天地燃ゆ   作:越路遼介

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気高き老兵

「隆広様、見事にございました。よもや雪崩を使うとは」

 真田との小競り合いから離脱し天目山に向かう水沢軍。先頭を進む水沢隆広に奥村助右衛門が真田への策を誉めた。

「ははは、実は冷静に構えていたけれども本音は真田昌幸殿と戦いたくなかっただけなんだよ。こちらの方が兵も少なく、昌幸殿と俺とでは慶次の申すとおり実力も経験も違いすぎる。あの場で戦っていたら負けていただろう」

「正直にございますな、しかしそれがしも同感にござる」

 苦笑する前田慶次。

「いやいや、逃げるのも兵法。しかし、よく雪崩を誘発できると分かりましたな」

 と、助右衛門。

「うん、鉄砲がなければ不可能な策だった。奥州の戦でも唐土の戦でも雪崩を活用した記録はあるが、手段は雪崩を誘発させる別働隊を作り、地を大人数で踏み続けて地響きをもって雪崩を起こすと云うもの。しかし今は鉄砲がある。弾は雪原に小さな穴を穿つだけだが、その発射の時の轟音は大気をゆらす。連日雪のこの国だ。俺は傾斜のある山肌を探して、それに積もる大雪を崩そうとしたんだ」

「いや恐れ入りましてございます。梯子を使ったのもそれを探すためでございますか」

「そうだ。かつ間違っても自分達が巻き添えにならない位置が取れる場所を見つけるためだ。うまく行って良かった」

 水沢隆広はどう策を練り工夫を持っても勝機はないと思えば戦う前に逃げた。だから彼の生涯には敗戦らしい敗戦はないし、犠牲多大な勝ち戦もない。これは武田信玄の『勝たずとも負けなければいい』と云う理念が隆広にもあったからだろう。逃げ上手であったと云われているが、真田昌幸から一兵も失わずに逃げたのは賞賛に値する。

 彼は勝って敵の首の多さを誇るより、部下を生きて帰らせ、それを喜ぶ家族たちの笑顔こそ誇りにする大将だった。だから彼には優れた部下たちが集まった。

 

 隆広の痛快な逃げの一手に沸く水沢軍とは反対に勝頼の武田軍はみじめだった。決して武田勝頼は凡庸な将ではない。武田勝頼は『甲陽軍鑑』においては

『常に短気なる事なく、喧狂におわしまさず、如何にも静かで奥深く見え奉る』

 と評されており、武田氏の滅亡の原因は、後の世の歴史家をずいぶん悩ませる事になる。とどのつまり、いくら当主や家臣団が優秀でも、時代の流れには逆らえなかったのだろうか。しかし時の流れは、歴史はあまりに彼に残酷だった。

 はじめは五百人ほどいたという勝頼一行も、いつしか一人減り、二人減りして、とうとう百人ほどになってしまった。そんな勝頼一行を追って織田方の滝川勢が迫り、ついに天目山の手前、田野の地において滝川勢に捕捉されてしまった。

 武田勝頼、武田信勝、および最後まで付き従っていた土屋昌恒、小宮山内膳、小原忠継らの武将は滝川勢に向かって討って出た。しかし多勢に無勢、勝算などあるはずもなく、死に場所を求めての特攻だった。

 

 三人の武将たちはまだ勝頼と信勝を逃がそうとした。敵の雑兵に首を取られるよりも、自決による最期であってほしいと思ったからである。

 勝頼は信勝と妻を連れて、戦場を離脱。十数人がそれに従った。あまりに勝頼の姿が哀れに思えたか、滝川一益は追撃を禁じた。

「天目山は武田十代信満の眠る地、そこで生涯を終えるようだ。断じて追撃はならん。静かに逝かせてやれ」

 と、一益は軍勢を退いた。しかし滝川軍の一部雑兵が手柄である勝頼の首と美女の相模と松を欲しがり追撃をした。真田勢と小競り合いをした後、滝川軍とは別の道で天目山を目指していた水沢軍。隆広は忍びからその知らせを聞いて大急ぎで駆けた。

「醜態な…!主君の命に背いてまで手柄が欲しいか…!」

 

