天地燃ゆ   作:越路遼介

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大名の正室として

「……」

「……」

「…すず」

「……」

「言いたい事があるのなら…ハッキリ言ったらどうだ?」

 ここは安土城内、側室すず御前の部屋。さえに閨を拒否された後、明家はすずの部屋に来ていた。隆広三忍、今は明家三忍だが、白、六郎、舞の三人は安土城内に待機している。六郎の妻の舞、白の妻の葉桜は仮の姿として、すずの侍女として城の中にいたが…。

「ああもう、重い雰囲気でイヤになります。殿、御台様に拒否されたから自分を抱きにきたと云う事にすずは怒っているのではないですか?」

 と、舞。

「そんなつもりはない、たださえがあんなに怒っていたから…すずはどうかなと…」

「そしたら案の定だったと?」

 小さく頷く明家。部屋に入ってきた明家を見ようともせず、息子の着物を縫っているすず。確かに怒っている。一言も発しようとしない。舞が自慢の乳房を誇示するように胸元を開けて明家に寄り

「でもまあ、数日中に殿はご出陣。しばらく禁欲になるのですから、久しぶりに私が伽を務めましょうか?」

「舞!」

 すずが怒鳴った。

「あ、やっとしゃべった。本当に分かりやすいわねェすずって」

「ホントホント、見た今の? 般若みたいな形相で舞のこと見たわよ」

 舞と葉桜のツッコミに顔が赤くなったすず。

「もう! 舞も葉桜も面白がっているでしょ! 出てって!」

「はいはい」

 舞と葉桜は部屋から出て行った。すずは一呼吸置いて静かに言った。

「殿…。私は殿が側室をお増やしになっても、とやかく言う気はございません。そして御台様が閨を拒否されるなら私が伽を務めますが…一言だけ言わせて下さい。御台様にあんまりだと思いませんか?」

「…うん」

「大名になった途端、側室を二人も作れば怒るのが当たり前ではないですか」

「…うん」

 どうしても断りきれなかったと云うのは理由にならないし、明家はそれを言い訳としなかった。頭を掻きながらフウと息を吐く明家。

「だが今すぐにその怒りを解く術はない。そろそろ出陣も近いゆえ、それに集中しなければならない。さえの怒りを解くのはその戦が終わってから腰据えてやるつもりだよ」

「それがよろしいと思います。すずで出来る事があれば協力しますので」

「ありがとう、じゃ寝る」

 明家は立ち上がった。

「…?」

 夜伽は良いのですか? と云うすずの顔。ニコリと笑い答える明家。

「火に油は注がない。さえの怒りが解けるまでは女を絶つ」

 すずの部屋を立ち去った。正直少し残念に思うすずだった。

 

◆  ◆  ◆

 

 さて翌日。ここは安土城の一角にある勝家とお市の隠居館『庄養園』琵琶湖の湖畔に建築された優美な浮き城である。ここにさえはお市を訪ねていた。さえはお市の侍女出身である。嫁と姑であると同時に元は主従。きっと味方についてくれると思えば…。

「簡単な事、お認めなさい」

 大名になった途端に側室を二人も作った夫を母親から叱ってほしいと頼みに来たが、返す刀で逆に諭されている。

「ですが奥方さ、いえ義母上様…」

「亡き先夫、浅井長政にも側室はおりました。柴田は側室を持ちませなんだが、それは大身の大名としては珍しき事なのです。明家殿も今では大大名、側室を持ち、子をたくさん成すのは当主の務めです。正室は側室たちと和を成して夫を支え、側室が生んだ子らも当主の子として養育するのが仕事。そなたも生まれは朝倉宿老の娘、そのくらい心得ておりましょう」

「そ、それはそうですが…大名になったとたんに側室二人、とてもがまんなりませぬ」

「やれやれ…。私はそなたの持つ利発さを見て、竜之介の妻になってもらいたいと思い勝家に推挙しましたが…嫉妬心はその利発さも曇らせますか」

「義母上様は私が子供と?」

「まあ、ホッペを膨らませて。ホントに子供のようですよ、さえ」

 クスクスと笑うお市。

「頭では分かっていても…どうしても許せないのです」

「ならば、一つだけお頼みしましょう」

「え?」

「明家殿が上杉の援軍に向かう事は知っていますね?」

「はい」

「良いですか、どんなに腹に一物あっても出陣だけは笑顔で見送りなさい。怒ったまま送り出し、もしも明家が生きて帰ってこなかったら一生後悔するのはあなたです。いいですね」

