天地燃ゆ   作:越路遼介

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敵は本能寺にあり

 水沢隆広率いる二千の軍勢は鳥越城を出発し、北陸街道を東に進む柴田勝家本隊と合流した。当主が変わっても相手は上杉。勝家にも油断は無い。前田利家、佐々成政、不破光治の府中三人衆、そして佐久間盛政、水沢隆広、金森長近、可児才蔵、柴田勝豊、拝郷家嘉、徳山則秀、毛受勝照、山崎俊永といった織田家北陸軍の総力をあげた軍勢だった。

 前田慶次に諌められた通り、隆広は光秀の疑惑については頭の片隅に置き、上杉との戦に集中した。隆広は参謀としての才幹をいかんなく発揮する事になる。越中に入り最初に発生した野戦である『荒川の合戦』は上杉方の奇襲を読み取り、それを逆用して敵を壊滅させた。その後に願海寺城、木舟城といった砦も落としていった。越中の北、能登の上杉軍も南下して柴田勢と対したが、隆広の作戦の下、府中三人衆に蹴散らされ、能登の城は七尾城を残してすべて落とされ、もはや再度の出陣はできないほどに叩きのめされ、降伏に応じている。能登一国を柴田家は併呑したのである。

 隆広は鳥越城で加賀の内政をしている頃から上杉家との合戦はあるだろうと想定していた。よって彼は鳥越にいた時から藤林忍軍に越中能登の地形や気候、そして主なる城と砦の備えも調べさせていたのである。

 すでに軍師的な存在として勝家の傍らにいる事を命じられている隆広。卑怯な策略を勝家は好まない。秀吉がよく使っていた兵糧攻めや、城への援軍に化けて入城と同時に攻撃開始と云う様な策は受け入れられないのである。とどのつまり城を見て欠点を見つけてそこを徹底的に狙う城攻め。これが柴田の城取りの方法であった。そして彼自身が築城の名人であるゆえか、隆広は敵城の防備の薄いところを看破するのが得意だった。

 名城と名高い富山城も落としたが、一度その富山城は織田方に属していた小島職鎮によって突如奪われてしまう。柴田勝家は水沢隆広を大将に、可児才蔵、毛受勝照、金森長近の一万の軍勢で攻めさせて奪い返した。小島職鎮は討ち死にし、柴田勝家率いる織田北陸軍は、いよいよ越後国境の魚津城に迫った。

 魚津城攻めの軍議も終わり、隆広は奥村助右衛門を連れて自分の本陣に歩いていた。

 

「魚津を落とせば、あとは越後ですな隆広様」

「いや、そろそろ雪の問題がある。魚津を落としたら一旦越前に帰った方がいい」

「それでは魚津はまた上杉に取られてしまうのでは?」

「おそらく能登と越中は前田様と佐々様が拝領するだろう。そう簡単には奪い返せるものではないさ」

「確かに」

「それより忍びからの報告はまだないのか?」

「ええまだ」

「うーむ…やはりオレの抱いた明智様への危惧は考えすぎかな」

「だと良いのですが…ん?」

 隆広の陣中に炊煙が上がっている。

「お、気が利くな。さっそくメシにありつけそうだぞ助右衛門」

「ははは、そのようですね」

 

