あらすじ
それは戦乱のただなかでこそ見つけられた、たったひとつの愛のかたち。
軍師と百姓、才女と凡夫。
不釣り合いな二人の、いびつで、だからこそ純粋な恋物語。
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この人の指先が好きだった。
力強く土を掘り、草を抜き、濡れた大根の泥を払う仕草がどうしようもなく、好きだった。
陽翟の朝はいつも静かだった。町に立ち込める市場の喧騒は、ここまで届かない。
霧のような霞が畑を包み、苗の葉先に露が光る。
あれから何度こうしてこの庭の風景を見たろう。私が来て、彼が笑い、季節がひとめぐりして、もう三年。
彼
出会いは、偶然に近かった。仕官話を断る口実に田舎へ逃れた私が、ふとした縁で救った男だった。
馬に蹴られ、泥にまみれ、瀕死だった人が、今はこんなにも逞しく、土を愛おしむように生きている。
「良い出来だ」
彼の声は相変わらず優しく、野良着の袖で汗を拭う横顔が、ふと少年のように無垢に見えた。
私がかつて都で夢見た主は、こんな人ではなかった。
才を尊び、志を語り、天下の動乱を制する器に仕えること。それが私の道だと信じて疑わなかった。
だがこの男は、ただ畑を耕し、夕餉を炊き、陽翟の風に目を細めるだけの人だった。
それなのにどうして、私はこんなにも、この人の隣が心地よいのだろう。
「おかえり、稟ちゃん」
ふと、彼の声に現を抜かれていた思考が戻る。
鍬を立てた彼が笑って振り向いていた。そうして私は、自分の両手がわずかに震えていたことに気づく。
「……ただいま、マスオさん」
軍師を目指す私が、情人として呼ばれることを初めは恥じていた。だがいまはそう呼ばれるたび、心が柔らかくなる。甘く、とろけるように。
夕餉の支度をする台所。私は火をおこし、彼は大根を刻んでいる。
ふたりで囲むのは、稗と粟の雑炊だけ。それでも愛する彼と食べるそれは、どんな膳よりも美味しい。
食卓の向こうで彼が静かに言う。
「稟ちゃんは、きっと立派な軍師になるよ」
私は笑って、こう返す。
「でもマスオさんの雑炊ほどには、誰かの心を温められませんよ」
心は、ゆっくりと溶けていく。
仕官の志と愛する人の笑顔のあいだで、私はまだ答えを出せずにいた。
火がパチパチと小さく弾ける音を聞きながら、私は湯気の立つ鍋を見つめていた。
今日の雑炊には、昼間マスオさんが収穫していた大根をたっぷり入れた。
色味のために青菜も少し加えてみたけれど、彼はきっと気づかない。
けれどそれでいいと思った。気づかれなくていい。些細な手間に気づかれないままの優しさがあると知っているから。
「いい香りだね」
そう言ってマスオさんは私の隣に腰を下ろした。肩がわずかに触れる。
それだけで胸が少し高鳴るのを、私はもう否定できなかった。
「お腹、空いてるでしょう?」
「うん、たくさん働いたからね」
鍋をよそいながら私は目を伏せた。これから言うべきことを考えると、雑炊の湯気がやけに眩しく思える。
「実は……」
「うん?」
「私と風は……袁家に仕官するつもりでいます」
匙を止めたマスオさんの横顔に、陰りが差したように見えた。
だけどそれはほんの一瞬で、すぐに彼はいつものように穏やかな微笑を浮かべた。
「そうかい。君たちならきっと大丈夫だよ」
その言葉の奥にある本当の思いを私は知っていた。
だから胸が痛んだ。これ以上、甘えてはいけない。ぬくもりに溺れてはいけない。仕官すると決めたのは自分の意志だったのだから。
「ありがとうございます」
感謝の言葉を口にしながら、私は小さく震える指先を膝の上で握った。
「それでね、マスオさん……」
「うん?」
「マスオさんは、ここに残られるんですよね」
「そうだね。僕は稟ちゃんほどの才は無いから。ここで畑を耕して、生きていければそれで十分だよ」
寂しいと思った。わがままだとわかっていても、彼にもついてきてほしいと思った。
