天地燃ゆ   作:越路遼介

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ここから歴史が変わっていきます。念のため言いますが、水沢隆広は実在の武将ではありませんよ~。架空武将でございますよ~。


本能寺の変

 天正十年六月二日午前六時。

 信長は昨夜の酒宴のためか、まだグッスリ眠っていた。しかし騒がしい音がするので目が覚めた。最初は家臣同士の些細なケンカと思った。だが間もなく鬨(とき)の声があがり鉄砲を撃つ音が聞こえてきた。何者かが襲撃してきた事に気づいた。

「大殿―ッ!」

 森蘭丸が駆けてきた。そして信長の寝所の襖を開けた。

「何事か!」

「明智日向守! 謀反にございます!」

  一瞬、驚いた表情を見せるも、そのあと信長は目を閉じて静かに微笑んだ。

「…そうか、やりおったか光秀」

「大殿! 我らが囮になりますのでお逃げに!」

「光秀を甘く見るな。ひとたび決起した以上蟻の這い出る隙間もないはず。弓を持て!」

「はっ!」

 

 この時の明智軍は一万三千人、信長の周りには百人しかいなかった。最初から戦いにならない奇襲であった。

「信長を討て―ッ!」

 光秀の号令のもと、容赦なく明智軍は信長のわずかな近臣を殺していく。信長は傍らにいる森蘭丸と共に、雲霞の如く襲い来る明智の兵を弓で射殺す。

「殿!」

 信長の正室、帰蝶は薙刀を構えて夫の前に来た。

「帰蝶! そなた何をしている! 早く逃げよ! そなたと光秀は従兄弟同士、よもや殺す事はあるまい!」

「いいえ! 私も殿と共に戦います!」

 その帰蝶に明智の兵が襲い掛かる。帰蝶の薙刀はその兵を切り裂いた。

「さあ一緒に参りましょう殿!」

「むう! 勝手にせい!」

 次々と襲い掛かる明智勢、帰蝶は夫を守るため懸命に薙刀を振るう。そして

「殿、一つ隠していた事がございました」

「なんじゃ、手短に頼むぞ」

 信長は弓を射ながら問う。

「実は…」

「…なに?」

「…と、云う事です」

「ふっはははははッ! で、あるか! お市め、やりおる!」

「万一、生き残る事でもできたら」

「うむ、お市に胸張って名乗らせてくれる! ふっはははは!」

 

 ダーンッ

 

 バシュッ

 

「……ッ!」

「帰蝶!」

 帰蝶の体を銃弾が貫く。

 

 ダーンッ! ダダーンッッ!

 

 帰蝶は全身に弾を浴び、そして信長に静かに微笑み、崩れ落ちた。愛妻の最期を見る信長。森蘭丸の弟の坊丸と力丸も信長をかばい銃弾に浴びて死んだ。

 

 ダーンッッ!

 

 信長の肩を掠めた銃弾。それと同時にビンッと言う音を放ち弓の弦が切れた。

「是非もない。これまでじゃ…!」

「殿!」

「お蘭! ワシが首、光秀にくれてやるな!」

「ハハッ!」

 本能寺の奥に歩み出す信長。

 

 この知らせは妙覚寺にいる織田信忠にも届いた。

「光秀が謀反だと!?」

「一万三千の明智軍が本能寺を包囲しております!」

「やりおったか光秀ッ! 馬をひけい!」

「何をするおつもりでございますか! 若殿のもとにある兵はわずか五百にございますぞ!」

「たとえそうでも! 父が攻撃を受けているのに放っておく事などできようはずがない!」

 信忠は五百の兵を率いて本能寺に向かった。

(一万三千対五百か…。隆広、そなたでもこれはひっくり返せまいな)

 

 信長は本能寺の中に戻り、火を放った。

「大殿…」

 無念に涙する蘭丸がいた。

「泣くな、人間五十年…。是非におよばん。死のうは一定よ」

「う、うう…」

「『ワシとお前、どちらが正しいかはワシが天下を取れば分かる』…そうネコに言ったが、ふっはははは、間違えていたのはどうやらワシの方らしいわ」

(しかもあやつ…。帰蝶め、最後でとんでもない事実を明かしよった。あやつは我が…ふっははははッ!)

