天地燃ゆ   作:越路遼介

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北陸大返し

 水沢隆広隊は加賀と越中の国境に到着していた。自隊の前に引き上げていた可児才蔵隊がそのまま陣場を残し、兵糧も残してある。殿軍の前の退く隊は殿軍隊にこうした配慮を置くのが不可欠である。そして隆広は上杉攻めから外れて密命に動いていた石田三成と合流して彼から報告を受けていた。

「そうか、殿が越前に戻ったか。では明日には北ノ庄に戻れるな」

「そのようです。また上杉勢が富山城に入ったとの事」

「よし十分にふりきれそうだ。佐吉もよくやってくれたな」

「もったいないお言葉にございます。しかし…正直本当に実行する事になるとは…」

「それを言うな、オレとて徒労に終わればと願っていたのだから」

 上杉攻めへ随伴させなかった三成に対して隆広が与えた指示は、柴田軍が退却で通る北陸街道の道沿いに食料や水、塩と砂糖の支給所を一定間隔に配置しておく事だった。地域領民にあらかじめ働きかけておき、北ノ庄城からの狼煙を合図に、各所に設けた狼煙台で情報を伝えて即に用意をしておくようにと云う指示であった。

 実際命令を受けた三成も半信半疑であったが隆広の危惧は現実となり、彼は狼煙を上げた後に仕入れておいた砂糖などの物資を持ち、大急ぎで北ノ庄から加賀に向かい隆広からの密命を実行するに至った。三成は隆広の先見に寒気すら感じた。隆広と三成の働きによって柴田軍は迅速に魚津から北ノ庄にまで帰還する事ができた。

 隆広は柴舟を筆頭に忍びにも指示を与えている。明智家の潜入内偵は無論、北陸街道の間道に明智の忍びや使者が通るのを見張らせた。そして光秀の謀反が現実になると白、舞、六郎だけではなく忍軍二百が総動員され、やがて決定的証拠を掴むに至ったのである。隆広が明智光秀謀反を知ったのは変事の翌日、遠征中の武将の中で最速であった。

 

「それで明智の動向は? まだ安土に?」

  立場上、もう光秀に対し“様”はもう付けられない。

「娘婿の左馬助秀満殿を残して現在は上洛して朝廷工作をしていると聞き及んでいます」

「そうか、そうしてくれれば我らも助かる」

「しかし、天皇が明智を王師(天皇の軍隊)と認めれば手出しできなくなるのでは?」

「たとえ王師と認められても、それは名前だけ。それ以前に我らは『主君の仇を討つ』と云う大義名分がある。朝廷や禁裏、公家衆の戦力は全くの無。役には立たない」

「なるほど…」

「オレが明智の立場なら、安土で得た金銀を近隣の大名にまいて味方につける。まずは茨木城の中川清秀殿や高槻城の高山右近殿を味方につけ、それから上杉や北条などの大名に連絡を取る。朝廷工作などは一番あとでもいい」

 事実、斉藤利三や明智秀満は今の隆広の構想を光秀に進言していたが聞き入れられなかったと云う。光秀はまず朝廷を味方につけて、謀反を義挙と位置づけようとした。そうすれば近隣の大名も味方につくと考えていたのである。

「それで細川は?」

「細川藤孝殿は剃髪して大殿の喪に服していると聞いております。おそらくは明智につかないかと」

「孤立無援か…。やはり主殺しに風は吹かないか。で、京の周辺で明智が手に入れた城は?」

「勝龍寺城に溝尾庄兵衛殿を入れたそうにございます」

「なるほど、どうやら戦場は京の周辺になるな。しかしそうか…。今回の戦で乱法師や信忠様も…」

 織田家中で隆広が心許せる友二人が逝った。森蘭丸は幼い頃からのケンカ友達、『竜之介』『乱法師』と幼名を呼び合う仲で、信長に組み敷かれて手篭めにされそうになった時は救いの手を差し伸べてくれた。