「すすめ―ッ!勝頼の首は目前ぞ!」

「女は殺すな!生け捕りだ生け捕りだ!」

 織田の滝川一益の雑兵たちが敗走する武田一行を追い詰めていく。天候は武田勝頼の無念を示すかのように吹雪だった。

「相模…大丈夫か」

「はい…」

 相模とは北条氏政の妹で、武田勝頼の正室である。歳は十九歳で甲斐でも評判の美人で武田家中の若侍の憧れだった。そして勝頼と同じく、その相模を心配し、高熱で苦しむ彼女を背負う若武者がいた。

「母上…」

「…そんなに心配しなくても平気です。若様」

 若様と呼ばれたのは十六歳になったばかりの武田信勝である。勝頼と先妻の子であり、その母は信長の養女である。皮肉にも信勝は義理の祖父に追い詰められているのである。

 もう勝頼の周りにいる人数は二十名を切っている。女もいる。もはや戦うどころではない。勝頼一行は自刃の場を求めて天目山を歩いているようなものだ。

 だが勝頼、信勝の首は織田の雑兵からすれば出世首。見逃すはずがない。また美人と評判の相模と松を犯す順番さえ追撃中に決めていた。もはや疲労困憊の勝頼一行、追いつかれるのも時間の問題だった。

「ハアハア…」

「相模…!」

「殿…私はここまででございます。お斬り下さい」

「馬鹿を言うでない!死ぬ時は一緒じゃ!」

「父上、もう少し歩けば天目山の中腹で、やや広い台地に出られます。そこで」

「そうじゃな…」

 滝川軍の雑兵たちは怒涛のごとく武田勝頼一行に迫る。だがその雑兵たちをさらに追う一行。

 

 ドドドドッッ!

 

 騎馬の一隊のそれは、歩兵である雑兵たちを追い抜き立ちはだかった。

「追うのはならぬ!」

「何を言っていやがる!手柄首を逃しちまうじゃねえか!」

「手柄首だと!負けてすでに敗走している敵の首が手柄になると言うか!」

「オメエみたいに、そげな若さでぬくぬく大将やっている奴に俺たちの手柄に対する気持ちなど分かるもんじゃねえ!そこどけ若僧!」

「ふざけるな!」

 前田慶次が雑兵に一喝した。

「雑兵であろうが大将であろうが武人の誇りに違いがあるか!勝ち戦で手柄首を取りに行くなど恥を知れ!」

 迫力においては隆広を凌駕する慶次である。雑兵たちは何も言い返せず、そのままスゴスゴと引き下がった。

「すまぬ慶次」

「いえ」

「しかし間に合って良かった。矩久、紀茂、天目山の地形図をこれに」

「はっ」

 隆広の部下である松山矩久と高橋紀茂は主命により、土地の木こりに天目山の地形図を描いてもらうべく動いていた。敵地の領民がこちらに地形図を描いてもらえるかどうかと不安であった二人だったが、二人が肩透かしをくらうほどにあっさりと木こりはわずかな報酬で敵方の織田勢に地形図を提供してくれた。

 隆広は馬から降り、雪に地形図を濡らさないように広げつつ、寂しそうに言った。

「そうか、もはやそれほどに勝頼殿から民心は離れているという事だな」

「そのようです。聞けば勝頼殿は無理な税収を民に強いていたようでございます。新府城の築城にもかなりの労役を強いたとの事。やむを得ぬ事とは云え民は勝頼殿から離れておいでです」

 と、矩久。

「部下にも民にも裏切られ…かつての武田の威風が嘘のように思えますな。滅ぶ時はこんなものなのかもしれませぬ」

 慶次も地形図を覗き込みながらつぶやいた。

「ああ、だからこそ最期は静かに逝かせてあげたい…」

 隆広の指先が地形図で止まった。

「ここだな」

 慶次、助右衛門、矩久、紀茂が地形図に目を凝らす。

「今の勝頼殿の位置がだいたいここだとすると…しばらく進めばこの小広い台地に出る。ここで自決するだろう。信忠様は自決くらい静かにさせてやれば良いものを、と述べておられた。我が隊は勝頼殿の最期の時と地を守るのが務めだ。よいか、勝頼殿の最期を邪魔する者は誰であろうと斬れ」