けれどマスオさんは主に仕えるという言葉を持たない人だった。
彼は誰かのために戦うより、隣の人と笑うことを選ぶ人だ。それを否定してはいけないと、私は何よりも自分に言い聞かせていた。
「……マスオさん」
気づけば私は彼の名を呼びながら、手を重ねていた。
熱が移る。鍋のせいではなく、心の奥がじわりと滲むように熱くなる。
「ありがとう。これまで、ずっと……」
「こちらこそ。君がいてくれて、僕は……とても幸せだった」
静かな部屋に、二人の息づかいだけが重なっていく。
指がそっと触れて、頬を撫でて、彼が私に口づけた。やさしく、まるで何かを封じるように。
私はその唇を受け止めながら、もう一度だけ願ってしまう。どうか、このひとときが終わらなければいい、と。
けれど朝は来る。陽は昇り私たちを引き離す。
だからせめて今夜だけは。
私は自分の手をそっと彼の胸に置いた。彼の温もりがそこにあった。
世界がどう変わろうと、たった一人を愛することは罪ではない。
この胸の奥に確かにあるものは、主君に仕える志と同じくらい――いや、それ以上に、強く、熱い。
寝室の灯りは落とされていた。狭い部屋の中で、私は彼の胸に身を預けていた。
衣擦れの音ひとつすら、はばかられるような静けさの中で。
「……寒くはない?」
私の肩を抱く彼の手がそっと掛け布を引き寄せた。
「ううん、大丈夫」
ぬくもりは、もう十分すぎるほどだった。むしろ胸が詰まって苦しい。
息を吸うたびに彼の匂いが胸いっぱいに満ちて、何かが溢れそうになる。
「マスオさん……」
「ん?」
「私……やっぱり寂しい」
自分の声がまるで他人のようだった。震えて、湿って、哀しみと執着が滲んでいる。
こんなに弱い自分を彼に見せたことがあっただろうか。
「僕もだよ」
そう言って彼は私の頬に口づけた。
そっとまぶたに、頬に、首筋に。やさしくて、あたたかくて、触れるたびに心がほどけていく。
私は彼の胸に手を這わせた。鼓動が速くなるのを感じる。
それは私と同じ。私たちはどこまでも似た者同士だった。
夜の深さに紛れるように、私たちは肌を重ねた。
それはただの悦びではなかった。
明日、違う道を選ぶふたりが、ひとつの場所にとどまれる最後の灯だった。
彼の掌が私の腰にまわり、指先が背をなぞるたび、私はこのぬくもりを覚えておこうと思った。
何度も、何度も、愛されて、包まれて、私は声も出せず涙を流していた。
ああ、愛している。こんなにも誰かを想う心があったなんて。
でも私は行かなければならない。私は軍師で、志を胸に宿した人間だから。
だから今夜だけは。せめて今夜だけは、女として、彼に抱かれたかった。
朝が来て、私は静かに身支度を整えた。眠る彼の横顔を見つめて髪を指で梳いた。
昨夜の名残が肌に、喉に、子宮に残っている。けれどそれも私の一部になっていた。
火の落ちた囲炉裏の前で、私は小さく深呼吸をしてから振り返る。
「休みには、帰ってきます」
その声に目を覚ましたマスオさんが、眠たげに微笑んだ。
「うん。君の部屋はそのままにしておくよ」
笑いながら言うその言葉に、胸が締めつけられた。もう涙を見せるわけにはいかなかった。
「ありがとうございます」
私は彼の腕のぬくもりを振り切るように、家を出た。
少し歩いた先で、風が待っていた。あどけない寝顔を覗き込むと、私はそっとその肩に顔を埋めた。
「稟ちゃん?」
「……言ったのに、誘ったのに、あの人は仕官しないそうです」
「うーん、やっぱりそうでしたか」
「マスオさんは風以上にぐーたらですからね」
「ちょっと風!」
笑って、拗ねて、冗談を言って、けれど胸の奥でまだ燃えている火があった。
それは後悔ではない。諦めでもない。
これは誓い。私が帰る場所は、あの庭の向こうにあると、そう信じて。
城門をくぐったとき私は息を止めた。
気がつけば、あれほど憧れていた「仕官」という言葉が妙に遠く感じられたからだ。
