無理やり完結させる恋姫†無双   作:キューブケーキ

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小人間居して不善をなす

あらすじ

 

 三国鼎立の時代、蜀漢の片隅に、一人の戦わぬ男がいた。名は北郷一刀。

 武にも政にも才はなく、戦場の華たちの背をただ見守るばかり。だが彼の言葉はいつもまっすぐで、偽らず、優しかった。

 

 

 

 

 

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プロローグ

 

 あの人はいつも優しかった。

 けれどその優しさは誰のものでもなかった。

 蜀がまだ「理想」という名の火を灯していた頃。

 彼は戦に背を向けるように、ひっそりと兵器の影で笑っていた。

 武にも、政にも、女にも、熱を持たず。

 誰もが忘れてしまうような脇役の、そのまた脇役。

 なのになぜ、私たちはあの人の背中を何度も何度も追いかけてしまうのだろう。

 私が最初だったなんて言うつもりはない。

 朱里は彼の穏やかな声に、翠は彼の何気ない一言に、雛里は彼の指先の温もりに、そして劉禅はあの人の隣にある「日常」に恋をした。

 恋とは気づかなかった。ただそばにいたいと願った。戦のない朝を一緒に迎えたいと、そう願っただけだった。

 けれど理想を追った者たちは滅んでいった。

 蜀は終わった。信念も、大義も、正義も、何もかもが意味を失い、私たちの前に残されたのは、ただ一人の戦わなかった男だった。

 彼はきっと今でも笑っている。

「僕は、誰のものにもならない」と。

 でもそれでも、もし一度だけでいいから振り向いてくれるのなら。

 ねえ、どうかこの手を、取ってくれませんか。

 

 

 

 

1.朱里と一刀

 

 

 

 

 諸葛亮としての私は、正しいことを選び続ける人間でありたい。

 けれど朱里としての私は、あの人に触れたくて、触れたくなくて、今日もまた距離を測りかねていた。

 

「……一刀様ですか?」

 

 桃香様が静かに頷いたのは、益州統治の再編会議の後だった。

 政と軍の両方で足りない人材を補うべく、人事配置の最終調整が進んでいた。

 

「そう、研究院を作るの。攻城兵器や連弩、衝車の開発と運用評価……名ばかりの部署だよ。だからこそ、一刀さんに任せる」

 

 名ばかりの部署。左遷先のようなもの。それでも私は納得してしまった。

 彼には、北郷一刀には、そのような余白が似合うと思ってしまったから。

 

 

「朱里ちゃん、こっちこっちー」

 

 声の主は、青い空の下で手を振っていた。

 北郷一刀。劉備様に付き従う古参でありながら、政治や武芸で目覚ましい活躍をすることもなく、どこかひょうひょうとした男だった。

 私は竹簡を脇に抱えたまま、思わずため息をつく。

 

「……手を振られるほど親しいつもりはありませんが」

 

 そう言いつつ近づく自分がいた。彼の声には不思議と力が抜ける。

 この男には人を緊張させない術でもあるのだろうか。

 

「朱里ちゃん、今日の研究所視察でしょ? 丁度、投石機の調整をしてたんだ」

「まさか、また貧民街を狙ってはいませんよね?」

 

 一刀様はわざとらしく肩をすくめて、笑う。

 

「いやいや、今回はちゃんと郊外の焼畑跡地にしてるよ。前回怒られたしね」

「……怒られるようなことは、そもそもするべきではないんです」

 

 理屈を説くと、彼は困ったように目を細める。

 まるで子供をなだめるようなその表情に、私は小さく眉をひそめた。

 

「それで朱里ちゃん、今日は怒りに来たの? それとも暇つぶし?」

「視察です。仕事です。……暇などあるわけが」

 

 言葉の終わりが自分の口内に消えていった。

 彼の手が火傷のように赤くなっていたからだ。

 

「……その手、どうしたんですか?」

「ああ、これ? 昨日、火薬の調整でちょっと爆ぜた。平気平気。お湯に浸けたらすぐ治るし」

 

 軽い口調とは裏腹に、傷は決して浅くはなかった。

 思わず私は彼の手を取っていた。自分でも驚くほどに自然な動作だった。

 

「湯に浸ける前に、冷やしてください。薬草の塗布も必要です。……自分の身体をもっと大切にしてください」

 

 彼は一瞬、呆けたように私を見たあと「ありがとう、朱里ちゃん」と、静かに笑った。

 その微笑みに、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。

 優しい。けれどその優しさは、誰のものでもない。

 私のためでは、ない。

 その夜、帳の下。竹簡の山に囲まれて私は筆を置いた。

 

「……どうして、あんな顔をするんですか」

 

