大評定の翌朝、主君勝家と共に安土城を去るとき、隆広は少し時間をもらい明智光秀の屋敷を訪ねた。光秀はそれを喜び、居間に通した。
「いや隆広殿、昨日は見苦しきところをお見せした」
「いえ」
さすがに朝になったら光秀の容態も回復していた。
「大殿はふだん寛大なのじゃが…どうも酒が入るとな」
「はあ」
「まったく下戸には大殿との酒席は厳しいものです。隆広殿は酒豪のようでうらやましいですぞ」
「いやあんまり飲むと妻が怒るので…でも昨日は思わず痛飲を」
「あははは、ところでもう越前の方に?」
「はい」
「あ、そういえば隆広殿は竹中半兵衛殿と義兄弟でしたな」
「ええ、そうですが」
「何でも、竹中殿は倒られたと…」
「ええ!」
「秀吉殿は今、毛利への押さえとして長浜から姫路へと拠点を変えたのですが…姫路に入城してほどなく倒れたと聞いています」
「義兄上が…でも姫路ではそう簡単にお見舞いにも…」
「いえ、竹中殿は安土におります。前線の姫路より安土のほうが良い医者もおりますし、安全ですからな」
「では羽柴様のお屋敷に?」
「ええ、羽柴殿は今朝早く姫路に発たれたそうですが、竹中殿は残っていると聞いています。北ノ庄に帰る前に顔を見せてあげてはいかがですかな? 義弟が同じ城下町にいるのに会いに来てくれぬのは寂しかろうし」
「そうですね、では早速に!」
隆広はすぐに羽柴屋敷に向かった。すでに秀吉は姫路に発っているので屋敷の中は半兵衛を世話する侍女数人ほどしかいなかった。
「ごめん」
「はい」
侍女らしき女が出てきた。
「それがし水沢隆広と申します。竹中半兵衛重治様にお目通り願いたいのですが」
「申し訳ございませんが…主人より何人もいれるなと…」
病が重いのか…? と隆広は感じたが、この機会を逃せばいつ会えるか分からない。
「そこを何とかお願いします。それがし竹中半兵衛殿と義兄弟の契りを交わした者。義兄上の病と聞き、いてもたってもいられずに…」
「そう申されましても…」
と、侍女が困っていると…
「かまいません、お通ししなさい」
「奥方様…」
「これは義姉上…」
隆広に義姉上と呼ばれた女は隆広に丁重に頭を垂れた。竹中半兵衛の妻、千歳である。夫の半兵衛が清洲城下の宿屋で竜之介、後の水沢隆広に軍学を教えた時、彼女も同じ宿屋に寝泊りして師弟の世話をした。その後に半兵衛と竜之介は義兄弟の契りを交わした。だから自然と千歳も竜之介と義理の姉弟となったのである。頭を垂れる千歳に隆広もかしずいた。
「清洲のご城下以来にございますね。夫から活躍のほどを伺っています。ご立派になられて…」
「義姉上もお元気そうで何よりにございます」
「さ、主人半兵衛も喜びます、こちらに」
「はい」
千歳は織田信長に追放された安藤守就の娘である。父の守就はこの時は行方知れず。生家は実質滅亡し、かつ夫の半兵衛は病床。気丈に振舞っているが、千歳の顔はやつれていた。
「義兄上の容態は…どうなのです?」
「労咳との事です」
「ろ…ッ!?」
肺結核である。この当時は不治の病であり、武田信玄も同じ病で病没している。
「そんな…!」
「もう夫は長くないのです…」
「義兄上や羽柴様はその事を!?」
「はい、存じております」
「なんて事だ…義兄上はまだ四十にもなっていないのに!」
「さ、この部屋でございます」
部屋の向こうにいる夫を千歳が呼んだ。
「お前さま」
「ゴホッ なんだ?」
半兵衛の痛々しい咳が聞こえた。
「水沢様がお越しです」
「そうか、通せ」
「はい」
千歳が襖を開けると、隆広の目に病に伏せる半兵衛の姿があった。隆広を見て半兵衛は
「これ、私を起こせ」
と、侍女に言った。
「義兄上、そのまま!」
「なに、大丈夫だ」
「義兄上(あにうえ)…」
「会いたかったぞ…義弟(おとうと)よ…」