ここは、袁本初の城下。武と智の者が日々行き交うこの地に、私は今、ようやく一歩を踏み出した。
望んでいたはずだった。夢見ていたはずだった。
「稟ちゃん、緊張してる?」
「……していないわ」
隣で肩をすくめる風に、わざと素っ気なく返す。けれど足元は少しだけ震えていた。
私は戦うために来たのだ。志を示し、才を証明し、主の道を照らす軍師として。
その覚悟を胸に刻んできたのに、どうしてだろう。
瞼の裏にあの人の笑顔がふと浮かぶ。
土を払いながら「良い出来だ」と言っていた、あの声のぬくもり。
静かな夕暮れに並んで食べた、粟の雑炊の味。
「……何をやっているの、私は」
首を振って思いを振り払う。過去に縋ってはきっと前に進めない。
これは恋などではない、と自分に言い聞かせる。あれは一時の情に過ぎなかったと。
けれど夜は嘘をつけなかった。
城の一室を与えられ、簡素な寝具に身を沈めても眠りは浅い。
耳が、指が、肌が、あの人のぬくもりを求めてしまう。
まるで心が置いてきぼりにされたみたいに。
文をしたためた。差し出し人の名を書いて、封をする。
手が震えた。けれど止められなかった。
『今夜は冷えます。そちらはお変わりありませんか。私のことなどすぐ忘れて、どうかお元気で』
本心ではなかった。でも伝えてしまえば、きっと戻れないと思った。
恋という言葉を使えば、私のすべてが崩れてしまいそうで。
だから私は、また言えずに終わる。
「どうでした? 今日の軍議」
夜更け、風がふらりと部屋を訪ねてきた。
「大したものではないわ。皆、言葉を装飾するばかりで、芯の通った策を語る者はいなかった」
「さすが稟ちゃん。で……その顔はなに?」
風の声に、私は眉を寄せた。
「顔?」
「うん。たぶんだけど、恋してる女の顔だと思う」
そう言って笑う風は、どこか寂しげだった。
「……貴女だって忘れられない人がいるでしょう?」
その一言に、風ははっと息を呑み、視線を逸らした。私が気づいてないと思ったのか。
「……でも、だから仕官したの。誰かに頼らず、自分の足で立てるようになりたかった」
その言葉は私の胸にも深く届いた。
恋を理由に何かを諦めたくはない。恋に逃げて、才を濁らせたくはない。
けれど、それでも。
恋は心を満たしてしまうものなのだ。
才能も、志も、野望も、すべて霞んでしまうほどに。
その夜、私はまた筆を取った。
今度の文には、宛名を書かなかった。ただ、胸の奥に残っていた言葉を、そっとしたためた。
『あなたのことを思い出すたびに、私は弱くなる。でも、それでも、好きです』
誰にも渡さないつもりだった。
だけどいつか、きっとこの気持ちは、何かを変える力になる。
私はそう信じて、筆を置いた。
文をしたためた夜、私はほとんど眠れなかった。
天井を見つめながら、何度もまぶたを閉じたのに、夢に落ちることはなかった。まるで眠ってしまえば、大切な何かが遠くに行ってしまう気がして。
こんな夜は、音が鋭い。
羽虫の羽ばたき、遠くの犬の声、布が擦れる音ですら胸の奥に響く。
そうして思い出してしまうのだ。あの人と過ごした、音のない夜を。
あの夜、私は女になった。
誇りでもなく、羞恥でもなく、ただ一人の男に抱かれて、あたたかく満ちて愛された。
それだけの事実が今も私を形作っている。
私は、女として彼に抱かれたことを悔いていない。
むしろあの夜があったからこそ、私は自分の弱さを知ったのだ。
彼の手は、不器用で優しかった。
口づけも、抱擁も、熱の重なりも、すべてがぎこちなくて愛おしかった。
あの人のことを、どうしても「主」とは呼べなかった。
けれど、それでも、彼が私にとって何よりも「帰る場所」だったことは、もう疑いようがない。
……それでも私は、ここにいる。
あの人の腕から離れ、武門の中で言葉を戦わせている。
信じた道を歩むために。たとえ心の一部を置いてきたとしても。
