天地燃ゆ   作:越路遼介

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外伝さえ 十四【柴田明家】

 賤ヶ岳の戦いは柴田軍の勝利となった。賤ヶ岳の戦場から可児才蔵と山崎俊永だけ先行して安土に入城した。しばらくはこの二将が城代である。

 

「可児様、山崎様、賤ヶ岳での戦勝、お祝い申し上げます」

 さえが戦勝を祝福した。さえが三つ指立てて頭を垂れると水沢家幹部夫人たちや工兵たちも頭を垂れた。才蔵と俊永もありがたく受ける。

 

「かたじけない。ご主人の働きにより何とか羽柴を追い返せました」

 と、俊永。

「内儀も数日とは云え柴田本城を預かり気苦労であったろう。しかし今日より大殿入城まで我らがしっかりと守るゆえ安心されよ」

 さえを労う才蔵。そして

「しかし美味い飯であった。あれが最近評判の美濃粥か?」

 迎えたさえは合戦後すぐに安土行きを下命された可児と山崎勢の疲労を考え、美濃粥を出した。言わずもがな隆広の官位から命名された粥だが、後に柴田粥に名を変える。

 

「はい可児様、当家の料理人が水沢家の女たちの乳がよく出るようにと差配してくれた汁でこしらえた粥です」

「いや後をひくな。すまんがもう一杯所望したいが」

「奥方、この俊永にも下さらんか。大盛りで」

「はい、すぐにお持ちいたします」

「ははは、ありがたい。今度可児家の女たちにも伝授してほしいものだ」

 

 今まで城代夫人として安土を預かっていたさえは郭内にある屋敷へと移った。

 先に行っていた家令の監物がさえを迎えた。

 

「引っ越しはすでに終えていますじゃ姫様」

「ありがとう、わあ、ここが安土の水沢屋敷ですか」

 すずは来たことがあったが、さえは城代夫人として多忙であり、今まで一度も来られなかった。水沢家の安土屋敷は北ノ庄の屋敷より広く、工兵隊の辰五郎一党の中で頭角を現してきた鳶吉の指揮により建てられたと云われている。

 しかし隆広とその家族たちがこの屋敷に住んだ期間は短く柴田家の家督を継いだ隆広は再び安土城を居とする。その後は隠居館の庄養園が出来るまで勝家とお市の仮屋敷となり、勝家退去後は若狭水軍の安土屋敷となる。

 

「ふう、肩の荷がおりました。何とか無事に城を次の城代に引き継げました」

 屋敷の居間に大の字で寝るさえ。

「これ姫様、はしたのうございますよ」

 叱る八重に

「ちょっとだけです。見逃して下さい」

「仕方ないですね。少しだけですよ」

 苦笑しながら八重は座った。

 

「ふふっ、私も良いですか」

 すずも大の字に寝た。新築の木の香りが心地よい。至る所にすずの歩行を補助する手すりが配置されている。すずには嬉しい気配りだ。

「殿は羽柴の追撃に出られたとか」

 と、すず。

「そのようですね」

「もし秀吉の首を取れば殿の武功はより大きいでしょう」

 

「羽柴秀吉…。父上の仇」

 大の字に寝ながら険しい顔をするさえ。

「その通りです。弟は、景鏡は秀吉に利用されたあげく見殺しにされました。朝倉景鏡の娘婿に討たれるのも因果応報と言えましょう」

「忘れたことはありません。裏切り者、売国奴と罵られ心が壊れていった父上の悲しい顔…」

 むくりと起きあがったさえ。

「その父上を踏み台にして秀吉は出世した。許しはしない」

 すずは日ごろ見ないさえの険しい顔に少し驚いた。景鏡の家老であった監物も

「その憎き秀吉を姫の大好きな良人が討ってくれますじゃ」

「うん父上、見ていて下さい!」

 

 

 しかし、さえの願いは叶わないことになる。隆広は山陽道で秀吉を捕捉したが、もはや秀吉には抵抗する力はなく隆広はあえて見逃してしまったのだ。

 

 戦目付で水沢軍に随行していた中村武利は目付として失格とも言える、見て見ぬふりをしようと思った。思いのほか羽柴の逃げ足は早く、すでに播磨に入ってしまったと。そう勝家に報告しようと。隆広の三国志の関羽さながらの武人の心に感動したからだ。だが隆広は見たままを報告するよう釘を刺した。拒否する武利だったが、前田慶次に『貴公は我が主に恥をかかすか』と凄まれれば言うとおりにするしかない。

