中村一氏のヤジ作戦も結局実りはなかった。
「うーん、女房のワルクチ言えば一発と思ったのだがなあ。伊右衛門(山内一豊)も普段温和だが千代殿を少し悪く言われると激怒する。愛妻家の心情を掴んだ巧妙な策と思ったに」
「ならばもう攻めずとも良いわ。羽柴は動かず包囲するだけで良い。岐阜で三法師君を得て、越前にて修理亮(勝家)殿を討てば美濃も気持ちが変わろう。この二万にさらに五万六万増えて包囲され、かつ父の修理亮殿なくば玉砕か降伏しかない。前者を選ぶ可能性もあるが部下を大事にする性格ゆえ、結局は後者を選ぼう。我らは美濃をここで足止めすれば良い。親父の修理亮殿の元に行かせないのが我らの務めだ」
秀長の言葉に中村一氏は軍机を叩く。
「忌々しいのう! 二万の我らが二十歳ちょいの小僧に手出しできぬとは!」
「それだけの小僧と認めようではないか。親父も名将だが息子はその上を行く名将と来ている。武の親父に智の息子、あの親子を合流させてはならぬ。さて…」
秀長は床几を立った。
「兄者と柴田勢との戦い、しばらくはかかろう。我ら安土包囲軍の将は兵に抜け駆けを禁じ、かつ万一の時はいつでも戦えるように士気を下げずに備えておく事じゃ。念を押して言うが、相手は上杉謙信さえ寡兵で退けた水沢隆広と云う事を肝に銘じよ。交戦に至らずと分かっていても油断はするな」
「「ハハッ」」
「特に秀次!」
「は、はい!」
「功を焦るでないぞ」
「はっ!」
一方、安土城の評定の間。
「さて、ヤジ攻撃も通じぬと分かり羽柴も長囲策としたようだな」
「そのようにございます。しかし殿、奥方のワルクチを言われたら、ああすぐ頭に血が上るようでは困りまする」
「そういう助右衛門だって、津禰殿のワルクチ言われたらどうするんだよ」
「そ、それがしもそりゃあ怒るでしょうが、殿はこの安土の城を預かる身! 軽挙は困りまする!」
「うん、以後は気をつけよう。しかし助右衛門は芝居がヘタだな」
「武人にかような特技はいりませぬ」
あの羽柴の悪口雑言作戦。隆広はいずれやってくるだろうと見込んでいた。だから奥村助右衛門に時を見計らい出陣を請うよう指示していた。そしてそれを否と自分が述べて憤る家臣たちを押さえる算段だった。だがついつい、さえのワルクチを言われて隆広はキレてしまった。
「しかし、また芝居を頼む事になる」
「ええ! もうご容赦下さいませ。そうだ、慶次お前…」
「おっと! これから兵の訓練時間だ。失敬!」
さっさと部屋から出て行ってしまった。
「あいつ、面倒くさそうなのはみんなオレに押し付けおって!」
「ははは、それが筆頭家臣の勤めだ。観念してオレの芝居に付き合ってほしい」
「はあ…」
「いいか、もうすぐ羽柴陣に…」
さて、こちらは羽柴の陣。二万もの人間が集まると、自然そこで商売をしようとする者が現れる。安土を包囲している羽柴陣に呼びもしないのに、遊び女や商人、芸人が続々とやってきた。
「どこから参った?」
と芸人や商人に訊ねる秀長。
「いやでんなぁ総大将様、ワテらは羽柴様の領地のモンです。羽柴家の方たちはワテらの大事なお客やのに、みぃんな東へと向かって行ってしもた。これじゃワテら商売あがったりにございやす。さすがに近江の北まで行くのは無理やけど、安土までなら摂津と山城も羽柴領となったわけですし通過はできるっちゅうモンです。ワテら、はるばる播磨からやってきたのですわ!」
「ずいぶんといるな…」
「へい、途中の摂津や山城でも同業者に声をかけやしてね。みんな次の天下様かもしれない羽柴家の方たちにお覚えを目出度くしてもらおと思っておるのですわ」
