天地燃ゆ   作:越路遼介

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侵攻羽柴軍

 清洲会議の後、表面上は織田信孝の配下武将として落ち着いた柴田勝家と羽柴秀吉であったが、これが建前の協和である事は分かりきっていた。

 勝家と信孝は、秀吉を討とうと考えていたが、それは秀吉も同じ事。水面下で織田信雄と結び柴田勝豊も調略していた。勝家は水沢隆広に安土城を新たな居城を築城させて、ここを橋頭堡にし信孝との連合軍をもって姫路に攻め入るつもりであった。

 また秀吉は軍備を悟らせないよう、兵農分離や滅亡した大名の牢人を集めるにも本拠地の播磨では行わず、瀬戸内海に浮かぶ淡路島で秘密裏に行っていたのである。これは石田三成を始め、秀吉の誇る家臣たちの智慧と工夫であった。いざ挙兵の瞬間まで淡路島に待機させていたのである。あくまで勝家や信孝の目には羽柴秀吉は領内の内政に励んでいるように見せかけた。そして一年と云う驚異的な速さで信孝と勝家を打倒する軍備を整えて挙兵したのであった。

 

 播磨にも留守部隊は置き、隣国備前の宇喜多家とも和議を結び味方につけている。当主の秀家は九歳でまだ幼いが百戦錬磨の家老たちが補佐している。毛利とは小早川隆景と和議交渉に臨み、共に東進は無理でも後背を衝く事はない。

 信孝との交戦を見込んでいた長宗我部氏は秀吉と結んだ。やがて秀吉は挙兵して信孝を討った。これを見て当主の元親は四国全土を掌握すべく動き出し、現在は十河存保と交戦中である。秀吉に後顧の憂いはない。

 また徳川であるが、本能寺の変の後、事実上甲斐と信濃が空白地となったので、その地を領有すべく出陣した。しかし、その地を欲するのは北条家も同じである。東海の徳川と関東の北条が甲斐と信濃を取るべく動き出していた。

 柴田から徳川に対して援軍の要請する使者を幾度か出したものの、家康はこちらも甲信を取る戦で忙しいと会わなかった。織田の版図を継ぐのが羽柴にしろ柴田にしろ、家康はこの戦いに介入する危険性を読み傍観を決め込み、今は自分の勢力を拡大するのが先と思ったのだった。

 

 羽柴勢の大軍の前に、池田、中川、高山が降伏し、丹羽長秀も大軍に戦意を失い降伏した。そして柴田家に痛恨であったのは当主勝家の甥で養子である柴田勝豊の寝返りである。元々勝家と不仲であったし、次期柴田家当主となる可能性が大な水沢隆広とは更に不仲である。しかも長浜はつい最近まで羽柴の城である。羽柴と戦ったところで領民の支持が得られるはずもない。

 秀吉の調略は更に続く。南伊勢の織田信雄を上手く持ち上げて味方につけた。『三法師君を神輿とするのは権六を滅ぼすまで。その後は信雄様が織田の当主でございますぞ』と持ちかけた。信長から付けられた家老たちは反対した。今は柴田につくべしと説得した。しかし柴田のイヌとなったと見た信雄はその家老三人を殺してしまった。元々信孝とは仲の悪かった信雄。秀吉を兄弟の仇と見るどころか、よくやったと思っていたのだ。信雄は秀吉の出兵要請に応じ、佐和山城で合流した。

 

 秀吉は明智討伐で柴田についた蒲生家と九鬼家にも従軍を要請。しかしこの時に両家は実に思い切った行動を取る。独立を宣言したのである。蒲生は柴田とも袂を別ち畿内の一豪族に戻ると述べ、九鬼も柴田と羽柴には関せず海賊に戻ると秀吉の要請を一蹴したのである。

