天地燃ゆ   作:越路遼介

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軍神西進

 臨時評定の陣太鼓を聞き,隆広と直賢は家を出て城へと向かった。目の前で堂々と口付けをされて絹は赤面した。侍女の八重には日常茶飯事の光景だが。

「さえ姫様、いつも殿様は出かける時に…」

「うん、『男は外に出ると七人の敵がいる』とかどうとかで、外での安全のおまじない♪ 上手い事乗せられてしまって今ではすっかり習慣になっちゃって♪」

「は、はあ…」

「先日なんて、口付けからあの人興奮しちゃって…朝から…恥ずかしい!」

 聞いている絹と八重の方が恥ずかしくなってきた。

「で、でも殿様、さえ姫様と仲睦まじくしてらっしゃる時はとてもお優しい顔をしていらっしゃるのに、陣太鼓を聞いたとたんキッと引き締まりましたね」

「うん、さえに見せて下さる優しい顔も大好きですけど、あの引き締まった凛々しい顔は、さえもっと好き♪」

「あらあら」

 堂々とまあ、絹と八重は苦笑した。

 

 そして北ノ庄常駐の将が召集された。今まで別室だった奥村助右衛門、前田慶次、石田三成も先の小松城の戦いで勲功を上げているので評定衆の仲間入りを果たしている。吉村直賢はまだ家中に名が知られていないため、別室に控えているが議題が軍費になったら呼び出される事となっている。佐久間盛政の傷も癒えて、家老の席次である上座に座っていた。

「いよいよ本格的な加賀攻めの下知かもしれんな! 隣の加賀に門徒の国があると思うと枕を高くして眠れない。早いところ片付けたいものだ」

 小松攻めの時の評定と同じように、盛政はチカラを入れた拳で左の掌を叩いた。

「殿のおなり!」

 柴田勝家が評定の間に入ってきた。

「みな揃っているな」

「「ハハッ!」」

「みな、心して聞け。越後に放っていたワシの密偵から連絡が入った!」

「「ハッ!」」

「上杉謙信が春日山を出陣しよった!」

「なんと…!?」

 各諸将は戦慄した。いよいよ軍神謙信が織田に立ちはだかる時が到来した。

「知ってのとおり、謙信は一向宗門徒と和を講じ、出羽の最上に完璧な防備も配置し北条とは同盟を結んでいる。もはや後顧の憂いは何もない。越軍、京を目指し始めたわ」

(やっぱりそれか…)

 隆広の予想が当たった。

 

「まず、これまでの経緯を簡単に説明する」

 勝家が家臣たちに織田・畠山同盟に至るまでの経緯を話した。能登畠山氏の重臣の長続連が織田方に寝返り、上杉方の熊木城、富木城を奪回し、穴水城に迫るとの報を受けた。謙信は春日山城を出発、能登をめざし天神川原に陣を定めた。長続連は一族の長連竜を信長への援軍要請の使者として向かわせた。

 畠山氏の居城、能登七尾城。その君主である畠山義春には統率力がなく、重臣たちが虚々実々の駆け引きや謀略を繰り広げ畠山家の主導権を争っていた。畠山氏は一向宗への対抗上、越後上杉家と長きにわたり同盟間にあった事から、重臣の遊佐続光は深く上杉謙信と通じていた。しかし城内では反上杉方である長続連、綱連親子は密かに織田信長に通じ、同じく重臣の温井景隆は一向宗門徒と結んでいたため、能登畠山家を取り巻く状況は、もはや修復不能の泥沼状態と言って良かった。

 やがて城主の畠山義春が毒殺され、あとを継いだ義隆も病死してしまい、主君不在の城内には暗雲が漂っていた。この時、上杉謙信は畠山家臣たちの専横を除き、越後に人質として送られていた畠山義則を七尾城に入れて能登畠山家を再興するという大義名分をかかげ、能登へ侵攻を開始したのである。

