天地燃ゆ   作:越路遼介

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四面楚歌

 新府城の勝頼の部屋。ここで勝頼は松に会っていた。

「そうか、竜之介と会ったか」

「はい…」

「オレも会った。鳥居峠でな」

「勝頼兄様」

「一万二千の軍勢を…縦横に使いこなしておった…。良い予想ははずれ、悪い予想は当たるが世の皮肉。竜之介は最大の脅威となって甲斐に戻ってきたわ。ふふふ」

「でも…竜之介殿は武田への気持ちを忘れているわけではありません。勝右衛門殿を討たれた後、泣いておられました…」

「分かっている。なあ松」

「はい」

「躑躅ヶ崎で竜之介を見て、その才を知った時、一瞬お前を竜之介にくれてやろうと思った」

「え…!」

「信忠が忘れられないお前を竜之介と強引に娶わせ、そして竜之介もわが家臣。これは妙案だと考えた。お前も竜之介には好意的だったしな」

「勝頼兄様ったら…」

 松は顔を赤めた。

「だが…すべて夢だな」

 

「父上」

「おう信勝か」

 信勝とは武田勝頼の嫡子である。当年十六歳。

「諸将が軍議を求めておいでです」

「そうか。分かったすぐ行く」

「はっ」

 信勝は下がった。

「松」

「はい」

「相模の体調が悪い。連れ添ってやっていてくれ」

 相模とは北条夫人と呼ばれる勝頼の妻である。ここ数日は風邪をこじらせ熱が出ていた。松より一歳若い勝頼の幼な妻だった。北条氏政の妹で政略結婚ではあったが勝頼はこの幼な妻を溺愛していた。

「分かりました。私が相模殿についています」

「頼むぞ」

 勝頼は松にニコリと微笑み、部屋を出て行き評定の間へと向かった。

 

「待たせたな」

「「はっ」」

「今まで重臣たちの間で協議された事を聞かせよ」

「お館様、恐れながらこの城は未完成。とうてい織田勢は食い止められませぬ」

 と、真田昌幸。

「ふむ…」

 しばらく軍議を重ねていると、そこに衝撃的な報告が届いた。

「も、申し上げます!」

「なんだ」

「あ、穴山信君様! 徳川に内通! 徳川軍と共に甲斐に侵攻!」

「な、なんだと!」

 絶句する勝頼。真田昌幸もあぜんとした。

「穴山殿は信玄公の甥! 妻の咲殿(後の見性院)はお館様の姉! それが裏切ったと申すのか!」

 声も出ない勝頼。不仲ではあったが一族の中でもっとも信玄に繋がりの深い穴山信君。それが織田に寝返った。

「そんな事が…!」

 恵林寺で自分の指針を長庵に照らしてもらった勝頼。だが実際勝頼は不本意ながらそれが実行に至らせなかった。何故かといえば、やはり重臣たちとの軋轢である。勝頼とて人間。自分を軽視して、いつまでも“お館様(信玄)ならば”と述べる重臣たちより、自分の子飼いで忠実に活躍してくれる家臣を重用するのが自然である。

 秋山信友は岩村城の破却を頑強に拒否し、それから勝頼とは不和だった。駿河の海の利権においては穴山信君が介入を拒んだ。上杉へ積極的に和を講じるのも重臣に反対された。

 勝頼は長庵の言うとおり、とことん礼儀を尽くして助力を得て織田と徳川に備えようとしたのであるが、重臣たちの“姫(菊姫)を嫁がせて和を講じ、上杉と不戦状態になっただけで十分。お館様は謙信の家臣になれとまで申してはいない”と云う頑強な反対が生じ、実現できなかった。

 長庵の忠言を実行しようとしても重臣たちの事ごとくの反対で実現不可だったのである。君臣の融和を図っても、何かといえば父信玄の名を出して勝頼のやる事なす事に反対する重臣たちに勝頼もついに焦れて

“オレは武田家を思ってやろうとしている。オレが発した言葉も父が発したのならお前らは受け入れるのであろう。そんなに父が良いのなら、今の武田から出て行くがいい”

 と、ついに先代からの重臣たちと決裂。いつまで経っても当代を認めようとしない重臣たちにも非はあるだろうが、勝頼ももう少し根気強く重臣たちに当たるべきだったのかもしれない。武田勝頼の悲劇はまさに父の信玄が偉大すぎた点だろう。

