「母親?」
突然の来訪者が放った問いかけに、龍驤は疑問符を浮かべた。
S泊地の中庭にあるベンチの一角。
気持ちの良い快晴の下、龍驤は久々の休日に読書を楽しんでいた。
そこに突然現れて、母親とはいかなる存在か、という問いかけを投げてきたのは子日と初霜だった。
「藪から棒にどうしたん?」
「二人で今日は『母の日だね』って話になったんですけど」
「子日たち、よく考えたらお母さん的な人いないし、どういうのかなーって」
艦娘には艦霊ベースの者や人間ベースの者がいる。
人間ベースの艦娘は元々人間なので、両親が存在する。
ただ、艦霊ベースの艦娘にそういう存在はいない。
軍艦の御魂の分霊を艤装に降ろして受肉させた存在なので、人間でいうところの『親』がいないのだ。
子日と初霜は、艦霊ベースの艦娘である。
ただ、それは龍驤も同じだった。
「いや、うちもそういうのおらんからよく分からんなー。……というか、なんでうちに聞こうと思ったん?」
「空母だから」
「……一応止めたんですが」
臆面もなく言い切る子日と、やや申し訳なさそうな初霜。
ここに来るまでの間、どういうやり取りがあったのか、想像がつくようだった。
「なんとなくのイメージはあるんですが、考えてみたらそれが合ってるかどうかって確認したことがないですし」
「うちらの常識古い可能性あるからなあ」
なにせここは本州から遠く離れた辺境の地。そもそも異国の地である。
最近の日本の家庭の在り様など、ほとんど入ってこない。
「やっぱり人間だった子に聞いてみた方が良いですかね」
「いや、それも止めておいた方がええんちゃうかな。いろいろ事情あって艦娘になった子も多いやろうし、迂闊な質問して地雷踏み抜くことになったら目も当てられん」
「あ、そうですね。すみません、配慮が足りませんでした」
「いや、まあうちが気にし過ぎなのかもしれんけど」
しかし母の日か、と龍驤は『母親』というものに思いを巡らせる。
「父親みたいな存在ならおったけど」
「お富士さんも、お母さんというのとはちょっと違いましたもんね」
「あの婆さんはなー。年齢的には母親っちゅうか婆様やし、年齢取っ払って考えてみても母親というか師匠って感じで」
お富士さんというのは、以前この泊地で提督を務めていた老婦人のことである。
自他ともに厳しい人だったが、どこか飄々としたところもあり、畏れられつつも敬われていた。
「しかし、これまであまり真面目に考えてこんかったけど、一度気にすると確かに気になるな」
「でしょ?」
「んー、けどなあ。これ誰に聞くのがええんやろ」
そのとき、中庭の外縁部にジャージ姿の女性が姿を見せた。
最近よく泊地内を走っている姿を見る。少し前に正式に配属された新人スタッフの女性だった。
「あ、比奈ちんだ。おーい」
子日が呼びかけると、比奈と呼ばれた女性は会釈しながら三人のところへ駆け寄ってきた。
「こんにちは。皆さんお集まりでどうされたんですか?」
「暇潰しのガールズトークや。……という冗談は置いておいて」
龍驤は比奈を注視した。
じっと見られて落ち着かないのか、比奈は首を傾げながらそわそわとしている。
「比奈ちん、君はお母さんてご健在?」
「え、はい。普通に生きてます!」
「普通にか。それはええね」
質問してみるには最適の相手かもしれない。
龍驤は子日たちの抱いた疑問を比奈に説明してみせた。
「なるほど。母親というのがどういうものか知りたい、と」
「そうそう。君のお母さんってどんな人なん?」
「母ですか。うーん、改めて聞かれると表現に困りますね」
比奈は割と気の利くところがある。
龍驤たちの質問の主旨から、単に自分の母親のキャラクターを説明するだけでは駄目だろう、と考えを巡らせていた。
とは言え、母親にもいろいろいる。
理想の母親像というのも、人によって変わってくるだろう。
「うちの母は……そうですね。炊事洗濯は苦手な人でした。そういうのはだいたい父がやってましたね」
「へえ、そうなんだ。そういうのってお母さんがやるものだと思ってた」
子日が意外そうに言う。
彼女たちが思い描く家庭のイメージは、彼女たちが実艦だった頃のものが色濃く反映されている。
なので、共働きしたり旦那が家事をしたりする家庭像があまり浮かばないのかもしれない。
「うちの母は病院勤めで、家にいる時間があまりなかったんですよ。いつの間にか戻って来ていて、いつの間にか出勤してる」
「寂しくなかったの?」
「子どもの頃は少し寂しかったですね。でも父はいつも家にいて構ってくれたので、そこまで気になるわけでもなかったというか」
ただ、母が家にいるときは、いないときよりも家が明るかった。
父や兄弟たちも、皆嬉しそうな顔をしていたように思う。
比奈がそう告げると、龍驤は「なるほどなあ」と頷いてみせた。
「昔でいうところの『良妻賢母』のイメージはちょい古くなったけど、根っこのところは変わらんね」
「根っこのところ、ですか?」
「せやせや。父親がいると家が引き締まる。母親がいると皆が安心する。そういうことと違うん?」
龍驤の説明が合っているかどうか、比奈には判断ができなかった。
当てはまらない家庭も多いだろう。
ただ、自分のところの家はそうだったと言えなくもない。
「そう――ですね。少なくとも、私はそう思います」
うんうんそうだろうと龍驤が頷き、子日と初霜が「なるほどなー」と感心する。
「うちでいうと誰だろうね?」
「やっぱり鳳翔さんでしょうか」
「あんまあいつの前でそれ言わん方がええで。あれで結構気にしいやから」
良妻賢母の代表格のように語られる鳳翔だったが、艦歴上はそこまで年長というわけでもない。
最初の空母という経歴、そしてその性格からお母んと評判ではあるが、本人としては「私子どもいないんですけど……」とやや複雑な想いを持っているようだった。
「じゃあ陸奥さんとか金剛さん?」
「香取先生とか筑摩さんもそんな感じしますね」
泊地で誰が一番母親らしいのか。
そんな子日と初霜のトークを眺める比奈に、龍驤は「比奈ちん」と声をかける。
「あ、はい。なんでしょう?」
「余計なお節介かもしれんけど、ちゃんとお母んには連絡入れるんやで」
遠い異国の地で働く娘のことなら、親は心配しているだろう――。
比奈には、そんな風に気を回す龍驤が、どことなく故郷の母に重なって見えた。