 織田信忠は自分を認め、三歳年下の自分を弟のように可愛がってくれた。信忠が自分の代になったら隆広を側近に取り立てたいと勝家に要望していたと云う事も伝え聞いていた。柴田の臣のままで良いからと勝家に頼み込んでいたと云う。そこまで自分を見込んでくれた信忠の気持ちが嬉しかった。

(乱法師、信忠様、きっとカタキは取ります…)

 思わず涙が出てきそうな隆広だが、今は退却戦の中である。その殿軍部隊を率いる自分が涙など見せられない。

「隆広様、聞くところによりますと松姫様は信忠様より岐阜に来られたしとの要望を受けて岐阜に向かっていたそうにございます。しかし尾張と三河の国境あたりで信忠様の死を知り、恩方に引き返したとの事にございます」

「松姫様の悲しみいかばかりか。やっと夢にまで見た信忠様と夫婦になれるところだったのに…おいたわしや…」

 松は信忠の死を知った時、呆然として涙も出てこなかったという。武田遺臣たちに護衛され、輿に乗っていた松であったが、しばらくして信忠の死の現実に耐え切れなくなり、大声で泣き出したと伝えられている。

 

「申し上げます」

 伝令兵が隆広の元に来た。

「なにか」

「御用商人の源吾郎殿、至急の目通りを願っております」

「通せ、それと軍勢再編中の助右衛門と慶次もオレの元に来るように伝えよ」

「はっ」

 旅商人の装束で、源吾郎こと柴舟は息子の白と共に隆広の陣に来た。

「隆広様!」

「お疲れさん、佐吉、二人に水を」

「はっ」

 しばらくして前田慶次と奥村助右衛門もやってきた。柴舟と白をはじめ藤林忍軍が調べていたのは他の諸将の内偵である。

「まず、舞が担当している厩橋城の滝川一益殿ですが、報告では一益殿の重臣たちが信長公の死を秘して京に上る事を促したものの、一益殿は関東諸将の人質を返したうえで事実を打ち明け、ともに力をあわせて反勢力である北条氏と戦う事を決めた由。しかし関東管領となってから、まだ三ヶ月も経っておらず、その上さすがに信長公の死による部下の動揺も去り難く、旗色は悪いとの事です。この戦いに勝ったとしても負けたとしても、滝川殿が京に上る時期を逸したものかと思います」

「なるほど…」

「我が旧主一益…。戦機を見誤ったか…」

 前田慶次がポツリとつぶやく。彼は滝川一益の従兄弟、滝川益氏の次男である。前田利久に養子に出されたか家督は弟の利家が継いだため、しばらくは滝川の陣で関東の戦場を駆けていた。慶次が戦機を誤ったと見たとおり、一益は関東で足止めを食った上に北条氏に大敗をしてしまう結果となる。

「六郎が担当しています織田信孝様と丹羽長秀様ですが、四国征伐の総司令官に任ぜられていた三男の織田信孝様は、宿老丹羽長秀様や津田信澄様を従えて、堺にて渡海の準備をしている最中に謀反が発生。そして何を思ったか津田信澄様を殺してしまいました」

「なんと…?」

「津田信澄様は日向(光秀)の娘婿、そして信長公に殺害された勘十郎信勝殿の息子です。信澄様は日向の関係と過去の因縁からか信孝殿に疑われたのでございましょう。大坂千貫櫓にいたところを丹羽勢に襲撃に遭い討たれ、首は堺でさらしものとなったとの事です。信孝様、丹羽様は日向に対抗の気勢を示したかと思われます」

「なんて事だ…。だが謀反後に明智勢のいる京や安土にもっとも近いのは彼らだろう。なぜ動かない?」

「謀反の報が届くと、信孝様と丹羽様の四国討伐軍の兵は、過半が逃亡してしまったそうです。おそらく現在彼らの手勢は三千ほどかと」

「そうか」

「よって彼らは現在尼崎まで陣場を移して、備中高松城から引き返してくる羽柴様を待ち合流するつもりかと」

「親父様と?」

 と、石田三成。

「はい、羽柴様は高松城を水攻めにして大殿の援軍の到着を待っていましたが、変事を知るや高松城城将の清水宗治の切腹を条件に兵と民を助け、すぐに毛利と和睦いたしました。明日には姫路に入城かと」

