十二月。
日本に比べると季節の移り変わりが分かり難いソロモン諸島だったが、この時期になると年末に向けて何かと慌ただしくなるため、否応なく「十二月になった」ということを皆が感じることになる。
所謂、年末進行というやつだった。
「あー……」
「うぅ……」
「眠い……」
その日、間宮食堂は疲労のこもった声で埋め尽くされていた。
軽巡洋艦や駆逐艦娘たちは、船団護衛依頼が急増して休みが激減している。
他の艦娘たちも、泊地内の雑務や深海棲艦との戦いが忙しく、休めない者が増えてきていた。
「皆相当疲れてるな……」
ラーメンをすすりながら、泊地のスタッフである板部は周囲の惨状に頭を抱えた。
「板部先生は割と平気そうだね?」
正面でハンバーガーを頬張りながら皐月が感心したように言った。
彼女も普段と比べると元気がない。バーガーを食べるスピードも半分くらいになっている。
「慣れただけだ。慣れん方が良いぞ。残業時間をカウントするのがアホらしくなるくらいになったら、仮病でも何でも使って休みを取るべき。そういうことを学べる職場にいたことがあるだけだ」
「ああ、ブラック企業ってやつだね……」
「ここは全然マシな方だが、深海棲艦が元気になってくるとどうしようもないのが辛いところだな」
放置しておけば、近隣の生活どころか自分たちの生活も脅かされることになる。
対処するため動かざるを得ないのだ。こればかりは調整のしようもないので、どうにもならない。
「疲労を減らせないなら、減った分だけ回復させていくというのはどう?」
隣にいたゴトランドが、得意げに指を立てて提案してきた。
最近着任したスウェーデンの艦娘である。
「回復って言ってもな……どうするんだ。温泉なんて用意できないだろうし、マッサージチェアは数揃えられないだろうから争奪戦になるぞ。エナジードリンクも頼り過ぎは厳禁だ。飲み過ぎは却って良くない」
「なんだか苦い経験があるみたいね……」
真に迫る板部の言葉に、ゴトランドと皐月は乾いた笑みを浮かべるしかなかった。
「そうじゃなくって。アロマよアロマ」
「アロマ? アロマセラピーってやつ?」
「そう、それよ皐月!」
そう言ってゴトランドは卓の上に小瓶を取り出した。
そこからは、ほのかに良い香りが漂ってくる。
「わあ、良い香りだね」
「おっふぅ……なんだこの感覚。俺の人生には無縁だと思っていた何かが鼻腔から入り込んでくる……」
「反応が怖いわよ板部先生」
「ほっとけ」
慣れない感覚に変な声を上げてしまった板部だったが、咳払いをして居住まいを正すと、小瓶を改めて手に取ってみた。
「だが、なるほど。こいつは良いかもしれんな。アロマって植物から作れるんだろう?」
「そうよ。最近興味があっていろいろと調べてるの。この泊地はいろんなもの育ててるし、周囲にも自然に育ってるのが沢山あるからいろんなアロマが作れると思う」
「そこまで金かかるわけでもないし、ある程度量産もできる――ってことなら司令部の許可も下りるかもしれないな。効果のほどは正直まだ分からんが、今の感じだと決して馬鹿にはできないんじゃないかって思うぞ」
「身体的な疲労もそうだけど、ストレスにも効くらしいのよ。仕事で忙しいときとか、結構良いんじゃない?」
そう言って、ゴトランドは小瓶を板部の鼻先に近づけた。
「あふぅん」
「……板部先生」
「そんな目で見るな皐月よ。大人は、いつだって疲れてるんだ。癒されることに慣れていないだけなんだぞ」
若干気色悪そうな視線を向けてくる皐月に、板部は精一杯取り繕って答えるのだった。
ゴトランドの申請は司令部にも受け入れられ、少しずつS泊地の各所でアロマオイルが置かれるようになっていった。
