天地燃ゆ   作:越路遼介

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この手取川退却戦、隆広の取った秘策は私と友人でひねり出したアイデアでしたが、よくまあ思いついたと我ながら気に入っております。


軍神対戦神

  一万の軍勢は地響きを立てて、隆広の陣に迫った。

「ふん、わずか二千、ひと揉みにしてくれるわ!」

 七尾城を陥落させて、まだ間もない上杉軍の士気は留まる事を知らない。寄せ手の大将である斉藤朝信、直江景綱も意気盛んで隆広の陣に迫った。時刻は夜半、隆広の陣場にはかがり火が赤々と灯っていた。

「なるほど、あの陣場の広さとかがり火の数、おおよそ二千と云うのは間違いなさそうだな。だが油断なさるな、景綱殿!」

「承知!」

 

 ドドドドッ!

 

 直江景綱、斉藤朝信の軍勢は隆広の陣場に突入した。だが

「な、なんだ!?」

 景綱、朝信の両大将は愕然とした。

「兵などおらぬではないか!空陣!」

 隆広の陣場は、山間の道に作られたものである。かがり火だけは多数赤々と灯ってはいるが、誰一人そこにはいなかった。

「しまった!罠だ!」

 朝信が叫ぶ。

「いかん!すぐに引き返せ!」

 景綱があとに続く兵に叫ぶ。しかし一万の軍勢がときの声を上げながら突入しているのである。それは届かない。隆広が作った空陣に上杉一万の兵は大挙して押し寄せた。しかも二千を見込む陣の中に一万である。その兵は一箇所に集まる形となってしまった。

 上杉の斥候兵が来るまで、隆広隊は確かにこの場にいたのである。隆広はあえて上杉の斥候兵が自軍を調査に来るまで待ち続けた。舞、すず、白がその斥候兵を見つけて、それを報告。斥候兵をあえて捕らえずに、自軍の場所と兵数に謙信に報告させた。そして隆広は違う地点にあらかじめ用意していた副陣に全軍を大急ぎで移動させたのである。

 上杉兵が一箇所に集まったその瞬間!上杉軍の前方正面、山間右斜め前方、山間左斜め前方の地点から一斉に鉄砲が火を噴いた!

「撃て――ッッ!」

 鉄砲隊を率いるは佐吉と白。三方から一斉に一箇所に集まった上杉軍に隆広の鉄砲隊が襲い掛かった!

「ぐああッ!」

「うぎゃあ!」

 鉄砲隊はおよそ二百であるが、それでもひとたまりもなかった。一箇所に集められ、かつ三方向から同時に撃たれているのである。上杉の兵士はバタバタと倒れていった。

 しかも、それぞれの鉄砲隊は織田信長が武田勝頼を打ち破った長篠の合戦で執った戦法。三列の横隊による交互の連続射撃である。

「こ、これは美濃斉藤家の鉄砲術『三方射撃』!」

『美濃斉藤家の軍略を継ぐ若者』、そう聞いていた直江景綱と斉藤朝信。しかしまさかここまで鮮やかにやってのけるとは想像もしていなかった。

 一箇所に敵を集め、三方から襲い掛かる必勝の鉄砲術。鉄砲を集める事では織田信長に大きく遅れを取った斉藤家が少ない鉄砲の数でより相手を壊滅できるように考案されたものである。隆広の養父である隆家が考案し、織田の軍勢を震え上がらせた戦法である。

 その父より伝授された鉄砲術に信長の考案した三段射撃も加わっているのである。一万の上杉軍はひとたまりもなかった。

 敵を一箇所に集めるための空陣計も父から伝授された作戦であった。そして、この攻撃をしている隊に隆広、慶次、助右衛門はいなかった。

 

 時を同じころ、勝家率いる織田軍は湊川沿岸で一向宗門徒と戦端を開いていた。勝家軍は士気が桁違いにあった。もしこの戦いに時間をかけたら、背後から上杉軍が襲ってくるかもしれないのだ。隆広の軍才は柴田家中誰でも知っているが、相手は軍神謙信、蹴散らされてしまうのではないかと云う危惧はあった。

 だが、その危惧が功を奏した。早く倒さなければやられると云う危機感が兵士を追い込み強くした。まさに背水の陣さながらである。

 

 そして、ここは湊川より西の地、上杉本陣。この鉄砲の轟音は後方に陣を構えた謙信の耳にも届いた。

「鉄砲!しまった!空陣計か!」

「父上!急ぎ我らも!」

「よし!繁長(本庄繁長)!景親(千坂景親)!至急援軍に向か…」

「父上?」

 

 ドドドドッッッ!