長対陣になる事は秀長も分かっていた。人間する事がないとロクな事をしない。そろそろ将兵を長対陣に飽きさせない方法を執ろうとしていた秀長には渡りに船だった。
「芸人、遊び女は仕方ないとしても、商人らは当家や織田家から発行されている商人手形があるだろう。見せよ」
「へい、おいみんなァ!」
商人たちは秀長に身分を証明する商人手形の木簡を見せた。
「ふむ、間違いない。よし当陣にて商いを許す」
「「おおきに!」」
羽柴の若い将兵たちは陣の外にたくさんいる遊び女を見てはしゃいでいた。酒も荷台に積まれて山とある。同僚に頼み込んでゼニを借りている者もいた。
(いかに安土の堅を示して城内の者を安心させたとて、敵勢が眼前にいて緊張がないはずがない。敵陣のこちらの楽しい陣中を見ればどうなるか…。兵士も長対陣で飽きない。一石二鳥だ)
この知らせは安土城内の隆広にも届いた。
「そうか、敵は長対陣の構えだな。遊び女とドンチャン騒ぎとはうらやましい」
「かようなノンキな事を言っている場合ではございませんぞ。敵陣の楽しい宴を見れば城内の士気の激減は必至でございます」
「心配しなくていい主水。敵陣にそういう動きがあったら皆に言おうと思っていた事がある。幹部を招集せよ」
「しょ、承知しました!」
羽柴陣は連日連夜宴をしていたが、羽柴秀長は一滴の酒も飲まずに遊び女も近づけさせなかった。だがある日、安土に忍ばせていた密偵から
「なに? 噂は本当であったと?」
と、知らせが入った。その密偵蝉丸は秀長直属の忍びで報告はいつも正確だった。
「は、昼間から女を抱き酒を飲んでおりまする」
「確かか?」
「はい、拙者この眼で見ました」
「信じられん…。包囲の圧迫を酒色に逃げるような男ではないはずなのに…」
羽柴の陣には、十数日前から城代の隆広が酒色に溺れていると云う情報が入ってきていた。秀長は無論、浅野長政や中村一氏も、それは水沢の密偵が流した噂と聞き流していたが、確認のために秀長は信頼おける密偵蝉丸を安土に忍び込ませた。そして噂の真偽を確かめさせたのだが、意外にもそれは事実であった。隆広は城内で女と遊んでいた。
「こう言っておりました。『羽柴は攻めてこない。越前での戦が終わるのを待ち、柴田を討ったらオレに降伏を迫るつもりだ。オレはすぐに降伏して、この安土城を手土産に羽柴様の家臣にしてもらう。今は疎遠となったけれども、オレと羽柴様は元々親しい。悪いようにはされないはずだ』と…」
確かにそれは正しい考えだった。秀吉は隆広を欲しがっていた。“忌々しきは美濃”と言ってはいても秀吉は隆広を高く評価している。『あの軍才、行政能力! ぜひ欲しい』と言っていた。
「それで交戦状態に入らぬと読んで遊んでいるというのか…?」
「御意」
「ふむ…。主人を変える事は別段恥ではないが…美濃殿は父の修理亮殿に対して何か言っていたか?」
「はい、やはりご実父とは云え鬼権六と呼ばれる御仁に仕えるのは色々と鬱憤が溜まるようで、ついには六年も前の事のグチまで言っていました。『手取川の戦でオレの云う事を聞いていれば謙信の首は取れた。オレの進言を入れない無能な主君なんてゴメンだ。今さら親子と言われても実感もない。羽柴様は家臣の言葉に耳を貸すお方、これからオレは羽柴様を父と呼び天下を取らせるぞ』と」
確かに秀吉は『手取川で権六が隆広の意見を入れていれば謙信は越後に帰る事はできなかったろう』と言っていたのである。酒が入り本音が出たか。
