天地燃ゆ   作:越路遼介

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外伝さえ 最終回【永遠の愛】

 翌朝、晴天。柴田明家率いる軍勢は安土より出陣。安土城は織田信長が上杉謙信の進攻に備えて築城したと伝えられるが、その城から上杉への援軍に出るとは奇縁であるだろう。

 練兵場で出陣式を終えて、安土城下を軍勢が進む。軍勢の中ほどに明家がいる。城下の大通りで見送る領民や将兵の家族たちも整然と頭を垂れた。安土城門に差し掛かるとさえ、すず、虎姫、そして幹部夫人が並び、柴田軍を見送った。明家が前に来るとさえが深々と頭を垂れて、他の女たちも倣う。

 

 やがて安土を出て木之本街道を北上していく。軍勢最後尾が城下から出ると夫人たちの見送りも終わりだ。

「ふう…」

 何か憂鬱そうなため息をついたさえを見て、石田三成夫人の伊呂波が

「御台様、今回の戦は後詰と良人から聞いています。そう心配なさらず」

「違います。こんな作り笑顔で良人を戦場に見送った自分が悲しいのです」

 どんなに腹に一物あろうと戦場に送り出す時は心から無事を願う笑顔を見せるのが鉄則。しかし今の自分は顔は笑って心は激怒である。

「でも殿、さえにそうさせたのは殿なのです」

 

 見送りが終わり奥に戻ろうとした時、虎姫と目が合った。キッと虎姫を睨み、何も発せず、奥に歩いていったさえだった。肩を落とす虎姫。まるで佐久間盛政に嫌われた水沢隆広のようだ。

「すず様」

「え?」

「正室と側室が仲良くなることは出来ないのでしょうか」

「そんなことはありません。現に私と御台様は親しいですよ」

「私、幼いころ御台様とお会いしました。殿の横で優しく微笑み、そして私に金平糖をくれました。でも今は微笑むどころか睨まれてばかり…」

「虎殿、御台様とて菩薩じゃないのです。いつも優しく微笑んでいられるわけがないでしょう」

「……」

「御台様との融和を考えるのは良いですが、今は頑ななので、どんなことを言っても裏目に出るでしょう。殿の無事な帰りを日々願っていると聞けば御台様への印象も違います。亡き玄蕃殿の位牌に毎日お祈りしていなさい。それとなく私が耳に入れておきますから」

「はい、ありがとうございます」

 

 本来、柴田家の女は陰湿ないじめを嫌う気風がある。嫌うと云うより、それは女の恥と思っている。柴田家の男たちが尚武と騎士道を尊ぶのならば女もまた同じ。柴田家はさえとお市を初め、前田利家の妻まつや奥村助右衛門の妻の津禰、黒田官兵衛の妻の幸円など後の世に良妻賢母として名を残す女が多い。当時から夫人の鏡として讃えられていただろう。その影響から柴田家の女の気風は大和撫子と言える。いじめなど卑怯愚劣な行為は忌み嫌うことであった。

 

 しかしながら、嫉妬に狂ったさえは虎姫に対して自制が利かなかったようだ。無視や睨み、目通りを許さないなどの陰湿なことをしてしまった。侍女の八重や千枝が何度か諫言しても直さなかった。

 

 越後より明家が帰ってきたら祝言を挙げることになっている月姫が安土の奥へとやってきた。一足先に見学と云うことだ。月姫は侍女数名を連れてやってきた。

「安土夜戦以来に。小山田家の月にございます」

 意外にもさえはすぐに目通りを許した。安土攻防では共に篭城して戦った月姫に対して、さすがに無視は出来なかったか。

「御台様にはご機嫌うるわしゅう」

「うるわしゅうございません」

「は?」

「卑しい…。佐久間家と云い小山田家と云い、我が良人をよくも種馬扱いしてくれましたね」

「み、御台様?」

 

 さえの目が完全に据わっている。初めて会った時にさえは月姫と自分の境遇が似ていることを聞き、親しみを感じたか共に鍋を囲み調理場で楽しいおしゃべりに興じたものだ。だが今は完全に別人の様相である。

「かわいい顔してやるものですね。子種を得るためなら床でどんな淫らなことでもしそうです」

「そ、それはあんまりな仰せよう!」

「御台様!!」

 

 八重がたまらず諌めた。どうしたのか、そんなことを言う女に育てた覚えはない。さえはここ数日頭痛とめまいに悩まされていて機嫌は最悪だった。それは誰も知らない。さえは誰にも自分の体調不良を言っていないのだ。奥を預かり、まだ数ヶ月。病に倒れるわけにはいかないと強がっている。

