天地燃ゆ   作:越路遼介

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松姫はかなり美女だったようです。彼女の眠る信松院にある彼女の肖像画はホントに美しいので。


強さとは

 松は前田慶次の隊が運ぶ輿の中で目が覚めた。自分が生きている事に驚いた。小刀を首に突きつけた直後に意識が遠くなった。これが死なのだと思っていた。だが自分は生きている。首に触れてもかすり傷一つない。そして見た事もない輿の中にいた。だがその輿を運ぶ隊の将の事は知っていた。

 なぜ助けたと泣いて松は前田慶次を罵った。慶次は何の反論もせず一通の書状を松に渡した。差出人は水沢隆広だった。松は憤りを抑えつつ、静かに輿の中で隆広の書状を広げた。

 

『松姫様、これを読み出したあたりは竜之介への怒りに心が煮えくり返っているでしょう。ですがお読みいただきたい。

 松姫様、貴方は天目山で死んでいなかった。あのあとにそれがしが勝頼様自刃の地に入った時、勝頼様、信勝殿、相模殿は亡くなっておられた。しかし貴方は小刀を握ったまま、気を失っていただけなのです。おそらくは勝頼様が松姫様自刃寸前に当て身を打ち、気を失わせたのでございましょう。自刃の地へ我々がすぐにやってくる事は分かっていた事。勝頼様は大事な妹君をそれがしに託されました。その遺命、恩を受けし竜之介何としても果たしたいのでございます。

 松姫様、貴方は天目山で一度死んだのです。武田信玄公の娘として死んだのです。もう良いではないですか。おりを見てそれがしが信忠様に松姫様存命を報告します。きっと改めて妻に迎えたいと思うに相違ございません。今こうして生まれ変わったのなら、女の幸せを選んでいただきたい。それが勝頼様の願いであると竜之介は信じております。

 今、松姫様が向かっているのは武州恩方。知っての通り武田旧臣の集落がございます。その長である三井弥一郎殿とは養父長庵を通してそれがし知己でございます。庇護を要請いたしました。

 松姫様、しばらくは恩方で過ごされませ。ですが必ずや信忠様から使者が来るはずにございます。もう二度と死のうとは考えず信忠様との幸せな暮らしを思い、その時をお待ち下さい』

 

 書状に、涙が一粒二粒落ちた。

「う、うう…」

 その書状を抱く松。

「竜之介殿…!」

 

 水沢軍は勝頼自刃の地を除雪した上で土を掘り、勝頼一行を埋葬した。そして隆広は丁重に勝頼、信勝親子の首を運び、甲斐の浪合に敷いた織田本陣に持っていった。織田本陣で水沢軍の軍務処理を任されていた石田三成が一行を出迎えた。

「隆広様」

「軍務お疲れさん」

「いえ、行軍していた隆広様たちから比べれば。ところでその二つが?」

「そうだ。勝頼殿と信勝殿の首だ」

 三成は二つの首に手を合わせた。

「佐吉、すずの具合はどうか?」

「はい、背骨が破損したものの、臓器に鉄砲の弾が至らなかったのは救いだったと医者が述べていました。辛い修練になるであろうが、努力すれば歩行は可能になるのではないかとも」

「ホントか!」

「傷も膿まず、熱も引いています。今は静養が一番と」

「良かった…。どんな形でも生きておれば…」

 その言葉を聞き逃さなかった舞は憤然として怒鳴った。

「どんな形でもと云うのは聞き捨てなりません! すずはもう忍びとして働けないのですよ!」

「責任は取るさ、舞」

「…は?」

「オレがすずの足になるよ。一生な」

「隆広様…」

 

 コホンと一つ咳をする奥村助右衛門。

「隆広様、まずは勝頼殿と信勝殿の首を大殿と若殿に」

「そうだったな。では行くか」

 水沢隆広と奥村助右衛門が武田親子の首を丁重に持ち、織田本陣にやってきた。本陣にいたのは信長と森蘭丸。そして明智光秀と隆広の知らない武将だった。隆広は信忠がいない事に気付いた。その表情から隆広の疑問を読んだ森蘭丸が答えた。

