天地燃ゆ   作:越路遼介

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外伝さえ 十五【二人の側室】

 柴田明家は父の勝家より家督を譲られて柴田家当主となった。この時の明家は二十三歳と言われている。日本史において、もっとも若い天下人候補と言えるだろう。

 そして同じく二十三歳のさえ。今までと全く自分を取り巻く状況が違う。日本最大勢力大名の正室。まさか自害まで考えた自分がそんな立場になろうとは想像もしていなかった。

 

 安土城下の明家の屋敷、住んでいたのは二ヶ月ほど。柴田明家の御台所として安土の奥に入る。さえは一つの書を手にしていた。それは良人明家がさえに述べた『図らずも俺は柴田家の当主となることになったけれど性根は変わらない。けして驕らない。お前もすずも子供たちもだ』に始まる自身への戒めの言葉。

 ふと自分の着ている着物を見れば豪奢そのもの。安土入りのため義母お市が用立ててくれたものだ。

「驕るまいぞ。大きくなればなるほどに周りが見えなくなるのが人の弱さ。しかし当家の旗印である『歩』の気持ちは絶対に忘れない」

 

 柴田家御台所として城に入るさえ。廊下には家臣や侍女が並び、自分に頭を垂れている。並の女なら優越感にひたるところだ。正直先日に良人が『けして驕らない』の戒めを自分に言わなかったら『裏切り者と呼ばれる朝倉景鏡の娘が天下人の御台よ!』と痛快な気持ちを堪能していただろう。

 しかしそれを思うのはならぬこと。さえは『慎まねばならない、慎まねばならない』と自分に言い聞かせて廊下を歩き、やがて奥に着いた。大御台所、お市が出迎えた。

 

「さえ、本日よりそなたが奥の総責任者です」

「はい」

「…よい顔をしています。大名の正室になったとて、さえは北ノ庄の小さな屋敷ですすをかぶっていたころと変わりませんね」

「初心を忘れることは『歩』の旗に恥じることですので…。良人が柴田家当主になると分かって以来、自身に『驕るまい』『慎まねばならぬ』と言い聞かせています」

「ならば、今さらさえに申し渡すことはありません。家を営むやりようは今までの水沢家と同じ。所帯が大きくなっただけです。貴女は柴田家の女将さんなのですから」

「はい」

「では私は良人の勝家と共に城から出ます。辰五郎殿が琵琶湖に浮き城を建てて下さっていますが出来るのは少し先。今まで明家とさえが住んでいた屋敷に移ります」

「大御台様…」

「しかし娘たちは置いていきます。義姉としてしっかりしつけなさい」

「分かりました」

 

 部屋を出て行きかけたお市、何か思い出したように立ち止った。

「そういえばさえ、貴女…金森を許すよう明家殿に願い出たそうね」

「は、はい」

「でも、さしもの明家もそれは聞けなかった。無理もないわね。筑前と水面下で繋がっていたとあっては…」

 

 賤ヶ岳の合戦で何の戦闘行為もせず敵前逃亡した金森長近。

 彼は秀吉と裏で密約をか儂ていたのだ。許されるはずがない。命だけ許されたのは幸運でも何でもない。長近はさえの父である朝倉景鏡の旧領である越前大野郡を与えられており、景鏡の居城である大野城と違う場所に新たな大野城を築城して居城としていたが、召し上げのうえ士籍も剥奪され追放処分を受けた。頭を丸めて許しを請うが勝家は聞く耳持たず、明家もまた私情を捨てて厳しく対するしかなかった。秀吉との天下分け目の戦であった賤ヶ岳。そんな大事な合戦で去就に迷い大将を立てられぬ将など必要ない、ということだ。

 

 伊丹城の戦いでは若干十六だった総大将水沢隆広を立てた長近。若い総大将を侮る兵たちを厳しく監督し、隆広勝利に貢献してくれた。そんな長近を追放しなければならないのは明家とて断腸の思いだった。まして愛妻のさえが