 だが、こんな症状に見舞われるのも良人の女癖の悪さで生じた心労のせいと思っている。実は大病の予兆なのだが、そんなことにも気づかない。だから根源となった二人の側室には容赦なく尖がる。さえが後年に『私の人生の中でもっとも心が荒んでいた日々』と述懐しているほどだ。

 

「私も貴女と同じく、父を裏切り者と呼ばれております。貴女がどんなに悔しい思いをしてきたかは分かるつもりです。しかしだからと言って権力者に媚びへつらい種をもらおうなんて考えたこともありません。殿が大名でなく、一介の侍ならば貴女とて側室になろうとは思わなかったはず。何が『殿でなければ嫌』ですか。貴女は柴田明家ではなく、大名と云う地位と権力に身を捧げようとしているのです。いやらしい」

 

 月姫はうつむいたまま、さえの罵りに耐えていたが、後ろにいた小山田家の侍女がすさまじいほどの怒りの形相となっていた。主家の姫が侮辱されるのは侍女にとり一番許せないこと。侍女に気づいたすず。

「もう我慢なりませぬ!」

 侍女が立ち上がり、さえに殴りかかった。

「控えよ!」

 すずがさえの前に出て、拳を取って侍女を投げ落とした。

「うっ…!」

「月殿、今のは見なかったことにいたします。ここは私に免じてお引きを」

「すず様…」

「貴女の部屋は奥御殿西側中庭の手前です。鴨居に小山田家の家紋が彫られているので、すぐに分かるでしょう」

「は、はい…」

「殿のご帰城まで引越しは済ませておくように」

「分かりました。ここはこれにて…」

 月姫と侍女たちは去っていった。

 

「御台様、なぜあんなことを言ったのですか」

「本当のことでしょう?私は殿が貧しかったころから共にある。一つの魚の切り身を分け合い、火を炊く薪にも困ったときは抱き合って寒さをしのいだ。でも彼女たちは違う。ただ勝ち馬に乗っただけ。卑しいわ」

 ふう、とため息をつき

「いっそ、あのころに戻りたいものね…。貧しくとも本当に幸せだった」

「御台様、そんなことを言ってはなりません。殿は愛妻に腹いっぱいご飯を食べてもらいたい。冬には暖かい思いをさせてあげたい。そう思って一生懸命働いてきたのですよ。ただ愛妻に喜んでもらいたくて、幸せになってもらいたいと命をかけて。それなのに、その御台様が貧しかったころの方が良かったなんて言ったのを殿が聞いたらどんなに悲しむか」

 八重が諫めた。しかしさえの態度を改めさせるには至らない。

「殿が私とすずだけで満足していれば、こんなことは言いません。あの人は変わってしまった。いや私もね…。ふふっ」

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 それから数日が過ぎた。さえの頭痛とめまいは日に日にひどくなっていった。朝、奥御殿の広間に侍女たちが集まり、御台さえの言葉を聞くが定刻になってもさえは広間に現れない。八重が呼びにいったが返事がない。異臭がした。便のにおいと吐しゃ物のにおいだ。障子を開けるとさえは自分の吐しゃ物の中に顔をうずめて気を失っていた。

「み、御台様!!」

 慌ててさえに駆け寄る八重。顔面は真っ青ですごい熱だ。

 

「千枝、しづ!」

 尋常でない八重の声に大急ぎでさえの寝室に駆けた千枝としづ。

「お八重様、どうし…」

 千枝も絶句した。さえが意識もなくグッタリしていたのだ。

「早く医者を!急ぎなさい!」

「「は、はいっ!!」」

 失禁しているさえ。便を改めた八重は驚く。大便は水のようで、尿は血尿だった。

「な、なんてこと!御台様!ひ、姫様ぁぁッ!!」

 八重の言葉に返事をしない。完全に意識がない。呼吸はあるし心臓は動いている。八重は一瞬、虎姫か月姫が何か作為を、と邪推したが、

(めったなことを考えてはならぬ。とにかく今は姫様を助けなくては!)

