天地燃ゆ   作:越路遼介

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武田勝頼と竜之介

 諏訪勝右衛門の槍の指導は厳しかった。槍術の基本は『受け』『払い』『突く』であるが、その三点を徹底的に教え込まれた。“基本こそが最強の技”勝右衛門はそう教えた。

 昼は槍術、夜は快川からの学問。それに加えて恵林寺の小僧たちと同じく、本堂の掃除と云った雑務もしなければならない。成人でも根をあげそうな修行であるが、幼い頃から養父長庵の課す修行を受けてきた竜之介にとっては耐えられないほどではない。むしろ自己に身についていく武技と知識が嬉しくてたまらない竜之介だった。

 また、この頃になるとすでに竜之介は僧体から武士に風体を変えており、伸ばしていた髪もようやくマゲを結えるまでとなっていた。竜之介のマゲを結う紐は勝右衛門の妻のお花が打った紐である。

「アイタタ」

 恵林寺離れの庫裏。そこの縁側で竜之介はそのお花から傷の手当てを受けていた。本日の槍術の修行も厳しかった。

「最近は生傷もだいぶ減ってきましたね」

「はい」

「初日は血だらけでしたから、夫に思わず“やりすぎだ!”と怒鳴ってしまいましたが…今では夫にも生傷作らせるほどになって。竜之介殿は上達が早いですわ」

「先生の教え方がいいのです」

 

 そんな光景を少し離れて見つめる長庵と勝右衛門。

「妻の言葉ではございませんが、ご子息は本当に覚えが早いです」

「いやいや勝右衛門殿。覚えが早いのは二流への道ともなりかねぬもの。せがれはもっと不器用であっても良いほどです」

「二流への道でござるか?」

「いかにも。覚えの早い器用さならば、その技術を甘く見る。不器用な者は徹底してその技術を学びまする。ゆえに最後は器用な者は不器用な者に抜かれて結果二流になる。世の一流の武芸者や職人はたいてい元不器用者にござる。勝右衛門殿もそうでござろう? 昔は甲州流一門で一番槍下手だったと伺っていますからな」

「こ、これは恐縮にござる」

 二人は庫裏から離れて、恵林寺境内を歩き出した。

「しかし御坊も元は美濃の猛将、なにゆえご自分で槍を教えようとなさりませなんだ?」

「確かに主君道三と同じく槍には多少の自負がございますが、すべて自己流でございましてな。型も基本もあったものではございません。幼いせがれにはそんな槍術は害にしかなりませぬ。それにそれがし…お恥ずかしい事に戦場で槍を持って戦った事は数えるほどしかござりませぬでな」

「は、はあ?」

「愚僧はいつも帷幄にあり策をめぐらせておりましたゆえ」

「しかし御坊の勇猛はこの甲斐まで伝えられておりますが」

「それは愚僧の部下達の働きにすぎませぬ。愚僧は戦場で道三公の軍師を務めてございました。采配は執りましたが、自分で陣頭に立ち戦った事はほとんどないのでございます」

 それは陣頭の槍働きで一人の敵に対するのではなく、智の技で数千数万を撃破する技。やはりこの方は戦神よと諏訪勝右衛門は思った。

「せがれにもそんな武将になってもらいたいと思い、幼い頃から指導しております。しかし槍にせよ刀にせよ、武の技の鍛錬で得られる精神力は宝にございます。ゆえにご貴殿に指導を願ったのにございます」

「そうでございましたか」

「甲州流の槍術は天下無双、勝右衛門殿、引き続きせがれを厳しく仕込んで下され」

「承知いたしました」

 諏訪勝右衛門もこのように長庵と語り合い得るものが多かった。彼は根っからの戦場の猛将であったが、長庵との出会いから思慮深い人物となり、仁科盛信に重用されていく事になるのである。そんな教えをくれる長庵に答えるべく、諏訪勝右衛門は厳しくも暖かく竜之介に惜しみなく自分の技を教えていったのだった。

 