「大殿…!」

「ネコの予言は当たったわ。『漢楚の項羽と同じ末路を歩む事となる』か…。ふっはははははは!」

 信長は炎燃え盛る中、敦盛を舞った。

『人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢まぼろしの如くなり、ひとたび生を受け…』

 そして握っていた刀を腹に突き刺した。

『滅せぬ者の…あるべきや』

 第六天魔王と呼ばれ、戦国の覇王と呼ばれた風雲児織田信長は波乱に満ちた生涯を閉じた。享年四十八歳。いつも彼が口癖のように言っていた『人間五十年』に、あと二年残して彼は逝った。

 

(明智殿は何か重大な事を考えているのでは…?)

 信長に『考えすぎだ』と一蹴されたものの蘭丸は不安を感じていた。しかし蘭丸には持つべき軍勢がない。何のチカラもない。不安に思っていたのに、結局何の手も打てなかった。炎の中、自分の不甲斐なさを泣く蘭丸。

「竜之介…! あとは頼んだぞ!」

 森蘭丸は主君信長と共に腹を斬った。そして妙覚寺にいた織田信忠も、この急報を聞き五百の手勢を引き連れて駆けつけたが兵力の差がありすぎて本能寺には入れない。すぐに二条城に向かい皇族たちを逃がしたあと、そのまま二条城に立て籠もった。ここで明智軍を迎え撃って応戦したが所詮は多勢に無勢で惨敗。

 炎上する二条城。すでに信忠の周りに兵はいない。迫り来る明智軍の怒号だけである。

「うおおおおッッ!!」

 明智家の記録には、この時の織田信忠は鬼気迫るものがあったと云う。彼は単身で光秀の兵を次々と斬って行った。血脂で切れ味が悪くなった太刀を捨てて敵兵から抜き取り斬って行った。松と再び会いたい。この一念が信忠に鬼神の強さを出させていたのかもしれない。しかし衆寡敵せず。手傷を負った信忠は奥へと退き城に火を放ったのだった。

「無念…! しかしこの光秀の謀反を呼んだのは父信長自身。父上…人の怨みを軽視されましたな…」

 水沢隆広を右腕として天下泰平の世を作る事を夢見ていた信忠。

「隆広…。お前は父の轍を踏むなよ…!」

“信忠様”

 愛する松の声が聞こえたような気がする信忠。

「すまない松…。もう一度だけでいい…。そなたと会いたかった…」

 二条城の中で織田信忠は切腹した。

“松…”

 このころ浜松の宿に泊まっていた松に信忠の声が聞こえた。

「ん…?」

 松は起き上がった。

「…信忠様の声が聞こえたような…」

 

 紅蓮の炎を上げて炎上する本能寺。明智光秀はその光景を見て涙ぐんだ。

「大殿、それがしは不世出の天才、織田信長に巡り合えた事を誇りに思っております。今もその思いは変わりませぬ。だがそれがし…こうするより他にございませんでした…」

『天才』、光秀は信長を心からそう思っていた。そしてその千年に一度出るか出ないかの天才に巡り合えて仕えられた事が嬉しかった。その才に魅せられて身命を尽くした。光秀にとって、天才信長に会えたのは千載一隅の好機であった。それが幸運をもたらすか、不幸をもたらすかは神のみぞ知る。

 また、光秀は信長が脳裏に描き、造ろうとしていた日本の未来図を知っていた。信長が天下統一後に何をしたいか気づいていた。信長はキリシタン宣教師などから欧州諸国の政治の有り様を聞き、その利点に注目していた。応仁の乱以後に乱れに乱れた戦国の世に泰平をもたらすには、今ある既得権をすべて破壊する事である。

 その構想の中には織田家の家臣を含む戦国大名も含まれていた。信長は天皇を討った後に地方行政を私する大名制度を破壊し、中央政府を置いた統一国家を作ろうとしていたのだ。光秀は『出雲と石見を取り新領にせよ』と命じられた時、それを確信した。今までの丹波の国は『与えられていた』のではなく『預けられていたのだ』と。どんなに手柄を立てても、主君信長は天下を統一した時に自分を捨てると悟った。いや捨てるならまだしも、『走狗煮られる』の運命が待つ事を悟った。

