ハッキリと物事を表現するのが苦手だった。
どこか、曖昧に捉えてしまうところがある。
悩みというほど日常に支障をきたしているわけではないが、心のどこかでずっと引っかかっていた。
そのことを夕立が自覚したのは、S泊地の司令部棟にある二十一箇条の掛け軸を目にしたときだった。
泊地で生活する者たちに向けて初代提督が遺した訓戒――と言えば大仰に聞こえるが、実際は心構えのようなものである。
もっとも、初代提督は言葉こそ遺したが、実際に文字に起こすことはなかった。これを書き残したのは二代目の提督である。
「字、上手いっぽいー」
楷書体で書かれた条文は、力強く、そして美しかった。
夕立は条文のうちいくつかを、初代提督の口から直接聞いたことがある。
しかし、眼前の掛け軸を通して見ると、そのときとはまるで違う印象を受けた。
「……夕立姉?」
そこに偶然通りかかった山風が声をかけても、夕立は反応しなかった。
掛け軸に夢中で気づいていないのだ。
夕立の服の裾をツンツンとする山風だったが、気づいてもらえないので、仕方なく夕立と並んで掛け軸を眺める。
どれくらいそうしていただろうか。
近くにあった置時計が十七時の到来を告げる。
ハッと我に返った夕立は、すぐ隣に山風がいることに今更ながら気づき、思わずビクッと身を硬くした。
「ほわっ!? や、山風?」
「うん。……やっと気づいた」
「ゴメンゴメン、声かけてくれれば良かったのに」
「かけたよ、もう」
むくれる山風を宥めながら、夕立は司令部棟を出た。
陽が暮れつつある。潮の匂いを感じながら、夕立は山風と並んで歩いた。
「夕立姉、なんであんなに掛け軸夢中になって見てたの?」
「んー、自分でもよく分からないっぽ――」
ぽい、と言いかけたところで夕立は口をつぐんだ。
なんとなく、言いたくないような気がしたのだ。
「なんか、言いたいことをハッキリと書いてあるのが凄いなと思ったんだ」
「そうなんだ」
「うん。あたしは、そういうのあんまり得意じゃないから」
「ん……ちょっと、分かるかも」
夕立と山風は姉妹艦だが、性格は随分と違う。
オープンで怖いもの知らずな夕立と、引っ込み思案な山風は、正反対の気質の持ち主と言っても良いかもしれない。
しかし、言いたいことがハッキリ言えない、という点は同じだった。
「自分の言葉をああやってビシッと表現できるって、凄く格好良いよねえ」
「うん。格好良い……」
「……ちょっとトライしてみる?」
夕立は指先で宙になにかを描くような仕草をしてみせた。
「トライするって、なにを?」
「んー、そうねえ」
夕立の頭に、やがて一つの答えが思い浮かぶ。
「まずは――お互いで交換日記とか!」
「うーん、これはちょっと」
夕立・山風からノートを見せてもらった海風は、困った顔でそれを閉じた。
「心を鬼にして言いますけど、交換日記なのに内容が薄いです」
「やっぱり?」
「薄々、感づいてはいたけど……」
思うように交換日記の筆が進まず、海風に相談したのだが、やはりこの日記の内容は問題があるようだった。
なにせ姉妹艦同士。日頃からよく顔を合わせるし、会話も多い。そうなると、改めて交換日記で書くことがないのである。
「うーん、イケると思ったのに」
「企画段階でこうなることを予想しておいてください」
「ぐうの音も出ない」
その場でへたれる夕立と山風。
そんな二人を見て、海風は頭を悩ませた。
相談に乗った以上、現状をバッサリと斬って終わり、というわけにはいかない。
改善策を探さなければならない。海風は、そういう責任感が強かった。
「自己表現の方法ならいろいろありますよ。絵でも文章でも」
「できそうな気がしないんだよねえ」
「ねえ」
「せめてもうちょっとやる気を見せてくれませんか」
そんな二人に溜息をつきつつ、海風は何かないかと考えを巡らせた。
一つ、有効かどうかは分からないが、何かのキッカケになりそうなものに思い至る。
「そういえば、神通さんが書道部を作ると言ってました」