 問いは風に消えた。答える者は誰もいない。

 けれど胸の奥に小さな灯がともっていた。

 研究院で一刀様と出会ったその日から、私は少しずつ、「朱里」としての自分を取り戻し始めていた。

 研究院の中庭は静かだった。

 石畳にはところどころ苔が生え、使い古された木製の机の上には、組み上げ途中の連弩が置かれている。

 私は一刀様に言われるまま、その試作兵器の一覧に目を通していた。

 意味不明な図面、誤字脱字だらけの設計、そして無駄に洒落たネーミング。

 

「これは……鳳凰撃ち?」

「うん。見た目は派手だけど全然飛ばないよ。たぶん銃床が悪いんだろうなあ」

 

 一刀様はまるで紙芝居のように、連弩の部品を一つずつ取り外して見せながら、のんびりと解説していた。

 その横顔は真剣そのもので、なんでもない風景に私の胸は妙に騒いでいた。

 

(どうして私は……この時間が心地よく感じるのだろう)

 

「朱里ちゃんって、ほんと偉いよね」

 

 唐突な言葉に私は思考を遮られた。

 

「……どういう意味ですか」

「いや、なんていうか。ちゃんと理屈で動いてて偽りがない。俺なんて、毎日誤魔化してばっかりだからさ。投石機を平然と街で撃つとかね」

 

 苦笑まじりの冗談に、私は頬をひとつだけ緩める。

 

「誤魔化している割には、怒られてもやめないのはどうかと思いますけど」

「えー、だって怒っても朱里ちゃん、帰る時にはちゃんと資料くれるじゃん。あれ助かってる」

「……あれは最低限の行政処理です」

 

 思わず視線を逸らす。

 彼の飄々とした態度に気を緩めさせられてしまうのが悔しかった。

 けれど。

 

「でもさ、朱里ちゃん、よく怒るけど……怒る時もちゃんと悲しんでるよね。誰かが痛い思いをするのを本気で嫌がってるの、分かるから」

 

 その一言は不意を突いて私の胸に届いた。

 

「私が……?」

「うん。だから、俺が怒られるのも、なんかこうちゃんと怒られてる感じで。嫌じゃないっていうか……まあ、痛いけどね」

「……あなたって人は本当に……」

 

 苦笑が漏れた。それが自分でも驚くほど自然だった。

 夕暮れがゆっくりと庭に落ちる。

 投石機に影が伸び、風が砂を運んで通り抜けていく。

 一刀様は机の上の木片をひとつ拾い、私の方へ差し出した。

 

「はい、お土産」

「……これは?」

「今日の成果。ほら、失敗した部品って逆に一番思い出に残るじゃない?」

「……変な理屈ですね」

 

 そう言いながら、私はその木片を受け取っていた。

 掌に馴染む不格好な木の欠片。それは、誰の役にも立たない。

 けれど私にとっては少しだけ特別な何かに思えた。

 

(ねえ、一刀様。あなたは、いつか……)

 

 言葉にはしなかった願いを、胸にしまって。

 

 その日、私は研究院の門を出た後、何度も何度も、懐の中の小さな木片を指で撫でていた。

 それはまるで、心に触れてしまった証拠のようで。

 それでもまだ、私は「これは恋じゃない」と思い込んでいた。

 それが愚かしくも、愛おしい始まりだったのだと知るのはもう少し先の話だった。

 その夜、蝋燭の灯りを頼りに帳の下で筆を取った私は、ふと、いつもより遅い筆運びに気づいた。

 

(どうして……こんなに集中できないの)

 

 竹簡の文字がぼやける。

 外からは虫の音がして、遠くで誰かが水を汲む音が聞こえる。

 けれど、私の思考の隅には、あの男の顔が居座って離れない。

 あの手。傷だらけの掌。

 それを平然と見せて、笑っていた無防備な顔。

 私の言葉に「ありがとう」と言った、あの柔らかな声。

 

(……ずるいです、一刀様)

 

 あなたは誰にも執着しない。

 誰のものでもない微笑みを、誰にでも平等に向けてくる。

 だから私もまた、その笑みに惹かれてしまう。

 けれど私は諸葛亮。軍師であり、政務官。

 誰よりも正しさに忠実でいなければならない人間。

 そんな私が、どうして──。

 

(恋なんて)

 

 あの人がくれた粗末な木片を取り出す。

 何の価値もない。それでも私は今日、これを懐に入れて家まで持ち帰った。

 この行為に意味がないとは……どうしても思えなかった。

 

「……一刀様」

 

 声に出して呼んでみる。静かな部屋に音が落ちる。

 私は自分の声のあまりに柔らかい響きに、そっと目を閉じた。

 恋ではない。まだ違う。

 ただ、その手にもう少しだけ触れていたかっただけ。

 そう自分に言い聞かせながら、私は木片を箱にしまい、そっと鍵をかけた。

 恋になる前に終わるのかもしれない。

 けれどそれでも私の胸のどこかが、確かにあの人に触れてしまったことだけは……否定しようとしてもできなかった。

 