隆広には羽柴陣営の幹部に親しい者がいる。石田三成とは無二の友、そして黒田官兵衛、仙石秀久、山内一豊、稲田大炊とも友誼を結び、秀長自身とも、何より当主の秀吉と親しかった。羽柴家の武将になっても明るい未来は約束されていると言っても過言ではない。
「知恵者らしく打算を選んだか…。まあ美濃殿にも家族家臣があろうからな…。とにかく交戦状態に入らないと確信しているのはさすがだ。その通りなのだからな」
そして備将の羽柴秀次、毎晩遊び女と戯れていた。部下と酒宴の毎日、みなが『極楽陣中』と呼んでいた。
「いや~こんな城攻めなら毎日したいものですな殿」
「まったくだ、しかし叔父上も慎重な事よ。敵将の水沢隆広は女と遊んでいると云うではないか。今なら攻めれば落とせるぞ」
「秀吉様は世継ぎに於次丸秀勝様(信長四男)を考えているそうな。しかしここで大手柄を立てれば秀次様が…」
「逆だ。たとえ手柄を立てても抜け駆けを叔父上は嫌う。忌々しいが秀長叔父の言うとおりにするしかない。何よりこんな極楽陣中、もっと楽しみたいではないか」
「はっははは、確かに!」
一方、別陣の浅野長政の陣では
「岐阜ではそろそろ信包が落ちそうだ。家中が羽柴派と柴田派で分裂しているらしい」
と、浅野長政。中村一氏が訊ねてきており酒を酌み交わしていた。
「賤ヶ岳では殿がうまく長期戦に持ち込んだとか。大軍とはいえ兵を三つに分けて大丈夫かと思ったが、さすがは殿だ。あとは三法師君を手に入れて越前に攻めるだけですな」
「うむ」
浅野長政の杯に酒を注ぐ一氏。
「しかし孫平次(一氏)…。我らこんな事をしていて良いのやら。確かに長対陣に酒も女もなければ皆イラつくであろうが、これでは厭戦気分が蔓延してしまう」
「確かに…。この辺で一度美濃殿に降伏の使者を出してはどうかと思うのでござるが…」
「ムダよ。越前が落ちぬ限り降伏はない。美濃も羽柴がそう思っているのは分かっていよう。城の内部を探られるだけと見られ使者は門前払いされよう」
「ふう、岐阜と賤ヶ岳の動きを待つしかないか…」
で、一方の安土城はと云うと
「ははは、戦などしていられるか。せっかくこんな大きな城も手に入れたんだ。もう柴田の一家臣ではない。オレは天下人だ! あっはははは!」
「きゃあ、隆広様ステキ!」
「うんうん、お前たちにもいい思いをさせてやるぞ」
水沢隆広も女に囲まれて上機嫌だった。
「殿!」
「あ、なんだ助右衛門」
「なんと情けない! 敵に囲まれた圧迫を女色で忘れる所存か!」
「忘れてねえよ、この城があれば羽柴のクソ猿の手下ごときハナクソよ!」
「殿…!」
天井裏でその有様を見る秀長の密偵蝉丸。
(今日もこんな有様か。やはり六倍以上の軍勢の重圧は城代には負担なのだろう。現実から目を背けて女に溺れるか。天才と聞いてはいたが挫折を知らぬ分モロい。窮地に陥ればこんなものかもしれぬ…。今なら美濃守を討てるかも…)
しかし、討てば退路は閉ざされ殺される。いかに城代はあの有様でも警護するのは藤林。それを知る秀長も蝉丸に隆広暗殺を下命していない。
(ふん、こんな男と刺し違えるのもつまらぬわ…。帰るか)
蝉丸の気配が消えた。
「…去ったな」
「そのようね」
助右衛門の後ろ、そこに水沢隆広は立っていた。
「お疲れさん、白」
「はい」
「くノ一たち、早く服を整えてくれ、刺激が強い」
「「はーい!」」
くノ一たちは瞬時に忍び装束に姿を変えた。密偵が見たのは白が影武者として化けていた隆広である。
他人が隆広の容貌を論ずるとき、真っ先にあげられるのが『美男の優男』と云う事だった。白も隆広に劣らぬ美男の優男なので影武者にはうってつけだった。