「金森様のご正室の香様には大変な御恩を受けました。どうか金森の家をお助けして下さい」

 と、願い出てくる。気持ちは分かる。さえがお市の侍女になった時に教育係となったのが長近正室の香である。あまりの厳しさにさえは毎日泣いていた。当時は怨んだものだったが、その厳しい教育があればこそ『お姫様』から脱却でき、一人前の武家娘となれたのだ。明家にとってもさえを指導してくれた香には感謝している。さえの料理や裁縫の腕前は香より伝授されたものだし、良妻と呼ばれるさえの器量の土台を作ってくれたのも香の指導によるものだ。

 

 長近は郡主から一気に無宿者となってしまった。城明け渡しを拒否して城を枕にして討ち死にも考えた。しかしそれは恥の上塗りでしかない。大野にいる香に書を届けたさえ。長近は無理だが香を安土の奥にて召し抱えたいと云う内容だった。かつての教え子の優しさが嬉しかった香。

 だが受け入れるわけにはいかない。金森長近は織田信長の人事により柴田勝家の寄騎となったので勝家は主君ではない。

 しかし、だからと言って秀吉と結託したうえ敵前逃亡をしたと云う理由にはならない。裏切って地位や家を保てればまだ良かったが、完全に裏目となった。賤ヶ岳は若殿明家が敗戦をひっくり返してしまった。

 

 卑怯なうえに暗愚、かつて大野郡を有していた朝倉景鏡と同じ不名誉な文言で喧伝される長近。家臣も次々と去っていく。残ったのは家族だけだ。香は見捨てなかった。

 裏切るのは辛く苦しいこと。良人なりの苦渋の決断であり、それが報われなかっただけ。まして本能寺の変で大切な息子を失っていた長近、私が最後まで付き合ってあげなければと思った。だからさえの申し出は断り、生まれたばかりの娘を抱いて良人と大野を出て行った。

 

 ここからは後日談となるが長近はそれよりしばらくして身を寄せていた寺で亡くなり、香は小さな畑を耕して細々と暮らしていった。だが病に倒れ、娘が柴田家に助けを求めた。さえが香の元に駆けつけた時には、すでに手の施しようがなかったが城下の病院の源蔵館に連れられ、安らかに息を引き取った。さえは香の娘を養女とした。桂姫である。後年に松山矩孝の正室となる。

 

 

 話は戻る。

 柴田家の御台所として安土の奥に君臨することになったさえ。すずもまたすず御前と呼ばれる。自室に案内されたが豪華な調度品が部屋に置かれている。侍女が気を利かせて置いたのだろう。

「すごいねすず、一度は夜盗まで落ちぶれた藤林家からお大名の側室が出るなんて」

 と、舞。

「こんな豪華な調度品が置かれた部屋じゃ殿が落ち着かないわ。夜閨の時はすずだけを見ていてほしいのに…」

「あら、すずの裸はこんな調度品より貧相と?」

「失礼ね!とにかく調度品は撤去してもらって。この部屋に来た殿には私と干したフカフカの布団があればいいの!」

「はいはい」

 城内にいる時は一応すずの侍女と云う名目の舞。藤林家の女を呼んで片付けさせた。落ち着くと部屋に座り、すずと話した。

「しかし殿が日本最大勢力大名となるなんてね」

「本当、いまだ信じられないわ」

「こんなことなら殿の戦場妻を続けていれば良かったかな。ふふっ」

「まあ舞、六郎殿に言い付けるわよ、そんなこと言っていると。ふふっ」

 

 変わらない、そう言った明家。大大名になっても何かと云えばさえの所に来ていた。今日も夢中で抱き合う二人。

「今日も良かった。とろけたよ」

「私もです」

「また盛ってきたよ。もう一回いいかな」

「はい、何度でも」

 

 ようやく満足した明家はさえを腕に抱きながら話した。

「いま佐久間家に降伏勧告を出している」

「確か黒田様が使者と…」

「うん、降伏してくれれば良いがな。俺は佐久間家を討ちたくない…」

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 佐久間家が降伏に応じたと知らせが届いた。さえもホッと胸を撫で下ろした。

 しかし降伏に伴い佐久間家から要望されたことはさえに受け入れがたいことだった。奥に来た明家、さえと向かい合うが中々言いだせない。

「あ、あのさ、さえ」

「はい」

「ゴホッ!ゴホッ!」

 