(……もう気づかれていたら、どうしよう)

 

 そんな小さな不安すら、今はどこか甘く苦しかった。

 そして、朱里はまだ知らなかった。

 その箱の鍵を閉じた同じ時刻、研究院の庭で星を見上げていた男もまた、

 ふと彼女の名を口にしていたことを。

 

「……朱里ちゃん、怒ってばっかりだけど、ほんとはすごく優しいんだよなあ」

 

 そう言って笑ったその顔を誰も見てはいなかった。

 

 

 

 

2.翠と一刀

 

 

 

 

 あの人の声を私は忘れていなかった。

 でも思い出すたびに心が揺れるから、なるべく考えないようにしていた。

 益州の市街地。市場から少し外れた裏通りで奇妙な集団に出くわしたのは、ほんの偶然だった。

 

「……何をしている?」

 

 白い外套をはだけさせ、投石機の周囲で測量用の縄を引っ張っていた兵士たち。

 その中にひときわ見慣れた背中があった。

 

「翠か。久しぶりだね」

 

 北郷一刀。振り返った彼の声はあの頃のままだった。

 

(こんなところで、会うなんて)

 

 胸がざわめいた。

 かつて出会った戦の端で、ほんの少しだけ言葉を交わした男。

 互いの真名を知っているほどには、深く。けれど、それ以上には何もない中途半端な距離。

 

「投石機……を街中で?」

「うん、試射。ちゃんと向こうは空き地だから」

「常識があるならやめろ。こんな所で何かあったら……!」

 

 怒鳴っていた。

声が震えていたのは、きっと久しぶりに会ったから。

 ……それだけじゃなかった。

 投石機の横で、私は彼の横顔を盗み見た。

 あの頃と変わらない、けれど、どこか寂しげな目。

 

「一刀、お前……」

「ん?」

「……何でもない」

 

 言葉を飲み込むしかなかった。

 

「どうしてまだ笑っていられる?」とも、「誰かに寄りかかりたいとは思わないのか?」とも聞けなかった。

 私は強くなければならない。

 失った家族のために、怒りと共に生きてきた。だけど──。

 

(この人の前では、私は時々、怖くなる)

 

 強がりが剥がれてしまいそうで、本当は寂しいと叫び出しそうで。

 

「翠は変わらないね」

 

 そう言って笑った一刀の声は、まるで風だった。そっと吹き抜けて、私の仮面を揺らすような、静かで優しい声だった。

 

「……お前は変わったか?」

「うん。少しだけね。たとえば誰かが怒鳴ってくれるのって、意外とありがたいなって思えるくらいには」

「……馬鹿か、お前は」

 

 呆れたふりをして、そっと目を伏せた。

 風が二人の間をすり抜けていった。

 それが始まりだった。

 私はこの日初めて、自分の中に「女としての私」が目を覚まし始めていることに、薄々気づきながらも、それを認めるにはまだ少しだけ勇気が足りなかった。

 

(あれが……一刀の選んだやり方?)

 

 その日、私は再び投石機の射撃陣地を訪れていた。

 ただの偶然。……そう思いたかった。

 だが、心は否応なくあの男の動向を追ってしまう。

 そして見た。

 一刀が指差したのは、城門のさらに向こう貧民街。

 あの界隈には、戦で親を失った子供たちや、戸籍を持たぬ流民が集まっていると聞いていた。

 

「やめろ……まさか、本気で撃つ気か?」

 

 私の声が震えていた。

 怒りか、恐怖か、自分でも分からなかった。

 

「翠。今、この街を守ってるのは俺たちだ。ここが次に狙われる可能性は充分ある。無防備なまま平和ボケしていることの方が、よほど罪深い」

 

 彼は冷静だった。

 まるで、ひとつの石を地面に転がすだけのような顔で。

 

「……なら、別の場所でやれ。あそこには人がいる! 命があるんだぞ!」

「その命が、次の戦でどうなるか分からないだろ?」

「っ……っ!」

 

 怒鳴った。掴みかかった。けれど一刀は動じなかった。

 

「翠。俺だって、全てを見捨てたいわけじゃない。でも選ばなきゃいけないんだ。救えるものと救えないものを」

 

 それが、その言葉こそが私の胸を引き裂いた。

 

「勝手に決めるなっ!!」

 

 私は叫んでいた。

 声が震えて、涙が滲んで、それでも拳を握りしめて立っていた。

 

「……皆、誰かに見捨てられたくないって、そう思って生きてるんだ。……私だって……ずっと、そうだった。一刀、お前だけは、そういう風になってほしくなかった」

 

