○○さんと金田君。 作:えんがわ
夕日差し込む教室に無機質で間延びしたチャイムが響き渡れば、気だるそうに何事かを語っていた教師が下がり、生徒達は眠たげな意識を覚醒させて一路自分の目的のために行動しだす。
例えば部活、例えば生産性のない会話、例えば遊行。例えば帰宅。
僕は部活動には所属してはいないし、この学校で会話をしてくれる人はいない。
更に勤しみたいと思う遊行は思いつかないので、必然的に帰宅をする事になる。
教科書をカバンに仕舞い込めば机から立ち上がり、体が慣れ親しんだルートを辿って帰宅しようと足を出した矢先、不意に横合いから伸びた足が引っかかってしまう。
思わずつんのめりそうになり、踏みとどまる。
だが踏みとどまった所で追加で背中に強い衝撃を受けて、僕はなすすべなく倒れてしまった。
アルミ製の机が奏でる騒々しい金属音が教室内に響き渡り、しばしの静寂の後に嘲りの声が自分に投げかけられる。
「おいおい、足元注意だって!」
「だっひゃひゃひゃ! 足元だけじゃたんねーよ。背後も注意しねーとなぁ!」
顔面と膝にひりひりとした感触。腹這いになった状態から仰向けに変えて、床の上でそのまま見上げれば……そこには3人のいつものメンバーが居た。
嶺田君。高橋君。天白君。孤独な僕に話しかけてくれる、優しい友達だ。
「そうだね、ごめん」
「相変わらずどんくさい奴だなぁ、金田クンはよぉ」
「本当だよな、忠告してくれる俺達に感謝しなきゃダメだぜ?」
なんだそれ、ひっでーの! いやいや、アイツのためだって! 何て言う声が聞こえれば、一番体格の良い嶺田君が笑顔で手を差し出してくれた。
起き上がらせてくれるのかな?と手を差し出そうとしたら、手は避けられて顔に衝撃が走った。どうやら頬を張られたようだ。
「何触ろうとしてんのお前、気持ちわりーんだけど?」
「金田ホモ疑惑浮上。嶺田お前惚れられちまってんじゃねーか?」
「ギャッハ、おいおいそれマジ受けるんだけど!良かったな嶺田ぁ!」
「は? マジ? 冗談よせよ、鳥肌立ったわ」
茶化されながら触れた手をぷらぷらと揺らす嶺田君は、再度手を差し出した。
何を求めてるんだろう、とぼんやりしてる僕に彼は笑いながら告げる。
「察し悪いぜ金田ぁ、アドバイス料だって」
「そーそ、前も言ったろ? どんくさいお前に毎日アドバイスしてやってんだからさ~。
友達料含めて時々は貰わないと割りにあわねーんだよ」
「俺達の善意、分かってくれんだろ?
あ。今日は多めで頼むわ、俺達これからカラオケ行く予定だからさ」
あぁそうか、僕は何て抜けてるんだろう。
お友達には対価が必要だって、彼らに教えてもらったじゃあないか。
だけど、昨日も渡してしまったせいか今日の僕の財布は数千円ぐらいしかない。
彼らが満足行くような料金を渡せない事を恥じながらも、僕は正直に彼らに伝える。
「ごめん、すっかり忘れてた。
それで重ねて申し訳ないけど、昨日渡しちゃったから、今日は数千円しか」
「は?」
嶺田君の顔から笑顔が消え、代わりに一瞬にして怒気を帯びる。
友達になってくれているのに対価を用意できないんだ。当然の反応だと思うし、本当に申し訳ないと思う。
「はー、マジかよ金田クン」
「ホモで金も持ってないとか救いようないよ? いや、マジでさ」
「ごめん。でもそろそろ生活費も――うぐっ」
彼らに払う料金で今月分の生活費がギリギリなのは本当だ。
でも腹部に圧迫感を感じたと思えば、息が勝手に漏れ出て僕の言い訳は中断させられてしまう。
どうやら蹴られてしまったらしい。
「お前の意見なんて聞いてねーんだよコラ、どーすんの。
カラオケ行くのに俺達で金払えってか?あ゛?」
何度も腹部を蹴られて、その度に息や声が溢れて全身に倦怠感が走る。
嶺田君は気が済むまで5回か6回ほど蹴り続ければ、天白君が止めてくれた。
「おーい、嶺田もういこーぜ。金田なんていつでもボコれんだろ?