 信玄は早いうちから勝頼を世継ぎに指名して、君主として帝王学を仕込むべきであった。

 それどころか養嗣子とした孫の信勝を世継ぎに指名して、勝頼を信勝成人までの後見と位置づけた事は病の床につき冷静な判断ができなかったとは云え、信玄の失策と言えるのではなかろうか。家臣たちがそれでは勝頼に従えないと主張するのも無理らしからぬ事だろう。

 

 やがて信長の罠である高天神城の攻防戦が繰り広げられ、長篠では大敗。北条との同盟も亀裂し敵に回してしまった。上杉も景勝に世代交代してもはや助力は願えない。

 だからと言って織田信長は武田勝頼を軽視していたわけではない。“勝頼は表裏をわきまえた武将ある。油断は出来ない”と認めている。だからこそ討つに備えて徹底した。長庵の予言どおり高天神城を矢面に出し、取られたら取り返しを繰り返した。軍費の消耗を待ち、そして最後は見捨てざるを得ない状況を信長は作った。もはや滅亡への連鎖反応。家臣は次々と寝返り、逃亡した。

 

「お館様、しっかりなされい!」

「昌幸…」

「今は、どこで織田を迎え撃つかにございまする! 寝返った者は放っておきなされ!」

「すまん…」

「事は急がねばなりますまい。新府城では織田勢は防げませぬ。手前の岩櫃城(群馬県吾妻郡東吾妻町)にお越しあれ! お館様と若君、奥方様をお守りいたす!」

「昌幸よ…」

「あいやしばらく!」

 一族の小山田信茂だった。

「信茂、何か」

「いくらなんでも新府から岩櫃城は遠すぎる。手前の岩殿城(山梨県大月市)にされよ。それがし先導つかまつる」

「お館様…!」

「昌幸、やはり岩櫃城は遠すぎる。雪もあるし女の足も考慮せねばならん。信茂の岩殿城にいたす」

「はっ…」

「せっかくの申し出だったのにすまぬな」

「お館様…。まだ武田は負けておりませぬ。必ずや再起を!」

「すまぬ…!」

「小山田殿、頼んだぞ!」

「承知した」

「すぐに発つ。昌幸、新府に火をかけよ!」

「ハハッ」

 

 武田勝頼は妻の相模も連れて、岩殿城へと向かった。この時の相模は高熱を発していたと伝えられている。勝頼は息子の信勝に妻を背負わせて小山田信茂の先導で岩殿城を目指した。

 

 織田信忠の進軍中、信忠に伝令が走った。

「申し上げます!」

「何か」

「新府城、炎上しておりまする!」

「なんだと?」

「信忠様! あの煙!」

 隆広が指す方向に噴煙が上がっている。

「まさか…集団で自決でもしたのか!?」

「いや、新府城は未完成の城ゆえ織田を迎撃できないと悟り、おそらくは有力家臣の持つ城へと退避したと思われます」

「なるほど、どこの城に行くと思うか?」

「真田の岩櫃城か、小山田の岩殿城かと」

「ふむ…」

「岩殿に入れば、あの天嶮の要害に、あの精強を誇る投石部隊、容易ではございませぬ。かつ真田の岩櫃城は上野(群馬)にございます。隊列が伸びてしまう上に、真田昌幸殿の用兵は“信玄の眼”と呼ばれたほどにございます。いずれにせよ…」

「城に入る前に捕捉する事、と言うのだな?」

「御意」

 

 しかし、隆広の懸念は意外な人物が払拭してしまう。

「お館様―ッ!」

 隊の後ろを歩く勝頼に衝撃的な報が届いた。

「お、お逃げを! 退却を!」

「どうした?」

「小山田信茂! 突如に我らの入城を拒否! 先行の兵は笹子峠より攻撃を受けてほぼ壊滅!」

「なに…」

 勝頼は呆然とした。

「信茂が…織田に…寝返った…?」

「父上…」

 

ビュウウウウ

 

 雪の甲斐の寒風が勝頼の心身を吹きぬける。まさに悪夢である。父信玄の作り上げた武田家を懸命に守ろうとした。重臣たちとの融和にも心砕いた。だが結果はこれである。私心を捨て、ただ武田家のために寝食忘れ働いてきたのに、家臣たちはとうとう自分を認めなかった。何が悪かったのか、何が足らなかったのか、それは誰にも分からない。

