奈。
「そういたそう。あ、申し遅れた。それがし羽柴秀長様の配下の藤堂高虎と申す」
「前田慶次の妻、加奈。ほら、そんなに体が大きいのなら人も運べるでしょ。負傷者の搬送を手伝って」
「その前に」
「え?」
「美濃守殿はどうして敵兵を助ける?」
「さてね、頭のいい大将の考えることは私にはわからないやね」
「…助けられて何ですが甘い仁ですな。恩を施した者から逆襲されて滅ぼされた例もござるのに」
「それで滅ぶなら、うちの大将もその程度ってことよ。敵兵を全滅させても滅ぶ時は滅ぶもの。大したことじゃないわ」
「ほう、さすがは傾奇者の前田慶次が女房殿、美貌もさることながら胆力もあるな」
「しかしアンタ大きいねぇ。うちの亭主と同じくらいあるんじゃない?」
「槍もご亭主に負けないぜ」
「はははっ、威勢の良さも同じだ」
「おっと負傷者の搬送だったな。任せてくれ」
高虎は野戦病院の入り口に駆けた。
(それで死ぬのならそれまでの男、か。ちがいねえ。冷酷非情に徹したって滅ぶときは滅ぶ。織田信長のようにな)
ちなみに高虎は今回の合戦で右腕と左足に負傷していたが軽傷だった。豪傑な彼は力持ち。すっかり水沢家の女たちにこき使われることになった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
城の中にいるさえとすずは賤ヶ岳の情勢が気になって仕方ない。神棚に隆広の無事を毎日願っている。子供たちやすずも一緒だ。
「姫様」
八重がきた。
「はい」
「越前より僧が参りました」
「は?」
「聞くところによると、大殿様(勝家)が若殿の守り役に選んだ僧とのこと」
「こんな緊張状態でそんなゆとりは持てません。しばらく城内に滞在していただき、殿がご帰城して落ち着いてから会うと」
「しかし、その僧…」
「その僧が何か?」
「永平寺の宗闇和尚で…」
「そ…!?」
越前で生まれ育ったさえにとって怖い坊主の代名詞である僧侶だ。
「そんな鬼坊主が竜之介の守り役…?」
心中は『冗談じゃない』と思うさえ。まだ三歳の竜之介には厳しすぎる師匠だ。さえの鬼坊主と云う言葉を聞いて不安がる竜之介。
「やだよ母上、竜之介は父上に修行をつけてもらいたいよ」
さえの着物を掴んで首を振る竜之介。三歳の竜之介はまだ父母に甘えたい盛りだ。
(…あの人は自分に厳しく他人に優しい方。残念だけど師匠には向かないかもしれない。あの人もお義父上様より受けた厳しい修行があって今がある。ならば竜之介にも厳しい師が必要…。でもいくら何でも過酷な修行に入るのは早すぎる…)
「会いましょう。二の丸の客間に通して下さい」
「はい」
しばらくして客間に行ったさえ。柴田家家老の妻が入ってきても頭を垂れない。瞑目し厳しい顔つきをしている。
しかしさえは気にせず宗闇の前に座った。
「水沢の室、さえです」
「永平寺の宗闇にございます」
やっと頭を垂れた宗闇。宗闇の顔をしみじみ見つめるさえ。
「…愚僧の顔になんぞついていますかな」
「いえ、思ったより温和な顔だと思いまして」
「ほう」
「子供のころ、いたずらして父上や伯母に怒られたとき『宗闇和尚が来るぞ』と、よく言われました。幼心にとっても怖くて、いたずらは控えるようになっていきました」
「時は早きもの、愚僧の名前を怖がっていた女童が母となり、その息子の守り役をしようとは」
「ふふっ、ところで御坊は大殿の要望でこちらに?」
「左様、ずっと断っていたのですがあきらめる様子がなく、北近江の戦の直前にお引き受けいたした。要請をお受けした当時、愚僧も修行中でございましてな。それで今の到着と相成りました」
「遠路、お疲れさまです」
「さて一つ、お聞きしておきます」
「はい」
「竜之介君は修理亮様(勝家)の摘孫でございますか」
「…それはお答え出来ません」
宗闇は静かに微笑み頷き
「それで十分にございます。修理亮様の熱意、あれは家臣の子に対するものではなかったゆえ、念のためお聞きしました。心配あるな、公式に発表があるまで何者にも申しませぬ」