んなことより遊んだ方が生産的っしょ」
「ったく折角友達やってんのに、こんなに使えないなんてなー。
オイ金田、とりあえず数千円でいいから寄越せよ」
「げほっ、ごほ……ごめん、今出すから」
「っつーかクレカ作れよ金田ぁ、そしたらわざわざ生活費なんてので悩まなくていーんだから……よッ」
嶺田君が最後にひときわ強く蹴ると、僕はみっともない声を出して30cm程飛ばされ、教室の隅にぶつかってしまう。情けない事に僕は衝撃にうずくまるしかなかった。
ナイスキック!と高橋君がはやし立てる声が聞こえる中、僕の顔に何かが叩き付けられる。僕の財布みたいだ。
「今日はこれだけで勘弁してやるよ」
「明日からもっと持ってこいよ? っつかクレカ作ってこいよ。俺らが管理してやるからさ」
「じゃーな金田クン、また明日」
天白君が多分僕のであろう三千円を片手に持ち、高橋君、嶺田君と共に教室を去っていった。
僕はしばらくうずくまり続け、気持ちの悪い感触が収まるとようやく起き上がれた。
その間、誰も声をかけてこないし、起き上がっても気味悪そうに僕から視線を逸らした。
……彼らはお友達じゃあないから、この反応は当然だと思う。
誰が好き好んで他人なんて助けるんだろうか。
対価があって、始めて人は行動するものだと僕は知っている。だから仕方がない。
そんな事を思いながら僕は、よろよろと教室を後にした。
§ § §
少しおぼつかない足取りで校門を出ていけば、校門の壁に寄りかかるようにしている見知った人が僕の視界に入った。
それは背中まで伸ばした黒髪をボサボサ…というのは失礼か。ウルフヘアーにした、スタイルのいい女性。
背は170cmくらい、目つきは鋭く、雰囲気はお世辞にも親しみやすいとは言えず、右側全体に爪跡のデザインが入ったパーカーを着て、下はホットパンツと非常に活動的な格好をしていた。
彼女は両手をパーカーのポケットに入れてガムを噛みながら一人一人、校舎を出ていく人を睨みつけ……いや、観察している。観察されてるみんなは彼女の近寄りがたい雰囲気に気圧されるのか、そそくさと校舎を後にしている様子が見て取れた。
あの子はこの高校の生徒じゃないのに、何でこんな所にいるんだろう?
内心の疑問はもとより、きっと僕以外に用があるのだろうと止めていた足を動かす。
そして彼女の視界内に僕が入れば……一転して彼女が獰猛な笑みを見せたのが分かった。
彼女は浮かんだ笑みのまま壁から背を離してツカツカとこちらに近寄ってきて、その勢いのまま僕の肩を強く組んで、身体を寄せてきた。
「待ってたぜ、金田」
「ごめん、待ち合わせとかしてたかな」
僕の反応に、彼女は「いやいやいや」と大げさに首を振って笑う。
「アタシが勝手に待った。お前には聞きたいことあっからな」
「"あの話"の事かな」
「あの? ……お前とアタシの共通の話題つったら多分一つぐらいしかねーけどよ。
具体的に言え、分かりにくいのは嫌いだつってんだろ」
僕を掴む彼女の手に力がこめられ、肩が軋んだ音を立てた。
「ごめん、秋牛さん」
「
「ごめん、玖彌さん」
ガスガスと、彼女のしなやかな足が僕の頼りない足を蹴り始めたので、すぐに呼び直せばその攻撃は止まった。内心で反省しながら、僕は改めて"あの話"の内容を口に出す。