 

 報告を聞いて勝家は激怒した。当たり前であろう。

 勝家はすでに安土入りし、水沢軍も安土に帰ってきたのに、いつになっても隆広は屋敷に戻らない。さえとすずが門前でヤキモキしていたところ前田慶次の姿が見えた。駆け寄るさえ。

 

「前田様、無事のご帰還何よりにございます。我が殿…」

 慶次が良人を背負っているのが分かった。血だらけである。

「と、殿!!」

 杖をついてすずも来た。

「なんてひどい傷を!」

 隆広は気を失っていた。

「すでに医師は呼んであります。奥方、急ぎ布団を」

「は、はい!」

 

 慶次が屋敷の中に隆広を運んだ。医師はすぐに来た。

「…急所はすべて外して打たれております。大殿らしい打ち据えでございますな」

 医師は隆広の打たれた跡をさえとすずに見せた。内出血はしているようだが、言うとおり急所は外してあった。見かけは派手な負傷で出血し熱も発するだろう。

 しかし勝家は数日の養生で回復するように打擲していた。頭や腹は一撃も入れていない。医師の言うように武人の勝家らしいやり方であろう。怒り心頭でありながら冷静でもある。

 

「う、うう…」

 しかし隆広は痛みと熱で苦悶している。

「殿、殿…」

 隆広の手を握るさえ。もう一方の手をすずが握っている。

 お福と竜之介はさっきまで泣きやまないほどだった。今は泣き疲れて眠り、監物が寝所に背負っていっている。

「さ…」

「殿?さえはここに!」

「さえ…」

「殿!」

「しょ…小便がしたい…」

「お、おしっこ?た、大変!伯母上、我が家に尿瓶は!?」

「あ、ありません!当面は酒瓶を!」

「急ぎ持ってきて!殿の顔が真っ赤です!」

 八重が大きめの空いた酒瓶を持ってきた。

「すぐに近所で尿瓶を持っていないか聞いてきます」

 

「頼みます。さ、殿、出してよいですよ」

 安堵の声と同時に放尿した隆広だった。終えると眠った。

 額ににじむ汗を拭いたさえ。

「前田様、これはどういうことなのですか。殿は賤ヶ岳の戦、武功一等ではなかったのですか。どうして大殿に打たれなければならないのですか!」

「奥方様、大声を出しては殿も子供たちも起きて…」

「ご、ごめんなさい…」

 

 このころ、水沢家の戦後処理をひと段落させた奥村助右衛門も隆広の屋敷にやってきた。布団に横たわる隆広に一礼してさえに

「将兵に混乱は生じていません。ご安堵を」

「はい」

「事情は慶次から聞きましたか」

「伺いました…」

「当家は武功すべて帳消しとされ、殿は家老から部将に降格と相成りました」

「……」

「申し訳ございません。それがしと慶次がついていながら」

「奥村様…。私は殿に恥ずかしくて」

「は?」

「秀吉は我が父の仇…。良人が討ってくれると喜んでいました。でも殿は…それこそ死の覚悟さえして秀吉を見逃しました…」

「奥方…」

「殿のお気持ちも知らず、仇を取ってくれると嬉しがっていた私が…どうしようもなく恥ずかしいのです…」

「姫様…」

 

 涙を落とすさえに手ぬぐいを渡す八重。自分とて同じ、家を滅ぼす元凶となった秀吉が討たれると云うことに、ただ痛快を感じていただけ。恥ずかしかった。監物も同じ気持ちだ。

「こたびのこと、余人は殿の気持ちを知らず甘いと笑う輩も出ましょう。しかし、この三国志の関羽さながらの武人の心は必ず評価される時もありますじゃ。武功帳消しであろうと何ほどのものがありましょうや」

「監物…」

「誇りに思われよ姫、日ノ本一番の旦那様ですぞ」

「ありがとう…」

「少なからず武功帳消しと義父の仇を討てながら討たなかったことを気に病まれているかもしれませぬ。殿が起きたら笑顔ですぞ笑顔」

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 翌朝、隆広が目覚めた。さえとすずは二人とも隆広に付きっきりだったか隆広に寄り添うように眠っていた。隆広が目覚めると二人も起きた。隆広は