「わ、分かりました。出陣の時はそういたします」

 それはさえとて明家との新婚当時から心得ていた事であるが、お市もそれを分かったうえで念を押してきた。やはりお市の目は鋭い。今度ばかりは出来ないのではないかと見たのだろう。

「よろしい」

 

「ふう…」

「十四回目…」

「ん?」

「殿の溜息の数です」

「いや貫一郎、十五回目だ」

 ここは安土城の明家政務の間、政治において明家の側近を務める石田三成、そして奏者番(秘書)大野貫一郎が主君の溜息の数を言った。ちなみに貫一郎は先日に元服し『治長』の名前を主君明家から与えられており、大野治長と名乗っていた。『長き治世を作る男となれるように』と云う意図らしいが通称で呼ばれる事が多い。

「い、いちいち数えるなよ二人とも」

「あはは、御台様(さえ)とケンカでも?」

 神をも恐れぬ治長の言葉。それに

「ケ、ケンカなぞするか!」

 ムキになって否定する明家。

(図星か…)

 苦笑する三成。しかし顔を引き締めて諌める。

「殿、明日は越後へ出陣の日、総大将がそう溜息を連発しては士気に影響いたします!」

「…ああ、分かっているよ!」

 その日の夜、さえは笑顔で明家と子供たちと夕餉を共にした。柴田明家と云う人物は戦国時代屈指の智将でありながら、妻のさえに対しては本当に単純な思考の持ち主だった。

 明日は出陣なのだからと、一旦は腹の中に怒りを静めているさえを『良かった機嫌が直った』と疑わず、風呂に入った後は妻を求めようとしたが『月のものゆえご容赦を』と辞退された。ウソだった。まだ許すに遠く至らないのに身を委ねたくない。明家も昼間の軍務で疲れていたか、すぐに引き下がり眠ってしまった。

そして翌日、柴田軍は越後へと出陣した。

「ふう…」

 城門に立ち、出陣する柴田軍を見送ったさえは夫の明家と似たような溜息をついた。

「御台様、夫の三成の話によれば今回の合戦は、そう熾烈な戦いにはならないとの事でしたから心配無用かと」

 城門から城内に歩き出したさえを気遣う石田三成の室の伊呂波。

「違います。こんな作り笑顔で夫を戦場に見送る私が悲しいのです」

「え?」

 自分の作り笑顔を見て、機嫌を直してくれたと疑わない夫の笑顔を見るのがつらかった。

(…さえのバカ、大名の正室以前に武士の妻としても私は失格じゃない! どんなに腹に一物があっても出陣の前は無事を祈り、本当の笑顔で送り出すのが武士の妻だと云うのに!)

 夫が向かう先に振り向くさえ。

(でも殿…。私にそうさせたのは殿なのです…!)

 

 三成が妻に言っていたように、今回の柴田軍は上杉軍の後詰となり出羽の最上義光に大軍を示すのが役目だった。上杉と柴田連合軍、最上氏にとっては途方もない大軍である。

 最上義光は隣国の越後に上杉謙信が健在の頃は一度として越後に侵攻しなかったが、次代の景勝を侮り、何度か国境を脅かしていた。一度完膚なき叩きのめしたいと思った景勝は友好関係にある柴田家に援軍を要請したのだ。明家はその要請に応じ出陣。役目は後詰であるが、最上にとって畿内の王者である柴田家の援軍は脅威だった。国境で対峙する両軍。そんな上杉と柴田の陣中。

「これは美味いものにございますな美濃殿」

 柴田明家はある陣中食を上杉将兵にふるまっていた。評判がいい。景勝は夢中で食べている。

「そうでございましょう。これが『ほうとう』にございます」

「これが信玄公の考案した陣中食の『ほうとう』!」

「ええ、握り飯ばかりでは『脚気』を起こしますからな。こうして多くの野菜を取れる陣中食を考案したのでございますよ。少年のおりに甲斐にいた時、調理法を習いましてございます」