「猫の話だね?」
「……あぁ、そーなんだよ。ま、話は歩きながらすんぞ」
そのまま秋牛さんと僕は肩を組みながら移動する。
下校中の生徒達は僕…と言うより秋牛さんを恐れているのか、移動する前後5mが空いて非常に歩きやすい。
いや、肩を組みながらなので正直歩きにくいかもしれない。
何とか秋牛さんが歩きやすくなるようにと移動に苦心していると、ぽつりと彼女が呟いた、
「みーちゃんがさ……」
みーちゃん。まさか拾ったばかりの子猫に名前をつけていたとは。
しかも普段の彼女を知る人からは全く想像できない言葉だ。
そんな失礼なことを思っていることに気付かず、秋牛さんは憂いの表情を浮かべて続ける。
「みーちゃんが、何か飯を食ってくれなくなってよ……」
「ご飯は何を与えたの?」
「お前の言うとおりに温めたミルクだ。人肌のな」
秋牛さん、前はレンジでチンしたものをそのまま与えようとしてたからね。
人間でも普通に焼けどするものを子猫に与えるのはまずい。
「一昨日まではたらふく食ってくれたんだけどよぉ……。
何か昨日とか今日とかは全然食いたがらなくなって…」
「ふぅん……えっと秋牛さっ、……玖彌さんその猫なんだけど」
名前呼びを忘れたらすぐに蹴りが飛んできたので、すぐに呼びなおしてしまえば彼女に告げる。
「うんち、とかしてる?」
「んん? ……あーそういえば」
思い当たる節があるようだ。
生後間もない猫は自分で排泄することが難しいと本で読んだことがある。
ただ伝聞でしかないその情報が正しいかどうかは分からないが、僕は秋牛さんを安心させるように言葉を連ねる。
「多分だけど、みーちゃんは便秘なのかも。子猫のうちって排泄する力が弱いって言うし」
「言われてみりゃ、お腹膨らんで動きづらそうにしてたなみーちゃん……。
でもそれってどーすんだ? 自然に出すまで待つしかないのか?」
「それじゃダメ。排泄を促してあげる必要がある。
そう言う時親猫は、子猫のお尻を舐めてあげるんだって」
「尻を舐める……だと……!?」
お尻を舐める習慣などない秋牛さんは例え愛らしい子猫といえど躊躇うのか、非常に苦々しい顔をしている。当然ながら僕にもないし、他の人もないと思う。
彼女はちらりとこちらを覗き込んだり、あーだの、うーだのひとしきり唸れば、自らの髪をガシガシと乱暴に掻き、
「くそっ、みーちゃんの命には代えられねえ! やってやる!」
「でも流石に人間が舐めるのもあれだから、そういう時は湿った脱脂綿でお尻を刺激してあげれば」
「くォらぁぁッ!!」
今日一番の衝撃だったと思う。背中からお腹に突き抜けるような衝撃を感じたと思えば、僕は何故か宙を飛んでいた。
そして見る見るうちに道の角にあるゴミで満載のゴミ捨て場が視界の中で急速に近付き――そのまま僕の視界は真っ暗になった。
何が起こったか分からず困惑してると、急に世界が光を取り戻し、僕の視界一杯に秋牛さんの綺麗な顔が飛び込んだ。
「そういう事早く言えよコラぁ! いらねえ覚悟決めちまっただろーが!?」
「ごめん。ちょっとタイミングが遅かった」
「わかってんなら早く言えや!