「若殿様は、武田の残党掃討に出陣されている」

「そうでござるか」

 そして見た事のない一人の武将が床几に座りながら隆広に頭を垂れた。

「徳川家康にござる」

「こ、これは!」

 急ぎ家康に姿勢を正そうとする隆広だが、家康は静かにそれを制した。

「かような気遣いは無用。さ、織田殿に武田親子の首を」

「はい」

 隆広と助右衛門は信長の前に台座に乗せた二つの首を差し出した。

「白布を取れ」

「ハッ」

 武田勝頼と信勝の首であった。

「…梅雪とやら、間違いないか」

 徳川家康の後ろ。そこに座っていた男が首まで歩み寄り

「間違いござらん」

 と、少しの笑みさえ浮かべてそう言った。

(梅雪…? 穴山信君か!?)

 目の前にいる男の裏切りが武田滅亡の起因と言っても良い。隆広は信長に頭を垂れながらも激流のごとく湧く怒りを抑えるのがやっとだった。横にいる助右衛門がそれを察し、隆広の腿に手を添えた。

(隆広様なりませぬ。どんなに許せぬ男でも、こやつは徳川様についた者。口惜しいですが今は味方にございます。何一つ罵りを言ってはなりません)

(…分かった。でも見たか。勝頼様の首を見たあと…アイツ笑ったぞ! 穴山はクズだ!)

(…同感にござる)

 穴山信君は武田勝頼、信勝の首を確認すると再び家康の後ろに戻った。そして信長は床几からゆっくり立ち上がり武田親子の首へと歩み、そして

「ふん」

 

 ガッ

 

「な…!?」

 信長は勝頼の首を足蹴にしたうえに、転がる首にツバを吐いた。同じ事を信勝にもした。

「何と云う事を! 敵とはいえ同じ戦場を駆けた相手にござ…ッ!」

 

 ゴォンッ!

 

 信長の鉄拳が隆広の顔面に容赦なく叩き込まれた。たまらず隆広は吹っ飛んだ。

「隆広様!」

「大丈夫だ助右衛門…」

 倒れつつも信長をキッと見据える隆広。信長は自分に逆らった隆広を特に叱る様子もなく静かに言った。

「笛吹川の河原に、このバカ親子の首をさらせ」

「なぜ敵将をそこまで辱める必要があるのですか…!」

「聞こえないのか!」

「隆広様…!」

 主君隆広の悔しさを助右衛門は痛いほどに分かった。しかし信長には逆らえない。逆らってはいけない。自分とて目の前で主人を殴打されたのである。助右衛門も怒りを抑えるのに懸命だった。明智光秀が床几を立ち、倒れる隆広に歩み腰を下ろして言った。

「隆広殿、転がった二つの首が哀れにございます。ここはお引きなされ」

「明智様…」

 光秀の後ろに座っていた斉藤利三や明智秀満も眼で隆広に光秀と同じ事を述べていた。

「分かり申した…」

 改めて信長に鎮座し頭を垂れる隆広。

「つつしんで拝命いたします」

 と、勝頼と信勝の首を拾い出した隆広に

「ネコ」

「は…」

「その陣羽織は何じゃ?」

 朱色の、背中に不動明王が描かれている武田勝頼から拝領の陣羽織。

「この陣羽織は武…」

「まあよい、さっさと首を持ち下がれ」

「は、はい!」

 勝頼と信勝の首を拾い、持っていた手拭で信長のツバを拭き取り隆広と助右衛門は本陣から立ち去った。光秀もホッとして床几に再び腰掛けた。その時…

 

「若いですなァ」

 と、穴山信君が笑って言うと

「穴山」

 信長は阿修羅さながらの形相をしていた。徳川家康、明智光秀も背筋が凍りついた。

「お前ごときに、あの若者を笑う資格などないわ!」

 穴山信君は震え上がり、床几から降りて平伏した。

「も、申し訳ございませぬ!」

「三河殿(家康)」

「は、ははッ!」

「いかようにこの外道を使うもお手前の自由であるが、二度と余の前に連れてくるな!」

「しょ、承知いたしました!」

(ワシとて怒れる織田殿にはこうして怯えるばかりだと云うのに、あの若者の胆力たるや見事なものじゃ。あれでまだ二十か。将来どれほどのものになるかのォ)