 信長ならば成し遂げた中央政府の樹立かもしれない。しかし人間と云う者は急激な変化を嫌う。反対する者が絶えないのは明白だが信長はそれを全部滅ぼしてでも断行するだろう。中央政府樹立による統一国家、日本の大いなる成長ともなりえた信長の構想。しかし光秀にとり、その成長は『悪』だった。

 明智光秀は、織田の重臣を務め、家族と家臣たちと共にあれば満足だった。しかしその生活も砂上の楼閣の運命にある。個人的な怨嗟も手伝い、明智光秀はついに信長に叛旗を翻して討ち果たした。

 

 また、信長の遺体はとうとう見つからなかった。ルイス・フロイスがイエスズ会に宛てた手紙には『諸人がその声だけでなく、その名を聞いただけで戦慄した人が、毛髪も残らず塵と灰に帰した』とある。信長は、まさに現世に何も残さず紅蓮の炎の中で灰燼に帰したのだろう。

 

 そしてすぐに光秀は細川家と筒井家に送り味方するように伝えた。また当初の予定通り上杉、毛利、長宗我部、北条氏らに書状を出して和を図り現在対峙している織田の軍団長らを牽制して押さえてくれるよう要望した。

 本能寺の変が安土城に伝えられたのは、六月二日の巳の刻(午前十時頃)であったと云う。

 その時は流言だと思ってそれほど、騒ぎが大きくなく、しばらくして下男達が逃げ帰って来て事実を知らされた。安土に残っていた武将達は武具、食糧をそのままにして、妻子だけを連れて尾張や美濃などに退去していった。当時、安土城の留守居役として二の丸に入っていた蒲生賢秀(かたひで)は、翌三日の午後二時頃、城内の女子供を引き連れて日野城に退去していった。

 主君織田信長を倒した光秀は、直ちに安土城に入らんと京都を発したが、瀬田の橋を守備していた山岡景隆が、橋を焼き落としたために進軍できず、坂本城に入り待機した。三日後の六月五日、修復された瀬田の橋を渡り、安土城に入った光秀は、天守に残されていた金品を没収し、部下の武将達に分け与え、すぐに朝廷に多額の金子を献じて洛中市民の税も免じた。この間三日間、明智光秀は天下人であった。

 

 柴田勢に先んじて越前北ノ庄に引き返してきた府中三人衆は、到着と同時に勝家の書状を、隆広の忍びである柴舟から手渡された。魚津攻めをしている柴田本隊の混乱を避けるため、府中三人衆にも北ノ庄に到着するまで秘事とされたのだが、前田利家は勝家からの書状に書かれていた光秀の疑惑に愕然とした。

「バカな! なぜもっと早く我らに! 知っていれば全速力で越前に戻ったと云うのに!」

「又佐(利家)そんな事を今言っているゆとりはない! 光秀が潔白であり、勝家様の危惧が徒労ならそれに越した事はないが、万一と云う事もある! 我らはすぐに大殿のいる本能寺に向かおう! 京で軍勢を持っているのは光秀だけぞ!」

「そうだな内蔵助(成政)。よしただちに京都本能寺に向かい大殿の護衛に入る。光治もよいな!」

「当たり前だ、全速力で…」

「前田様―ッ!」

 隆広の忍びの六郎が北ノ庄城に戻り、そして府中三人衆の元へ走ってきた。

「そなたは?」

「拙者、水沢隆広が手の者にて六郎、府中三人衆の方々に申し上げます!」

「なんじゃ?」

「大殿が京の本能寺において…!」

 前田利家、佐々成政、不破光治の背筋に戦慄が走った。

「惟任日向(明智光秀)に討たれました!」

 不破光治はガクリと膝を落として手を地に付けた。

「遅かったか…!」

 前田利家は天を仰いだ。

「なんて事だ…!」

「大殿…!」

 悔し涙を浮かべる佐々成政。前田利家と佐々成政は若き日に信長の母衣衆だった。彼らの信長崇拝は根強い。突如の信長の訃報を嘆き悲しんだ。ひと呼吸おき、気持ちを静めた利家は忍びに訊ねた。