っていうかお前ごみくせーよ、何か顔でも洗ってこい」
背中の一部がひりひりするから多分蹴られたんだと思うけど、自らゴミ箱に蹴り入れておいてちょっと横暴だと思う。軽く5m以上は吹き飛んだ気がする。
釣り上げられた状態から乱暴に秋牛さんに突き放されると、僕は応急処置としてポケットにしまいこんでいたハンカチで汚れた顔を拭う。
その間、彼女は少し機嫌悪そうに先を歩いていってしまう。
どうしたものか、このあたりで顔を洗える場所はあったかなとその場で思案してると、先行く彼女もしばらくして立ち止まり、こちらに振り返った。
「何ボサっとしてやがんだ」
「顔を拭く場所、今から探そうと思って」
「んなもんいいから着いて来い」
「でもゴミ臭いし」
「アタシに二度言わせる気か?」
「……はい。分かりました」
肩は組まなくなったが、それでも1mぐらいの距離間で僕は彼女についていく。
秋牛さんは迷いのない足取りで、通学路から商店街、そして商店街から裏路地へと移動する。
商店街の騒がしさとは無縁の、夕焼けに晒されぬ影の空間。
細い路地を黙々とついていけば、やがて小さく古い平屋に辿りついた。
これは多分……秋牛さんの家なのかな。
秋牛さんがポケットから取り出した鍵が、ちゃりんと小気味のよい音を立てる。
それは見るからに壊れそうな扉の鍵穴にすっぽりと収まり、解錠をすれば扉は軋んだ音を立てて開かれる。
彼女は何も言わずに家の中に入っていき、僕の目の前で扉は自然と閉まってしまった。
そのままお邪魔していいのだろうか分からなかった僕は佇むしか出来ず、とりあえず聞いて見ようとノックするためにおそるおそる手を差し伸べた瞬間。勢いよく扉が開いた。
「何突っ立ってやがんだ、さっさと入れよ」
「……お邪魔します」
……入ってよかったようだ。彼女はふんと鼻を慣らして廊下の奥の部屋まで進んでいけば、僕も乱暴に開け放たれた扉を閉めようとドアノブに触れる。……ドアノブが、彼女の手の形でへこんでいる。つい最近知り合ったけど、秋牛さんって力持ちみたいだ。ただ女性に力持ちなんて思うのは失礼だし、多分変な事考える暇あったらついてこいと怒られるのが目に見えてるので、さっさと彼女の家(?)に入る。
僕を歓迎したのは他人の家独特の匂い。嫌な匂いではないけど、ちょっと懐かしくなる匂いだ。
そんな匂いを感じながら少し散らかってる廊下を進み、彼女の後に続いて部屋に入れば、そこは布団とちゃぶ台ぐらいしかない畳の部屋だった。彼女は既に畳の上で片膝を立てて座り込み、傍らに置いたダンボールの箱を覗き込んでいる。毛布が敷き詰めてあるダンボールの箱の中には、話に上がった
「みーちゃん、元気してたか~?」
秋牛さんが指で突っつけば子猫はその手に全力でじゃれつき返し、彼女の表情がふっと緩む。
普段の彼女からは中々見れなさそうな表情で黒猫をあやす姿。正直、一枚絵にしてもいいくらいに様になっている。掛け値なしに可愛い。
僕はそんな可愛い彼女に向かい合うように座り込み、同じく猫を見てみる。
話に聞いた通り、子猫のお腹はぽっこりと膨らんでおり少し動きづらそうにしていた。
「な? 膨らんでんだろ」
「うん。多分だけど便秘だと思うね」
「何かの病気のせいでお腹膨らんでるとかないよな?」
「僕は獣医じゃないし、そもそも見るだけでそれが分かるほど観察眼もすぐれてないよ」
「そりゃそーだ」
秋牛さんの白くて細い手が黒猫を軽く撫でると、彼女はすっくと立ち上がり部屋を出る。
……そして少しして、その手に救急箱を持って帰ってきた。
「んじゃ、早速やってみっか」
彼女は箱から脱脂綿を取り出すと、テーブルの上にあったペットボトルの水で湿らし、それを僕に突き出した。
……ん?