 さすがは家康。信長に気圧されながらも水沢隆広と云う人物をちゃんと見ていた。これが水沢隆広と徳川家康の初の対面と言われている。

(多勢のワシらが撤退を余儀なくされた真田を寡兵で後退させた若者。勝家殿が重用するのもうなずける)

 家康はこの時には想像もしていないだろう。水沢隆広は将来、徳川家康にとり最大の脅威となると云う事を。

 

 隆広は信長の命令である『さらし首』を実行しなかった。武田家十代信満の菩提寺栖雲寺の住職宛てに弔いを丁重に行っていただくよう懇願する書状とその代価。勝頼、信勝、相模の亡骸を埋葬した場所を示す地図。そして丁寧に包んだ勝頼と信勝の首を藤林忍軍に持たせた。

 栖雲寺の住職にて高僧の立尚は隆広の要望を快諾して、“万事任されよ”と隆広の陣に返書を届けた。その書状を見つめ、静かに微笑む隆広。

「宜しいのですか、大殿が知れば、いや確実に知る事となりましょう。どう言い訳するので」

 と、石田三成。

「行った事の事実そのものを報告するしかないな」

 苦笑する隆広。

「余所事みたいに言うな佐吉。我らとて少しも反対しなかったのだ。我らも同罪だぞ」

「そうですね助右衛門様、しかし佐吉には隆広様が今回行った武田への武人の情けが後に大きく生きてくるように思えてならないのです」

「そんな先の事は分からないが、勝頼様が許してくれたおかげでオレは武田の技を学ぶ事ができた。結果それが越前を富ませる事に繋がった。皮肉にも敵同士となってしまったが、オレにはこのくらいのご恩返ししかできない」

 石田三成の予言は当たる事になる。後に武田の旧臣たちは隆広のこの行為に深く感謝し、多くの遺臣たちが隆広の味方に付く事になる。今日においても長野県と山梨県で武田信玄と武田勝頼に比肩するほどに水沢隆広の人気が高いのはこの所以だろう。

 

「御大将―ッ!」

 高橋紀茂が隆広本陣に駆けてきた。

「どうした」

「本陣から水沢隊に出陣命令です。再び若殿様の指揮下に入られたしと」

「分かった。ならば参ろう。馬引け!」

「「ハハッ」」

「紀茂、信忠様は今どこを攻めていると申した?」

「恵林寺だそうです」

「な、何と申した今!?」

 助右衛門と三成は顔を見合わせた。

「塩山にございます恵林寺です。武田の残党を大量に匿っているそうにございます。そこを若殿様は包囲中との事です。それが何か?」

「何と云う事だ! 急ぐぞ!」

 

 恵林寺。隆広に武田の技を教えた高僧である快川和尚のいる寺である。この恵林寺には武田の残党が逃げ込んだ。現在のような恵林寺と異なり、外周に堀もあれば高い塀もあり、さながら一つの砦のようだったと言われている。

 織田信忠は幾度も快川和尚に残党を差し出すようにと命じた。この時には武田の残党だけではなく、信長と戦って敗れ、捕縛を逃れた佐々木(六角)承偵もこの寺へと逃れていたのである。信忠は武田残党と共に佐々木(六角)承偵も差し出すように厳命したが快川は拒否。

 信忠は困った。快川は信忠の本拠地である美濃の出身。今でも高僧と尊敬されている。殺せば美濃の人心は離れる。殺す事は出来ないと思った。だが

「若殿、ご本陣の大殿から書状です」

「父上から?」

 信忠は父の信長の命令に愕然とした。

“恵林寺を坊主と武田残党、佐々木承偵もろとも焼け”

「バカな! 快川といえば京にも名の知れた高僧ぞ! ご再考願わねば!」

 だが信長は信忠の意見に耳も貸さない。“皆殺しにせよ”と譲らない。

“武田の残党かくまいし事は、この信長に逆らうと云う事。ましてや快川は余が斉藤家のあとに美濃に入りし時、余を嫌って武田に走った者。遠慮はいらぬ。殺せ!”