 隆広と助右衛門が本陣の陣幕をくぐると、小野田幸猛が駆けて来た。

「御大将、お客です」

「客?」

「はい、御大将の御用商人の源吾郎殿が。御大将からもお礼言っておいて下さい。陣中見舞いに米と酒を」

 源吾郎、つまり明智家に潜り込ませていた柴舟の事である。

「分かった。助右衛門、そなたも一緒に礼を言おう」

「はっ」

 柴舟が息子の白と隆広の本陣に来ていた。慶次が茶席で彼らをもてなしていた。

「これは源吾郎殿、陣中見舞いありがたく受け取ります」

「いやいや、これも御用商人の務めです。まずは魚津に至るまでの勝利、おめでとうございます」

 そう云いながら源吾郎は茶を慶次に返した。

「結構なお手前で」

「お粗末に存ずる」

 源吾郎が通されていたのは隆広本陣の本営、つまり隆広の常駐場所である。太刀持ちや小間使いの少年が何人かいたが、

「そなたたちは席を外せ」

 隆広は人払いを命じた。

「はい」

 少年たちは本営から出た。残るは源吾郎親子と隆広主従三名だけである。

「源吾…いや柴舟、今日来たと云う事は…」

「はい、隆広様のご指示どおり、六郎と合流して明智家の動向を探っていました。六郎はまだ潜入しておりますが、我ら親子が一度離脱し、その報告に参りました次第です」

「うん、聞こう」

 

 あれからしばらく経ち、信長からの主命がないまま光秀は領内の内政を行っていた。南近江の坂本城、そして丹波国主として光秀は領内の内政を滞りなくやっていた。そんな日々を過ごす光秀に信長から使者が来た。

 それは数日前の安土城。毛利の備中高松城を攻めている羽柴秀吉から信長へ使者が来た。

「なに、毛利勢が高松城の清水宗治を救援するために郡山城を出たと?」

「はい、筑前守秀吉様は高松城を水攻めにし、落城まであと一歩と云うところまで追い詰めました。それを見て毛利勢が救援に動いたのです」

「そうか。で、救援に向かった大将は?」

「当主の輝元をはじめ、一族の吉川元春、小早川隆景の三将、その兵力およそ三万」

「三万!」

「はい」

「ふむう…毛利、吉川、小早川と総力をあげて出てきたか。それでは秀吉も慌てていような」

「はい、一刻も早く大殿の救援を望んでいます」

「分かった。ワシは家康の接待を終えてから出向くが、将兵には先に出陣させる」

「恐悦に存じます」

 秀吉の使者は信長の部屋を後にした。そして信長の使者の青山与総が丹波亀山城の明智光秀の元へ向かった。

 

「備中に出陣?」

「さよう、ただちに備中におもむき、羽柴筑前殿の後詰をするようにとの事でござる」

 青山与総は信長の書状を読み上げた。

(この度、備中の国後詰のため至急かの国に出陣すべきものなり。先手の面々我より先にかの地にいたり羽柴筑前の采配に従うものなり。池田勝三郎殿、同三左衛門殿、堀久太郎殿、明智日向守殿、細川藤孝殿、中川瀬兵衛殿、高山右近殿、以上信長)

「ではよろしくお願いいたしまする」

「…はっ」

 青山与総は亀山城を後にした。

「……」

 光秀は悔しさのあまり握り拳をワナワナと震わせていた。光秀の部屋に斉藤利三、溝尾庄兵衛が入ってきた。

「殿、今の使者の言上聞きました! これはあまりにも明智家を踏みつけにしております!」

「クチを慎め利三…」

「成り上がり者の秀吉の指揮下に入れと言われて腹が立たないのですか! しかも先ほどの書状には殿の名は無官小身の池田や堀より下位に書かれておりました! 重臣一同もはやガマンなりませぬ! どうしてここまで殿はガマンされるのか!」

「庄兵衛、利三、何事も堪忍じゃ…。とにかく出陣の用意をいたせ」

 無念のあまり斉藤利三の目から涙がポロポロ落ちた。光秀の拳はまだ悔しさで震えていた。

 

 パチパチ…

 