 

 急ぎ医師が呼ばれ、さえの衣類と布団が交換された。話を聞いて大御台のお市も奥御殿にやってきた。

「さえ!」

 呼吸荒く、義母の声も届かない。

「どうしてこんなことに。今まで何の兆候もなかったのですか?」

 ハッと気づいた千枝。

「そういえば、ここ数日の御台様の言動はあまりにおかしかった。平気で虎姫様や月姫様を傷つけるようなことを言ったり、お殿様に捨てられたと被害妄想を言ったり!」

「確かに…。あれは病の兆候に伴って生じた痛みからの苛立ちであったのかもしれない…」

 

 八重も千枝の言葉にうなずく。脈を取っていた医師が

「おそらく、それが兆候と言えましょう。かなり前から頭痛とめまい、嘔気は感じられていたはず。御殿様が不在の今、御台所として倒れるわけにはいかぬと無理をされたのでしょう」

「そ、それで治るのでしょうか?」

「……」

 八重の問いに言葉が詰まる医師。お市が続けた。

「かまわぬ。本当のことを申せ」

「恐れながら…。もはや」

 千枝としづはワッと泣き出した。

「病名は何と申すのです?」

「破傷風か悪い毒虫に刺されたかと存じます」

 どうやら毒をもられたのではないらしい。八重はわずか安堵した。そして

「ど、どのくらいで死に至るのですか…」

「もって二月と存じます。同様の症状の患者を過去に何度か見ておりますが、いずれもそのくらいで亡くなりました。食べても嘔吐してしまい、いずれは水を飲むこともできなくなりましょう…。高熱と凍てつくような悪寒、激しい全身の痛みと下痢…。我ら医師にもどうにもなりませぬ」

「そうですか…」

「奇跡でも起きぬ限り御台様は…」

「分かりました…。千枝、医師に診療代を」

「は、はい…。ぐすっ」

「解熱剤と痛み止めの散薬を置いていきまする。それと寝汗に注意し、頻繁に布団と寝巻きを変えるように」

 

 医師は看護のやりようを指示して帰っていった。さえを見つめるお市。さえは苦悶している。

「う、うう…」

 ひたいににじんだ汗を拭う。もはや危篤と云えるさえだった。

「はあ…はあ…。と、殿…」

 越後への出陣のとき、顔は笑って心は激怒で良人明家を送り出したのを激しく後悔していたさえ。どんなに腹に含むところがあっても無事の生還を願い、心こもった笑顔で送り出すのが夫人の鉄則であり、さえも自分に課していたことだ。

 だが出来なかった。それは今まで良人に対して腹に含むことなどなかったからかもしれない。はたから見て恥ずかしくなるほどに仲睦まじい良人と自分。いつも体を寄せ合い頬を触れ合い口付けをしていた。他の女から見ても明家のさえへの溺愛ぶりは異常と云えた。

 

 戦国時代、一度出陣すれば生きて帰ってくるか分からない。だから一緒にいる時は互いの愛を夢中で確かめ合った。さえは良人の自分への溺愛振りをおかしいとは思わなかった。結婚初日から現在まで続いていれば、もはやそれが自然となる。全身で愛情を表現する良人が大好きで自分もそれに応えて身を委ねた。出陣の時は無事を願い、愛情込めた笑顔で見送った。

 

 しかし今回は出来なかった。良人に落ち度があるとは言え戦場に向かうのに嘘っぱちの笑顔で見送った。それがたまらなく申し訳なかった。大名の正室はおろか武将の妻としても失格だ。苦悶するなか、さえは悪夢を見た。

 

『ぐああッッ!!』

 戦場で敵兵に斬られる良人の姿だった。

『さ、さえ…!』

 無残に首を斬りおとされた。生首になっても良人の目は無念で開いたままだ。

『柴田明家、討ち取ったりーッ!!』

「い、いや…。殿、殿、さえを置いて逝かないで。一人ぼっちにしないで!!」

 悪夢にうなされ、涙を流しながら絶叫するさえ。

「姫様、姫様!!」

 さしもの八重もどうしてあげたら良いのか分からない。何も出来ない自分が悔しくてたまらない。

「どうして…私の娘ほどの歳の姫が…。変われるものなら…」

「八重…」

 涙を落とす八重の肩を抱く監物。

 

「母上様」

 妹の鏡姫を抱きしめながら涙を落とすお福。もはや血の繋がりなど越えた仲の良い母と娘となっていた。死んじゃいやだ。まだいっぱい母に甘えたい。妹の鏡は何も分からないようにお福にじゃれついている。竜之介はさえにすがりつき泣きじゃくる。

「母上、母上!!」

 城に攻め込まれ、目の前で子供たちが敵に斬られていく悪夢。病は心身傷ついていたさえにどこまでも残酷だった。

「いやああああッッ!!お福!竜之介!!鏡いッ!!!」

 

「お福と鏡はここにいます!母上様!!」

「母上!竜之介もいるよ!だから起きてよ!!起きてよぉ!!」

「何かとても悪い夢をご覧になっている様子…」

 と、すず。さえを心配そうに見つめている。正室と側室は不仲で当然と云う垣根を越えて同じ男を愛する親友である。歩行が不自由な自分を明家同様にいたわってくれた。

「藤林の薬師でも…もう手には負えますまい…。御台様…」

 