「こちらも聞いてよいですか」
「何なりと」
「竜之介はまだ三歳です。まだまだ母の愛が必要です。修行はせめて七つになってからと云うわけには参りませんか」
「…七つからでは遅うございます。奥方の子は水沢家の世継ぎ、世間一般の童と違いまするぞ」
「そ、それは分かっています。私とて、いずれはあの子に厳しいことを言わなければならないでしょう。しかし竜之介はまだ三歳の幼子。母親に甘えたい盛りのあの子に厳しい修行なんて…」
「奥方のご主人は物心ついたころからご養父より厳しい修行を課せられたと聞きますが」
「それはそうですが…」
「あの並外れた才覚と器量を見るに、想像を絶するほどの荒行の連続だったでしょう。だから現在ご主人は智慧美濃と畏怖される知将なりえたのです」
良人を例えて言われては、さすがに反論できない。
「残念ながら奥方は戦国武将の妻の自覚はあっても母の自覚がないと見えますな」
「な、なんですって!?」
「お、これはお言葉が過ぎましたかな。しかし本当のことにございます」
「……」
「世間の噂で愚僧をどう思われているのかは存じませんが、愚僧とて修理亮様に請われてお引き受けした以上は今の奥方のお言葉で退くわけにはまいりません」
「分かりました。しかしながら息子の守り役ならば当家の将来を左右する重要な役目。良人にお会いして下さい。良人が戻られるまで城内に一室設けますのでご滞在を」
「承知いたした」
怒気を隠そうともせず鼻息荒く立ち上がり、部屋を出ていくさえ。
「憎ったらしい坊主!んもう腹立つ!」
廊下の床板を何度も踏みつけた。武士の母としての自覚がない。全く反論が出来なかったことが悔しくて。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
少し時間を戻し、出陣した隆広は
「以上にござる。何か質問は」
琵琶湖を北上する水沢の船団。吉村直賢が用意した最新の安宅船、これが本陣となり軍議を開いた。隆広は図上に将棋の駒を置き、それぞれの備えの役目を升目一つ一つ埋めていくように諸将に説明した。
「車懸りの陣か…。実戦では初めて使うが面白そうだ」
と、蒲生氏郷。
「筑前の軍勢は大垣からの大返しのうえ一睡もせず戦い続けている。疲労のほども知れよう。我らは敵の半分以下だが勝機は多分にあるぞ」
筒井順慶の言葉に諸将がうなずいた。そして隆広
「琵琶湖北岸に至るまでまだ時を要します。一同少しでも眠っておくように」
「「はっ」」
軍議は終わり、船室を出た隆広。船首に立ち琵琶湖の湖面を見つめる。慶次が追ってきた。
「休息も戦時のたしなみ。殿も休んだ方がようござるぞ」
「…血が滾るよ。俺、戦はあんまり好きじゃないのに」
「強大な敵に大戦を挑む高ぶりゆえでございましょう。それがしとて血が滾り、どうしようもございませぬ」
「手取川以来の正念場だ…」
「しかし車懸りにござるか。武人として一度はその陣で戦ってみたかった。願いが叶い申した」
「上杉流の車懸りは本陣も前線に出る。俺も出る。頼りにしている慶次」
「お任せあれ。殿にはかすり傷一つ負わせませぬ」
「うん、さて琵琶湖の風をあびて熱くなった体を冷めさせられた。一刻(二時間)は休めよう。眠れなくても横にはなっておこう」
「御意」
そして一刻、夜が明け始めた。霧が深い。将兵は仮眠から目覚めると甲冑を装着し簡単に食事をとった。熱い味噌汁が嬉しい。隆広も諸将と食事をしながら最終的な打ち合わせをしていると
「殿!」
「どうした六郎」
「琵琶湖北岸に備えが!」
「なに?」
すでに羽柴全軍が柴田勢に寄せており、水沢勢が上陸する琵琶湖北岸は無人と云う情報を得ていた。しかし堅田衆の偵察隊が軍勢を現認したと云う。急ぎ甲板に上がり
「敵勢の旗を確認せよ」
堅田衆頭領の十郎に指示。遠眼鏡で見ていき、やがて十郎の目に旗が映った。
「折敷に三文字の旗にございます」
「折敷に三文字…。稲葉勢!?」
水沢勢は騒然となった。稲葉と云えば隆広養父の水沢隆家と斎藤家の武の両輪と評された稲葉一鉄率いる精鋭のことだ。本能寺の変の後は独立を宣言していた。それは隆広の耳にも入っている。
