無理やり完結させる恋姫†無双   作:キューブケーキ

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劉虞様の場合

あらすじ

 

 政は恋よりも厳しく遠い―。

 転生した先は、戦乱うごめく漢の末期。

 前世で無念の死を遂げた劉虞は、自らの復讐と理想を胸に、再び政の道へと歩み出す。

 君主と、ただひたすらに彼を信じ仕える官吏・公孫賛(白蓮)。

 共に過ごす日々の中、やがて彼女の中に芽生えたのは、恋と呼ぶには静かすぎる想い。

 一方、白蓮の旧友・劉備(桃香)は正義を語り民を救おうとする。

 理想と理想がぶつかるとき、為政者は何を選ぶのか。

 

 

 

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登場人物紹介

 

 

劉虞(りゅうぐ)/伯安(はくあん)

 転生して再び乱世の漢に降り立った君主。冷静沈着な政務官でありながら、その本質は優しさと誠実さ。復讐のために武を学び、政のために心を閉ざす。

 

公孫賛(こうそんさん)/白蓮(はくれん)

 劉虞に仕える文官。真面目で一途。劉虞に憧れ、やがて恋を知る。政と私情のあいだで揺れながらも、彼のそばにいたいと願い続ける少女。

 

劉備(りゅうび)/桃香(とうか)

 かつて白蓮の学友であった少女。義と理想を掲げるが、現実には非情な手を選ぶようになっていく。

 

関羽(かんう)/愛紗(あいしゃ)

 劉備に従う義妹。忠義の人でありながら、暴力の是非に苦悩する。

 

趙雲(ちょううん)/星(せい)

 孤高の傭兵。理想と現実のあいだに立ち、劉備陣営に身を投じながらも、義の本質を見極めようとする冷静な眼差しの持ち主。

 

郭嘉(かくか)/稟(りん)

 劉虞に仕える文官。その才智をもって政を支え、劉虞の理想を「生きる価値のある政」として信じる者。

 

 

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 春の風は、あの日の面影をそっと運ぶ。誰にも知られず、静かに。

 産声は静かだった。まるで既に世界を知っているかのように、彼は泣かなかった。

 私はすぐに異変に気づいた。産湯をつかわせながら、小さく震えているその瞳に、あまりにも深いものが宿っていたから。

 あれは赤子の目ではない。生きてきた人の目だった。

 それでも私は母であることをやめない。

 胸に抱いて子守唄を唇でつむぐ。言葉よりも先に、温かさが伝わればいいと願っていた。

 彼は泣かない。目を閉じ私の胸元で微かに息を整えると、静かに眠ってしまった。まるでこの世に未練などないような眠り方だった。

 季節は幾つか巡り、我が子は年端も行かぬうちに筆をとった。

 文字を覚えるのが異様に早い。紙にしたためられる彼の手はまだ骨も細く、指も柔らかい。けれどその運びに迷いはなく、言葉の選び方が時に私を驚かせた。

「伯安、おまえは何をそんなに急いでいるの?」

 問いかけても彼は静かに微笑むだけだった。

 あのときもそうだった。わずかに熱が出た日の夜、「もう休んでいなさい」と声をかけると彼は布団の中からこう返した。

「母上、私は時間がないのです。きっと、それほど長くは」

 そこまで言いかけて唇を噤んだ。私はそっと額に手を当てた。熱は高かった。

 思わず笑ってしまう。

「伯安、そんなのはお熱のせいね」

 そう言うと、彼は少し困ったように笑った。

 でも、私は気づいていた。この子は何かを抱えている。

 どこか、決定的に子どもではない部分がある。

 温かさも優しさも、理知も礼儀も、まるで大人のように備えているのに、決して他人には踏み込ませない芯のようなものがある。

 それは寂しさではなかった。むしろ、覚悟のようなものだった。

 ある日、私は彼を見つけた。庭先の木刀を手に、ひとり黙々と素振りをしている。

 額には汗。口元は結ばれていて声も出していない。けれどその一太刀ごとに込められていたのはただの鍛練ではない。

 何かを斬るためにではない。何かを守るために。

 私は息をのんだ。あの背中に何人の子が気づくだろう。何人の女が惹かれるのだろう。

 私は彼の母であることを少し誇らしく思った。けれど同時に、少しだけ寂しくもあった。

 

 

 

 