翌朝、私は風と共に城の書庫に向かった。
陽が昇り切る前の空気はひんやりとして、眠らなかった体には少し堪えた。
「稟ちゃん」
「なに?」
「昨日の夜、また文を書いてたでしょう?」
振り向くと、風は少しだけいたずらっぽく微笑んでいた。
「……見てたの」
「声をかけようと思ったけど、あまりに真剣だったから」
「……見られてたなら、もう言い訳もしないわ」
「それで、届くの?」
「分からない。出してもいないから」
風が私の横に立って、ふうっと長く息を吐いた。
それは自分自身のための深呼吸のようでもあった。
「ねえ、稟ちゃん。恋って、あんがい弱さを教えてくれるものなんですね」
私は黙って、彼女の横顔を見つめた。
風の瞳の奥にほんの少しだけ水の光が揺れていた。
「私も、たぶんカツオさんのこと、一生忘れられないと思います」
その言葉は、私の胸の奥にそっと届いて、あたたかく広がった。
わかる。私もきっと同じだから。
夜、私はようやく文を封じた。
けれど宛先はまだ書けなかった。
そのかわり文の最後にそっと付け加えた。
『あなたがこの文を読まなくても、私はあなたを忘れません』
言葉にすることで、少しだけ前を向ける。
書き記すことで、揺れる心が静まってゆく。
たとえ今は遠くても、想いはどこかでつながっている。
そう信じて私は蝋燭の火を吹き消した。
文を封じた夜、私は久しぶりに夢を見た。
それはあの庭の夢だった。
朝露に濡れた土。収穫された大根。瓦に落ちる雨の音。
そしてひとつぶの笑い声。私のではなく、マスオさんの。
何を言ったのかは覚えていない。ただ、その声だけが胸に残って、夢の中で私は泣いていた。
目覚めたとき枕が濡れていた。
こぼれた涙の温度すら冷めていたのに、胸の内はまだ湿ったままだった。
翌日、稟は袁家の朝議に出席した。
上座に並ぶ武官たちの顔を見ながら思う。
この場に私は何を持ち込めるだろうか。
軍略、政、言葉。それらを操る自信はある。
だが、どれほど頭で優位に立てたとしても、この心に巣くう恋という名の感情が、静かに重石となっているのを自覚していた。
主君に仕える。それは、人生を託すということ。
けれど託せなかったとき、自分はどうなるのだろう。
愛した人のもとへ、帰ることは許されるのだろうか。
思考が濁った時、風の声が後方から届いた。
「稟ちゃん、上手く流しましたね。あの老臣、絶対に貴女に食ってかかると思ってたのに」
「論で負けたら、軍師など名乗れないわ」
「……それでも、貴女、なんだか疲れて見えますよ」
風の言葉に私は笑ってみせた。そう、誰にでも通じる微笑み。
だが、その裏にあるものは、私自身にさえまだ言葉にできなかった。
「……少し、風にあたりたいわ」
「うん、付き合いますよ」
城の外庭へ出ると、秋の風が頬を撫でた。
少しずつ色を変え始めた木々の中で、私たちは黙って立っていた。
その沈黙の中、ふと、風がぽつりと呟く。
「私ね。やっぱり思うの。恋と志って、両立できないのかなって」
「どうして?」
「だって、どちらかを選んだら、もう片方が、ずっと遠くへ行っちゃう気がして」
私は答えなかった。けれど同じことを、もう何度も考えていた。
私たちは軍師であり女である。
でもこの世界では、そのふたつはしばしば対立する。
愛されるために生きるか、仕えるために生きるか。
どちらかを切り離さなければならないような錯覚。いや現実。
けれど、どちらも諦めきれない私は、弱いのだろうか。
空を見上げると、雲が流れていた。
手を伸ばせば届きそうな、けれど絶対に掴めない場所に。
私の想いもあの雲のように、遠くで揺れていた。
その夜、私はひとりで文机に向かっていた。
灯を落とした部屋に、蝋燭の炎だけが揺れている。
静かすぎて、筆がすれる音すら胸に沁みた。
袁家での月日は、短いながら濃かった。
智を振るい、言葉を尽くし、軍議の座でも声を持った。
