北ノ庄城下町拡大工事、そして九頭竜川治水工事が終わった頃には、さえ自慢のくびれた腰まわりもプクリと膨れていた。隆広はさえに膝枕をしてもらいつつ、二人の愛の結晶が宿る妻のお腹に頬擦りしている。ヒマさえあればこうしている。
「時々お腹を蹴ってきます」
「そうかぁ、元気な子が中にいる証拠かなぁ」
「お前さま、名前の方は考えているのですか?」
「男だったら、そのままオレの幼名の『竜之介』と名づけるけれども、女の子の場合はまだなんだ。監物と八重が結構考えているらしい。女の子だったら二人を名付け親にしよう」
「そうですね、二人とも喜びます」
「ところで、さえ」
「はい」
隆広はやっとさえのお腹から頬を離した。
「すまないが正月は一緒に過ごせそうにない」
「え?」
「殿と前田様と共に安土へ行く事になったんだ。来年から始まるようになったらしく織田の各軍団長が安土城の評定の間に集まり、今年の成果を大殿に報告する。なんでも『大評定』と言うらしい。ここで今年一年の働きを評価され、かつ翌年の織田家の方針が決まるんだ」
「そんな大変な席にお前さまが?」
「うん、殿が『お前も来い』と」
「名誉な事ではないですか。そりゃあ正月を一緒に過ごせないのは寂しいですが…」
「ああ、オレもそう思うよ」
「奥村様たちもお連れに?」
「いや、助右衛門たちには休みを取らせた。今は何の主命も受けていないし、正月は家族でゆっくり過ごすように伝えてあるよ」
「で、いつ発たれます? 安土へ行くのなら色々と用意しておかないと」
「八重にやらせるからいいよ。そなたは大事な身なのだから」
「大げさです! 少し重いけれども十分に動けます。身重を理由に夫の旅支度を億劫がるようでは武家の妻は務まりませんもの!」
さえは自分の仕事を取られたくなかった。
「あはは、では頼むとしよう。出発は明々後日の朝。少しの軍勢も連れて行くので安土まで三日ほどで、逗留は一泊程度らしいから都合七日か八日分の準備を頼む」
「はい!」
そして三日後。柴田勝家は五百の兵と共に、前田利家と水沢隆広を連れて北ノ庄城を出発し、そして大晦日に到着した。安土城下の民たちは年越しの準備に追われ慌しかった。
安土城には軍団長それぞれに屋敷もある。勝家は利家と隆広を連れて屋敷に向かった。やがて城下町を歩いていると、行列があった。それは安土の町から城の入り口までの長蛇であった。
「なんの行列だ?」
「かなり長いですね。殿、ちょっと調べてみます」
隆広が並ぶ者数人に聞いてみた。
「勝家様、見れば並んでいる者一人一人が何やら貢物らしきものを持っておりますな。安土や畿内の者たちが歳末の進物を大殿に届けているのでは?」
と、前田利家。
「ふむう、そうかもしれぬな。お、隆広どうであった?」
「殿、この行列は羽柴様が大殿へお届けする進物の列だそうです」
「なにぃ?」
勝家もだが、利家も驚いた。
「この長蛇の列、すべて藤吉郎が大殿に進物を贈る行列というのか?」
「そうらしいです」
忌々しそうに勝家は地を蹴った。
「ちっ! またしてもあの猿が! 行くぞ! 又佐、隆広!」
「は!」
この羽柴秀吉が織田信長へ届けた進物の行列は安土城の入り口から、城下町の外にまで至り、信長を大いに喜ばせたという。
『筑前は大氣者よ』
『かくも武将は筑前のごとくあるべき』
と、めったに家臣を褒めない信長が秀吉のこの振る舞いを手放しで賞賛したのである。隆広はその行列を見て思った。
(殿に…こういう演出じみた真似は無理だろうな)
だが、そんな主人勝家が好きな隆広だった。
勝家と共に柴田屋敷へ到着すると、明日の登城まで自由に過ごすがいいと許可されたので、隆広は手荷物を置くと城下町へと出て行った。以前に勝家からの使者で訪れた時より更に発展している安土の町を見たかったのだ。
この大評定のため安土へ赴く際、隆広は忍びたちにも休みを取らせた。正月をまたぐ遠出であったため、里でのんびり家族と過ごせと云う事であったが、すずだけ同行していた。いかなる時であろうと隆広に護衛をつけなくてはならないのが彼らの仕事である。そのすずを呼んだ。
「明日の登城まで自由だ。一緒に安土見物でもしよう」
と隆広はいい、すずは武家の小間使い風体の女に化けて、隆広と城下を歩いた。すずは安土城を見るのは初めてで、絢爛豪華な安土城の天主閣にただ驚いた。