 私塾には春の香りが満ちていた。山から下りてくる風が土と花の匂いを連れて来る。廊下に干された紙の束がぱたぱたと音を立て、あちこちから筆のこすれる音がする。

 その日、私は名簿に目を落としながら新しく入ってくる学友の名前を追っていた。

「公孫賛……伯珪か」

 思わず小さく読み上げる。前世の記憶が深いところで波打つ。あの男。私の最後を汚した、賊徒。

 けれど現れたのは、赤い髪の少女だった。

 陽だまりの下で笑うその子の目は、あまりにも無垢で透明だった。

「劉虞様ですね、はじめまして。公孫賛、字は伯珪と申します。これからどうぞよろしくお願いいたします」

 花がほころぶような笑顔。小さくお辞儀をするその姿に、私は一瞬、言葉を失った。

 なぜ。この娘が、あの公孫賛だというのか?

 冗談ではない。見た目が変わっただけではない。仕草も声も、あまりにも違いすぎる。

 私は自分の心に浮かんだ「可愛い」という感情を噛み殺す。

「……ああ、同じ学友として。こちらこそ、よろしく頼む」

 声が震えないように気をつけた。手の中に汗が滲んでいた。

(見た目に騙されるな。過去に何があろうと、あれは私を殺した男だ。否、今世では女であろうと、同じだ)

 けれど。

(だが……)

 その微笑を私は真似ることができなかった。

 気づけば、私は静かに目を閉じていた。

 今すぐに彼女を獄に送り、すべてを終わらせることはできた。理由などいくらでも捏造できる。だがそれは……違う。

 復讐とはただ相手を殺すことではない。過去を裁くのではなく、未来に報いることだ。

 私は決めている。

 この人生では誰にも屈しない。誰にも支配されない。

 だがそれは誰にも手を差し伸べないということではない。

「公孫賛。おまえが誰であろうと、私はおまえの善を信じたい」

 それが、為政者の目指すべき道であると、私は信じている。

 情に流されず、理を持って人と向き合う。

 それが前世で得られなかった「理想の国」の礎となる。

 夜の帳が落ちると学舎の中庭はしんと静まり返る。誰の気配もなく、ただ風だけが白壁を撫でて通り過ぎていく。

 その隅、誰にも気づかれぬよう私はひとり膝を抱えて座っていた。

 公孫賛の顔が、脳裏に浮かんで離れない。あの明るさも、笑顔も、知らなかったでは済まされない。

 人は、変わる。だから過去に縛られてはならない。

 頭ではわかっている。けれど心の奥に眠る感情は、今なお刃のように鋭く疼いている。

 私はかつてすべてを失った。

 国も、家族も、信じていた部下も。

 そして最後に、命を奪われた。

 あのとき、目を閉じる間際に思ったことを、私は忘れていない。

「もし、もう一度生まれ変われるのなら……次は、誰かを守れる力を」

 それは憎しみでも、執念でもなかった。ただひとつの、願いだった。

 私は、強くなりたい。

 政を行い、人を導き、民の心に光を灯す者として。

 決して恐怖で支配するのではなく、希望をもって背中を預けさせる者として。

 闇を見てきたからこそ、光を選ぶ。

 誰かを断罪するためではなく、誰かを救うために。

 私は、為政者になる。

 かつての自分では決して届かなかった場所へ。

 ふと夜空を見上げる。月が雲間から顔を出していた。

 その冷たい光は無慈悲な女王ではなく、どこか優しく見えた。

 

 

 

 