本来なら人払いして義兄弟水入らずで語るのであろうが、半兵衛の容態はいつ急変するか分からないので、妻の千歳はそのまま半兵衛の傍らにいた。
「大殿の直臣への誘いを断ったそうだな」
「義兄上の耳にも届きましたか」
「昨夜に殿(秀吉)が退屈そうに病に伏せる私に話してくれた。よく勇気を出して断ったな。直臣になれば、お前は実を手に入れ名を失っていただろう」
「はい」
「その後、光秀殿を助けたのも聞いた」
本当に羽柴様はクチが軽いなと隆広は苦笑した。
「これでお前は明智家を味方につけたも同じだ。だが気をつけろ、味方につくものもあれば敵につくものもいる」
「…え?」
「たとえて言うならば、お前は九郎判官義経と同じだ」
褒めて言っているのではない事は隆広に分かった。
「義経は、軍才もあり人望もあり…部下たちも猛者ばかりだった。そして手柄も立て続けた。時に命令違反などの独走もあったが、結果義経の軍事の天才振りが平家を倒した。だがそれが鎌倉の恐れと妬みとなり、討伐の憂き目となってしまった。昨日までの味方が敵に回る結果となった」
「義兄上…少しそれは…」
「考えすぎと思うな。今は息子ほどの歳のお前だから先輩上将も態度を甘くしているだけだ。だがもう少しお前が成長し、次代の信忠様の側近にでもなり重用されてみろ。転じてお前は古株たちの嫉妬、羨望、そして憎悪の対象となる。現にお前はすでに柴田家でも佐久間、佐々、そして柴田勝豊殿とも上手く行っていないのであろう」
「……」
「竜之介よ教えたな。軍に閥はならぬと。たとえお前が何もせずとも、何の悪意がなくても、お前は織田家中の不和の火種になりかねない危険な男なのだ」
「ならばどうせよと…」
「…一発逆転の対策などない。そんなものがあるのなら唐土の韓信、太田道灌、そして今にあげた義経は主君に殺されてはいない。ただ一つ言えるのは三名とも小人の憎悪に注意を払わなかった。飛べない鶏が空を雄々しく飛ぶ鷹にどれだけ嫉妬するか、それを理解しなかった。だから自分の最大の敵が味方に潜んでいると悟る事ができなかった。この私も主君秀吉に三顧の礼で迎えられたが、その時に言われた事に『おぬしほどの天才には誰もが用心深くなり警戒する。大名になるにはそこそこの愚かさが必要なのだ』とある」
ゴホッ 半兵衛は一つ咳をした。
「一つの困難に皆で一丸に立ち向かえば容易に打開できると頭では分かっていても、その困難を打開した時に賞賛されて褒美を受ける者いるとなれば、困難そっちのけでその者の足を集団で引っ張り始めるのが人間と云うものだ。これはもうどうしようもない人間の性だ。“味方で争っている場合ではない”と、どんなに上位の者が言い聞かせてもムダだ。この人間の嫉妬心、無くなる事がないのなら、上手く付き合い、利用するしかない。ゴホッ!」
「義兄上…」
「竜之介、今さら凡夫の芝居をしろとは言わぬ。しかし時が来るまで今の士分でありつづけよ。お前は柴田様に寵愛されており、大殿、若殿にも一目も二目も置かれている。十九歳の若者には過ぎたる栄誉だ。だからせめて時が来るまでこれ以上は偉くなるな。
かの唐土の司馬仲達は魏の総司令官に着任する事を何度も辞退した。本人は最初から引き受けるつもりだったが断り続けた。それは魏の諸将の妬みを避ける慎重さゆえの算段。この仲達の思慮から学べ。たとえ柴田様から禄や知行の増加を申し渡されても拒否をしろ。部将から家老にすると言われても三度は断れ。『権ある者は禄少なく』、これを覚えておけ。時が来るまではな」
「義兄上…!」
半兵衛の教えに隆広の胸は熱くなった。
「…ゴホッ! ゴホッ!」
「お前さま…!」
寝かせようとする妻の手を半兵衛は軽く振り解いた。
「竜之介、もはや会う事もあるまいが…お前の師となり、義兄となれた事、死しても半兵衛、誇りに思う。これからの私の言葉、遺言として聞くがよい」
「義兄上…!」