「ありがとう、ずっといてくれたんだな」

「「はい」」

「でもごめん…」

「何がです?」

「武功帳消しとなってしまった。まして羽柴様は義父殿の仇なのに…」

「いやですよ殿、私とすずは殿の無事のお帰りが何よりの褒美」

「さえ…」

「それに殿は今までが順調に行きすぎました。この辺で大きな失態を一度しておいた方が後々の肥やしになります」

「上手いこと言います、奥方様」

「さ、そんなことは気になさらず。熱はまだ下がらないのですからお休み下さい」

「ああ、ありがとう」

 

 

 ちょうどこの時、侍女のしづが門前を掃除していると風呂敷包みを持った少女が水沢屋敷前を行ったり来たりしていた。

「当家に何か?」

「い、いえ、よいのです」

 少女は走り去った。小山田家の総領娘である月姫だった。重傷の隆広の看護をしたいと思い医療具を持って訪れてみたのは良いが、さえとすずに遠慮し、それは出来ない。

 小山田屋敷に帰り、自分の部屋に籠もってしまった。すすり泣く月姫。叶わぬ恋と分かっている。しかしどうしてもあきらめきれない。家老の川口主水もどんなに想っても叶わぬ恋と分かっている。あきらめてもらうしかない。侍女が主水の部屋に来て

「ご家老、姫様がどこに行っていたか分かりました。殿の御屋敷です」

「やはりな…。筑前を見逃した罪で大殿より打ち据えられ重傷を負ったと聞き、いてもたってもいられずに殿の屋敷に行ったのは良いが、奥方様とすず様にご遠慮し、そのまま何も出来ずに帰って来たのであろう…」

「ご家老、我ら侍女一同もうかわいそうで見ていられません。何とか姫を殿の側室に」

「無理を言うな。とにかく縁談は幸いにあるのだ。何とか聞いてもらわねば」

 

“小山田投石部隊見事だ!さすがは甲斐国中で随一の勇将小山田信茂の精鋭たちよ!”

 

 安土夜戦勝利後に隆広が月姫に言った言葉である。武田滅亡後に落ちのびた集落で父を裏切り者や卑怯者と言われ続けた月姫にとって涙が出るほど嬉しい言葉だった。『甲斐国中で随一の勇将小山田信茂』とは武田信玄が直接信茂に言った言葉である。それをちゃんと知っていて、かつ安土夜戦で投石部隊が手柄を立てた直後に言ったのだから嬉しさたるや大変なものだった。私が純潔を捧げるのはこの方しかいない、そう思ってしまった。もう月姫は隆広しか見えなくなってしまった。主水とて、その言葉を聞いた時には『仕えるべき方に仕えられた』と喜んでいたが、今となっては

「殿も罪なことを言われる…。その気もないのに我らの姫の心を落としてしまわれた…」

 

 月姫の部屋に行った主水。

「姫、入りますぞ…」

「…縁談なら聞きません」

「そうは参りません。入りますぞ!」

 強引に入った主水。月姫の前に座れば月姫の顔は涙と鼻水のあとだらけだった。

 察していた主水は湯で絞った手拭いを黙って差し出した。それで顔を拭く月姫。

「…ありがとう」

「姫、申し上げにくきことなれど、殿の側室となることはあきらめられよ」

「……」

「それがしとて木石にあらず、姫の女心どうして責められましょう。ですが姫は小山田本家の総領娘なのです」

「世継ぎなら、従姉妹の折花が生んだ次男を養子にもらえば良いでしょう。私は殿以外に身を委ねたくありません」

 

 折花姫とは水沢家家臣の高崎次郎吉兼の妻である。信長の武田攻めにより、総大将の織田信忠が小山田氏の居城である岩殿城に寄せて来た時に、折花姫は父の小山田行村(当主信茂の兄弟もしくは一族)に連れられて岩殿城を出た。しかし途中で織田信忠の一隊に捕捉され父母や従者も殺され、折花姫はあわや信忠の兵に凌辱されそうなところを水沢軍の斥候に出ていた吉兼が救出した。

 