また、女の色香で骨抜きになってしまう者には、この任は無理である。白はつい先月に葉桜と云う里の娘と結婚したばかり。その娘もくノ一で、影武者隆広を囲む女の一人にいる。本心からデレッとしたら後で何をされるか分かったものではない。
水沢側が羽柴陣に侵入するのはさほど困難ではなかったが、堅固な城塞安土城、ここに侵入するのは秀長の信頼厚い蝉丸も容易ではなかった。そう何度も侵入は出来ない。隆広の使う藤林の忍びの力量は秀長も知っている。だから露見されやすい火付けや流言などの命令は与えず、隆広の身辺だけ探り戻る事を蝉丸に命じていた。
城内の警備を担当する藤林は影武者の白が演ずる隆広の体たらくをあえて見せるようにしていた。羽柴の密偵の侵入をすぐに見破り白に知らせ、酒色の場を作り、そして密偵をその部屋へと気づかぬように誘導させ、体たらくを見せる。これが隆広から藤林に与えられた下命である。
「ホントに…殿も酷な任を下命される」
「そんな事言ったって仕方ないでしょ。大将を敵の密偵の前に立たせるわけにもいかないし」
と、白の妻の葉桜。そして奥村助右衛門は足を崩して頭を掻いた。
「ふう…。殿ホントにこんな事の繰り返しで良いのですか?」
数日間ヘタな芝居を強いられている助右衛門は少しゲンナリしていた。慶次に代わってくれと何度か頼んだらしいが『オレに芝居は無理』とかわされてしまっている。
「しかしあの密偵、スキがあるよう見せかけているのに影武者の白を殺そうとする動きはないわ。さすがに殺した後は退路がなく殺されるとは見ているようね」
と、舞。
「ああ、今のところ羽柴は優勢、密偵とはいえ勝ち戦の美酒に酔いたいものよ。死んでも城代と刺し違える、なんて事は思うまい」
と、奥村助右衛門。隆広は白の横に座った。
「もう一押しするぞ」
「え? 今度は何を」
「君臣の仲が上手くいっていない事を見せよう。ここで助右衛門と慶次がオレを強諌し、激怒したオレが二人を幽閉させる展開に持っていく。水沢隆広は自分の両翼を自分で切った大マヌケと思わせる。そして同時に敵陣にオレの自堕落ぶりをさらに喧伝する。秀長殿は慎重な方よ。油断させるにはオレがバカ大将になるしかない。そしてバカ大将になればなるほど油断を誘える。『三人、之を疑えば慈母すら信ずる能わず(あたわず)』だ。続けるぞ」
『三人、之を疑えば慈母すら信ずる能わず』とは唐土(中国)の故事である。孔子の高弟である曹参(そうしん)と同姓同名の男がいて、その男が人殺しをしたのだが、それを聞いた者が孔門の曹参と早合点して曹参の母に知らせた。母は信用しなかったが次から次へと同じ知らせが入ってくるので、慈母と近隣に尊敬されていた曹参の母でさえ、ついに疑念を抱き、息子が人殺しをしてしまったと思い込んでしまったのである。
隆広は自分の才幹や徳行が、とうてい古の大賢人曹参の比ではないと思っているし、いかに秀長が自分を認めていても、その信は曹参の母が曹参を信じる度合いに及ぶものではないと分かっている。初めは単なる噂や中傷と思って相手にしなくても、何回も、そして多くの者たちから言われれば信じるにいたる。隆広は、この中傷の恐ろしさを逆用したのである。
「では早速、先の密偵が敵陣に帰ると同じして噂流せば効果もあると」
と、舞。
「うん、遠慮はいらないからオレのワルクチをどんどんバラまいてきてくれ」
「「承知しました!」」
舞、くノ一たち、そして六郎や他の忍軍もすぐに羽柴兵に化けて城から出た。
「さて、白、助右衛門」
「「はっ」」
「慶次も呼んで芝居の稽古だ」
「はあ…やっぱりやるのですか」
ゲンナリする奥村助右衛門。
「当たり前! 白も上将の二人が相手とて遠慮せずやるんだぞ!」