 目を見開いた一刀の表情を、私は直視できなかった。

 静寂が落ちる。

 

「……ごめん。俺、翠のそういう言葉、初めて聞いた気がする」

 

 ぽつりとそう呟いた彼の声は、私の心を切り取るようだった。

 

「うるさい……」

 

 顔を背けた。

 彼に涙を見せるなんて絶対に嫌だった。

 けれどその時、ふいに頭を撫でられた。

 

「ありがとう。ちゃんと怒ってくれて。……そうやって俺のこと見ててくれて」

 

 その手はひどく優しくてずるかった。

 その日の射撃は中止された。誰にも理由は告げられなかった。

 ただ、一刀は部下にこうだけ言ったという。

 

「翠が怒った。だから、今日はやめよう」

 

 ……馬鹿みたいに、単純な理由。でも、それで全てが動いた。

 

(私は……あなたに、見られたかっただけだった)

 

 それを、恋と呼ぶにはまだ覚悟が足りない。

 でも、心はもう、無関係ではいられなかった。

 この時、私は初めて思った。

 この人に、私の心を奪われたら、きっともう他の誰にもあげられなくなる。

 そう気づいたときには、もう遅かった。

 研究院の裏手に小さな梅の木がある。その下に一刀はよく座っていた。

 本を読むでもなく、誰かを待つでもなく、ただ空を見上げるように。

 

「また、こんな所で油を売ってるのか」

 

 そう声をかけたのは、何日かぶりのことだった。

 前に怒鳴った日から私は一刀と顔を合わせていなかった。

 

「……怖かった?」

「は?」

「この前。俺の話、聞いてる翠の顔が、すごく……泣きそうだったからさ」

「……誰が泣くか。私は、お前のことが――」

 

 言いかけて言葉を飲んだ。

 どうしてそれ以上が出てこないのか、自分でもわからなかった。

 

(好きだとか、そんな簡単な言葉じゃない)

 

 ずっと戦場で生きてきた。男に恋などしたことがない。

 それに一刀は、あの朱里とも親しげに言葉を交わしていた。

 あの日、書簡を届けに研究院を訪れたとき、朱里と一刀が肩を寄せ合って竹簡を見ていた。

 冗談の一つにも顔を崩さぬ朱里が、ふっと微笑んだ。その瞬間を私は見てしまった。

 

(……あれが女の笑顔だ)

 

 彼女に敵意があるわけじゃない。むしろ尊敬している。

 けれどあの人の隣には、やっぱり朱里のような賢くて静かな女性が似合うのだと思った。

 私は……そういう女ではない。

 戦場の土と血の中で育った。剣を振るい、叱咤され、怒鳴り返しながら、男たちの隣で生きてきた。

 

「……お前さ、どうしてそんなに誰にでも優しくするんだよ」

「誰にでもじゃないよ」

 

 そう言って、彼は空を見上げた。

 

「翠は……強くて真っ直ぐで、ちょっと怖いけど、でも正直なところが好きだよ」

「は……はあ!? な、なっ……」

 

 頭が熱くなって、何を返していいかわからなかった。

 いつもの私なら怒鳴っていた。でも怒れなかった。

 

「だから、時々でいいから笑ってよ。戦ばかりじゃ、心まで削れてしまうから」

 

 その言葉は私の中の何かを、やわらかくほどいていった。

 その夜、月の下。

 私は剣の手入れをしながら自分の指先を見つめていた。

 

(この手で何人の命を奪ったんだろう)

 

 一刀はそんな私の過去を知っている。

 知ったまま私のことを好きだなんて言う。

 だからこそ怖い。けれど、だからこそ惹かれる。

 翌朝、研究院の門前で出くわした朱里は、私にほんの一瞬だけ視線を向けて言った。

 

「……あなたも、あの人を見てるのですね」

 

 その声には棘はなかった。

 けれど、どこか切なさがにじんでいた。

 

「別に……私はただ……」

 

 言い訳のように口を開きかけたその瞬間。朱里は、ほんの少しだけ微笑んだ。

 

「……似合うと思います、翠さんと一刀様。ただ、私にはできないことを、あなたならできるかもしれない」

 

 そう言い残して、彼女は静かに去っていった。

 胸の奥が痛かった。恋とは、こういうものなのか。

 奪い合いでもなく、勝ち負けでもなく。

 ただ誰かの幸せを願って、自分の居場所を探す、そんなもの。

 私はまだ不器用で、女らしさにはほど遠いけれど。

 それでも、もしあの人の隣に居ていいと許されるのなら。

 

「……もうちょっと頑張ってみるか」

 

 小さく呟いて、私は剣を背に再び歩き出した。

 

 

 

 

3.雛里と一刀

 

 

 

 