「すごい…」
「どうだすず? あそこまで忍び込めるか?」
「無理です。実は私…高いところ苦手で…」
「そうなのか? あははは、実はオレもだ」
そんな会話をしながら歩いていると、武士たちがあわただしく駆けて行く様子が見えた。
「何でしょう」
「ちょっと行ってみるか!」
隆広とすずが武士たちに続いて走ってみると、その先には馬市が開かれていた。馬は当時の武将たちには大切な武具。特に名馬となると垂涎の的である。
安土大評定には軍団長の家臣たちも多く安土を訪れる。それを各地の馬商人は狙って市を開いたのである。奥羽や甲信越の名馬が多く売り出されていた。織田の若侍たちは目を輝かせて馬に見入っていた。
「隆広様、そんなに眼を輝かせて馬に見入るとト金が妬きますよ。牝馬は主人に他の牝馬の匂いがついていたら機嫌を損ねますから」
「そ、そうなのか?」
「馬も人間も、女心はそういうものです」
「うん…。では牡馬中心に見て周ろう」
元々、馬は牡馬の方がチカラはある。市では自然牡馬の方が多いものである。そして数頭見て周っていると隆広の眼に止まった馬があった。
「こいつはスゴい…」
「おや、お兄ちゃん。この馬の価値が分かるかい?」
「無論です。これは唐土の烏騅(項羽の愛馬)、赤兎(関羽の愛馬)に匹敵します!」
「よく分かっているねえ。ダンナじゃなくこの若いのに売ってしまおうかな」
「ま、待ってくれ! ワシが買う! 買うが…」
その駿馬をウットリして見ている武士がいた。隆広には知らない男だった。
「そんな事言ったって…ダンナ金あるのかい?」
「う…」
「いかほどなんですか?」
隆広が馬商人に訊ねた。
「黄金十枚!」
「じゅ…ッ!?」
貫目にすると、二百貫以上に相当する。隆広はそれ以上の額の金銭を縦横に操っているし、彼個人の収入もそれ以上はある。しかし家臣を雇っているため、そんな蓄えはない。
「はあ…。かような馬が欲しいと言ったらさえに怒鳴られる…」
隆広はすでにト金と云う駿馬を愛馬としていたからあきらめた。しかし同じくそこにいた男はどうしてもあきらめきれない。
「何だよ二人ともオケラかい! 駿馬を持ち、日ごろから合戦への備えをしておくのが武士の心得じゃないのかい!」
痛い事を馬商人に言われたが無い袖は振れない。男はトボトボと馬市をあとにした。
「隆広様、そう未練たらしく馬に張り付いていても買えないものは買えないのですから…。ト金で十分ではないですか」
「うん…」
隆広は仕方なくその馬をあきらめて、馬市をウロウロしているとさっき駿馬の横にいた男がまた走ってやってきた。
「あの殿方…。どうしてもあきらめきれないのですね」
と、すず。
「いや待て様子が変だ。何と云うか歓喜の気持ちを抑えられないと云うか…」
「オヤジ! 黄金十枚! 持ってきたぞ!」
「おおダンナ! いい買い物されました!」
男は代金を馬商人に渡すと駿馬に抱きついた。
「おお…! これがワシの馬だ! ワシの…!」
隆広とすずがポカンとして見ているのに気付いた。
「お! 悪いがこの駿馬はワシがもろたぞ!」
「と、当然です。それがしは金を出せなかったのでございますから!」
男は聞かれもしないのに
「あの金はの! 妻が出してくれたのだ…! 嫁ぐ時に実家から婿の大事に出せと言われておったとか! ワシは果報者…! 天下一の妻と駿馬を! う、うう…」
と律儀に隆広に説明して、しまいには感極まって泣き出した。天下一の妻は自分の妻だと言いたかった隆広だが、そこは堪えた。
「いや、それはご馳走様にございます」
「申し遅れた、それがし羽柴家の部将、山内一豊と申す」
「こ、これは! それがし柴田家部将、水沢隆広と申します!」
「ほう! ご貴殿がそうでござるか!」
「はい!」
「いやぁ…。お互い士分は中堅以上なのに、家臣を召抱えて駿馬一頭も即金で買えないと云うフトコロ事情は柴田と羽柴も同じようにございますな」
「仰せの通りにございます」
一豊の言葉に隆広は苦笑する。山内一豊と云えば羽柴秀吉に仕える古参武将で、愛妻家でも知られている。
「それでは明日の大評定で。今はこの馬を妻の千代に見せたくて仕方がござらぬ。ここはこれにて」
「はい」
山内一豊は嬉々として今さっき買った駿馬を連れて帰った。この駿馬が彼の愛馬『太田黒』である。