けれど、何度言葉を重ねても、心のどこかが満たされなかった。
ここに仕えても、私は誰の人生も照らせない。
そう思ってしまった自分が、ひどく冷たい人間に思えた。
でも、きっと違う。これは、私が誰のために才を尽くしたいのかを知ってしまったから。
あの庭で、あの雑炊を囲みながら、彼の「美味しいね」の一言に、全身がほどけたあの時間を知ってしまったから。
私はもう、ただの才ではいられない。
筆を置いた。
目を閉じて静かに息を吐く。
そして決意を封じた辞表を懐にしまった。
そのとき、扉が静かに開いた。風だった。
「……書いたの?」
「ええ」
「そっか」
短く返した彼女は私の隣に座った。
しばらくふたりで黙って炎を見つめる。
「風」
「なに?」
「私、曹孟徳様の下へ行くつもり」
「やっぱり」
風は驚かなかった。ただ頷いてみせた。
「稟ちゃんはね、最初から主を選ぶ目をしてた。だから、きっと袁本初様じゃないって、どこかで分かってたんだと思いますよ」
「……ごめんなさい」
「謝ることじゃないですよ。私も、一緒に行きますから」
「……いいの?」
「うん。稟ちゃんが選んだ場所なら、私も迷わないと思います」
その言葉に胸が熱くなった。
いつだって私たちは共にあった。泣きながら剣を握った日も、夢を語り合った夜も。恋をした相手も。
だからこれからも。
私たちは立ち上がり、蝋燭を吹き消した。
さあ、行こう。
才を使うために。愛に応えるために。
彼のためでも、私自身のためでもなく、きっとそれは誰かを照らすための道になるから。
華琳様は涼やかな目で私たちを見下ろしていた。
その眼差しに、私も風も自然と背筋を正す。
まるで自分の芯の強さを映すかのように、彼女の静謐な気配が部屋を満たしている。
「貴女たちが稟と風ね。話は聞いているわ。二人とも、才ある者だと」
厳しい声ではなかった。けれど、それだけに逆らえない強さがあった。
華琳様のもとでなら、きっと私は軍師として生きることができる。
それを確信した瞬間だった。
「それと、ひとつ──」
彼女がわずかに顎を引いた。
「貴女たちが推挙した、蔣子通とかいう者。彼のことも興味があるわ」
その言葉に胸がすうっと冷える。
「……彼はただの農民です。私たちが私情で名を挙げてしまっただけ」
「才ある者にただのなど無いわ。興味を持った以上、こちらから会いに行かせましょう」
止められなかった。
あの人は、政治の場に出る人間ではない。仕官など、きっと望んでいない。
それでも、華琳様の言葉に否を返す勇気は、そのときの私にはまだ、持てなかった。
陽翟。
そこはもう、私にとって思い出になりつつあった土地。
けれど彼は今もそこに生きていた。いつもと変わらぬように。
「良い出来だ」
抜いた大根を陽にかざし、マスオさんは誰に見せるでもなく満足げに呟いた。
土にまみれた指が、根菜のひとつひとつを撫でていく。
その静かな日常を、彼女が来て壊した。
「貴様が、蔣子通か」
馬上から声をかけてきたのは、鋭い眼光の女だった。
鋼のような声で名を告げる。
「曹孟徳様が臣、夏侯元譲とは私のことだ」
マスオさんは一瞬だけ目を細めた。けれど次には淡く笑った。
「それで……何のご用でしょうか?」
彼の声は穏やかで、臆することがなかった。
だがそれが、彼女には反抗に映ったのだろう。
「稟と風が貴様を推挙した。ゆえに私が迎えに来てやった」
「お断りします」
「……何?」
場の空気が一瞬で変わる。
「私はただの民です。食べて生きていければ、それでいい。仕官など性に合いません」
夏侯惇は、歯を食いしばる音をさせた。
「ふざけたことを……華琳様の命を無下にするのか!」
「命を軽んじているのは、貴女の方では?」
次の瞬間、剣の柄で彼は打たれていた。
倒れ伏したその身が土に転がる。
意識を失った彼を馬に乗せながら、夏侯惇は静かに唇を歪めた。
「貴様の意志などどうでもいい。必要なのは人材だけだ」