 上杉謙信の本当の目的は、織田と結ぶ長一族を滅ぼし、上杉領を越後から越中、能登と拡大し、越後から能登に及ぶ富山湾流通圏を掌握する事だった。

 同時に謙信は足利義昭、毛利輝元、石山本願寺と結んで信長包囲網を作り上げていた。加賀と能登を完全に上杉領にされてしまったら、勝家の領土である越前は風前の灯であり、攻め取られるのも時間の問題。もはや謙信の勢いは安土まで止まらない。

「以上だ、何としてでも謙信の南下を加賀で止めなくてはならぬ」

 

「いよいよ…上杉謙信と…」

 隆広はゴクリとツバを飲んだ。つい数年前まで名を知っているだけの存在。まさに雲の上の人物であった上杉謙信。

 川中島合戦で上杉謙信と武田信玄と繰り広げた戦いの様子を父の隆家に聞き、胸をときめかせた自分。隆広少年には憧れであった武将と言っていい上杉謙信。その人物と戦う事になってしまった。軍神謙信と。

「隆広」

「は!」

「とても越前勢だけで謙信の南下は防げぬ。そなた慶次と共に大殿への使者に赴け。上杉謙信、春日山を出発、その数三万二千とな!」

「は! すぐに安土に発ちます! 助右衛門と佐吉は兵をまとめておいてくれ!」

「「ハッ!」」

「行くぞ慶次!」

「ハ!」

「他の者は出陣の準備を整えておけ! 援軍が到着しだい、加賀に出陣じゃ!」

「「ハハ―ッ!」」

 

 勝家は別室で控えていた吉村直賢を呼んだ。

「…と云う運びになった。商人司からいかほど軍費を出せるか」

「五千貫ほどにございます。あと米を三万石と云うところでしょう」

「うむ、助かる。この局面に本当に助かる! 米はそのまま兵糧で使うが、五千貫でできるだけ鉄砲と軍馬の手配を頼む」

「分かりました、できるだけ早く揃えます」

 不恰好な歩き方で去る直賢の後ろ姿を見つめる勝家。

「まこと経理に長けた者は貴重なものよ。隆広の人材登用の妙は、すでにワシなど越えておるな…ふふ」

 

 隆広は愛馬ト金、慶次は松風に乗って昼夜ほとんど休む事なく安土へと駆けた。戦国一の駿馬と呼ばれる松風よりさらに速いト金。後に競走馬の体躯をしていたと語り継がれるだけあって、隆広の馬術の腕も手伝い慶次が舌を巻くほどに速かった。

「隆広様、大殿はどれだけ援軍を派遣してくれるでしょうか」

 馬上から慶次が隆広に訊ねた。

「…徳川殿が信玄公に大敗した三方ヶ原の合戦ほどの援軍ではまず勝ち目はない。少なくとも謙信公の兵の一つ半は倍でないと無理だ。将も羽柴様や明智様が出向いてくれないと、かなりキツい…」

「やはり謙信はそこまで強いでしょうか」

「謙信公の領土には佐渡金山があり、直江津の流通は北陸どころか、東国屈指の利益を生んでいる。商才に長けた家臣や忍びも多い。つまり鉄砲の数は織田より多い可能性があるし、それに加えてあの『車懸りの陣』だ。二倍の兵力があっても互角に戦えるか分からない。そして決定的なのは謙信公の軍才。『神の心に悪魔の軍略』と呼ばれる軍神。一度として負け戦をした事がない常勝武将に当たる事を誰が望む。その名前だけで織田の将兵は震撼する」

「なるほど…」

 二騎の人馬は北近江を駆け抜け、南近江の安土城下へと到着した。

 

「ふう、ついた。腰がガクガクだ」

「このくらいで腰がガタついては奥方様を悦ばせられませんぞ。人馬もナニも腰です腰。自慢じゃないがそれがしの鋼の腰により、妻の加奈は毎晩嬉しい悲鳴をあげていますぞ」

「うん、そうだな、もっと鍛えて鋼の腰にして、さえをもっと気持ちよくさせてあげ…て、何の話をしているんだよ! 早く馬を厩舎に預けてきてくれ!」

「はいはい」

「ったく。しかしついた時間が深夜とは何とも間が悪いが、事情が事情だ。大殿に起きていただくしかないか」

「隆広様、預けてきました。さ、まいりましょう」

 