 本陣のかがり火が火の粉を散らす。隆広、助右衛門、慶次は光秀の苦悩を思うと胸が痛んだ。柴舟は続けた。

「さらに…明智様は今回国替えに相成りました」

「国替え? いずれに?」

「出雲と石見にございます」

「いず…ッ!?」

「隆広様、それはまだ毛利の領土ですぞ!」

 助右衛門に言われずとも隆広はそれを聞いて驚いた。この時点で光秀は領地を持たない大名となってしまった。

「それで明智様は…?」

「現在、出兵の準備を整えていると言う事です」

「…大殿の京での滞在場所は?」

「京の本能寺にございます」

「……」

 隆広は少し考え…

「白、遠路報告してきたのに申し訳ないが、すぐに明智の陣に潜入せよ」

 傍らの助右衛門に目で合図する隆広。助右衛門は陣の金蔵から小金の入った巾着袋を取り出して隆広に渡した。それを白に渡す隆広。臨時の給金と云うことである。

「疲れているのに済まないが、事は急を要する。明智様が向かうのは中国路でないかもしれない」

「承知しました」

 白は給金を受け取り、すぐに隆広本陣から出た。

「隆広様…」

「助右衛門、柴舟、今の京で大軍を持っているのは明智様だけだ。イヤな予感がする」

「勝家様にこの事を報告しては?」

「一歩間違えれば、明智様を陥れる讒言にもなりかねないから今までは控えてきたが…事ここにいたってはそれしかないな…」

「はい」

「よし、殿の陣屋に行ってくる。だがあくまで我らの基本方針は上杉との合戦。助右衛門と慶次は兵と共に明日の魚津攻めの準備を整えておいてくれ」

「「ハハッ」」

 

 隆広は陣を離れて勝家の陣屋に向かった。陣屋の室内で文机に向かっている勝家。

「殿」

 勝家の小姓が陣屋の外に来た。

「いかがした?」

「水沢隆広様、面談を求めておいでです」

「通せ」

「はっ」

「殿、お話がございます」

「ん、ちょうど面倒な報告書作りも終えたところだ。入れ」

「はっ!」

 陣屋内は勝家と隆広二人のみであった。

「話とは?」

「はい、実は明智様について報告したき事が」

「光秀の事だと?」

「はい」

 隆広は今まで掴んだ情報を勝家に話した。一通り聞くと勝家は驚いた。

「…なぜ、もっと早く報告しなかった!」

「申し訳ございません、もし明智様が潔白であるのならとんだ讒言になると思い、今まで言うに言えませんでした。しかしここにいたっては…」

「ううむ…」

「とにかく、魚津から北ノ庄に至るまでの北陸街道、京か安土に異変生じたら、それがし佐吉に兵糧と水と塩、砂糖の配給所を一定間隔に設置しておくよう命じておきました。夜間の撤退の場合はかがり火を道の両脇に置き照らしておくようにも伝えてあります」

「忍びたちには何と指示した?」

「引き続き、明智家に潜入し、明智軍の進路を見張るよう指示しました。もし進軍経路が中国路でなく京に向かったのなら、大急ぎで我が陣に知らせるようにと」

 勝家は少し考え指示を出した。

「隆広」

「はい」

「前田利家、佐々成政、不破光治の府中勢を今夜中にも陣払いさせ、越前に引き上げさせよ。理由は一向宗の残党に不穏な動きありとでもデッチあげればいい。そして北ノ庄に到着したらすべて知らせて、大殿を守るべく本能寺に赴けと伝えよ」

「魚津の方は…」

「ワシとお前と盛政で落とす。能登はすでに当家の領地で背後の心配もないし、府中勢を帰らせても我らは一万六千の大軍。上杉景勝の本拠地越後には甲斐と信濃から川尻、森、滝川の軍勢が迫っており、領内には新当主である景勝に不満を持つ家臣もおる。こちらに割ける軍勢は二千がいいところだろう。魚津城の兵士は千五百ほど、何とかなろう」

「はい、それではただちに府中勢に撤退を」

「ふむ、隆広祐筆をせよ」

「御意」

 勝家は府中三人衆が越前に引き上げる理由を述べ、隆広がそれを記録した。勝家は内容を確認して花押を記載した。

「確か、お前の忍びに思慮深い男がいたな」

「柴舟ですか?」

「今、陣におるか?」

「はい、彼の息子だけ明智様の元へ行かせました」

(うん、やはり柴舟を陣に残したのは正解だったようだな)

「よし、そやつにこの書状を持たせて利家たちと共に越前に戻らせよ。そして到着したら利家たちに手渡すよう指示いたせ」

「承知しました!」

 隆広は勝家の陣屋を去った。しばらく腕を組んで考える勝家。

(隆広の危惧…。あながち虚妄とも思えん。だが徒労に終わってくれることを願わずにはおれぬ…)