 

 上杉本陣に怒涛のごとく迫る隊があった。

「敵襲――ッッ!」

 与六が叫んだ。

「味な真似を!空陣計と呼応し敵陣突入か!迎撃に…ッ!?」

 謙信は突入してくる隊の旗と、そして先頭を駆ける武者を見て愕然とした。

 

「馬鹿な…ッ!」

 

 ドドドドッッッ!

 

「ふ、風林火山の旗!し、信玄!」

 上杉軍に迫る隊、それは隆広の旗である『歩の一文字』でなかった。それは上杉謙信の宿敵、武田信玄の旗『風林火山』であった。

 そして先頭を馬で駆る武者、それは信玄が頭に頂いていた『諏訪法性兜』。衣は赤い法衣。まとう鎧は『金小実南蛮胴具足』。そして抜いた太刀、それは武田家に伝わる『吉岡一文字』であった!まさに上杉謙信が川中島の戦いで見た武田信玄そのものであった。

「馬鹿な…!信玄だと!」

 そして信玄の両脇にいる右将は赤備えに旗は『紺地に白の桔梗』、左将は青備えに旗は『白地に黒の山道』、中心の武田信玄を守るように、共に上杉軍に突撃を仕掛ける!

 謙信と共にいた家老の本庄繁長も唖然とした。忘れようはずもない武田の騎馬軍団。

 しかし先年、精鋭を誇るその武田騎馬軍団は織田・徳川連合軍三千丁の鉄砲の前に狙い撃ちにされ惨敗し、山県昌景や馬場信房などの主なる将が戦死してしまい、もはや立ち直れないほどの叩きのめされた。

 武田勝頼の父、武田信玄は天正元年に上洛の途上に五十三歳ですでに亡くなっている。だが目の前に迫るのは紛れもなく武田信玄率いる騎馬軍団である。

「お館さま…!右は山県昌景!左は馬場信房!し、信じられませぬ…」

 謙信もまた同じだった。宿敵の信玄が今目の前に現れた。死んだはずの信玄が。

 謙信は信玄が死んだと知り、涙を流した。三日食を断ち、宿敵の死に報いたと云う。それほどに謙信は信玄を認め、そして尊敬もしていた。その信玄が現れた。自軍に迎撃の命令を出さぬまま、あぜんとしていた。だが武田との交戦経験が薄い上杉景勝と樋口与六は違った。

「父上!あれは信玄公ではありませぬ!敵の水沢勢が化けているのです!」

 景勝の懸命の訴えも謙信に届かない。だが景勝の妻である菊姫は信玄の娘である。彼の動揺も激しかった。

「下策を弄しおって!義父殿の姿を真似るとは言語道断じゃ!」

 景勝は馬に乗り、兵を鼓舞し迎撃体勢を執ろうと考えた。だが兵士たちの中には武田勢の強さが骨身に染みている者が数え切れないほどにいた。七尾城を陥落させて上がっていた士気が急降下していった。

「くっ 何をしている!陣列を組まんか!」

 だが兵士は動かなかった。いや動けなかったと云うべきか。

「景勝様!確かに兵法でも何でもない下策かもしれませぬ!ですが現実我らは水沢勢の術中に!」

「与六!おぬしまで何を申すか!我らは三万の軍勢ぞ!それが二千の水沢隊に敗れるというのか!」

 赤備えの甲冑を身につけた武人は、主人信玄を守るかのように先頭に踊り出た!それは恐ろしいまでの巨馬に乗る武人だった。

「我こそは山県三郎兵衛昌景なりぃ!」

 まさに鬼神を思わせる咆哮の名乗りであった!

 

 ブォンッ!

 

 山県昌景と名乗った武人は剛槍の朱槍をうなりを上げて振り回した!

 

 ザザザザッッ!

 

 上杉兵が次々と山県昌景の朱槍に倒されていく!

「うおりゃあああッ!」

 

 ザザザザッッ!

 

「ば、化け物だああ―ッ!」

「退け、退け―ッ!」

 

 真紅の甲冑を纏う武人を乗せる漆黒の巨馬は宙に舞うが如く駆ける!まるで天馬に乗る鬼神のごときに突き進む騎馬武者に上杉兵は圧倒された。

 景勝と与六はその山県昌景をあぜんとして見ていた。いや見とれていたという方が正しいかもしれない。

「なんと恐ろしい…だが与六、あの美しさはなんだ…」

「あの漆黒の巨馬は紛れもなく『松風』!水沢隆広配下、前田慶次殿と思われます。まさにいくさ人を狂わす武人!」

 

 ドドドドッッ!