 劉虞様は優しい。

 けれどそれは、抱きしめてくれるような優しさではない。

 遠くから風を送るような、姿勢を正させるような、そういう優しさだ。

 私は最初、それが少し寂しいと思っていた。子どもの頃のように気さくに笑い合える関係ではなかったから。

 でも今は違う。

 彼の背中を見ていると胸の奥がじんわりと熱くなる。

 厳しい言葉の裏に誰よりも誠実であろうとする人の覚悟を感じると、指先がかすかに震える。

 彼が文書に印を押すその手。筆を運ぶときの静けさ。机の上に置かれた湯呑みに、わずかに口をつける仕草まで、どこか見惚れてしまう。

 それは尊敬とも違う。憧れと呼ぶには切なすぎる。

 言葉にすれば簡単なのかもしれない。けれど私は、まだそれを知らない。

 今日も、朝から政務が続いていた。

 報告書を整えて、彼の席に置くと、彼はほんの一度だけ私を見て、頷いた。

 それだけだったのに、胸の鼓動が少し早くなったのを自分でも不思議に思う。

「公孫賛」

 その声を呼ばれただけで、体が真っ直ぐに立つ。

 なのに彼は私の真名を普段は決して呼ばない。知っているはずなのに、あえて避けているようにさえ感じられる。

 それでも、私は彼のそばにいたいと思ってしまう。

 叱られてもいい。笑われなくてもいい。

 ほんの少しだけでも彼の役に立てるなら。

 そう思える相手がこの世にひとりだけいる。

 それが、劉虞様だった。

 

 

 

 

 城下に出ていると、懐かしい声がした。

「白蓮ちゃん!」

 振り向けば、あの頃と何も変わらない桃香の笑顔がそこにあった。春の陽だまりをそのまま連れてきたような人。周囲の空気さえ彼女のものになってしまう。

 私は思わず駆け寄っていた。

「桃香……どうしてここに?」

「白蓮ちゃんに会いに来たの! そして、劉虞様にも」

 私の心にわずかな不安が灯った。桃香が劉虞様という言葉を口にするとき、どこか無邪気すぎる。何も知らないまま真っ直ぐに向かおうとする、その子供のような勇気が、時に人を困らせることを私は知っていた。

 彼女を案内したい気持ちと、止めなければという思いのあいだで私の胸はきつく締め付けられていた。

 けれど最初のうちは上手くいくと思っていた。

 桃香は人を惹きつける力があるし、私も……少しは、劉虞様のお役に立てていると思っていたから。

 でも、甘かった。

「客将だと?」

 その言葉が落ちた瞬間、室内の温度が変わった気がした。

 書類の上から目を上げた劉虞様の瞳は、静かに、しかし明確に怒りを湛えていた。

「政は遊びではない。私情で地位を与えればそれは公正を損なう。誰より私自身がそれを知っている」

 その一語一語が胸に刺さる。

 私は桃香を信じたかった。彼女の夢を応援したかった。

 けれど私は、劉虞様を裏切っていた。

「公孫賛、おまえもだ」

 名前ではなく姓で呼ばれた。

 それだけで目の前が霞んだ。

「公と私を混同するな。政に私情を挟めば、いずれ多くの民を傷つける。おまえには、それが分からぬほど幼くはあるまい」

 私は言い返せなかった。何も言えなかった。

 桃香が涙ぐみながら謝る。けれどそれは彼の怒りを和らげるものではなかった。

「優しさとは規則を曲げることではない。私が誰に対しても厳しくあるのは、私自身もまた例外ではないと示すためだ」

 その言葉が胸に深く染み入った。

 私の憧れた人。手の届かないほど遠くにいると感じた人が、誰よりも厳しく、誰よりも誠実で、そして誰よりも温かかった。

 帰り道、桃香はしょんぼりと肩を落としていた。私は何も言えずその背中をただ見守ることしかできなかった。

 きっと私は間違った。だけどもう一度やり直せるなら、今度こそ彼の力になりたい。

 ほんの少しでも、彼の孤独をわかってあげたい。

 それが恋なのだと知るのはもう少しあとになってからのことだった。

 

 

 

 

 静かだった。

 叱責を受けたあの日から、劉虞様は一言も私の真名を呼ばない。

 それは以前からそうだったのに、なぜだろう。今はその沈黙が苦しかった。

 書類を渡しても目を合わせてくださらない。

 それが当然の距離なのだと分かっていても、私はもう、あの場所にいられないのかもしれないと、思ってしまう。

 心に冷たい水が張ったまま政庁の廊下を歩く。硯の墨の匂いがいつもより重く感じる。

 でも泣きたくはなかった。泣いたら私は官吏ではなく、ただの女になってしまうから。

「白蓮」

 背後から声がした。呼ばれた。

 私はその場で立ち尽くした。目を閉じて、胸の奥の奥で何かが崩れた。

 そっと振り返ると、劉虞様が廊下の向こうで立っていた。

「私は公孫賛を責めた。しかしそれは私が正しいからではない。正しくあろうとしたいからだ」

 その声は静かで、でも確かに私に届いていた。

「悔いたならそれでいい。二度と同じ過ちを繰り返すな。それだけだ」

 私は何も言えなかった。ただ深く頭を下げるしかなかった。

 そのとき初めて彼の歩幅が、ほんの少しだけ私に近づいたような気がした。

 また歩けるかもしれない。

 今度こそ自分の力で。

 彼の政を支えるために。

 そしてもし許されるのなら、その背中に少しでも寄り添えるような人間になりたい。

 空を見上げると、雲の切れ間に淡い陽が射していた。

 まだ寒い日が続くけれど確かに春が来ている。

 それが私にとってどんな意味を持つのかは、もうわかっていた。

 