 信長の書状を握る信忠。

「前田玄以」

「はっ」

 腹心の前田玄以を呼ぶ信忠。

「そなた最後の使者に行ってまいれ。“これが最終通告、武田残党を渡さなければ寺を焼く”とな」

「承知しました」

 玄以の後ろ姿を見つつ、溜息をつく信忠。

「快川の覚悟は覆るまい…」

 信忠の予想通り、恵林寺の者は前田玄以の口上は一切聞く耳持たなかった。しかしこの最終勧告を退けたと云う事は、つまり滅ぶ覚悟を示している事になる。信忠の腹は決まった。

「恵林寺に焼き討ちをかける!」

「「ハハッ」」

 

 水沢軍は大急ぎで浪合の織田本陣から恵林寺へと駆けた。だが間に合わなかった。前方に黒煙が上がっていた。

「遅かったか…!」

 隆広の横で悲痛に叫ぶ助右衛門。

「まだだ…。せめて快川和尚様だけでも助けなければオレは冥府の父に合わす顔がない!」

 愛馬ト金を全速力で走らせる隆広。織田家一番の俊足と言われるト金の足には誰も追いつけない。

「隆広様! みな急げ!」

「「ハッ!」」

 快川和尚や他の僧侶は信忠の兵に三門(仏殿前にある門。空門・無相聞・無願門に例えられてそう命名された)の上の堂に押し込まれ、火を放たれた。

 信忠本陣に隆広は到着した。馬を降りた隆広はあぜんとして炎上する恵林寺を見た。

「何と云う事を…!」

 少年時代の自分が過ごした恵林寺が燃える。そして隆広は恵林寺に向けて走り出した。

「ん…?」

 信忠は自陣から一人の男が飛び出し、炎上する恵林寺に向かっているのが見えた。それが隆広と分かると信忠は驚いた。

「バカな! アイツを止めろ! 焼け死ぬぞ!」

 近くにいた前田玄以、そして急いで追いかけてきた奥村助右衛門に止められた。

「何をなさるか! 焼け死んでしまいますぞ!」

「離して下され玄以殿! 快川和尚様はわが師! 助けたいのです!」

「隆広様! もう無理にございます!」

 しかしこの時の隆広は無我夢中だった。膂力を誇る助右衛門の羽交い絞めさえ振り切り、恵林寺に入っていってしまった。

「隆広様!」

「奥村殿、敷地内にある堂や社殿にさえ入らなければ何とか大丈夫のはず。手前の部下に連れ戻させますので!」

「かたじけない玄以殿! それがしも参る!」

 

「和尚様、和尚様…!」

 敷地内を必死に探す隆広。どこもかしこの建物も炎上している。

「ゴホッゴホッ」

 煙にむせる隆広。その時だった。三門の上の堂から読経が聞こえた。

「あそこか…!」

 隆広は三門をよじ登り、堂の扉を開けた。すでに息絶えている僧が何人も倒れていた。そして堂の中央で座禅を組み、経を唱える快川がいた。すでに法衣に引火してしまっていた。

「和尚様!」

 ゆっくりと目を開けた快川。そして優しく笑った。

「大きゅうなられましたな」

「逃げましょう! 今なら間に合う!」

「入られるな! この堂はもう落ちる。絶対に入ってはなりませんぞ!」

「そんな事を言っている場合では!」

 

「喝!」

 

 快川の一喝の気合に動けない隆広。そして再び穏やかに笑った。

「もはやこれまでにございます。仲間の僧たちが旅立ちました。愚僧も長庵殿のところへ参ります」

「和尚様!」

 法衣全体に着火している。だが快川は座禅の姿勢のまま動かない。

「心頭滅却すれば火自ずから涼し…」

「『心頭滅却すれば火自ずから涼し…』」

 隆広は快川から最後の教えを受けたのだった。

 