 パッと目を開けたさえ。

「はっ…。はぁ…。はぁ…」

「姫様!」

「母上様!」

「母上!」

「さえ、私が分かりますか?」

 意識が戻った。しかし

「おぐっ」

 嘔吐した。

「このままでは気道に吐しゃ物が詰まってしまう。体を横にして下さい!」

 すずの指示でさえの体を側臥位にした八重と監物。胃の中にもう何も入っていないさえ。胃液を吐きだす。

「う、うう…」

「母上!」

「りゅ、竜之介…」

「母上様」

「お福…。鏡…」

 

 涙を浮かべながら自分を見つめる子供たちがいた。

「な、なんだ…。夢だったのね…」

「御台様、具合は…」

 すずが訊ねた。

「…バチが当たったのね…。戦場に行く殿を嘘の笑顔で見送ったことが…」

「そんなことはありません。どうして今まで病を隠していたのですか?」

「病だったんだ…」

「え?」

「てっきり…殿が側室を増やしたことの心労だと思っていたから…」

「御台様…」

 部屋の中に虎姫と月姫がいることに気付いたさえ。

「虎殿、月殿…」

「「は、はい」」

「ごめんなさい…。大人げなかった。殿が二人に取られてしまったと思って…」

「……」

「頭では分かっていたの。側室を増やして子供をたくさん得るのは当主の務めなのだと…。それが柴田の繁栄に繋がるのだと…」

「御台様…」

「でも気持ちはどうしても収まらなくて…。殿の寵愛を独り占めしたくて…。御台所失格ね…」

「女なれば当然のこと。気に病むに及びませんよ」

 お市が諭す。

「大御台様…。私、もう駄目みたいです…」

「何を申すのですか。どうせ死すなら明家殿の腕の中で死になさい」

「……」

「もう越後の戦は終わったと報告が届いています。じき明家殿は戻りましょう。それまで気力を振り絞るのです。戦場から帰ってきた良人を笑顔で迎えるのが武将の妻でしょう!」

「はい…。殿が帰る日までは必ず…」

 

 さえは眠った。さえの額に触れるすず。

「熱が高い…。冷やさなければ」

 虎姫はすずに

「すず様、私にも出来ることはないでしょうか」

「では月殿も一緒に」

「はい、やらせていただきます」

「私たちは何をすれば」

「首、両脇、股間、すべてに水手拭を置きます。そこには太い血の管が通っています。御台様のお体を冷やすことが出来ます。私と虎殿と月殿でそれを繰り返しましょう。良いですね」

「はい、分かりました」

「千枝、しづ」

「「はい」」

「侍女たちを総動員させて御台様の着物と布団の洗濯をさせなさい。ひんぱんに替える必要があります」

「「はい!」」

 すずはお市に向き

「大御台様、私と八重殿が責任を持って看護に当たります。それゆえ…」

「分かっています。しばらく奥向きの仕事は私が復帰して務めましょう」

「ありがとうございます」

「八重」

「はっ」

「急ぎ明家殿に使者を送りなさい。御台、ご危篤と」

「承知しました」

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 一方、明家。上杉の援軍を終えて安土へと向かっていた。越前の北ノ庄に到着し、城主の毛受勝照の歓待を受けていた。勝照とは賤ヶ岳以来親密であり、明家の家督相続後は先輩面などせず若い主君を立てている。

 

「なるほど、奥方を怒らせてしまいましたか」

「そうなんです」

「そればかりは我ら家臣も殿をお助けする術はございませんからな」

 勝照正室の文華より酒を受ける明家。

「大殿(明家)、我が殿にも側室は数人おりますが正室の私を一番立ててくれています」

「おい文華!」

「大殿には今まで、すず様しか側室がおりませんでしたから二人を同じように愛していれば良かったのですが、二人増えて四人になってしまったら、どうしても一人一人に向ける愛情も薄くなりましょう。殿方はそう思っていなくても女子はそう感じてしまうものです。御台様が機嫌を損ねたのもそんなところと思います。だからみんな同じに愛すると云う概念は捨てて、まず正室第一と御台様と御側室様たちに示すことが肝要です。正室として何よりも大切にされるのであれば、御台様の頑なな心もほぐれてまいりましょう」

 

 目から鱗の明家。姿勢を正して頭を垂れた。

「か、かたじけのう!内儀のお言葉、まさに千金に値するもの!」

「ふふっ、お役に立てて嬉しいですわ」

「そうかぁ、全部公平に愛するべきと思っていたのが間違いだったか」

 腕を組んでふんふんと頷く明家。ようやくさえとすずとの仲直りに光明が見えてきたと思ったが、明家の耳に悪夢のような知らせが届いた。

 