「そなた、隆広の手の者と申したな」

「はっ、六郎と申します」

「拙者も水沢隆広に仕えし、柴舟と申します」

「その方ら…大殿の凶変を知りえ、我らに伝えられたと云う事は…そなたたちは隆広の指示で光秀を監視していたのだな?」

「その通りです。主君隆広の命により拙者と柴舟はここ数ヶ月、光秀殿を観察しました」

「蜂起を知った時、大殿をお助けする術はなかったのか!」

「拙者一人では一万三千の明智勢を相手に出来ませぬ」

「むう…それもそうよな、すまぬ」

 だが、まだ気が済まない佐々成政。

「数ヶ月前から内偵していたと! なぜ隆広は我らに相談しなかった!」

 柴舟が答えた。

「それは明智様が潔白であったら、ただの讒言になると思われたからです。佐々様、このような大事を確たる証拠もなしに主君や上将に相談も報告も出来ようはずがございますまい。我らの報告から、隆広様が本格的に明智様へ疑惑を抱いたのは魚津城攻め前日にございました。せめて勝家様に報告する事くらいしか出来なかったのでございます」

 柴舟の正論に反論できず、忌々しそうに息を吐く成政。

「内蔵助…」

「なんじゃ又佐」

「光秀の動きは早かった。たとえ隆広が光秀の疑惑を察した直後に大急ぎで越中から戻ったとしても結果は同じだった。勝家様と隆広を責めるのはよそう…」

「…分かった」

「問題はむしろこれからじゃ、いかがする利家」

 と、不破光治。

「この上は怨敵光秀を討つまでじゃ。勝家様の下にもじきに知らせが入るだろう。我ら府中勢は勝家様到着後すぐに光秀のいる京に出陣できるよう準備を終えておくのじゃ!」

「「おうッ!」」

 

 一方、時間をさかのぼり、北陸では上杉勢が五月十九日、魚津城の東側にあたる天神山に着陣する。しかし魚津城を包囲する柴田勝家を総大将とする織田勢は大軍であり、景勝は千五百の城兵を救う事ができず、両軍は対峙する事になった。

 しかも、景勝が春日山城を留守にして越中国に滞陣している事を知った信濃国海津城の森長可、および上野国厩橋城にいた滝川一益が呼応して春日山城を衝く気配を見せたため、天神山にそれ以上布陣している事が困難になったのである。五月二十七日に至って結局、魚津城の城兵を救出する事ができないままに上杉景勝と直江兼続は歯軋りしながらも春日山城に退かなければならなくなってしまったのである。

 いわば景勝から見捨てられる形となった魚津籠城軍は、自力で戦わなければならないという絶望的な状況に陥り、落城はもはや時間の問題であった。

 包囲されて、救援も食糧もないままに落城が近い事を悟った中条景泰、竹俣慶綱らの城将は一斉に自刃して果てたのである。城将の切腹、すなわち魚津城の落城は六月三日の事であった。本能寺の変、翌日の事である。

 

 本能寺における凶変。それは水沢隆広の知るところとなった。変事に備えての用意が徒労に終わってくれと云う彼の願いは叶わなかった。三成、柴舟、白、舞、六郎の報告が一致し、そして藤林忍軍が北陸街道の間道で捕らえた明智の忍び。彼が持っていた書状が決定的な証拠となった。その書状を持ち、奥村助右衛門と前田慶次を伴い柴田本陣に走る隆広。

「殿!」

「隆広遅いぞ、早く軍議の席に」

「それどころではありません!」

 いつも冷静な隆広が血相を変えている。勝家と共にいた諸将も隆広を見た。可児才蔵が訊ねた。

「どうしたそんなに慌てて」

「大殿が…!」

「大殿がどうした?」

「討たれました…!」

 唖然とする柴田諸将たち。可児才蔵や佐久間盛政は一瞬隆広の言っている意味が分からなかった。勝家は悲痛に目を閉じた。半信半疑に思っていた隆広の危惧が現実になってしまった。この光秀の疑惑を知っていたのは隆広と勝家のみ。他の将は青天の霹靂である。