 吉兼は当時織田の陪臣の家臣、信忠の部下を斬れば、どちらが正しいなど論外で罰せられる可能性はあったが、水沢家は主君隆広の影響で女を大切にする騎士道精神が旺盛であった。立場が上の者のやることだからと下を向いている方が主君隆広に顔向けできないと信忠の兵を斬り捨てた。無論問題となった。吉兼の部隊から逃げ切った信忠の兵は

『岩殿から落ちている小山田一族を討ったのに、水沢の家臣が横やりを入れて手柄を横取りした』

 と、信忠に訴えた。その兵と吉兼を対決させた信忠。

 

『岩殿から落ちていた小山田の者を討つに、それがしとて何も言う気はない。しかし共にいた無垢な少女を集団で凌辱せんとしたのは武士道にもとる』

 と、毅然と言い返している。実際、吉兼は信忠の兵が討った者たちの首を弔い、手柄として主張していない。結果吉兼は咎めどころか信忠に『さすが隆広の部下よ』と褒められている。その折花姫を水沢陣中で保護していたが、吉兼に帰る家はありませんと告げた。一度助けたのだから最後まで面倒を見てやれと隆広に言われ、吉兼は越前に連れ帰り、やがて妻としたのだった。

(史実では先の逃避行中に織田勢に捕捉されて自害している)

 

 月姫も水沢家に属してから初めて知ったことだった。すでに水沢家の有望若手将校の妻となっていれば、月姫とて城から逃げたことを咎めることは出来ない。そして折花姫自身も月姫に父と共に敵前逃亡したことを誠心誠意詫びている。現在は和解に至り、同じ小山田の姫として水沢家を盛り立てようと誓った従姉妹同士である。

 

 そして、その折花姫がすでに吉兼の男児を二人生んでいる。月姫はその次男を養子にもらえば良いと言っている。

「そんな暴論を!」

「何が暴論ですか。父の信茂にとって折花は姪、その息子を迎える養子縁組に何の不都合があるのです?」

「ではこのままご結婚をされずに過ごされるつもりですか」

「好いた方の元に嫁げぬのでは是非もありません。姉上様(松姫)と同じ道を歩むまで」

 月姫は少女期に武田家に人質として躑躅ヶ崎館に滞在している。その時に松姫に大層可愛がられ姉上様と今も慕っている。

「かような我儘を言われては困ります。姫は小山田本家を見捨てるおつもりですか」

 

「主水、血と云う一点を除けば、殿以上に武田の名前を継ぐに相応しい方はおりません」

「は?」

「手取川の戦いでは信玄公の出で立ちをし、全軍に『御旗盾無、御照覧あれ』と鼓舞し、軍神謙信公と太刀を合わせた。信玄公も尊敬された快川和尚様より格別の指導を受け、その教えを昇華させて用いられている方。殿ほど武田の技を色濃く持っている方はおりません。そしてお屋形様(勝頼)と若殿様(信勝)、相模様(北条夫人)も丁重に弔われ、姉上様の命もお助けして下さいました。そして現在、殿の愛用されている陣羽織は亡きお屋形様のもの。お背中には不動明王様の絵姿と共に武田菱もあります。殿自身、知ってか知らずか武田を背負って戦っておられるのです」

「…な、何を改まって」

 そんなことは水沢家に属した武田遺臣すべてが知っていることだ。

 

「ただでさえ裏切り者の汚名を持つ我ら小山田家の世継ぎは殿のような強い方の種でなくてはならないのです!水沢家そして柴田家で存続していくには殿のお子であるのが小山田家の行く末を握る大計!確かに殿方としても魅力的で私が恋焦がれていることは事実です。でもそれだけではないと家老の主水には分かってほしい!」

「姫様…」

「主水、総領娘として命じます。私が殿の側室になること叶えなさい」

 そんな無茶な…。主水がそう思うのは無理もない。主君隆広は正室さえに惚れぬいていると同時に頭が上がらない。側室を増やすことなどどうして受け入れようか。

「叶わなくば尼となるまでです。話は以上です」

「…はっ」

 