「「ははッ!」」

「では我らも勝頼殿の後に続こう。追撃と勘違いさせないよう、静かに進むぞ」

「「ははっ!」」

 

 その水沢軍に兵として紛れ込んでいた真田の忍び、お江と佐助。

「姐さん(お江)、信幸様の申すとおりの大将だね」

「そうね…。ともなれば問題は水沢勢より…」

「水沢勢より…?」

「行くわよ佐助、この先に武田の恥がいるかもしれない…!」

 

 織田信長本陣に水沢隊が武田勝頼を追尾していると報告が入った。

「ふむ、信忠の差配か」

「御意にございます」

 と、信忠の使い番。

「あの武田が滅ぶか。ネコに使いを出せ。けして勝頼の最期に手出ししてはならぬ。させてもならぬとな」

 傍らにいた森蘭丸も驚いた言葉だった。

「そんなに意外か?お蘭」

「い、いえ!」

「ふははは、顔に書いてあるわ」

「は、はあ…」

「勝頼がまだ抵抗するのなら容赦はせん。だが先祖の菩提寺の山で自決しようと云うのならば、そうさせてやろうと思ったまで。それに…」

「それに…?」

「武田を倒すには苦労させられた。出来れば終わりもそれなりの形にしたいのよ。落ち武者狩りで勝頼らが皆殺しにされるより、勝頼の自決で締め括りたいと考えただけよ。織田と武田の戦の終わりに花を添えるが勝頼の出来る最後の仕事よ。ふっはははは!」

「ならばそのように水沢殿へ使者を」

 使い番がそれを受け、信忠の陣に戻ろうとした時、

「いや待て」

 使い番を止めて苦笑する信長。

「やはり良い、ネコに使者を出すに及ばん。お蘭あやつはおそらく…」

「御意、その大殿の下命を聞かずとも勝頼の最後の時と地を守るでございましょう」

「だろうな」

 

 水沢軍は先を行く勝頼を刺激しないように静かに後を追った。地形図から勝頼が自刃する場所は分かっている。先祖の武田信満が自刃した天目山棲雲寺までたどり着くのは無理であろうが、集団が自決するに足る台地が勝頼一行の先にある。そこで生涯を終えるつもりと隆広は読んだ。これはお江も読んだ。しかしその地に勝頼一行がたどり着けるかどうか、これがお江の抱いた危惧であった。

「落ち武者狩り…?」

 と、佐助。

「そうよ、勝頼様と信勝様の首を織田陣に持っていけば金になると思い、狙っている者がいるかもしれない」

「馬鹿な…!信長はそんなおめでたい男じゃないぜ。勝頼様たちの首を持っていけば不敬不遜の者と信長に斬られるぞ!」

「それが分からないのが落ち武者狩りをする人間なのよ!」

 お江と佐助は木々の上を枝伝いに走った。方向は天目山の棲雲寺。勝頼一行が落ちていく間道脇の森林に潜み、勝頼と信勝の首、美人と呼ばれる相模と松を欲し待ち伏せする卑怯者。それがお江の云う『武田の恥』だった。そしてそれは的中した。

「いた…!」

 勝頼一行がもう一寸もすれば到達する間道脇に落ち武者狩りはいた。お江と佐助は茂みと雪に隠れ、それを見た。

「駄目だ、姐さん。百人以上はいるぞ、二人じゃどうにもならないぜ!」

「しかも…土民に混じり甲陽流と忍甲流の忍びまで…!何たる恥さらし、武田の忍びは未来永劫笑いものになるわ!」

 竹やりを持った土民と共に甲陽流と忍甲流の忍びもいた。それは武田の忍びである。しかし、

「何を考えているんだ!俺たちは武田の忍びだろ!お館様を討とうなんて俺たちは甲斐の人々に永遠に恥知らずと罵られるぞ!」

 その落ち武者狩りの中でただ一人、勝頼一行を討つ事を止めている若者がいた。

「あれは…」

「姐さん、あれは忍甲流の下忍、六郎だよ」

「まだ忍びの誇りを持つ者が忍甲流にいたのね…。だけど一人じゃ…」

 お江の懸念どおりになった。六郎は必死に仲間を止めようとしたが、結局袋叩きに遭い、木に吊るされた。六郎はお江と佐助から見ても下忍とは思えぬ強さだったが多勢に無勢であった。

