……筋肉痛がっ。
「掃除よ!」
玄関の戸を開けると、ジャージ姿の雷がいた。
「なんじゃ、突然」
「そろそろ年末に向けて掃除をする季節でしょ? 特に神社は忙しいだろうし、今のうちに掃除しないと!」
「まあ、それはそうなんだが」
急な来訪者に戸惑っていると、雷の後ろからひょっこりと電が顔を出した。
「急にごめんなさいなのです。ちょうど今日予定が空いたので……」
「お前さんたち、自分たちのところの掃除はいいのか」
「私たちの部屋は早朝のうちにバッチリ済ませてきたわ!」
「雷ちゃんが普段から掃除してくれてるから、あまり手間がかからなかったのです」
「やだもー。そんなことないわよ」
電の捕捉に、雷は照れたような表情を浮かべて手をひらひらと振っていた。こういうところはまだまだ子どもである。
「それに尼子のお爺ちゃんだけだといろいろ大変でしょ? 掃除って結構力いるんだから」
「人を年寄り扱いするでないわ。とは言え、助かるのは確かだ。せっかくだしご厚意に甘えるとするか」
昔に比べると腰を痛めやすくなっているし、長時間力を使うような作業をすると調子が悪くなってしまう。
年齢の割には頑健な方だと思ってはいるが、さすがにもう無理ができる年齢ではない。
「あら、そういうことなら私たちも手伝いましょうか」
と、今度は後ろから声がした。振り返ると、通路の奥から夕雲と巻雲がひょっこりと顔を覗かせている。
「お前さんたちはいつの間に来たんだ……」
入れた覚えは一切ない。玄関以外にも出入口はいくつかあるので、大方そこから入り込んだのだろうが。
「秋雲さんと長波さんを探しに。でも急ぎの用件ではないので、お掃除するなら私たちも手伝いますよ。ね、巻雲さん」
「はい。巻雲の雑巾がけはちょっとしたプロレベルですよ!」
雑巾がけにもプロ・アマの垣根があるとは知らなかった。今度から巻雲のことは雑巾プロと呼ぶことにしようか。
「……今またなんかよからぬことを考えてませんでしたか、神主さん」
「気のせいじゃろ。ではわしも着替えてくるかの。掃除するなら汚れてもいい恰好でなければな」
巻雲の追及を避けるため、早々に自室へと退散することにした。
「汚れが全然取れないのです……」
台所まわりを雑巾で吹いている電がぼやいていた。
無理もない。台所まわりはよほど目立つ汚れ以外は年末の大掃除のときくらいしか掃除しない。
そのため、この時期はカビや油汚れがあちこちに点在する状態になっているのだった。
「尼子さんはもっとマメに掃除をするべきなのです。清潔な台所で作った料理の方が美味しいのですよ?」
「娘にもよくそう言って叱られた覚えがあるが、この年になってもマメなことできんし、もう無理じゃろ」
「すごく前向きな駄目人間っぷり……!」
何気に失礼なコメントだった。もっとも否定はできない。
「油汚れはこいつを使うと落ちやすいぞ」
重曹を溶かしてペースト状にしたものを渡してやる。
「カビに関しては無理に拭き取ろうとせんでいい。カビキラーかけてしばらく放置だ。時間置いたら後はわしがやっておく」
「おお……。尼子さん、結構詳しいのです」
「伊達に長生きはしとらんからな」
もっとも、この辺の知識は完全に本やテレビの受け売りだ。
いかに楽して大掃除を乗り切るか――という点に少し興味を持って調べたことがあったのである。
それを言うと電から再び駄目人間認定されそうなので、そこは黙っておくことにした。
夕雲と巻雲は神社の表まわりを掃除してくれていた。
心なしか神社全体がピカピカになっているように見える。
「あら尼子さん」
こちらに気づいたのか、屋根の上から夕雲が声をかけてきた。
「大丈夫か」
「ええ。私たち艦娘なら、これくらいの高さから落ちてもどうってことはないですよ」
羨ましい。おそらくわしなら致命傷だ。
そういう事情も相まって、屋根に関しては全然掃除していなかった。
「そういえば、こんなものがありましたけど」