「さてすず、馬もあきらめた事だし食事でもしようか」
「はい」
安土城の城下町を二人で歩く隆広とすず。すずは胸が高鳴る。“隆広様と二人だけで歩けるなんて…”と嬉しくてたまらない。
「時にすず」
「は、はい!」
「そなた、カステーラ食べた事あるか」
「か、かすていら?」
「南蛮の菓子だ。実はオレも食べた事ないのだが安土城下の娘たちに人気らしい」
「は、はあ…」
「で、ここがそのカステーラを食べられる店だ」
すずが見た事のない作りの建物。洋館である。忍び込み方さえ見当つかない。
「南蛮の建築物らしい。大殿は新しい物を好むからな。こういうのが城下にいくつかある。しかし男一人で入るには抵抗がある」
店の中を見てみると、城下の娘たちがカステラを美味しそうに食べている。男はいない。こんな雰囲気の店があるのは当時の日本の中で安土だけである。
「と云うわけで一緒に入ってほしい」
「はあ…」
隆広が店に入ると若い娘たちはポッと頬を染めた。だが隆広はそんなのに気付かず席に座り
「カステーラとお茶二つずつ」
と注文した。
「た、隆広様、私こういう所は初めてで…」
「オレもだよ」
しばらくしてカステラが来た。隆広が大口開けて食べようとすると
「隆広様! 毒見も無しで!」
すずが真顔で言うと、店内はドッと笑いに包まれた。
「どこの田舎娘よあれは!」
「ど、毒見だって! あっははは!」
すずは顔を赤めて小さくなった。隆広がすずを笑う娘たちを少し厳しい顔で睨むと娘たちは静かになった。美男子の効果と云うところか。
「じゃあすず、先に食べてごらん」
「は、はい…」
すずは恐る恐るカステラをクチに入れた。
「……」
「どうだ?」
「お、美味しい!」
「そうか! じゃオレも…モグモグ」
初めて味わう南蛮の菓子の味。
「美味いな!」
「はい!」
すずにとっては隆広と一緒に食べられた事の方が嬉しかったかもしれない。カステラの美味に満足して店を出て、二人はそのまま南蛮商館に向かった。珍しい物が所狭しと置いてある。
「お、この南蛮絹のこれ、すずに合うのじゃないか?」
「この細長い小さな布切れは何に用いるのですか?」
「これは南蛮で“リボン”というものだ。すずがいつも頭に結っている紐の南蛮式だな」
「これが?」
「よし、思ったより高くない。日ごろの忠勤に感謝の気持ちでそなたに贈ろう」
「そ、そんな! さっきのカステーラもご馳走になったのに」
収入のほとんどを家臣の禄と柴田家のために使ってしまうので、隆広のフトコロ事情が厳しい事はすずも知っている。
「いいからいいから、いつもの良き働きに感謝しての事だ。このくらいさせてくれ」
「マイドアリ~」
南蛮人の店主に銭を払い、店を出ると
「さっそく着けてみよう」
と、リボンを手に取った隆広。
「付け方が分かりません」
「南蛮の付け方は知らないが、日本式の髪結いで大丈夫だろう。髪紐を解いてごらん」
「はい」
紐を解くと、すずの長い髪がパサリと落ちた。隆広の動きが止まった。
「…」
「…隆広様?」
「い、いや…そなたの髪をほどいた姿は初めて見たが…すごくきれいだ」
ボッと顔から火が出るほどに赤くなったすず。
「そ、そんな事…」
「コホン、ではつけるぞリボン」
それは南蛮絹の上質なリボンで、模様もすずらしく控えめなものであった。
「うん、似合う」
すずはどうしても自分の姿が見たくて、南蛮商館に逆戻りして鏡を見た。自分の髪を彩るリボンの美々しさに思わずウットリしてしまうすず。満足して隆広の元へ戻ると、すずは
「一生の宝物にします。ありがとうございます隆広様!」
「喜んでくれて何よりだ。さ、そろそろ帰ろう」
「はい!」
隆広の後ろを歩きながら嬉々としてそのリボンに触れるすずだった。
さて翌朝。正月である。安土城の柴田屋敷。隆広は早起きして城下町を出て琵琶湖に馬を駆けた。早朝なので別室で眠っているすずを起こすまいとこっそりと屋敷を出た隆広だが、くノ一にそれは通じない。いつの間にか隆広の後ろに付いて走ってきていた。そして髪には昨日隆広に贈られたリボンが気持ちよさそうになびいていた。
二人が琵琶湖のほとりに着くと、ちょうど日が昇りだした。隆広は初日の出に手を合わせた。手を叩き、合掌して朝日に願った。すずはその横で片膝をついて控える。
パンパン!