『ならば勝家を滅ぼした後はそなたらを討つぞ』と秀吉は脅したが蒲生氏郷と九鬼嘉隆は黙殺した。『主殺しに加勢をするなどお断り』と毅然として出兵要請を拒絶した。秀吉は『やれるものならやってみろ』と言わんばかりの返事に激怒。討伐を考えたが、ここで時間を取られるわけにはいかない。権六を討った後に吠え面かかせてやると決めて、そのまま進軍した。

 岐阜城を目指したのは蜂須賀正勝。後世に山賊あがりの野卑な男と言われているが、それは事実ではない。秀吉の信頼厚い智勇備えた名将である。

 

 その蜂須賀正勝率いる二万が岐阜城の手前にある大垣城を攻めた。大垣城を守る氏家行広は戦ったが、多勢に無勢で降伏を余儀なくされた。行広は城を明け渡すのと引き換えに家臣たちの命の保証を正勝に取り付けた。蜂須賀正勝は行広の才を惜しみ羽柴家への登用を薦めたが行広は拒否して野に下った。氏家と云えば先代氏家ト全が美濃四人衆と呼ばれ、水沢隆広の養父隆家と共に戦場を駆けた猛将である。その息子の行広もその才幹を受け継いでいる。しかし武運は彼に味方しなかった。

 

 清洲会議で、その清洲城を与えられたのが滝川一益である。滝川勢は動かなかった。

 一益は『大殿亡き後に甲斐と信濃を手中にと画策する家康が尾張に攻めてくるかもしれぬので動けない』と返事を出した。

 しかしこの時の家康は、その甲斐と信濃を取るために遠征しており、とうてい尾張に侵攻は出来ない状態であった。一益の言葉を言い逃れと見た秀吉は、さらに加勢を要請し使者を出したが、一益は病と称して出なかった。仮病と見るのは当然である。秀吉は『家康への備えと称し、なおこの権六を討つこのいくさに加わらぬと云うのならば、羽柴への味方の証しに、三男の一時(かずとき)を人質として出せ』と言ったが一益は拒否した。秀吉は激怒したが、この時本当に一益は病気であると秀吉の陣に密偵が知らせた。そして滝川家は長男と次男で跡目争いが起きて出陣どころではないと。秀吉の信頼厚い蜂須賀党の乱破からの報告である。

 この織田家の大事に? と思った秀吉は念を押して滝川家を調べさせたが、一益は重病人となっており床に伏せ、長男次男は父を見舞う事もせず、跡目を継ぎたいがため小競り合いを起こしていると云う報が入ってきた。すべての乱破の報告が一致している。“攻めるも滝川、守るも滝川”も地に落ちたと冷笑した秀吉。それを聞いて秀吉は滝川の取り込みは勝家を討った後でも間に合うと見込み、そのまま蜂須賀正勝を岐阜に向かわせたのだ。

 

 無人の野を行くごとく岐阜城に迫る蜂須賀正勝率いる羽柴軍。岐阜城を守る織田信包(のぶかね)、手勢は三千、信長の弟に当たる信包、秀吉には主筋であるがもう彼にはそんなもの眼中にない。

 信包に三法師君を渡せと迫る羽柴軍の蜂須賀小六正勝。信包の三法師に対して血縁の愛情は薄い。しかし、ここであっさり三法師を渡せばどうなるか。結局羽柴は自分を殺すだろう。三法師を渡したら殺されると見た信包は秀吉の要請を拒否した。それが城を攻める格好の名分になってしまったのだ。

 

 秀吉は三法師跡継ぎを大義名分とした。三法師を織田の世継ぎにして自分はその後見につき、つまり三法師を傀儡にする事を目的としていた。『三法師君の君側の奸を排除する』と云う事。これが主家の信孝を討つ大義名分でもあったのである。覇道の戦では勝ったとしても他の大名や朝廷は認めない。