「さすがに早いな…。どうした佐吉?」

「い、いえ何でも」

 三成は柴舟の報告を聞くや、急にソワソワしだした。

「…羽柴家に帰参したい…か?」

「……」

「大殿と信忠様亡き今…織田家は間違いなく分裂するだろう。ここまで織田の版図を広げてしまったのなら、残念ながら信雄様や信孝様に次代の当主が務まるとは思えない。まして殿と羽柴様との不仲は有名…」

「隆広様…」

「オレ個人は羽柴様が好きだ。尊敬しているし、目標にしているお方だ。家臣の黒田官兵衛殿、山内一豊殿、稲田大炊殿、仙石秀久殿とも友誼がある。まして…死んだ羽柴様の軍師竹中半兵衛とオレは義兄弟。だが…個人のチカラではどうしようもない」

「……」

「佐吉、オレはお前を手放したくない。お前と戦いたくはない。オレの元にいてくれないだろうか…」

「……」

 三成はすぐに首を縦に下ろせなかった。あの三杯の茶で自分を認めてくれて、そして息子のように可愛がってくれた秀吉。そして下にも置かぬ厚遇をしてくれて親友や兄弟のように思ってくれている隆広。彼はいま岐路に立たされている。

「すいません、中座させていただきます」

「ああ、だが数刻後には越前に向かう。そのつもりでいてくれ」

「…はい」

 

 三成の苦悩の背中を見る助右衛門。

「辛かろうにな…。たとえ日向を討つのが柴田であろうと羽柴であろうと、間違いなく合戦になるだろう…。だが隆広様、それはあくまで日向を討ち取ればこその話。今は怨敵日向を討つ事のみ集中すべきと」

「そうだな。よし、全軍に食事を取らせよ。その後ただちに越前に向かう。柴舟は摂津にいる六郎と合流して引き続き明智勢の動向を探れ。忍軍はすべてオレの元に呼び戻し、白と舞に忍軍を統率させる。急げ!」

「「ハハッ!」」

 

 水沢隊は上杉を振り切り、そして加賀を越えて越前北ノ庄城に到着した。上杉は振り切られたと云うより、途中より追撃をやめたと云う方が正しいだろう。上杉景勝と直江兼続の予想以上に柴田の撤退が早かった事と、あの隆広の空城計で戦意が縮小してしまった事が追撃をやめた理由と言える。ついに殿軍の水沢隆広は上杉軍の姿を見る事もなく無事に帰還した。

「おお、隆広。無事に戻ったか」

 帰城の報告のためにやってきた隆広を労う勝家。

「はい、殿もご無事で何よりにございます」

「ふむ、今日一日はゆっくり休め。明日には京に向けて進軍じゃ」

「はい」

「すでに諸将で進軍経路と陣立ては評議して決まっておる。申し渡しておく」

「はっ」

 勝家は京への進軍経路と陣立てを隆広に説明した。

「以上だ。何か付け足したい事があるのなら述べよ」

「されば日野におります蒲生氏郷殿と、鳥羽の九鬼嘉隆殿に味方につくよう使者をお出し願いたいと存じます」

「ふむ、ワシもそれを考えておった。すぐに手配しよう。あとは?」

「はい、今宵のうちに先行者をお出しください」

「先行者?」

「はい『北陸の雄、柴田勝家が大兵を率いて怨敵明智光秀を討つため京に向かう。見ておけや見ておけや』と派手な噂をばらまいてもらいます」

「そんな事をして何の効果がある?」

「続きがございます。『柴田勝家は北ノ庄城の金銀財宝と兵糧をすべて家臣に与えた。もはや主君の仇を取らねば生きて帰る気はない証し。そして留守居の将に、もし勝家敗れて討ち死にしたら妻子を殺して城も焼けと下命した』つまり柴田勝家はこれほどの覚悟で出陣したと流布させるのでございます。進軍の先々にいます地元領民たちは殿を大忠臣として支持をいたすでしょう。進軍中に水と食糧の提供も快くしてくれましょうし、何より明智殿を討ち取った後の喝采は倍増します」

