S泊地の日常風景   作:夕月 日暮

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「いだてん」や「風が強く吹いている」が面白い今日この頃。
走っている姿って、なんだか良いですね。


その足で走り行く(長良・鬼怒・ゴトランド)

 長良の朝は早い。

 予定がない日でも、基本的には陽が昇る前に起床する。

 

 手早く着替えて洗顔と歯磨きを済ませると、泊地の周辺を走る。

 走りながら目にする日の出が、長良は好きだった。

 

 聞こえるのは波の音と、ハッハッ、という自分の呼吸くらいである。

 それらはどちらも自分自身と一体になって感じられたので、走っているときはとても静かだと思えた。

 

「なぜ走るんだ?」

 

 昔、たまたま朝のランニングのときに遭遇した提督に聞かれたことがある。

 そのときは、どのように答えたか。思い出そうとしたが、もう何年も前のことだったので、上手く思い出せなかった。

 

 拠点が見えてくると、長良はほんの少しだけ残念だと胸中でぼやく。

 まだ走れるのだが、拠点に戻ったら終わりにする、と決めているのだ。

 

「あ、長良姉。もう終わったんだ?」

 

 ゴールまで辿り着くと、ジャージ姿の鬼怒がおはようと声をかけてきた。

 いつの頃からだろうか。この妹も、長良と同じように走るようになった。

 もっとも、長良のように日課にしているほどではないようで、気分次第で止める日もある。

 

 そんな調子だから、特に一緒に走る約束をしているわけでもない。

 各々が好きに走るだけである。

 

「こっちはコースが泊地に比べると短いから、なんか物足りないんだよね」

「あー、分かる。もうちょっとコース整備してみる?」

 

 長良たちが今いるのは、S泊地本部ではない。

 ソロモン諸島の東部の島にある東部支部だ。

 

 東部支部と、首都ホニアラに近い中央支部は、ショートランド島にある本部と比べると、設備がまだまだ物足りない。

 よく言えば自然多め。悪く言うと開発されていないところが多いのだった。

 

「うーん、流石にそれは簡単にはできないよ。ある程度予算と人手がないと」

「となると無理か。趣味にお金回すほどうちに余裕はなさそうだもんね」

 

 そんなことを二人で話していると、菜園のための道具を持ったゴトランドが姿を見せた。

 

「おはよう、二人とも」

「あ、おはよっす」

「おはよう。精油の材料作り?」

「ええ、そんなとこ」

 

 ゴトランドは最近アロマに凝っていて、精油も自作していた。

 お互い朝早くから活動するので、同じ拠点にいると長良とは顔を合わせることが多い。

 

「じゃ、私も行ってくるねー!」

 

 そう言って駆け出していく鬼怒を見送っていると、ゴトランドが微笑みながら尋ねてきた。

 

「ねえ、二人はなんで走るの?」

「え?」

「いや、純粋になんでだろうなーって思って」

 

 先程浮かんだ思い出が、再び脳裏をよぎる。

 しかし、あのとき提督になんと答えたのか、さっぱり思い出せなかった。

 

「うーん、言葉にするのは難しいなあ」

「そうなの?」

「うん。……ああ、そうだ」

 

 あのとき提督に言った言葉を、そのとき長良はようやく思い出した。

 

「ゴトランドも走ってみなよ。そうすれば分かるかもしれない」

 

 

 

 何度か、どこかに走り去っていく長良の後ろ姿を見送ったことがある。

 彼女がランニングを日課としていることは聞き知っていたので、ああやってるな、と思ったのだが、同時に一抹の不安があった。

 

 ゴトランドはスウェーデンの艦娘である。

 スウェーデンには、こんな噂があった。

 

 かつてスウェーデンで開かれたオリンピックには、日本の陸上選手も参加していたという。

 しかし、その陸上選手はマラソンの最中行方不明になってしまったというのだ。

 その後、その日本人がどうなったのか、ゴトランドは知らなかった。

 本当か嘘か分からないような噂ばかりが流れていたのだ。

 

 だから、長良の後ろ姿に少しだけ不安を感じたのである。

 

 そんな長良が、今ゴトランドの前を走っている。

 彼女の足は早い。ゴトランドも運動神経にはそれなりに自信はあったが、さすがに毎日走っている長良には敵わなかった。

 油断していると、すぐに引き離されそうである。

 

 ……走れば分かるかも、とは言われたけど。

 

 今のところ、息苦しいばかりで面白味を感じる余裕はない。

 見えるのも長良の後ろ姿だけだ。引き離されまいと、必死にそこを見続けることしかできない。

 

 そんなとき、どこからか鬼怒の歌い声が聞こえてきた。

 どうやら折り返し地点から戻ってくるところらしい。

 上機嫌で何やら民謡らしいものを歌う鬼怒は、ゴトランドに気づくと、陽気に手を振りながら拠点の方に戻っていった。

 

「鬼怒は走りながら歌うのが好きみたいなんだよね。あんまり上手くないけど」

「長良は歌わないのね」

「私はただ走るだけの方が性に合ってるかな」

 

 言いながら、長良は走りながら大きく腕を広げてみせる。

 

「普段私たちって艤装で海を駆けるでしょ? あれはあれで身体使うんだけど、こういう風に手足を全部思いのままに動かすのが、なんか良いんだよね」

「私がそれを理解するには、しばらく訓練が必要になりそう……」

「あ、慣れないうちは無理しちゃ駄目だよ?」

 

 労わるように長良はゴトランドと併走し始めた。

 軽く肩を叩いた長良に頷き、再び前を向いて走り始める。

 

「――あ」

 

 長良が横に移ったことで、見える光景が広くなった。

 

 海。

 浜辺。

 森。

 明るくなり始めた空。

 

「こういうの見ながら走ってると、どこまでも行けそうな気がしてくるんだよね」

 

 艦娘は、深海棲艦と戦うのが使命である。

 しかしこうして走っていると、頭の中が空っぽになって、使命のことなど忘れてしまいそうな気がした。

 自分の両足だけで、全然違うところに行けそうな、そんな感覚に見舞われる。

 

「……それは、少しだけ分かるかな」

「ん」

 

 ゴトランドの声が聞こえたのかどうかは分からない。

 ただ、長良は満足そうな表情を浮かべると、再びペースを少しずつ上げ始めた。

 

「待ちなさい――ってば!」

 

 本当にどこまでも行ってしまいそうな長良を見逃すまいと、ゴトランドも速度を上げて食らいつく。

 風が強く吹いている。

 全身でそれを浴びると、気持ちが良かった。

 

 

 走り終えて拠点に戻ったとき、ゴトランドは力尽きてその場に倒れてしまった。

 ただ、その顔はとても満足そうなものだった。

 

 それからは、ときどき朝走る影が一つ増えたそうである。


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