 この咳払いで自分に言いにくいことなのだと分かる。その言いにくいことは何かも分かる。女性関係だ。明家は当時一般的であった男色を毛嫌いしているが女は大好きである。男色に一切興味がなかったのは羽柴秀吉と柴田明家くらいだと言われている。それゆえか、秀吉は大変な女好きであった。明家もまた女が大好きだ。正室さえを一番愛しているのは確かだが『英雄、色を好む』の例えどおり、さえとすず、そして舞以外にも肉体関係のある女はいる。

 

 明家のような将は戦場で御陣女郎を買うわけにはいかない。その女郎が刺客であることも考えられるからだ。舞が最初の戦場妻になっているが、もう辞している。

 現在も藤林家の女が明家の戦場妻を務めている。さえはこのことを知らないと明家は思っているようだが、さえはしっかり知っている。だが戦場と云う緊張の中、妻の自分が癒してあげられないのだからと半ば黙認と云う形を執っていた。その明家が女性関係のことで自分に何か切り出す気だ。

 

「…女子でも作りましたか」

「い、いや、あの…」

「別に取って食べたりしません。正直に言って下さい」

 余所の女に子供でも生ませたか、と思ったが明家は

「さ、さえ、側室を増やす」

「は?」

「側室をもう一人作る」

「……」

 

 目をつぶる明家。さえを正面から見られない。

「理由を言って下さい。もう当家に男子は二人おります。そして私もすずもまだ二十三、いかようにも殿の子を生んであげます。それなのに側室を作ると言う、その理由を聞かせて下さい」

 穏やかに言っているが、明家にとっては信長の威圧の方がまだマシだと思うほどだ。また世間一般のもっともらしい理由の『側室を多く持ち、子をたくさん成すのは当主の務め』では納得しないと暗にさえは言っている。明家は真横に顔を向けて話しだした。

「佐久間家から要望で…」

「誰と話しているのですか。ちゃんと、私の目を見て話して下さい」

「…じゃあ睨むなよ。亡き信長公顔負けの眼光だぞ」

「そうさせているのは殿じゃないですか。とにかく私が納得する答えを聴かせて下さい」

 

「…佐久間家が降伏の条件として提示したのが玄蕃殿のご息女の虎姫を俺が側室にするということだった。謀反をした経緯があり、かつ佐久間家には玄蕃殿の血を引く男子がいない。俺の子を当主に据えたいと云うことだ。それならば過去に謀反したと云うことがあっても御家取り潰しなんてないからな」

「……」

「亡き信長公は時に少しの落ち度で容赦なく家臣の家を取り潰した。そして過去をほじくり返して追放する時もあった。玄蕃殿の奥方はそれを危惧したのだろう。虎姫が俺の子を生めば佐久間は安泰と」

「…虎殿の歳は?」

「ん?確か十六かな。さえ、お前も会っているじゃないか」

 

 確かにさえと虎姫は一度会っている。小松城攻めで重傷を負った盛政を水沢勢が救出したのだが、その後に盛政の妻の秋鶴と虎は水沢家に礼を述べに行っている。当時虎姫は十歳くらいだったか。

「十六…。ずいぶんと若いのですね」

「さえだって二十三だろ。七つしか変わらない」

「そんなに若い娘がいいのなら勝手にして下さい」

「お、おい、さえ!」

「ご心配なく。奥向きの仕事は御台所としてきちんと果たします。ただし、当分私は殿に抱かれたくありません」

「そ、そんなぁ…」

「ふん!」

 完全に怒らせてしまった。明家は言い繕いも何もしていない。あったことをそのまま話している。しかしさえには佐久間家から望まれたんだから仕方ないだろうと言っているようにしか聞こえなかった。いっそ『虎姫が可愛いから』とでも言えば、しょうがないなで済んだかもしれない。説得失敗だ。

 

 納得に至っていない。虎姫は御台所のさえに認められないまま明家に輿入れしてきた。奥に入ったがさえは目通りを許さなかった。

 廊下でさえと会った。虎姫は道を譲り、さえに頭を垂れたが、さえは一瞥もくれず無視。虎姫の侍女は激怒。

「何ですか、その態度は!いかにご正室様と言えども!」

「やめなさい!」

 さえは侍女の怒鳴りも無視した。虎が侍女を止める。

「しかし姫様、今の御台所様の無礼は!」

「今に分かりあえます。父と殿が最後に分かりあえたように」

 

