天地燃ゆ   作:越路遼介

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安土夜戦

 翌日の夜になった。羽柴の陣地は各将兵寝入りだしたが羽柴秀長は起きていた。

「誰かある」

「はっ」

「蝉丸、今宵に夜襲がある」

「な…!」

「今日は亡き大殿の祥月命日ゆえ酒も女も禁止させたであろう。だがそれは建前、夜襲を見込んでの事よ」

「なぜ今日と分かったのでございますか?」

「今日、そなたは城に侵入できなかったであろう」

「はい、やはり漏れていたのでございますか」

「そうだ、暗殺の命を帯びた忍びを入れさせるわけにもいくまい。昨夜にそなたにああ言ったのは陣中に潜り込んでいよう藤林の忍びに聞かせるためよ。藤林はワシの美濃暗殺の下命を知っていた事となる。それと同時に話していた『美濃を見込み違い』と言ったのも聞いている」

「では…!」

「美濃の体たらくは見せかけよ。藤林がそう何度も城の侵入を許すわけがなかろう。また昨夜ワシが美濃に対して完全に油断したように見せかけるため遊び女を抱いた。飲んだのは水だったがな。それで美濃は『羽柴秀長は完全に油断した』と見る。動くなら今宵であろうと思った。間違いなくこれから夜襲がある」

「お、恐れ入りましてございます!」

「美濃は酒色ではなく策に溺れたわ。まあ二万の我らに勝とうとするのだから、美濃にとっても苦肉の策であったのだろうがな。愚策を用いたと罵る事はすまい」

 秀長は自陣に藤林忍者の侵入を防ぐのは不可能と見ていた。だから彼は隆広の策に乗った振りをした。蝉丸との会話に耳を傾けていよう藤林に羽柴の楽観を聞かせ続けた。

「策士、策に溺れたと云うわけでございますな」

「ふむ、至急、長政殿と孫平次を呼べ」

「はっ」

 甲冑を小姓たちに装着させる秀長。

(策に溺れたな美濃殿! 今までの栄光の足跡がアダになったわ。誰がどう言おうとおぬしが窮地の圧迫を酒色で逃げる男ではない事くらい承知にござるわ! 大殿に楯突く事も辞さず、謙信さえ退けた男がどうして堕落などするか! 父親を助けたいばかりに気持ちが焦り申したな。父を、主人を思う心が裏目になったのは哀れ。だが友なればこそ遠慮せず討たせてもらう!)

 

 秀長の陣屋に安土包囲軍の将が集まった。

「これから美濃が攻めてくる。我らが泥酔して寝入っていると油断して攻めてきたところを一斉に襲い掛かる」

「「ハハッ」」

「それから…今にして思うと商人や遊び女たちを用意したのは美濃。羽柴を酒と女で骨抜きにしようと云う策だ。商人が持っていた手形もニセ物であったのだろう。あれだけ精妙なニセ手形を作れ、かつあんな多くの芸人と遊び女を用意できたと云う事は城の外に味方がいる。挟撃してくるハラだろう」

「あの商人たちは敵の間者と?」

 驚く中村一氏。

「殺しまするか」

「長政殿、ただ雇われた者たちを殺しても仕方なかろう。間者なら我らに毒酒でも飲ませれば事は簡単に済んだはずなのだからな。今さら締め上げて情報を引きずり出そうとしても連中が戦局を変える様な事を知っているとは思えん。殺しても状況は変わらん。ただ退去させるわけにはいかん。松明の灯で美濃に『羽柴が夜襲看破』を気取られる。拘束して陣屋に押し込めろ。騒ぎが終わったら解き放つ」

「承知しました。で…援軍はどのくらいの数と見まするか」

 と、浅野長政。

「援軍はおそらく蒲生と九鬼であろう。美濃とは明智討伐で陣を同じくしている。独立宣言は見せかけよ。場所はさすがに分からんが、もう近くに布陣していると見ていい」

 羽柴本陣から援軍部隊が布陣した帯山まで南に三里(十二㌔)である。気付かないのも仕方ないだろう。蒲生と九鬼とて城から動いていないと云う情報も自ら発していたのだから。しかしここに至っては疑う余地も無い。