 そんなある日である。長庵と竜之介は勝右衛門の勧めで武田の居城である躑躅ヶ崎館に出稽古に向かった。城の一角では武田の少年たちが甲州流の槍術を学んでいる。武田勝頼は長庵の来訪を喜び、城門まで出迎えたと云う。また武田の重臣たちも“あの水沢隆家が来た!”と驚き、勝頼と共に出迎えたと伝えられている。まさに信玄の帰城ほどの出迎えだった。

 城門で長庵と竜之介は分かれ、長庵は重臣たちも集う広間に、竜之介は城の一角にある甲州流の道場へと向かった。道場といっても庭であるが、竜之介が勝右衛門に伴われてやってくると武田の少年たちは奇異に思いジロリと睨んだ。勝右衛門は少年たちが憧れる槍の名手。その人物が見た事のない少年を連れていたからだ。少年と云うより少女と間違えてしまいそうな風体であるが。

「おう、みながんばっているな!」

「「はいっ!」」

「紹介しよう、この少年は恵林寺の食客である長庵殿のご養子の竜之介。ワシの弟子だ。今日は出稽古に来た。みな稽古をつけてやってくれ」

「竜之介です」

 ペコリと頭を下げる竜之介。武田の少年たちは憧れの勝右衛門に弟子と認められている竜之介が気に入らない。

「先生、なんですかコイツ。まるで女子のようなヤツじゃないですか。顔といい体つきといい。こんなヤツに槍が使えるのですか」

「ほう、それでは源三郎、対してみるがいい」

「望むところ! おい女! ケガしても泣くなよ!」

「…弱い犬ほどよく吼えまする」

「なんだと!」

「こらこら、ちゃんと仕合の作法を執れ」

 源三郎は頭から湯気が出るほどにカッカして作法をとり、そして仕合に入った。

「だあッ!」

 

 ガツッ

 

「…え?」

 向かってすぐに源三郎の手から槍がなくなっていた。受け止められ、そして払われたのである。

「くそっ!」

 竜之介へのあなどりを捨てた源三郎。槍を拾い再び竜之介に向かうが、あしらわれてしまった。そして最後には腹部に突きを入れられた。自分を“女”と呼んだ源三郎に少し灸を据えた。

「ち、ちくしょう…!」

 苦悶してうずくまる源三郎に弟が駆け寄った。

「兄上! オレに任せてくれ!」

「ば、ばか、オレが勝てなかったのに…」

「オレは源次郎! おい竜之介! よくもやってくれたな!」

「仕合でございますゆえ」

「ああもうその落ち着き払ったツラが腹の立つ! 泣きっ面かかせてやる!」

 しかし源次郎も同じ結果だった。額に一撃をくらい、膝を地に付けた。

「イタタタ…」

 竜之介はその源次郎に手を差し伸べた。すると源次郎は激怒しその手を叩き払った。

「お前、武士じゃないな! 武士ならそんな事するもんか!」

 と悔し涙を浮かべて立ち上がり、槍を拾い竜之介に向かってきた。今度は源次郎の鬼気迫るものがあったが、結果は同じだった。

「ちくしょう、ちくしょう…! 兄上悔しいよ!」

「オレも悔しい…!」

 二人を見つめる竜之介の肩に勝右衛門が手を置いた。

「竜之介、あんなマネは武士の情けと言わぬ。余計に相手をみじめにするだけだ。よう覚えておくのだ」

「はい…」

 

「よし次はオレだ!」

「いいやオレが相手だ!」

「勝ち逃げは絶対させないからな! 覚悟しておけ!」

 と、次々と武田の少年たちは竜之介の相手にと向かっていった。源三郎と源次郎の兄弟も悔し涙を拭い、再び仕合を望んだ。時を忘れるほどに少年たちは技を競い合った。やがて夕暮れ時になった。