馬蹄の音が遠ざかる。
陽翟に残されたのは、折れた大根と踏みにじられた
彼の姿を見た瞬間、私は言葉を失った。
布団の上、蒼ざめた頬に殴打の痕。
薄い額の傷から乾いた血が筋を描き、眉間にうっすら皺が寄っている。
眠っている。けれど私はわかっていた。
これは連れてこられたのだと。
来たのではなく、拉致されたのだと。
誰の手によって、など考えるまでもない。
私が、彼の名を口にしたから。
私が、推挙したから。
私が……彼を巻き込んだのだ。
「……ごめんなさい」
言葉にした途端、涙が零れた。
これまでどんな戦場でも泣かなかったのに。
どれだけの矢が飛び交っても震えなかった心が、今、崩れていた。
「稟……ちゃん……?」
その声に、はっと息を飲んだ。
彼が目を覚ました。
「どうして、泣いてるの?」
問いかけは、いつもと同じ穏やかさだった。
怒りも、怨みも、責める言葉すらなかった。
ただ私のことを心配していた。
拉致され、暴力を受けて、知らぬ地で目覚めたその人が、最初に口にするのが私の名前だった。
「私……貴方を……推したの……貴方のことが、好きで……」
嗚咽に震える声が、部屋の静寂を乱した。
彼はゆっくりと起き上がり、私の頬に手を伸ばした。
「僕も、稟ちゃんのことが好きだよ」
その一言で、また私は泣いた。
声にならないまま、肩が震える。
この人は、どうしていつも、こうなのだろう。
どうして、何も言わず、許してしまえるのだろう。
「春蘭がね、力尽くで……」
「うん、なんとなく察しはついたよ」
柔らかな目が細く笑んだ。
その笑顔に私は甘えてしまった。
「私、軍師として失格です……」
「どうして?」
「自分の大切な人を守れなかった」
彼は首を横に振った。
「違うよ。君がいたから僕はここにいる。生きてる。そういうことだよ」
不思議だった。
こんなにも泣いて、こんなにも苦しいのに、胸の奥に、ふわりと灯がともるのを感じた。
それは責任ではなく、絆という名の温もりだった。
「……ここに居てもらえますか」
絞り出すように言った私に彼は頷いた。
「うん。君が戻る場所が、ここなら」
たったそれだけで、私はまた、生き直せる気がした。
軍師としてではなく、一人の女として、愛を信じてもいいと、そう初めて思えた夜だった。
華琳様の間へ通されたのは、午後の陽が長く差し込む頃だった。
磨き上げられた床の上に、私と風は並び、マスオさんは控えていた。
顔の傷はかさぶたになり、痕跡が僅かに残るだけ。けれど私の心には、まだその痛みが鋭く残っていた。
華琳様は、静かに茶を口にしていた。
その仕草さえ美しい。
だが、それは決して柔和ではない。強く、研ぎ澄まされた美しさ。
「蔣子通、というそうね」
その声は、まるで水面に落ちる針のようだった。
「はい……」
マスオさんは、ただ一言だけで応じた。
緊張も、虚勢もなく、ただ事実を受け入れる人の声。
「あなたを、私の幕下に迎えるつもりはないわ」
一瞬、場の空気が揺れた。
思わず息を呑みかけた私の袖を、風がそっと握る。
「貴方は、才を誇る者ではない。軍略も、剣も、経書の理も口にしない。だが」
茶碗を置いた華琳様が、こちらへ視線を向けた。
「稟と風が、涙を流すほどに大切にしている。なら、それだけで、貴方は私の軍に必要だわ」
私は目を見開いた。
愛を肯定されたのだ。
この胸に抱いた情が、軍師としての立場を崩すものではなく、むしろ力として認められた瞬間だった。
「ですが」
華琳様は少し微笑みながら続ける。
「その代わり、蔣子通。あなたは稟と風の帰る場所であり続けなさい」
マスオさんは、一拍置いて頷いた。
言葉少なにして、最も重い誓いだった。
それで、すべてが決まった。
彼は仕官しない。けれど、ここに居る。
私たちの戦に手を出さず、ただ隣で、灯を絶やさぬ人として。
「ありがとうございます」
頭を下げる私に、華琳様はただ一言。