 その人はいつも優しくて、少しだけ馬鹿だった。

 だけど私はそんな一刀様が、ずっと、ずっと好きだった。

 研究院の片隅に私だけの机がある。

 朱里ちゃんの配慮で、政務の合間に気分転換ができるようにと置いてもらったのだ。

 でもそれは建前だった。

 本当の理由は一刀様がそこにいるから。

 

「雛里ちゃん、これ手伝ってくれない? 数式がぐちゃぐちゃになっててさ」

「……相変わらずですね。『火薬強度=おおよそどーん』って、何ですかこれは」

「いや、感覚的には合ってると思うんだけど……」

「思考が子供です」

「ひどい!」

 

 一刀様と話していると、どこか胸が苦しくなる。

 笑っていたいのに、視線が合うと目を逸らしてしまう。

 まるで、小さい頃に憧れていた家庭教師の先生に恋をしてしまった生徒のようで。

 

(……いいえ、私はもう子供じゃない)

 

 

 朱里ちゃんに、こっそり紅を貸してもらった。翠さんに髪の巻き方を聞いてみた。

 大人になるって、こういうことなんだろうか。

 

(でも私が変わったところで、気づいてもらえるわけじゃない)

 

 胸の奥が、ひゅっと痛む。

 夜遅く、帳の中で一刀様が作業している灯りを見つけた。

 声をかけるつもりはなかった。ただ、そっと見守って帰るつもりだったのに。

 

「……雛里ちゃん?」

 

 名を呼ばれて足が止まった。

 

「こんな時間にどうしたの?」

「いえ、ただ……様子を見に来ただけです」

 

 言い訳だった。

 でも彼は疑う様子もなく微笑んだ。

 

「そっか。ありがとう。ちょうど夜食があるんだ。一緒に食べようか」

「……はい」

 

 そうして二人きりの夜が始まった。

 静かな帳の中で、湯気の立つお粥をすすりながら、私はふとぽつりとこぼした。

 

「……一刀様は、恋をしたことがありますか?」

「うーん、どうかな。たぶん、あると思う。

でも、ちゃんと誰か一人を選ぶってこと、したことはないかもしれない」

「……私は、あります」

 

 言った瞬間、体が熱くなった。

 目を逸らしながらも、心臓が苦しくて仕方なかった。

 

「へえ……そっか。……いい人?」

「はい。とても、優しくて、馬鹿で、ちょっとだけ女心に鈍感なところもあって……」

 

 彼はそこで、ふっと笑った。

 

「……それ、俺のこと言ってない?」

「言ってません」

 

 即答だった。でも耳まで赤くなるのは止められなかった。

 夜が更ける中、帳の隙間から風が吹き込んだ。一刀様が、何気なく私の肩に外套をかける。

 

「……ありがとうございます」

 

 その温かさに、涙が出そうになった。

 

(この人が、誰かを選ぶときが来るなら。私はその選ばれない誰かになる覚悟を)

 

 それでも、今だけは恋をしていたかった。

 その夜。私は胸の内でそっと願った。

 

「どうか、あと少しだけ……私のままで、いさせてください」

 

 自分が女であることをあの人の目に映ることを許される時間が、もう少しだけ続きますようにと。

 お粥の器を机に戻し終えると、一刀様は何気ない仕草で私の隣に腰を下ろした。

 それはあまりに自然で、心の準備ができていなかった私は小さく肩をすくめてしまった。

 

「寒い?」

「……少しだけ」

 

 そう答えると、彼はふわりと笑って私の手に自分の手を重ねてきた。

 

「あ……」

 

 指先がふれる。まるで迷うように、そっと絡まってくるその指は熱を持っていた。

 男の手。けれど荒々しさはなく、ゆっくりと包み込むような動きだった。

 

「……冷たいね、雛里ちゃんの手。もう少しこっちに」

 

 そう言って彼は私の手を両手で包み込んでくれた。

 その手のひらは安心するぬくもりがあった。

 私は、うまく呼吸ができなくなっていた。

 

「……一刀様」

「うん?」

「……それ以上、優しくしないでください」

 

 ほんとうはしてほしいのに。けれど、この優しさに甘えてしまえば、もう二度と戻れない気がして怖かった。

 でも彼は答えずに、ただそっと私の頭に手を添えた。

 そして、ためらいなく髪を撫でた。私はそっと目を伏せた。

 

「……雛里ちゃんって、ちっちゃくて細いからさ、いつも背負いすぎてないかなって思うんだよね」

「……私は、重くなんか……」

「ううん、そうじゃないよ。

雛里ちゃんが自分に課してることが、たぶん、一番重いんだよ」

 

 その言葉に心が震えた。見抜かれているそんな気がして。

 彼の腕がそっと私の背中にまわる。抱きしめるわけじゃない。

 ただ、そこにいることを肯定するように、支えてくれるだけの腕。

 