「アイタタタ…」

 竜之介は生傷だらけであった。武田の少年たちは竜之介を手強しと見ても複数でかかる事はただの一度もしなかった。そんな清廉さが竜之介は好きになった。

「竜之介、いや竜之介殿。恵林寺にはしばらくおられるのですか」

 と源三郎。

「はい、あと二月ほどでございますが」

「今度は我々から恵林寺に出向いて手合わせを願って宜しいですか」

「オレもオレも!」

 すかさず源次郎も名乗り出た。

「ええ、いつでもお相手いたします」

「今日は負けっぱなしでしたが、勝ったまま甲斐から出しませぬので」

「オレもオレも!」

 同じ調子で源次郎も続いた。

「お待ちしています。源三郎殿、源次郎殿」

 二人と固い握手をかわす竜之介。源三郎と源次郎の兄弟、これが後の真田信幸と真田幸村である。

 

「さあ竜之介、そろそろ恵林寺に」

 と、勝右衛門が帰途を述べると

「お待ちを」

 館の縁側に松が訪れた。武田の少年たちは無論、勝右衛門もひざまずいた。無論竜之介もそれにならう。

「まだ長庵殿と兄様たちのお話が続いていますので、竜之介殿と勝右衛門殿には湯と食事を用意させました。こちらへ」

「竜之介殿、松姫様と知り合いなのですか?」

 ひざまずきながら竜之介に問う源三郎。

「え、ええ…一度だけお会いした事が」

「いいなあ…。松姫様に名前を覚えてもらっているなんて…」

「情けないグチたれるな源次郎!」

 話がよほどためになるのか、長庵は勝頼と重臣たちに中々解放してもらえない。仕方なく竜之介と勝右衛門は松が用意してくれた湯と食事をもらい、長庵を待とうとした。食事を終えたのを見計らい、松が二人のいる居間へ訪れた。

「申し訳ございません。長庵殿は何度か席を立とうとしたようですが、中々…」

「いやそんな、松姫様が謝る事はございません」

 勝右衛門の言葉に微笑をうかべ、松はそのまま座り、勝右衛門を見た。勝右衛門は人払いと察し、

「竜之介」

 と退室を促した。

「違います。失礼ながら…」

 退室を命じられたのは勝右衛門の方だった。

「これは失礼いたした。では」

 勝右衛門は退室した。

「松姫様?」

「竜之介殿は美濃生まれだそうですね」

「はい」

「諸国を旅されるとの事ですが…美濃に戻るのはいつごろなのですか?」

「父から三年後と伺っています」

「三年後ですか…」

 松は肩を落とした。

「な、何か?」

「美濃の岐阜城にいる織田信忠様に文を届けてもらおうと思っていたのです…」

「も、申し訳ございません。三年先じゃあ…仕方ないですよね」

 松は傍らに置いていた巾着袋から大事そうに巻物を取り出した。そしてそれを広げる。絵姿だった。

「『織田奇妙丸元服図』…織田信忠殿の絵ですね」

「はい、それとこの折鶴。私に贈って下さいました。松の宝です。前は松の部屋に絵を飾り大事にしていたのですが…勝頼兄様に破かれそうになって…ぐすっ」

「もう織田との関係は修復不可能。ゆえに勝頼様は松姫様に信忠殿をあきらめさせようと」

「あきらめる事など…できません! もし違う殿御と添い遂げよと言われたら松は死にます!」

「松姫様…」

「ごめんなさい…。竜之介殿に申しても仕方ない事なのに。でも家中の者にこんな事は言えないし…」

「どうして…会った事もない信忠殿をそんなに慕えるのですか?」

「なんででしょう…。松にも分からない。でも松の心は信忠様の事で一杯なのです」

「信忠殿がうらやましい。それがしもいつか女子にそんな事を言われたいものです」

「竜之介殿なら、きっと望む数だけ…」

 松は笑って言った。竜之介は思わず顔が真っ赤になった。

 

 その後、松は今まで信忠から届いた手紙の内容や、信忠に送った手紙の内容を嬉々として話した。そして何度も何度も、どれだけ自分が信忠を思慕しているのかを竜之介に話した。