「九鬼も蒲生も清洲会議の論功行賞で領地が増えた。かなりの兵数では?」

 と、中村一氏。

「我らが泥酔していると思っているはず。油断している敵であるし、美濃に対しても話が違うと怒り出し、離脱するかもしれぬ。だがやはり敵城を背にしているわけだから油断もできん。踏ん張るしか…秀次は遅いがどうしたのだ?」

「お、叔父上、遅れて申し訳ございませぬ!」

 酒のにおいを漂わせる秀次。秀長は激怒して殴った。

「バカ者!」

「あぐっ!」

「今日は飲むなと申したであろう!」

「も、申し訳ございません! オ、オエエ…」

 平伏して叔父秀長に謝る秀次。しかも酩酊であったため嘔吐してしまった。あまりの甥の体たらくに激怒する秀長。刀に手を取る。

「な、なりませぬ秀長様! ここで秀次様を殺せば彼の部下たちが!」

 必死に止める中村一氏。

「その方の家臣もそんな有様か!?」

「い、いえ家臣には飲ませておりませんが…」

「もうよい敵の攻撃前じゃ、一兵でも惜しい。この上はその失態を手柄で返せ!」

「は、はい!」

 

「しかし…商人らが敵の雇った者であったなら、秀長殿の言われる通り我らの飲む酒に毒でも入れておけば話は簡単であったろうに…何故美濃はそれをせなんだか」

 と、浅野長政。

「それは柴田の尚武の気風に反する。それだけではござらんかな」

 中村一氏が答え、秀長も添える。

「敵が死ねば何でもありと云うわけではあるまい…さて」

 作戦を述べる秀長。

「蒲生と九鬼の石高と領内の守備を考えると連合して七千ほどと見る。よって援軍との戦いに重きを置く。長政殿とワシ、秀次は援軍部隊、孫平次は突出してきた美濃に当たる。同士討ちを防ぐため、この笠印(小さい軍旗のようなもの)を各々袖に付けて、かつ合言葉を『姫路』に『千成瓢箪』とする。敵は我らが泥酔して寝入っていると見ているうえ、多勢で敵に当たれる。敵城を背にしているとは云え勝利できよう」

「「ハッ」」

「すぐに備えに入る、ただ音を立てさせないように徹底せよ。甲冑の音、馬のいななき、安土に届けば羽柴が夜襲を看破したと気付こう。商人らを拘束する時も沈黙を命じよ。騒げば斬ると言い聞かせよ」

「「ハハッ!!」」

 こうして羽柴勢二万、羽柴秀長と浅野長政、羽柴秀次は援軍部隊に備え、中村一氏は隆広の突出に備えた。無音行動が徹底された羽柴陣は不気味な静けさであった。

 

 安土城から羽柴陣を見る隆広。安土山は高い、その上に更に築かれた城の上、羽柴陣の様子はかがり火がホタル程度の灯にしか見えない。そして今日は月明かりもそれほどではない。眼下はホタルが点在するほどの暗闇である。しかし…。