だから何で今ここにいるのか分からない。しかし一鉄の居城の曽根城から琵琶湖まで西に数里である。参じようと思えば可能な距離である。
ちなみに言うと、稲葉一鉄と水沢隆広は武田攻めで陣を共にしている。武田勝頼と戦った鳥居峠の合戦の時に稲葉勢は水沢軍の右翼を固めて戦い、そして勝利している。そのあとに一鉄は隆広に
『まだ養父には及ばないが、なかなかの采配であったな』
と、誉めている。嬉しかった。
一鉄が若い武士を誉めることは滅多に無かったからである。
鳥居峠の合戦の後しばらくして新府城に寄せている時である。一鉄が隆広の陣に訪れた。質問があると言う。
「隆広殿は鳥居峠の合戦の後、幹部たちとは無論、兵にも合戦の反省会を開かせたらしいな」
「はい」
「どうして勝ち戦だったのに、そんな反省会を開く?」
「どんな勝ち戦でも絶対に反省点はあるものです。たとえば今回の合戦では我が側近の息子が功を焦り、それがしの命令を無視して突撃を続けた、ということがございました」
「ふむ…」
「しかしそれとて、それがしとその者の父の過失でもあります。今後このようなことを繰り返さないためにはどうすれば良いのか、それを論じなければ次にはもっと増えます」
「なるほどの…」
「かの信玄公もどんな戦の後でも反省会を開いたそうです」
「ほう…」
「合戦の直後、鮮明に合戦の様子を克明に記憶している、その時こそ次の戦に生かせる教訓を得る絶好の時。逃すのはもったいないですから」
「なるほど、よう分かった」
一鉄はそれだけ言うと去っていったが、しばらくして振り返り歩の旗を見つめた。
「ふははは、隆家よ。まさかあの若さでお前と同じことを言うなんてのぉ。はっははは!」
時は戻り、琵琶湖北岸に敷いた稲葉の陣。稲葉側にも船団の影が見えだした。
「父上のお見込みの通りでしたな…」
と、言ったのは一鉄の息子貞通。一鉄は隆広が秀長を破ったと聞くや『勝つのは柴田』と断言して、すぐに曽根城を出陣した。途中琵琶湖を北上しだしたと知らせも聞いた。進路を修正して琵琶湖北岸を目指した。先に到着して水沢勢の到着を待った。
「父上、肝心の賤ヶ岳の決着はついた由、柴田は総崩れとのこと」
「そうか、ならば筑前は天にも昇る気持ちでおろう。今はその勝利を味わっているが良いわ」
使い番が来た。
「大殿(一鉄)、旗は歩の一文字、水沢勢の船です」
「よし、乗りこんで加勢を伝えよう」
「父上自ら?」
「ああ、彦六(貞通)そなたは手はず通り美濃への手土産を用意しておけ」
「承知しました」
稲葉勢が敵味方どちらも分からない。隆広は攻撃に備えて投石部隊を配置したが船首にいる十郎が
「殿、稲葉勢から小舟が向かってきます。旗には『使者』と」
「戦う気はないようですな」
と、助右衛門。隆広が小舟を見ると
「稲葉様自ら来たぞ。丁重にお迎えせよ」
「はっ」
稲葉一鉄が隆広の船に乗り込んできた。
「久しいの美濃、武田攻め以来か」
「はい、稲葉様もご健勝で」
「時間がないので用件だけ言うぞ。我ら稲葉は水沢勢に加勢いたす」
「ほ、本当ですか!!」
「何じゃ?そんなに意外か?」
「我らは稲葉様のご息女を…」
近江坂本城攻めで水沢勢は一鉄の娘で斎藤利三の妻である安を死に追いやった。しかし、それは一鉄にとり仇にならない。娘も一個の武士の妻、良人に殉じるのが定め。そんなことを気にしていたのかと一鉄は苦笑し
「そういうところも親父そっくりじゃのう…」
「は、はあ…」
「さっきも言ったが時間がない。陣立ても決めていよう。話さんか。こちらも急ぎ調子を合わさなきゃならん」
さすがは稲葉一鉄。隆広は大まかな説明だけしかしなかったが一鉄はだいたい理解した。
「ほう、車懸りの陣のう…」
「はい、事前に柴舟が決戦場の地形図をくれました。柴舟は佐久間様の中入りによって戦闘は両軍とも山を降りての…」
地形図を指す隆広。