 

 

 風の匂いが変わった。

 春の気配と共にひそやかな血のにおいが混じりはじめている。

 常山の町外れにある安酒屋。薄汚れた帳のかかったその片隅で、私はメンマを肴に黙って盃を口に運んでいた。

 酔ってなどいない。ただ静かに考えたかったのだ。

 戦は終わったのか。それとも始まろうとしているのか。

 流浪の身である私に国家を語る資格などない。

 けれど誰かの痛みに寄り添いたいという想いは、誰に与えられたわけでもない私自身の誇りだった。

「……劉虞様、か」

 人々は噂する。

 理想を語り、法を貫き、異民族とも対話を選んだ男。

 誰もが心のどこかで望みながら、誰ひとり手を出せなかった優しさを現実に変えてしまった為政者。

 そういう人間はたいてい早くに倒れる。

 私の知る限りこの世は優しさに報いない。

 それでもその名が消えないのは、この乱世に光を見せたからだろう。

「そこの御方、もしやおひとりですか」

 声をかけてきたのは一組の旅装の女だった。

 しなやかな立ち姿に無駄のない所作。

 ただの旅人ではない。瞬時にそう見抜いた私は、反射的に腰の槍へ意識を向けていた。

「私は関雲長と申します。漢の正義を掲げ、民を守る者です」

 漢の正義。

 それは時に都合の良い殺意の衣だった。

 私は目の前の女を試すことにした。

 関雲長と名乗った女は、真っ直ぐに私を見ていた。

 揺るがない瞳。誰かのために戦いたいと純粋に思っている人の目だった。

 だがその純粋さは、ときに人を斬る。

 だから私は問う。試す。探る。

「異民族を討伐していると言いましたね。劉虞殿の政とは相容れぬ行いではありませんか」

 問いかけると関羽の表情に一瞬の迷いが走った。けれど、その後すぐに強く頷いた。

「劉虞様はお優しい御方です。ですがその理想は、地に足がついておりません。我らが刃を振るうのは、漢の民を守るため。正義は実行されてこそ正義です」

 実行されてこそ、か。

 私は、関羽が嘘を言っていないことを理解していた。

 その言葉は悲しいほどまっすぐだった。だからこそ、危うい。

 やがて、小さな山間の廃村に案内される。

 かつて人が住んでいたであろう家々。今は、義勇兵と称する者たちの野営地になっていた。

 剣を研ぐ音、焚き火の煙、粗雑に並べられた寝床。

 これは戦場の前夜だ。

 そして、彼女は現れた。

 劉玄徳。桃香と名乗る頭目。

 あの優しい声と柔らかな所作は、戦いを知らない者のものに見えた。

 けれどその目の奥には、確かに決意があった。

「私は、この世の不条理に抗いたいのです。正しく生きたい人が、報われる世界にしたい」

 その言葉はどこか夢見がちで、けれど憎めなかった。

 だから私は訊いた。

「劉虞様のような政こそ、正しく生きたい人を導く道ではないのですか」

 桃香はわずかに眉を寄せた。

「……あの方はまぶしすぎるんです。私たちには少し遠すぎる。だから私たちは、私たちのやり方で」

 その答えに私は、完全には納得できなかった。けれど、どこかで理解もしていた。

 光が遠すぎると、人はその影のなかで生きてしまう。

 ならばその影の奥で何が起きているのか。それをこの目で見て選びたいと思った。

「わかりました。しばらくご一緒させていただきます。……私自身が、確かめたい」

 桃香は花のように笑い、関羽はほっとしたように頷いた。

 それが私の始まりだった。

 理想と現実。正義と暴力。そのあいだを歩く最初の一歩。

 

 

 

 