(どうか、母子健康で生まれますように!)
願い事は人に聞かれると叶わないと云う。隆広は黙って願う。隆広の今一番に願う事。それは愛妻さえが無事に出産を終えて、かつ健康な子を産んでくれる事であった。あとは…。
(どうか、舞と出来てしまった事をさえにバレないように!)
ちゃっかりこれも願った。またすずも
(隆広様と…いやダメ、こんな事を願っては)
と、自らの願い事を振り払った。
「さてすず、城下に戻ろうか。そろそろ朝餉だし新年の挨拶を殿にしなければ」
「はい」
二人は安土城下に戻った。
「殿、明けましておめでとうございます」
「ふむ隆広、今年も働きに期待しているぞ」
「は!」
「利家、そなたら府中三人衆、今年も頼りにしているぞ」
「お任せ下さい」
「さて、そろそろ城から陣太鼓が聞こえてくるだろう。登城の用意をせよ」
「「は!」」
隆広と利家は裃に着替え、正装に身を整えると
ドンドンドン
安土城から陣太鼓が聞こえた。隆広は急ぎ柴田屋敷の門に向かい、勝家と利家が出てくるのを待った。
「うむ、では行くぞ」
「はい!」
勝家も裃を着て正装していた。少し緊張もしているようだ。
「隆広、陪臣かつ新米部将のお前は発言する機会もなかろうが、いつ大殿から言葉をかけられるかわからん。くれぐれも聞き逃しのないようにな」
「はい!」
(う~少し緊張してきたな)
安土城評定の間、ここに織田の重鎮たちがズラリと並んだ。勝家は筆頭家老なのでもっとも上座で、君主の席のすぐ傍らである。利家がその後ろ、隆広はさらにその後ろである。
隆広と面識のない織田の将たちは勝家の後ろにいる若者をジロジロ見た。なんでこの席にこんな若僧が、という視線だ。隆広はその場にいた将の中では最年少の十九歳であった。昨日会った山内一豊と目が合った。一豊はニコリと笑い隆広に軽く頭を垂れた。隆広も一豊に返した。しかしまだ緊張は解けない。
「ほら隆広、デンと構えていろ。お前は柴田の列に座っている部将だぞ」
前田利家が苦笑して言った。
「は、はい!」
「大殿のおな~り~」
評定の間、君主の壇上、その入り口の襖がガラリと開いた。眼光鋭い織田信長が立っている。一瞬で評定の間の空気がピンと引き締まる。評定の間にいた者たちすべてが平伏した。
信長は壇上に座った。
「表を上げい」
「「「ハッ!」」」
信長の最初の言葉はありふれた新年の挨拶ではなかった。
「みなに申し渡す事がある」
「「ハッ!」」
「安藤守就、林佐渡、佐久間信盛、以上三名を追放した」
「つ、追放?」
と、丹羽長秀。
「そうじゃ。ヤツらは高禄を食みながら、ここ数年手柄の一つも立てよらなかった! 織田家に無能者はいらぬ! おぬしらも左様心得ておけ!」
「「ハ、ハハ―ッッ!」」
(厳しいなあ…)
そう思わずにはいられない隆広。先の磯野員昌に続いて、今度は宿老級の重臣までも追放した信長。
安藤守就は元美濃斉藤家からの降将で、竹中半兵衛の妻の父でもある。彼は甲斐国の武田家に内通したという疑いで領地などを没収された上に追放された。
林佐渡守秀貞、佐久間信盛は信長の父信秀の時代から織田家に仕えていた宿老である。過去に林佐渡は、織田家の後継者に信長ではなく、その弟の織田信勝(信行)を擁立しようと画策した事がある。その罪を問われて追放されたとも言われ、佐久間信盛は信長から十九ヶ条にわたる譴責状(けんせきじょう)を突きつけられ、嫡男の佐久間信栄と共に高野山に追放された。
譴責状の内容は、新付の知行を与えても物惜しみのあまり新たに家臣団を雇用しない事、主君信長にたびたび口答えした事、石山包囲が思うに進まなかった事は信盛の怠慢であった事などがあげられている。また三方ヶ原の戦いでは、徳川家康の援軍に赴くも武田軍に惨敗し、同僚の平手汎秀を戦死させている。