 

 先頭の三騎に続けと、他の騎馬武者も怒涛のごとく駆けてくる。まさに戦国最強と言われた武田騎馬軍団そのものである。歩兵の槍隊も一糸乱れぬ槍ぶすまで突進してくる。

 巨馬に乗る山県昌景の朱槍の恐ろしさにはじまり、上杉の兵たちには武田騎馬軍団の恐ろしさが骨身に染みている者も多い。次々と道を開けていった。そして左の猛将も主人信玄を守るように走り出て山県昌景とピタリと並んだ。

「我こそは馬場美濃守信房!我の槍を受けてみよ!」

 馬場信房の黒槍は風車のように回転し上杉兵をなぎ倒す。山県昌景、馬場信房、二人の騎馬武者は止まらない。

 そしてその二人の後ろを駆ける信玄。実際の信玄よりは小柄であるが、その眼光の鋭さと覇気は少しも川中島の信玄に劣っていない。

 三騎の左右に黒装束の忍者が百人づつの縦列で続いた。人馬に長けた先頭の三人の騎馬武者に少しも遅れぬほどの脚力でどんどん上杉軍に迫った。忍者衆の先頭を走るのは、真紅の忍び装束に美しい肢体を躍らせる二人のくノ一。

「お命ちょうだい!『花蝶扇』!」

 一人のくノ一が刃のついた二つの鉄扇を怒涛のごとく駆けながら放った!

 

 ズザザザ!

 

 まるで命を吹き込まれてるかような二つの扇子が上杉軍の兵士をなぎ倒した!

 

「曼珠沙華!」

 さらにもう一人のくノ一は数え切れないほどの苦無を一斉に投げはなった。

 

 ザザザザッッ!

 

「ぐああああッ!」

「退け―ッ!退け―ッッ!」

 

 そして最後に信玄が吼えた!

「我こそは武田大膳太夫信玄なりィィッッ!進めェェッッ!侵略すること火の如しじゃああッッ!!」

「「オオオオオッッ!」」

 

 上杉景勝は信じられない光景を見た。上杉軍の黒備えの兵士たちが恐怖におののき、突入してくる軍勢に道を開けたのだ。まるで黒い海が赤い激流に分断されていくがの如く。

「バカな…!」

「景勝様!お退きを!」

 上杉謙信は少しも慌てていなかった。床机にすわり、静かに武田信玄を待ち、微笑をうかべ軍配を握った。

「ふっ…川中島と逆ではないか」

 もう謙信は目の前。山県昌景、馬場信房の両将が左右にバッと離れた。そしてその真ん中から信玄が躍り出た!

「お館様!」

「お館様を守れ!」

 

 ドカッッ!

 

 謙信の前に立った兵士二人は信玄の愛馬に吹っ飛ばされた。愛馬まで闘志の塊と思える。

 そして信玄、いや水沢隆広は謙信の名前、川中島合戦当時の彼の名前を、刀を振りかざしながら叫んだ。

「うおおおおおおッッ!」

 その太刀を弾き返すべく、謙信は軍配を振り上げた!隆広の刀が振り下ろされる!

「政虎――ッッ!」

 

 ギィィィィンッ!

 

 隆広の太刀と、謙信の軍配がぶつかった!その時、隆広と謙信の目が合った。謙信は隆広の太刀を受けながら微笑んだ。隆広もそれに答えニコリと笑った。そして一太刀、謙信と合わせると隆広はその刀を空に掲げた。

「駆け抜け――ッッ!」

「「オオオオッッ」」

 そのまま風のように、上杉軍本陣を駆け抜けてしまった。

「父上!すぐに追撃をいたしましょう!」

「よせ」

 謙信は、床机に座ったまま静かに笑っていた。

「しかし!このまま水沢勢を逃がせば我らはいい笑いものでございます!」

「いいからよせ、無粋な」

 隆広の走り去った方向を、謙信は見つめた。

「いい夢を見させてもらった…」

 

 隆広の軍勢は、上杉の背後を迂回して湊川沿岸に辿りついた。

「ふう、辿りついたか。昌景、信房、怪我はないか?」

「はっ 我らは無傷にございます。お館様こそお怪我など…」

 武田信玄、山県昌景、馬場信房はプッと吹きだした。

「おいおい!二人ともいつまでなりきっているんだよ!いいかげんバチ当たるぞ!」

 赤い兜を外して慶次が笑った。兵たちも笑っていたが、武士である以上、誰もが武田軍団には憧れたものである。その格好をした兵士たちも何か夢がかなって満足そうだった。隆広は馬上から将兵を労った。