「殿!」

 勝照の家臣が来た。

「なんだ。大殿の前で騒がしいぞ」

「申し訳ございません。安土より大御台様の使者が参りましてございます」

「母上の?荘介殿(勝照の通称)、通してかまいませんか」

「はい、これ使者を通せ」

 

 廊下を走ってくるお市からの使者。だいぶ急いで来たようだ。呼吸も激しい。

「も、申し上げます!」

「母上から何用か」

「御台様、ご危篤!!」

「なに…」

「突如の嘔吐、下痢、全身の痛み、安土の医師にも手に負えぬ状況と!」

「荘介殿、文華殿、ここはこれにて!!」

 

 取るものも取らず、急いで馬に駆けて一騎で北ノ庄から飛び出して行った。明家は一切休息を取らずに馬を駆った。北陸大返しでも休むことなく走った愛馬ト金はさすがということか。翌日には安土に着いた。

 

「ト金、ありがとう!!でも今は妻を優先させてくれ!!」

 明家は厩舎を預かる家臣にト金を任せて急ぎ城に駆け、甲冑をつけたまま奥御殿に入っていった。

「さえ、さえーッ!!」

「父上、こちらです!」

 お福が明家を呼んだ。

「さえ!」

 さえは苦悶していた。呼吸激しく発汗も著しい。

「さ、さえ」

「と、殿…」

 無事に帰ってきてくれた。真っ先に自分のいるところに来てくれた。大粒の涙を流して手を握ってくれた。

「寂しがらせたな。でももう大丈夫だ。俺がいるぞ!!」

「殿…。ごめんなさい。私は越後にご出陣の時に…」

「何も言うな。そなたにそんな思いをさせたのは俺のせいなんだ。そなたは俺の宝にて命だ。治ってくれ。女房孝行をさせてくれ!!」

 

 

 それから明家は懸命にさえを看護した。曲直瀬道三に覚悟しておくようにと言われたが明家はあきらめなかったのだ。下の世話だけ、さえが羞恥で嫌がるので八重、すず、お福に任せたが、あとは明家が全部やった。

「さ、寒い…。殿、寒いです…」

 布団を何枚も重ねて、火鉢を何個も運んできたのにさえの悪寒は収まらない。

「みな、席を外せ。何かあったら呼ぶゆえ控えていよ」

 さえと二人になった。

「これしか思いつかない」

 明家は越中一丁になって布団に入った。

「さえ、汗くさいかもしれないけれど我慢しろよ」

「殿…」

 布団の中でさえを裸にしてギュウと抱きしめる明家。

「はは、こんな時でもさえに触れると俺のナニは元気になっちゃうな…」

「…殿ったら」

「久しぶりにさえの笑顔を見たな。俺の女房の笑顔は百万石だ」

 少しずつだが悪寒が収まってきた。

「殿、暖かい…」

「うん、さえの体は暖かくて柔らかい…」

「…私はもう長くないかもしれません。病躯で良ければ私をこのままお好きなように…」

「元気になったさえをたっぷり堪能するよ」

「でも…」

「あきらめちゃ駄目だ。治っていっぱいいっぱい愛し合おう。今まで以上に。絶対俺はさえを離さないぞ」

「う、嬉しゅうございます」

 

 しかし病はそんな二人をあざ笑うよう悪寒の次には

「うっ…」

 その顔でもう明家は分かる。枕元のタライを取って、さえに嘔吐をさせた。胃の中には何も入っていない。胃液に少しの血が混じっている。しかも

「ガハッ、ガハッ!!」

 喉に粘液らしきものが詰まった。明家はとっさに口づけをして、その粘液を吸い込んだ。

 

「と、殿…」

「良かった」

 さえは涙が出るほど嬉しかった。いかに愛し合う夫婦でも喉に詰まった吐しゃ物を直接吸い込んでくれる良人がどこにいようかと。

「殿…。殿…」

「どうだ、吐き気は落ち着いたか?」

 優しく自分を案じてくれる。さえはたまらず明家の胸に飛び込んで泣いた。

「ど、どうした?」

「ごめんなさい…。側室を持ったぐらいで殿を疑ったりして…」

「いや、そりゃ俺が悪いんだから…」

 明家はさえの看護に入ってから側室に一瞥もくれていない。それはさえも知っている。

 

「殿は大大名になっても、さえを一番愛してくれているのですね…」

「当たり前だ。前に言っただろう。俺はさえが考えている以上に、そなたに夢中なんだと」

「殿…」

「さあ、俺がずっとついている。眠れ」

「はい…」

 