「気取られたな…」

「なぜ分かります」

 と、奥村助右衛門。

「妙に敵陣が静かだ…」

「静か?」

「それに…先ほど安土山の木々に住む鳥たちが飛び立った。ヒトの殺気を気取った証拠だ」

「確かに…」

「オレの体たらくを盲信し、このまま泥酔状態で寝入っている羽柴勢に夜討ちをかけられれば理想だったが…さすがは秀長殿、見抜いたようだ」

「秀長殿とて、今まで修羅場をくぐられている方です。やむを得ませんな」

「あまりにも上手く行くので不気味だったが、秀長殿もあえて水沢の密偵に油断を見せたか」

「勝てますかな」

 と、慶次。

「『我、勝てり』は変わらない」

「と言いますと?」

「耳を貸せ」

 奥村助右衛門、前田慶次は隆広に耳を寄せた。そして隆広の話を聞くや助右衛門は

「なるほど!!」

 と、扇子を腿に叩いた。

「そういう意味があったのでございますか、あの体たらく芝居は」

 慶次の言葉にニコリと隆広は笑った。

「さて…六郎を南に派遣し、援軍部隊に『羽柴気取る、泥酔状態で寝入るに至らず』を伝えさせよ」

「ハハッ!」

「将兵らはたっぷり睡眠を取ったな」

「御意」

「よし全軍に食事を取らせよ。ただし酒は厳禁とする」

「「ハッ!」」

 何と隆広には想定内だったのである。自分の堕落を信じてもらい羽柴がすっかり油断するのが理想な展開であったが、やはり相手は羽柴秀長、そうはいかなかった。

 しかし秀長は気付いているだろうか。彼は今、水沢隆広が策に溺れたと思ってしまっている。つまり隆広はもう一つ『策に溺れた水沢隆広』と云う油断をさせる事に成功しているのだ。

 相手が酩酊状態と油断して夜襲をするのと、そうでないのは天と地の差がある。さしもの秀長も水沢勢がすでに『羽柴が夜襲を見抜いている』をさらに見抜いているとは思わなかったのだ。

 

 進軍する安土援軍部隊の元に六郎が到着した。

「申し上げます」

「ふむ六郎、いかがした」

「はっ、羽柴勢、今宵の夜襲を悟りましてございます。泥酔状態にはあらず」

「相分かった」

 と、蒲生氏郷には別段驚く様子もない。相手は羽柴秀長、そう事がうまく運ぶものでもない。第二陣九鬼嘉隆も顔色一つ変えなかった。

「安堵いたせ、元々相手が気取っていると云う心構えで今まで夜襲の訓練は積んでおいたゆえな。我ら三家もそれをふまえて連携を取るべく協議を重ねておいたわ」

「はっ」

 そして六郎は第三陣の将の元へと駆けた。

「申し上げます」

「おう、六郎であったな」

「はっ、筒井順慶様に申し上げます」

「ふむ」

 援軍もう一人の武将は大和(奈良)の筒井順慶であった。そして六郎は羽柴気取るを伝えた。

「承知した」

 さすがはかつて松永久秀にも勝利した男。顔色一つ変えない。

「飛騨(氏郷)殿、大隅(嘉隆)殿にも伝達は終えておるな?」

「はっ」

「よし左近、六郎に替え馬を与えよ」

「承知しました」

「ついでじゃ六郎、このまま共に参れ」

「かたじけなき申し出、そうさせていただきまする」

 そして六郎は馬に乗り順慶の後ろについた。筒井家家老の島左近が六郎をジロジロと見る。

「…な、何か?」

「いや、いい面構えをしていると前々から思っていてな。ふはははは」

 こうして援軍部隊全軍は羽柴勢が夜襲察知と承知し、さらに進軍する。

 

 筒井順慶、彼は松永攻めのおりに水沢隆広と陣場を同じくした事もある。彼は元明智光秀の寄騎大名であった。順慶は明智光秀の謀反の後、加勢要望に応じなかった。周囲には日和見と失笑されていたのである。家臣たちも数名去っていった。

 本能寺の変のあと、中国大返しをしていた秀吉、そして光秀からも援軍の要請を受けたが筒井順慶は動かなかった。『洞ヶ峠の日和見』と言われる所以である。

(史実では筒井の加勢を待っていた光秀がいた場所が洞ヶ峠であり、順慶がそこで日和見を決め込んでいたと云うのは誤りである)

 順慶は柴田と明智の戦いに結果出陣はしていない。『日和見』と揶揄されても仕方のない事だった。秀吉も今回の出兵に伴い順慶に加勢を命じた。しかし順慶は断った。『羽柴は筒井の主君ではない。命じられる覚えはない』と拒否した。

 だがそう言って送り返した使者をもう一度追わせて戻らせ『羽柴殿に付いたとして、勝利の時には筒井はいかがなるか』と尋ねた。使者からその言葉を聞いて呆れる秀吉。『またも日和見を決め込むか』と唾棄し、『もう良い。そんな者がいたら羽柴全軍の士気に関わる。権六を討った後に大和を召し上げてくれるわ』と、そのまま筒井の存在を無視した。

 しかし、これは『日和見』と揶揄されている立場を逆に利用した順慶の智慧である。この時すでに六郎を使者に隆広からの援軍要請が筒井には来ていた。蒲生と九鬼が独立を装い、動かないと見せたように筒井も日和見を決め込んだふりをして動かなかった。すでに水沢への加勢を決めていた順慶にとって、秀吉を欺くためならもう一度や二度の日和見の汚名など眼中にない。