「僕がやるの?」
「お前が言い出した事だからな」
あたしには繊細な作業なんて向いてないしな。なんて呟くけど、そんな事ないと思う。
多分。いや、恐らく。残念な事に断言できない。彼女と知り合ってまだ3日も経っていないからだけど。
「待って」
「んだよ、ビビったのか」
――るのを止めた。する前に聞く事があったんだった。
食い入るように箱に顔を近づける彼女が、呆れの目線でこちらを見てくる。
「もしも僕の言うとおり便秘だとしたら、一杯出てくるけど……この毛布の中でさせちゃっていいの?」
「あー。いや、そりゃ不味いな。うし、ちょっと待ってろ」
起き上がると、再度慌ただしく彼女は部屋を後にする。
それから数分後、乱暴な足音が近づいたと思えば、彼女が部屋に戻って来た。その手にペット用のトイレを持って。
「買ったの?」
「いんや、元々うちにあったのを漁ってきたんだ」
昔、ペットでも飼ってたんだろうか? 少し気になったが、今は置いておこう。
白い砂が敷き詰められたペット用トイレをダンボールの横におけば、いよいよ準備万端。秋牛さんが見守る中、僕はみーちゃんの便秘を救う作業を行った。
「快便だったな!」
「……うん」
秋牛さん、嬉しいのは分かるけど女の子だし、その発言はどうかと思う。
結果としてみーちゃんは貯めていた分をすっかり出し切って、今は彼女の腕の中で哺乳瓶からミルクを飲んでいる。
見て分かるけどやっぱりお腹が空いてたらしい、猫用哺乳瓶の中のミルクがどんどんなくなっていく。
「うーし、みーちゃん一杯飲めよ~、飲んだらそのまま眠っちまえ。寝る子は育つ」
ゆらゆらと本当の赤ん坊をあやすように身体を揺すりつつ授乳させる秋牛さんは、慈しみの表情というのか、ちょっと頬が緩んでいてやっぱり可愛く見える。
失礼ながらも僕がそんな彼女の顔から目が離せずに居ると、やがてそんな僕に気づいたのか、彼女がいつもの鋭い目でこちらを見つめ返してきた。当然ながら彼女の慈しみの表情は瞬く間にどこかに消え去ってしまった。残念。
「なんだよ?」
「ごめん。ちょっとぼーっとしちゃった」
ふーん、とそれで納得したのか、特に追求することもなく。秋牛さんは餌を与え終わったみーちゃんを優しくダンボールの毛布の中に戻すと、おもむろに僕に向けてこう言いだした。
「金田、お前脱げ」
……。
「ごめん、今なんて」
「いいから背中向けて脱げ、上だけでいーから」
なんだろう、僕を脱がしてどうするつもりなのだろう。
困惑のあまり固まってると、痺れを切らした彼女にがしりと身体を掴まれてしまう。
強制的に背中を向けさせられ、挙句の果てにシャツを乱暴にめくられてしまった。僕の背中は今、彼女に丸見えになっている事だろう。
「細い身体してんな、頼りねぇ」
「ごめん」
「謝られてもな、んなことより……あー」
彼女の暖かい手が背中を撫でる感触に、痺れのような感覚が全身に走る。
彼女が背中をさするように動かせばその度にヒリヒリとした痺れが走って、身体が勝手に小刻みに震えてしまう。
「青あざ、でっけーな。悪い」
「あぁ」
そう言う事か、と納得いった。道すがらに蹴られた箇所を心配してくれたのだ。
てっきりこれから襲われてしまうなんて思った数瞬前の僕を叱りつけたい。秋牛さんは心優しいだけなのだ。不埒な訳がない。
そんなよそ事を考えていると、ぴしゃり、と背中に冷たいものが張り付く感触がして、恥ずかしくも僕の身体は跳ねた。直後に香ってきた独特の匂いから推察するに、湿布を張ってくれたんだろう。
「うし。これでおーけーだな」
「うん、ありがとう秋牛さ」
「玖濔」
「……玖濔さん」
どうにも他人を名前呼びする習慣がないからか、また間違えてしまった。そのお陰で背後から感じる気配が重い。
同時にシャツをめくる手が離されたので服を正そうとすると、何故かもう一度シャツがめくられた。……秋牛さん?