「よいか…大殿は確かに強い。だがあまりに人の恨みの恐ろしさを知らぬ。今のままでは立ち行かぬ。先は長くない」
「めったな事を申されては…!」
とんでもない事を半兵衛は言い出した。
「大殿は不世出の武将であるが、同時に日本史まれに見る大量殺戮者でもある。比叡山焼き討ち、さらに長島一向一揆で二万、越前の一向宗攻めで三万、朝倉の落ち武者を執拗に追い連日百人二百人と捕らえて数珠繋ぎにして斬り殺した。そして伊賀の忍者里にも攻め入り老若男女皆殺し…。
いかに戦国の世と言え、こんな残酷な武将はいない。いつかお前が大殿を諌めた通り、あの方の天下布武は漢楚の項羽の道と同じ。いずれ人心を掴むに長けた劉邦に滅ぼされる! それが先に三度も言った『時が来るまで』だ」
あとで分かった話であるが、竹中半兵衛は妻の父である安藤守就の追放を知り、病床の身でありながらも信長に抗議しようと羽柴屋敷を飛び出した。
かつて斉藤家で才能を疎まれて孤立した時も、隆広の養父である水沢隆家と共に味方になってくれた安藤守就、自分を男と見込み愛娘も妻にくれた恩人。もはや婿と舅の間ではない。その舅の守就を信長が追放したと知り半兵衛は激怒した。
病気で先が長くないと知っていた半兵衛は信長に斬られる覚悟さえ持って安土城へと向かった。それを追いかけてきて泣いて止めたのは、他ならぬ安藤守就の娘で半兵衛の妻の千歳だった。
父の守就が追放され、千歳はその日のうちから心無い者たちから『無能者の娘』と陰口を叩かれた。彼女自身どんなに悔しい思いをしているだろう。そして夫の半兵衛が信長の仕打ちに怒り、死をも覚悟して抗議しようとした時、どんなに彼女は嬉しかっただろう。
だからこそ彼女は夫を止めた。たとえ余命が残り少なかろうと、自分の父のために死なせてはいけない。残りわずかな時間を妻の自分と共に安らかに過ごしてくれる事を願う一心だった。
「竜之介、お前もうすうすは感ずいているであろうが、大殿は柴田様を重用し、戦場の猛将として信頼もしている。だが内心は柴田様の誠実な武人肌を疎んじてもいる」
「……」
「お前も知っているだろう。安土の後宮騒動を」
「存じています。大殿の酒池肉林の場となるはずだったとか」
「そうだ。大殿は古代唐土の後宮のごとく、数千人の美女を集めた女の園を作ろうとした。この戦国の世に女で失敗した者は多々いる。朝倉義景などはその典型で、色に狂い家臣の信頼を失い滅んだ。だが大殿の女狩りは織田家臣すべて大殿を恐れて見て見ぬ振りをした。だがただ一人だけ妨害した者がいる。それが柴田様だ」
「はい…」
安土の後宮騒動。これはあまり知られていないが、信長は朝廷に自分の権威を見せ付けるために古代中国の後宮のようなものを安土城に作ろうとしたのである。丹羽長秀に安土城の普請を命じると信長は目先の利く老女を集め、自分の女の好みをつぶさに聞かせた上、自分の勢力内の地で美女集めをしてこいと命じたのである。(史実です)
信長の気に入る美女を連れ帰れば、当然の事ながら褒美も多い。老女たちはその密命を喜んで受けて、さながら隠密のように織田領に散った。自分の領内で若い娘の誘拐が多発していると聞いても、実はそれは信長の女集めと知っていた各々の領主は手出しできない。だが柴田勝家は違ったのである。
勝家は自分の領内越前で若い娘を物色して、誘拐していると云う老女を捕らえさせた。そして理由を聞くと『信長様の密命じゃ』と悪ぶれる様子も無く言い放った。しかも『一家臣の分際で信長様の直命を受けたワシの仕事を邪魔するとは何事じゃ』と逆に居直り勝家を責めたのである。激怒した勝家は
「大殿がそんな無慈悲をなさるはずがない。お前は大殿の名をかたったばかりか、我が領内の宝というべき娘たちを食い物にする鬼ババアじゃ!」
と、即座に斬り捨てた。そして前田利家に命じて、領内の廃寺で軟禁されていた娘たちを助け出したのである。