 秀吉が安土に包囲軍を残し近江の北に向かったころ、順慶も帯山に出陣し布陣。隆広の作戦敢行の指示を待った。

「左近、今夜に敢行と決まった。そなたもたっぷり寝ておくのだ」

「はっ」

「しかし…。このいくさもそなたがいなければ危ういモンだったろう。多くの家臣がワシを見限る中、よう残ってくれたな」

 本陣の床几に座る筒井順慶。そしてその家老の島左近。

「いえ、実を申さば…そうしようと思ったのでございます。しかしながら…」

 島左近の出奔を思い留まらせたもの、そして筒井順慶へ明らかに劣勢な水沢への援軍を決めさせたもの、それはかつて水沢隆広の発した言葉だった。明智討伐後の柴田陣中で柴田と水沢の将兵も筒井順慶の日和見を笑っていたが、隆広だけは笑わずこう言ったのである。

「いいや、筒井殿の領民愛と郷土愛は見習わなくてはならない」

 この言葉に将兵たちは目を丸くした。なぜ日和見から領民愛と郷土愛に話が続くのか。隆広は説明した。

「順慶殿は自国の大和の国を深く愛している。それが示すように大和の小領主や豪族、豪農、豪商は彼を大変慕っているではないか。仁政厚く下々の民も慕っている。この下剋上の世の中なのに順慶殿は京に近い位置に勢力を構えながら野心は抱かず、ただひたすら大和の国と筒井家の安寧に尽くし、領内や京の寺社の治安に当たっている。それに日和見なら、瀬田の合戦が始まる前に柴田は明智の倍の軍勢を持っていたのだから柴田へ付く事を実行したはずだ。しかし、それは光秀殿との友誼を思えば潔しとしなかったのだ。日和見などとんでもないぞ。順慶殿は国と家の安寧を願い、日和見の汚名を甘んじて受けたのだ」

 思わず黙る柴田と水沢将兵。

「しかし…筒井に人は無きか。順慶殿は家臣の命のためにも日和見の汚名を受けたと云うに…主人のそんな気持ちも知らずに出奔する者が多いと聞く。己が主人の器量も分からないとは気の毒な連中だ」

 筒井順慶はこれを伝え聞いた時に嬉しさのあまり涙を流した。そして島左近は出奔の荷造りをしている時にそれを伝え聞き、大いに恥じた。『筒井に人は無きか』と言われても一言も隆広に言い返せない。そして左近は出奔を留まった。『筒井に人は無きか』と言われたままでは武人の大恥である。いつか『筒井に左近あり』と水沢隆広に示してくれると決めた。

 そしてその機会は案外早く来た。安土城を預かる水沢隆広から援軍要請である。

 また清洲会議において、柴田勝家は順慶の領地を大幅に削減する事を考えたが、それに待ったをかけたのが隆広と言われている。

『順慶殿の仕儀は断じて日和見にございません。大和の国と家臣と民を思えばこそ。今領地を取り上げても大和の民は絶対に新領主を認めないのは必定。ここは現状維持で筒井を良き味方にするのが上策と存じます』

 勝家はこれを入れた。勝家とて大和の辰市合戦で松永久秀に順慶二十二歳の若さで、かつ松永勢より兵が少ないにも関わらず勝利した事は知っており、順慶の武将としての資質は認めていたのである。

 織田信忠の松永攻めで隆広の軍才も知る順慶。自分があんなに苦労して戦った松永久秀を当時十七歳の若者が智慧一つで倒してしまった。すでに勝家の実子と云うのも伝え聞いている。

 後の歴史小説では『自分を知る水沢隆広のため、あえて劣勢にも関わらず援軍に出た順慶』と武人の鑑のように描写される事が多いが、順慶とて松永久秀と大和の国を賭けて戦い続けた武将。ただの信義や綺麗事で隆広に付くはずがない。劣勢だからこそ、そして蒲生や九鬼、我らが付けば勝利できると見たからこそ、順慶は大和の国をより拡大できて、筒井をより大きくする好機と見たのではないか。その逆転勝利を隆広が御輿だからこそ出来ると考えたと見るのが妥当だろう。