「や、やめろ…。俺たちは武田の忍びだろ…」

「滅ぶ主家に用はねえ!この上は俺たちの食い扶持と女をくれてもらうとするぜ!」

「「そうだそうだ!」」

「馬鹿な…。信長にお館様の首を持って行っても殺されるだけだぞ!ましてや奥方様と松姫様を陵辱など貴様らそれでも武田の忍び、武田の民か!恥を知れ恥を!」

「やかましい!」

「ぐはっ!」

 六郎の腹に強烈な一撃が入った。お江は悔しさのあまり飛び出しそうになった。

「駄目だよ姐さん!二人じゃ無理だよ!」

 佐助が止めるが

「だからと言って、このまま見過ごせないわ!土民は烏合の衆、忍びの頭目を殺せば何とかな……!!」

 いつのまにか、お江と佐助は囲まれていた。すさまじい殺気の中に囲まれている。お江と佐助は動く事が出来なかった。そして囲む者たちは二人だけに聞こえる声で語りかけてきた。

(お前らも勝頼殿の首を狙う落ち武者狩りの奴ばらか…?)

「まさか…!あんな奴らと一緒にしないで!」

(あなたたち、真田との小競り合いからずっと我々のあとを付けてきたわね。真田の忍びね?)

「……」

(ま、忍びは名乗れないわね…。しかし、この場は我らに任せていただくわ)

「え…?」

(我らは藤林忍軍…。御大将水沢隆広の下命により、落ち武者狩りを駆逐する…!)

 お江と佐助を囲んでいた者たちが一斉に姿を現し、落ち武者狩りの土民と忍びに襲い掛かった。

「なんだ、こいつら!」

「織田の忍びか!」

「落ち武者狩りをする奴ばらになど名乗る名はない!」

 隆広三忍の一人、白が先頭を切って躍り出た。そして同じく三忍の一人、舞の鉄扇が炸裂する。

「運が悪いわねアンタら!うちの大将は落ち武者狩りをする外道が大っ嫌いなのよ!」

 藤林忍軍は二百人いた。相手の数に倍し、かつ落ち武者狩りをしようなどと云う者と腕が違う。瞬く間に落ち武者狩りの土民と忍びは掃討された。

 藤林忍軍の物見により、落ち武者狩りが勝頼一行の先にいる事を知った隆広は即座にその掃討を忍軍に指示した。舞の云うとおり隆広は落ち武者狩りをする者が大嫌いなのである。

「ふん、情けない」

 血糊のついた鉄扇を振り払い、血糊を飛ばす舞。落ち武者狩りをもくろむ者など彼らの敵ではなかった。

「ん…?」

 白は木に吊るされている若者を見つけた。

「死んでいるのか…?」

「…勝手に殺すな、生きている」

「お前も落ち武者狩りに来た奴ばらか?」

「そうだ、とっとと殺せ」

「待って!」

 お江が急いで走ってきた。

「彼は落ち武者狩りを止めようとしてこんな目に遭わされたのです!」

「そんなの見れば分かるわよ」

 舞が六郎を吊るしていた綱を鉄扇で切った。

「止められなかった事も責に感じ、言い訳をしなかった事は褒めてあげるわ」

「確かにな、さて引き上げるぞ。もう落ち武者狩りはいない。我らも隆広様に合流しよう」

「「ハハッ」」

 藤林忍軍は、そのまま風のように去っていった。お江は六郎に訊ねた。

「歩けるかい?」

「ああ、何とか…」

「私たちは水沢勢にまた紛れ込まなくてはならない。悪いけど置いていくよ」

「分かった…」

「これ使いなよ」

 佐助が六郎の前に小さい袋を投げた。

「薬だ、打ち身に効く」

「…すまない」

「じゃ姐さん、我らも」

「そうね」

 お江と佐助も水沢勢を追った。六郎は藤林忍軍に討たれた仲間たちを見つめた。

「言わん事じゃない…。卑怯者の末路はこんなものだ…。ペッ」

 折れた歯を忌々しそうに吐き出した六郎だった。この若者が後に忍びをやめたすずの後に隆広の三忍の一人となる『甲斐の六郎』である。

 