 『織田の領土を掠め取る逆臣柴田勝家を討ち、正当な血筋から世継ぎの座を簒奪した不孝不義不忠の三男信孝を討ち、三法師様を織田の世継ぎにする』

 これが秀吉の大義名分。勝利すれば秀吉の勢力背景もあり正当化される。勝てばこの挙兵も正義となる。だから三法師は必要であったのである。

 秀吉は対柴田勝家に備え越前に向かい、途中かつての居城長浜に立ち寄った。城主の勝豊は秀吉を迎え

「筑前殿、お味方させていただきまする」

 と城主の席に秀吉を座らせて、腰を低くし秀吉の持つ杯に酒を注いだ。

「これは頼もしい。重用いたしますぞ」

 そう返す秀吉に平伏する柴田勝豊。勝豊の家臣一同もそうした。今も勝豊の評価が低い要因となっている柴田家への裏切り。

 しかし長浜城は秀吉が築き、かつ江北地震後は山内一豊が改修したため、羽柴軍には城の造りが手に取るように分かる。また羽柴家が長年に治めていたため、戦になった時には領民が羽柴勢に加勢する恐れもあり、本国の越前加賀から外れて孤立した城のために援軍も求められない。以上の点から勝豊が将兵の犠牲を考えれば降伏したとしても仕方ない。養父勝家との不仲などは二の次の事情であったかもしれない。

「ゴホッゴホッ」

 勝豊はここ数日咳き込みがひどかった。

「どうされた伊賀(勝豊)殿?」

「いえ別に。それで進軍はいつに?」

「本日にでも北に向かいまする」

「ぜひ我らに先陣を! 出陣の準備は出来ていますゆえ!」

「承知した。すぐに準備にかかって下され」

「ハハッ」

 降伏した敵将を、すぐにその敵方への先陣にするのは当時の常識だった。勝豊は秀吉に下命される前に願い出た。そして勝豊勢も入れた羽柴勢は五万の大軍で北上した。

 

 柴田勝家は北ノ庄を進発した。雪を押しての強行軍である。池田恒興、中川清秀、高山右近、丹羽長秀は降伏、滝川一益は病で息子たちはお家騒動、氏家行広は敗退、勝家の耳に入ってくるのは悪い知らせばかりであった。

 何より養子勝豊の裏切りは衝撃であった。考え直せと書状を送ったが勝豊は黙殺した。柴田軍は南下する。そしていよいよ羽柴勢の敵影を補足した。近江柳瀬に到着し内中尾山を本陣としてその南に砦を築き将兵を配置した勝家。

 第一線、別所山に前田利家、橡谷山に徳山則秀と金森長近、林谷山に佐々成政。第二線、行市山に佐久間盛政だった。

 

 羽柴軍総大将である羽柴秀吉も柳瀬に到着した。文室山に登り敵情を視察して決戦が近いのを悟り将兵を配置した。

 第一線、左福山に堀秀政、北国街道に小川祐忠、堂木山に山路正国、神明山に木村重茲。左福山と堂木山の間には壕を掘り、堤を築き、棚を設けて各備えの連絡を密にし、第二線は田神山に稲田大炊、岩崎山に高山右近、大岩山に中川清秀、賤ヶ岳に桑山重晴を備えた。丹羽長秀は琵琶湖北方の防備にあたり、その子の長重は敦賀方面の監視をし、細川忠興は一度国許に戻り水軍をもって出陣し越前の海岸をおびやかす。

 

「そうか、海上の封鎖は細川か」

  若狭水軍頭領の松浪庄三は部下の報告を受けていた。

「へい、そのうえ柴田支持の若狭水軍は商人司の護衛で現在博多にいる、と云うニセ情報が効いたようで、こちらへの警戒はザルにございます」

 ここは日本海にある若狭水軍の砦。秀吉の挙兵を知った水軍頭領の松浪庄三は羽柴に向けて、いや柴田にもニセ情報を流した。水軍は博多にいると。しかし実際は水軍すべてが本拠地の砦にいたのである。