 やがて隆広の負傷も快癒し、播磨攻めが決定された。水沢隆広は正式に柴田勝家とお市の方の嫡男と発表され名も柴田明家と改められ、そして柴田家の後継者に指名されたのだ。

「ただいま」

「「おかえりなさいませ!」」

 明家が屋敷に戻るとさえを先頭にすず、竜之介とお福、監物に八重、他の使用人が一斉に明家を出迎えた。

「な、なんだ?」

「殿、『柴田明家』のお名前を大殿様からいただいたこと、お世継ぎに指名されたこと、おめでとうにございます!」

「「おめでとうにございます!」」

「父上、おめでとうございましゅ!」

「…なんだ聞いていたのか」

 竜之介を抱き上げながら苦笑する明家。

「はい前田様から」

「めでたいことは黙っていられない男だな…」

「とにかく!今日は水沢家、いえ当柴田家に嬉しい日です。ご馳走を用意いたしました!」

「それはさえのことかな?」

 ドッと笑いがおきて、さえは頬を染めて首を振る。だがまんざらでもない。

「んもう!私が腕によりをかけて作った料理のことにございます!」

 

 奥村助右衛門、前田慶次、吉村直賢を筆頭に柴田明家家臣たちとその妻子も祝賀に訪れた。庭に席を用意しての大宴会となった。自分たちの主君が大大名の後継者となったのである。こんなに嬉しいことはない。良人に杯に酒を注ぐさえ。

「殿、一献」

「うん、ところで、さえ、すず」

「はい」

「図らずも俺は柴田家の当主となることになったけれど性根は変わらない。けして驕らない。そなたもすずも子供たちもだ。俺が柴田家当主となれば、さえは『御台様』と呼ばれ、すずは『すず御前』、竜之介と鈴之介は『若君』、お福と鏡は『姫様』と敬われる。だがそれは今俺たちの前にいる者たちあればこそ。今まで水沢家のために戦い命を落とした英霊たちがあればこそ。俺たちが君臨して家臣たちを使うのではない。俺たちこそが上に立つものとして彼らに使われなくてはならないと肝に銘じておけ。とかく人間は偉くなればなるほどに何もしない。しかしそれでは駄目だ。上に立てばこそ、一番下で働く者より汗水を流さねばならない。俺は贅沢をしない。大名の座、二人の美しい妻にかわいい子ら。これ以上望むのは罰当たりと云うもの。過ぎたる富は今まで当家を支えてくれた負傷者や戦死者の家族に与えるつもりだ。富貴栄華は当家にいらない。俺はそう子らを育てるつもりだ。そなたらも子にそれを伝えるのだぞ」

「はい殿、そのお言葉、私の一生の教訓とします。質素倹約に務め、清廉にこの家を営みます」

「すずも肝に銘じます」

「うん、さあ、さえも一献」

 

 耳のいい奥村助右衛門や前田慶次は聞こえないふりをしながらも、明家が妻たちに言ったことを聞いていた。

「助右衛門、我らの主君はすごい男だ。俺は惚れ直した」

「そうだな。俺も殿にぞっこんだ。だが我らも今の殿の言葉は肝に銘じねばならん。せいぜい下の者にこき使われようではないか」

「ははは、確かに」

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 柴田勝家と明家親子を総大将とする柴田軍が播磨に向けて出陣し、さえの耳に柴田軍が姫路城を包囲したと伝わったころ安土は至って平和であった。さえはこの日、竜之介とお福と庭で紙風船を飛ばして遊んでいた。

 

「あはは!母上また空振り~ッ!」

「母上、これ以上負けるとおやつ無くなっちゃいますよ~」

 鈍くさいのか竜之介とお福に笑われている。

「言ったな~!これからは本気出すわよ!」

 

 そんな時、血相を変えて八重が来た。

「ひ、姫様~ッ!」

「何です伯母上、血相を変えて」

「さ、佐久間様がご謀反!」

「え…っ!?」

 膨らましていた紙風船を落としてしまった。

「金沢城で挙兵し、越前を通過し、すでに軍勢は小谷に差し掛かっているとのこと!」

「さ、佐久間様が安土に攻めてくると?」

「城の使者の話によりますと、御台様(お市)と姫様を人質に取るつもりと!」

「み、御台様と私を!?」

「大至急、城に入れと御台様が!」

「承知しました!伯母上はすずを連れて出て下さい!監物は竜之介と福、私は鏡と鈴之介を!」

「はい!」

 

 さえは良人明家のいる西方を見つめた。

「殿…。万一さえが佐久間様に捕らえられても…言うとおりになどなってはなりません。私とて武士の妻…。虜囚の辱めは受けませぬ」

 自決用の小刀を懐にしまい、安土城へと向かった。お市も鉢巻を締めて薙刀を持つ。

 