 竜之介は松を見つめ、ちゃんと聞いた。どうやら竜之介は聞き上手らしい。長じて水沢隆広と云う名になってからも彼は聞き上手であった。松は自分の話を聞いてくれるのが嬉しかったか、今までないほどに饒舌だった。だが竜之介はニコニコ笑い、その話を聞いた。

「ありがとう竜之介殿、松の話を聞いてくれて」

「いえ、実に楽しかったです。特に信忠殿の事を話す松姫様は嬉しそうで楽しそうで、そんな松姫様の顔を見ているのは竜之介も何か心を満たされた思いです。織田の若殿より先に、松姫様のそんなかわいらしい顔を見られた竜之介は果報者にございます」

「まあ、竜之介殿は世辞が上手です」

「いやァ本当にございます、あっははは」

 誰にも言えない信忠への想いを思い切り話せた松は、少し晴々とした顔をしていた。やがて松は竜之介に一つ頭を垂れて部屋から出て行った。

 

「それにしても織田の若殿も情けない! あんなに想われているのだから奪いに来るくらいの気概がほしいもんだまったく!」

 後にそれの助力をするとは想像もしていない竜之介だった。そしてしばらくすると竜之介は長庵に呼ばれた。いや正確には武田勝頼に呼ばれた。快川から学び、甲州流の槍術も中々のウデ前と聞き興味が出たのだ。すでに重臣たちは退室していたが、勝頼の前には長庵と諏訪勝右衛門が座っていた。

「竜之介、こちらに」

 勝右衛門が勝頼の前に座るよう促した。

「はっ」

 竜之介は勝頼の前に鎮座し、平伏した。

「長庵が養子、竜之介にございます」

「ふむ、顔をあげよ」

「はっ」

 勝頼はジーと竜之介の顔を見た。そして思った。

(…これはものになる男だ。思えば水沢隆家の智謀軍略と行政の技を一身に学んでいる身…。将来どれだけ化けるか見当もつかん)

「いくつになる?」

「十二にございます」

「いい面構えをしている。父の信玄、いや…どちらかというと叔父の典厩(武田信繁)の面影が見える」

「そ、そんな…」

 竜之介は赤面した。

「どうだ竜之介、オレに仕えぬか」

「え…!?」

「ははは、お館様、まだせがれは修行中ゆえに」

「いや、オレには分かる。御坊のせがれは将来武田にとり救いの神になるか。それとも最大の脅威になるかいずれかだ」

 長庵の顔から笑みが消えた。

「買いかぶりにございます」

「ならば問うが、御坊は竜之介を誰に仕えさせるために仕込んでいる?」

「それは申せません。お預かりする時、元服するまで明かさない約束をしてございます」

「十分な答えだ。少なくとも武田でない事は分かった」

 勝頼はスッと立ち上がり刀を抜いて竜之介に突きつけた。

「お館さま!」

「お前は引っ込んでおれ勝右衛門! この小僧が後に織田か徳川にでも仕えたら厄介極まりない男となるだろう! 今のうちに討っておく」

「し、しかし、竜之介はまだ十二の少年でございますぞ」

「だから危険な芽は摘んでおくのだ」

 

「……」

 竜之介の養父長庵は黙っていた。この局面を息子がどう乗り切るか見てみたかったのである。それにしても勝頼の眼力の凄まじさである。彼の予言は的中するのであるから。長庵に教えを受けた時とは異なる勝頼の側面である。

「竜之介よ」

「は、はい」

「一つ問おう、父の信玄をどう思うか?」

「え…!」

「遠慮はいらぬから思った通りを言ってみよ。返答によっては刀を引き、このまま恵林寺での修行を許し、かつ快川に学問だけではなく、武田の兵法、築城術、開墾術、治水術まで教えて良いと伝えよう。しかし落第なら斬る。申せ!」

「は、はい。では僭越ながら…」

 竜之介は鎮座し、勝頼を見つめ言った。

「尊敬はしています。しかし信玄公のような武将にはなるまいと思っております!」

「ほう…」

 これは勝右衛門も驚いた答えだった。

「ずいぶん矛盾した言い草だな。理由を聞かせよ」

「はい、父の信虎様を追放したのは別として、信玄公は妹を嫁がせた同盟中の諏訪家にもだまし討ち同然で攻め入り! かつ生け捕った敵の将兵を甲州金山でどれい同然に酷使し、その妻と娘を自軍の将兵の慰み者として与えました!