「お頭、吉村様がお見えです」

「丁重に通せ」

「へい!」

「庄三殿!」

「お待ちしておりました、直賢殿」

 庄三の娘の那美が直賢に茶を出した。

「粗茶ですが」

「頂戴します」

 柴田家商人司の吉村直賢は庄三個人の友であり、水軍の仕事の協力者であるので水軍内部に一目二目も置かれていた。特に一度は女郎に落ちた妻も大切にして側室も持たない事から水軍の女たちからは絶大な人気も持っていた。那美は直賢の顔を見て少し頬を染めて部屋を出た。

「やれやれ、とうぶん砦の中の女たちが賑やかになりそうだ」

「ん? 何の話だ庄三殿」

「いやいや、こっちの話でございます」

「ところで…」

「はい」

「かの地に注文の品、しかと用立てました」

「そうですか!」

「あと金銀五千貫、兵糧七万石にございます」

「これは過分な! 部下たちも喜びましょう!」

「いえいえ、金銀と兵糧は貴殿たちが受け取る正当な報酬にございます。庄三殿たちの護衛があるからこそ、我ら柴田の商人司は海の交易ができるのでございますから」

「いやいや、相変わらず直賢殿は持ち上げるのが上手い」

「商人は舌がメシの種ですからな」

「ははは、しかし無茶な注文によう答えて下さいましたな」

「なんの、これは我らにとっても生死を賭けた戦いにございますからな」

「ふむ、して安土の水沢殿はいかがか?」

「幸いにして羽柴の襲来は安土の築城にメドがついたあたり。防御の高さは大殿がいたころより上こそあれ、低い事はないでしょう。篭城そのものに負けはないと思います。しかし問題は近江柳瀬の…賤ヶ岳における戦いにございます。羽柴に機先を制されましたからな。明らかに柴田の旗色が悪い。安土を守りきっても越前が先に滅ぶ事もありえます」

「ふむ…」

「とはいえ…今の殿にできる事は安土を守る事が任務でござろうから…」

「いや…」

「え?」

「あの若いのは隆家の養子であり、そして我が斉藤家の兵法を継ぐもの。ただ座して城を守っているはずがない」

「龍興殿…」

「しかし安土城か…」

「安土の地が何か?」

「…隆家ならば…こう読み…そして…」

 独り言をブツブツ言いながら龍興は考える。

「龍興殿?」

「よし!」

 龍興は膝を叩いた。

「誰ぞあるか!」

「お呼びでお頭!」

「おう、水軍を南に出撃させる!」

「細川と戦うので!」

「いや、事は秘密裏を要する。細川とは接触せず若狭に上陸して南下し琵琶湖を経て安土を目指す」

「安土に? 何をなさるつもりか!?」

「直賢殿、貴殿は朝倉の時代から堅田衆と懇意でありましたな」

「え? ええまあ、琵琶湖流通には堅田の衆の協力は不可欠ゆえ」

 堅田衆とは琵琶湖の湖賊である。信長包囲網の中では朝倉氏に加担して信長に対抗するが、やがて屈服した。信長はそのまま彼らを琵琶湖流通で使うと同時に経済的な特権もほぼ認めていたのである。本能寺の変後はその支配から離脱していた。

 吉村直賢は元朝倉家の勘定方であったので堅田衆と知己を得ており、柴田の琵琶湖流通でも大いに彼らの助力を得ていたのである。

「彼らを説いていただきたい」

「柴田に助力せよと?」

「いや水沢隆広の助力をせよと」

「殿に?」

「織田政権の中では明智の支配下にあった堅田であるから、明智を討った水沢への助力は難色を示すかもしれませぬ。しかし連中の耳にも斉藤利三の娘が水沢家の養女となり、光秀の四女が丁重に庇護されている事くらい届いておりましょう。何より坂本攻めにおける水沢隆広の明智家への至誠も。明智遺臣、今こそ立つ時ではないか」

「確かに…」

「現当主、堅田十郎にお伝えあれ。『賭け時を誤ってはならぬ』と」

「承知いたしました」

「あっははは! 思えば戦国の負け犬である、斉藤家、朝倉家、明智家の生き残りが一人の若者を勝たせるために再び立ち上がる! 痛快ではないか! あっははははは!」

 