(……あたたかい)

 

 涙がこぼれそうだった。

 けれど、それを見せたら崩れてしまうから、私はうつむいて唇をかんだ。

 

「頭、撫でていい?」

 

 小さくうなずくと、彼の手が再びふわりと私の頭に置かれる。

 幼い子供をなだめるような撫で方じゃなかった。

 ちゃんと、女として扱ってくれるやさしい撫で方だった。

 

「……ずるい人」

 

 ぽつりとつぶやくと、彼は少し困ったように笑って「うん、ずるいよ。たぶん、雛里ちゃんの気持ち、ちゃんとわかってて……でも、それでも、こうしてたいって思っちゃうくらいには」

 

 その先は、言葉にならなかった。

 だけど、それで十分だった。

 夜は深まり、帳の中はほの暗く、蝋燭の灯が静かに揺れていた。

 背中に添えられた手の温もりが、ただそれだけで心をほどいてゆく。

 私は一刀様の肩に、そっと頭を預けた。

 それだけで、息が詰まりそうだった。

 胸が、これ以上ないくらいに熱くて、苦しくて。

 

(言わなきゃ。伝えなきゃ。今、伝えなければ)

 

「……私、一刀様のこと……ずっと好きでした」

 

 言った瞬間、全身がこわばる。でも逃げなかった。この想いを偽りたくなかった。

 

 沈黙。息を呑むような、張り詰めた時間。

 やがて彼の手が、そっと私の頬に添えられた。

 そして肩口に寄り添うように顔を傾けて──。

 

「ありがとう、雛里ちゃん。……俺も、君のことが好きだよ」

 

 その声はとても静かで、とても誠実で、私の涙をそっと溶かしてくれた。

 その次の瞬間。彼の唇が、そっと私の首筋に触れた。

 やわらかくて熱を帯びていて、けれど決して乱すような口づけではなかった。

 ただそこに、私が女として居ることを確かめてくれるような、優しく、あたたかい口づけだった。

 

「あ……」

 

 思わず小さく声が漏れた。

 くすぐったいような、でもどうしようもなく嬉しかった。

 そして彼の指が裾から入って来てくれた。

 

「……雛里ちゃんは大切にしたいって思った。

それは守りたいとか、そういう意味じゃなくて……ちゃんと君と向き合いたいって、思ったから」

 

 涙が止まらなかった。この人に想いを伝えてよかった。怖がらなくてよかった。

 こんなふうにただ隣にいて、そっと触れてくれるだけで私はこんなにも幸せになれるのだから。

 

「……また明日も隣にいてくれますか?」

 

 彼の指先の動きに震える声でそう尋ねた私に、彼はゆっくりと頷いた。

 

「もちろん。明日も明後日も。……できる限りずっと」

 

 それは恋の始まりを告げる約束。

 けれどそれ以上を望むには、まだ少しだけ時間が必要だった。

 でもそれでよかった。

 ゆっくりでいい。一歩ずつでもこの恋を育てていけたら。そう願った夜だった。

 

 

 

 

4.姜維と一刀

 

 

 

 

 これは敗北ではない。

 これは、誰かの願いを継ぐという、もう一つの戦いの始まりだ。

 夜明けが近づく頃、天幕に一報が届いた。

 

「成都より、全面降伏の詔あり」

 

 その場にいた者全てが、息を呑んだ。信じたくない。受け入れたくない。

 だがそれは確かに劉禅陛下の筆によるものだった。

 

「……ふざけるな……!」

 

 叫んだのは私だった。

 床几を蹴り倒し、剣の柄を握る手が震えていた。

 

「ふざけるなよ……! 我々はまだ戦える! 戦場を諦めた先に何があるというんだ!」

 

 北郷一刀は静かに文を読み、口を閉ざしていた。

 その沈黙が、私には何よりも腹立たしかった。

 終わりなど、まだ認めていない。私はまだ戦える。

 腕は上がる、声も出る、敵もいる。

 ならば、どうして降伏など口にできるのか。

「姜維くん。君は、誰の命でここにいる?」

「っ……!」

 

 その一言で、私の呼吸が止まった。

 

(陛下の命。……それが、全てだったはずなのに)

 

「陛下は、もう戦うことを望んでいない。それは、生きてほしいという命令でもあるんだ」

「……それは、逃げだ」

「違う。終わらせることもまた、勇気なんだよ」

 

 私の中で、何かが砕けた。

 過ぎた年月。積み重ねた屍。誰かの名を叫びながら息絶えた仲間の顔。

 それらがすべて、無駄だったとは思わない。

 けれど、今、剣を取っても誰も戻らないことを私はもう知っている。

 

「……納得がいかないんです」

 

 私の声は、怒りと悔しさに濡れていた。

 

「院長、我々はまだ戦える。ここで終わるべきではない。この戦を最後にしてはいけない……!」

 

 静かな帳の中で、北郷一刀はただ黙って私の言葉を聞いていた。

 あの男は戦場に立つ者ではない。

 しかし私が剣で語るよりも深く、重く、戦の行方を見つめていた。

 

「……姜維くん。君が命を懸けてきたのは、蜀の勝利? それとも……君の、誰かの願いだったのかな」

「願い……?」

「君は、誰かを守りたいと願ったことはある?