 志賀城攻めでは前哨戦の野戦で捕らえし三千の敵兵すべての首を切り志賀城の前に並べる残酷な行為! そして鉱山の人足にあてがった娼婦たちを鉱山の秘密を知る者として皆殺しにした事! 信玄公は鬼にございます! 絶対そんな武将にはなりたくございません!」

「ならどうして尊敬していると申す?」

「領内の河川の治水事業や、勝たずとも負けなければ良いと云う考え、三増峠の合戦による敵の心を攻めた作戦が好きだからにございます。

 それに『人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり』と云う言葉も、『およそ軍勝五分をもって上となし、七分をもって中となし、十分をもって下と為す。その故は五分は励を生じ七分は怠を生じ十分は驕を生じるが故。たとえ戦に十分の勝ちを得るとも、驕を生じれば次には必ず敗るるものなり。すべて戦に限らず世の中の事この心掛け肝要なり』と云う勝者の驕りを戒めた言葉が大好きだからです。

 信玄公の良いところは心から尊敬し、非道な行いは断固軽蔑いたしております! それが答えです!」

 ポカンとして竜之介の答えを聞いた諏訪勝右衛門。そして勝頼は

「ふっははははは! あの世で父も苦笑いしていような! あっははははは!」

 刀を収め、席に戻った。そして長庵に頭を垂れた。

「ご無礼許されよ長庵殿」

「いえ、今の局面でせがれはまた学びました。礼を申し上げます」

「竜之介!」

「は、はい!」

「オレの前で“信玄を軽蔑する”と言い切った度胸気に入った! オレに仕えてくれぬのは残念だが約束は約束だ。快川から武田の知識と技、ありったけ持っていけ!」

「は、はい! ありがとうございます!」

 

 武田勝頼は竜之介を一目見て非凡な器を感じた。後世凡将と云われる勝頼であるが、それが誤りである事が竜之介の才幹を一目で見抜いた事で分かる。本来なら極秘とも言える自家の兵法や武術を流浪の小坊主に教える事なんてありえない。だが勝頼はそれを惜しまずに提供する事を申し出てくれたのだ。有能な者を愛するのは父の信玄ゆずりであった。

 余談だがこんな話も伝わっている。竜之介は武田勝頼の計らいにより、恵林寺へ滞在中に諏訪勝右衛門から槍術、恵林寺の快川和尚から信玄の兵法と、甲州流の治水、築城術、開墾術を教わった。しかし恐ろしいほどの早さで知識を吸収する竜之介を見て、快川と同門の僧である策彦周良が

「もし彼が上杉、北条、織田、徳川などに仕えたら武田にとり大変な脅威になる。これ以上の指導は災いになるかと」

 と、快川に忠言した。策彦周良も名僧として信玄に認められた僧である。勝頼同様に竜之介の才幹を見抜き、そして恐れた。だが快川はこう答えた。

「たとえそうでも、武田の技が一人の天才に受け継がれるのなら無駄にならない。あの少年ならば武田の智と技をより昇華させ、民たちに役立ててくれよう。その民が何も武田の領民でなければならないと云う事もあるまい。たとえ敵同士になったとてこの日の本の民が一部幸せになるのは明らかなのだ。ワシは続ける」

 と言ってのけた。そして快川がもっとも竜之介に重点的に教えたのは治水術である。治水を通じて竜之介に武将としての教育を施した。信玄が国造りに対しての言葉に

『領地をよく治めるには、国々の様子を知り、人々の智慧をはかり、やたらに人を使うのではなく技を使うべきである』

 とある。後年の水沢隆広はこの理念をもって民政に当たった。肝腎の治水術においても竜之介には惜しみなく与えられた。

 聖牛と呼ばれる治水装置、聖牛とは牛の形に似ている事から付けられた名前で、木材を三角錐に組み合わせ底に重石が入れてある。聖牛は川の水かさが増すと水中に沈み、水流をかき回して穏やかにする。