「あの」
「お前、背中だけじゃなくて腹も怪我してんのか?」
どうやら秋牛さんが別の傷に気がついたみたいだ。
そう言えば嶺田君に何回か蹴られてたから、多分その傷なんだと思うけど。
秋牛さんは有無を言わさず僕をくるりと反転させ、向かい合う姿勢にして再度シャツをめくった。一瞬見えた彼女の綺麗な顔は、めくられたシャツが立ち塞がって今は見えない。
「喧嘩でもしたのか? 何回か蹴られたって感じだな」
「ううん。僕が友達に悪いことをしてしまったから蹴られたんだ」
「お前が悪いこと? へぇ、お前がなぁ……見えねーけど何したんだ? そいつを闇討ちしてボコったのか? それとも気絶した後に素っ裸にして路上に放置したのか?」
お腹に向けて話してる秋牛さんの発想は非常にバイオレンスだった。
そんな事してたら多分、コレだけじゃすまないと思う。
「ううん。今日の友達料があんまり払えなかったんだ」
「……ん? 今なんつった?」
シャツから手が離された為、彼女の顔が見えた。
あの鋭い目つきが開かれ、まさしく言ってることを理解できなかった、という感じでぽかんとしてる。これまた始めて見る表情だと思った。
「今日の友達料があんまり払えなかったんだ」
「いや、ちゃんと聞こえてんだけどよ。……何だ、友達料って?」
「友達になってくれている代わりに払う、料金かな」
「友達って料金取るのか?」
「僕はそう聞いてるよ」
僕の説明を聞いても尚、秋牛さんはぽかんとしている感じだ。
やがて力なくその場で項垂れた、と思えば手だけ僕の顔に近づけた。
その手は中指を丸め、親指で先端を押さえ込むような形になっており、僕の目の前で手に力が入るのが分かった。
「あの」
何かを言おうとしたけど、それは叶わなかった。
まず電撃が走ったような音が聞こえ、頭部が凄まじい衝撃を受けたと思えば、僕の身体は飛ばされ何かにぶつかった。
くらくらする視界の中、彼女の中指が伸び切った形を取っていたのが見えた。
どうやらデコピンされて壁に激突したらしい。凄い威力だ。
「ひょっとしなくても阿呆だろ、金田」
「ごめん。勉強はしてるつもりだけど」
「ちげーよ、どこの世界に友達になるために金取る奴がいるんだ」
呆れ顔の秋牛さんがそう言った。
嶺田君、高橋君、天白君がそうだけど。と言ったら絶対に怒られるので言わない。
「でも僕のために色々アドバイスしてくれるし、優しいんだよ」
「ほー、どうアドバイスしてくれるんだ?」
「足を引っ掛けられて転びそうになって態勢を取り戻した時でも、慢心すると後ろから蹴られれば転ぶって事」
「クソの役にも立たねえアドバイスだな!」
視界がまた揺れた。どうやら頭を叩かれたようだ。
秋牛さん、クソとか言っちゃ駄目だよ。というか何故僕は叩かれたんだろう。
僕の頭が悪い事に怒ってしまったのだろうか。
「ごめん」
「謝って欲しいわけじゃねーよ。金田阿呆なのか? 阿呆だったな、ならはっきり言ってやる。それは友達じゃあねえよ」
づんづんづん、と多分赤くなってるであろうおでこを小突かれながら、秋牛さんは言った。
嶺田君達との関係は友達じゃあない? じゃあ一体なんなのだろうか。
「お財布扱いされてんだよお前は、ダチじゃなくて道具として使われてんだ」
「そうだったんだね」
「そうだったんだね、ってお前……。思う所はないのか?」
「使い所のない僕の有効活用方法を思いついて凄いなって」
「おっけ、お前の性根がそもそも腐りきってんな。頭ぶん殴ったら直るか?」
胡座をかいた秋牛さんが拳を僕の前に翳し、目の前で握りしめるのが見えた。
直るどころかもっと酷い事になりそうなので、正直遠慮したい。
でも実際そうだと思うし、仕方がないと思うんだけど……それにしても、やっぱり彼女が不機嫌な理由が分からない。
「ねえ、あき…玖濔さんはどうして怒ってるの?」
一瞬間違えて呼びそうになって、彼女の機嫌が更に下降した事が理解できた。
でも彼女は手を出す事はなく、代わりに腕を組んで唸り始めた。何でだろう。
「……あたしに恐れずに声かけてくるから変なやつだと思ってたが。とびきり変な奴だなコイツ……本当に分かってねえのか?」
「ごめん」
何故僕が彼らの財布扱いだと、秋牛さんが怒るんだろう。
そんな分からず屋の僕に、彼女は呆れながらも、それでも諭すように教えてくれた。
「金田とアタシが既にダチだからだ」
「……」
びっくりしてしまう。気づかぬ内に僕と秋牛さんは友達になっていたらしい。
「ダチを酷い目にあわす奴は、アタシが許さねえ。だから怒ってんだ」
「……えっと、なら僕には怒ってない?」
「怒ってるに決まってんだろがコラ」
酷いことをする嶺田君達だけじゃなくて、僕にもお怒りらしい。
「何で抵抗しねえ」
「抵抗……何の?」
「サンドバッグにされる事、金を取られる事だ。納得しちまってんのか?