 堂が崩れ出した。

「和尚様! 強さとは!」

 少年時代の隆広に“強いのと、敵を蹴散らす、と云うのは同じ事ではない”と諭した快川。だが隆広はその答えが分からないままだった。だが隆広はこの時に答えを知った。

「強さとは! 和尚様のように何者にも屈しない勇気、そしてその気高き誇りの事にございます!」

 快川は静かに隆広へ微笑み、首を縦に下ろした。

 

 ガラガラガラッッ

 

 三門の堂が崩れた。

「隆広様! こちらに飛び降りられよ!」

「和尚様…! さらばです…!」

 隆広は助右衛門と玄以の部下たちが四方を抑える陣幕の上に飛び降りた。無事に着地し

「すまない…」

 勝手な真似をしてすまないと意味だろう。

「お話はあと! さあ引き上げましょう!」

 

 隆広の思い出が詰まった恵林寺は見るも無残に焼け落ちた。恵林寺の僧侶、佐々木承偵、そして武田の一部残党とその家族は焼け死んだ。隆広は焼けた恵林寺をしばらく見つめた後、信忠本陣に赴いた。

「…そうか。快川は幼少の折の師か」

 と、織田信忠。

「はい」

「…オレが憎いか」

「…憎うはござりませぬ。それがしとて織田の覇道に組するもの。信忠様をお恨みするのは筋が違います」

「“覇道”か…。確かに“王道”ではないな…」

 信忠は家臣たちをその場から立ち去らせた。

「隆広、近う」

「はい」

「今聞いて良いものかは分からんが訊ねる。お松殿はいかがした」

「……」

 隆広は懐中にいれてあった折鶴を信忠に差し出した。古い折鶴、かつて信忠が松に贈ったものだった。強く握られていたのか半ば折鶴はつぶれていた。松は自刃の時、この折鶴を握りしめていたのである。それを隆広が持っている。

「…そうか」

 松に贈ったものを隆広が持っている。信忠は松の死を悟った。信忠はその折鶴を破かないように静かに広げた。

「お松殿…」

「鶴を逃がしました」

「なに?」

「それがし、武蔵の地に、鶴を逃がしてしまいました」

 隆広はそれ以上言わなかった。だが“鶴を逃がした”ですべて察した信忠。

「よくやってくれた、ようやってくれた!」

 信忠は嬉しさと申し訳ない気持ちでいっぱいだった。自分は隆広の師を殺したのに隆広は自分の愛しい女を命令違反覚悟で助けてくれた。

「何と詫びて…何とそなたに報いれば良いのか…」

「鶴を幸せにしていただければ…十分にございます」

 隆広は本心から信忠を恨んではいなかった。幾度も信忠が降伏勧告をしていると聞いていたし、そして武田の遺臣たちをかくまい織田に意地を通した快川と僧侶たちも乱世の士。自分の意志で死についたのである。それを信忠に恨むのは筋が違い快川の死を辱める事になる。

「無論だ。改めて妻へと迎えようと思う。“側室として”を受け入れてくだされればの話だがな」

「信忠様」

「なんだ?」

「本当に…あの方を妻に迎えたら織田を去る気にござりますか…?」

「…そちらの方がラクであろうな。だが此度の戦でオレはずいぶんと武田の将兵も僧侶も…女子供も死に追いやった。そんなオレが責任ある立場を放棄して安穏な日々を手にするにはいささか虫が良すぎると云うものだ。父の大業を継いで、この国から戦をなくす事。それがオレの務めと思う」