勝ちたいじゃなくて、生きてほしいと」

 

 問いに答えられなかった。

 戦の中で、生死を賭けることはあっても、守るという言葉はあまりに遠かった。

 

「戦場に出て、部下が死んで、民が焼かれて、それでも勝てば良いなんて、俺には言えない。君がそれでも立ち続けるのは……君が、きっと優しすぎるからだよ」

 

 その言葉に胸が揺れた。

 私の中の怒りや信念が、まるで彼の言葉に吸い取られるように、静かになっていく。

 

「……私は丞相や桃香様の意志を継いで……」

「継いで、それで君は幸せになれるの?」

「……!」

「それで君の家族や仲間や、好きだった誰かが戻ってくるの?」

 

 苦しい。

 こんなにも悔しいのに、なぜか涙が出そうだった。

 

「君の剣は誰かのためだったはずだ。誰かの生きたかった未来を守るために、剣を取ったんだ。なら、今、君が生きることを選ばないと誰の願いも報われない」

 

 その瞬間、私はようやく気づいた。

 この男は戦わないことで、誰よりも誰かを守ろうとしているのだと。

 一刀の言葉は剣よりも鋭くて、心の奥に刺さるのに血は流れなかった。

 

「姜維くん。君は、まだ若い。

生きて、誰かを守る方法を探していいんだよ」

 

 そして私の中にも、いつしか一つの願いが芽生えていたことを。

 

「……まだ戦いたいんです」

「それでも?」

「はい。でも、あなたの言葉を忘れないようにします。私は戦場の外で本当に大切なものを、もう一度探してみます」

 

 武装解除の知らせが届いた夜。

 天幕の中は、風の音さえも遠くただ静かだった。

 私はまだ剣を手放せずにいた。鞘に納めたまま膝の上に抱え、まるで過去にすがるように。

 

「……もう、終わったんですね」

 

 そう呟くと、背後からあの人の気配が近づいてくる。

 北郷一刀。戦わぬ者。

 けれど私に、唯一立ち止まる理由を教えてくれた人。

 

「姜維くん」

 

 その声が優しくて、ふいに涙がにじんだ。

 

「君は、ずっと頑張ってたよ」

 

 ふ、と腕が回された。

 

「……っ!」

 

 彼の胸の中に落ちる。

 拒まない。拒めなかった。

 背中をそっと撫でられた。ただ、布越しに掌がなぞるように上下して、それがあまりにも優しくて、心がとけていく。

 

「んぅ。やめてください……っ。そんな風に、撫でないで……」

「大丈夫。泣いていいんだよ、姜維くん」

 

 涙が、音もなく落ちた。

 抱きしめられるのが、こんなにも温かいなんて知らなかった。

 戦場では得られなかった。

 剣の鍔鳴りや、勝鬨の声とは全く違う。

 甘くて蕩けるようで、心の奥が、やっと静かになった。

 

「君の背中は、もうそんなに強ばってないよ」

 

 腕や腿、喉を撫でる手が、私の強がりをゆっくりほどいていく。

 

「ああ……私は、どうしたら……」

「これからは生きていい。誰かを守るためじゃなくて、自分のために」

 

 その言葉に、深く、深く、沈んでいくようだった。

 そして私は彼の胸に顔を埋めた。泣きたくて泣いているのではない。

 あたたかさに、甘えているだけだった。

 夜が明ける頃、私はようやく剣を横に置いた。

 それは敗北ではなく、初めて誰かの胸で眠れる夜を知った記念だった。

 

「……降伏の使者を俺が引き受けるよ」

「……それは……」

「君が行けば、裏切り者と罵られる。俺ならもともと半端者だ。何を言われてもいい」

 

 その背に、どうしても言葉を投げられなかった。

 見送ることしかできなかった。

 そしてその数日後。蜀は魏に降伏し、軍は武装解除された。

 武器を置いた兵たちの背に、冷たい風が吹いた。

 その風を見つめながら、一刀はただひとつだけ言葉を残した。

 

「君たちが生き残ったことに、きっと意味はあるよ」

 

 戦の終わりは死だけではない。残る者にも痛みがある。

 それでも生き残ったからこそ、語れるものがある。

 私にはもう剣を振るう理由はなかった。

 けれどこの敗北を未来に渡す役目がまだ残っている。

 

