天地燃ゆ   作:越路遼介

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家康動く

 畿内、濃尾、飛騨、越前、加賀、播磨、但馬を勢力化に置き、京も手中にした柴田家。それと同じころ徳川家康も甲信駿遠三の五ヶ国を手中にした。特に徳川軍の本隊と云える三河武士団は戦国最強と呼ばれていた。それに武田や今川の遺臣が加わり、将も一流揃いである。

 柴田家と徳川家の縁はありそうでない。織田と徳川の同盟のおり、徳川に使者に立ったのは柴田勝家であるが、別に徳川家と柴田家が直接友誼や同盟を結んだワケではない。織田の行った合戦の多くに陣場を共にしてはいるものの、家康と勝家はお互いを認めつつも、そんなに親しかったワケではない。現当主の柴田明家と武田攻めの後に親しく話してはいるものの、柴田と徳川には何の盟約もあるワケでもない。

「弥八郎(本多正信)」

「はい」

 徳川家康の居城の浜松城。家康とその腹心本多正信が話していた。

「ワシが甲信を取り、ようやく五ヶ国の大大名となったと思えばあの若僧、日の本一の大大名となりおったわ」

「左様でござるな、やらせてみたら面白いでしょうなァ。三河武士団と美濃の精鋭との激突は」

「面白いでは済まんわ。ヘタをすれば共倒れじゃ」

 苦笑する家康。

「しかし分からん。美濃はつい最近まで織田の一陪臣、なぜあれほどに勢力を拡大できたか。一揆の一つも起きていないと云う。ワシが一歩進むのに、美濃は十歩進むようじゃ」

「かような早い足取りでは、足元の小石に気づかずつまずく事もあろうかと。天才とも言われていますが、それゆえに一度つまずけばモロいもの」

 と、石川数正。

「美濃はそんな土くれの天才ではない。その小石を事前に退かして進む男だ」

 数正の言葉に返す本多忠勝。

「ずいぶんと褒めますな平八(忠勝)殿」

「会った事があるゆえな。しかし殿、美濃がかつて殿も認めた男とはいえこのまま見過ごしておけば中国と四国も彼奴が手のものとなり、手に負えぬ存在になるのは明らか。いずれ我らが領土にも目を向けてくるでしょう。今、指をくわえて見ている訳にも参りますまい」

「平八の申すとおりです殿、柴田明家は今のところ失政も負け戦もないようにござるが、まだ家を継いで間もなく付け入る隙はあると存じます。ここらで出鼻をくじくが肝要と存ずる」

 本多正信も添えた。

「ふむ…しかし彼奴の動員数は十万を越える。我らは全部かき集めても二万五千、どう戦う?」

「毛利、長宗我部、宇喜多を焚きつけて背後から突いてもらうと云うのは?」

 本多忠勝が言った。家康は首を振り

「難しいの、毛利は先代元就の遺訓で天下を望まず守成に務めよとあり、それが大方針。秀吉をむざむざ備中高松から退かせたのを見れば一目瞭然。長宗我部は四国統一で手一杯、宇喜多は直家すでに亡く世継ぎの八郎は幼君。外征どころではないわ。また毛利と宇喜多は賤ヶ岳の情勢によっては秀吉に付きかねない動きをしていた。今や畿内の覇者である柴田のネコの機嫌を取るためにマタタビは届けても、ケンカを売る事はいたすまいよ」

「平八の具申、すべて捨てるべきではないかと。噂を流すのはいかがでござろう。毛利、長宗我部、宇喜多が西から畿内に侵攻と」

「弥八郎、美濃は智将だ。ひっかかると思うか?」

「柴田と先の三家にまだ何の盟約もない今、絶対にありえないとは言えないはず。徳川の流した噂と知りつつも、兵を割いて西に配備しなければなりますまい」

「ふむ…」

「とにかくやれる手はすべて打ち、美濃の軍勢の兵力分散をいたさねば」

「よし弥八郎、半蔵に命じ、徹底して草を仕込んで流言せよと伝えよ」

「ははっ」

「殿」

「なんだ平八」

「同様な手を美濃も打ちましょう。上杉と真田に命じて我らの兵力分散を講じるはず。毛利らが寄せるは流言に過ぎませぬが、上杉と真田は実際に動くかと。それはいかがなさいます」