 羽柴軍は安土城を包囲している。自分の城の外周すべてが敵兵に埋め尽くされると普通は城内の士気は激減する。糧道絶たれ、水源も絶たれるからである。

 それを見越してか、羽柴軍からは城内の水沢勢に容赦ない心理的圧迫をかける。絶え間なく陣鐘と陣太鼓が轟き、あざ笑うように鬨の声をあげる。城攻めの寄せ手側が取る手段の月並みな戦略であるが効果は絶大である。

 だがこの城攻めの場合、相手方の事情が違っていた。城の普請、生活用品の仕入れ、本拠地からの物資輸送も直接自分たちでやっていたのだから城内の女たちや年寄りたちも水や塩、食料の備蓄が豊富なのは知っている。

 また広大な城の敷地内には田畑と漁場もあり、三千二百の兵数とその家族たちだけならば、ゆうに二年は持ちこたえられる。城下町は無くても安土城は一つの小規模な城下町さながらの自給力があった砦なのである。また琵琶湖側には強固な防備柵を幾重も設置してあり、湖上からの侵入も無理であった。

 隆広は非戦闘員である女子供年寄りに『この城ならば十倍の兵力以上でも大丈夫だ』と城の防備力と備えについて隠さず説明して安心させた。それは兵にも伝えられ、城内一人一人に城攻めを受けている悲壮さがなかった。

 

「石田の佐吉の申す通りでござった。草(密偵)に安土を探らせたところ、食糧の確保は万全、城の一部が浮き城で、かつての天主近くには巨大な井戸、水が尽きることはない。小一郎(秀長)殿、包囲しても士気の削減はさほど望めますまい」

 と、浅野長政。

「鬨の声を浴びせ続ければ効果はありましょう」

 と、中村一氏。

「あまり効果は上がっていないと草から報告が来ている。こちらの睡眠事情もあるゆえ一日中に鬨の声を続けるのは無理なのは明白。交代して睡眠を取り、日中は普通に野良仕事をし、軍馬の世話や鉄砲の整備をしてくさるとの事じゃ」

 一氏の問いに答える長政。

「ふーむ、そこまでの安心を城中の者に植えつけた美濃を褒めるべきであろうな」

「感心している場合ではございませんぞ小一郎殿! あれだけの堅城、とうていチカラ攻めは無理。とすればいぶり出すしかないが篭る利点を知る美濃は出てはくるまい! 今の安土には支城もないゆえ、支城を襲って引きずり出す後詰の計もダメ、城下町もないから町を焼いて引きずり出す事も出来ない。琵琶湖の広い堀と城壁の高さで火矢も届かないから安土山の木々を燃やしていぶり出す事もできない。八方塞がりではないか!」

 いかに包囲だけしていれば良いと云う戦術でも、士気への影響を思うと軍事行動を何一つ起こさないと云うわけにもいかない。水沢勢が城外に出てきて叩ければ、その後に隆広が城に戻ったとしても降伏を呼びかけるか、防備の兵がいなくなった箇所を見つけて攻撃できる。

「そうだ!」

 手のひらをコブシでポンと叩く中村一氏。

「鬨の声ではなくて、美濃への悪口雑言をずっとヤジらせれば良いのでは? 特に美濃は愛妻家で有名、その悪口を言えば出てくるのでは?」

「そんな事で出てくるかのう…」

「やってみなくては分からないではないですか弾正少(長政)殿! どうでしょう秀長様」

「よし、やってみよう。孫平次(一氏)頼む」

「承知!」

 

