ある裏路地から始まった物語 作:UN
愛支からあんなことを聞かれたからだろうか、ふとした時にアイツの事を思い出すことが多くなった。例えば信号の待ち時間、例えば電車の吊革につかまっている時、例えば西日に染まる帰宅途中。そんなふとした時にフラッシュバックのようにアイツのことを思い出す。
俺がアイツの事について思い出すときに、セットになって浮かんでくる言葉が幾つかある。しかし、最も印象に残っている言葉はこの言葉だ。
――世界は素晴らしい。戦う価値がある。
西日の差し込むあの部屋で、真っ白なキャンバスを前にしてアイツはそう言って笑っていた。その光景は今でも俺の脳裏に焼き付いていて、あのしわがれた声と、西日に照らされたあの笑顔は未だに忘れられない。
俺が覚えている限りではこの言葉はアイツの口癖に似たものだった。事あるごとにこの言葉を俺や妹に投げかけていた。今思い返せば口癖というよりも、口癖以上のもの、そう自らの哲学というか、生き方というか、そんな根本的な物を差していた言葉だと思う。
実際にアイツはこの言葉通りに生きた人だった。
――The world is a fine place and worth the fighting for .
今は昔かの文豪ヘミングウェイはその作中でこう書いた。アイツがヘミングウェイに精通していたのか、それともただこの一文が好きだったのかは当時の俺には興味のなかったことだし、今ではもう確かめようのないことだ。ついでに言えば今でも興味がない。しかし、彼の人生にとって、この一文は文字通り人生を変える一文となったことは間違いはない。
アイツはこの一文のために生きて、この一文に準じて死んだ。
ヘミングウェイよりも、彼の方がこの言葉を体現した生き方に違いない。ヘミングウェイは晩年、銃による自殺でこの世を去っている。『世界は素晴らしい。戦う価値がある』この言葉が正しいのなら、ヘミングウェイは何故自殺をしたのだろうか。世界が素晴らしくはなく、薄汚れたものだと気付いたからかもしれないし、戦った結果現実に負け自殺を選んだのかもしれない。どちらにせよ、救いようのない話であり、とてもではないがかの明言を体現した生き方とは言えないだろう。
しかし、アイツは違った。きっと、アイツの中では世界は素晴らしいものだったに違いなく。そして、そのため戦って死んだことに後悔なんて微塵もないはずだ。殺される瞬間でさえも彼の中では世界は素晴らしく輝いていたものに映っていたはずだ。
――『あっはっはっは! おい、小僧覚えておけ!――』
錆び付いた俺の海馬の中に残る消したくても消せない記憶。呪いのように深くそして根強く焼き付いているあの光景。
夕日によって茜色に染まったあの部屋。何も書かれていた真っ白なキャンバス。。筆を持ち椅子に座るアイツの姿。しわがれた威圧感のあるアイツの声。そして、あの言葉。
――『世界は素晴らしい。戦う価値がある』
「アンタのお陰で俺の世界は暗く冷たいよ、なぁ爺さん」
そう呟いた言葉は誰の耳にも届くことなく何処かに消えていった。
「はい、テーブル吹き終わったよ」
台所で作業をしているとトテトテした可愛らしい足音が聞こえてきた。その足音が止むと同時に服の腰辺りがちょんちょんと摘ままれ、俺の背中に声がかかった。声は小さい。しかし、その声に敵意や怒りがにじみ出ていることはない。
「あいよ。もう少しで出来るから待ってろ」
振り向きざまに返事を返す。振り向いた先には俺の服を右手で摘まんだ小さな同居人の姿。俺の春物のセーターにこれまたおさがりのジャージを履いた愛支の姿があった。愛支はまだまだ子供だし、そのうえ小柄な体系だ。それに比べて俺の方はというと嬉しいことに日本人男子の平均身長よりも8cm近く高い。いくらおさがりだと言っても俺の服が彼女に合うはずが微塵もなく、セーターはどれだけ伸ばしても腕が袖から出ることはなく、ジャージも三回は裾を折らないと引きずってしまう有様だった。
確かに俺は貧乏だ。しかし、貧乏は貧乏なりに愛支の服も安物ながらキチンと数着は買ってある。しかし、愛支は何故かは分からないが家にいる時は基本的に俺のおさがりやら俺の服を着て過ごすことが多かった。別に俺自身は愛支が俺の服を着ることについて何も思わないのだが、愛支自身動きにくくないだろうかとたまに思う訳だ。聞いてみても「これでいい」と言われるだけなので、いいのだろうが、気になるのは気になる。今のところ愛支の為に買った女性ものの服は専ら外出するとき専用の服になっている。
服に着られると言う言葉ではまだ足りない有様の愛支は左に持っていた台拭きを俺に差し出す。
――ありがとう。
そう言って受け取れば、愛支は急に嬉しそうに笑顔を作りそのまま、「待ってるね」と言って居間に引っ込んでいった。
――何が嬉しいんだろうか、愛支は……。
ここ数年まともに人付きあいというものをしてこなかった俺には彼女の気持ちは分からない。しかし、彼女が笑顔を見せてくれることがいい傾向だと言うことくらいは分かる。あれだけ俺に憎しみの感情を見せていた彼女が今では時折笑顔を見せてくれている。それはきっといい傾向に違いなく俺にはそれがたまらなく嬉しかった。
――子供が出来たらこんな感じなんだろうか……?