「なに? 今なんと申した隆広?」

 可児才蔵が問い直した。

「大殿が討たれました。京の本能寺において明智光秀殿の謀反により討たれました!」

 諸将もやっと隆広の言葉を理解しだした。佐久間盛政が軍机を平手で叩いた。

「隆広! 戯言が過ぎるぞ!」

「陣中に戯言はありません、殿、これを!」

 明智光秀が上杉景勝と直江兼続に宛てた書状を本陣軍机に広げた隆広。

「手前の忍びが北陸街道の間道を走る明智殿の忍びを捕らえて、持っていたのがその書状!」

 諸将は光秀が上杉に宛てた手紙を見た。

「まぎれもなく…光秀の花押と印判!」

 さしもの勝家も信じざるをえない現実が目の前にあった。そして文面は上杉に柴田勢を押さえて欲しいと言う事と、明智と上杉の講和の条件が書かれていた。

 

 そして、やはり勝家の落胆ぶりは特に目を覆うものがあった。隆広の危惧が外れてほしい、そう願っていたが現実になってしまった。床几に座り肩を落とす勝家。本陣に静寂が漂う。佐久間盛政がそれを破った。

「隆広」

「はい」

「光秀の忍びは一人だけと思うか?」

「それがしの手の者が押さえたのは一人。しかし、こんな大事を一人だけの任にするとは明智様の性格から言ってありえません。飛騨路、信濃路からも上杉陣に向かっているかと」

「では上杉が大殿の死を知るのも時間の問題なのだな?」

「おそらく」

「伯父上!」

 勝家は放心状態で答えない。

「伯父上しっかりなされよ! 上杉がこの事実を知ればすさまじい逆襲に転じますぞ! 急ぎ陣払いして越前に戻らねば!」

「殿、それがしも佐久間様と同意見です。すぐに戦線を離脱して京にいる明智様、いや怨敵日向を討つのです!大殿の仇を殿が取るのです!」

 めずらしく隆広と盛政の意見が合った。

「し、しかし一万五千以上の我が軍、引き上げるのも至難だ。魚津を落としたとて、まだここは敵地も同然ぞ。たとえ上杉が大殿の死を知らぬとて引き上げ出したなら追撃に出るは必定だ…」

 と、毛受勝照。

「それに…」

 落胆し呆然とする勝家を見る勝照。

「肝心の勝家様がこれでは…」

 覇気が完全に無くなっている勝家。それに隆広が歩み寄った。床几に座る勝家の前にひざまずき訴える。

「殿! 大殿にもっとも重用された殿こそが大殿の仇を討ち、そして意志を継ぐべきにございます。大殿が長い年月を重ねて、やっと麻のごとく乱れた日の本を繋ぎ合わせたと云うのに、振り出しに戻しては大殿に対して不忠にございます! 殿が意志を継ぐのです!」

「隆広…」

「ご決断を! 丹羽様、羽柴様、滝川様も明智殿を討とうとするに違いありません! 時を与えては他の諸将に先を越され、かつ明智殿も基盤を固めてしまいます。一刻を争いますぞ!」

「…よう申した」

 勝家は立ち上がった。

「皆の者、ワシらは反転して越前にもどり、すぐに京に向かい光秀を討つ!」

「「ハッ!」」

「隆広、問題は上杉の追撃じゃ。考えがあるのなら申してみよ」

「無念ですが…魚津と富山を捨てて時を稼ぐしかありません。空城をあえて置く事で時間を稼げるかと。そのスキに大急ぎで越前に帰ります。我らは能登と越中から総引き上げして全軍で越前、そして京に向かわなければなりませんから越中と能登も取り返されましょう。しかしそれにより時間も稼げます。加えて雪の問題も考えれば上杉軍は長い遠征が出来ず越後に帰らなければなりませぬ。柴田が加賀まで至れば上杉も追撃は断念せざるをえません」