「うーむ、さすがは父謙信の宿敵! もう一杯ようござるかな」

「ははは、しかし笑わぬ大将と言われる弾正少殿(景勝)も『ほうとう』には笑みを浮かべるしかないとは馳走したかいがございました。ところで直江殿、伊達勢が最上の援軍に来たらしいが、当主の左京大夫殿(輝宗)自ら来たのでございますか?」

「モグモグ 左様、しかし当主義光の妹を妻にしている手前、その義理を果たしに来たに過ぎませぬ。この戦はそう乗り気ではないでしょうな」

「そうか…。弾正少殿、柴田は伊達勢と対しようと存ずるが」

「伊達勢と?」

「ええ、今まで仮想敵国だった伊達、みちのくの武者は腰が据わり精強と聞く。少し手並みを見たいと思う」

「願ってもない事、お頼み申す」

 しかし、最上勢は伊達の援軍を得ても、上杉と柴田の連合軍の軍勢と鉄砲の多さを鑑み敵わぬと判断して撤退を開始。追撃は上杉が出たので結局この合戦では柴田の出番がなかった。

 しかし陣を引く伊達勢を見ていた明家は一つの視線に気付いた。伊達勢の中、馬上に漆黒の甲冑をつけて敵陣の総大将を見つめる少年。

「治長、あれは誰だ」

「隻眼ゆえ、あれが当主伊達輝宗の嫡男、政宗かと」

 伊達政宗、この時はまだ少年のあどけなさが残る若者だった。河川を挟んでの伊達と柴田、双方援軍同士ゆえ、もう戦う理由がない。直江兼続の見ていた通り、当主の輝宗も乗り気ではなかった合戦。柴田に対し何の行動も見せなかった。不気味な沈黙の中で伊達政宗と柴田明家は見つめ合った。

「『歩の一文字』の軍旗…。あれが畿内の王者柴田か…」

 そして一つしかない目でも総大将が誰か分かる。いたずら心旺盛な政宗は柴田明家に対して目じりを押さえ、ペロと舌を出した。

「アッカンベーだ。あっははは!」

 くるりと馬を返し立ち去った。明家は苦笑した。

「面白そうな男よな、次に会うのが楽しみだ。あっははは!」

 彼も馬を返した。これが伊達政宗と柴田明家の最初の出会いだった。

「助右衛門、柴田の退陣を弾正少殿に伝えよ」

「はっ」

「さあ、我らは安土に引き上げるぞ!」

「「ハハッ」」

 

◆  ◆  ◆

 

 柴田軍は何の仕事もなかったが、その武威で敵を退けて上杉に追撃の好機をもたらせた事は確か。明家は景勝の厚い報奨を受けて近江へと引き返した。

 そして越前に到着し、北ノ庄城主の毛受勝照に歓待を受けていた時だった。安土から早馬が来た。

「殿―ッ!」

 それは母のお市からの使者だった。

「どうした?」

「御台様、ご危篤!」

「なに…?」

「四日前から高熱と激しい下痢に嘔吐! 安土城下の医師も手に負えぬありさまにございます!」

 それを聞くや明家は取るものも取らず、馬に乗って大急ぎで安土へと駆けた。一睡もせず駆けた。

(さえ…! さえーッ!)

 

 安土城に着いた明家。甲冑をつけたまま妻の待つ部屋へと駆けた。

「さえーッ!」

「父上! こっちです!」

 お福が廊下を駆ける明家を呼んだ。やっと妻と会えた。呼吸荒く、発汗も著しいさえ。

「さえ…!」

「と、殿…」

“無事に帰って来てくれた。間に合った、真っ先に私のところへ駆けつけてくれた”

 顔は笑って、心は激怒で夫を戦場に送り出した事を深く後悔していたさえは、夫が無事に帰ってくるまで死ねないと気力を振り絞り病と闘っていたのだ。図らずも夫に怒りを抱いていた事がさえに夫への申し訳なさを持たせ、気力を出させるに至ったのだ。世の中何が幸いするか分からない。夫が帰って来て緊張が解け、気力が失せだした時、大粒の涙を流す明家がさえの手を取った。