「それには手があり申す」

「申せ弥八郎」

「上杉には新発田重家をそそのかしましょう。織田信長に代わり徳川が後ろ盾になってやると」

「ふむ、面白い」

 新発田重家、彼は御館の乱では景勝に付くが、その後の論功行賞で不満を抱き織田信長を後ろ盾に反乱する。この重家の反乱のおかげで景勝は魚津城を見捨てざるを得なかったとも言える。

 重家の反乱勢力は本能寺の変の後に急速に力は衰えるものの、いまだ景勝に叛意を抱き居城の新発田城に篭っていた。新発田城は現在の新発田川が加治川の本流であり、阿賀野川、信濃川が織り成す広大な水郷地帯に面していた。新発田城はこれらの大水郷地帯と深い沼田に囲まれた、難攻不落の平城であった。

 新発田家当主の兄の長敦と共に御館の乱において功績があったものの加増は長敦の病死と共に事実上反故にされた。新発田の名跡と旧領安堵だけが重家の恩賞であったのだ。景勝にどんな思慮があったかは不明だが、これは論功行賞における不備による反乱と言われても仕方ない。(史実ではおよそ六年もかけて鎮圧に至っている)

「上杉はこれで動けますまい」

「よし、どうせけしかけるなら上杉領三ヶ国くれてやるとでも申せ。真田の方はいかがするか?」

「そう上杉のように我が方へ都合のいい男はおりませんが、北条氏政に上田を脅かしてもらえば真田は出ては来れぬでしょう」

「よし我が方の兵力分散はそれで防げる。あとは美濃との決戦に…」

「殿、お待ちを」

「なんじゃ数正」

「その大義名分は?」

 アッと、家康は苦笑し扇子を額にポンと当てた。肝心なことを忘れていた。

「それは何とかなりましょう。二つありまする」

「ふむ、申せ弥八郎」

「一つは秀吉と同じく三法師を立てる事」

「…それはダメだ。柴田は織田から独立したとはいえ、美濃は三法師に岐阜城を含め肥沃な領地を与えて厚遇しておる。美濃の娘と三法師の婚姻も決まり、先代信忠と親しかったゆえ家臣団にも美濃と親密な者が多い。ましてや美濃は賤ヶ岳で三法師が羽柴陣にいると知っていても容赦なく攻撃したではないか。擁立してもムダであろう」

「ではもう一つ、織田信雄を焚きつけまする」

「信雄? あの阿呆をか?」

「確かに阿呆でございますが、信雄には軍勢がございまする」

「ふむ…」

「清洲会議では柴田権六に満座の前で怒鳴られ、賤ヶ岳では美濃に粉みじんにされた信雄。徳川が付くと言えば諸手をあげて大喜びしましょう」

「なるほど」

「柴田と友好大名でいると申しても、心中は穏やかではないはず。凡庸とはいえ信長公の次男、本来なら柴田権六や美濃の上に立っているはずなのに、今では家臣あつかい、かなり憤っていましょう」

「よし、それでいこう。信雄を煽って焚きつけて、織田家再興を大義名分とする」

「「ハハッ」」

「智慧美濃か、ふん、大層な通り名だがワシにその智謀が通じるかな。直接の合戦なら負けはせぬぞ」

 