「ふむう…。それしかないか」

「はい、今の柴田に必要なのは新たな城や領地ではなく時間かと」

「よし、そなたの策を用いる、隆広、空城計はそなたが行え」

「ハッ!」

「他の将は急ぎ陣払いだ!」

「「ハハッ」」

 柴田軍は陣払いを開始した。合戦に勝ち、二ヶ国をも手中にした柴田だが、何の未練も残さずにその新たな領地を放棄して撤退した。この決断が後に功を奏する事になる。

「助右衛門、慶次、計を置いた後、我らもすぐに後退する。魚津に柴田とオレの旗を掲げて、城内を清掃し、東西南北の城門をすべて開放しておく! 急げ!」

「「ハハッ」」

 奥村助右衛門と前田慶次は水沢の陣に駆けて行った。隆広はふと西の空を見上げた。

(…明智様、今回のご謀反、おそらくは政治的根回しはしておられますまい…。明智様には明智様の理由もあるでしょう。だがどんな理由はあれど主殺しは天下の大罪! 風は吹かない。昔の恩を思えば、このまま貴方に天下を取らせてあげたい。だが…オレは柴田勝家の家臣、戦わなければならなくなりました。せめて貴方に笑われないような戦いぶりをお見せいたします。光秀様…!)

 かつて光秀が信長に強要された酒を酔ったふりして飲んだ隆広。光秀を蹴った信長に対して毅然と謝れと言ってのけた隆広。明智家が隆広に感じる恩義は大きい。信長自身が“ネコはあの酒で明智を味方につけた”と思っていた。大将同士も親密であった水沢家と明智家。信長の言った“味方につけた”が実現すればどんな事が可能であったろうか。

 歴史家は明智光秀に水沢隆広が仕えたらどうだったろう、と無意味な仮定を時にする。だが後世がそう思いたいほどの組み合わせなのである。

 秀吉も述べた“あの一杯の酒で隆広殿は精強を誇る明智家を味方につけた”はついに実現しなかった。歴史は水沢隆広と明智光秀を敵同士としたのである。

 

 世に有名な、柴田勝家の『北陸大返し』が今、はじまる。前もって府中三人衆の軍勢を先に帰した事がここで生きてきた。軍勢は身軽になり、北ノ庄にいる利家たちにも光秀を討つ事を知らせ、その準備に当たらせる事が出来たからである。

 

 その翌日、柴田の陣を内偵していた上杉の忍びが、越中越後の国境に布陣する上杉本陣へとやってきた。

「申し上げます、柴田勢突如に魚津から反転して加賀に向かいました!」

「なんだと? どういう事だ、ヤツらは勝っていたではないか。魚津城の様子はどうか?」

「柴田勝家の旗と、水沢隆広の旗が立てられております。しかし妙な事に…」

「妙な事に?」

「東西南北すべての城門が開放されたままで…」

 直江兼続はそれを聞くと軍机から立ち上がった。

「柴田勢は総引き上げをしたか!」

「総引き上げだと?」

「はい、『空城計』です。追撃を食い止め、時間を稼ぐためにあえて空城を置き、かつ計があるように見せかけての全方面の城門開放! かの諸葛孔明が司馬仲達に行った計!」

「しかしどうしてせっかく手に入れた城を放棄して国許に帰る?」

「おそらく、京か安土に異変が…」

 

「申し上げます!」

 伝令兵が景勝と兼続の元に走ってきた。

「なにか」

「明智日向守殿から早馬の使者が参っております」

 上杉景勝と直江兼続は顔を見合わせた。

「よかろう、通せ」

 明智光秀の使者が上杉本陣へとやってきた。よほど急いで来たのか息を切らせていた。

「ハァハァ…」

「使者に水をお出ししろ」

 兼続に言われて兵士が使者に水を差し出した。

「さあご使者殿」

「かたじけない」

「で、明智殿のご使者、手前が上杉景勝であるが何用か?」

「それがし、明智日向守の母衣衆、藤田伝伍と申す。主君の書状にございます」

 書状を差し出す藤田の手から直江兼続が受け取り景勝に渡した。

「拝見いたす」

 書状を広げて文面に見入る景勝。

「…こ、これはまことの話か!」

 愕然として藤田に問う景勝。

「はい」

「殿、いかがされたのです? そのように狼狽するとは」

 兼続の問いに景勝は静かに答えた。

「織田信長が…京の本能寺において明智光秀に討たれた」

「な…ッ!?」

 上杉本陣は騒然となった。書面には嫡男の信忠も討った事も記されている。

「そして…明智と上杉の講和、背後から柴田勢を押さえてくれるように要望されている」

「……」

「兼続、そなたどう思う?」

 小声で景勝に述べた。

「即答は避けるべきです。織田には柴田や丹羽、羽柴と云った強力な軍団長がおりますし、次男信雄や三男信孝は健在! 誰が織田の威勢を継ぐか分かりません。しかし、すぐにやる事は決まっております」