「御台様」

「なにか」

 さえの後ろを歩いていた侍女の千枝が言った。

「殿は閥を許されない方です。今の態度はいかがなものかと」

 横にいたしづは唖然として千枝を見た。昔と違い、さえは柴田家で二番目に偉い人物。いわば女帝に近い存在。そのさえに注意をするとは。立ち止まり振り向き千枝を睨むさえ。さしものさえも、まだ少女と言える千枝の注意が癪に障ったのかもしれない。

 

「…ならば、私にも虎姫に頭を垂れよと?」

「はい、形だけでもそうすべきと思います」

「出来ません」

「しかし御台様…」

「あの人が悪いのですから」

 

 こういう具合に明家とさえは夫婦喧嘩の最中だ。明家は何度も謝っているがさえの機嫌は直らない。すずもさえの味方だ。

 しかし、さすがに公私は使い分けている。家臣たちの前や行事の際には良人を立てて、笑顔も見せる。そして喧嘩を子供たちに悟られないようにするのも暗黙の了解でやっている。機嫌は悪いが、自制はしているさえであった。

 

 でも喧嘩しているのは、やっぱり明家にも気が重い。自然虎姫の寝所に足が向く。

「さえが虎を無視したそうだな」

「いえ、そんなことは」

「隠さなくていい。そういうのは耳に入ってくる」

「はあ…」

「すまないなあ…。さえはまだそなたの輿入れを認めていないのだ…」

「いえ、いつか分かりあえると思っています。父と殿が分かりあえたように」

 虎姫は着物を脱いだ。父の盛政が武芸を仕込んでいたため虎姫の体は引き締まっている。乳房は小振りだが形が良い。かつ十六の若さ。明家でなくても夢中になるだろう。毎晩虎姫の寝室に行っているとなればさえとすずとて面白くない。そんなに若い娘が良いかと。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

「代が替わったばかりの柴田家。殿は私たちに言わずとも、新当主として相当な苦労をされていましょう。虎姫を抱いて心身の癒しをしていると思います」

 と、すず。そんなことは分かっている。今までその明家を癒し続けたのはさえとすずなのだから。さえは一つため息をついた。

「私も癒して差し上げたい…。でも、ここで甘い顔できないもの…」

「御台様…」

「頭では殿も私たちと喧嘩したままでいるのは良くないと分かっていると思います。でもすずの言うように代替わりした柴田家の内外を取り仕切るのに殿は大変な思いをしています。私たちとの融和まで気が回らないのでしょう」

 さえは自分に言い聞かせるようにすずに言った。

 

 その翌日、すずが城にあがった。そして明家の執務室に行き

「殿、お話があります」

 小姓と近習を下げさせた明家。

「怖い顔だな。さえとそなたはまだ俺を許さないか」

「当たり前です。連日虎姫を抱いていれば、日中どんなに御台様に謝っても意味がありません。何を考えてらっしゃるのですか!」

 ついにすずは明家に意見した。

 

「もしや『受け入れてくれるのが虎姫だけなんだから仕方ない』なんて思っていませんか?だとしたら、智慧美濃の異名が聞いて呆れます。御台様はああ言っていますが、本当は夜に部屋に来てもらいたいのです!寝る前にちゃんと湯に入り、化粧もしているのですよ!」

 ちなみにすずもそうしている。明家は苦笑し

「…難しいものだな女心ってのは。追えば逃げて、放っておけば怒る…」

「虎姫を遠ざけろとまで申しません。せめて二日三日慎んで、それから御台様に謝って下さい。私も間に入って取りなしますゆえ」

「そうしよう。しかし、それはもう少し先の話だ」

「は?」

 

「すず、上杉から援軍要請が来た」

「上杉からですか?」

「越後と出羽の国境まで出陣しなければならない。さえとそなたとの仲直りはその戦から帰って来てから腰据えてやるよ。最上と伊達が相手だからな。初めてみちのく武士と戦うのだから、こちらに集中したい。ずるいと思われようが妻との不仲を気に病んで出陣はしたくない。今から帰城まですっぱり忘れる」

「は、はい…」

 