「は、はい」
(凝りだすと止まらないんだからもう…)
「なんか言ったか白!」
「い、いえ何でも! あははは! …はあ」
密偵蝉丸は数日後に見た。水沢隆広が自分の両翼とも言える奥村助右衛門と前田慶次の強諌に激怒して幽閉したのを。
「敵も色々大変だの…。まあ六倍以上の兵に囲まれれば城内には悲喜こもごもあろうが」
報告を聞いた秀長は苦笑した。
「それでそのまままだ遊びは続いているのか?」
「はい、ですが最近では女たちにも呆れられている有様です。正室と側室にはその遊びで夫に愛想を尽かし、周りにいる女たちも命令で渋々の様子にございます」
「美男子の神通力もそう続かんか」
白の隆広の影武者ぶりはだんだん堂に入ってきた。秀長の密偵が見たように、自堕落な隆広を演じ続けた。ハタから見て涙ぐましい努力であった。これは大将の妻として私も協力しなければならないと、さえとすずも白の芝居に付き合おうとしたが、密偵の前に大将の正室と側室を立たせるわけにも行かない。英と月姫がさえとすずを演じた。
「もうさえは殿に愛想が尽きました!」
と、さえを演じる英。白は両腕に着物がはだけた舞と葉桜を抱いている。
「おう怖い怖い、最近抱いてないからと言ってスネるなよ~」
「あの凛々しい殿はどこへ行かれたのです! 毎日朝からお酒を飲んで! すずは殿に失望しました!」
同じくすずを演じる月姫。天井裏の蝉丸は英と月をさえとすずと疑わず、思わず苦笑し見た光景を秀長に報告したのである。
「ふう」
密偵の気配がなくなると白は額ににじんだ汗を拭いた。それを見計らって六郎が部屋に入ってきた。
「最近のお前の芝居は鬼気迫るものがあるな」
六郎が水を茶碗に入れて渡した。
「代わってくれよ…」
「今さら無理を言うな。殿のような美男の優男である自分を恨め。あっははは」
「ねえねえ白殿! 次はどんなお芝居しましょうか!」
「英殿…。遊びじゃないのですよ」
「わ、分かっています。でも何だか楽しくて。ねえ月殿」
「はい、それにしても白殿のだらしない顔が何とも可笑しく、吹き出すのを堪えるのが大変です。うふふ」
「月殿の芝居はヘタですが…」
「何か申しました?」
「いや別に…」
「ちょっと白! さっき私の乳房に少し触れたでしょ!」
と、白の左腕に抱かれていた舞。着物を正しながら叱り付けた。
「なに! ホントか白!」
怒る六郎、実は舞といい仲になっていた。
「私も見た! 女房の私の乳には触んないで何で舞のに触んのよ!」
妻の葉桜に頬を抓られる白。
「イテテッ! そんな事してないだろ~ッ! なんでこんな損な役目しているのに怒られなきゃならないんだよ~ッ!」
再び羽柴秀長の陣。
「そうか、正室と側室にも愛想を尽かれるとはな。天才的な男と思っていたが、天才な分だけ、窮地に立つとモロいやもしれぬな」
「殿、このまま安土へ攻めるか幹部に内応を促してみては?」
「ふむ、奥村と前田の両将が幽閉された場所は掴んでいるか?」
「無論です」
「幽閉から放つ事はできるか?」
「何とかなりましょう」
「よし、二人を調略しよう。明日まで密書を書いておくので、明日にまた侵入してくれ」
「承知しました。して殿、岐阜と賤ヶ岳の方はいかが相成っておりますか」
「賤ヶ岳は相変わらず睨みあいだ。柴田勢はお家芸でもある山岳戦に持ち込もうとし、兄者は平野部での合戦に誘い込もうとしている。まだ当分動かぬな」
「で、岐阜は?」
「そろそろ落ちそうだ。三法師君を得れば玉はこちらのもの。さすがに柴田勢に『弓は引けない』と思わせる事は無理だろうが、三法師君あらば信孝と修理亮殿を討つ事も正当化されよう。このまま上手く行けば安土を落としたうえ、長浜で小六殿と合流し賤ヶ岳に向かえるかもしれぬ」