 勝家も、そして勝家の傍らにいた前田利家、中村文荷斎は呆然とした。

「…なるほど! 民心に柴田がこれから臨む戦は義戦である事を示し、かつ味方につけると云うわけだな!」

 と、前田利家。

「はい」

「うむ! 利家すぐに噂を流布する先行者を出せ!」

「承知しました!」

「付け加えたいのは以上にございます」

「相分かった。見事な進言であったぞ隆広」

「恐悦に存じます」

「さ、これ以上そなたをここに留めてはワシがさえとすずに恨まれよう。大義、下がってよいぞ」

「ハハッ!」

 満足げに隆広の背を見送る勝家。

「智将の言は、万の軍勢に勝る。たのもしい若者にございますな」

「ああ文荷斎、もはや隆広はワシなど越えているわ」

「殿、大殿亡き今、もはや秘事にしていても仕方ありますまい。お方様(お市)も早く名乗りたいはず。殿とてそうでございましょう」

「確かにな、だが今あやつに出生の事を教えても戸惑うだけじゃ。すべて終わってからよ。お市にはもうしばらく辛抱してもらうしかあるまい」

 

 隆広は久しぶりに帰宅した。

「お前さま―ッ!」

「さえ―ッ!」

 さえは帰ってくる隆広を見つけると走りより、胸に飛び込んでいった。そして熱烈な口づけをして家に入った。玄関に八重と監物、すず、そして嫡子の竜之介が出迎えた。

「「殿様、お帰りなさいませ」」

「うん、監物、八重、留守よう務めてくれた!」

「隆広様、おかえりなさいませ」

「うん、すずの腹も少し膨れてきたな。滋養のつくものは食べているか?」

「はい」

「体を厭ってくれ、もうそなた一人の体ではないのだから」

「ありがとうございます」

「ちちうえ~」

「おお竜之介、帰ったぞ。どれどれ」

 隆広は竜之介を抱き上げ頬ずりした。

「おお、重たくなったな。いい子にしているか? 母上を困らせてはいないか?」

「はひ!」

「よしよし、ではオレと一緒にフロでも入るか」

 

 その後に久しぶりの家族水入らずの食事となり、風呂を済ませて愛妻との閨に入り眠りに着く隆広とさえ。若い隆広はさえがヘトヘトになるほどに求め続けたので、情事の後さえはぐっすり眠っていたが、夜中にふと目が覚めた。隣にいるはずの夫がいない。厠でも行ったのかと思えば、中々戻ってこない。すずの寝所に? とも思ったが、すずはもう腹が膨れてきたので、閨事は控えなければならない。どこへ行ったのかと思い、家を探してみると隆広はさえの父、朝倉景鏡の鎧兜の前に静かに座り、何かを語っていた。

「…? 何を」

 襖の合間からそれを見るさえ。

 

 隆広はすずの寝所を訪れ、抱く事はできなくても口づけをして、しばらく添い寝をして子の宿るお腹とすずの不自由な足を愛撫しながら色々な話をした。やがてすずが眠ると景鏡の鎧の前に座り、気持ちを落ち着けたのだった。そして語り出した。

「…義父殿、あなたは主君義景殿を討つ時、何を思っていたのでしょうか。家のため、越前のため、もしくは娘の事なのでしょうか…。いずれにせよ、ご自分の大切なものを守るために、止むに止まれぬ行為だったのでしょう。きっと…明智様も同じ…」

(…お前さま)

 隆広はそのまましばらく義父の鎧兜の前に座り心を落ち着けていた。さえも襖越しにそれに付き合っていた。

(父上…。夫は悩んでいます。夫は明智様が好きなんです。尊敬しているのです。でも戦わなくてはならない事に…苦悩しています)