 戦に備えなくては、と言われれば武将の妻としてそれ以上言うことは出来ない。確かにさえやすずにとってはずるいと云う感もあるが、戦に出る以上は明家の考えは正しいことだ。

「分かりました。それならば御台様と私も一度矛を収めます。今は越後での戦に集中して下さいませ」

「ああ、ありがとうすず」

 

 

 すずから伝え聞き、さえの頑なな心も氷解しつつあったが、さえが我が耳を疑うことが伝えられた。

「つ、月姫を側室にしたですって?」

 

 当主不在の佐久間家は総領娘を君主に娶せ、その子を当主にしようと考えた。そして明家はそれを受け入れた。当主不在で総領娘がいるのは小山田家も同じ。小山田家の重臣たちと投石部隊の主なる者たちが君主明家に直談判した。どうか当家の姫を側室として欲しいと。明家はそれを聞くや

「主水、その方主家の姫を人身御供にしようとは何ごとか!!」

 怒鳴り返したが、それはとんでもない誤解だ。

「さにあらず、我が姫は安土夜戦より殿に恋をしておりまする!」

「安土夜戦より?月殿に何かあったか?」

「それはあまりに無責任!殿は姫に『小山田投石部隊見事、さすがは甲斐国中で随一の勇将小山田信茂の精鋭たちよ』と申しました!姫様はあの言葉で殿を愛してしまったのです!」

「…ちょっと待て。俺はそんなつもりで言ったのではない。そなたらの見事な働きを小山田家総領娘である月殿に伝えただけだ。信玄公の言葉をそのまま真似ただけだろう?」

 

「あまりにも言った間合いが絶妙すぎたのでございましょう」

 かたわらにいた慶次が笑った。

「笑いごとじゃない慶次」

「姫様には何としても若君を生んでいただかなくてはなりません。しかし姫様は殿でなければ嫌だと譲りません。叶わなければ尼になると!」

「……」

「殿、なにとぞ月姫様をご側室に!」

「「殿!!」」

「「小山田家総意のお願いにございまする!!」」

 

 困り果てる明家。断るにしても理由が必要だが、その理由が『御台をこれ以上怒らせたくない』では、いくらなんでも退かないだろう。

「殿、小山田家の戦闘力と高い新田開発能力、お家再興の暁にはより励み、頼りになるかと」

「助右衛門、そなたまで」

「奥方が怖いことは分かります。しかし殿はもう水沢隆広ではないのです。柴田家当主、柴田美濃守明家なのです。多くの子を成すのは柴田家の強固に繋がること」

「し、しかし…」

 

 助右衛門は事前に小山田家より協力を要請されている。彼自身が言ったように小山田家の戦闘力と新田開発能力は柴田家に必要なものなのだ。家老として協力するのは当然である。

 多くの子を成すのが大事なのも道理。現在のように医学が発展していない当時、夭折する子供は多く、さえが聞けば怒りそうだが、世継ぎと目される竜之介も成人するまで生きるか分からないのだ。だから子を多く作るのは当主の義務と云える。

 

「殿、何とぞ我らのお家再興の悲願を!!」

「「殿!!」」

 ついに根負けした明家は

「分かった…。月姫を我が妻としよう」

 小山田家臣たちは歓喜した。知らせを聞いた月姫は

「この乱世にて惚れた殿御に嫁げるなんて月は果報者」

 と、大喜びだった。

 

 

 しかし、これを伝え聞いたさえは激怒。月姫は十七、また若い娘を!さえは奥から出て城にいる明家に怒鳴りこもうとしたが助右衛門に道を塞がれた。

 

「どいて下さい。もう許せません」

「恐れながら御台様、殿は城下の商人と用談中にございます」

 そんなことで退くと思うのか、実際に用談中であったのだが、さえは完全に冷静さを失っている。奥を出たら良人と自分の立場は『公』であるのを忘れている。

 

「大名になった途端に側室二人!しかもいずれも十代!私に対する裏切りです!」

「…御台様、殿は自分からその二人の女子を欲したわけではございませんぞ」

「だから何ですか!受け入れたのは殿ではないですか!断れば良いだけのこと!」

「御台様は側室を作ると云うのを、殿のただの性欲処理とでも考えておいでか?」

「違うというのですか!」

「違いまする。御家のためです」

「御家?正室をこんなに悲しませて何が御家だと言うのですか!」

「…御台様には、もう少し大人になってもらわねば困ります」

「分かったようなことを言わないでください!良人が好きなように女子を抱くのを認めるのが大人になるということならば、私はそんなの御免です!」

 