 中村隊はすぐにヤジ攻撃に入った。最初はさすがに女の悪口を言うのに気が引けたか隆広個人の悪口しか言わなかった。

『おい勝家の色小姓出て来い!』

『尻の穴でお城をもらったか腰抜け美濃!』

 隆広は平然としていたが部下たちは激怒。

「あの悪口雑言許せませぬ! 出陣のお許しを!」

 出陣を隆広に願い出る奥村助右衛門。評定の間で軍務の指示書を書いていた隆広は筆を止めた。助右衛門の後ろには出陣を願う他の将兵もいた。

「奥村助右衛門永福」

「は、はい…」

「そなたは当家の家臣筆頭ぞ。逆にいきり立つ兵らを抑えねばならぬのに、かような短慮を見せてどうするのか」

「しかし、ああまで言われて!」

「羽柴はああして我らをいぶり出すしか勝機はないと知っているからだ。言わせとけ、無視をせよ」

「確かにそうでございますが! ああまで言われて何もせぬは士気に関わりまするぞ!」

「…? どうした慶次、妙にデカい声で」

「それがしの声のデカさは元からにござる! 殿、出丸からの鉄砲射撃でも良いからここは」

「…普通の声で言ってみよ」

「…い?」

「だーッ! それがしも前田様と同意見にございます! ここは討って出ずともせめて我らの投石か鉄砲で!」

「いいから普通の声で言ってみよと申している主水!」

『嫁さんオカメ~ッ!』

「……」

『ヘチャムクレの女房~ッ!』

「……」

 

 家臣たちは思った。“ああ…終わった…”と。

「ブッ殺す羽柴め!」

 文机の筆を窓の外にブン投げる隆広。そして脱兎の如く評定の間から出て行った。隆広の傍らにいた奏者(秘書)番の大野貫一郎は止める間もなかった。

「行っちゃった…」

「アッタ~。気づいていたよ羽柴め、奥方のワルクチ言えば一発だって事」

「そ、そんな事より殿を止めるぞ慶次! あんな頭に血が上っていてはやられに行くようなモンだぞ!」

 一転して今度は家臣たちが隆広を止める立場となった。鎧もつけずに城門に走る隆広を助右衛門と慶次が慌てて止めた。

「な、なりませぬ! 羽柴の術中に!」

「離せ! あやつらさえを侮辱した! オレのワルクチなら笑って聞いてやるがさえのワルクチは許さん!」

「殿!」

「さえ…」

「堪えて下さいませ。むざむざ殺されに行くようなもの」

「だがさえの事をあいつら…」

「殿がご自分を悪く言われても堪えるように、さえも自分のワルクチは堪えます。だから…」

 さえは泣いていた。

「羽柴が殿のワルクチを言っている時、さえは悔しくて涙が止まりませんでした…。そして今、さえのワルクチを聞いて我を忘れるほどにお怒りになられた殿が…さえは嬉しゅうございます」

「さえ…」

 手を繋いで見つめ合う二人。完全に二人の世界に入ってしまった。

「うん、二人で堪えよう」

「はい…」

「身重のそなたなのに…苦労をかけるな」

「苦労などと思っておりませぬ」

 そして抱き合う二人。家臣たちは完全にカヤの外。必死に諌めにきた自分たちがアホらしくなってきた。赤面し苦虫を噛み潰したような顔で『もう勝手にやってくれ』とその場を後にしようとした。だがその時、

 

「アイツツ…」

「さえ?」

「あ…。と、殿、赤ちゃんが…!」

「と、ちゃ、ぴ! おい皆! 羽柴なぞどうでもいい! さえが産気づいたぞ!」

「た、大変! 急ぎ奥方様を城内に!」

 さえに付いて来た八重が男たちに指示してさえを城内に運ばせた。

「さえ…!」

「大丈夫、二度目ですから…アイタタ!」

「さあ、殿方は出て行ってください! これからお産です!」

 八重は腕をまくって出産にかかった。さっきと異なり評定の間は静まりかえった。相変わらず城の外からヤジが聞こえるが隆広の耳には入っていない。そして…。

 

「オギャア、オギャア」

 