「秀吉様が美濃殿を欲しがっている…と云うのはどういたします?」
「才は認めるが、窮地に立てば酒色に溺れるようなモロい天才に用はない。兄者には『見込み違い』とワシから述べておく。次に侵入して美濃殿を暗殺できる機会あらば遠慮せず討て」
「はっ!」
そしてこの日、初めて秀長が遊び女の酌で酒を飲み、そのまま女を抱いた。隆広はこれを待っていたのである。羽柴陣に潜り込ませていた藤林忍びからその知らせが入った時、隆広は『我、勝てり』と立ち上がったと云う。
陣中で酒を飲むのも女を抱くのも珍しい事でも何でもない。しかし秀長は時々晩酌程度に酒をチビチビと飲んでいたものの、女は抱いていなかった。遊び女の酌で飲み、かつその女を抱いたところに用心深い羽柴秀長が敵との対峙中に油断を見せたと云う事になる。
人一倍用心深く慎重な羽柴秀長、かつ敵城を包囲作戦中の総大将なのだから、その用心深さと慎重も、さらに倍増しているはず。だが秀長は女の酌で酒を飲み、女を抱いた後は痛飲した。つまり秀長は隆広にとって羽柴勢の油断を推し量る絶好の人物であったのである。
秀長がいよいよそうなった。もはや羽柴全軍に厭戦気分が蔓延している証拠である。相手の水沢も戦わないと分かっているから攻撃もないと思っている秀長。ついに隆広は秀長をだましたのである。浅野長政と中村一氏なる猛将も戦場で戦ってこそ活躍の場がある。隆広は両名の存在の意味を無くさせた。
さすがの両名も厭戦気分にひたり、泥酔とまではいかないが最近はほろ酔いとなるまで痛飲していた。隆広は時に『無能』と思わせる事が最大の叡智である事を知っていた。
六郎が琵琶湖をもぐり、羽柴の包囲陣を横に南に走った。羽柴陣から南に三里の平山『帯山』、そこに『向かい立ち鶴』の軍旗と『巴』の家紋の旗をなびかす陣があった。蒲生氏郷の軍勢である。わずか三里しか離れていないところに敵陣があるのに、羽柴は気づかなかったのである。
「おう、六郎であったな」
「飛騨守(氏郷)殿にもご機嫌うるわしゅう」
羽柴秀吉が二条城の織田信孝を討ったと聞いた隆広は羽柴勢が安土に攻めてくる事を予想し、明智討伐で陣を同じくした蒲生氏郷と九鬼嘉隆に援軍を要請した。さすがに羽柴六万と云う大軍に驚きはしたが、両将は最初から羽柴ではなく柴田に付くつもりだった。だから秀吉の加勢要請も突っぱねた。独立を宣言したのは見せかけである。
これは明智討伐において両名が隆広の采配で戦った事が起因となっている。若いながらも明智勢相手に絶妙な采配を執った隆広を両将は評価していた。
そして築城中の安土にも陣中見舞いにも訪れ、建てられる城が信長の築城した安土よりも堅固に生まれ変わる事も理解し、そして物資の豊富さも見た。つまり隆広が城に篭れば絶対に羽柴は落とせないと分かっていたのである。後ろから衝けば挟撃がなり勝てると思っていた。清洲会議の論功行賞でも領地を与えられた両家、隆広がすでに勝家の実子とも知っていた彼らは、この羽柴対柴田の合戦で家を一層拡大するまたとない好機と思ったのだった。
信孝が討たれた直後、隆広は迅速に畿内の柴田寄りの将に援軍要請をした。羽柴軍が安土に来るまでの時間を無駄にしなかった。九鬼家には松山矩久が使者として向かったが、この蒲生家には六郎が使者として当たっていた。六郎が蒲生氏郷の居城に日野城に行った時だった。まず隆広が書いた木簡を差し出した。援軍要請の内容だった。だが六郎が持ってきた二千貫の使用用途については記されていなかった。