 隆広は悩むと、それが閨に出る。それを振り払うために夢中で妻を求める。結婚して五年。さえも肌を合わせればそれはすぐに分かった事である。スッと襖が静に開いた。

「眠れないのですか?」

「うん、ちょっとな…」

「…何をお考えに?」

「…さえ、大殿と信忠様が死に…織田家は分裂するだろう」

「はい」

「これからオレは明智様と戦わなくてはならない…。いずれ羽柴様とも…」

「……」

「オレは明智様も羽柴様も好きだ。戦いたくないし、お二人に死んで欲しくない…」

「…お前さまのなさりたいようになさりませ」

「え…?」

「さえは…そんな優しいお気持ちを持つお前さまが大好きです。たとえ余人が『甘い』と言おうとも…さえは大好きです。ううん、さえだけじゃない。すずも、奥村様も前田様も佐吉さんも、そして勝家様も、そんなお前さまが好きなのだと思います」

「さえ…」

「これから、お前さまにとり辛い戦ばかりとなるでしょう。いっぱい悩まれ苦しむでしょう。でも最後は自分が思う事を信じて貫いて下さい。辛くて苦しくて泣きたくなった時には…いつでもさえがいます」

「ありがとう、さえ」

 少し頬をそめてニコリと笑うさえ。隆広も笑顔で返す。隆広は寝床に戻り、さえと寄り添いながら眠りについた。

 そして朝、いつものように庭で木刀と木槍を振り鍛錬に励み、そして家族と共に朝餉を食べ、そして、さえとすずが手馴れた手つきで隆広の軍装を着せ付ける。装備を終えると隆広はさえに

「さえ、貸してほしいものがある」

「なんです?」

 義父景鏡の甲冑を指す隆広。

「あの小母衣だ」

「分かりました」

 さえは父の甲冑にかけられている南蛮絹の小母衣(マント)をとり、隆広に手渡した。景鏡の小母衣は黒一色の単調さで縁は金糸で統一されていると云う豪奢で洒落たもの。さえの父の朝倉景鏡が特に気に入っていた一品だった。それを隆広は身につけた。

「似合うか?」

「はい♪ 惚れ直しました」

 隆広は『黒』を好んだと云われているが、黒一色の甲冑に、不動明王を背負う武田勝頼から受け継いだ朱色の陣羽織、そしてこの黒母衣は隆広の男ぶりを上げた。

「では行ってくる!」

「「いってらっしゃいませ!」」

 隆広は妻のさえ、側室すず、八重と監物や他の使用人、そして嫡子の竜之介に見送られて家を出た。

 

 殿軍から帰還し、翌日には出陣という強行であるが、今の柴田軍にのんびりしている時間が無い事は全軍が知っている。北ノ庄城主の間に柴田の将兵たちが集合した。府中三人衆の前田利家、佐々成政、不破光治の三将、勝家の養子の柴田勝豊、加賀の城将である佐久間盛政、徳山則秀、毛受勝照、そして本城北ノ庄の大将である金森長近、拝郷家嘉、中村文荷斎、可児才蔵、山崎俊永そして水沢隆広である。隆広の家臣である奥村助右衛門、前田慶次、石田三成も列席している。

 隆広の配下の将も含め、家中一同少し表情が硬い。明智光秀を討つこの合戦を誰もが重く見ているからだろう。耳が痛くなるほどの沈黙が流れる。そして上座の陣太鼓を小姓が叩く。

 

 ドン、ドン、ドン

 

「殿のおな~り~」

 柴田勝家が評定の間にやってきた。家臣一同平伏する。

「皆のもの、おもてを上げい」

「「ハハッ」」

「殿軍部隊であった水沢隊が昨日帰還した。全軍が北ノ庄に無事に戻れたと云うワケじゃ。だがこれに喜んでいるゆとりはない。皆も疲れていようが、本日ただちに出陣する」

「「ハハッ」」

「その前に隆広よ」

「はっ」

「そなたに聞いておきたい事がある。越中からの帰路、北陸街道にはかがり火と糧食が用意されていた。それはお前の差配であるな?」

「はい」

「それではそなたは、光秀の謀反を前もって察していたのか?」

「……」

 家臣たちの視線が隆広に集まる。謀反を察していたのに、隆広の起こした行動のうちに大殿である信長を救出するための動きは一切ない。この事について勝家は特に隆広を問いただすつもりはないし、それ以前に隆広は勝家に光秀の疑惑を訴え出ている。その報告内容から信長の救出にいたるまで手が及ばない事も勝家には分かっていた。