「隆広様、落ち武者狩り駆逐いたしました」

 白が名前の通り白い息を吐きつつ報告した。

「お疲れ様、こちらの被害は?」

「こちらは向こうの倍だよ、ましてや落ち武者狩りしようなんてケチな連中に私達が手傷を負うとでも?」

 強気の舞、乳房を揺らしながら自軍の無事を報告した。微笑む隆広。

「そうだな、では隊列に戻ってくれ。また勝頼殿に気付かれないよう、数名が勝頼殿一行の近くまで斥候に出てくれ」

「承知しました」

 そう隆広に返答すると同時に、お江と佐助が再び水沢勢に紛れ込んだのを見た白。

「隆広さ…」

 白の言葉を前田慶次が制した。

「かまわん、放っておけ」

「しかし真田の刺客でございますぞ」

 慶次は首を振った。

「殺すつもりなら、とっくに隆広様に襲い掛かっている。我ら水沢軍が主君勝頼殿の最期の時と地を委ねるに足る者たちであるか見届けるつもりなのだろう」

 隆広もそれにうなずいた。

「慶次の言う通りにせよ」

「はっ」

「では前進する」

 

 お江と佐助は水沢軍に紛れ込みながら歩いた。少し腹が空いてきた。

(金はあるのに食糧はない、うかつだったな…)

 と、腹の虫をなだめながら歩いていると

「ほら」

 お江と佐助に焼いた握り飯が渡された。渡したのは舞だった。大き目の焼き握り飯、お江と佐助の分を合わせて四つあった。

「『そろそろ腹が減っただろう』って、うちの大将からよ」

「は…?」

「心配しなくても毒なんか入ってないわよ」

 と、頬に飯粒つけて笑う舞だった。水沢軍は進軍しながら食事をしていた。

「ありがたい!姐さんいただこう」

 腹が減っていたのか、佐助はすでにパクパク食べていた。

「無用心ね全く…」

 お江も焼き握り飯を食べた。先頭を行く馬上の隆広の背を見て

「参ったわね…」

 お江は苦笑した。

 

 水沢軍は静かに勝頼一行を追った。雪の甲斐山中、さすがに冷える。隆広は高遠攻めで陣羽織を百合に渡していたため、甲冑の上には何も着ていない。

「隆広様、それがしに予備の外套がありますが着ますかな?」

 と、珍しく慶次が気を利かせた。

「いや、それは他の者に貸してやるといい。俺はいいよ。勝頼殿もこの凍てつく寒さで歩いているんだから。それに妻の相模殿は風邪をこじらせて高熱を発していると聞く。何とかしてやりたいが…」

 慶次はフッと笑い外套を引っ込めようとしたが

「あ!それ私に貸して!」

 と、くノ一の舞が横取りしてしまった。

「う~ん、暖かい。でもこれ汗くさい」

「悪かったな!…ん?」

 先頭を進む隆広と慶次の馬が止まった。彼らの前に一人の兵が立ちはだかった。槍をにぎり、大将の隆広を睨む。その男は老兵だった。傷を負いながらも武田の兵らしく眼には闘志で溢れていた。

「こっから先は行かせねぇ…!だああ!」

 雪が積もっている上に、老兵は負傷している。だが槍の穂先は隆広を捉えていた。

 

 キンッ

 

 その槍は慶次の朱槍に弾き飛ばされてしまった。

「くそったれ!まだじゃ!」

 老兵は刀を抜いた。

「隆広様、同情はかえってこの老兵を辱める事になります。手前が討ち取ります」

 と、慶次が松風を降りようとした時だった。出血も著しい老兵。放っておいても死ぬが慶次は戦って老兵に死に花を咲かせてやりたかった。

「待て」

「隆広様」

「討ってはならん」

 隆広は愛馬ト金から降りた。

「手前は織田家の柴田勝家に仕える水沢隆広と申す。貴殿は武田の兵か?」

「そうじゃ」

 

 ビュウウウウ

 