 徳川家康はついに立った。織田信雄を焚きつけ織田家再興を名分として柴田明家と戦うために浜松城を出陣した。

 慎重居士と呼ばれる彼がどうして大国を領有し、京さえ押さえている柴田に挑んだか。やはりそれは立たざるを得なかったからだと思われる。徳川にとって今がギリギリ柴田と五分の戦いに持ち込める時局であったからだろう。もとより柴田明家の首が取れるとは思ってはいない。戦って、たとえ局地戦でも良いから勝利する事によって徳川が東にありと誇示し、たとえ大軍でも徳川には勝てない事を悟らせる事が目的ではなかったか。勝たずとも負けなければ良いのだ。

 この知らせはすぐに柴田明家の耳に入った。遠からず徳川は動くと思っていた明家。急ぎ城の陣太鼓を鳴らして家臣たちを招集した。続々駆けつける柴田家臣、そして従属大名に与えられた安土屋敷に出向している各家老たちがやってきた。譜代、直臣、従属大名幹部が集まり軍議が開かれた。

「みなに告ぐ、徳川家康殿がいよいよ立った」

「「はっ」」

「大義名分は織田信雄様を担ぎ、柴田が簒奪した織田の天下を取り戻すと云うものだ。その数、信雄勢と合わせ四万の大軍だ」

「信雄様が…」

 と、前田利家。

「いかにも、信雄様は柴田との友好の盟約を破棄された。亡き大殿のご次男と戦われる事に利家殿や成政殿には思う事もございましょう。しかし信雄様御自らが柴田との友好を破棄され申した。三法師様を当主とする織田本家とはこれまでと同じく親密とする。しかし信雄様の家とは完全に手切れとし、徳川殿同様に敵と見なします」

「「はっ」」

 前田利家や佐々成政は信雄が徳川家康に踊らされている事を悟る。だが柴田との手切れを決心したのは信雄自身、かつての主家織田家を大切に思う前田利家や佐々成政とて、もう信雄を庇いようがない。愚かなり…。二人は心の中でそうつぶやいた。明家が続ける。

「信雄様の軍勢は伊勢湾を渡り徳川勢と合流、北上しすでに鳴海の城が取られたと滝川殿より報告が入った。四万の軍勢、かつ徳川殿の采配では尾州の滝川と森は防ぎきれまい。また尾張より美濃に入る道の領主は三法師様で戦にならない。何としても徳川・信雄連合軍を尾張で止める。全軍出陣の支度を急げ!」

「「ははっ!」」

「小山田、真田、そして武田遺臣たちよ」

「「ははっ」」

「徳川にも武田遺臣は多いと聞く。そなたたちにとっては風林火山の旗に集いし元同胞と戦う事になる。あちらの武田遺臣も複雑な思いであろうが今は敵と味方である。遠慮するな!」

「「ははっ!」」

「申し上げます!」

「うん」

「毛利が山陽道から! また長宗我部が軍勢を堺に向ける動きありとの事!」

 評定の間に激震が走った。明家は苦笑した。

「服部半蔵…いや本多正信の仕業か」

「流言と?」

 と、黒田官兵衛。

「兵力分散をさせる腹でしょう。ま、オレが徳川殿でもそういたします」

「殿には想定内でございましたか?」

「毛利、宇喜多、長宗我部と我が柴田には今のところ何の盟約もないゆえ、オレはその噂を敵の流言策と知りながらも無視するワケにもいかない。毛利は守成を尊ぶけれども、宇喜多や長宗我部は尾張での合戦の趨勢でどう動くか分からない。とにかく西の国境に兵は配備しなければならないな」