「信忠様…」

「そのためにはお前の補佐が必要だ。頼りにしているぞ」

「ハッ!」

「だが…」

「はい」

「その方、勝頼と信勝の首をさらせと云う父の下命に背き、栖雲寺の高僧の立尚に丁重に弔ってくれるよう懇願する使者を出したそうだな。首も立尚に届けてしまったと聞く」

 もう信忠の耳に入っていた。するともう信長の耳にも入っているだろう。

「相違ございません」

「正直な男だな。まあ父やオレに露見するのも承知でやった事だろうがな」

「はい」

「一応、理由を聞いておこう。なぜ父の下命に背いた」

「たとえ敵とは申せ、同じ戦場を駆けた相手にございます。どうしてもそれがし…勝頼殿や信勝殿の首をみじめにさらす事に耐えられませんでした」

「…よく分かった。今回のそなたの働きに応える意味で、オレが何とかお咎めなしを取り付けよう。しかし隆広」

「は…」

「そなたが勝頼と信勝にした武人の情け、オレにはよく分かるのだ。正しいとも思う。しかし父の跡を継いだら、おそらくオレはこういう事をクチにする事も許されまい。父は敗走する勝頼一行の駆逐を下命しなかったが、届けられた勝頼と信勝の首を足蹴にした。これは天下布武の厳しさと恐ろしさを敵味方に示す事であるからだろう。だから言っておく。今はまだオレが“若殿”だから許してやるし、かばいもしてやる。しかしオレが“大殿”になった時はこんなに甘くはできぬ。二度は許さん。よいな」

「承知しました。隆広、しかと肝に銘じます」

「うむ」

 

「申し上げます!」

 使い番が来た。

「なんだ」

「大殿より、岩殿城を落とせとの命にございます」

「なにィ? 岩殿の小山田信茂は織田についた武将であろうが」

「はばかりながら…小山田信茂はすでに大殿に捕らえられてございます」

「何だと!?」

 それは隆広と助右衛門が織田本陣を去った後の出来事だった。小山田信茂は信長の呼び出しに応じて織田本陣へとやってきた。信茂は武田勝頼を追い返した後に信長に降伏の使者を送り、そして降伏が許されていた。

「我が領地の安堵、恐悦に存じます」

「…ダメだな。気が変わった」

「は…?」

「一度裏切ったものは二度裏切る」

 信長は床几から立ち、信茂を指して命じた。

「小山田信茂を捕らえよ!!」

「「ハッ」」

 信長の側近である馬廻りの兵士が信茂と一党を囲んだ。

「信長! キサマ!」

 

 ザスザスッッ!

 

「ぐあああッッ!」

 小山田信茂は縛り上げられ、信茂についてきた家臣たちは数十本の槍に貫かれた。

「信長キサマ!」

「勝頼を裏切るなど不届き至極! ただで死ねると思うな!」

「卑怯なり! 一度降伏を受けし者を!」

「他の大名ならいざ知らず、織田家に裏切り者を遇する法はないわ! 今からキサマの家族を捕らえて皆殺しにしてくれる!!」

 同時に陣にいた穴山信君を睨む信長。信君が内通を申し出たのが家康ではなく信長だったら間違いなく殺されていただろう。

 

「見せしめの処刑のため、小山田の家族は生け捕りにせよとの事にございます」

「小山田信茂の目の前で殺すためにか…?」

「御意」

「…父上に相分かったと伝えよ」

「はっ」

 軍机にもたれ、頭を抱える信忠。先刻、隆広に厳しい事を述べた信忠であるが、彼が父親と違い無益な殺生を好まない事を隆広は知っている。しかし信長の出陣命令には逆らえない。

「…信忠様、お気が進まないのは分かり申す。しかし…」

「分かっておる。出陣だ!」

「ははっ!」

 織田信忠と水沢隆広の軍勢は小山田信茂の居城である岩殿城に向かった。隆広は信忠に進言した。

「岩殿城は天然の要害の堅固な山城。それに小山田隊の投石部隊は精強で知られております。正面から戦っては犠牲も甚大。よって多少下策にございますが…」

 まだ小山田信茂が信長に捕らえられたと云う報は岩殿城にもたらされていない。友好的な書状を数通送り届け、隆広はそれを確認した。主君は織田についたと思っている事を隆広は利用したのである。