 安土城の門に隆広主従は到着した。

「誰か!」

 二人の門番がすごんだ。

「柴田勝家配下、水沢隆広に前田慶次にございます。深夜に無礼ですが大殿に火急の用があってまかりこしました! 至急目通り願いたい!」

「ハッ!」

 隆広と慶次は城の中に通され、信長を待った。

 

 ドスドスドス

 

 大きい足音が廊下に響いてきた。

 

 ガラッ

 

 障子か勢いよく開いた。

「ネコ! 慶次! 謙信入道が動いたか!」

「ハッ! 上杉謙信、春日山を出陣! 北陸街道を西進し、はや越中加賀の国境に!」

「とうとう謙信動いたか!」

「ハッ その数三万二千! とうてい越前勢だけで謙信公の南下は防げませぬ! 援軍を!」

「あい分かった! 能登畠山から援軍を請う使者も来ている。いよいよ謙信とは雌雄を決しねばなるまい。権六を総大将にして織田全軍で迎え撃て!」

「ハッ!」

 

「お蘭!」

「ハッ」

「お蘭! その方、当家の諸将に早馬をとばせ! 『謙信上洛の意思あり! 春日山を出陣して北陸街道を西進! 至急北ノ庄に集結せよ』とな!」

「ハハ―ッ!」

「あ、ありがとうございます! 大殿!」

「別にお前のためでも権六のためでもない。何としても加賀領内で謙信を止めなくては大変な事になる。ネコもさよう心得よ!」

「ハハッッ!」

 隆広と慶次は少しの仮眠を安土城内でとり、翌朝に安土へ来ていた畠山の使者である長連竜を伴い北ノ庄へ引き返した。そのころ北ノ庄では…

 

「舞、すず、白」

「「ハハッ!」」

「今回、我ら藤林一族は隆広様の軍勢に合力する。忍兵二百、至急北ノ庄に赴けと里に伝えよ。無論云うまでもないがいかにも軍勢然として来ぬようにと付け加えろ。旅の者、商人風に化けてポツポツとやってこいとな。城の者が混乱する」

「「ハッ!」」

「我らは柴田家にではなく、水沢隆広様に加勢するのである。藤林一族、稲葉山城の落城以来の合戦だ。おぬしらにとって集団合戦は初陣! しかもその二百を率いるはお前たちだ! 気合を入れるのだぞ!」

「「ハハッ!」」

 源吾郎こと、藤林一族の上忍柴舟の命令で三人の忍びは里へと駆けた。今回の合戦に柴舟は出ない。藤林忍者頭領、銅蔵の密命により万一の時は隆広の家族を救出するためであった。

「隆家様…。いよいよ我らご養子君に助力にございます。敵は上杉謙信、腕が鳴りまする」

 

 上杉軍が能登に陣をはったと云う報告が入った。能登の畠山氏の居城、七尾城を落とすためである。上杉軍はその七尾城の支城である石動城の攻撃を開始し始めた。急がねばならない。そして織田の諸将も北ノ庄に向かい、数日後には丹羽勢、滝川勢が到着の見込みである。

「佐吉殿―ッ!」

 北ノ庄の米蔵で兵糧の数を確認していた石田三成の元に、松山矩三郎がやってきた。

「ハアハア、助右衛門様から伝言です」

「何でしょう」

「今回の上杉との戦、また我らが兵糧奉行になったとの事」

「またですか?」

「はい、勝家様から直接に助右衛門様へ下命されたようです。しかも…」

「まだ何か?」

「北ノ庄に集結する織田全軍の兵糧を確保し、運搬せよと…」

「なあ!?」

 石田三成が絶句するのも無理はなかった。目の前の米蔵には、とうていそれほどの量はない。戦において必要なのは資金と糧食である。隆広の尽力でだいぶ北ノ庄の資金や兵糧も充実しているが、織田全軍の胃の腑を長期にわたり満足させるだけはない。