「軍師たる者、恋をしてはいけないなどと、誰が決めたのかしら」
その言葉に私と風は微かに笑った。
ああ、この人に仕えることを選んで、よかった。
軍師としてではなく、女として。
稟という一人の人間として、ようやく認められた気がした。
その夜、彼と部屋をともにした。
語らずとも伝わるものがある。指が触れ、髪を梳き、唇を重ねる。
けれど今夜は熱くはならなかった。
ただ抱き合って眠った。
心と心が、静かに溶け合うだけで、すべてが足りた。
愛されるということは、こういうことなのだ。
戦のない夜に、ただ呼吸を合わせること。
その幸せを、ようやく手に入れたのだと、私は知った。
陣幕を打つ風の音に、私はふと顔を上げた。
地図に落とした指先の熱が、まだ紙の上に残っている。
彼我の将兵の配置、補給線の接続、策の展開……すべては思考通りに進んでいた。
けれど風の冷たさが胸を掠めると、どうしても心は別の方角を向いてしまう。
あの人は、いま何をしているだろう。
畑の草を抜いているかもしれない。囲炉裏の火をいじっているかもしれない。
あるいは、私の部屋をいつものように掃除しているかもしれない。
そこに、私は居ないのに。
「……稟ちゃん」
幕の外から声がして、風が入ってくる。
鎧を脱ぎ、髪を解いた彼女の姿は、少し疲れて見えた。けれど、目だけは変わらずに強い。
「第一線の報告が届きました。敵の兆候は包囲の兆しを見せています。こちらの予測より早く動き出すかも」
「そう……対応を変えましょう」
言いながら、私は彼女の顔をじっと見る。
戦に身を置く風は、どこか凛としていて、昔よりも綺麗になった気がした。
たぶん彼に恋をしてるから。それは私自身にも言えることなのかもしれない。
少しずつ、私たちは「選ばれる側」ではなく、「選ぶ者」になっていく。
軍師としての才を持ち、誰かの未来に影響を与える者として。
「……ねえ、稟ちゃん」
「なに?」
「マスオさんのこと、考えてたでしょう?」
思わず息が詰まる。
図星を刺されたわけではない。
ただ、心を見透かされるのが、どこか怖かった。
「……少しだけ」
「ううん、いまの稟ちゃんは、どこか柔らかい。前は、いつも眉が吊り上がってたのに」
風が笑う。からかうでもなく、諌めるでもなく、ただ親しみを込めた笑みだった。
「私は、変わったかしら」
「うん。優しくなった。……それって、きっと帰る場所ができたからだと思う」
帰る場所。
あの人の居る家。干した布団の匂い。大根の葉を刻む音。
戦の終わる場所ではなく、日常へ戻る道のり。
軍師として前に進むために、私には、後ろを守ってくれる人が必要だった。
「……風」
「うん?」
「ありがとう」
「なんで急に?」
「あなたがいてくれるから、私はここに居られる」
風は目を伏せ、小さく笑った。
何も言わなかったけれど、その沈黙が、返事のように心地よかった。
夜、帳が下りるころ。
私は自室で筆を取った。戦況報告でも、戦略案でもない。
ただの私信。けれど、それは私にとって一番難しい手紙。
『マスオさんへ。こちらは、少しずつ冷え込んできました。そちらの畑はどうですか? 風は元気です。私も、なんとか頑張っています。帰ったら、また雑炊を作ってください。あの、大根の甘い味が忘れられません』
最後に迷った末、ひとことだけ、追記する。
『好きです。ずっと』
封をして灯を吹き消す。
外は静かで、風が、また一度、幕を揺らした。
それだけで、私は少しだけ眠れる気がした。
翌朝、霧が地を這うように流れていた。
天幕の隙間から光が差し込んでも、空はまだ白く、朝というには頼りない。
私は机に置かれた前哨と斥候の報告をめくりながら、冷えた茶に口をつける。
口内に広がる苦味は、どこか遠くの味を思い出させた。
あの人が煮出してくれた、蓬茶の香り。春の野草を一緒に摘みに行ったあの日。
……思い出すまいと決めたはずだったのに。
今の私は軍師。女ではなく、戦の理に従う者。