 これは現在も日本で、いや世界でも使われている技術である。後年に水沢隆広家臣、石田三成が九頭竜川の治水でもこの聖牛を用いている事から、快川を通して信玄の技術が水沢隆広と石田三成にも継承されたと云う事になるだろう。

 武田信玄の治水術は単なる堤防工事ではなく水をもって水の勢いを削ぎ、自然のチカラを利用して洪水の被害を防ぐ水難防備工事だった。水沢隆広は無理に堤防で水を押さえ込まないこの甲州流治水を好んだ。そしてこの治水術は水沢隆広の手によってさらに昇華するのである。

 

 いよいよ恵林寺での修行最後の日だった。諏訪勝右衛門も高遠城に帰るが、勝右衛門夫妻と竜之介は別れを惜しみ、中々離れられない。

「勝右衛門先生、ご指導ありがとうございました!」

「ああ、お前も元気でな。忘れぬぞ」

「はい…!」

「旅先で生水飲んじゃダメよ。体に気をつけてね」

 母親代わりのように竜之介の面倒を見てくれたお花。彼女も別れが惜しかった。

「はい、お花様もお元気で…」

「それから竜之介殿の髪を結う紐、何本か作っておいたので」

 竜之介は小さい木箱に入った結い紐をお花から受け取った。

「大事に使います。竜之介の髪を整えし紐には、ずっとお花様からいただいた紐を使わせてもらいます」

「ぐすっ…。それじゃ元気でね」

 竜之介は二人の姿が見えなくなるまで見送っていた。竜之介と勝右衛門夫妻の再会はこれより八年後。勝右衛門夫妻の前に竜之介は水沢隆広と云う名で、そして敵として現れるのである。

 諏訪勝右衛門は水沢隆広と一騎打ちで戦い散り、そしてお花は武田に弓引き、夫を討った隆広を“恩知らず”と罵るかのように隆広の眼前で自決する。そんな悲しい結末を三人は想像も出来なかっただろう。

 

 見送りに松がやってきた。

「長庵殿、竜之介殿、これ勝頼兄様が路銀の足しにと」

「とんでもござらん! 受け取れませぬよ」

 長庵は固辞するが、

「受け取ってくださらなければ松が叱られます」

「仕方ございませんな…」

 やむをえず長庵は勝頼からの贈り物を受け取った。そして松は竜之介に向いた。

「竜之介殿」

「はい」

「いつかは松の話を聞いてくれてありがとう」

「いえ」

「お元気で」

「松姫様も」

 松に随行してきた兵の中には源三郎と源次郎もいた。兄弟は竜之介に手を振っていた。竜之介も二人に手を振って応える。真田兄弟と竜之介はこれより八年後、敵同士として会う事になる。そんな運命を竜之介、源三郎、源次郎は知る由もない。

 

 松が立ち去り、長庵と竜之介は快川に別れを告げた。

「快川和尚様、今までのご教授、竜之介終生忘れません。ご指導ありがとうございました」

「うむ、達者でのう」

 快川も名残惜しそうだった。別れにあたり色々言おうと思ったが、さしもの智者の快川にも言葉が中々出てこなかった。竜之介の肩を抱いて、微笑んだ。それだけで十分だった。

「和尚様、『強さと敵を蹴散らすは違う』の意味、まだそれがしには分かりません。でももっともっと勉強して、色んな事を経験して、必ず正解を持ってまいります!」

「楽しみにしております」

「はい!」

「では参るぞ竜之介!」

「はい父上!」

 こうして竜之介と長庵は恵林寺を去った。だが快川と竜之介の再会はあまりにも悲劇であった。

 