「御意」

「山陽道と堺に兵を向けよう。山陽道は播磨国主の奥村助右衛門と但馬国主の蒲生氏郷殿に任せる」

「承知しました」

「堺には前田利家殿を大将に二万、残る六万は東に進み徳川・信雄連合軍と対峙する」

「「ハハッ!」」

「助右衛門、利家殿」

「「ハッ」」

「敵影を見る事もない合戦に行かせるは申し訳なく思うが、これも万一に備えての事。軽く思われるなかれ」

「「ハハッ」」

「各従属大名には十分な軍用金を与えるゆえ、出向している各重臣たちはそれを持ち急ぎ国許に戻り、出陣を要請せよ」

「「ハハッ!」」

「では全軍、出陣の準備にかかれ」

「「「ハハッ!!」」」

「三成、幽斎殿」

「「はっ」」

「ここに」

 石田三成と細川幽斎は明家に寄った。手招きして耳を貸せと云う仕草だ。

「思いの他、徳川殿の動きは早かったが対応できるな」

「はい、工作はそれがしと幽斎殿、直賢殿ですでに」

「よし、すぐに行ってくれ」

「「承知しました」」

 石田三成はすぐに立ち去った。そして

「幸村、兼続殿」

「「はっ」」

「単刀直入に訊ねる。上杉と真田は助勢に来られるか?」

「上杉は新発田重家が動き、難しい状況かと…」

 上杉家家宰、直江兼続が実情を報告した。明家にもその新発田重家の反乱は耳に入っている。数日前まで安土に上杉景勝も滞在していたが、新発田重家に不穏な動きありと知り、すでに越後に引き返している。兼続はまだ仕事が残っていたので安土にいたが、交代の家老もやってきたので国許に帰るつもりであった。しかしその矢先に徳川挙兵であり兼続は帰るに帰られなくなった。

「やはりか…」

「申し訳ございませぬ。しかし当直江家の軍勢はおりますれば、寡兵とは申せ働く所存にございます」

「いやしかし…国許の新発田重家の反乱も重く見なければならぬだろう」

「さにあらず、新発田重家の反乱、織田信長殿が死んで今までナリを潜めていたのに急に盛り返したるは徳川に何ぞ美味しい褒美でも約束でもされたのでございましょう。重家は短慮者なれど阿呆にあらず、徳川と柴田の趨勢を見て本格的に行動しましょう。今の挙兵は牽制程度であるのは必定、それよりもこの徳川との戦、直江勢だけでも参戦し従属の約を果たしたく存ずる」

「ありがたい。謙信公ゆずりの采配、楽しみにしている」

「お任せを」

「幸村、真田は?」

「北条氏政が上田に迫っているとの事で…当家もやはり」

「ふむ…。噂には聞いていたが本多正信と云う仁は、そうとう切れ者だな」

 柴田には兵力分散を余儀なくさせ、徳川にはそれを一切やらせない。さしもの明家も知恵者と本多正信を認めるしかない。

「しかし安土にはそれがしの直属兵が出向していますゆえ、小勢でも存分な働きをお見せいたしまする」

「よし幸村、そして直江殿、オレの寄騎として参じよ」

「「ハハッ」」

 直江兼続と真田幸村は自分の兵をまとめるべく評定の間を立ち去った。

「さて…」

 柴田明家はゆっくり立ち上がり浜松の方向を見た。

「信雄様と徳川殿四万か…。当方は二万ほど多いが徳川殿相手に勝利は難しい。オレは無理をしない。だが負けない」

 

 こうして奥村、蒲生、前田勢は西の国境に向かい、毛利、宇喜多、長宗我部の万一の出兵に備えた。柴田明家率いる六万の軍勢も徳川に対するべく東に進んでいた。そして尾張の地で対峙。柴田勢は犬山に布陣し、徳川勢は小牧山に布陣した。

 着陣した明家に滝川一益が清洲から突出して敗退したと云う報告が入ってきた。明家は出るなと下命していたが、支城を落とされて黙っていては面目丸つぶれ。滝川一益は討って出た。そして敗退した。

「面目ござらん…!」

「……」

 明家は黙って一益の報告を受けた。

「それで…清洲は?」

「倅どもが死守しておりましたが…柴田勢犬山に着陣と聞き家康は兵を清洲から呼び返し申した。追撃に出るも粉砕されたとの事…。以後は死守に務めております」

「相分かり申した。勝敗は兵家の常、傷を癒し次の戦いで挽回されよ」

「ははっ!」

 