だが勝家は信長なら、こういう無慈悲な美女狩りをやりかねないと分かっていた。だから信長がこれを聞き激怒する前に信長を訪れ、先に老女を処罰した経緯を報告して、こう述べた。
「大殿の御名を汚す老女は許せませぬので、それがしが斬り捨てましたが、改めて老女の処分の指示を伺いたく参上しました」
指示と云っても、もはや老女は斬られた後で信長にはどうしようもない。今さら老女を許せと言っても何にもならない。やむなく信長は
「その仕置き神妙である、大儀」
と勝家を労った。水沢隆広が柴田勝家に仕える四ヶ月ほど前の話である。後に、当時お市の侍女だった隆広の妻さえも老女に目をつけられていたと判明している。柴田勝家の断固たる処断がなければ、さえは今ごろ信長の酒池肉林の中に連れられていたと云う事になる。
隆広は勝家のこの処断は正しく、そして妻と会わせてもくれる事に繋がった行動であり感謝していた。この勝家の処断により、信長は越前の国だけ美女集めが出来なかったのである。
やがて、この後宮計画は瓦解した。信長の妻の帰蝶(濃姫)と、妹のお市が頑強に反対したと伝えられている。娘たちは織田家から金を与えられ故郷に送り返された。その段取りをしたのも勝家である。信長には妻のお市と共に正室帰蝶を抱き込み、勝家が後宮作りを頓挫させたと映った。勝家の武将としての才能は信頼していても、自分の望みを妨害したとして信長は勝家の生真面目さを疎んじていた。
「柴田様の執った行動は正しい。だが、それが是と受け入れられるとは限らない。この経緯と、そして林佐渡殿と同じようにかつて勘十郎信勝様を擁立しようとした事もある以上、大殿は柴田様のわずかな失敗も許しはすまい」
「…その通りにございましょう」
「このままでは柴田様は立ち行かぬかも知れぬ。だが柴田様にはお前がいる」
「はい…!」
「お前さま…もう横に…」
心配する千歳に優しく微笑んで返す半兵衛。
「もう少し、もう少しだ…」
「義兄上…」
「竜之介…『劉邦』は誰と思う?」
「……」
そう簡単に答えられる質問ではない。だけど流していい質問ではない。隆広は答えた。
「我が殿勝家、羽柴秀吉様、もしくは徳川家康様かと…」
「いい答えだ。だがもう一人いるぞ」
「え?」
「お前だ」
「……!」
義兄半兵衛が世辞を言う人間ではない事は分かりきっている。目も冗談を言っていない。驚く隆広の顔に半兵衛は、ニコリと笑い、溜めていた息を吐いた。
「ゴホッ」
「義兄上、もう横に…」
「ああ…」
横になった夫の額に湿った手拭を乗せる千歳。
「なあ竜之介…」
「はい」
「清洲の安宿でお前を教えていた時、一つだけ私がお前の質問に答えられなかった事を覚えているか?」
「…“斉藤龍興様をどうして見捨てたか”とそれがしが訊ねた時にございますね」
「そうだ…。そなたの養父隆家殿は最後まで見捨てなかった。傾きかけた時だからこそ主家を支えるのが武士の道。隆家殿は私にもそう言っていた。だが私には出来なかった」
「龍興様を暗愚と見たからにございますか」
「そうだ。何が名軍師竹中半兵衛…。恥ずかしい限りだが若き日の龍興様を見て私はその才幹を見抜けなかったのだ…」
「若年のおりの龍興様は酒色に溺れていたと養父も申していました。やむを得ぬかと…」
「いや…あの方は斉藤家滅亡後も織田に戦いを挑み続けた。一介の素浪人とも言って良いあの方が多々の勢力を味方にしていった。才なくして到底できない事だ。隆家殿は龍興様の才を見抜いていた。私も義父(安藤守就)も…どうしてそれが分からなかったかと恥ずかしく思ったものだった」
「義兄上…」
「道三公が婿の大殿に美濃を渡す気であった事は知っていよう」
「はい」