 さえは童女のように良人に甘えていった。それもまた明家の喜びである。さえは幸運であった。たとえ名医の曲直瀬道三に匙を投げられた大病であろうと、看護状況はおそらく日本一恵まれていたと言える。

 

 病人食は柴田家の料理人筆頭の星岡誠一(元の茶之助)が作り、美味であるのは無論、食べやすくて消化に良く栄養価の高い汁と粥を研究して調理した。高熱に伴う冷却や放熱と云った応急処置は八重とお福、明家の側室たちが交代で行い、一日中ついていた。息子の竜之介も学問や修業を終えると必ず母の元にやってきた。

 

 誠一の作った病人食をさえに食べさせたのは明家である。この当時、嘔吐すれば胃の中身は空になると思われていたが、先祖代々料理人の家だった星岡誠一はたとえ胃液しか出ようとも、全部食べたものを吐き出すことはなく、少なからず栄養は体に入ると知っていた。とにかく少しでも御台様に食べさせるように指示していた。

 

 また、この当時すでに柴田家には現在で云うスポーツドリンクに近いものも存在していた。沸騰した湯に適度に砂糖と塩を溶かして冷ましたもの。湯の量に合わせて塩と砂糖の分量も決められている。もっとも疲労回復に効く割合を分かっていたのだ。これは明家養父の水沢隆家が考案したもので、藤林家、そして明家に伝えられ、現在の柴田家に製法が伝わっていた。

 明家はこの回復水もこまめに飲ませたのだ。さえが柴田家の御台でなければ心得た病人食も食べられず、回復水も飲むことはなく、やがて死に至っていただろう。医療が進んだ現在とて、そうは受けられない手厚い看護だった。

 

「殿、両足の先が冷えて…」

「任せておけ」

 布団に両手を入れて右足を愛撫した。

「けしからんな冷え症め。俺の大事なさえのきれいな足をいじめて」

 竜之介が左足を愛撫した。

「母上、早く元気になって竜之介を抱っこしてね」

「うん、早く元気になりたい…」

 

 数日が経った。明家の懸命の看護のかいあって、さえは徐々に回復していった。自力で便所に行くことが出来て用便が足せた時には涙が出てきた。便所を出て脱力して倒れかけた時には良人が抱いて支えてくれた。そして布団まで良人の腕に抱きあげられて戻った。

「殿…」

「ん?」

「不謹慎かもしれませんが…私はこの抱かれ方がとても好きです…」

「ははは、そうだな、何かお姫様を抱っこしているみたいだから俺も気に入っているよ」

 良人の胸にそのまま顔を寄せる。

「さえは幸せです…」

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 数日の時が流れた。さえは奇跡的に快癒した。最初に診断した医師も曲直瀬道三も驚くばかりだ。勝家とお市、そして妹たちも安堵したことだろう。さえが死んだら柴田明家は抜け殻になる。茶々、初、江与も時に女手としてさえの看護をしていた。まさにさえの大病のため柴田家は大騒ぎとなったと言えるだろう。

 看病疲れで逆に明家が倒れてしまったので、さえが面倒を見ている。

 

「殿、アーン」

「アーン」

 柴田粥を明家に食べさせるさえ。

「美味しい?」

「うん、さえの作る御粥はいつも美味しい」

「その様子では、そろそろ庭の散歩くらい出来そうですね」

「しばらくこうしていたいな。さえとずっといられる」

「んもう、こんな甘えん坊の殿とずっと一緒なんて嫌にございます」

「ははは」

 越後出陣前の夫婦喧嘩など空の彼方に飛んでしまっていた。仲の良さに一層磨きがかかっていく夫婦だった。

 

 

 時は瞬く間に流れて行く。時に叱咤し、時には癒し、戦国大名柴田明家を支えて行くさえ。二人三脚で戦国乱世を生き抜いていく。

 子にも恵まれた明家とさえ。二人の子供に夭折が一人もいなかったのは本当に嬉しいことだ。側室のすず、虎姫、月姫、与禰姫と云った側室たちとも和を成して、柴田家の束ねとなった。明家が存分に働けるのも、さえが奥向きの仕事をよくやってくれているおかげなのだ。

 

 四国攻め、九州攻め、関ヶ原の戦いを経て、柴田明家は天下人となった。関東小田原攻めを終え、そして奥州を鎮めて、柴田明家は大将軍を名乗るに至った。さえは天下の御台所となったのだ。大将軍拝命の日の夜…。

 