「文荷斎、いま安土の防備兵はいかほどですか?」

 お市が留守を預かる中村文荷斎に訊ねた。

「ざっと二千にございます。佐久間勢は五千ほどとのこと。大殿か若殿、どちらかの援軍が来るまでは持ちこたえられます。兵糧は十分にございますればご安心めされ」

「蒲生、滝川、筒井に知らせは届けましたか」

「使者は送りましたが、先の安土夜戦と賤ヶ岳の論功行賞も行っておりませぬゆえ…」

「確かに…。何とか息子と良人が戻るまで踏ん張らねば!」

 

「御台様!」

「さえ、仔細は聞きましたか?」

「はい!」

「お市とさえを奪えば柴田は何も出来ない。玄蕃(盛政)はそう吹聴して進軍しているとのことです」

「…そうですか」

「勝家はいざとなれば私を見捨てることも辞さないでしょう。しかし隆広では出来ません」

 そんなことはない、さえはそう反論したかったが、やはり良人は私を見捨てることは出来ない。そう思った。それが戦国武将の妻にとって最大級の侮辱と知りながらも良人は出来ないだろう。今ほど良人の自分への深き愛情を呪ったことはない。

 

「いいですか、貴女と子供たちが敵に落ちた時が柴田敗北の時なのです」

「ご心配には及びません。いざと云う時には」

 自決用の小刀を見せるさえ。いよいよの時の覚悟は決めた。

「私とて戦国武将の妻です。虜囚の辱めは受けませぬ」

「よう申した。それでこそ我が息子の妻ですよ!」

「それにしても無念です。殿は佐久間様と不仲であったがゆえに強固な友誼を結べる日が必ず来る、来させてみせると申していたのに、ついに実現はしませんでした」

「もう申しますまい。このうえは柴田の女の意地を見せつけるのみです」

「はいっ!!」

 

 さえも鉢巻を締めて薙刀を手にとった。佐久間勢が佐和山に差し掛かったと安土に伝わった時、合戦の火ぶたが切られるのももう間近と腹を括った。先の籠城戦では城代夫人、今回は柴田家世継ぎの正室としてである。柴田家家臣たちの鼓舞に務めるさえ。

 

「良いですか、すでに姫路の大殿や殿に玄蕃の謀反の報は伝わっています。今ごろ安土に向かい始めていましょう!我らは主君帰還の時まで安土を死守します!」

「「オオオオッッ!!」」

 お市もまだ別の場所で兵の鼓舞をしていた。

「裏切り者玄蕃に柴田武士の恐ろしさ見せつけましょう!」

「「オオオオッッ!!」」

 奥にいる娘の元に走ったお市。

「母上」

「茶々、兄上がきっと助けに来てくれます。それまで初と江与の面倒をしっかり見るのですよ!」

「は、はい!」

 

 

 お市とさえにとっては二度目となるはずだった籠城戦。しかし事態は急展開した。蒲生、滝川、筒井は援兵を出した。そして佐和山と安土の間で佐久間勢を捕捉したのだ。秀吉の運命は風前の灯であり播磨における戦は柴田の勝利で疑いない。確かに安土野戦と賤ヶ岳の戦いにおける恩賞を蒲生と筒井はまだ受けておらず、滝川も岐阜城と大垣城奪還の恩賞をまだ受けていないが、いま勝家の本拠地安土を救うことは、より恩賞の値を上げる好機と見た。それゆえ手間は惜しまない。

 

 これが盛政の誤算だった。盛政の家臣は三武将と決戦はせず、安土に入るお市とさえを奪うべきと主張したが盛政は戦うことを決意した。それが離反を生み、盛政は保身を図る家臣たちに縛りあげられてしまったのだ。何ともあっけない幕切れと言える。知らせを聞いてお市とさえも安堵した。我が身はともかく子供たちが戦火に巻き込まれるのは避けたいのは母親として当然のこと。それが何ごともなく終わったのだ。

 