 焼け焦げた木のにおいが風に乗って鼻をつく。

 山あいの小さな邑。谷にひっそりと抱かれていた集落は、今、黒煙に包まれていた。

 火矢が打ち込まれ、屋根が崩れ、人々の叫びが混じる。

 私は立ちすくんでいた。まだ名も覚えていない仲間たちが、笑いながら家々に押し入っていく。

 刃が閃くたび、命が落ちる。叫びは、子どものものだった。

「やれ! こいつらを人間と思うな!」

 そんな声が聞こえた。

 誰かが命じ、誰かがそれに従い、誰かが何も考えずに従っていた。

 関羽の姿が見えた。

 彼女は何も迷わずに敵を斬っていた。

 目の前で乳飲み子を抱えた女が倒れ、その傍らで赤子が泣いていた。

 関羽の刀が、静かに振り下ろされた。

 これは何だ。これは野盗か。

「なぜ……」

 私は声に出していた。誰にともなく。

 これは義の行いではなかった。これは、復讐の名を借りた虐殺だった。

「趙雲さん!」

 振り向くと桃香様がいた。

 その頬は煤けていて、泥だらけの手が何かを握っていた。

「これで、劉虞様に認めてもらえるよね?」

 そう言って微笑んだ。

 それは純粋な、疑いのない笑顔だった。

 私は答えられなかった。言葉が喉の奥で崩れた。

 夜になって、焼け残った土のにおいが風に混じっていた。

 人の住んでいた場所。火が灯っていた場所。

 そこに何もかもが無かったことにされていく。

 目を閉じれば、あの子どもの泣き声が耳に残っていた。

「これが、正義なのか」

 私は誰にも届かない問いを呟いた。

 そしてその答えを求めて、私はもう一度、劉虞様の顔を見たいと願った。

 

 

 

 

 報告が届いたのは日が高くなる前だった。

 外使の報せでは、烏桓族の邑が何者かに襲われた。被害は甚大。生存者はいなかった。

 報告書の端に焦げ跡のような血痕が残っていたのは偶然ではない。

 劉虞はそれを黙って睨んでいた。手にした筆を下ろさず、ただじっと紙の端を見ていた。

「公孫賛」

 静かな声だった。だがその低さに部屋の空気が緊張する。

 呼ばれた公孫賛は息を飲んで前に出た。

「はい、劉虞様」

「こちらから派遣を要請していた使者が、報復で捕らえられた。賊と疑われている。今、我らは疑念の目を向けられている」

 言葉は抑えられていたが、その奥には冷たい憤りがあった。

「何者の仕業か……」

「それは、私が知りたいことだ」

 劉虞は、公孫賛の目を真っ直ぐに見た。

「……おまえの友人たちは、今、どこにいる」

 その問いに公孫賛の背筋がわずかに震えた。

「正確な所在は……把握しておりません」

「では探せ。すぐにだ」

 劉虞は机に手を置いたまま、静かに言った。

「私は漢室から政を預かる者として、罪ある者を見逃すことはできない。たとえそれがかつての友であってもだ」

「……はい」

 返事はかすれた。公孫賛の胸の奥がひどく痛んだ。

 廊下に出ると、空が遠く見えた。

 遠く、けれど確かに、春が近づいている。

 何もかもを奪っていく暴力の中でも、季節だけは巡っていた。

(桃香……)

 名前を心の中で呼んだだけで、胸が締めつけられる。

(お前を信じたかった。けれど劉虞様は……それ以上に信じるに足る方なのだ)

 公孫賛は唇を噛んで、踵を返した。

 風が吹いた。ほこりを巻き上げ政庁の白壁をなぞるように抜けていった。

 

 

 

 