「もはや…これまでか…」

 放心状態で立ち尽くす武田勝頼。あの威容を誇った武田軍が内部から崩壊していく。

「勝頼兄様…」

「松…」

「かつて竜之介殿は…父信玄の良いところは尊敬するが、非道な事は断固軽蔑すると申したそうですね…。確かに父は罪もない人に酷い事をしてまいりました。因果は…子の私たちに回ってきたようです」

「……」

「我ら武田家は織田家に滅ぼされるのではなく…天に滅ぼされるのです」

「これが武田の避けられないさだめと云うか…」

 残る将兵、女たちも嗚咽をあげた。

「…もはや武田の命運もこれまで。せめて武田の祖先の眠る天目山で生涯を閉じよう」

 

 武田勝頼一行は天目山を目指した。天目山は中国の名山天目山に似ている事から名づけられた山で、武田家十代信満の菩提寺栖雲寺がある。

 小山田隊は追撃をせずにそのまま行かせた。当主の信茂にとり勝頼が自分の居城に入城しなければ良いのだ。新府城で勝頼を受け入れる事を述べたのは本心だった。しかし岩殿への道中、信茂は家族、家臣、領民、そして自分の領地の事を思い、考えを変えたのである。

 勝頼の家臣団は小山田の突如の裏切りに怒り狂い、地獄の鬼のごとく反撃に出たか衆寡敵せず。今、勝頼に付き従っているのは五百人を切った。

 

「小山田信茂が裏切った?」

 すでに焼け落ちた新府城に到着した織田信忠軍。そこへ使い番が信忠に報告した。

「ハッ」

「して…勝頼はいずれに向かった?」

「天目山にございます。すでに大殿の下命にて滝川勢が追撃に出ています」

「天目山…。おい隆広知っているか?」

「天目山は武田家十代信満公の菩提寺栖雲寺がある山にございます」

「先祖の菩提寺? ならばそこで…」

「自決を」

「自決くらい静かにさせてやれば良いものを…! 隆広、滝川勢では皆殺しだ。すぐに追いかけろ」

「承知しました」

 松を助けろと信忠は言わなかった。しかし自分を派遣する事そのものが松の救出を願う事であるのは分かっていた。隆広自身も松を助けたかった。

 

 時を少し遡るが、小山田叛旗の知らせを聞いた真田昌幸。すでに彼は兵を連れて岩櫃城へ向かっていたが大急ぎで戻った。

 彼は主君勝頼が自決するなら天目山と読み取り向かったが、その道中で徳川勢と遭遇してしまった。徳川勢はこの時七千の軍勢だった。真田勢は二千の兵しかなかったが徳川の軍勢の中に見た穴山梅雪の旗、許すわけには行かない。昌幸は徳川に攻撃を開始した。

 昌幸の神算鬼謀というべき用兵で徳川軍を後退させた。穴山を取り逃がした事に悔しがる昌幸だったが、その昌幸の下に一報が入った。

 

“ここより南西二里ほどに軍勢が通っている。旗は『歩の一文字』、水沢隆広の軍です”

 追い払った徳川の陣にあった兵糧で腹を満たし終えていた真田軍。昌幸はすぐに水沢軍を追った。それは隆広にも伝わった。

 

“真田二千! 我らを追走しております!”

「隆広様、相手は真田昌幸! しかも北東方面から我らを追尾と云う事は徳川七千を蹴散らした事となりまする!」

 と、奥村助右衛門。

「いかに隆広様が智将であっても真田昌幸相手では経験が違いすぎまする。兵も精強! 徳川に勝ち勢いが乗っておりまする。しかも我らは勝頼殿追尾のため織田陣を出てきたゆえ、兵は千五百しか連れてきておりませぬ!」