「寂しがらせたな、もう大丈夫だ。オレがいるぞ!」

「殿…」

 気力が再び盛り返してきた。

「はい…」

「監物」

「は、はい」

「直賢に京の曲直瀬道三殿にお越しいただくよう差配いたせ」

「あいや殿、すでに大殿の命により、曲直瀬殿を迎えに上がっております!」

「そうか…! 早く来てくれ…」

 さえの手をギュウと握る明家。

「殿…会いたかった…」

「オレもだ。ごめんな、ずっとほっておいて」

「殿…ごめんなさい…。私は越後にご出陣の時に…作った笑顔で殿を見送り…」

 涙をポロポロと落とすさえ。

「そなたを傷つけたのはオレなんだ。そして…それを気に病ませたオレが悪い。謝るからよくなってくれ。女房孝行をさせてくれ! そなたはオレの宝、そして命だ…! 治ってくれ!」

 

 翌日、名医と名高い曲直瀬道三が京から来た。そしてさえを診断し、明家にこう告げた。

「お覚悟なさっておくように。もはや私の手にもおえませぬ」

 それを聞くや監物と八重は泣き崩れた。明家は深々と道三に頭を垂れて

「かたじけのうございました」

 と丁重に礼を述べ、診察代を渡した。痛み止めと解熱剤を置いていき道三は安土を後にした。だが明家はあきらめなかった。その日のうちから明家は妻につきっきりに看病にあたったのだ。『オレがついているぞ』『ずっと一緒だ』と言葉をかけ続けた。日本最大勢力の大大名である柴田明家が妻の下の世話までして看病した。

 だがさえは下の世話を受けるのが恥ずかしく、夫にそんな真似をさせるのがつらくてたまらなかった。

「やめて下さい…。殿にこんな姿見られたくない…」

 一緒にさえの蒲団の横にいたすずがさえの気持ちを汲み取り言った。

「殿…。妻として夫に見せたくはない姿です。御台様の気持ちもお察しして下さい。私や八重殿、お福殿がいたしますゆえに」

「それは違うぞすず、病める時も寄り添うが夫婦なんだ。何がみっともない姿と云うのか。オレにとっては最愛の妻であるに変わりはない」

 すずは一言も返せなかった。そして思った。自分がさえと同じ立場になっても同じ事を明家はしてくれると。理屈ではなく明家の眼でそれが分かった。しかしさえが嫌がっているのは確か。羞恥に泣いている。自分の頭をこづく明家。

「い、いやスマン、すずの言うとおりだ。さえの女心も考えずオレの気持ちを押し付けてしまった。さえゴメン…」

「殿…」

「全部オレがしてあげたかっただけなんだ。本当にゴメン…」

 部下への気配りに長けた明家も妻に対してはまったく目が見えない。そんな不器用さが逆にさえは嬉しい。

「八重、すず、そしてお福、ご不浄(下の世話)を頼む。それ以外はオレがやるから」

「「はい」」

 改めてご不浄の処理がされた。明家は見ないよう外に出た。そして済むと戻り、

「さえ、悪かったな。さあ一緒に病と闘おう」

 と元気付けた。

「殿…さえは幸せです…」

「オレもだ」

 

 だが数日してあまりの苦痛に耐えかね、ついにさえは

「も、もう殺して楽にして下さい…。これ以上の苦しみに耐えられません…」

 と蚊のなくような涙声で明家に訴えたが、それだけはいくら最愛の妻に頼まれようと聞くことは出来ない。明家はあきらめなかったのである。水ごりもした。寒がるさえを抱きしめた。手足の冷感を訴えた時はずっと温めるように一日中その手足を愛撫した。さえを看病している時は側室に一瞥もくれなかったと云う。さえが自力で嘔吐物を吐けない時はクチで吸って排出した。いつもさえを励ます優しい言葉を耳元で