「やったあーッ!」

 評定の間で飛び上がって喜ぶ隆広。一緒にいた家令の監物と手を取り踊り出した。三人目の子である。

「おめでとうございまする殿!」

 監物が云うと

「「おめでとうございます殿!」」

 家臣たちも揃って言った。

「ありがとうみんな! もう羽柴が何を言ってこようと腹も立たないや。あっははは!」

 祝福を受けたあとに隆広と監物はさえの待つ部屋へと駆けた。

「さえ!」

「殿…」

「ようやった! どちらだ!?」

「姫にございます!」

 八重が答えた。

「女の子か! これで当家は男女二人ずつ、座りがいいな!」

 八重の手で産湯につかり、そして生まれた子を抱くさえ。

「私も今度は女の子がいいなと思っていたのです…」

「うんうん! きっと美女になるぞ! おう、もう名前は決まっているんだ」

「え?」

「ほら、竜之介を生む時、女の子なら監物と八重に名づけを委ねようと言っていたろ? それでオレと三人で一度遊びだが姫の名前を申し合わせないで手に書いて見せ合った事があった。そしたら三人とも同じ名前を考えていたんだ。すごいだろ」

「そんな話…。私聞いた事が…」

「そりゃそうだ。女の子が生まれるまで控えていたとっておきの話だ。監物、八重」

「「はっ」」

「もう一度再現するぞ。筆を取れ」

「「はい」」

 そして三人は手のひらに生まれた姫の名前を書いた。

「いいか」

「「はい」」

「せーの!」

 三人の手のひらには『鏡』と記してあった。

「鏡…?」

「そうだ、そなたの父の景鏡殿から一字もらった。考える事はみんな同じだ。あっははは!」

「と、殿…。私嬉しい…」

「オレも嬉しい! さあ姫、本日からそなたの名は鏡姫だ!」

 

 もうスウスウと眠り出している鏡姫。部屋の外でずっとその様を見ていた福。実の姫が生まれてしまったので養女である福は不安になった。もう自分は放っておかれてしまうのではないかと。

「何している福、ここへ参れ」

「は、はい…」

 隆広の横に座る福。

「ほら福、妹だぞ。抱っこしてみるか?」

「い、良いのですか?」

「何を言っている。お前は当家の長女だぞ。この子のお姉ちゃんだ」

「ほら福、妹よ。抱っこしてごらん」

「は、はい!」

 福は鏡を抱いた。

「あったかい…」

 鏡を抱く福を優しく見つめる隆広とさえ。福の目にだんだん涙が浮かんできた。

“お前は当家の長女だぞ”

 その言葉がたまらなく嬉しかった。

「福、いいお姉ちゃんになる…」

 この時、初めて福は隆広への警戒心を解き、そして何故父の斉藤利三が自分を敵将であった水沢隆広に託したのかが分かった。父の利三は水沢隆広が自分を大事にすると云う事が分かっていたのだろう。父上の仇なんかじゃない。父上が認めた方なんだ。実の娘が生まれて不安に思った自分が恥ずかしい。鏡を抱く福を寄せて抱く隆広。

「今に福と鏡は柴田家、いや畿内、いやいや日の本でも評判の美人姉妹になるぞ」

「ホントに?」

 もう隆広と福の間に溝は無い。隆広とさえはそんな福の変化に気づく。鏡が生まれた事も嬉しいが、福が心を開いてくれたのも嬉しい。

「そうとも絶対だ! しかしなあ…」

「え?」

「いずれどこぞの男に嫁にやると思うと…」

「あははは、もう二人の将来の心配にございますか」

「気が早いですなあ殿」

 少し嬉し涙も浮かべている八重と監物。

「福も鏡も水沢隆広様のような殿方に嫁げると良いのですが」

「うう~! さえ、嬉しい事を言ってくれるなあ」

「うん! 福も父上のような方の妻になりたいです!」

 福の言葉に歓喜する隆広。部屋には家族の笑い声が心地よく響く。羽柴との戦いのさなか、しばしの幸せを味わう水沢家だった。


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