「長良川の合戦(道三と息子義龍が戦った)の前、私と安藤、稲葉、氏家の三将はそれに同意したのだ。元々私たちは道三公に惚れて仕えた者。それを害そうとする義龍様に心から仕える気はなかった。だが隆家殿はその美濃明け渡しを断固拒否した。理由は『それは婿殿(信長)のためにならない。美濃は高値で売りつけなければならない。安易に手に入れば婿殿は美濃の地と人間を軽視する。それがしはあくまで斉藤家の武将として婿殿と戦う』と連名を一蹴した」
「それでは…」
「そう、隆家殿は道三様個人ではなく、斉藤家のために生きる道を選び、我々は道三様の遺命に従う事を選んだ」
その後に水沢隆家は長良川の合戦では劣勢の道三側について、密命を帯びて義龍についた竹中、安藤、稲葉、氏家の軍勢も蹴散らしている。
敗戦後に隆家は義龍の陣に出頭してきて、義龍は斬刑にしようとしたが家臣の反対に合い、結果その才を惜しんでいた義龍は減俸のみで許した。道三との密命を知る隆家に当然安藤たちは危惧したが、隆家は密告をするような男ではない。だが隆家は四人にこう言った。
「道三様の遺命に従うのもそなたらの忠義、好きなようにされよ。だが戦場で会った時は容赦しない」
斉藤義龍は自分の取り巻きである旧土岐氏の家臣を重用し始め、竹中半兵衛や安藤守就を遠ざけた。しかしそんな義龍でも水沢隆家だけは深く信頼して用いた。性格穏やかで野心の欠片も見られない。若い自分を軽視せず立てる。義龍は隆家を頼り何かと相談した。道三の密命を受けた四人は動きようがなかった。しかし義龍が死ぬといよいよ動き出した。
竹中半兵衛は“何とぞ我らと行動を共に”と懇願するが隆家は拒否。亡き主君の遺命に従う者と傾きかける主家を建て直そうとするもの。共に忠義の心は同じなのに袂を分けた。
斉藤龍興の才幹が世に出るのは皮肉な事だが斉藤家滅亡後と言っていい。少年期に美濃国主となり絶大な権力を得た彼は、まだ自制が利かず酒と女に溺れた。隆家は何度か諌めたが聞き入れられない。安藤守就は最後の説得として隆家に
「あれで君主の器であるか。なぜ隆家殿はこうまで斉藤家に義理立てするのか!」
との問いかけに隆家は笑ってこう答えた。
「それがしはマムシの道三たった一人の友である」
つまり斉藤道三のたった一人の友であるから、彼の残したものは最後まで守りたいと述べたのである。しかし隆家は見抜いていたのである。斉藤龍興には秘めた才覚があると。
しかし、この時点でそれに気づいていたのは水沢隆家だけである。友の残したものを守ると云う言葉に安藤守就も一言もなく、やがて竹中半兵衛は十六騎で稲葉山城を落として斉藤の脆弱と家中分裂を内外に示した。無論、若くて酒と女に溺れていた龍興を諌める気持ちもあったのであろうが、半兵衛は隆家の留守中に狙って行っている。隆家がいたらこんな失態はない。
だがさすがに半兵衛も自責の念が出たか、道三の遺命に従うのはここまでとして、野に下り、その後に秀吉の数度の召し出しに心動かし、結果織田家についた。その後に安藤守就、稲葉一鉄、氏家ト全も織田についた。やがて道三の遺命どおり、美濃は織田信長のものとなるのである。
「では道三公の遺命のために…」
「そうだ。しかしお前は隆家殿から『主家が傾きかけた時こそ支えるのが武士の道』と教えられている。幼いお前に私のこんな処世術など聞けば害にしかならん。だから答えなかった。遺命なんて云うものは都合の良い言い訳だ。私は城で龍興様の家臣から小便をかけられた。悔しかった。単なる私怨であった事も否めないし、自分の才幹で城を取れるか試してみたかったと云う気持ちも否定できない」
「義兄上…」
「良いか竜之介、隆家殿は正しい。『主家が傾きかけた時こそ支えるのが武士の道』それが武士の、本当の男の道だ。それが出来なかった私だから心からそう思う。お前は何でも出来る器用な若者だ。だが性根は不器用たれ。結局人はそういう男についてくる」
「はい…義兄上!」
「少ししゃべりすぎたな…。もう眠るとしよう」
半兵衛の掛け蒲団を整える妻の千歳。