「書道?」
「ええ。ビシッと自己表現できるかどうかは分かりませんが、まずは話を聞きに行ってみてはどうでしょう」
「そうしよっか、山風」
「うん」
先程までのへたれ具合はどこへやら、夕立は颯爽と立ち上がった。
気が乗ればすぐに行動する。
そんな姉のフットワークの軽さに感心しながら、海風は二人を見送るのだった。
書道部はまだ正式に発足していないらしく、活動拠点と言えるような場所はない。
そのため、夕立たちは神通の私室を訪れていた。
神通と言えば、長良と並び訓練が厳しいと評判の軽巡洋艦である。
駆逐艦にとって軽巡洋艦は、戦時における直接の上官だった。
そのため、神通の私室というのは、駆逐艦にとって二重の意味で訪れにくい場所と言える。
ただ、夕立は神通の訓練に平然と付き合う珍しい駆逐艦だった。
元々怖いもの知らずな面もあるためか、大半の駆逐艦が緊張しながら叩くであろう神通の部屋の扉を、躊躇なくコンコンと叩く。
「神通さーん」
「はい、どうぞ」
部屋に入ると、ベッドの中で眠りについている川内と、私服姿の神通の姿があった。
「あら、山風さんも一緒でしたか。どうされました?」
訪問者への対応は柔らかで落ち着いている。
知らない人が見たら、これが華の二水戦の旗艦として知られる神通だとは思うまい。
夕立と山風は、自分たちが今抱えている悩みを神通に語った。
神通は二人の話を聞き終えると、しばし沈思し、机から墨と紙、筆を取り出した。
「少しお待ちください」
そう言って神通は静かに墨を磨り始める。
やがて墨を磨り終えると、紙と筆と併せて二人に渡した。
「なんでもいいので、今心に浮かんでいる文字を書いてみてください」
「練習してないけど、いいの?」
「はい。まずはお試しということで。特に批評を加えるような真似もしませんので、自由にどうぞ」
神通と川内の机を借りて、夕立たちは紙と向き合う。
筆を手にしたままあれこれと思考を巡らせるが、なかなか良い字が浮かばない。
「難しく考えなくても良いですよ。思い付きで良いのです。好きなもの、今日見たもの、やりたいと思っていること。なんでも良いのです」
神通に諭されて、夕立と山風は顔を見合わせた。
「――うん。決めた」
「あたしも」
そこからは早かった。
夕立は大胆な筆さばきで豪快に、山風はゆっくりと丁寧に、それぞれが思い浮かべた字を書き切る。
「書けたよ、神通さん」
「なるほど」
二人が書いた字をそれぞれ見比べて、神通は満足そうに頷いた。
批評はしないという宣言通り、特に内容についてのコメントはない。
「書いてみてどうでしたか?」
「……なんか、不思議な感じ。絵とも手紙とかとも違う。たった一文字だけど、凄く集中して書いたからか、特別感ある」
「あたしは、ゆっくり考えながらこうやって書くの、嫌いじゃない」
両者の感想を聞いて、神通の表情がかすかに晴れやかなものになる。
「私も、筆を手に紙と向き合う時間は好きですよ。そして、書道で扱うのは文章とはまた少し違うものだとも思っています」
「神通さんも?」
「ええ。普段上手く言葉にできないことも、書を通してであれば表現できます。そこから、自分の新しい一面が垣間見えることもありますし、傍から見ている以上に新鮮で刺激的ですよ」
道具一式をしまいながら、神通は書道の良さを流暢に語る。
そして最後に、二人が一文字を書いた紙をそれぞれに持たせた。
「その字は、きっと何かの記念になるでしょうから持ち帰ってください。そして、また書きたいと思ったら、書道部の門を叩いてください」
神通に見送られて、夕立と山風は自分たちの部屋へと戻っていく。
「……改めてみると、ちょっと照れ臭い気もする。江風とか、からかってきそう」
「そしたら、今度は江風の字も書いてあげれば良いっぽい!」
心の中に生じたしこりが取れたのか、夕立の表情は晴れやかなものになっている。
それぞれの字を書いた紙を大事に抱えながら、少女二人は温かな泊地の中を行くのだった。