 さえが鉢巻を解いたころ、お市に呼ばれた。

「玄蕃は檻車に乗せられ、姫路へと連行されたそうです。残る佐久間軍も急ぎ金沢へ引き返したとのこと」

「はい…。それにしても…家臣に裏切られるなんて」

「玄蕃も哀れですね…」

「どうして謀反などを…」

「それは明家が一生かけて考えなければならぬことです」

「…その通りです。どうして友となれなかったのか…。こういう事態になったからとはいえ佐久間様が悪いとは限りません。良人明家に落ち度があったのかもしれません。佐久間様は処刑されましょう。でもその死を良人明家は無駄にしてはならない…」

 

 この時、檻車に押し込まれた盛政を蒲生氏郷が見ていたが、氏郷は

『玄蕃は何か安堵したような顔をしていた』

 と、後に柴田明家に伝えている。処刑直前、盛政は静かに笑みを浮かべて明家に

『この人質作戦が失敗した時、何故かホッとした』

 こう言っている。これは負け惜しみではなく紛れもない本心であったのだろう。こういう話が史実として残っているので佐久間盛政の謀反は本能寺の変同様に後の歴史家を大変悩ませることになる。叛旗を翻した理由は佐久間盛政当人にしか分からないことなのかもしれない。

 

 明家自身、石田三成に『俺が一生かけて考えなければならないこと』と言っているが、この後の柴田明家が盛政の謀反について明確な答えを出したとは史書に書かれていない。後に明家の側室になる盛政の一人娘の虎姫ならば何か聞いていたかもしれないが虎姫は父の謀反について語ることはほとんどなかったと言われている。

 

 

 姫路の柴田陣で佐久間盛政は斬首となった。処刑場に連行される前、盛政は初めて柴田明家、いや水沢隆広を褒めた。『天下の才』だと。盛政の首は首台に置かれて勝家と明家の前に置かれた。明家は盛政の首に合掌した後に首から流れていた血に自分の太刀の下緒に染み込ませた。

「佐久間様が認めて下された天下の才を振るうところ、ずっと側にいて見ていて下さい…」

 隆広の太刀の下緒はこの日より『玄蕃の血紐』と呼ばれることになる。

 

 

 そして柴田軍に包囲された姫路城は炎上落城した。農民から織田家の軍団長にまで上り詰めた戦国の申し子、羽柴秀吉は滅んだ。天守閣で妻のおねと共に自決して果てたのだ。おねが用意しておいた花火に引火、姫路城の落城は美しさすら感じさせた。勝家は

「あの男らしい…。華やかな最期ではないか…」

 柴田勝家はこの時、日本最大勢力大名となり、天下人に一番近い男になった。

 

 播磨からの帰途中に京都に入り、勝家と明家は正親町天皇に拝謁。

「修理亮、そして美濃守」

「「ははっ!!」」

「織田信長は恐ろしい男であった。あの男は本気で朕を討つことを考えていたであろう。しかし、どんな思惑があろうとも権威が落ちぶれた朝廷を復興させてくれた。朕はそれを素直に評価したいと思う」

「「ははっ!!」」

「その信長に仕えていた家臣が今では天下に一番近き者となった。朕は武家と共存していきたいと思う。それがまことの気持ちである」

「「ははっ!!」」

「美濃守」

「はいっ」

「この国の民は戦にもう疲れておる。そなたの手で戦なき世を構築せよ。それが朕の望みであるぞ」

「はっ!!」

 

 京都御所を出た勝家と明家。

「つい最近まで牢人だったそれがしが天皇に拝謁する時が来るなんて…」

 額の汗を拭く明家。

「そりゃお互い様だ。儂もつい最近まで尾張の田舎侍だったからな。実感が湧かんわ」

「でも…本当に柴田家が日ノ本最大勢力の大名となってしまったのですね…」

「ふむ、それもまた実感が湧かんな…。お互い越前と加賀だけで手一杯だったのに、今では若狭、丹波、近江、山城、摂津、和泉が事実上柴田の領地となっている。まあ石高は毛利や北条の方が上かもしれないが濃尾の将も上杉も味方につけ、京を領地としている以上は最大勢力と言えよう。しかし、それを束ねていくのは大変であるがな」

「でも、やるしかないのですね父上」

「そうじゃ。図らずも我らが歴史に選ばれた以上、やるしかない」

「戦のない世を作るために」

「うむ、きっと隆家殿も今ごろあの世で息子自慢をしていよう!儂にもお前は自慢の息子だ。頼むぞ二代目!」

「はいっ!!」


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