「北ノ庄に集結可能な織田全軍の兵数は…およそ五万てトコかぁ…。どうしよう…」

「助右衛門様も『いかに佐吉でも…』と困り果てておりました」

「確か直賢様から三万石の提供があったと聞いたけれども…ない袖はふれないよ」

「佐吉―ッ!」

「隆広様? 安土から戻られたのですか」

「ああ、まったくさえとイチャつく時間もないな。ところでまた我らが兵糧奉行だって?」

「そうなんです。そして…」

 織田全軍の兵糧を確保し運ぶように勝家から下命されたと話した。

「どうしましょう御大将、商人司の吉村直賢様も勝家様から軍馬と鉄砲の買い付けの直命を受けられたから助力を請えませんよ」

「隆広様、集結する将兵たちは自前で兵糧を用意してはくれないのですか?」

「それが…召集状には『北ノ庄のネコがメシは揃える。当面の兵糧だけ持ち大急ぎで勝家の元に行け』と記されていたそうだ。だから各将は本当に当面の食料しか持ってこないだろう。まあ、そうでもしなければ集結に手間取るからなァ…」

「なんて事です…。大殿は隆広様が無限の兵糧を出す不思議箱でも持っていると? ああ、どうしよう…」

 三成は頭を抱えて座り込んでしまった。さすがの名能吏石田三成も八方塞がりだった。

「まあそう言うな。続きがある。大殿から八千貫引っ張り出した。これで何とかならんか?」

「は、八千貫!?」

 バッと三成は立ち上がった。

「ああ、殿も納得している資金だ」

「八千貫あれば何とか確保できます!」

「頼む、しかし買い占めすぎて米の値段があがり民の生活が困る事なきよう、一箇所から買わずに分割して揃えてくれ!」

「御意!」

「よし、兵糧の確保は任せた。金は城の勘定方に一旦預けて公金にしたから、そこから改めてもらってくれ。百の兵を与えるからそなたが指揮を執り大急ぎで頼む。出陣まで何とか揃えるのだ」

「はっ!」

 石田三成は穀倉庫の役人も連れて、米の買い付けに向かった。

 

「あとはそれを運ぶ人間の確保だな、佐久間隊、可児隊、金森隊、拝郷隊、そして留守居の文荷斎様の手勢を一部づつ借りよう。これで何とかなるだろう。各備えに交渉に行こう」

「あの…」

「なんだ矩三郎」

「さしでがましいようですが、佐久間様には…」

「今は出陣前だ。個人の不仲など関係あるものか」

「それはそうですが…」

 だが、やはり矩三郎の危惧したとおりになった。錬兵場の佐久間隊の備えに向かうと…

「断る、小松での戦いでただでさえ手勢が不足しておる」

 と、隆広の顔さえ見ずに盛政は邪険に返事した。

「…分かりました。失礼いたします」

 あの時の小松の戦いで佐久間隊は壊滅に近い損害を受けた。しかし生き残った将兵たちは隆広の隊に救われている。大将が隆広を嫌おうと、部下たちはそうではない。

「殿、先日の兵農分離の新兵を入れて佐久間隊は四千、合戦時は無理でも行軍中ならば水沢隊に兵を割く事は…」

 と、盛政の側近がとりなしたが、その側近を鬼の形相のごとく睨む盛政。何も言えなくなってしまった。

「佐久間様、無理を言って申し訳ございませんでした」

「分かればいい。さあ、さっさと消えろ。こちらは忙しいんだ」

 犬でも追い払うようにシッシッと手を振る盛政。矩三郎は隆広の後ろで歯軋りしていたが、どうしようもなかった。佐久間隊から立ち去り、他の隊に向かっている時、とうとう矩三郎は我慢しきれずに言った。