『今日もきれいだ』

『そなたの寝顔を見ているのが好きだ』

『治ったら子作りしような。早くそなたを抱きたいよ』

 と、いつも語り続けた。そして侍女に女の化粧の仕方を教わり、毎朝さえの顔に化粧もして、髪もとかした。発汗著しいため、一日に何度も体を拭いて寝巻きと蒲団を変える。これも人任せにせず自分でやった。食事も明家が食べさせ、水も飲ませた。時には口移しで飲ませもした。八重が少し温度を冷ました粥を持ってきた。それを受け取り明家が食べさせる。

「お、ネギ入りの粥だ。これは美味しそうだ。ほらさえ、アーン」

 食べてもすぐに嘔吐してしまう状態。でも何も食べなければ死んでしまう。明家は根気よく食べさせた。

 

 しかし柴田家の軍政は完全に放棄。あれほど律儀な性格の明家が軍務と政務を省みなかった。この時ばかりは仕方なく父の勝家が一時当主に復帰している。そして家臣に

「腑抜けと思うであろうが…せがれの思うようにさせてやってほしい。気持ちは分かる。ワシとてお市がああなったらと思うと…せがれを叱る事ができん。許してくれ」

 と頭を下げて願った。

「今の明家に…柴田家と妻一人の命どちらが大事かと問えば迷わず『妻の命だ』と言うであろう。さえが病になって分かった。智将だ名将だなんて言われても、あやつはさえがいなければ何もできん」

「いや大殿、我らはそんな殿が好きでございますよ」

 前田慶次が答えた。そして奥村助右衛門が眉間にシワ寄せ、勝家に言った。

「…大殿、このような話をするのは大変気が引けますが…」

「さえが死んだらどうするか…か?」

「御意」

「今の明家の立場で正室不在の事態は避けたい。利家と成政に年頃の娘もおるし、もしくは織田家から娶るのも良かろう。お市ももしもの場合は仕方ないと…涙ながらに納得した」

「殿が受けましょうか…。それ以前に御台様が身罷ったら殿は抜け殻となる事もありえます」

「ワシもそう思う。しかし立ち直ってもらわねばならぬのが柴田の実情じゃ。側室のすずたちに何とか明家に喝を入れてもらうしかあるまい」

「はっ」

「明家が後添えをどうしても受け付けないと述べても、それは立場的に許されないとワシが何としても言い聞かせ、新たな正室を娶らせる。その方ら家臣団は心配せず柴田の軍政に当たれ。良いな」

「「ハハッ」」

 

 苦悶はするが、意識は失わない。自分をずっと看病してくれる夫の明家の姿にさえはどんなに嬉しかっただろうか。『私に構わず柴田の軍政を』と何度か言ったが明家はさえの側から離れようとしなかった。改めて(ああ、この人には私がそばについていないとダメなんだ)と思うさえ。立場上、柴田の軍政をと言ったものの、さえは嬉しかった。夫明家は大大名になっても、側室を持っても自分への愛情に何ら陰りもなかった。疑った自分の頭を『バカバカ』とこづきたくなるほどだった。この人の妻になって本当に良かったと心から思った。

 さえの病は記録から見ると食中毒か破傷風とも云われているが正確には分かっていない。言える事は当時最高の名医である曲直瀬道三がサジを投げた重病と云う事である。だが奇跡が起きた。さえの高熱は徐々に下がりだし、食事を嘔吐する事もなくなった。再度曲直瀬道三を安土城に召した明家。診断して道三は

「信じられない…。奥方は快方に向かっておいでです」

「まことに!」

「どのような事をされたのですか?」

「いや別に大した事はしておりません。夫として当然の事をしただけです」

 明家は本心からそう言っている。妻が重病なら夫が看病するのは当たり前と。明家とさえの仲睦まじさは京にいる道三の元にも届いている。

「愛情に勝る薬はございませんな。はっははは」

 道三の言葉に顔を赤くする明家とさえ。

「ですが病は治りかけが肝腎、とくと養生せねばなりませんぞ奥方様」

「分かりました」

 その後も明家はさえに付きっ切りだった。さえの蒲団の横でうたた寝をする明家。

「お福、今日は底冷えがするから父上に上着をかぶせて」

「はい」

 眠る夫の顔を愛しそうに見つめるさえ。父に上着をかぶせながらお福が言った。

「ねえ母上」

「ん?」

「お福は…大きくなったら父上のような殿方の妻になりたい」

「…そうね、私もお福が父上のような人と一緒になってくれたら嬉しいわ」

「そういるかなあ…」

「お福が好きになった人が、きっとそういう殿方よ」

「竜之介は母上と結婚したいです」

「まあ、ありがとう竜之介」

 