 報告書に目を落とすと視界の隅で陽が揺れていた。

 春の光はやさしいはずなのに紙に映る影は冷たかった。

 烏桓族の集落、焼失。生存者なし。

 犯行者の装束、言語、武器の痕跡。すべてが桃香たちのものと一致していた。

 証拠は揃っていた。

 けれど私は心のどこかでまだ信じたくなかった。

 あの人が何もわからないまま罪を重ねていくなんて。

 信じた人が自分の手で何かを壊していくなんて。

「公孫賛」

 呼ばれた声に息が詰まった。

 振り返ると、そこにいたのはいつものように端正な顔を崩さぬままの劉虞様だった。

「処分を決定する。関連者は追放、拒絶すれば討伐もやむを得ない」

 その声に迷いはなかった。

「……桃香は。彼女は……本当に、すべてを理解してやったのでしょうか」

 私の問いに彼はわずかに目を伏せた。

「罪に情を乗せれば、それは政ではなくなる。私は政を執る者だ、公孫賛」

 その一言が、胸を貫いた。

 それでも私は、口を閉ざすことができなかった。

「どうか一度だけ。会って話をする機会を……」

 彼は少しだけ私を見た。

 その目の奥に、ほんの一瞬だけ痛みが走った気がした。

「私情を捨てきれぬなら、任を解け」

 突き放すように、そう言った。

 でも私は気づいていた。

 それは命令ではなかった。願いだった。

「情を捨てよ、公孫賛」と言えない人が、「任を解け」と言うしかなかった。

 だから私は膝を折って頭を下げた。

「……申し訳、ございません」

 

 

 

 

 

 文書に判を押す音がやけに大きく響いた。

 一つ一つの命令が人を斬る音に似ていた。

 公孫賛の辞令書もその中にあった。罷免。即日、すべての任務より解かれ、幽州を離れること。

 私は何も感じないふりをしていた。

 政とはそういうものだ。私情を交えず、秩序を守り、義務を果たすこと。

 それが劉虞という為政者の務めだった。

 けれど、彼女の名を記した筆先が、わずかに震えていたことに、気づいてしまった。

「白蓮」

 声に出すと、空気がきしむようだった。

 呼んではいけない名前。

 けれど、心のどこかではずっとそう呼んでいた。

 彼女が初めて政庁に顔を出した日。

 あどけない顔で、けれど真っ直ぐに私の目を見て、「私は、劉虞様のような政がしたい」と言ってくれた日。

 その言葉は今でも私を支えていた。

 私は強くない。理想を掲げるには、あまりにも不器用で、あまりにも傷を負いやすい。

 だからこそ傍にいてほしかった。

 愛していた。その想いを私は口にすることができなかった。

 為政者である私が、ただ一人の部下に手を伸ばすことは許されない。

「……公孫賛は、明日、幽州を発つ」

 言いながら言葉が刃のように胸に刺さった。

 私は理を選んだ。民の平安と秩序を守るために、私情を切り捨てた。

 それを後悔しないと決めていた。

 でも夜になると、なぜだか胸が静かに痛んだ。

 椅子にもたれて目を閉じる。

 思い出すのはあのときの笑顔。何も語らず、何も求めず、ただ傍らにいた時間。

「おまえの名を呼ぶ日は、もう来ないのか」

 誰にも聞こえぬように呟いた。

 静寂だけが返事を寄越した。

 私の決断は間違ってはいない。

 ただ、それが正しすぎることだけが、あまりにも残酷だった。

 

 

 

 春が来た。

 長い冬のあとに訪れたその季節は、例年よりも穏やかで、街道には行き交う民の声が戻っていた。

 私は文机に向かいながら、それを耳の端でとらえる。

 これが、政の力だ。

 誰かの剣ではなく、誰かの知恵と志によって生まれる平穏。

 そしてそれを形にしたのが、この幽州の主、劉虞様だった。

 彼の政庁に仕えて三年が経った。

 数え切れないほどの争いが起き、幾つもの正義が旗印を掲げては散っていった。

 だが劉虞様の政だけは、一度も嘘をつかなかった。

 誠実であること。厳しくあること。民の声に耳を傾けること。

 それは時に非情に見えたが、気づけば皆、彼の後ろに立っていた。

「郭嘉」

 名を呼ばれると背筋が伸びる。

 視線を上げると、相変わらず机の向こうには静かな瞳の人がいた。

 劉虞様は何も変わっていない。

 けれどあの頃のどこか遠かった背中は、今では確かな重みとして皆の中心にある。

「劉備は、降伏の意を示した」

 その声に私は筆を止めた。

「裁きの場を設けましょうか」

「否。罪を問うのではなく、秩序を示すために来るのだ。分からせてやれ、静かに厳かに」

 その一言にすべてがこもっていた。

 復讐のためでも快楽のためでもない。

 それは、民のための決断だった。

 

 

 

 