とはいえ、彼にも言い分はある。“退き佐久間”と言われるだけあり、味方兵の犠牲を最小限度に留めて見事戦場から離脱して浜松城に帰る事に成功している。平手汎秀は佐久間勢と異なり岐阜方面に退路を執ったため、武田の追撃に遭い殺されたのだ。ゆえに三方ヶ原の戦いの中で佐久間信盛に落ち度らしい落ち度はない。だが信長は結果が全てである。
佐久間信盛の追放は信長の非情さを象徴し、かつ合理主義、実力主義の風土に馴染めなかった信盛の能力的限界とも言えるだろう。追放された後の佐久間信盛は哀れであったと云う。後に柴田勝家を頼り北ノ庄城も訪れるが、かつて織田家に自分の派閥を持っていたとは思えないほどに落ちぶれた姿だった。
家臣を道具として扱う織田信長。無論、これは柴田勝家や丹羽長秀なども論外ではない。信長に無能と判断されればすぐに処断される。まして柴田勝家は林佐渡と同じく、かつて織田信勝を擁立しようとしていたのであるから。大殿に主君勝家を追放させる理由を与えるわけにはいかないと隆広はギュッと拳を握り、一層の働きをする事を胸に刻んだ。
「では大評定を始める。各軍団長の昨年の成果を確認する。お蘭、読み上げよ」
「は!」
森蘭丸が信長の横に立ち、書簡を広げた。各大将についている戦目付けから信長に提出された軍忠帳を読み上げ用に編さんした書簡である。
「織田中将信忠様! 松永氏を滅ぼし大和を平定!」
このように、各軍団長の昨年の手柄と勲功が次々と読み上げられた。柴田勝家はこの年には他領に侵攻はしていない。昨年は加賀一向宗門徒を根絶する武力を蓄え、かつ内政に励んでいたからである。
「ふむ権六(勝家)、先日に提出された越前の戦力報告は読んだ。ようあそこまで整えた。今年いよいよ加賀の門徒どもを皆殺しじゃ! 加賀攻めの総大将はそちじゃ! 準備をいっそう怠るでない!」
「はは!」
一石の地も攻め取っていない大将の中で勝家だけ、賛辞の言葉を受けられた。
「五郎佐(丹羽長秀)と三七(神戸信孝、信長の三男)も四国討伐の準備を早く整え、出陣せよ」
「「ハハッ!」」
「サル! 毛利はいかが相成っている!」
「はい、支城いくつか落とし、備前の宇喜多氏を味方に取り込み、そろそろ備中に攻め入らんと」
「ふむ、上々だな」
その後、明智光秀、滝川一益、九鬼嘉隆、稲葉一鉄、細川藤孝、川尻秀隆、池田恒興、森長可ら諸将の報告を上機嫌で受ける信長。すべての将が領土を新たに切り従えたワケではないが、いずれも各々の領地をよく治めていたからである。各諸将の報告が終わり、ひと段落すると…
「ネコ」
「は、はい!」
この席で声をかけられると思っていなかった隆広。信長は隆広を呼びつけた。
「近う寄れ」
「は?」
「同じ事を言わせるな」
「は、はい!」
隆広は利家と同じ位置まで寄った。利家がかまわないから自分の前まで進むようにと目で合図した。勝家と同じ位置で座ろうとするが…
「そこではない。ワシの前に来いと言っている」
勝家は浅くうなずき、いいから大殿の前へ歩めと示した。織田の諸将の居並ぶ中、隆広は信長の前に座り平伏した。
「ふむ、その方いくつに相成った?」
「十九にございます」
「ネコ、ワシはそなたの行政手腕を高く評価しておる」
「恐悦に存じます」
「城下町の掘割と拡大、軍用道路の整備、北ノ庄城の増築と改修、新田開発、どれも素晴らしい出来栄えと報告が届いている」
「それがし一人の功ではございません。民や兵が尽力してくれたからにございます」
「家中に軍資金調達機関を作り、敦賀港交易で稼ぎ、軍費も、そして九頭竜川治水工事の資金さえ、ほとんど民からの税で賄わなかったそうじゃな。今では織田本家に次ぐ鉄砲の所有量。しかも減税を発布できるほどに至ったと聞き及んだ」