 隆広への信義は二の次であったかもしれないが、順慶にとっては『第一』と比肩する重き『二の次』であったには違いない。順慶は隆広が勝家の実子でなくても援軍に駆け付けたかもしれない。領地の現状維持を勝家に取り成し、そして『士は己を知る者のために死す』の気概。戦国武将は心意気で生きている。筒井家に取り『第一』が成り、順慶の心を動かした『己を知る隆広』。ゆえに筒井順慶は援軍に参ずる事をすぐに応じたのではないか。

 こんな展開を期待して述べたわけではない。本心から隆広は順慶に対してそう思っていたのだろう。だから順慶もそれに応えたのである。

 

 筒井勢は帯山で蒲生勢と九鬼勢と合流し、隆広の作戦実行の号令を待った。何度か軍議を共に開いた三家。蒲生氏郷と九鬼嘉隆は当初順慶と陣場を同じくするのが不快であったが、一番軍勢を多く持つのが順慶であったので、渋々ながらも最初の軍議についた。

 しかし氏郷と嘉隆には順慶がとても日和見の人物とは思えぬほどに覇気あふれる武将になっていた事に驚いた。そして家老の島左近にそれとなく訊ねたら、隆広の言葉で人が変わったように気概を持たれた、と答えた。風評ごときで一人の武人を過小評価した事を恥じる二人。

 以来、氏郷と嘉隆は順慶を日和見と見なかった。今や頼もしい味方であるのだ。そしていよいよ今夜作戦決行。三家は攻撃の段取りや折り合いをつけるため話し合い、それから仮眠を取った。血がたぎり中々寝付けなかった筒井順慶。

「思えば明智の寄騎大名であった筒井が、その明智を討った張本人とも云える美濃殿に加勢するとは妙な話よ。昨日の友が今日は敵、昨日の敵が今日は友、まこと戦国の世は面白い…」

 出陣の刻限となった。第一陣蒲生氏郷五千五百、第二陣九鬼嘉隆四千、第三陣筒井順慶七千五百で帯山を出陣。これは当時の彼ら最大の動員数と云われており、これに水沢勢を加えれば兵数は羽柴と同じ二万である。この兵数は明らかに三将が安土包囲軍だけでなく、その先の秀吉との戦いを見込んでいた証拠であり、いかに援軍部隊の三将がこの合戦を重く見ていたか分かる。柴田と羽柴、天下分け目と言っていい。

 

 そして筒井の軍勢の中に柳生厳勝と云う男がいる。剣豪と名高い柳生宗厳(石舟斎)の嫡男である。(史実では宗厳の嫡男厳勝は辰市合戦で銃弾を浴び下半身不随となっているが、本作では健常とする)

 柳生は辰市合戦では松永方に組するが、現在はその合戦に勝利した筒井家に仕えている。厳勝は父親に劣らぬ剣豪と知られる若者である。上泉信綱を祖とする新陰流を会得している事から、隆広と柳生厳勝は新陰流の同門と云える。

 父の石舟斎はすでに隠居しているが、日和見の主人順慶に嫌気がさしていた厳勝は筒井家に暇乞いしようと考えていた。しかし石舟斎は

『順慶殿は大和の国のために、あえてその汚名を受けたのが分からんか。よう考えよ、順慶殿は辰市合戦にて二十二の若さで我ら柳生が助勢した松永を過少の兵力で倒したのだぞ。断じて日和見などの腑抜けではない。それが分からぬお前は未熟者だ』

 父に一言の反論も出来ない。自分の愚かさを痛感した厳勝は、他の武芸自慢の同僚が筒井家を去っていく中、残ったのである。それを喜ぶ順慶。今は母衣衆の筆頭となり、柳生の軍勢を連れて、この安土夜戦に参戦する。

 