「ふうむ…犬山に布陣したか。中々に堅固な備えじゃな」

 同じく小牧山に布陣した徳川軍。これが世に云う柴田明家対徳川家康の『尾張犬山の戦い』である。

「まこと、法にかのうた布陣にございますな。殿、この戦は長引きますぞ」

「そうよな弥八郎。で、西には?」

「奥村助右衛門、前田又佐、蒲生が備えたとの事。美濃はそれがしの仕業と見抜いたでしょうが、無視するわけにもいかぬ立場。何とか最初の思惑通り兵力分散は成せましたな」

「亡き信長公なら流言と確信するなら全兵力をこちらに向けたであろうな。ふふ、彼奴め、そういう慎重さが妙にワシと似ておるわ」

「とはいえ美濃の軍勢は六万、大軍ですな」

「そうよな、まあ動員十二万以上が可能と云う美濃に半分ほどしか連れてこさせなかっただけで良いわ。この戦いは柴田のネコに一泡吹かせられれば良い」

「討って出ませんので?」

「軍勢こそはあるが、信雄の軍勢はハリコの虎よ。賤ヶ岳で美濃の攻撃に寸刻も持ちこたえられなかったと云うではないか。笑えるほどにアテにはならんわ。事実上頼りになるのは我が軍勢のみ。六万の柴田の半数以下じゃ。討っては出られぬ。勇みすぎずじっくり構えておれば必ず向こうから手を出してくる。そこを叩けば良い」

「なるほど」

「この戦、勝たずとも負けなければ良い。さあどうする柴田のネコ。そなたは今まで勝ち戦しか知らぬ。忍耐力ならワシの方が上じゃ」

 

 一方の犬山、柴田陣。

「なるほど睨み合いか。双方とも後は自分の領内、輸送経路も確保済み。狸親父らしいやりようだ。平馬」

「はっ」

「犬山の後方に町を作れ、そして商人と遊び女もどんどん雇え。長対陣に備えるぞ」

「承知しました」

 大谷吉継の差配で柴田陣の後方では町が作られた。長対陣で将兵の鬱憤を溜めないためである。

 二ヵ月、三ヶ月が流れた。柴田も徳川も動かない。睨み合いである。西の情勢も同じだった。奥村助右衛門も前田利家も兵の鬱憤を溜めない様に町を陣の後方に作ったと云う。これはかつて松永久秀や羽柴秀吉の取っていた方法で、柴田明家はそれをより大きく形にしただけである。彼は柴田当主になると、この方法を柴田戦術に取り入れている。敵に学ぶ明家。普段は倹約を推進するが、こういう時は金を惜しんではいけないと知っている。

「町を作っている?」

 これは家康の耳にも入った。

「陣の後に町を作り、将兵を慰撫しているとの事」

「…なるほど、敵もさるものじゃな。じゃがそろそろ痺れを切らす者が出てきよう。特に我らに敗北した滝川一益などはな」

 その通りだった。

「お願いにございます。我らに浜松を落とさせて下さいませ!」

 中入を発言してきた滝川一益。普段は冷静な彼だが、常勝の柴田明家軍の中で一つ敗戦をしてしまい、その汚名返上に必死なのである。

「中入はなりませぬ。賤ヶ岳で佐久間玄蕃殿の中入で父勝家の軍勢はどうなりましたか」

「しかし…!」

「良いですか伊予殿(一益)、伊予殿の敗戦は局地戦です。戦いは最後の一勝をすれば勝ちなのです。動いてはなりません」

「……」

「…聞けば伊予殿は裏の町にも遊びに行っていないと云う事。少し空気を換えてきたらいかがですかな」

「はっ…」

 肩を落として柴田本陣を去る一益。

「殿、あれは抜け駆けをしてしまいますぞ」

 と、黒田官兵衛。

「オレもそう思う」

「殿、こうしてはいかがでしょう」

 官兵衛は明家の耳元で考えを説明した。

「よし、それでいこう。取り計らって下さい」

「承知しました」

 翌日、陣の中で戦いたい気持ちを抑える滝川一益の陣に黒田官兵衛が訪れた。

「伊予殿」

「なんじゃ」

(虫の居所が悪そうだな…)