 さえが快癒に向かっていると聞き、ホッとする柴田家臣団。明家の元気の源は妻のさえ。もし身罷ったらどうなっていた事か。最悪、後を追いかねないとも思った。

「良かった…。さえが峠を越した」

 そう安堵の溜息を出して妻のお市に述べる勝家。

「本当に良かった。さえは幸せな女房です。そしてそこまで深く愛せる妻を持つ明家も…」

 安土城内の広間、ここで柴田家臣たちが話していた。

「御台様の容態も良くなってきたらしい。最悪の事態は回避できそうだな慶次」

 と、奥村助右衛門。

「そうだな、しかし奥方が倒れるたびにこれでは困るな正直」

「オレもそう思わんでもないが…津禰がああなったらと思うと殿に強くも言えぬよ。慶次は出来るのか?」

「どうかな、加奈がああなったらオレも同じかもしれん。佐吉もそうだろ?」

「そうでしょうね。それがしも“奥方が倒れたくらいで当主の仕事を放棄するようでは困ります”と言えた義理ではございません。伊呂波がああなったらと思うと」

「はっははは、我ら愛妻家ぶりも主君ゆずりか」

 柴田明家直臣の幹部にはまだ黒田官兵衛や大谷吉継などがいるが、いずれも愛妻家で知られている。似た者同士なのであろうか。

「しかし…殿と我らでは責任の重さが違います。やはり我らが同じ立場に立ったらどうなるかは一旦置いてお諌めしなくてはならないでしょう。それがしが後日に述べさせていただきます」

「いや佐吉。それは筆頭家老のオレの役目だ。オレから申し上げる」

「しかし助右衛門、それで殿が『じゃあ津禰殿が病に倒れたら助右衛門はどうするんだよ!』と言ってきたらどうする」

  慶次の問いに少し困った助右衛門だが、膝をパンと叩いて

「『それはそれ! これはこれ!』と開き直ってお諌めをする」

「なんだそりゃ? 説得力の欠片もないではないか」

 慶次たちは笑い合った。

 

 やがてさえは快癒した。特筆すべき事がある。この時代の人間、特に女は大病を患うと、たとえ快癒しても体の衰えは著しいものがあった。例えるなら極度の冷え性になる事や、冬の寒気には関節がひどく痛み、酒を飲むしか痛みを和らげる術がないと云う事があった。

 しかしさえは先の症状と無縁であり、加えてこの後の人生で柴田明家の子を四人も生んでいる。まさにこの時に患った大病は夫の愛情により全快したと言えるだろう。

 さえが全快すると明家は伸ばすに任せていた不精ひげを剃ろうとしたが、さえが貫禄を水増しするため口ひげは残しては? と提案した。明家はそれに首を振りこう答えた。

「ひげを伸ばしたらそなたがチクチクして痛いだろ」

「んもう殿ったら知らない!」

 顔を真っ赤にして恥ずかしがるさえであったが、実に嬉しそうだったらしい。その場にいたさえの侍女たちは全身が痒くなったが、こうまで愛されているさえをうらやましいと思った。

 

 今まで、ただでさえ周囲が目のやり場に困るほどにイチャイチャしていた夫婦だったが、さらに磨きがかかり、往来で手を繋いで男女が歩くなど信じられなかった時代だと云うのに明家とさえはそれを堂々とやっている。

 他家の明家の顔を知らない武将たちが安土城下の往来でそれを見て『なんだあの若い男は。人前で女と手を繋いで歩き恥ずかしくないのか』と思ったが、その後に城で会った柴田家当主がその若い男であり驚いたと云う話も残っている。

 

 そして、快癒後に明家がさえを抱いた後。

「また殿に抱いていただける時が来るなんて…」

「オレは信じていたさ。さえが元気になる事を」

「ねえ殿…」

「ん?」

「ごめんなさい…。側室を持った事につまらない嫉妬を見せて」

「いや確かに…妻として拒絶したくても…柴田家正室としてそなたが拒絶できない事を半ば分かって虎と月を側室にしたオレが悪い。でもなさえ、正室と側室は違う。オレはさえの前でしか泣けないし…グチも言えない」