「みなの者、大儀であった。あとは別働隊と合流を果たすだけだ。国許に帰ったら、殿に言上し褒美をとらすからな!楽しみにしておれよ!そなたらは柴田家の誇りであるぞ!」

「ハハッ!」

「ぃやった―ッ!女房にいいモン食べさせられるぞ―ッ!」

「忍者の皆も大儀だった。足が速いものなんだなァ、忍者って。騎馬にも走り負けしないなんて」

「も~、隆広様もっと違う点で褒めてくれませんか?すごい技をもっているなとか!」

 舞が拗ねて言うとすずや忍者衆も笑った。

「ははは、みんなにも合戦後賞与をとらすからな。すぐ里に帰らず北ノ庄見物でもしてゆっくりしていってくれ」

「「ハハッ!」」

「隆広様――ッッ!」

 佐吉が馬に乗って駆けて来た。

「隆広様、よくぞご無事で」

「ああ、で、殿の方は?」

「はい、見事に勝利を収めました。浅瀬も見つかりましたので、全軍渡河中でございます」

「そうか、よかった…」

「隆広様、殿の見つけた浅瀬と違う場所に浅瀬を見つけました。我らも」

「わかった。佐吉、その方こそ後陣の大将、大儀であった」

「そうなんです隆広様!私は今回佐吉殿を見直しました。見事に鉄砲隊を指揮しましたよ!始まる前は足震えていたから大丈夫かなと思ったのだけど」

 佐吉と共に走ってきた忍者の白が佐吉をからかうように言った。

「あ、あれは武者ぶるいと云うのです!」

「ははは、して佐吉、敵にいかほどの損害を?」

「ハッ、ご指示どおり比較的に馬を狙い、なるべく殺さぬように心がけました。数にして敵兵の二百か三百が犠牲かと思います」

「そうか、ならばいい」

 隆広はニコリと笑った。

「よし、合流は成したな。助右衛門と慶次、兵をまとめてくれ。みんな疲れているだろうが、急ぎこの湊川の東側から撤退しなければならない。佐吉が見つけた浅瀬で渡河を開始する。そこを渡りしばらく行ったら野営だ。そこでゆっくり休め。飲酒も許す」

「「ハハッ!」」

 隆広は後陣の佐吉たちに、あえて上杉の両大将の軍勢を殲滅するなと伝えておいたのであるが、それはある意味、この乱世に甘いことをする大将だと考えられる処置である。

 しかしそうではなかったのである。これにも緻密な計算が含まれていた。隆広は前もって言っていたのである。

『窮鼠、猫を噛むの例えもある。戦端を制し、追撃してこないと見越した時点で撃ち方はやめるように。なぶり殺しはしてはならぬ』と。

 後方に残される佐吉、白は大軍の上杉相手に情けなどかけるゆとりがあるはずがないと考えていたが、隆広の作戦は的中し、開始数秒で直江隊、斉藤隊は戦意を喪失した。

 佐吉たちは、隆広の恐ろしいまでの軍才に感嘆しながら、指示通りになぶり殺しはせずに退いたのである。誰一人として追撃はしてこなかった。佐吉が預かった隊には工兵などの非戦闘員もいる。しかもそれを守る兵も二百人しかいない。追撃を受けるわけにはいかなかった。

 

 どうしてあえて上杉軍を半壊以上にできる好機を逃したか、敵方の謀将でそれを見抜いた男がいた。

「申し訳ございません、まんまと計にはまり、三百近い損失を…」

 直江景綱、斉藤朝信は本陣に戻り、謙信に報告した。

「三百か、本来ならば全滅させることも可能だった計だったろうにな。才はあるが少し性格が甘い…」

 だが義将と呼ばれる謙信には、その隆広の性格が嬉しかった。

「いえ、そればかりではないでしょう」

「それはなんだ、与六?」

「水沢殿はあえて後陣を守る将に、二百か三百程度の犠牲に留めるように指示を与えたのだと思います。もし斉藤殿や直江殿の軍勢が全滅していたら、いかに大殿が止めようと、我らは報復に燃えて水沢殿を追撃したに相違ありません。水沢殿は自軍を守る意味でも、最低限の犠牲者に留めたのであろうと思います」

「確かにな、ふっ…与六、そなたの慧眼も鋭くなってきたな」

「恐れ入ります」

「それにしても、おぬしは何で水沢隆広と云う男を知っていたのか?」

「ほんの一時とはいえ、彼とは同門でございました」

「同門?」

「ええ、竜之介、いえ水沢殿は十二から十五歳に至るまで養父の隆家殿と共に、諸国を漫遊しておりました。それがしもちょうど同じころに父と旅をしていまして、厩橋の町にて彼と会ったのです」