 

 

 

5.劉禅と一刀

 

 

 

 

 この国はもう駄目になってしまった。

 玉座も、冠も、母の残した理想も。

 蜀という名の火は消え、私はひとり、焼け跡に立ち尽くしていた。

 でも、そこにあの人がいた。

 

 

「……劉禅ちゃん、元気だった?」

 

 洛陽の風は思ったよりも柔らかかった。

 降伏してからすぐ、私の身柄は魏の都に移された。

 政治的価値はもうなかった。なのに彼はそこにいた。

 北郷一刀。かつて蜀で静かに生きていた男。

 

「……どうして、ここに?」

「迎えに来た。……一緒に暮らそうか。戦のない場所で」

 

 その言葉はあまりに簡単で、でも私にとっては救いだった。

 そして今、幽州の安楽県で暮らしていた。

 

「一刀様。……この髪、変じゃないですか?」

「ううん、似合ってる。劉禅ちゃん、大人になったね」

「……ずるいです」

 

 私はふくれて背を向けた。でもすぐ、そっと後ろから抱きしめられる。

 

「わっ……!」

 

 背中に彼の胸板の感触。腕が優しく私を包む。

 

「もう大丈夫。ここでは、誰も君を姫とは呼ばない。君がただの女の子として笑えるように……俺が全部、守るから」

 

 その言葉に瞼が熱くなった。

 姫ではなく女の子として愛されること。それが、こんなにも幸福なことだなんて知らなかった。

 

「……首、撫でるの、好きですよね」

「え? ああ、ごめん。つい」

「……いいです。気持ちいいから」

 

 ふわりと髪をかき上げられた首筋に、彼の唇が触れる。

 

「……っ」

 

 優しいやわらかい、でも確かに男の人の口づけだった。

 首筋から頬、唇へ。蕩けそうなほど、あたたかくて。全身がそれだけで熱を持つようだった。

 

「劉禅ちゃん」

「……はい」

「君が国を捨ててまで選んだ男として、俺、ちゃんと……君を幸せにするよ」

 

 私は何も言えず、ただ頷いた。言葉ではなく心が応えていた。

 蜀はもうない。けれど、この小さな家の中に、私だけの国がある。

 その国には戦はなく、涙もなく、ただひとりの男がいて、私の名を、優しく呼んでくれる。

 

「……劉禅ちゃん、おはよう」

「おはようございます、一刀様」

 

 それだけで、私は今を生きていける。未来は、ここからはじまる。

 愛されていると、女として生まれ直した気がした。

 安楽県の朝は静かだった。

 風は穏やかで、陽射しはぬるくて、鳥たちは遠慮がちに囀っている。

 蜀にいた頃のような張り詰めた朝ではない。

 国のことを考えなくていい。誰かの期待に応えなくていい。

 私はただ一人の女の子として目を覚ますだけ。

 そして隣には、いつもあの人がいる。

 

「……ん、おはよう、桃香ちゃん」

「おはようございます……一刀様」

 

 まだ眠たそうな声。でもその声を聞くだけで、胸の奥がふわりと温かくなる。

 朝ごはんを一緒に作って食べて、庭に咲いた白百合に水をやって、時々、ふざけて背中を抱きしめられて、気づけば口づけをされ、腕や胸を撫でられ、くすぐったくて笑ってしまっている。

 それだけの毎日。

 でもそれが、蜀にいた頃には一度もなかった私だけの時間。

 

「……一刀様」

「うん?」

「私、今……すごく、幸せです」

「うん俺も。ここでの暮らし、戦も肩書もないから全部ほんとの劉禅ちゃんでいられる。……それが、嬉しい」

 

 その言葉に思わず涙がにじむ。

 あの国では、私は姫だった。

 民のために生き、母のために泣き、夢のために微笑んでいた。

 でも本当の私は、ただこんなふうに、手を繋いで、笑い合っていたかっただけなのだ。

 

「……蜀に、戻りたいと思いますか?」

 

 ぽつりと尋ねた私に、一刀様はすぐに答えなかった。

 でも静かに肩を寄せ口づけをすると、やがてこう言ってくれた。

 

「君がそうしたいなら……俺はどこにでもついていく。でも君がいま幸せなら、それが一番だよ」

「……戻りたいなんて思いません」

 

 私は彼の指先の動きを感じながら、胸を疼かせてそう答えた。

 

「蜀で過ごした時間は大切な記憶です。でも……いまの方がずっと、幸せで、楽しいから」

 だからもう振り返らない。あの国に未練はない。

 私はいま、この人と暮らす明日だけを心から望んでいる。

 もう戦は終わった。

 いまはただ愛に満ちた日々を、二人で重ねていくだけ。

 それが私の選んだ人生。

 この恋が、私の答え。

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