「なんてお方だ! 敵は上杉だというのに味方同士でいがみ合ってどうなると!」

 隆広も怒り心頭と思っていた矩三郎だが、隆広は微笑んでいたのである。

「御大将! 悔しくないのですか!」

「そりゃ悔しいさ。でも佐久間様は初めて、ちゃんと理由を言った」

「り、理由?」

「『手勢が不足』『忙しい』。たとえウソでも理由を言ってくれた。相変わらずオレは嫌われているようだけれど…わずかな一歩でも近づけたと思えないか?」

「は、はあ…」

「なあに、まだまだ融和の機会はあるさ! さあ矩三郎、今の事は忘れて可児隊の場所まで競争だ!」

「は、はい!」

 

 隆広は可児隊、金森隊、拝郷隊、中村隊から運搬兵を借り付けた。その他、荷駄車やそれを運ぶ軍馬の手配も円滑に済ませた。他の諸将ではこうすんなり軍務処理は進められない。柴田勝家が水沢隆広に兵糧奉行を任命したのは人事の妙と言える。三成も米やその他の食料、酒も無事に調達し終えた。

 丹羽隊、滝川隊、明智隊、羽柴隊と云う主なる軍団長も到着し、その将兵らの接待には水沢家が当たったから、家中の面々は女衆も駆り出され、目の回るような忙しさだった。しかしそれだけ柴田家中で重用されている証拠でもあると、グチをこぼす者は皆無だった。さえも隆広家臣の妻である津禰、加奈、伊呂波、絹ら女衆の指揮を嬉々として行い、各将兵たちの接待に当たった。

 そして吉村直賢が軍馬三千頭、鉄砲五百挺を献上し、勝家と隆広を大いに喜ばせた。

 

 源吾郎が隆広に面会を求めた。三成も立ち会った。

「隆広様、注文の品にございます。お改めを」

「うん」

 源吾郎が献上した三つの大きな箱。その中身を見て三成も驚いた。

「隆広様…! これは…!」

「うん、最悪の事態にはこれを使う」

「最悪の事態?」

「つまり、敗走の時だ。追撃してくるのは謙信公。振り切れるはずもない。これを使い突撃する」

「心理作戦ですか」

「そうだ。謙信公に生半可な兵法など通じない。逆にこんな二流の陳腐な策のほうが有効というものだ」

「なるほど」

「しかし、源吾郎殿、よくこれだけの数を…」

「長篠付近の農民に当たったら比較的すぐに揃いました」

「長篠…。武田大敗の地ですか」

「はい、近隣の農民が野ざらしの兵から剥がしたのでございましょう。ご丁寧に血糊や肉片に至るまですべて洗われておりました」

「うん…」

 隆広はその品に合掌した。

「無念のままに死んでいった英霊の装備、粗略にはすまい」

 源吾郎が隆広に頼まれて用意したもの。それは武田軍の鎧兜と風林火山の旗印である。隆広は軍神謙信との戦いに少なからず敗戦を予期していた。だからそれに備えて用意したのである。

 上杉謙信の宿敵である武田軍。上杉軍には武田軍の強さが骨身に染みている者も多い。これを装備すればわずかだが動揺を誘える可能性がある。特に上杉謙信が武田信玄に対して思う事は敵味方を越えたものがある。それを利用しようと考えたのだ。

 隆広は武田信玄の兜である『諏訪法性兜』をかぶり、そして複製された『吉岡一文字』を抜いた。

「いい仕事だ」

「はい、それはウチの工忍に作らせました。中々でございましょう」

「隆広様、それで赤い法衣を着れば、ほぼ外観は信玄公ですよ!」

「こいつは我ながら下策だが…軍神謙信公に手段など選んでいられない」

「同感です、さ、隆広様。こちらが山県昌景殿、馬場信房殿の装備です」

「うん」

 三成は考えた。これを使う場合は柴田軍の敗走時である。という事は主君隆広は殿軍を行うと考えた事になる。柴田勝家が総大将である以上、殿軍が必要な場合は府中三人衆か、北ノ庄の勝家直属の将が担当するのが当然である。