“我らは上野の真田を討つために行軍中である。岩殿で一泊させていただきたい”と使いを出して、岩殿の城代はそれを受け入れた。

 そして何の抵抗も無く城門をくぐる事ができた。ここで城兵虐殺すれば隆広はまさに悪辣な謀将としても後世に名を残しただろう。しかし信忠の名代として隆広は城代家老の川口主水に包み隠さずに話したのである。あぜんとする小山田一族と家臣団。

「申し訳ござらぬが、ご当主をお救いするのは不可能にござる。しかしながらお手前たちはまだ助かる。降伏していただきたい。そして信茂殿の家族は自決したと云う事にして逃げていただきたい」

「「ふざけるな!」」

「待て!」

 いきりたつ他の家臣たちを抑える川口主水。

「寸鉄も帯びておらず、しかも単身で口上を述べし水沢殿に危害を加えしは武人にあらず! 退かぬか!」

 家臣たちは再び着座した。すすり泣く声も聞こえてきた。

「う、ううう…。殿」

「水沢殿、城門を無抵抗で入りし事に成功したお手前たち。何より今の我らより十五倍はあろう兵力。そのまま我らを皆殺しにする方が簡単であったろう。その真実を単身で包み隠さず申し上げて下された事。感服いたした」

「役目ゆえ」

 短く答える隆広。その隆広に並々ならぬ将器を感じる川口主水。コホンと一つ咳払いをして一同に告げた。

「皆聞け。我ら理由はどうあれ裏切り者じゃ。このまま織田勢に戦いを挑んで滅んでも甲斐の領民に我らの滅亡悲しむ者は皆無じゃろう。それどころか自業自得と嘲笑を受けよう。我らは裏切りの代償に主君を失う事になる。しかしまだ姫がおる。小山田の血は絶えぬ。ここは恥を忍んで降伏し、後に汚名を晴らそうではないか」

「「ご家老…!」」

「う、ううう…」

「川口殿…。英断感謝いたします」

「しかし水沢殿、降伏しても信長は我らを許しますまい。我らは姫と奥方様を連れて城を捨て、野に下ります」

「承知しました。さしあたり必要なものはござらんか」

「それではお言葉に甘え、城は無論、軍馬と鉄砲をお渡しするかわりに当面の食糧と資金を頂戴したい」

「分かりました。こちらの物資の一部を譲渡いたします」

「水沢殿…」

「はい」

「我らは、貴殿の計らいに感服いたした。小山田に貴殿のような若武者がおればと思わずにはおられませぬ」

「光栄にございまする」

 

 こうして岩殿城はほぼ無血開城となった。城兵を殺さずに退去させると云う案は隆広が出した。すでに織田の甲信併呑は明らか。甲信の領民が新たな領主を忌み嫌わないような戦をしなければなりませんと進言し、信忠はそれを入れたのである。

 信忠は隆広が約束したとおり、野に下る小山田一族に十分な食糧と資金を与えた。城の明け渡しと云うものは静かに終わった事がほとんどない。だがこの城の明け渡しは針の先ほどの騒動もなかったと言われ、隆広の使者としての技量と胆力がいかに優れたものだったかと容易に推察できるが、明確に言えばほんのわずかな不測の事態が発生した。

 一人の少女が肩を落として歩いていた。輿に乗るのを拒否した。自分の足で出て行きたいと少女は歩いた。だが城門の縁につまずいて転んでしまった。近くにいた隆広が手を差し伸べると少女はその手を叩き払ったのである。目には悔し涙が溢れていた。

 少女の名前は月姫。小山田信茂の一人娘で当年十四歳。父の信茂が『かぐや姫のように美しくなれ』と、かぐや姫の帰った『月』を名前とした。だが今その父は敵に捕らえられ首を刎ねられる運命にあり、そして城を奪われてしまった哀れな姫にすぎない。悔しかった。自分の知らないところで城の明渡しが決まり、父が捕らえられている織田本陣に切り込みをかけて救出したいと述べても、どうしようもなかった。織田勢は小山田勢の十五倍の兵力で城をすでに囲み、すでに本丸に至るところまで進入されてしまっている。今から織田本陣になど行けるはずがない。悔し涙が止まらなかった。大好きな父は裏切り者として殺される。城は何の抵抗も許されずに奪われた。月姫は自分に手を差し伸べた隆広の手を叩き、怒りと悔しさを精一杯ぶつけた。そんな少女の気持ちを察し