 と、前田慶次。隆広は少し考え、そして命令した。

「梯子を作れ。四間(7メートル)ほどのだ」

「は?」

 奥村助右衛門と前田慶次は顔を見合わせた。

「説明している暇はない。大急ぎで四間の梯子を作るのだ!」

「しょ、承知しました。大急ぎで四間の梯子を作れ!」

「「ハハッ」」

 助右衛門の下命で兵が急いで梯子を作った。

「おい助右衛門、隆広様は何を考えておられるのだ?」

「分からん…」

 隆広は馬上から辺りの地形を見ている。雪の甲斐の山々を。

「梯子が出来ました!」

「よし」

 隆広は馬から降りた。

「ここに立てよ、オレが登る。みなで梯子が倒れぬよう押さえてくれ」

「「承知しました!」」

 兵が梯子を立て、そしてみなで押さえて安定させた。隆広はその梯子に登る。そしてもう一度山々を見渡した。

「雪がずっと続いている甲斐…。必ずあるはずだ…」

 高所にあがり周囲の地形を注意深く見る隆広。彼はある条件を満たしている山を探していた。そして見つけた。

「よし、あった! 良いか!」

「「ハハッ!」」

 梯子の上から隆広は全軍に指示を出した。

「全軍、かの山のふもとに偃月の陣をもって布陣する。真田勢はすぐそこまで来ている。急げ!」

「「オオオッ!」」

 武田攻めのさなかに発生した小競り合い程度だが、大将が面白い。真田昌幸と水沢隆広である。まさに当代の智将同士の激突だが、この合戦は意外な形で終わっている。

 

「申し上げます! 水沢勢は津笠山のふもとに陣を張りました!」

 馬を駆る真田勢に物見の報告が入った。

「陣形は!」

「偃月の陣と思慮されます!」

「信幸!」

「はっ!」

「偃月の陣に有効な陣を述べい!」

「はっ、鋒矢の陣にございます!」

「うむ! 全軍鋒矢の陣を構えいッ! このまま水沢陣に突撃するぞ!」

「「「オオオオッッ!!」」」

「兄者、水沢隆広とはやはり…」

「竜之介殿だろう」

「彼と戦うのか…」

「雑念は捨てろ幸村、誰であろうとお館様に仇なすヤカラよ!」

 

 隆広は敵影を確認した。真田六文銭の旗が迫り来る。雪やまぬ甲斐、隆広の息は白い。だが隆広が考えた策はまさにその雪を兵にする事だった!

 隆広の軍配が津笠山の山肌を指した。一斉に鉄砲が轟く。

 

 ダダダダダーンッッ!!

 

 真田昌幸もさすがである。この鉄砲発射ですべて悟った。

「しまった、雪崩か!」

 そう、隆広は少しの過重がかかったら、すぐに表層雪崩を起こせそうな山肌を梯子の上から探したのである。そしてあるだけの鉄砲の轟音をもって、それを誘発した。大気が震え、地鳴りが響く。

「ちぃッ!」

 真田昌幸は馬を止めた。そして先に見える若い男。馬上で静かに真田昌幸を見つめている水沢隆広。

「あの小僧! やりよったわ!」

 

 ズズズ…ッッ! ドドド…ッッ!

 

「全軍とまれーッ 雪崩だ!」

 津笠山の斜面から一斉に雪崩が襲ってきた。昌幸の判断がわずかに遅れたら真田軍は生き埋めとなっていただろう。真田の軍勢手前をかすめただけで済んだ。真田と水沢の軍の間に大きい雪山が出来てしまい、もう水沢軍を追う事が出来ない。水沢軍はすでに戦場を離脱して勝頼を追い始めた。

「何たる不覚じゃ!」

 忌々しそうに雪を蹴飛ばす昌幸。水沢勢が去っていった方角を見て呆然とする幸村。

「まさか雪を使ってくるなんて…」

「智将と呼ばれているとは聞いていたが…してやられたな」

 と、真田信幸。息子たちの会話を外に昌幸は眼前に広がる雪山を見て

「やはり、この雪山を軍勢で迂回していては間に合わぬ。お江!」

「はっ」

 お江とは真田家に仕えるくノ一である。

「佐助を連れて、水沢勢を追い、大将の水沢隆広を殺せ」

「承知し…」

「父上、お待ちを」

 昌幸に命に従い、水沢軍に向かおうとしたお江の肩を掴んだ真田信幸。

「何じゃ信幸」

「父上、お館様(勝頼)を追尾する水沢隆広、手前と源次郎(幸村)存じうる者でござる」

「なに?」

「以前にお話した事もあるはず。恵林寺の快川和尚に指導を受けし竜之介殿の事を」

「…それが長じたのが水沢隆広と?」

「御意、竜之介殿の養父はあの斉藤家の戦神と呼ばれる水沢隆家殿。その名を継ぎし者は竜之介殿おいてござりませぬ」

 真田昌幸も躑躅ヶ崎館で長庵こと水沢隆家を見た。我も及ばぬと見た人物だった。

「あのお方の養子か…」

「竜之介殿はお館様の肝煎りで武田の技を学びました。それがしと源次郎も木槍を交えた御仁です。高潔なお人柄でした。たとえ敵味方になったとはいえ、お館様に無体なマネはいたしますまい」