 隆広の少し長い話も終わった。

「そうでしたか…。あの時に討たれた諏訪殿とそれほど深き師弟の絆が…」

 少し涙ぐんでいる奥村助右衛門。

「その奥方ともそれほどの縁…。こたびの戦、つらかったでございましょうな…」

 慶次は壮烈な最期で死んだ花の姿を思い出した。そして

「斬ったのはそれがし…。申し訳ござらん」

 奥村助右衛門は隆広に詫びた。

「オレを守ろうとして行った事だ。そなたに責任などない」

 隆広は自分の髪を結っている紐を解いた。隆広は今でもお花のくれた紐で髪を結っていたのだった。隆広の長い髪がパサリと落ちる。そしてその紐を両の手で持ち

「オレを見つめたあの悲しい目、忘れない。“師と云えば父も同じ、あなたはその父を殺した、必ず報いを受けましょうぞ”と云う言葉も忘れない。だがオレは逃げないよ。その報いを受ける日まで…」

「その報い…。我ら三名も受けましょうぞ」

 助右衛門が微笑み、言った。

「ありがとう」

 隆広はニコリと笑い、再び髪を結った。

「しかし…快川和尚から直々に武田の技を教えられたなんて…どうりで甲州流の治水や築城に詳しいはずですね」

 と、石田三成。

「快川和尚様の教え方が良かっただけさ。そしてそれを教えても良いと許して下された勝頼様のおかげだ。そして佐吉もそれをオレを通して学び九頭竜川治水に役立ててくれた。オレはもっともっと治水と開墾で武田の智と技を人々に教えたい。越前だけでなく、他の洪水や凶作に悩む国々に。武田はこのまま滅ぶかもしれないが、その叡智は永遠にこの国に生きる」

「それを成そうとするのならば、お花殿の述べた『報い』もどこかへ行ってしまうかもしれませぬぞ」

「上手い事を言うな佐吉、あっははは!」

 豪快に笑う慶次。

「まこと佐吉の申すとおりです。今思いし大望、お忘れあるな!」

「ありがとう助右衛門、みんな…」

 少し涙ぐんでしまう隆広。

 

「あともう一つ」

「なんだ慶次」

「今までどうして戦場で槍を武器にしなかったのですか?」

「大した理由じゃない。オレには膂力がない。そなたの朱槍を持つのがやっとの非力さだ。槍と刀剣の技を身につけてオレ個人の武芸は刀剣に向いていると思っただけだよ。また助右衛門や慶次のような豪傑が左右にいるんだ。使う必要もなかったと云うのが一番の理由かな。だけど…」

「だけど?」

「槍術を通じて色んな事を学んだ。『受け』『払う』『突く』の基本は、あらゆる兵法にも通じるものであり、そして槍術の鍛錬は肉体と精神の研鑽に繋がった。実際に槍を戦場で使わずとも、勝右衛門先生から得た槍の技はオレの一生の宝だ」

 隆広本陣の陣屋、その奥に丁重に置かれている勝右衛門から贈られた槍を見る隆広と慶次たち。

「あの槍、無銘だそうだからオレが『諏訪頼清』と名づけた。今後の戦場にはあの槍を愛槍として用いる。いつも師と一緒だ」

「ま、それがしと助右衛門が使う機会などそうは与えませぬがな」

「確かに、あっははは」

「うん、頼りにしているぞ二人とも!」

「「お任せあれ!」」

「さ、明日は早朝から新府へ進軍だ。そろそろ休もう」

「「ハッ」」

 

 水沢隆広は後年に諏訪勝右衛門が領地としていた高遠城南西の橋本郡八百石の地に、師とその妻お花の廟を建立した。

 諏訪勝右衛門とお花の肖像画を高名な画家に命じて描かせ奉納し、お花が好きだった桜の樹を敷地一杯に植えさせ、隆広はその廟に勝右衛門とお花の名前を合わせて『清花院』と命名した。隆広は没するまで毎年の墓参を欠かさなかったと云われ、隆広の没した後には地元の民たちが毎年の供養を欠かさず、そしてそれは現在に至るまで続けられている。


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