「殿、お疲れ様にございます」

「うん、そなたのおかげだ。そなたが支えてくれたから俺は天下を取れた」

「お前さま…」

「そなたも御台所として大変であろうが今後も頼むぞ」

「はい、ついてまいります」

「覚えているか。いつか安土で言ったこと。『俺の快挙は大名になったことじゃなく日ノ本一の女子を妻としたことだ』と」

「覚えています」

「今も変わらない。さえは年々美しくなって…。本当に愛しくてたまらない」

「ふふっ、殿も美男に磨きがかかっていますよ。さすが私が惚れた方です」

「ありがとう、ははは!」

 

 二人は相変わらずだった。手を繋いで城内を歩き、庭で子供たちと蹴鞠で遊ぶ。明家は歴代天下人の中で一番の家庭人であったかもしれない。親兄弟が相争う戦国時代、しかし最後に天下を取った男は何より家族を大事にした男だった。

 公の場では明家のことを『上様』と呼ぶさえであるが、奥御殿にあると『殿』に呼び方を戻し、たまに『お前さま』と懐かしい呼び方をする時もある。

 

 

 その後、日欧と日清の役が発生。日欧の役が終わると、さえは意外な人物と再会した。

 大坂城で明家と欧州側の使節が用談したのだが、使節が明家にさえとの面談を求めたのだ。明家は快諾した。城主の間に召されたさえに使節の男は

「おう、サエ!」

「まあ、フロイス殿!」

 北ノ庄で会って以来だが、さえはフロイスのことをよく覚えていた。

「相変わらずビーナスのごとき美しさでござるナ」

「ふふっ、ありがとう」

 明家を除く諸大名は日本軍元帥の柴田明家正室と十年来の親友のように話すフロイスに驚いた。

「弾正殿(助右衛門)、御台所様とフロイス殿にどんな縁が?」

 島津義弘が訊ねた。

「フロイス殿が北ノ庄に布教に来た時、殿ご夫妻が歓待したと聞いております」

「なるほど、それが欧州側の使節となってやってくるとは運命のいたずらというとこかの」

 

 さえの手を握り再会を喜ぶフロイス。

「悔しいね~。タカヒロに負けちゃったよ」

「勝敗は時の運ですよ。ね、殿」

「ああ、運が良かっただけだ。あっははは」

「ははは、もう私は船に戻るけれど、以前北ノ庄で会った時、サエには友情の証しを渡していなかったことに気づいてネ」

「友情の証し?」

 ポケットから小箱を出したフロイス。

「『翡翠の首飾り』ネ、今回の戦でヨーロッパが勝っても負けてもサエに会って渡すつもりだったヨ」

「まあ、何と素敵な!」

「今回、敵味方になって戦ったけれども、日本とヨーロッパが仲良くなる前に必要なことであったかもしれないと思うネ」

「仲良くなる前に必要だったこと…」

「お互いを認め合うと云うネ。タカヒロもキリスト教を誤解していたみたいだけれど、今回戦ったことで誤解も解けて仲良くなれると思う。そうすれば今回のイクサで死んだ日本とヨーロッパの英霊たちも喜ぶネ」

「同感だフロイス殿。よくよく考えれば九州で見た奴隷船一つでキリスト教すべてを排除しようなんて我ながら少し短気だった」

「無理ないよタカヒロ、入ってくる情報は少ないうえ、民やオナゴを愛するタカヒロには許せないことをしてしまった教徒もいたのもまた確かだからネ」

「お互いのことをよく知って理解していれば、この戦も避けられたかもしれない。でもしてしまった戦をやり直しには出来ない。ならば両軍の英霊に応えるべく、日本と欧州はこれから理解し合って仲良くしていけば良いと思う。せっかく日本の総大将と欧州の全権大使が友なのだから」

「素敵、お前さま、大好きよ♪」

 あれが天下人の正室の言葉かと諸大名は痒くなってくる。

 

「タカヒロと共に日本のファーストレディーのサエと仲良くなりたい。その首飾りはサエと私の友情の証ネ」

「ふ、ふうあすとれで?」

「ファーストレディー。天下人の妻のことね」

「ファーストレディー…。ああ、何かすごくいい!」

「フロイス殿、亭主の前で妻を口説かないでくれよ」

 ドッと笑いが起きた城主の間。

「では私も友情の証しを。殿、これを差しあげても良いですか?」

 それは明家が十五のころ、主命で安土に行った時にさえに土産で買ってきて贈った櫛であった。貧しいころに良人が贈ってくれた物として、さえが肌身離さずに持っている大切な櫛だ。それをフロイスに贈ると云う。