納得してんじゃねえよ。そー言うのは普通納得しちゃ駄目な奴だ。
そんな事されたらアタシは、その度に三回ぐらいそいつを全殺ししてる。
お前もせめてやり返して、全裸土下座させるくらいの事をしろや」
蘇生してまで殺す事を繰り返すのは、まことに穏やかじゃあない。
しかし、世間一般的に普通だと言われても僕の心は動かないし、
貧弱な僕がやり返すなんて実現不可能だ。
「ごめん」
「っかー、埒があかねえなお前は! 謝って欲しい訳じゃあねえっつってんだよ!」
がしがしがし、と秋牛さんが乱雑に頭を掛けば、壁にもたれかかってる僕に四つん這いで近寄ってきて、かなり強引に首根っこを引き寄せられてしまう。
至近距離で見る秋牛さんの顔は、非常に凛々しかった。
「お前は困ってねえのか!」
「……実はちょっとだけ」
「何に困ってる!?」
「友達料払いすぎて、生活費がなくなりそうで」
「おっしゃ、じゃあ金取り戻しにいくぞコラ」
……。
「何で?」
「何で、どうしてって五月蝿えな、理由がなけりゃお前は動けねえのか?
なら言ってやる。理由はアタシがしたいからだ。
友達が困ってんなら助ける、当然の話だろうが」
秋牛さん、最近では珍しいかなり情の厚い人らしい。
知らなかった一面がまた知れたなと思っていると、彼女は僕の首を解放し、すっくと立ち上がって部屋を後にしようとしていた。
「どこに行くの?」
「お前を困らせたクソ共の所だ。っていうかお前も行くぞ、早く案内しろ」
「もう夜になりそうだし、迷惑になるよ?」
「そんなの知ったこっちゃねえ」
「でもそもそも、彼らが今いる所知らなくて」
その言葉を前に、部屋を出ようとした秋牛さんの動きが止まった。
やがて、秋牛さんはゆっくりと振り返って僕に質問してきた。
「よく行きそうな場所とかは?」
「ごめん」
「連絡先は?」
「ごめん」
「家の住所くらい知ってんだろ」
「ごめん」
秋牛さんはもう呆れた顔を隠さずに、これ見よがしに脱力した。
「はー……分かった、んじゃ明日お前の高校に行くから」
「うん」
何と自ら高校に出向いてくれるらしい。
正直どうしてこういう展開になったのかは僕は全く理解出来てないけど、秋牛さんがしたい事を拒むつもりはないし、その権利は僕にないので言われるがままに頷くのだった。
「そうだ、先にお前の携帯の番号教えろ。猫のことも相談したいしな」
「ごめん、携帯持ってないんだ」
「……」
「お金なくて」
「……なんかあったらこの電話番号にかけてこいや」
素寒貧で申し訳ない限りだと思う。