「…」

 昌幸は信幸を見つめる。

「そなたと源次郎が、その竜之介と会いしはもう八年前であろう。その高潔も変わっておるやもしれぬぞ」

「いえ、それはありえません」

 と、真田幸村。

「なぜ、そう言いきれる」

「事実、水沢は松姫様を新府城まで丁重にお連れして下されたではございませんか。落城の中にいた敵方の姫など、どうにでもできたはず。しかし水沢は松姫様を最上の礼をもって新府までお届けして下された。そんな御仁がどうしてお館様をなぶり殺す真似などしましょうか」

「…分かった、お江」

「はっ」

「我らは岩櫃城に引き上げるが、そなたは佐助を連れて水沢軍に紛れ込み、もし水沢隆広がお館様を討とうとしたならば殺せ。だが信幸や幸村の申すとおり、水沢隆広が武士の節義をもってお館様の最期の地と時を守るのであれば手出しは無用、そのまま帰ってまいれ」

「ハッ!」

 真田昌幸はもはや勝頼を救出する事が不可能である事を分かっていた。小山田の叛意を知った時点で軍勢を返しても、勝頼にたどり着くまでの道は敵で満ちている。もし徳川と水沢を蹴散らしても、その後には滝川勢がいる。

 そして徳川と水沢が蹴散らされたと織田方が知れば、織田の大軍勢が真田の横腹をついて、結局全滅したうえ勝頼の救出はおぼつかない。水沢軍との接触で進路を断たれた真田勢は引き上げるしかない。そして勝頼は助けられない。

 ならばせめて忍びを水沢軍に向けて、水沢軍が勝頼を殺す気ならば水沢隆広を討ち、水沢隆広が武士の節義をもって勝頼の最期の時と地を守るのなら、息子二人が“竜之介”を信じるように自分も敵将水沢隆広を信じ、主人勝頼の死出を委ねよう。それが真田昌幸の出来る勝頼への最後の事だった。

「お江、水沢には藤林の忍びが付いている。気取られるなよ」

「承知しました、若殿様(信幸)」

 信幸はお江に賃金を渡した。

「佐助、お江の足を引っ張るなよ」

「ちぇ、殿(幸村)は相変わらずオイラを子ども扱いだ。任せとけって!」

 お江、佐助は真田勢から水沢勢に駆けて行った。

「さて、徳川が退路を断たないうちに岩櫃城に帰るぞ」

「「はっ」」

 真田信幸は水沢軍が去った方角を見た。

(この雪崩作戦といい、鳥居峠での戦ぶりといい…とんでもない武将となって甲斐に帰って来たな…。だが次に会う時はこうはいかんぞ)

 同じく真田幸村は

(あれから八年か、竜之介殿が成長したように、オレとて八年前の男ではない。今度会う時が楽しみだ。その時は敵か味方か分からんが)

 と、微笑を浮かべて馬を返した。そして真田昌幸は天目山に向かい平伏し馬に乗った。もう振り向かなかった。

「信幸、幸村」

「「ハハッ」」

「武田は滅ぶ。だが真田は滅ばぬ。我らこれからが正念場ぞ、二人とも心しておけ」

「「ハハッ!」」

 真田勢は上野国岩櫃城に引き返した。水沢隆広と真田が直接対決をしたのはこれのみである。徳川勢七千を二千で倒した真田。その真田を戦わずして後退させた水沢隆広。派手な合戦は繰り広げなかったが、天候と地形を味方につけた隆広の頭脳勝ちとも云えるだろう。

 負ける事を知らない百戦練磨の真田昌幸の敗戦らしい敗戦は、この水沢勢との対決のみである。

 

 そして水沢勢を追尾する二人の真田の忍び、くノ一お江、そして猿飛佐助が水沢軍に向かった。二人は雪原を駆ける。真冬の甲斐は雪深い。お江と佐助は白い息を吐きながら、水沢軍を追いかけていった。


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