「この盆地平野で行われることを見込んでいました。私もそう思い藤林に探らせたところ、現在そこで戦闘が行われていると掴みました。山岳戦ならば出来ぬ陣ですが、この盆地平野ならば可能です。我らは羽柴勢より少ない。攻撃力のある車懸りで一気に攻め入ろうと考えました」
「ふむ、さすが隆家が仕込んだ藤林よな。しかし飛騨(蒲生氏郷)、大隅(九鬼嘉隆)、順慶まで連れてくるとはな。経験の浅い将じゃ、こんな難しい陣形いきなりやれと言われても無理じゃが連れてきたのは歴戦の猛者ばかり。大したモンじゃ」
「武人たるもの、謙信公の兵法は大いに学ぶべきですからな。演習程度は当家でもしておりますよ」
と、氏郷。
「円形の陣と云って水軍にも似た陣形はありますでな。まあ任せて下され。あっははは!」
豪快に笑う九鬼嘉隆。そして順慶
「当家も謙信から学び、演習程度はやっておりましたので大丈夫でござる。一鉄殿は?」
「うちはないが、まあ大丈夫じゃろう。儂が大体の流れを掴んだゆえはな」
一鉄でなければ言えない言葉だ。ちなみに言うと斎藤家内の演習合戦で一鉄はただ一人、戦神水沢隆家に勝ったことがある武将であった。隆広がそれを知るのは明家と名を変えてからであるが、それゆえ隠居すると言いだした一鉄を引き止めて自分の相談役に願ったのだ。
大船団は上陸、静粛に下船した。一鉄から隆広に贈り物があった。大量の軍馬である。歩兵戦術で戦うしかないと思っていたが、これで攻撃力は上がる。
隆広は嬉しさを体いっぱいに現した。少し困りながらその礼を受けていた一鉄が突如ギョッとした顔をした。隆広もその視線の先を見ると、そこにいたのは若狭水軍の松波庄三であった。今回の琵琶湖大返しを成し遂げた立役者である。
「た、た、龍興さ…!?」
シッと口に指を立てた庄三。隆広が教えた。
「稲葉様、龍興様は今、松波庄三と名乗り若狭水軍の頭領となっています」
「なんと…」
「ははは、一鉄殿もご壮健で何よりだ」
(涙もろいのは変わらんな…。良通)
「いやいや、庄三殿もお元気で良通は嬉しいですぞ」
(たくましゅうなられて…。良通は嬉しくてなりませんぞ)
暗君と思っていた若者がたくましき海の男となっていた。斎藤家家老だった稲葉一鉄からすれば嬉しくてたまらない。龍興が加勢と云うことは斎藤家が水沢隆広に加勢すると云うこと。斎藤道三や水沢隆家と戦場を駆け抜けた一鉄にとって道三と隆家の子らに加勢出来るとはこのうえない喜びだ。
「殿、進軍体勢整いましてございます」
母衣衆の松山矩久が進言した。
「いななき防止のために馬の口に紐をつけしことは」
「御意、全軍に徹底させましてございます」
「よし、ならばいくぞ。全軍に進軍しながら車懸りの陣を構築する旨を伝えよ。俺の采配から一時も目を離すなとな」
「はっ!」
矩久は馬を返した。水沢勢は進軍を開始。羽柴秀長を破ってより、わずか三日目の朝である。進軍中、隆広三忍から続々と柴田軍敗走の知らせが届いた。前田利家と金森長近は戦場を離脱し、勝家はすでに越前に引き上げていること。隆広は冷静に聞きながらも後方に采配を振って陣の構築をさせていた。少しも慌てず静かな顔の隆広。
(大した胆力だ)
横にいる慶次は思った。こういう胆力は教えて身に付くものではない。天賦、そう言える。どうしてこの胆力がありながら嫁に頭が上がらないのか不思議でならない。
「へっくしょん、へ、へくしょん!」
朝餉の用意を侍女と共にしていたさえがいきなりくしゃみ。
「前田様あたりが私を出汁に殿をからかっているのかしら」
そんな生易しい場面ではない。水沢隆広、一世一代の大舞台、賤ヶ岳の合戦の幕開けの時だ。
「矩久、陣形の完成具合は?」
「およそ八割かと存じます」
「突撃を開始するゆえ、走りながら残り二割を整えよと伝えよ」
「はっ」
「幸猛、全軍に馬の口にある紐をちぎれと申せ」
「はっ」
羽柴勢にギリギリ気取られない絶妙の位置、隆広はここで一度全軍を止めた。霧が味方し羽柴勢はまったく気づかない。しばらくして矩久と幸猛が戻ってきた。
「「殿、突撃準備、あい整いました!」」
「よし…」
隆広の右腕が上がり、黒一色の軍配が天を指し、そして振り下ろされる!