 だが他の信長に恩を受けた将たちは疑問に感じたのである。勝家にとりこの疑問を無くすには、すでに自分が承知している事を改めて衆目の前で隆広に問いただすしかない。

「されば申し上げます。日向守殿を不審に思ったのは今年の安土大評定の時です。それがしは大評定のあとに城下の明智邸で催される正月の茶会に招かれたのですが、その茶会の時に…」

 隆広は語った。光秀が茶会中に茶器を持ったまま、眉間にしわ寄せて考え事をし、食事中には箸を落としても気付かないほどに何かを思案して自分が呼びかけても気付かないほどだった事を。

「あくまで勘ですが…何か重大な事を考えていると感じました。加えて日向守殿は大殿にご母堂を見殺しにされておりますし、長宗我部氏との折衝もすべて反故にされ面目を失いました。そして富士の宴にて罵られ、殴打され、あげく徳川様の接待役も理不尽に罷免されています。これでは日向守殿が大殿に恨みを抱いていない方がおかしいと思いました」

「ふむ…」

「また今まで丹精込めて国づくりに励んだ坂本や丹波の地を召し上げられ、代わりにまだ毛利領である出雲と石見の国を自力で切り取り次第与えると云う理不尽な下命。いかに明智勢が精強とはいえ毛利とて石見銀山を死守しましょうから、よしんば勝っても甚大な損害は明らか。もはや日向守殿がガマンしても家臣たちが収まらないと思い、心ならずもそれがしの忍びを明智家の小者に潜り込ませました」

「ふむ…お前から密かに相談を受けたとき、ワシは正直『考えすぎ』とも思った。だが現実こうなってしまったのォ」

「評定の席で家中の先輩諸将に報告しなかったのは…もし日向守殿に叛意がなく潔白であったら報告ではなく、単に日向守殿を陥れるための讒言になってしまうと思ったからです。こんな秘事を確信無しに述べる事できず…ゆえに殿に密かに相談するしかできませんでした。それがしが本格的に日向守殿へ疑惑を抱き出しましたのは魚津城攻め前日。上杉相手に二方面作戦など取れようはずもなく大殿への救助の策まで及ばず、せめて柴田軍が凶変後すぐに越前に戻れる段取りを整えておくしかできなかった次第です。徒労に終わってくれればと考えていたのですが…」

「そうか、よう分かった…。皆も得心したか」

「「ハッ!」」

「ようそこまで配慮したぞ隆広、結果を見ればそなたの働きで光秀を討てる準備もできた。すべて終えたら褒美を取らせよう」

 他の柴田諸将は隆広の先見に恐ろしさすら感じた。

 

「では改めて軍議に入る。利家、配置と進軍経路を述べよ」

「ハッ」

 前田利家が陣立てを記載した書面を持ち、勝家の側面に立ち読み上げた。

「我らは京に向かい、そして光秀を討つ。経路は敦賀、小谷を経て琵琶湖東側の木之本街道を南下する。秀吉の城である長浜城の前を通過する事と相成るが、かの城を預かる山内一豊は秀吉と共に中国路に出陣していて、我らに横槍も入れようなし。そのまま無視して南下する。その後に佐和山、安土を経て京に入る。経路は以上だ。琵琶湖西側が京へ近いのは分かるが、光秀の本拠地を通らねばならず、長期の苦戦が想定される。よって東側へ迂回して京に向かい、光秀を誘い出し京の地で野戦をもって叩く。光秀は京を取られるのを絶対に阻止しなければならない。必ず出てくる。そこを全軍で叩く」