 

 前田利家を筆頭の府中三人衆はなぜ一向宗の残党狩りにこれだけの大軍で帰らなければならないのかと思いつつも、命令では仕方ないので越前に引き返した。勝家と隆広の密命を受けた柴舟も兵士に紛れて越前に向かった。この府中勢を先に帰した事が後になって生きてくるとは、さしもの勝家も想像できなかったろう。

 

 ここは春日山城。城主の間で上杉景勝と側近の直江兼続が魚津城主の中条景泰から届いた救援依頼の書状に頭を悩ませていた。

「くそ…! 能登はほぼ制圧され、願海寺城、木舟城はともかく富山城まで落とされるなんて! 兼続、やはり救援に行かねば魚津は落ちるぞ。兵はどれだけ集まる?」

「それが…。先のお家騒動の影響か、旧景虎派の者たちは北条方に身を寄せ兵力は半減。かつ新発田城主の新発田重家は織田に内応の動きあり、甲斐と信濃といった旧武田領に滝川一益、川尻秀隆、森長可らが入り、春日山を手薄にしたらいつ襲ってくるか…」

 さしもの直江兼続もなすすべがない。いかに兼続に隆広と比肩する才があろうとも、兼続は前線を遠くはなれた春日山におり、何より御館の乱の余波で上杉家には不協和音が漂っている。これでは兼続がいかに作戦を考えてもムダである。しかも虎視眈々と越後を狙う北信濃の織田勢もこれまた多勢。いかに謀将直江兼続でも状況が悪すぎた。

「実に巧妙な時に柴田は侵攻を開始しました。こっち家中の内乱があり、上杉はまだ一つではございません。それを狙われました」

「感心している場合ではない! それではまったく動けないではないか!」

「は…。さしあたり春日山から斉藤朝信、上条政繁らを先発隊として派遣すべきかと」

「…いや、やはりワシが行くべきだ。新たな当主として武威を示さなければならん! 兼続、そなたも一緒に来るのだ。春日山は今あげた二将に留守居させよ! 出陣の支度じゃ!」

「ははっ!」

 

 明智光秀は全軍に中国路に向かい、羽柴秀吉の援軍に向かう事を伝えた。家臣たちがその準備にかかっているころ、光秀は愛宕山の西の坊、威徳院で連歌会を催した。この時に招かれたのは連歌の第一人者里村紹巴と院主の西坊行祐。そして光秀はこう歌った。

 

「時は今…天(あめ)が下しる五月かな…」

 

 西坊行祐は、詠んだ光秀を見つめて

「なるほど、毛利との戦に臨む気概の表れですかな?」

「いや、お恥ずかしい。そんなところでございます」

 続けて西坊行祐が

「水上まさる 庭の夏山…」

「花落つる 池の流れを せきとめて」

  さらに里村紹巴と続いた。この時、隆広の忍び六郎と白は威徳院に潜伏していたが、残念ながら六郎と白には和歌の知識が無く、共に会で出た連歌を聞いて書きとめるくらいしか出来なかった。やがて連歌会は終わり六郎と白は愛宕山を離れて、互いに書きとめた歌を見せあい確認した。

 

「日向殿は十七句詠んだ。間違いないな?」

 六郎の言葉に頷く白。白は自分の書いた書を見つめつつ

「一応、他の参加者の歌も発した順に書きとめておいたが…これは報告する必要がないのではないか?」

 白の言葉ももっともだと思う六郎。しかし両名とも和歌の知識がないので判断が難しい。もしや…と云う情報が潜んでいるのではないかと云う可能性も捨てきれないのだ。

「情けないが、我らでは判断がつかぬ。一度北ノ庄に戻り、これを三成殿に見てもらった方がいい。かの仁は和歌もたしなむ」

「そうだな。ならば俺が越前に戻る。六郎は引き続き日向殿を張っていてくれ」

「承知した」

 

