二〇一八年五月。
S泊地は組織再編が一段落つき、新体制で動き出しつつあった。
新体制と言ってもそう大袈裟なものではない。ソロモン諸島の中央部と東部に支部を設け、巡回船等を追加したくらいだ。
神風たちが新しく配属されたのは中央支部である。
ソロモン諸島の首都ホニアラのすぐ近く、フロリダ諸島。
そこに建てられたばかりの新しい建物の中で、神風はのんびりと資料に目を通していた。
「暇ねー」
支部を増やしたからと言って、普段の業務がさほど変わるわけではない。
慣れない点はあるものの、基本的にやってることはこれまでと同じである。
そのため特に忙しくなるわけでもなく――仕事を終えた神風は、一人暇潰しに支部の資料を読み漁っていた。
人によっては活字の量に辟易するのだろうが、神風はそういうのが苦になる性質ではなかった。
どちらかというと好きな方である。
優雅にお茶をすすりながらページをめくる。
「最高に贅沢な暇潰しをしてしまっている気がするわ」
そのとき、ドアをノックしてフランスの艦娘・リシュリューが入ってきた。
「神風。さっき定期連絡があったわ。金剛たちは明日ここに立ち寄るみたいよ」
「ありがと。予定通りってところね。……食べる?」
「いただくわ」
神風が差し出したクッキーを受け取って、リシュリューも空いている椅子に腰を下ろした。
「ところで神風。さっき金剛から聞いたのだけど」
「なに?」
「日本では、五月五日に鯉を吊るす風習があると聞いたのだけど……本当……?」
どこか恐ろしいものを見るかのような視線を向けてくるリシュリューに、神風は「あー」と何かを察した。
おそらくリシュリューの頭の中では、本物の鯉を捕まえて軒先にぶら下げておくような光景が広がっているのだろう。
「鯉の絵が描かれた吹き流しね」
「吹き流し……」
「布で出来た筒みたいなやつ」
「ああ、アレね。ええ、分かるわ。分かるわよ」
最初から全部知ってました、と言わんばかりの態度である。
おそらく知らなかったことを悟られまいとしているのだろうが、神風にはバレバレだった。
というか、リシュリューのこういうハッタリは大抵の人に見透かされる。
「けど、なんで鯉?」
「確か中国の方に、鯉はやがて龍になるって伝承があったのよ。それで、五月五日のこどもの日に、子どもが健やかな成長を遂げてくれるよう、鯉を飾るようになった――と言われているわ。お前は龍になれ、という親の願いが込められてるのよ」
「ドラゴン? ドラゴンみたいになるって良いことなのかしら。あとこどもの日って?」
「アジア圏じゃ龍になるっていうのは良い意味合いだったのよ。……こどもの日については、もしかして知らないの?」
「……」
知らないと言いたくないのか、リシュリューは固まってしまった。
どうしたものかと神風が思案していると、ひょっこりとビスマルクが顔を出した。
話を聞くと、ビスマルクは「ああ」と頷いて、
「フランスにはそもそもこどもの日がないのよ。リシュリューが知らないのも当然と言えば当然ね」
「そうなんだ?」
「そうね。ええ、さすがに母国にないものは分からないわ」
少し視線を逸らしつつ笑うリシュリュー。
ただ、彼女が一瞬安堵の息を漏らしたのを、神風とビスマルクは見逃さなかった。
「……ドイツにはあるの? こどもの日」
「うちはちょっとややこしいわよ。東西に分かれてた名残りで二つの見解があるわ」
「ああ、そういうのがあると大変そうね……」
「アメリカとかイギリスはそもそも存在しないって言うし」
さらりと説明するビスマルクに、リシュリューが感心したような声を上げた。
「ビスマルク、詳しいわね」
「アンタも数年間いろんな国の面子の面倒ごとに付き合ってれば詳しくなるわよ……」
ハハ、と嬉しくなさそうに笑うビスマルク。
泊地に着任した海外艦のまとめ役としての経験から来る言葉である。
新しい国の艦が着任すると、どうしても過去のいざこざや文化・風習の違いでトラブルになりやすい。
そういうときよく駆り出されていたのがビスマルクなのである。立場上、各国のことに詳しくならざるを得ない。
「けど、子どもの成長を願う日ということだと、私たち艦娘にはあまり意味のない行事なのかしら」
「どうかしらね。艦娘だって艦娘やめれば成長するようになるし、艦娘のままでも成長しないわけじゃないわ。経験を培っていく以上見た目はともかく中身は変わるものでしょ」
「そうね。リシュリューだって、ここに着任してから随分と成長したでしょう?」
神風の意見にビスマルクが同調した。
「だいたい、祝われて悪い気分になる子なんてそうそういないでしょう。祝いたかったら祝えばいいのよ」
「そういえば、今度の巡回船には潜水艦隊や海防艦たちも同行してるんだったわね。松輪やルイージもいたんじゃなかった?」
神風の指摘にリシュリューがピクリと反応を示した。
今名前の出た松輪やルイージは、リシュリューと同時期に泊地へ着任した艦娘――言ってしまえば彼女の同期である。
S泊地では、艦種問わず同期はまとめて新人訓練に放り込まれる。そのため強い連帯感で結ばれることが多い。
リシュリューと松輪・ルイージは見た目こそ大人と子どもくらいの差があるが、ときどき一緒に休日を過ごしている仲だった。
「ははーん。さてはアンタ、こどもの日の話を聞いて何かした方が良いのかって迷ってるわね」
「べ、別に私があの子たちに何かする義理なんてないわ」
ビスマルクに突っ込まれて、リシュリューが顔を逸らした。ただ、その顔はどことなく赤らんでいる。
「……そういえばでっかい布がいくつか余ってたわね。この拠点を作るとき雑に資材運び入れたから、割とそういうの多いのよ」
神風はそう言って立ち上がった。
「暇だし気分転換に何か絵を描いてみるのも良いかもね。でも一人だと半端なものしか作れなさそうだし、誰か手伝ってくれないかしら」
言いながら、ゆっくりと部屋を出て行こうとする。
「……手伝って欲しいなら、手伝ってあげても良いけど」
「私も手伝うわ。なんかリシュリューだけだと不安だし」
「ど、どういう意味よビスマルク。言っておくけど、芸術においては一家言あるわよ私は!」
「選ぶセンスと作るセンスは別でしょうに」
軽口を叩きながら、二人は神風の後を追う。
神風はそんな二人のやり取りを聞きながら、大きく背中を伸ばすのだった。
巡回中の松輪たちがそれを見つけたのは、フロリダ諸島が間近に迫りつつあるときだった。
「ルイージちゃん。見て、あれ」
「んー?」
松輪に呼ばれて海面に顔を出したルイージは、島の一角から見えるソレを見て首を傾げた。
「あれ、なに?」
「鯉のぼり――だと、思う、けど」
鯉のぼりの文化を理解している松輪も、それが鯉のぼりと言って良いのか自信がなかった。
よくある鯉のぼりの鯉もあるが、その下にはドラゴンと思しき絵が描かれた吹き流しもある。
更にその下には、魚なのか何なのかよく分からない謎の生命体が描かれたものもあった。
「ねえ松っちゃん。私鯉って実物みたことないんだけど、あんなにバラエティ豊かなものなの?」
「どうだろうね……」
その後、巡回メンバーの反応を見た製作者たちがどんな反応を示したかは――書かぬ方が良さそうである。