「私は殿の母上ではないですよ」

「母上以上の存在だ。オレの命そのものなのだから」

 その言葉がウソ偽りでない事は病の時によく分かっているさえだった。

「オレも男だから…きれいな女を見れば抱きたいとは思う。でもさえ、オレが抱きしめられたいと思うのは…さえだけだよ」

「殿…」

「さえ」

「はい」

「オレは閥を許さない男だ。それは家の中でもそうだ。オレに言いたい事もあるだろうが、虎と月と仲良くしてくれないだろうか。虎には佐久間家、月には小山田家の者たち。正室派と側室派に分かれてのお家騒動などもこの乱世いくらでもある。オレが火種を着けていて何だが…たとえ見せかけでも仲良くしてほしい。」

「いいえ」

「ワガママ言わないでくれ。見せかけだけでもいいから」

「そっちの意味の『いいえ』ではありません。すずと同じように友となりたいと思います。だって殿が認めた人たちでしょう? 同じ殿方を好きになった者同士。それに虎殿と月殿は私と同じ…世に裏切り者と罵られている方の娘同士でもあります。何か縁を感じます」

「さえ…」

「心配なさらずとも、我が家の中は私が円満に治めます。殿は柴田家の事を第一にお考え下さい」

「そなたは…最高の妻だ」

「おだてても何も差し上げませんよ」

「ついさっきたっぷりいただいたじゃないか」

「んもう助平」

 

 さえの看病中は側室に触れるどころか一瞥もくれなかったと云う明家。やはり正室のさえには敵わないと切に感じた。自分の入り込む余地などない。むしろあれほどに一人の女を愛している明家を見て、気持ちが良かったくらいではなかろうか。

 虎姫は『殿と御台様の愛、私たち側室は尻尾を巻いて逃げるしかなかった』と微笑ましく述べたと云う。そして正室さえが夫の側室たちと和を成そうとしたように、側室たちもさえを立てた。

 自分を『命』と言った夫の言葉がうそ偽りない事は、あの病にかかった時で十分すぎるほどに分かったさえ。だから彼女は明家がこの後にまた側室を増やしても一言の文句も言わなかった。

  しかし明家もそれにアグラをかかない。よく明家は『釣った魚にエサをやりつづける美濃殿』と言われていたが、彼はさえや側室たちを粗略に扱う事は一度もない。誕生日や各々と祝言を挙げた日も覚えており、その日は贈り物を渡し、各々が生んだ子には分け隔てない愛情を注いだ。

 そして明家は正室さえを一番愛した。一番多く明家の子を生んだのがさえである事がそれを物語っている。やはり一番に明家を癒したのはさえであったのだ。

 

 安土城内を侍女と共に大大名の正室らしく華やかな着物を着て歩くさえ。北ノ庄城下の小さな屋敷の台所で、火を熾すためにすすで顔を真っ黒にしていた自分が何か懐かしい。

 しかし明家は『オレは変わらない、北ノ庄城下の小さな屋敷でさえと二人で暮らしていた時と』と言った。自分もそれを心掛けようと思うさえ。安土城の中庭の廊下からふと見上げた秋晴れの空、立ち止まり気持ち良さそうに息を吸う。

(私も殿と同じく変わらない。今の私たちがあるのも死んでいった柴田と水沢の英霊たちのおかげ。殿はその英霊たちとチカラなき民たちのために戦のない世を作ろうとしている。私が患った病など比較にならないほどに重く病んでいる今の世、殿はそれを治そうとしている。

 柴田家の御台所として、私がそれにどれだけ助力できるかは分からない。でも私は殿と一緒にどんなつらい事にも逃げずに立ち向かう。すずや、虎殿、月殿とも一緒に。さえ、奥方様、御台様などと呼ばれ優越感にひたるまいぞ、富貴に溺れるなどあってはならぬぞ、私は柴田明家の妻さえ。それ以上でもそれ以下でもないのだから)


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