 雪は強風にあおられて、もはや吹雪となっている。老兵の体力は限界に近づいている。いやもはや生きているのが不思議なくらいである。何が老兵をここまで突き動かすのか。

「勝頼殿を見捨てていく将が多い中、貴殿のような誠の武士もいたのだな…」

「…違うわい、オラの思い…勝頼にじゃねえ」

「え?」

「信勝に…織田に邪魔されずに…見事に腹を切ってほしいんじゃ!」

 老兵は世継ぎである信勝を呼び捨てした。

 

「姐さん…。あの年寄り確か…」

「ええ、間違いない。長篠の合戦で亡くなられたと聞いていたけれど生きておられたのね…」

 お江と佐助には心当たりがある者だったらしい。だが負傷重い老人は、やがて倒れた。

「ご老体!」

 隆広は老兵に寄った。

「オメェが追っ手の大将か…?」

「いかにも」

「武士じゃねぇオラが言うのも変じゃけどよ。武士の情けにすがりてぇ。信勝の最期を邪魔しねえでくれ…」

「ご老体、ご貴殿は?」

「オラは…かつて信玄公の影武者じゃった。盗賊くずれのオラは信玄公にツラァ似ていると云う事で武田に拾われて影武者となった。信勝はオラを本当の信玄公と思い、御爺と呼んで慕ってくれてよお…」

「信玄公の影武者…!」

「親も知らず、妻も子もねえオラにとり『御爺』と慕ってくれる信勝はかわいくてたまらなかった…。勝頼が陣代とやらになり武田家を追い出されてしもたが…信勝を忘れられず…雑兵として武田家にもぐりこみ、信勝の成長をずっと見ていたんじゃ…」

「そうでしたか…」

「…お願いだ、信勝に無事最期をまっとうさせてやってくれよ!もはや武田に抵抗する力はねえ。オメエも武士なら情けかけてやってくれ!」

「分かり申した。信勝殿の最期を、けして邪魔はしませぬ。させもしません」

 老兵は隆広の目に嘘がない事が分かった。

「おお…ありがてえ…」

「ご老体、貴殿の最期を看取るも何かの縁、ご尊名を」

「長兵衛と…」

「長兵衛殿、信勝殿に会ったら言葉を伝えますが」

「『先に行き、待っている』と…」

「承知いたしました。伝えましょう」

「竹丸(信勝の幼名)…もう一度…『御爺』と呼んでほしかっ…た…」

 老兵の長兵衛は静かに息を引き取った。隆広は合掌した。

「…丁重に弔え」

「「ハッ」」

 松山矩久と高橋紀茂が長兵衛の遺体に合掌し、部下と共に隆広の元から運んで行こうとした時、

「お待ちを」

 お江と佐助が隆広の前に折り膝を立てて頭を垂れた。

「我ら二人、真田の忍び、私はお江」

「同じく、佐助にございます」

「水沢隆広でござる。何用ですか」

「その見事な老兵、真田家で丁重に弔わせていただきとうございます」

 見つめ合うお江と隆広。

「ではお願いいたしまする。丁重に願います」

「承知いたしました」

 お江は佐助に長兵衛の亡骸を背負わせた。そして二人は隆広に浅く頭を垂れ、去っていった。つまり言葉に出さずとも、お江と佐助は隆広を勝頼の最期の時と地を託すに足る人物と見た事になる。佐助の背にある長兵衛を感慨深く見つめる慶次。

「見事な死に様でございましたな…」

 感慨深く慶次が言った。

「ああ、こんな愛の形もあるのだな…」

 隆広は愛馬にまたがり、再び勝頼一行を追った。

 

 しばらく行くとお江と佐助は長兵衛を荼毘に付した。燃える炎を見つめ、そして天目山の方角を見るお江と佐助。

「本当に…信幸様と幸村様の言ったとおりの方だった」

「まったくだ」

「水沢様ならば勝頼様と信勝様の最期の時と地を委ねられる」

「本当だ」

「そして長兵衛殿…。ご貴殿は武田の誇りです。真田の庄にて安らかにお眠り下さいませ」

 合掌するお江と佐助。長兵衛はこの後に真田家で丁重に弔われた。後世にもその気高き老兵の生き様は語り続けられ、長兵衛を主人公にした黒澤明監督の大作映画『影武者』は名作中の名作と呼ばれている。


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