「それは?」

「柴田勢の追撃です。何が空城計! 柴田も上杉をなめきったもの! そんな三国志から引用しただけの作戦が上杉に通用すると思っているのかと!」

「うむ…」

「これに乗じて越中能登を取り戻す事が先決かと。明智殿との講和、もしくは助力もその後の展開で判断すべきと思います」

「殿、ワシも兼続の意見に賛成にござる」

「それがしも」

 同じく上杉の臣、色部勝長と千坂景親らも同意した。

「そうじゃな、しからば我らは明智殿の挙兵は知らぬ存ぜぬを通す。兼続」

「はっ」

 兼続は使者の藤田に歩み寄った。

「藤田殿でしたな。急な事ゆえ我らも考える時間がほしい。しばらく我らの陣で休息を取られよ」

「承知いたし…」

 

 ザシュッ!

 

 兼続は藤田を斬った。さすがは隆広と同じく上泉信綱に教えを受けただけあって藤田は叫ぶ間もなく兼続に斬られた。

「気の毒だがやむを得なかった」

 藤田の死を見ると、景勝は全軍に指令した。

「柴田勝家に追撃をかける!」

「「ハハ―ッ!!」」

 毘沙門天の旗は勝家の軍勢に向かい出発した。馬上の景勝は傍らにいる兼続に訊ねた。

「兼続、殿軍は誰と見るか」

「水沢隆広かと存じます」

「ワシもそう思う、父の謙信さえ認めた男。ただの空城計ではないかもしれぬ。油断するな」

「ははっ」

 兼続は思う。

(竜之介、手取川で空陣計を用いて上手くいったのに味をしめたと見えるが、上杉に二度も同じ手が通じると思うな。そちらは一万以上の大軍だが隊列は縦に伸びきっているはず! そのケツに上杉の刃を馳走してやる! 覚悟いたせ!)

 今回の柴田の上杉攻めにおいて、合戦の策をすべて水沢隆広が立案した事は兼続には分かっていた。謙信亡き後とはいえ、上杉軍を手玉に取るような采配を執れる大将は柴田で水沢隆広しかいないと云う事を知っていたからである。

 絶対有利とも云える追撃戦の追撃側となったからには、水沢隆広こそ真っ先に討たなければならない武将。直江兼続にとって、もはや水沢隆広は幼馴染ではない。敵である。

 

 そして馬を駆る事を半日、上杉勢は魚津城に到着した。先頭にいた景勝はまず魚津の外観を見て驚いた。

「見よ兼続、落ちて間もない魚津が…修復されている」

「とはいえ、中は無人のはず。城門は開いているのです。遠慮なく入りましょう」

 前もって軒猿衆により魚津城が無人である事は知らされていた。確かに柴田と水沢の旗が数多くなびき、かがり火も焚かれている。だが魚津城は無人なのである。

 上杉勢は魚津城に入った。するとどうだろうか、外観の修復は無論の事、城内の隅々にいたるまで綺麗に清掃されていた。

「立つ鳥あとを濁さず…か。敵ながら見事よな兼続」

「はい」

(柴田家も味なマネをする…)

 

「殿―ッ!」

 上杉の忍び、軒猿衆の忍びが景勝に駆けてきた。

「いかがした?」

「城の西の空地に…」

「敵が潜んでいたのか?」

「違います、とにかくお越しを!」

 忍びの案内で景勝と兼続と主なる諸将は城の西にある空地に行った。そしてそこには…

『上杉烈士墓』

 と、誠意ある筆で書かれた墓標があり埋葬が行われていた。献花もされ、墓前には線香の跡があった。そして各々が着ていたであろう鎧兜も綺麗に磨かれて整然と並べてあった。あぜんとする景勝。敵将兵の亡骸は野ざらしが当たり前である。