「「ハハッ」」

「次に陣立てを申す。第一陣、一の備え佐久間盛政」

「ハッ」

「二の備え、それがし前田利家、三の備え金森長近」

「ハッ」

 こうして軍議によって決められた陣立てが発表されていった。第一陣の陣立てが終わると第二陣の発表がされた。

「第二陣、一の備え、かつ二陣大将、水沢隆広!」

「ハッ!」

 胸の高鳴りを感じる隆広。武者震いさえ感じる。やがて陣立ての発表は終わり、前田利家も着席した。勝家が言葉を発す。

「謀反人、明智光秀を討つ! 今こそ柴田の軍勢のチカラを示すときぞ! 出陣じゃあ!」

「「オオオッ!」」

 

 軍議は終わり、柴田軍は北ノ庄を出発した。勝家は隆広に命じて京にいたるまでの道に握り飯、水、塩を用意するように命じていた。一日進軍して野営が常の部隊移動の概念を無視して大急ぎで全軍が京に向けて駆けた。怨敵明智光秀を討つと云う大義の元に柴田軍は木之本街道を南下した。

 また、隆広の進言にて先行者に噂を流布させたが、それは予想以上の効果があった。行く先々の民は柴田勝家を『大忠臣』と称え、水と食糧の提供を惜しまなかった。織田信長は魔王とも称される男ではあるが行っていた政事はけして暴政ではなく、領民を大切にした君主であった。ゆえに敵には魔王と恐れられていたが領民は慕っていたのである。その仇を討つ柴田勝家を『天晴れな方、大忠臣だ』と褒め称えたのである。

 光秀を討伐した後、誰が織田の武威を継ごうとも勝家の立場は今よりはるかに重くなる。今後の織田領内の政治の中枢になる人物になる。隆広は今後の事を考え、光秀を討つ合戦を使い主君勝家の名声を畿内で大きく上げる事を考えたのである。柴田家の将兵で光秀を討った後の事まで考えていたのは水沢隆広だけだろう。

 街道の両脇で柴田軍に歓声を送る民たちを見て隆広“してやったり”と言うところだろう。

 

 途中、長浜城の前を通過した。ここは山内一豊の居城である。二万石の大名として一豊はかつて秀吉の居城だった長浜城を与えられていた。

 しかし城主の一豊は主人秀吉に従い城にはいない。すでに長浜城には明智光秀の謀反と、織田信長の死は伝えられていた。

 長浜城の最上階より琵琶湖東岸、木之本街道を南下する柴田勢を見つめる山内一豊の妻千代。

「柴田様が京に向かっている…」

 千代には備中にいる夫の様子が何も伝わってきていない。

「秀吉様は柴田軍より先に明智家を討てるだろうか…」

 やがて軍勢の中に見えた『歩の一文字』の旗。

「あれは隆広殿の旗…。柴田家と羽柴家は犬猿の仲…。どちらが明智を倒してもいずれは戦う事に。ああ…よもや山内家最大の恩人と戦わなくてはならないなんて…」

 水沢隆広は山内一豊と千代の一人娘、与禰姫の命の恩人である。聡い千代は、たとえどちらが明智を倒そうとも、柴田と羽柴の衝突は避けられないと分かっていた。そうなれば水沢隆広とも敵同士になってしまうのである。

「まさかこんな事になるなんて…殿!」

 

 夜になっても柴田軍は駆ける。騎馬も歩兵も。勝家が激を飛ばす。

「メシは走ったまま食え! 大小便も走ったまませよ! 怨敵日向を討った後、たっぷり眠らせてやる! 吐くほどに酒も飲ませてやる! メシも腹いっぱい食べさせてやる! 飽きるほど女を抱かせてやる! だが今は走るのじゃあ!」

「「オオオオオオッッッ!!」」

 越中の陣から府中三人衆を先に帰し、せっかく得た能登と越中に未練を残さず全軍退陣。そして越中から北ノ庄城までの道には水と食糧が用意してあった。柴田軍はこれで越前まで一気に駆け戻る事ができた。すべて隆広の進言と働きによるところが大きい。

 隆広も勝家の激に応え馬を駆る。そして、ただ前だけを向いている。後年、戦国時代最たる名将と呼ばれる水沢隆広。

“北陸大返し”

 戦国時代の主役に躍り出る道を走り出した水沢隆広。この時、水沢隆広二十一歳。


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