ほのかに漂う良い香りのおかげで、泊地の雰囲気は大分柔らかいものになった。
「おや、板部先生ではないか。ごきげんよう」
「お、板部先生だ」
書類を抱えて泊地内の廊下を歩いていた板部は、皐月と長月と出くわした。
「おう、二人とも元気そうだな。……というかごきげんようって、どうしたんだ長月。そういうキャラだったか?」
「なんだ、そんなにおかしいか?」
「そういう挨拶は、なんというか……ほら、暁とか熊野がやりそうなやつだろ」
「……」
先程の自分の立ち振る舞いを振り返ったのか、長月はやや神妙な面持ちになった。
「アロマの影響かもね。長月に限った話じゃなくて、どこかしら皆なんか上品になってきてる気がする」
「匂いでそこまで変わるか?」
「そういう板部先生だって、ほら」
と、皐月は板部の顔を指差した。
「普段は多少なりとも無精髭あるのに、今日はつんつるてんじゃん」
「んん……? はっ。言われてみれば!」
自分の顎に触れてみて、いつもと違う感覚に気づいた板部は、さっきの長月と同じように神妙な面持ちになった。
「油断するとキャラがぶれるとは……恐ろしいな、アロマ」
「ああ。下手すると皆のキャラが変わって、この泊地がお嬢様学校みたいになってしまうかもしれない……」
「いやいやいや」
それはないでしょ、と手を振る皐月の言葉は届いてないのか、板部と長月は揃って深刻そうな顔でわなわなと震える。
「あ、三人ともどうしたの?」
そこに、何かトレイのようなものを抱えたゴトランドがやって来た。
「やあ、ゴトランド。アロマのおかげで、最近はすっきり眠れるようになったよ」
「あらそう。それは良かったわ! そうそう、今新しいのをいくつか試作してみたんだけど……」
ゴトランドの持っていたトレイの中には、いくつかの小瓶が入っていた。
それを目にした板部と長月はゴクリと息を呑む。
「こ、これは嗅いでも大丈夫なやつか……?」
「え? ええ。もちろん大丈夫よ。変なのは入れてないから」
「では、失礼して……」
小瓶の一つを手に、長月はゆっくりと香りを堪能する。
「どうだ、長月……?」
「ああ。これは――良いものだな」
そう言って小瓶を元の位置に戻すと、長月は側に腰を下ろしてゆっくりと頭を垂れる。
「……え? 長月?」
「どうしたのかしら、長月」
心配そうに長月の様子を窺う二人に、皐月が肩を竦めた。
「多分寝たんだと思うよ」
「え、ここで?」
「気持ち良過ぎて、眠りに誘われた――ってところかもね」
確かに、長月は小さく寝息を立てていた。
「かなり疲れてたってことか。さっき様子がおかしかったのも、そのせいだったのかね」
「かもね。長月ってば、あんまり疲れてても表に出そうとしないところあるから。もっと甘えても良いのに」
よっこらせ、と長月を背負いながら皐月が言う。
普段の言動は子どもっぽいところがあるものの、こういうところは姉なのだった。
「それじゃねー」
「おう。皐月も無理はするなよ」
長月を背負った皐月を見送ると、板部はちらりとゴトランドの持っている小瓶を見た。
「ゴトランド。俺も一つ良いか?」
「ええ、どうぞ」
板部も最近は寝不足で悩まされていた。
寝ようとしても寝付けない。そういう夜が多くなった。脳が休んでくれないのである。
「んじゃ、失礼して……」
適当に一つ手にして匂いを嗅ぐ。
すると、とても晴れ晴れとした爽やかな気持ちになり――目が冴えてくるのを感じた。
「……あれ。これなんだ。眠くならないぞ」
「あ、うん。それはさっき長月が嗅いだのと違って、眠気に負けないようにするとき用のだから」
「――あ、そうなの」
結局、板部が眠れたのはそれから二十時間後のことだったという。