「行くぞおおおおッッ!!」
「「オオオオオオオッッ!!」」
天正十一年四月二十一日午前六時、水沢隆広が琵琶湖を大返し、羽柴秀吉軍に襲い掛かった。世に云う『賤ヶ岳の合戦』の第二幕が開いたのだった!
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
場所は移って安土城、羽柴軍の戦死者は荼毘に付されていた。近隣の僧侶たちを呼び念仏を唱えている。その中心にいるのが宗闇だ。今日やるべきとさえに進言してきた。何故かと問えば風向きが安土に追い風で死体を焼く臭いが城に及ばないと云う理由だった。
思わず感心してしまったさえは宗闇の意見を入れて戦死者の亡骸はすべて火葬にて弔われた。
遺骨や遺品を収納する木箱を大量に用意し生き残った羽柴の兵に戦死者に心当たりあれば届けるよう頼んだ。比較的軽傷の者は安土夜戦から三日も経てば帰っていった。無論、水沢家の要請を受けて戦死者に同郷の者がいれば遺品と遺骨を持っていった。この生還した者の多くは後に柴田明家に仕えることになる。
楠木正行の侠気を戦国時代に再現し、そして恩を忘れなかった足利将兵と同じく、羽柴将兵もまた隆広に仕えることになる。この中で後に名を馳せる武将は戸田勝隆や舞兵庫、木村重茲であるが、最たるのは
「この藤堂高虎にお任せを!」
野戦病院の男手としてよく働くが美貌の侍女の尻ばかり追いかけているので、さえに高虎の苦情が届いている。
『あの大男はケダモノ』
『目つきがいやらしい』
等々。しかし、さえは辰五郎の報告で知っていた。この時、水沢家の女たちが羽柴の将兵に凌辱されると云うような事件は一切起きていない。高虎が未然に防いでいたのである。熊なみの巨体に加えて、眼光は鋭い。武勇も並はずれている。羽柴兵はすごすごと引き下がるしかない。
『昨日までの敵兵の手当てを懸命にする水沢家の婦女子を凌辱することなど武士道にもとる』
と、旧主秀長のような生真面目さを見せる。だが一方では水沢家の女たちに体よくこき使われている。尻を追いかけても結局は途中で止めている。高虎は死に行く男たちを看取る女たちの心を和ませていたのだ。
「もう、藤堂様に今日もお尻を撫でられました!」
と、侍女の千枝はカンカン。高虎は千枝の尻だけは撫でていたようだ。千枝の小さなお尻が気に入ったのか。さえに頬を膨らませて報告するが
「貴女が藤堂殿の深慮を分かるのは何年先かしらねぇ…」
「は?」
そして思う。
(彼は惜しい…。どうにか今後は水沢家に仕えてくれないかしら…)
その時だった。さえが歓喜する一報がついに入った。隆広三百騎の高橋紀茂が来た。
「奥方様!」
「高橋殿?」
「お味方、大勝利にございます!」
「ま、まことに!」
「はい、見事に劣勢をひっくり返し、羽柴勢を粉砕しました!」
思わず千枝と抱き合うさえ。安土城内は歓声に包まれた。野戦病院にいた光秀四女の英にもそれは届いた。辰五郎と小さく勝利を喜ぶ。羽柴将兵を気遣ってのことだ。
しかし高虎は英と辰五郎の様子でそれを察し
「秀長様…。我らが戦った男はやはり天運の持ち主かと存ずる。天が味方しているのでは仕方ござらんな」
ふうっ、と野戦病院の壁に寄りかかった高虎。
「新たな主君を探さねばならんな…」
その高虎の前に千枝が来た。