「これが日本と欧州の友好の品となるのならば…」

「ああ、二つとない良い贈り物だ」

「はい、フロイス殿。首飾りと比べれば安いけれど、私の一番の宝物です」

「良いのでござるカ?」

「はい」

 櫛を受け取るフロイス。

「ビーナスの櫛ね。フロイスの、いやヨーロッパの宝にゴザル!」

 現在ポルトガルの国宝と指定されている『ビーナスの櫛』である。フロイスが日本のファーストレディーのサエから贈られたと伝えられる。

 

 

 その後、日清の役も経て戦国乱世は終息した。

 大坂幕府初代将軍として君臨する柴田明家。さえも将軍正室、世継ぎ生母として重きを成す。しかし明家とさえは、あの北ノ庄で過ごしていた時のように変わっていない。公式の場ではさすがに心得ているが、奥御殿に来れば昔のままだ。

 

「さえ~。治部(三成)がいじめるんだよ~」

 さえの膝枕に泣きつく明家。天下統一後に柴田明家と石田三成は笑顔で会話をしたことがないと言われるほど、毎日激論を戦わせていた。

 しかし、政治手腕において明家は三成に遠く及ばなくなっており渋々意見に従うことばかりだった。三成を排斥しては?と言ってきた者を罰して『俺が痩せても天下は肥える』と威勢のいい啖呵を切ってはいるが、やっぱり言い負かされるのは悔しいようで、妻に泣きついている。

 

「あらあら、治部殿ももう少し手加減してくれれば良いのですけどねえ」

「そうなんだよ。悔しい~!」

 さえにとっては手のかかる息子がもう一人いるのと同じ。こんな甘えん坊が日本全軍を率いて欧州軍と清軍を撃破しているのだから分からないものだ。だが、明家が甘えていたのはさえだけだった。側室や愛人にはけして甘えなかった。ある日も

「今日、助右衛門に怒鳴り飛ばされた。ちぇっ」

「政務をほっぽり出して、出雲の阿国さんの舞台を観に行ったそうで」

 怒鳴られて当たり前だ、時にこうして厳しいさえ。

「な、なんで知っているんだよ」

「貴方のすることなんて、すべてお見通しですよーだ」

「だって…すごく美人で舞も美しくて…」

「そんなに言うのならば側室か愛人に迎えればよろしいのに」

「分かっていないな。そういう女子は外で見て愛でるものなんだよ」

「はいはい、そうですか」

 

 

 やがて明家は将軍を辞して江戸城にやってきた。将軍を辞して、明家は再び土木の現場監督に戻り、第二の人生を謳歌していた。さえも豪奢な着物は脱いで、粗末な着物に前掛けをつけて毎日疲れて帰ってくる良人の夕餉を作る。若いころ、北ノ庄でそうしてきたように。

「さえの夕餉は本当に美味しいなぁ」

 満足そうに食べる良人の顔を見て微笑むさえ。

 

「殿、毎日本当に楽しそうですね。お若い時にも勝家様の元で土木の仕事をしておいででしたが、あの時は成果を出すためにピリピリしていた時もございました。でも今は肩の力が抜けて楽しそうです」

「うん、やっぱり内政家と云うのが儂の天職だったのかもしれないな。よくまあ天下など取れたものだよ」

「ふふっ」

「さえも大坂の奥にいたころより楽しそうだ」

「はい、毎日田畑にも出て、あの時より健康的な生活をしています」

「だから、さえは今日も美人さんだ」

「まあ、殿ったら」

「あ、そうだ。今度江戸川に舟橋を作ることにしたんだ」

「あの一乗谷の九頭竜川に作った時のと同じ橋を?」

「ああ」

「一乗谷の舟橋はもう十二代目だそうですが、今も九頭竜川の川面を気持ちよさそうに浮かんでいるとか」

「そうか、しかし…一乗谷に舟橋を架橋したのがつい最近のようだな…」

「本当に…。五十年以上経っているなんて信じられません」

 

 

 そして二人の最期の日がやってきた。桜を愛でる散歩をしたあと、柴田明家は愛妻さえの膝枕で眠るように息を引き取った。『愛している』それが最期の言葉だった。

「安らかな顔…」

 笑って良人は死んでいった。

「お疲れ様でした…殿…。私は…本当に幸せでした。今度生まれてくる時も、また私を見つけて下さい。私は何度生まれ変わっても、貴方の妻となりましょう…」

 脳裏に浮かぶ良人の笑顔、そして亡き父の顔。

「父上…。そして見たこともない母上様…。私もいま…参ります…」

 スッと目を閉じたさえ。良人を見送った直後にさえも逝った。夫婦同時に老衰で死んだのだ。

(お前さま…)

 さえの両手は明家の額と頬に触れたままだった。最後まで触れあっていた明家とさえ。

(大好きよ…)


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