 廊下に座り、頭を垂れた助右衛門。

「筆頭家老として申し上げる。佐久間家は亡き玄蕃殿の薫陶ゆえ精強な先駆けの軍勢、小山田家は投石術で戦の先端を制す技を持ち、殿が舌を巻くほどの農耕技術を持っております。その両家の総領娘である虎姫と月姫を側室にしたるは両家に御家再興と云う悲願を叶わせ、より一層の働きと強固な誠忠と得んがため。それを柴田家の御台所様は誤りと言われるのですか」

「そ、それは…」

「北ノ庄の屋敷で水沢隆広様と睦み合っていた奥方ではなく、柴田家の御台所としてお答を」

「…奥村殿は卑怯です」

「……」

「嫉妬に狂う私がさぞや愚かしげに見えるでしょう。確かに正しいわ、ええ正しいわよ。御家再興となれば佐久間家と小山田家も殿に命を預けて一層働いてくれましょう。でも私はそんな理屈で割りきれません!ふざけないで!」

 さえは渾身の力を込めて助右衛門の顔を平手打ちした。微動だにせず黙って受けた助右衛門。

「……」

「奥村殿には私の気持なんか分からない。良人を取られた悔しさを」

「取られてなどは」

「取られたわよ!こんなことなら大名なんかになって欲しくなかった。北ノ庄で貧しくても二人で一緒なら…」

 泣きながらその場を立ち去るさえ。

「納得にはほど遠いな…。奥方との不仲に殿が影響されなければ良いが…」

 

 

 奥に戻り、自室で一人座っているさえ。拳を握り、肩を震わせている。燃えるような怒りと悔しさを顔に滲ませている。そんな事情と知らず竜之介がさえに甘えようとしたが

「駄目、竜之介」

 竜之介の腕を掴んだお福。

「姉上…」

「今日の母上に近付いちゃ駄目。機嫌が悪いみたい」

「え、母上何か病気なの?」

「違うけれど、とにかく今日は我慢しなさい。替わりに私に甘えていいから」

「駄目だよう。姉上には乳がないもん」

 さすが明家の息子。幼いながら女の乳房が大好きなようだ。

「し、仕方ないでしょ。私まだ九歳なんだもん。もう竜之介なんか知らない」

「あー、ごめんよ姉上~」

 

 さえの目から涙が出てきた。私は良人に裏切られた…。

「悔しい…。う、うう…」

 

 いよいよ上杉の援軍として越後に出陣する日も近くなった。月姫の輿入れは越後での合戦後となり、明家は家臣に命じて合戦準備を進めていた。何せ二代目となって初めての軍事行動である。ただ上杉を助けに行くだけではない、柴田にも大事な戦である。さえもそれは分かっている。公ではけして顔に出すまいと朝には気合いを入れている。

「よし!」

 両頬を軽く平手で叩いて気合いを入れる。奥にある明家の私室、朝には毎日の鍛錬に汗をかく良人がいる。庭で息子と共に木刀を振っている。その庭の縁台に歩いていくさえ。

 

「えい!」

「声が小さいぞ!」

「はい父上!」

「……」

 息子に対する笑顔は本当に優しいものだ。今は忘れよう、さえはそう思い水を入れたタライを持ってきて手拭いをしぼった。

「殿、そろそろ朝餉にございます」

「うん」

 さえの渡す手拭いで汗を拭く明家。まだ『仲直り』はしていないが息子の前では絶対に喧嘩の様相はすまいと二人は肝に銘じている。そもそも喧嘩は翌日に持ちこまさないとさえは決めていたが今回の良人の裏切りは許し難く、そうもいかない。

 

「さえ」

「はい」

「やはり宗闇和尚を竜之介の学問の師匠にしようと思う」

「師匠?守役ではなくて?」

「ああ、守役は前田利家殿と中村文荷斎殿と相成った」

「前田様と文荷斎様が…」

「厳しいであろうな…。だからさえ、そなたが竜之介を包んでやらねばな。それで修行に耐えられる」

「…顔は怒り、心で褒めるなんてものは子に通じない…。でしたね」

「そうだ。北条政子はそれで息子頼家の養育に失敗している」

 