「ん?」
「小さい玉みたいです」
「こっちに投げてみろ」
夕雲が手にしていたものを落としてきた。それを取ろうとしたが、失敗して落としてしまう。
途端、その小さな玉は勢いよく上に飛び跳ねた。
「ああ――こいつはスーパーボールだな」
再び落ちてきたものを掴んで、近くに寄ってきていた巻雲に見せてやる。
「スーパーボール?」
「とにかく凄く跳ねるボールだ。昔一時期流行ってたんだよなあ。なんでそれがここにあるのかは分からんが」
「遠征先の市場で誰かが買って来たんじゃないですかね。で、ここで遊んでるうちに屋根の上に行っちゃったんですよ」
「朧か秋雲辺りかねえ」
ほれ、と巻雲に渡す。
巻雲は最初慎重にスーパーボールを地面に落としてみせる。ボールは勢いよく飛んで、再び巻雲のところに落ちてきた。
「おお、凄いですね。本当によく跳ねます」
気をよくしたのか、今度は勢いよく地面へと叩きつける。
「ばっ、よさんか――!」
注意しようとしたが、時すでに遅し。
スーパーボールは巻雲の期待に応えるかのように跳ね――屋根の上から様子を見ていた夕雲の顔面に直撃した。
「あっ」
巻雲の顔が一気に真っ青になる。
夕雲は顔を両手で押さえていた。そのせいで表情が見えない。
「え、えっと……夕雲姉さん。今のはわざとではないというか……ね、ねえ尼子さん! って、いない!?」
戸惑う巻雲の声が遠くから聞こえる。
この後の展開など見えている。夕雲は普段優しいが、過ぎたやんちゃには厳しいところがあるのだ。
あの場に残っていては巻雲によって夕雲の折檻に巻き込まれかねない。そんなわけでわしはクールに去ることにしたのである。
「あ、尼子さんの裏切り者――!」
雷は室内の掃除をしていた。
「あ、尼子さん。さっき巻雲の悲鳴が聞こえた気がするけど、何かあったの?」
「巻雲は好奇心の犠牲になったんじゃよ」
「?」
雷は、よく分かっていない様子で首を傾げた。
「まあいいわ。この辺りの部屋、高いところを中心に掃除はしておいたから。あとは雑巾がけして掃除機かければだいたいオッケーだと思うわよ」
「すまんな。高いところの掃除はやはり大変だから、やってくれて助かる」
ちなみに雷は脇に脚立を抱えていた。高所の掃除はこれを使って行ったのだろう。
「あ、そうそう。箪笥の横の隙間に落ちてたけど、これ尼子さんの?」
「……うん?」
雷が差し出してきたのは、かなり古い写真だった。
覚えはある。
「こりゃわしと家内だな」
「へえ! 尼子さん、若いときは男前だったのね」
「若干引っかかる言い方だのう。今でも男前じゃろうが」
「はいはい。奥さんはとても綺麗な人ね。飾り気がなくて清楚な感じ……」
雷はまじまじと写真に見入っていた。若い自分と家内をじっくりと見られるというのは、なんだか落ち着かないものである。
「ねえねえ、他には昔の写真あったりしないの?」
「あるにはあるが……」
「お掃除終わったら見てもいい?」
「……」
なんとなく気恥ずかしいが、こうキラキラとした目で頼まれると、孫にせがまれているようで嫌とは言い難い。
「分かった分かった。終わったらアルバムでもなんでも見せてやるわい」
「約束よ! さーて、それじゃ仕上げ頑張るわ!」
気合を入れて雑巾がけを始める雷。
これは掃除の後が大変になるパターンになりそうである。
「まあ、観念するしかないか」
押し入れや箪笥の中を整理しながら――ふと、昔家族と大掃除をしたときのことを思い返す。
子どもたちはもう家を出ているし、家内はとうに鬼籍に入っている。だから、こういう感覚は懐かしかった。
「尼子さん、なんだか楽しそうね」
雷がこちらを見て笑いながら言った。
「……さてな」
素直に認めるのも癪なので、ぼかした回答をする。
ただ――確かに、悪くはないと思った。
「雷」
「ん?」
「来年もまた頼んでいいか」
「――ええ。雷に任せなさい!」
雷は腕をまくって、満面の笑みを浮かべるのだった。