 光秀は威徳院の自分の部屋へ行き、気持ちを落ち着けていた。文机に向かい冥想するかのように目をつぶり静かに時を過ごしていた。

 彼はもう決断していたのであった。裏切り者と呼ばれるのも覚悟のうえで、ついに“打倒信長”を決心した。数々の理不尽な行いへの憎しみ。そして今日は親友、明日は他人の冷酷、残忍の性格。自己の存在も危うい。そしてそれは出雲と石見の国替えで現実になってしまった。もはや迷いはなかった。

「……」

「殿」

「利三か、入れ」

「はい」

「殿、先ほどの歌ですが…」

「…何の事だ?」

「…殿、この後に及んで家老のそれがしにまで内密はやめていただきたい」

「…そなたには隠せぬか」

 文机から離れて利三と対する光秀。

「敵は中国路にはおらぬ」

「はっ」

「敵は本能寺におる」

「はっ」

「上杉と毛利に使いを出して柴田と羽柴を押さえ、北条と長宗我部にも使いを出して滝川と丹羽を押さえる。あくまで中国路への出陣と思わせるのじゃ」

「承知しました」

「また徳川は堺で遊興中と聞く。信長に怨みを持つ伊賀忍者の残党を金で雇い殺させよ」

「では、ただちに!」

 斉藤利三は光秀の部屋を出た。再び光秀は目をつぶり精神を集中した。今年の安土大評定のあと、信長は光秀を呼び出し大評定の時には述べなかった織田家の岐路を語った。それは光秀が愕然とする内容だった。

「昨年は武田と一向宗の者どもを片付けた。毛利も筑前がそろそろ詰むであろう。それが成れば次は朝廷じゃ。天皇を討つ」

 無論、光秀は止めた。朝廷は叡山や足利幕府と重みが比較にならないと。しかし信長は我こそが王。従わぬ者は殺し、従う者だけが我が王国の民よと光秀に言ったのである。光秀は懸命に諌めたが信長は聞く耳持たなかった。それどころが朝廷に攻め入る先陣はそちじゃとも添えた。愕然とした光秀。

 信長はこの展望を実のところ光秀だけに話したわけではない。羽柴秀吉にも話している。秀吉は針の先も反対せず『大殿こそ日本国の王の器、新たな王の君臨のため粉骨砕身働く所存』と答えて信長を満足させている。べんちゃらもあるが、下賎の身の上である自分を軍団長にまで抜擢し、城も与えてくれたのは天皇ではなく信長である。秀吉にとっては天皇などよりも神に等しき主君である。それが天皇を討つと言っても反対する理由にはならない。しかし、秀吉とは違う光秀は考えた。

 一説では光秀は比叡山焼き討ちに反対しており、それが後の大事件の引き金ともなったと言われているが、光秀は比叡山の焼き討ちに反対どころか、鉄砲などの武器調達に尽力し、積極的に行った事が近年明らかになっている。

 光秀もすでに破戒僧の集団となっており、武器を持ち織田へ抵抗する比叡山の僧侶たちを駆逐するのは織田の天下統一に障害と思い、その焼き討ちをためらわなかったと云う事だろう。しかし相手が朝廷であり、この国の象徴とも言える天皇では事情が違う。いよいよ光秀は決断したのだった。

(末代までの笑い者になるか、天下人になるか…)

 

 斉藤利三と同じく光秀の真意を読んでいた者がもう一人いた。光秀の娘婿、明智秀満である。中国出陣前夜、主君光秀を訪ねた。

「殿」

「秀満か、いかがした」

「殿…。ご謀反はなりません」

「…なに?」

「必ず失敗いたします」

「……」

「なるほど大殿は討てましょう! ですが、その後の展開はいかがなさるおつもりか! 主君の仇討ちとばかりに織田諸将が一斉に襲ってくるのは明白! 堺には丹羽、中国には秀吉、そして北陸には柴田! いずれ駆逐されますぞ。殿は史上最悪の謀反人として汚名を残すのみ!」