「何だ千枝殿、またお尻を撫でられたいかな~?」
「ふんだ、奥方様が呼んでいるよ助平親父」
「は?」
「とっとと付いてきなさいよ」
何ごとかと城に赴くと、高虎は風呂を馳走になった。
「いやぁ、久しぶりの風呂だ。千枝殿もどうかな」
「うるさい助平親父、アンタ臭いから入れてやっているのよ。着替え置くわよ」
「ははは」
髭もそり、髷も整えてさえに会った高虎。
「水沢隆広が室、さえです」
「羽柴秀長家臣、藤堂高虎にございます」
さえはまず高虎に深々と頭を垂れた。高虎も驚いたが、一緒にいた千枝も驚き
「こんな人にどうして奥方様が頭をお下げに!」
「黙りなさい。さて高虎殿、城下の野戦病院にて当家の女たちを守って下されたこと、心よりお礼申し上げます。良人の下命とは申せ、昨日まで敵兵、当家の女たちに狼藉せぬかと心配でならなかったのです」
「奥方…」
「また女子たちの尻を追いかけたのは、死に行く者を多く見て女たちが心を壊さぬように和ませるため。ま、千枝の小さなお尻だけは気に入っていただけたようですが」
顔を赤くした千枝。まさかこの助平親父がそんな考えでやっていたことだったなんて。高虎も
(なるほど、水沢隆広が智慧美濃と呼ばれるまでに至れたのはこの奥方あってか)
頭を掻いた高虎
「ははは、参りましたな。しかし奥方」
「はい」
「それも美濃殿が昨日までの敵兵を救うと云う楠木正行公さながらの心意気に感じてやったことにございます。先に慈悲を見せたのは水沢家。それがしは主君秀長が生きていたならば、必ずやそれがしに命じていたであろうことを実行したにすぎませぬ。感謝は無用にございます」
「ならば改めてお話が」
「はい」
「賤ヶ岳の戦は柴田が勝ちました」
「存じております」
「羽柴に帰参いたしますか?」
「…?なぜそのようなことを訊ねられる?」
「出来れば当家に仕えてほしいと思うのですが」
「柴田家に、それがしが?」
「いえ、正確には水沢家です」
「……」
しばらく考え込む高虎。
「…されば一つだけお願いがござる」
「何でしょう」
「美濃殿ではなく、奥村助右衛門殿に仕えたい」
「え?それはいかなる理由で」
「それがしもこの乱世で生き抜き、どの役目が一番自分を活かせるか分かっています。奥村殿は美濃殿が名補佐役、それがしは補佐役の補佐役が性分に合っていますのでな」
「それで秀吉殿ではなく秀長殿に?」
「そういうことにございます。奥村殿への売り込みは自分でしますゆえ、奥村殿が凱旋した時に目通りする根回しだけして下されれば十分にございます」
「分かりました。きっと奥村様も大喜びでしょう。お約束いたします」
「かたじけなし、さればまた野戦病院に戻りますゆえ」
「頼みます。千枝、お送りを」
「は、はい!」
高虎と安土の廊下を歩く千枝。
「どうした、もう助平親父と言わないのかな」
「すみません、あんな考えがあってのことだったなんて…なぁんて言いません。未来の旦那様しか撫でちゃいけない私のお尻を何度も撫でたんだから、きっちりこれからも働いて下さいよね!」
「分かった分かった。あっははは」
千枝はこれより数年後に仁科信貞に嫁ぐことになるが、千枝をかすがいに藤堂家と仁科家は非常に仲が良かったそうで、信貞長男の信清の妻は高虎の娘である。