「厩橋?」

「はい、その時の水沢殿は上泉信綱先生に剣の手ほどきを受けていました。それがしもその道場に立ち寄りましたので」

「なるほど、どうりでいい太刀さばきをしている」

 謙信はヒゲを撫でて、先刻の隆広の一太刀を思い出した。

「まあ、短い期間の修行で免許皆伝とまではいかなかったようですが、上泉信綱先生は、それがしにこうポツリともらしていました」

「ほう、なんと?」

「『あやつは我が殿と似ておる』と」

「我が殿…。長野業正殿のことか?」

「はい」

 長野業正、上州の虎と呼ばれた名将であり、上泉信綱の主君であった。武田信玄は大軍で長野業正の篭る箕輪城を攻撃したが、業正は老齢の身ながら寡兵を指揮し、ついに武田信玄を敗走させた。また上杉軍とは同盟関係にもあった。謙信自身もまた業正を認め、敵にしたらあんなに恐ろしい武将はいないと思っていた。

「ふむ、上泉信綱ほどの男がそう評したか。しかもまだ元服前の子供にのう。かつて信玄は『業正いるかぎり上州に手は出せぬ』と言ったそうだが、景勝もまた『隆広いるかぎり加賀、越前に手は出せぬ』と言う事になるのかのう?」

 謙信は笑みを浮かべて景勝を見た。

「そんなことはありません!敵手が名将ならば、むしろ望むところでござる!」

「よう言った。それでこそ上杉を継ぐものよ!」

「は!」

「さて、今回の戦は七尾城を取り、能登を領土に出来ただけでよい。これ以上進めば冬の到来まで越後に帰れぬ。死者を手厚く回収せよ。そして負傷者の手当てをせよ。本日はここに野営し、明日、越後に帰る!」

 

「竜之介…今回はまんまとしてやられたな!だがそなたのいる柴田殿の領地と我が上杉の領地は、門徒の国の加賀を挟んで隣接しているゆえ…また戦うこともあろう。その時まで健勝でな。次は俺がおまえの心胆を寒からす番だ」

 与六は闘志を胸に、野営の準備をはじめた。

 

 門徒を倒して、撤退していた勝家本隊に隆広からの伝令が届いた。勝家は渡河を終えて、自分の領土である越前の国境に到着していた。

「申し上げます!」

「うむ、隆広のところのくノ一じゃったな。戦況はどうじゃ?」

「上杉軍、後退しました!」

「な、なに?」

「隆広様は兵を一人も損なうことなく、現在、当方で見つけました浅瀬にて渡河を完了し兵を休ませるため野営の準備をしております」

 兵を一人も死なせずに上杉を後退させた。勝家も信じられなかったが、佐久間盛政、前田利家、佐々成政、可児才蔵もあぜんとした。そして隆広の伝令に出たくノ一も、あまり汚れてはいなかった。どんな戦い方をしたのか、勝家たちには見当もつかなかった。

「くノ一、隆広はどんな戦い方をしたのじゃ?」

 勝家の問いに、くノ一の舞は誇らしげに答えた。

「ハッハハハハハハハ!」

 舞から隆広の執った作戦を聞いて勝家は驚き、そして笑った。嬉しそうな笑いだった。

「なんと!武田信玄に化けて突撃か!」

「いや驚きましたな、そんな戦法は聞いた事ございませぬ。しかし、武田軍の装備の用意をしていたという事は、隆広殿は今回の敗戦を予期していたのでしょうか」

 ようやく笑いの虫がおさまった勝家は明智光秀の問いかけに答えた。

「かもしれぬな。たとえそうでなくても、武田の格好をして戦えば上杉に多少なり心理的な動揺を与える事もできる。いずれにせよ上杉に対して隆広なりに考えた隠し玉だったのだろう。末恐ろしいヤツじゃ。先が楽しみでならぬわい」

 

 柴田家中、いや織田家中にとっても比肩なき大手柄を立てた隆広。身分も侍大将から部将へ昇進し、慶次、助右衛門、佐吉は足軽大将に昇進したと云う。

 隆広が兵たちに約束した通り、この時の撤退戦で隆広隊にいた者は、足軽から忍者衆に至るまですべてが恩賞を勝家から受けた。二千で三万を後退させた快挙は勝家を大いに喜ばせたのである。

 この撤退戦の様子は後に信長も知り、名物茶器『乙御前の釜』を勝家に通し褒美として与えたと言われている。隆広はこの撤退戦で織田家中と上杉家にその名を轟かせた。水沢隆広十七歳のことであった。


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