織田信長がこれほど家臣、しかも陪臣(家臣の家臣)を褒めるのは異例である。柴田勝家、前田利家は不吉な前兆を感じた。そしてそれは的中した。
「いや、たまたま部下たちに恵まれただけで」
「ネコ」
「は、はい」
「ワシの直臣になれ」
「は?」
柴田勝家の背中がピクリと動いたのを前田利家は見逃さなかった。
「大殿の直臣に…?」
「うむ、内政は無論の事、軍才もあるそなたをゆくゆくは信忠の右腕としたい。陪臣としてではなく、織田家の軍団長として新たに水沢家を立ち上げよ。すぐに今まで林佐渡に与えていた尾張那古野城(愛知県名古屋市)をくれてやる」
「ほう! こりゃめでたい! 水沢家再興と相成りますな!」
羽柴秀吉が隆広を祝福するように言った。尾張那古野城、当時はまだ簡素な砦ていどのものであるが、信長は早い時期からこの地の利便を分かっていた。林佐渡はそれが分からなかった。しかし隆広ならばその利便を大いに活用し肥沃な地にする事を見込み、すぐに与えると言ってきた。柴田家の部将で織田本家には陪臣にすぎない隆広を直臣に取り立てて大名にすると信長は言ったのだ。
隆広は勝家に領地ではなく高額な金銭で召抱えられている武将で城も領地もない。これは織田家の各軍団長の政務もしくは軍務を司る将の召抱えられ方で、他の大名にはない特殊な遇し方である。明智家では斉藤利三、羽柴家では竹中半兵衛が同様な召抱えられ方をされている。
しかし信長は隆広の才幹を重く見て、本家の軍団長に抜擢しようと考えたのである。これは異例の大抜擢と言えるだろう。当時の那古野の石高は八万石であるが、信長は隆広なら実入り五十万石以上の地に出来ると見込んでいた。つまり柴田勝家、羽柴秀吉、明智光秀、滝川一益に継ぐ軍団長の誕生である。同盟者徳川家康の万一の叛意に備える意味と、ゆくゆくは隆広を奥羽か九州方面の大将とするつもりだった。こんな抜擢をすれば古株たちの嫉妬の念がうずまく。君主もそれを考えて人材登用を行うものであるが、信長はそんなもの眼中にない。
「那古野は東海道の要所にて、豊かな河川もあり開墾も容易じゃ。また海もある。佐渡のタワケは最後までこの地の秘めた富に気付かなんだが、そなたなら小田原や駿府、浜松に比肩する肥沃かつ交易の地とできよう。砦ていどの那古野城は破却して新たな城を作る事も許してもやる。筑前の申す通り、水沢家が大名として再興が成り養父の隆家も喜ぶであろう。またお前を登用した権六にも悪いようにはせぬ。どうか?」
「…そ、それは」
主君勝家を見る隆広。その勝家は隆広を見ず、信長に対して頭を垂れたままだった。目は下を向いている。
(殿…どうして何も言ってくれないのですか…)
急な信長の申し出に戸惑う隆広は勝家の額ににじむ汗に気付かなかった。
「水沢殿、柴田様に遠慮されているのですかな?」
「めっそうもない!」
「ならば水沢殿、はよう返事をされよ」
森蘭丸は冷徹に返事を急かせる。
(何をためらう! 大殿は天下人だぞ! その大殿から直々に臣下になれと言われる栄誉を何と思うか! しかも那古野は大殿誕生の地! それを拝領できると云う事はお前がどれだけ大殿に重く見られているかの証だろう! お前は自分の将才が北陸の一陪臣ごときの物とでも思っているのか!)
蘭丸は目で強く隆広に訴える。幼馴染同士ゆえ、それは隆広にも伝わる。そして隆広はまだ答えない。焦れた蘭丸は
「柴田様! 柴田様からも水沢殿に何か言って下され! 大殿に仕え…」
「恐れながら!」
やっと隆広が声を出した。
「その儀は…! その儀はひらにご容赦を!」
「なんだと?」
信長の顔つきが変わった。
やっぱり藤林すずとくればポニーテールですよね。