「…これは魚津城の将兵たちの墓か? まさか水沢隆広が敵である上杉の将兵を弔ったと云うのか?」

 また墓前には隆広が魚津城の将兵たちにあてた追悼文が置いてあった。兼続がそれを読みあげた。追悼文は魚津の将兵たちの戦いぶりを褒め称えてあった。そして最後の文に景勝と兼続は胸を熱くした。

『さすがは越後の精兵たちよ』

 景勝が『上杉烈士墓』にひざまずくと、他の将兵も墓前に頭を垂れた。景勝はやむをえず魚津を見捨てざるを得なかったから、死んだ者たちに対して思うものはひとしおである。上杉の追撃がいつ来るか分からない状況の中、しかも一刻を争う撤退の中、殿軍の隆広は敵である上杉に礼を示した。隆広の行ったのは『空城計』であるが、返す以上は礼を示して返したかったのである。

 

 そして城主の間、ここに隆広から景勝宛に書状が置いてあった。

『苦労して手に入れた魚津城でございますが、慎んで上杉にお返しいたします。景勝殿がここに来られたと云う事は、我らが突如に戦線を離脱した理由もご存知でしょう。もしご存知なければ隠していてもいずれ分かる事なので、ここに書き記します。我らが大殿の織田信長様が明智光秀殿に討たれました。我ら柴田家として大恩ある大殿を討った明智殿を許すわけにはまいりません。我ら、義によって怨敵明智光秀を討ち取ります』

「むう…」

 景勝はその書状を読み終えると兼続に渡した。そして兼続も読み終えた。

「殿、確かに竜之…いや水沢殿の処置は見事と言えます。ですが…」

「分かっておる。ヤツの武士(もののふ)の心は天晴れだ。だが追撃とは話が別だ。上杉と柴田は現在交戦中であり、そして我が領土を蹂躙したのは変わらない。追撃を続けるぞ。ヤツの武士(もののふ)の心には、いずれ別の形で報いよう。だが今は戦あるのみじゃ!」

「はっ」

 

 そして追撃を続ける上杉勢。だが柴田勢の動きは思いのほか早かった。しばらくすると富山城に到着したが、ここもまた魚津城と同じように清められ、戦死者は弔われていた。城の改修もなされており、まさに築城の名手と呼ばれた隆広と、隆広の下で数多くの土木と築城の工事をしてきた兵たちだからこそできた撤退である。そしてここまで敵に礼を示されると上杉の将兵にもさすがにためらいが出てきた。兼続は修復された城壁に触れて苦笑した。

「『城を攻めるは下策、心を攻めるを上策』か…。やってくれたな竜之介…!」

「兼続」

「はっ」

「そなた申したな、『織田には柴田、羽柴、丹羽など強力な軍団長がいる。誰が織田の威勢を継ぐか分からない』と」

「申しました」

「ワシは…もしかしたらその誰でもないのではないかと思い始めてきた」

「は?」

「…いや、何でもない。追撃を続ける」

「しかし、もう夜です。とりあえず今日は富山城で…」

「そうだな。ご丁寧に兵糧や酒まで残してある。まったく水沢隆広とやら、ワシの仕事がしにくいよう、しにくいよう事を運ぶわ!」

 景勝は城主の間へと歩いていった。兼続には主君景勝が立場上、追撃を主張しているのは分かっていた。本当ならば魚津城における隆広の計らいで追撃をやめたかったのかもしれない。彼の養父の上杉謙信は義将と呼ばれ、養子の景勝もその理念が絶対精神となっている。義のために光秀を討とうとする柴田勢を追撃するに迷いがあった。

「竜之介の狙いはこれなのか…。いや、そんな下心があれば魚津や富山で見た仕事に自然と見えてくるものだ。だがオレの目にもそれは見えなかった。しかしだからと言って、我が地を蹂躙した者を逃がすわけにはいかん…」

 兼続もまた迷いを払うように自分の頬を両の手で叩いた。水沢隆広、上杉景勝、直江兼続。彼ら三人が敵味方を越えての友になるのには、もう少し時が必要だった。


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