ふと、そんなことを思いながら、愛支から受けった台拭きを流しで洗っているとコンロに掛けていたヤカンから沸騰の合図聞こえてきた。馴れた手つきでガスを止め、食器棚からマグカップを取り出す。色は赤と青。かれこれ一か月近く前に買った、色違いの御揃いのマグカップだ。
そのカップの中にオリジナルブレンドコーヒーを一匙入れる。まぁ、オリジナルと言っても市販のインスタントコーヒー豆を合わせて作ったなんちゃってオリジナルブレンドだ。しかし、俺と彼女の二人で試行錯誤の上に出来た思い出のコーヒーだったりする。味の方もいける味なので、是非とも暇があれば試して欲しい。
マグカップにお湯を注ぎマドラーで一混ぜ。クルクルと回るブラックホールの様な水面を見ながらカップを居間へと運ぶ。運ぶ途中に時計を見れば、安物の掛け時計は九時を少し回る時間を指していた。いつも通りの時間だ。
「あいよ、愛支。コーヒーだ」
居間の中心にあるちゃぶ台。入り口の対面に腰を下ろしている愛支。彼女の前にはまだ新しいノートが一冊と、本が一冊置いてあった。愛支にマグカップを差し出す。赤いそれは愛支のマイカップだ。
「ありがとう」
愛支は小さいながらも確かにそう言ってマグカップを受け取った。
「どういたしまして」
返事を返しながら俺も腰を下ろす。愛支の真後ろにある窓からは綺麗な青空が見えた。どうやら今日も天気は良いようだ。
そのままマグカップを口に運び一口。
――あぁ、やっぱりこの時間に飲むコーヒーが一番うまい。
平日の午前九時に飲むコーヒーは普段飲むコーヒーとはどこか違い少しだけ優雅な気分にさせてくれる。
俺がバイトに向かうのは毎日同じ午前十時。朝食後、九時から十時までの約一時間の珈琲タイムがここ最近の俺たちの日課だった。愛支が本を読んでいくうちに分からなかったことを聞く、二人だけの勉強会。この時間はそんな時間だった。
「うん、美味しい」
正面に座る愛支はマグカップを両手に持ちそう言ったほほ笑んだ。
あの裏路地の出会い。あれから月は変わり五月も中旬になった。桜の花びらはとっくに散り、葉桜がもうすぐ見ごろになる頃合になる。
今も昔も自分の事が賢いと思い上がったことなんて一度たりともなかったが、ここまで世界というものは俺の知らないことばかりだと実感したことはこれまでになかった。知識として、デルポイのアポロン神殿に記された「汝自身を知れ」という言葉を知ってはいたものの、この言葉の本当の意味を今までは実感することが無かったのだ。
しかし、不思議な縁であの裏路地で愛支と出会い、共に暮らし始めた結果日々新しいことの発見であり、新しいことを体験する毎日が始まった。その暮らしの中で自分の無知と愚かさを始めて思い知らされた。愛支と暮らし始めて一か月と半分。たった一か月と半分で俺の人生は大きく変わった。
「そりゃ、よかった。で、今日はどんな本を読むつもりなんだ?」
俺は知らなかった――
「今日は、これを」
――喰種がコーヒーを飲めるということを。
「鏡の国のアリスか」
俺は知らなかった――
「うん、この間ようやく不思議の国のアリスを読み終わったから」
――喰種の中にも彼女のような存在がいるということを。
「へぇ、一人で全部読めるようになったんだな。凄いな」
俺は知らなかった――
「えへへ、ありがとう」
――喰種が人間のように考え、感情を持っているということを。
「それで、次は続編というわけだな」
俺は知らなかった。
「うん、今度は前よりも早く読み終われそう」
――喰種が化け物ではないということを。
「おぉ、やる気だな。頑張れよ、分からないことがあれば何時でも聞いてくれていいからな」
俺は知らなかった。
「うん、頑張るっ!」
――愛支(グール)との暮らしがこんに楽しいということを。
なぁ、親父、爺さん。俺は一体どうしたらいいんだろうな……?
心の中の疑問は春の陽気に中てられどこかに消えていった。