「…もう後には退けぬ」

「何故にございますか!」

「無論、個人的な怨嗟もある。だがそれだけではない。大殿は朝廷さえ排除し王となろうとしている。天下人にとり天皇ほど厄介な者はない。自分が天下を取った後、誰かが天皇を味方につけて“織田家を討て”と詔勅を受けたら、その場で織田家は逆賊となる。ならば天皇を倒してしまえばいい。無論、他の諸大名は激怒しようが大殿には勝てぬ。結局皆殺しにあうだろう。日本人が天皇を敬う事は神の如し。神殺しに誰が従う。しかし従わなければ殺すのが大殿。天皇を殺した後に、大殿が王朝を開く頃には日本の人口の半分、いやそれ以上は減った後だろう。大殿の天皇を害する存念を知った今、それを見過ごす事はできぬ」

「ならば、それを全国諸大名に訴えて味方につけた後でも!」

「それを見過ごす大殿と思うか?」

「しかし大殿を害せば、殿はどんな理由をつけても主殺しにございます!」

「大殿を討った後、各軍団長が対している敵勢力と結び、朝廷と足利幕府とも結ぶ。心配いらん」

「どうあっても…!」

「たとえ各軍団長の軍勢が来ても、その頃には我らは王師(天皇の軍隊)、ひともみにしてくれる」

「……」

 秀満には主君光秀の見込む展望が、予想ではなく願望である事に気付いていた。そしてもう何の説得も無理である事を悟った。

「ではそれがしも出陣に備えます」

「うむ、手柄を期待しているぞ!」

「はっ」

 亀山城を去り、自分の屋敷へと歩く秀満。

「殿は謀反人と呼ばれるだろう…。だがもう引き返せぬ。この上は殿に最後まで付き従うのみ…!」

 

 北ノ庄城、石田三成の屋敷。三成は鳥越城から隆広や将兵たちの家族たちを引き連れて越前に戻り、留守居をしつつ隆広の密命を水面下で実行していた。

(ホントにこんな事が必要なのであろうか、何も起きなければ水沢家のみが損する事に)

 と、その密命も半信半疑で遂行していた。三成が受けた密命は京か安土に異変生じたら北陸街道近隣の領民に指示し、食糧と水、塩、砂糖の配給所を一定間隔に配置しておく事だった。

 三成は鳥越城からの帰途中、北陸街道にある村々に狼煙台を築き、北ノ庄城から狼煙があがるのを見たら予め指示しておいた通り食糧と水、塩、砂糖の配給所を一定間隔に配置しておく事を領民に依頼していた。手間賃と糧食代は高値を約束すると云う書面も出した。勝家にも相談できなかったため、水沢家の財源で全負担する事になる。三成は思わぬ出費に頭を悩ませ文机の前で算盤を弾いていたが

(いやいや、無駄な浪費になれば一番良い展開じゃないか。ケチな事を考えるな)

 と、自分の頭を軽くこづく三成。外からは夕暮れ時の鐘の音が聞こえてきた。

「おっと、時間だ。伊呂波、用意していた食材を」

「はーい」

 三成は隆広の屋敷にいるすずに滋養のつく食材を届けに来て八重に渡し、その足で妊娠中のすずを見舞った。

「いつもありがとう、佐吉さん」

「いえ、すず殿の生む子は隆広様の子、我らとしても細心の注意を払わなければ」

「そうよ、すず。たんと食べないと」

 そういうさえも、先日に二人目の妊娠が判明した。正室と側室とも幸せの只中だった。

「もうしばらくしたら奥方様にもお持ちしなければ、食べたいものはございますか?」

「いえ、毎日ちゃんと食べられたらそれで十分です。太ったらあの人に嫌われちゃうでしょ?」

「ははは、それでは新鮮な野菜でも…」

 天井から三成の背に塵ほどの小石が当たった。

「ちょっと失礼」

 三成は屋敷内の別室に行った。そこには白が待っていた。

「白殿、お務めお疲れ様です」

「いえ、三成殿も密命を無事遂行中との由」

「ええ、しかし隆広様の言うとおり、徒労に終わる事を願っておりますが…」

「それなんですが…」

「はい」

 すでに光秀が羽柴軍の援軍に向かう事は報告で聞いていた。白はその後の状況を三成に知らせに来た。

「連歌会を?」

「はい、その時に詠まれた歌を書きとめてまいりました。しかし我らには和歌の知識はなく、詠まれた歌に何か情報が潜んでいても分からぬゆえ、三成殿に見ていただきたいと思い参った次第」