「なに、父上、何の話?」

「ははは、竜之介の素振りも中々良い形になってきたと母上に褒めていたんだよ」

「本当に?やったぁ!」

 竜之介の嬉しそうな顔に微笑むさえ。

(私さえ我慢すれば…この幸せは続く…。良人は優しいじゃない、私にも子供たちにも。女癖が悪いことくらい耐え…)

 目をつぶり激しく首を振るさえ。

「どうした?さえ」

「い、いえ…。とにかく朝餉を」

「……」

(昨日、この人はまた虎殿を抱いたんだ。やっぱり許せない!)

 

 その夜のことだった。明家はさえの部屋を訪れた。二人きりである。

「出陣式には出てくれるのか」

「…言ったはずです。御台所として奥向きの仕事はちゃんとやると」

 明家の顔など見ない。

「助右衛門とやりあったらしいな」

「……」

「許せとは言わない。そなたが助右衛門に言った通り断れば良かっただけのこと。出来なかったのは…やはり内心虎と月が欲しかったからだ」

「そういうのを馬鹿正直と云うのです。正室に言うことではありません」

「やはり言葉では駄目だよな」

「…?」

 

 明家はさえを抱きしめ、そして押し倒した。強引に口づけをしたが、さえは振りほどいた。今まではそのまま目をつぶって受け入れたさえなのに完全に拒絶した。

「何を!」

「俺だって本当はさえを抱きたいんだ!」

「馬鹿にしないで下さい。抱いてごまかそうというのですか」

「ごまかす…?そんな言い方はないだろう!」

「とにかくどいて下さい。大声を出しますよ!」

「さえ…」

「それとも私をこのまま犯しますか」

 

 ため息を吐いて、さえの上からどいた明家、さえは起き上り乱れた着物を直した。

「昨夜、虎殿を抱かれたのでしょう。触れられたくございません」

「え…?」

「殿はずるい…。柴田家の御台として私が飲まざるを得ないことで虎殿と月殿を側室にいたしました」

「……」

「殿は…さえが自分以外の殿方に入れ替わり身を委ねたら愉快ですか?」

「そ、それは…」

「すずはいい。殿の命の恩人ですし、今では私とも良き友。でも虎殿と月殿はけして認めません。どんな事情があったとしても殿はさえを裏切ったのです」

「……」

「おやすみなさいませ」

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 いよいよ越後出陣となった。その前夜、

「はい殿、明日は出陣。いっぱい食べて下さいね」

 笑顔で給仕をするさえ。料理もさえの作ったものだ。漬物が美味い。戦国時代屈指の知将である柴田明家も妻のことになると笊である。すっかり機嫌が良くなったと胸を撫で下ろした。

 

 しかし、これは出陣前の良人は笑顔で見送らなければならないと云う武将夫人の鉄則に従ったまでのこと。先日にはお市にも釘を刺されていたので、腹に一物あろうとも笑顔で見送らなければならないのだ。やっと、さえを抱けるぞと思ったが

「すいません殿、月の物ですから」

 と、拒否。昼間の軍務で少し疲れていた明家はそのまま引いて寝てしまった。月の物、生理のことだが、それは嘘だった。まだ許すに遠く及ばないのに身を委ねたくない。機嫌を直したと疑わない良人の寝顔。求めてきたと云うことは本心からさえの機嫌が直ったと思っているのだろう。気のせいか安堵感も見える。

 

「万の敵勢を智慧一つで蹴散らす殿も…私のことには本当に笊なのですね。許しているわけがないでしょう…」

「ぐう、ぐう…」

「でもね殿、私はこのまま殿と不仲になりたくない。貧乏な時は仲が良くて、大名になったら不仲になった。そんな間の抜けた夫婦となりたくないの。上杉の援軍から帰って来た時、私に何かを示してほしい。側室を持とうが大大名になろうが私への愛に一点の曇りもないということを…。言葉ではなく行動で…。さすれば私も喜んで殿に抱かれます…」




次回、外伝さえ最終回です。

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