「官兵衛、あ、いや今は美濃殿の直臣の貴殿に失礼した。コホン、官兵衛殿」

 軍机に着座する一益は自分の横の床几に官兵衛を座るよう促す。

「のう、何とか美濃殿を説得してくださらぬか。何とか我らに汚名返上の機会を。こう睨み合いの毎日ではいいかげんイヤになる」

「それなんですが…」

「むう」

「実はこの長対陣で将兵も裏町だけでは足りず、不平不満を述べる者が出てきております」

 これはウソだった。極楽陣中と云うわけではないが、十分なメシに女、不平を述べる者は皆無と云うわけではないが非常に少ないのが実情である。

「ほう、そうであったか」

「伊予殿は亡き大殿にも腕前を認められた茶人でございましたな」

「ん? ああ、まあな」

「して伊予殿、その茶の湯で殿を助けてはもらえませんか。兵の不平で殿は頭を悩ませておりまして」

「なんと?」

「それがし見かねて…それで伊予殿にお願いする事を思いついた次第にございます」

「かような事でござるか。よろしい、茶会を開いて将兵の心を和ませるよう美濃殿に進言つかまつろう。それがしが茶頭となって差配いたすゆえ心配せずと」

「おお、ありがたい!」

 心の中でニヤと笑う官兵衛だった。こうして困っているから助けてくれと云う方が効果はある。数日後、滝川一益が音頭をとって柴田陣にて茶会が催された。

「なに茶会を開いている?」

 徳川方にも物見からその報告は入った。

「はい、滝川一益が茶頭となり催しております」

「……」

「徳川殿、これは美濃、完全に油断していますぞ」

 と、織田信雄。

「この機に乗じて一気に犬山に攻めかかりましょうぞ!」

「なりませぬ」

 家康はそれ以上言わずに自分の陣屋へと歩いた。

(何を考えている美濃…。町を作り、今度は茶会…。ワシを誘い出す腹か)

「半蔵!」

「はっ」

「柴田陣への草を増やせ、その方も直接見てまいれ」

「ははっ」

 こうして徳川の忍びである服部半蔵が夜陰に乗じて柴田陣の裏町に侵入した。半蔵は驚いた。完全に遊郭街である。

「半蔵様、美濃は何を考えているのでしょうか。合戦の陣場とは思えませぬ」

 部下の一人が言った。

「うむ…。いかに柴田の財力がすごいか分かるな…」

 半蔵はこの裏町と柴田陣に出入りしている商人を見たので、商人風体に変装して裏町と柴田陣の内偵をした。

 しばらく調べると、柴田の将兵は交代で非番制を取り、陣に留まり酒も女も断って合戦の備えるものが常時四万おり、非番の二万が裏町で遊んでいる。二万の将兵を慰撫するのであるのだから、それは広範囲である。もはや町だ。こういう楽しみがあるから四万の将兵は緊張を緩めずに徳川陣を睨んでいられる。軍律も守る。しかも遊んでいる二万も陣太鼓一つで駆けつける手はずとなっている。

「徳川にはこんなマネが出来るほどに金はない…。あっても倹約家の殿はせぬであろうが…戦場では将兵の性欲は平時より余計に高まるもの。これは敵といえ見習うべきかもしれぬな」

 半蔵は明家の取る裏町の仕組みに感心してしまった。

「半蔵様!」

「なんだ」

 部下の一人が知らせた。

「柴田陣から西へ早馬が!」

「よし、捕らえるぞ。美濃が忍びは藤林、一人で三十人の兵に匹敵すると云われる剛の者。油断するな!」

「「ははっ」」


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