 春の夜は風が柔らかい。

 日中の書類に埋もれた疲労をほぐすように、廊下を渡る風が頬をなでていった。

 政庁の庭にひとり腰を下ろす。

 仕事でもなく、誰かと会うわけでもないこの場所に自ら足を運ぶのは珍しいことだった。

 けれど、今夜はどうしても思い出してしまったのだ。

 白蓮のことを。

 風に揺れる枝の音が、あのときの声に似ていた。

 政務の隙間、そっと茶を淹れてくれたときの手元。

 叱責に頷きながら、それでもまっすぐに目を見てくれた強さ。

 名を呼ばれなくても、遠くにいても、誰よりも傍らにいてくれた者。

 彼女の去ったあと、私は何も言えなかった。

 何もできなかった。

 ただ己の正しさに縋って、それがすべてだと思い込んだ。

 だが本当は知っていた。

 あの日、私のために涙をこらえていた横顔を忘れたことなどなかった。

 噂がある。

 幽州を去った彼女は、異民族の間に消えたという。

 あるいは誰にも知られずに劉備の手で命を落としたとも。

 そして別のひとつには彼女が自らの意志で、劉備を援助していた罪を背負いに行ったとも。

 真偽は知れない。

 だが私は、もうその答えを追わないと決めている。

 為政者に許されたのは、選び取った理を貫くことだけだから。

 けれどもし、また春がめぐり同じ風が吹いたとき。どこかで彼女が笑っていてくれたなら、それでいいと思う。

 私の名を二度と呼ばなくてもいい。

 ただ生きて、この世界のどこかで、空を見上げていてくれたなら。

 風が庭木の葉をさらさらと鳴らした。

 私はそっと目を閉じた。

 春はまだ冷たい夜気の中に、確かに存在していた。

 

 

 

 

 春の終わりは思いのほか静かだった。

 草の色も若さを抜け、陽の光はやわらかく、風の音がどこか名残惜しい。

 郭嘉は書類の山を片付けながら、ふと手を止めた。

 机の上、差し入れられた茶から、かすかに懐かしい香りが立ちのぼっている。

 薄荷と、干した柑橘の皮を和えたもの。

「……白蓮様が好まれていたものですね」

 となりの席で程昱、風が微笑んだ。

「この季節になるとどうしても飲みたくなるのですよ」

 郭嘉は頷きながら湯呑みに口をつけた。

 その味はほとんど記憶にしか存在しないものだった。

「劉虞様は、今日もお元気ですか?」

「ええ。お変わりありません」

 郭嘉は答える。

 政庁の主は年齢を重ねてもなお凛然とし、民にとっては揺るぎない楷模であり続けていた。

 けれど、ときおり独り庭に佇む姿を見かけるようになった。

 風が吹く方角を目で追っているような。あるいは誰かの気配を探すような。

「本当に……時が経ちましたね」

 「はい。けれど過去はきっと誰かの心に残るものです」

 郭嘉は、微笑みながら茶を飲み干す。

 その底に小さな桜の花びらが一片沈んでいた。

 誰が入れたのかはわからない。けれどそれは確かに忘れられていない証だった。

 風が窓を揺らす。

 空は青く日差しは温かく、どこか遠くで鳥が鳴いた。

 この世界は静かに、変わり続けている。そして誰かの願いがそうであったように、今も穏やかに政が人を生かしている。

 

 

 