「義兄上…龍興様は…」
「ん?」
「い、いえ、そんな才ある方が時節に恵まれず若くして亡くなった事…。養父も悲しんでおりました」
「そうか…。私もあの世で龍興様にお詫びしよう…」
「義兄上、病は気からと申します。快癒すると信ずればきっと…!」
「無理を言うな…。ゴホッ」
「義兄上…」
「さらばだ…竜之介。大将の中の大将となれ…」
「竜之介…。竹中半兵衛の義弟である事を…一生の誇りといたします!」
「ありがとう…。弟よ…」
隆広は半兵衛の部屋を後にした。まさにこれが、この義兄弟の今生の別れとなったのである。玄関を出て、門をあとにすると半兵衛の妻が追いかけてきた。
「ハアハア、水沢様」
「義姉上、なにか?」
「夫がこれを水沢様にと」
それは数冊の書であった。
「これは『孫子の秘奥義』…!『論語』『史記』『六韜三略』まで!」
中を見てみると…
「義兄上の筆跡…!」
「はい、元々主人が読んでいたものはすでにボロボロで、余白に様々な添え書きがあり、紙面は大変読みづらく…それで主人が書き写して…」
「すごい…これは義兄上の『孫子注釈』じゃないですか! 他書もまた義兄上の注釈つきで編纂されて…」
「役立てて欲しいと…」
「あ、ありがとうございます! 隆広終生の宝にすると!」
「伝えます」
まさにその通りで、隆広はこの書を終生大切に扱い家宝にした。ただの兵法書、歴史書ではない。竹中半兵衛が書き写し、そして注釈を入れた書である。半兵衛は息子の竹中重門ではなく、義弟の水沢隆広に自分の兵法と軍略を記した書を託したのだった。
北ノ庄への帰路中、隆広はこの書を食い入るほうに読むと、付箋が指してある項目を見つけた。それは秦王、政(始皇帝)に仕えた王翦(おうせん)の話だった。貪財将軍と呼ばれた老将だった。疑り深い事では人後に落ちぬ秦王が一点の疑念も持たずに六十万の兵権すら与えた。それは何故か。
王翦は日頃から宮廷の残り料理などを持ち帰り、将軍の身でありながら何と卑しいと下っ端役人にさえ軽蔑された。後輩将軍の別荘さえ安く売れとねだったと云う。秦の版図拡大に大いに貢献してきた彼であったが、もはや年老いた麒麟、駄馬として蔑まれやがて将軍の職責から外された。
だがいよいよ秦が天下統一をする大国の楚との戦いで秦王が見込んでいた若い将軍の李信はその戦いに敗れてしまい、もはや秦王は王翦の出陣を請うしかなく、それを要請した。王翦はその際に都にある良田美宅を要望したのである。六十万の兵を率いて、大国の楚を倒す大将軍が望む褒美としてはあまりにも小さきものだった。秦王はそれを快諾。そして王翦は出兵した。そして事あるごとに戦場から良田美宅をくれますようにと云う手紙を秦王に出して念を押した。小ざかしい奸臣が
「貪欲な王翦が反逆を起こしませんよう注意を」
と秦王に言った。だが疑り深い事では中国の歴代皇帝随一とも言える秦王が、
「それはお前の考えすぎだ。小利を貪る様な者は、秦国を得ようなんて野心は持たぬ」
と、一笑に付して全く王翦を疑わず、勝利して帰った彼に約束どおり良田美宅を与えたのである。そして王翦は、その良田美宅を惜しげもなく、先に楚へ攻め込んで敗れ、その責任を取らされて平民に落とされていた李信に与えている。
『つまり、王翦が良田美宅を欲しがり、かつ貪財を装っていたのは疑りぶかい主君、政の心を知り尽くし、かつ信任を得て任務を全うするためであったのである』
竹中半兵衛はこの王翦の話の最後にこう注釈している。傑出した能力を持つ者が、敵ではなく味方に滅ぼされる末路を歩むのは歴史にいくらでも事例はある。主君秀吉が隆広を警戒しだしているのも気づいている半兵衛は王翦の話に付箋を指して、より注意を促したのだろう。
「義兄上…。竜之介、とくと肝に銘じます」
竹中半兵衛の注釈入りの孫子とか本当にあったら、なんでも鑑定団でいくらになるんでしょうね。