 時を同じころ羽柴軍。南から軍勢が来る気配はない。

「本当に美濃に援軍がくるのでござろうか秀長殿。軍勢が半里も近づけば徐々に兵らの甲冑が鳴る音が響いてくるはず…」

「いや長政殿、さっきから斥候に出た者が戻ってこん…。援軍部隊に討たれたやもしれぬ」

「確かに…」

 羽柴軍が無音行動を心掛けたように援軍部隊もそれを心掛けた。松明もない。羽柴の兵は槍を構え暗闇を凝視する。

 だが蒲生氏郷、彼は夜襲としては鉄則と云える無音進軍を安土城より南に半里(二キロ)の地点で解禁する。安土援軍部隊一万七千の軍勢、その一人一人が必要以上に甲冑のこすれる音を鳴らして走ったのである。

 突如大轟音として南から押し寄せる援軍部隊の脅威。羽柴勢は浮き足立った。安土城に向いていた中村一氏も驚いて南に振り向いた。南から聞こえる大軍の甲冑を鳴らす音。地が響き、大気が震える大轟音。包囲軍の将は南を見つめツバを飲む。

「…秀長殿、これは六千七千の音じゃない! 一万数千…いや二万以上はいる軍勢ですぞ!」

 浅野長政に言われるまでもなく、秀長は音から軍勢の数を計っていた。はじめて秀長は背筋に寒さを感じた。兵たちはさらに戸惑う。敵城を背にしているのである。たとえ兵数が同じでもそんな大軍勢に夜襲されたら一たまりもない。

「なぜ…たった三千の兵しかいない敗色濃い城にこれだけの大軍が援軍に来る! 蒲生と九鬼は領内をカラにしているのか!?」

「秀長殿!」

「かような援軍を仕立てられるとは…我らがここに配置する前に根回ししていたか…!」

 そして何かをハッと気付く秀長。その様子に気づいた長政。

「どうされた秀長殿」

「やられた…! 美濃は我らが夜襲を読んだ事をとうに見抜いておった!」

「な…!」

「美濃が狙いは泥酔状態で寝入っている我らを援軍と容易く討つ事であったには違いないが、それが羽柴に察せられる事も半ば想定内! 美濃の真の目的は我らをここから動かさない事! 援軍を察し南下させず城と援軍で挟撃する事が狙いだったのだ! 羽柴は泥酔し寝入っていると見込み、水沢勢が油断して押し寄せたところを討つと狙わせ、動かず備えさせて留め置く事が美濃の策だ! してやられたわ!」

 その通りである。先刻に隆広が奥村助右衛門と前田慶次に聞かせたのもこの策だった。

『策に溺れし水沢隆広』秀長の執る作戦は羽柴軍が泥酔状態と油断し夜襲する水沢軍を逆に蹴散らし、城門開く安土に雪崩れ込んで占拠する事である。

 援軍の来襲を読み取ったのはさすがだが、秀長は蒲生と九鬼の連合軍でも彼らの石高と領内の守備を考えれば総数七千ほどと見ていた。計算としては間違ってはいない。しかし予想に反して蒲生と九鬼は全軍を繰り出し、かつ筒井順慶も参戦しているとは想像もしていない。

 しかも氏郷の執った大音響作戦、夜襲の鉄則を無視するこの奇計が見事に功を奏し羽柴兵から士気を奪う。しかも安土城にいる水沢勢に“もうじき到着”を示す事になる。水沢勢の士気は上がる。六郎の伝令がなければ、そのまま無音進軍で羽柴勢に突撃していただろう。この大音響作戦は隆広も知らず蒲生氏郷の計略である。効果は絶大だった。羽柴陣には逃げ出す兵が続出していた。

 敵城を背にしている羽柴軍。しかも夜、いかに笠印と合言葉で防ごうとしても混乱すれば同士討ちをする可能性は高い。敵勢は夜襲が最初から画策された戦法。すでに闇夜でも敵味方の判別は徹底してあり、夜間の戦闘訓練もしているだろう。

『羽柴が夜襲される事に気付いた』と水沢隆広が見抜いていると知っていれば、安土の兵に備え五千程度を残し、南に進軍して鉄砲なり弓矢で迎え撃ち対しただろう。しかし時すでに遅く羽柴勢は安土城の前から動いていない。敵に理想的な挟撃をさせてしまう。

「策に溺れてなどはおらなんだわ! 美濃が計はワシに『美濃策に溺れた』と思わせるためか!」

「叔父上!」

「智慧美濃の恐ろしさを知っていながら…何たる不覚…!」

「秀長殿…!」

「長政殿、急ぎ西に撤退! 摂津なり山城に戻り体制を整える! 戦闘状態に入ったら我らは終わりだ!」

「しょ、承知つかまった! 全軍、西へ撤退! 引き揚げるぞ!」

 

 さすがは不利と見れば秀長の判断は早い。急ぎ西に引き揚げようとしたその時!