「美濃殿はこの大金どうせよと?」
「はい、口頭で述べます」
「ふむ」
六郎は隆広からの言伝を述べた。たった一言だった。
「分かった。さすがは美濃殿よ、ワシも同じ事を考えていたわ」
氏郷は羽柴の安土城包囲軍を殲滅させる作戦全容をそのたった一言ですべてを理解した。
「すぐに準備いたす。して作戦実行の時は…」
「拙者が再び使者として飛騨守様の元へ訪れます」
「ふむ…」
「また…」
「陣を帯山に構えろと言うのであろう?」
「そ、その通りにございます!」
「あっははは! 秀吉は怒らせても良いが、美濃殿だけは怒らせたくないものだ。あっははは!」
後に隆広も“飛騨殿だけは怒らせたくない”と述べている。名将、名将を知ると云う事か。
「六郎」
「はっ」
「飛騨守、委細承知したと美濃殿に伝えてくれ」
「ははっ!」
蒲生家は本能寺の変直後には柴田家への味方を約束していた。そして氏郷は秀吉が織田家に叛旗を翻す事は予想していた。誤算は思いのほかそれが早かったと云う事と、羽柴の大軍である。しかしまだ対処はできると思っていた。
蒲生氏郷は明智攻めでも隆広と陣を同じにしていて、四歳年下の隆広の才能を高く評価していた。また氏郷の妻の冬姫は織田信長の娘であるが、冬姫は好色な秀吉を嫌い、夫に『筑前(秀吉)は女の敵、筑前だけには味方してほしくない』と言った事もあった。無論、妻のそんな言葉で去就を決めるはずもないが、氏郷はたとえ水沢隆広が五倍や十倍の兵に囲まれていたとしても、最初から柴田家に助勢すると決めていた。家老の蒲生郷成が
「すぐに柴田に味方にすると決めるのはどうかと、秀吉の軍勢は破竹の勢いにございますぞ」
と言うが氏郷は首を振り
「秀吉は勝てない」
そう言い切った。
「無論、柴田を勝たせるためには我らの加勢が必要だ。また羽柴に参じても柴田への尖兵を命じられ、単なる手伝いいくさで終わるがオチよ。それに今でこそ羽柴がやや優勢とはいえ羽柴は播磨一国に対して柴田は越前若狭と近江、濃尾を押さえているし、上杉とも和睦した。
そして何より光秀を討った事は大きい。それに秀吉は光秀と同じく主殺し、つまり信孝様を殺した。風は秀吉には吹かない。今は武威で恐れさせて臣従させているだけ。少しでも劣勢になったらアッと云う間に離散するのは必定だ。蒲生は柴田家への味方を貫く。それに柴田がやや劣勢なら、この戦は蒲生の家を大きくするまたとない好機。あと、清洲城でお市様が言ったのを聞いただろう」
「美濃殿が柴田勝家殿とお市様の実子と云う…アレですか」
「そうだ、今回の戦、柴田の若殿にも恩を売っておく好機だ。急ぎ羽柴陣を探り、工作に入る。忍びをかき集めろ!」
「「ハハッ!」」
そして居城の日野城から羽柴勢に悟られないように、少しずつの兵数で出陣し、そして安土より南に三里の平山『帯山』に集合布陣し、隆広の動きを待った。そして…。
「で、六郎よ。いよいよ実行する時と?」
「その通りにございます」
「相分かった」
六郎は氏郷から返事をもらうと、すぐに安土城に引き返した。そして氏郷は部下たちに命じた。
「全軍、仮眠を執れ。長い夜になる」
「「ハハッ!」」
氏郷は賤ヶ岳の方角を見た。
「筑前、つまらぬ野心さえ持たねば長生きもできたろうにな…」
帯山は名の通り、東西に広く連なる平山。ここに安土援軍部隊は集結していた。ここに布陣した蒲生勢と九鬼勢は隆広の作戦敢行の指示を待っていたのである。そして蒲生と九鬼と共に羽柴勢の後背を衝くもう一つの軍勢が蒲生陣の西に陣を張っている。
「やはり恐ろしき美濃、あの男も動かしたか」