 白は歌を記した書面を三成に渡した。

「『時は今 天が下しる 五月かな』」

  三成の顔が険しくなった。

「…三成殿?」

「この歌、巻頭に書かれてありますが発句、最初に詠んだ句なのですか?」

「その通りです」

「…これを発句で」

「三成殿?」

「この歌の前に歌があるのならまだしも…これを発句で詠んだのなら…」

 ゴクリと喉を鳴らす白。三成の狼狽からただ事じゃないと分かる。

「ここまで露骨に詠むとは…明智様は本気か!」

「ど、どういう意味でございますか?」

「『時』とは『土岐』を示しています。明智殿が土岐氏の出であるから明智様ご自身を指しているのと思われます。そして『天(あめ)が下しる』は天下を治めると云う事。つまり“土岐氏の光秀が信長に代わり今こそ天下をとるのだ”と詠んでいるのです!」

「……ッ!」

「隆広様の最悪の予想が当たってしまった! 大殿が今いるのは本能寺! 手勢はわずか! 織田信長は討たれる!」

 信長は秀吉の後詰をすべく中国へと向かうが、その道中に京都本能寺の書院で茶会を催していた。将兵はすべて先行させていたので、信長はわずかな近臣を連れていただけであった。信長の妻の帰蝶(濃姫)も同席しており、茶会が終わったあとは嫡子の信忠、五男の勝長と家族水入らずで酒宴を楽しんでいた。

「ははは、たまにはこういう家族水入らずも良いのう。どれ、ひとさし舞うとするか」

「殿、また『敦盛』でございますか。その『人間五十年』にそろそろなろうと云うのに」

「こら帰蝶(濃姫)、余計な事を申すな。これが信長の平素の心がけよ」

 妻の帰蝶が鼓を鳴らす。

『人間~五十年~、下天のうちをくらぶれば~、夢まぼろしの如くなり~♪』

 

 その後に嫡男の信忠は宿泊所の妙覚寺に戻っていった。信忠は武州恩方にいる松に岐阜へ来るように言っていた。正式に側室として迎えるというのである。松は喜んでこの申し入れを受けて、すでに恩方から出発したと云う知らせも信忠の元に届いていた。

「もうすぐ、松を妻として迎えられる…」

 美しい新妻と岐阜で再会できる日を望み、信忠は眠りについた。

 

 そして丹波亀山城を進発している明智軍。この時点で光秀の決意を知る者は斉藤利三、明智秀満、溝尾庄兵衛だけであった。彼らは光秀の決意を知り、共に行く事を決めた。謀反にそのまま協力するのだから、光秀の家臣団の結束がうかがい知れる。

 行軍の中盤で兵の指揮を執っていた明智秀満が、先頭の光秀に走りよった。

「殿、中国路にしては道が違うと兵たちが騒ぎ出しました」

「ふむ、京に入った事であるし、この辺で良かろう。秀満、ここで全軍に食事を取らせろ。その後に決起を兵士に告げる」

「ハッ!」

 休憩と食事を取り終えた明智軍は再び行軍に備えて陣列を組み整列した。光秀は将兵の前に立ち、号令一喝した。

「皆のもの、よく聞け! 我らが向かうのは中国路にあらず!」

 拳を掲げて光秀は吼えた!

「敵は本能寺にあり!」




本能寺の変は書くに敷居が高く、このお話を書くのはずいぶんと苦労させられたことを覚えています。今回の投稿に際しても、少し手直ししました。

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