「雪で顔が濡れてございます」

 と、手ぬぐいを渡して、その場から立ち去った。月姫はその手ぬぐいで鼻を噛み、忌々しそうに雪の大地に叩きつけた。あわてて川口主水が月姫を連れて出た。月姫はまだ隆広を睨んでいる。その目から隆広は顔を背けず、そして思った。

(裏切り者と呼ばれる父を持つ少女か…。さえもあんな悔し涙を流したのだろうな…)

 

「ふん…」

 信長は本陣で信忠からの書状を読んだ。

「いかがなさいました織田殿」

 徳川家康が訊ねた。

「岩殿城全滅、小山田の家族自決、だそうだ」

「…戦目付けの話とずいぶん違いますな」

 戦目付けを通して信長には岩殿攻めの真実が伝わっているのである。信忠もそんな事は知っている。だがあえて大嘘の報告を送った。

「信忠め、ネコを庇いおって!」

「ネコ?」

「隆広の事よ。頑是無い子猫みたいなツラしておろうが」

「あっはははは、確かに」

「ふん、確かに一向宗門徒相手では皆殺しを厳命していたが、武士相手にはそれを申し付けておらぬ。ネコめ、敵味方の血一滴も流さず城を取りおったわ。だが…」

「だが…」

「小山田の投石部隊が野に下ったのは危険の他ならない。三河殿、皆殺しにしてまいれ」

「ネコ殿の尻拭いにございますか。まあ良いでしょう。ではこれにて」

 徳川家康は織田本陣を出て行った。

「光秀」

「はっ」

「小山田信茂を殺せ」

「承知いたしました」

 こうして小山田信茂は斬首され、裏切り者として首を晒された。首から下の亡骸も磔台に繋げられて、腐って落ちるまで晒された。

 信長にしてみれば、戦局が決まった後に降伏してくる者をいちいち迎えていたのでは論功行賞で部下に与える土地が不足する。土壇場で武田勝頼を裏切った者を不忠者として成敗してしまった方が面倒はない。小山田信茂も家族家臣のためとやむを得ない事情がある。だが信長に裏切り者として処刑され、そのまま汚名は今日まで続いているのである。

 

「ネコめ…。わしの武田掃討の意図を知りながら見逃しよった。どう罰をくれてやるか…」

 信長はしばらく考えフッと笑い、

「ふん、使える者はとことんこき使った方が得よな」

 そして戦目付けの送って来た方の書状をかがり火の中に放った。もう一つ、信忠からの書状がある。それには“勝頼と信勝の首をさらさずに丁重に弔えと隆広に指示したのはそれがしです”と書かれてあった。苦笑する信長。

(信忠めが、まるで恋人を庇うかのようじゃ)

 次代の信忠を補佐するに、たとえ陪臣であろうと織田家に必要な男であろう事は信長も知っている。

(なら、そういう事にしておいてやろう。思えばワシも桶狭間の後に義元が首を今川家に送り届けた事もあった。首となった勝頼と信勝、たとえ丁重に弔おうと、カラスのエサになろうとワシに何の影響もあるまい)

 結果、隆広が行った武田への武人の情けに信長から何の咎めもなかった。ホッとした信忠だった。

 

 そして家康であるが、彼は三方ヶ原で武田信玄と戦い、小山田信茂の投石部隊の恐ろしさを知っていた。だから家康は信長の命を鵜呑みにせず召抱えようと思った。そして小山田一族と家臣団が流れた集落に使者を出し、その使者が小山田遺臣の長である川口主水に会うと、彼から驚くべき言葉が返ってきた。

「我らがもう一度人にお仕えするのなら、それは水沢隆広様以外にございません」

 これを聞いた徳川家康は水沢隆広に恐れを抱いた。そしてそれは後年現実となるのである。




岩殿山は登るのしんどかったですね。

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