「申し上げます! 水沢勢出撃してまいりました!」

「なにっ!」

 水沢勢は城を背にしている羽柴勢に突撃を開始した。西に後退し始め、隊列が横に伸びたところを隆広は逃さなかった。総数二千五百、総大将隆広を陣頭に立ち攻めかかってきた。

「羽柴秀次隊に真一文字に突き進んでおります!」

 秀次はこの時、開く安土の城門を見た。

「しめた! 全軍水沢勢にかかれえーッ!」

 秀次隊は西向きから急ぎ北に向きを変えた。だが突撃してくる水沢勢から稲妻のごとき石礫が横殴りの雨のように飛んできて、一直線に秀次の兵の顔面を捕らえた。

「ぐああッッ!」

「うがあ!」

 一瞬で百人以上が戦闘不能に陥った秀次隊。あまりの攻撃の凄まじさに動きが止まった。続けて第二波が襲い掛かる。

「くそっ! 石など武士の用いる得物と…グアアッッ!」

「ぐぎゃああッ!!」

 石投げなど子供のケンカと思うのは大間違いである。小山田投石部隊の投石は人殺しの投石である。しかも夜だと云うのに的は外さない。ついには恐ろしさのあまり逃げ出す秀次の兵。士気はもうない。そこに織田家最強と云われる柴田軍、その柴田軍でもっとも強いと云われた水沢勢が襲い掛かった。

「かかれええーッ!!」

「「オオオッッ」」

 前田慶次の朱槍、奥村助右衛門の黒槍がうなりをあげる。彼らが秀次隊を分断していく。それに続く藤林忍軍、そして鍛え抜かれた精鋭たちが怒涛のごとく攻め入る。堀辺半助と佐久間甚九郎を先頭に明智の遺臣たちも少数ながら獅子奮迅の働きを示す。

 大野貫一郎はこの戦いが初陣だった。だが後に本人が苦笑して述懐しているように、目をつぶって、ただ槍を持ち大声上げて突っ走っていただけだった。

「いかん! 孫平次へ増援に向かわせ急ぎ秀次の軍を退かせろ! 秀次では水沢軍の敵ではない!」

 秀長に云われるまでもなく、中村一氏が水沢勢の横を衝くべく動いた。それを見た佐久間甚九郎は大将隆広に進言する。

「殿、退け時にございます」

「承知! 退くぞ!」

「ははッ!」

「甚九郎! 殿軍に立て!」

「承知しました! 全軍疾く退かれい!」

 すると水沢勢はすぐに秀次隊から離脱して全速力で安土城に退いた。佐久間甚九郎は最後尾に立ち二千五百の兵を迅速にまとめ、隆広と共に後退させた。父の佐久間信盛の異名『退き佐久間』を見事にしてのける佐久間甚九郎。それを見る中村一氏は驚く。

「何たる退きの早さ…!」

 そして佐久間甚九郎と一緒にいた若者。彼は小山田投石部隊の九一と云う若者である。

「頼む、九一殿」

「承知!」

 彼が投げた投石は羽柴秀次の顔面を直撃した。

「ぐあああッッ!」

 たまらず落馬した。

「ははは、死なない程度にしてやった感謝しろよ、バカ大将、ははは!」

 急ぎ甚九郎の乗る馬に飛び移り去っていく九一。秀次は鼻血が止まらない。そして痛くてかなわない。

(おのれ…おのれ…!)

 悔しくてたまらない秀次。

(ちくしょう! すべて美濃の謀略と云う事か! このまま何も出来ずに姫路に帰れば秀長叔父からオレの醜態が伝わり…オレは叔父上(秀吉)に殺される! こうなったら…!)

 馬に乗る秀次。

「安土城を攻める! 続けえッッ!!」


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