 しかし相手は謙信。彼の主君秀吉がやった金ヶ崎の撤退より数倍困難な撤退戦となるのは明白。三成は思うに申し訳ないと感じつつも、府中勢、他の勝家の将では追撃を食い止められず、全滅する気がした。

 となると殿軍の役をまっとうし、かつ生還を果たせるのは主君隆広のみと三成は思った。そしてそれを前もって読んでいる同い年の主君に戦慄さえ感じた。

「どうした佐吉?」

「い、いえ何でも」

「佐吉、運搬の責任者はそなたゆえ、この箱の中身を打ち明けた。しかし口外は断じてならない。敗走のための用意など言えようはずがないからな」

「御意」

「源吾郎殿、調達ありがとう。出世払いと云うムチャな約束だったのに、ここまで見事に」

「何をおっしゃいますか。それがし隆広様が殿軍の段まで考えていると聞いたときは驚愕しました。その用意をさせていただいた事は商人として誉れ。金などいつでも結構にございます」

「ありがとう! 無事に戻るよ!」

 隆広は翌年に源吾郎へ倍額近い金額で返済している。

「お留守中の掘割工事の続きやお家の事はお任せ下さい」

「頼りにしています」

 

 この武田軍の軍装は後に現実に使われる事となる。そして見事に狙いは的中したのであった。上杉謙信は突如現れた武田信玄に驚き、そして山県昌景、馬場信房の姿をした前田慶次と奥村助右衛門の獅子奮迅の戦いで武田軍の恐ろしさが骨身に染みている上杉軍三万は分断され、歴史に名高い川中島合戦とは逆の立場での武田信玄と上杉謙信の一騎打ちが実現された。上杉景勝と直江兼続に『水沢隆広恐るべし』を強烈に印象付ける結果となるのである。

 これは長篠の合戦で無念に死んだ武田将兵の英霊たちが、主君信玄と共に再び軍神謙信へ挑むと云う誉れに感奮し、水沢隆広に人智を越えた何かをもって加勢したのではないかと現実的な観点で戦国時代を見る歴史家たちも評す時がある。何故なら水沢隆広はこの退却戦において、ただの一兵も失う事が無かったのである。

 

 藤林一族の忍者たちも歩兵隊に姿を変えて、自然に隆広の軍勢に潜り込んだ。舞とすずも陣場傘をかぶり、男に変装した。禁欲生活となるこれからの行軍に彼女たちの肢体は悩ましすぎた。そして忍者隊も後に武田軍の装備を身につけた水沢隊と共に上杉本陣に突入する。忍者隊の先頭を駆けたくノ一二人は大将隆広の傍らにピタリとつき従い、華々しい活躍をする事となる。

 

 そして出陣前日、よく武士は出陣の前日は女を抱かないと言われているが、若い夫婦にはガマンできようハズもなく、そして…

「いよいよ上杉との合戦ですね…」

 隆広の胸板に顔をうずめて、さえが言った。

「うん…」

「お話でしか聞いた事がなかった軍神…。さえも怖い」

「勝敗は兵家の常、そして時の運。さえ、もし我らが武運つたなく破れ、上杉が城下に殺到したら、そなたは奥方様、姫様たちと共に最期をまっとうするのだぞ」

「はい…」

「さ、もう寝よう」

「…お前さま」

「ん?」

「も、もう一度…さえを」

「うん!」

 一度出陣すれば生きて帰ってくるか分からないのである。この当時の男女の繋がりは現在では想像もつかないほど太い絆であったかもしれない。隆広とさえは思う存分愛を確かめ合った。

 

 翌日、晴天。総大将柴田勝家の号令と共に、柴田勝家率いる五万の軍勢は北ノ庄を出発した。時に水沢隆広十七歳。戦国の世に彼がその武名を轟かせる手取川の撤退戦まで、あとわずかであった。




これで第1話から第3話の手取川の戦いに戻るわけです。我ながら洒落た書き方が出来たなぁと当時は思ったものです。あの上杉謙信相手に隆広がどう戦ったのか、もう一度読みたい方は再び第1話からどんぞ!
というわけで、次話は手取川以後のお話になります。

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