 書が終わると、劉虞は筆を伏せ、静かに立ち上がった。

 夜はもう深く、政庁に人影はない。だが、扉を叩く音はなかった。

 それは、合図のいらない約束だった。

 奥の部屋。灯りは落とされ、薄明のなかで彼女は座っていた。

 白蓮。

 静かなその名を、彼はようやく口に出せる時間を得ていた。

「よく来たな」

「はい。……今夜も、来てしまいました」

「なら、私は待っていたことになる」

 そう言って微笑む彼の手が、そっと彼女の頬に触れた。

 政の顔を脱いだ劉虞は、ひとりの男として、彼女を深く愛していた。

 口づけは長く言葉はいらなかった。

 それが何を意味するか、ふたりはもう知っていた。

 幾度も唇を交わし、肩を抱き、深く、深く彼女の名を呼んだ。

 公私を分けるという理の外側でだけ、彼は甘く残酷なほどに、白蓮を愛していた。

 そして彼女も、すべてを投げ出して、ただ彼のぬくもりに応えた。

 だが、その日々は、突然、終わった。

 血に濡れた布に包まれて、首が差し出された。

 桃香、あの娘が、笑いながら言ったのだ。

「もう、邪魔な女はいないよ。私がそばにいるから」

 その瞬間、何かが音を立てて崩れた。

 心ではなく、政ではなく、もっと深いところにあったものが。

 彼は机に突っ伏し、声もなく嗚咽した。

 郭嘉は、その姿を見ていた。

 黙って傍に寄った。

 そして何も言わず彼の手を取った。

 月の夜が三つ過ぎた頃、彼女は初めてその胸に抱かれた。

 愛ではなかった。慰めでもなかった。

 それでも触れるたび、交わすたびに、心が溶けていった。

 彼は何度も彼女を抱いた。

 名を呼ぶことなく、何度も求め合った。

 やがて、痛みは色を変え、優しさへと姿を変えていく。

 郭嘉はただの補佐ではなく、いまや政と夜の両面で彼を支える唯一の伴となった。

 白蓮の影を越えることはない。けれど夜が明けるまでのあいだだけでも、彼の呼吸を預かる人として、郭嘉はその役を引き受けた。

 

 

 

 白壁の政庁とは遠く離れた石造りの地下牢。

 扉は鉄で鍵は二重にかかる。

 その奥にひとつの影が座っていた。

 桃香、かつて希望を語った少女。

 今はその手に縄がかけられ、囚人たちと同じ服をまとう。

「これが……私のいる場所、なんだね」

 独り言のように、呟く。

 返事はない。隣の牢には盗賊が眠り、向かいには流人が泣いている。

 正義を信じて刃を振るったその手は、いまや膝の上に置かれたまま震えていた。

 彼女をここへ送ったのは、他でもない。劉虞だった。

「政に情は不要だ」と言いながらも、劉虞は一度、桃香と対面していた。

 あのとき、彼は問うた。

「おまえは白蓮を殺したことを悔いているか」

 桃香は、笑っていた。

「ううん。だって、あの人は邪魔だったから」

 その瞬間、劉虞の目からすべての感情が消えた。

「ならば、政として裁く」

 それは情けではなかった。復讐でもなかった。

 ただ秩序のための処断だった。

 桃香は裁判もなく投獄された。

 幽州の法に照らして、それが唯一の「公的で静かな怒り」だった。

 牢の外から、足音が近づく。

 郭嘉の姿が、格子の向こうに現れた。

「……まだ、生きていたのですね」

 その声に桃香は微笑んだ。

「うん。私、ずっとここで待ってる。劉虞様が、私だけを見てくれる日が来るまで」

 その笑顔はすでにどこか壊れていた。

 郭嘉は何も言わなかった。ただ視線を下げて、一つだけ言葉を落とした。

「彼があなたを見る日はもう来ません」

 その言葉は、まるで墓碑銘のようだった。

 

 

 

 書を読んでいた手が不意に止まる。

 紙の上に置かれた指先が小さく震えているのを見た瞬間、わたしはただ黙って目を伏せた。それが何の震えかを知っていたから。

 帳面に目を落としたまま、劉虞様は低く呟く。

「あの女、まだ生きていたのだな」

 声は風に溶けるほど静かで、無機質だった。

 問いではなかった。ただの確認。何年も前、命を奪われずに投げ込まれ、誰からも見捨てられた者。

 その女の名を劉虞様は一度たりとも口にされなかった。

 わたしもそうしてきた。夜を共にしても、労る手を差し伸べても、その名だけは越えてはいけない境界だった。

 それを今、超えることになる。

 手の甲を伏せてわたしは短く頷いた。

「はい、政記録よりも外にありますが、地下房にて生存確認されております」

 それはただの情報。感情は込めない。込めてはいけない。

 劉虞様の顔は変わらなかった。ただ、息の出し方が一度だけ変わった。

 それだけでわたしには十分だった。

「処理しろ」

 たった一言。命令ではない。指示でもない。

 ただ整理された命だった。

 ああ、ようやくすべてが終わるのだ。

 わたしの知らない彼の過去。彼の愛、彼の傷、彼の怒り。それが、ようやく政に回収される。

 わたしは深く頭を下げた。

「承知いたしました」

 そうして振り返る。わたしの胸には涙に似た熱があったけれど、それは流さない。

 彼に背を向けるその瞬間だけは、秘めたままでいい。わたしは彼の理を信じる者だから。

 

 

どっとはらい

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