それでも、思考の隙間にすぐ彼が現れるのは、きっと私の弱さなのだろう。
そのとき、帳が揺れて風が入ってきた。
目が合い、彼女がすっと眉を上げる。
「起きてたんだ。……やっぱり、眠れなかったのね」
「いくら策を練っても、眠れるとは限らないわ」
「策のせいだけ?」
私は何も言わなかった。
風は私の向かいに腰を下ろし、机の上に置かれた文箱に目を落とす。
「これ、また手紙?」
「……ええ」
「返事、来てるの?」
「いえ」
返事がないのは当然だった。
私がどこに居るかさえ、正確には告げていない。
それでも送らずにはいられなかった。伝わらなくても、ただここに居ると知らせるだけで、心が少し楽になる。
風がそっと呟く。
「手紙って、不思議ですよね。言葉にすれば壊れてしまいそうなことが、紙に書くと、少しだけ強くなれる」
「ええ……そうかもしれないわ」
思えば、あの人に告げられなかった想いを、私は筆に託していた。
戦の報告よりも丁寧に、慎重に、心を選びながら綴っていた。
「風」
「うん?」
「私、軍師として、まだ不完全だと思う」
「どうして?」
「愛を持ったまま、策を巡らせるのは、きっと、どこかで冷静さを損なう気がして……」
風は目を細め、わずかに笑った。
その笑みはどこか懐かしく、慈しむようだった。
「でも、その愛がなかったら、稟ちゃん、きっとここにいない。今の稟ちゃんは、誰かに帰りたいからこそ、歩いてるんだと思う」
私の胸に、じんわりと何かが広がっていく。
言葉にはならない温もり。
たぶん、それが今の私を支えてくれているのだろう。
「……ありがとう」
「ふふ、たまには風だって良いこと言うのですよ」
「いつも言ってるわよ」
小さく笑い合う時間が、たまらなく愛おしかった。
この静けさも、明日には喧騒の中に沈んでいく。
けれど私はもう迷わない。私には帰る場所がある。
名も無い庭に咲く花の香りと、囲炉裏の火のぬくもりと、そして彼の声。
風が吹いた。帳がわずかに揺れる。
この風が過ぎ去った先に、きっと彼が待っている。
そのことを、私はただ信じている。
──そして戦が終わった。頑強な敵の抵抗を排除して我が軍は勝利した。
血は流れ、地は黒く焦げ、勝者は名を刻む。
けれど私は、そのどれにも興味を持たなかった。
ただ終わったこと。それだけが重要だった。
戦いの翌日、私は一人、幕の外に腰を下ろしていた。
空は晴れていた。草の香りが風に乗って、遠くの土の匂いと混ざり合っていた。
私は行李から文箱を取り出す。
いつもなら清書を考える。言葉を選び、文法を整える。
でも今日は違う。
今日はただ、思うままに筆を動かしたかった。
『マスオさんへ』
私は書き出し、しばらく筆を止めた。
その名前を書くたびに、胸の奥が不思議と温かくなる。
『私は、今日も生き延びました。そして、あなたのことを考えていました。この戦で私が得たものは勝利でも栄誉でもなく、帰りたい場所があるという確信です』
思い出すのは、囲炉裏の火。刻んだ大根。
そして、私の名を柔らかく呼ぶ声。
『次に帰るときは、一緒に庭の草取りをしましょう。あなたの大根が、またよく育っているといいな。私はまだ、土の匂いに慣れません。けれど、それが恋しくてたまらないのです』
風が吹いた。頬をかすめ、髪を撫でる。
その風があの庭を通ってきたような錯覚に、私は目を細めた。
『あなたがいない日々は、静かすぎて、少し寂しい。でも、あなたが待っていてくれると思えば、私はどこまでも歩けます』
手紙の最後に、私は初めて、素直な言葉を綴った。
『今度帰ったら、ちゃんと言います。私、あなたの奥さんになりたいです』
封をして口元を抑える。
少しだけ涙が滲んだ。けれど、それは哀しみではなく安堵だった。
私はもう誰かに認められるために生きていない。
誰かを愛するために、戦っている。
その誰かが、私の帰る場所で待ってくれている限り何度でも立ち上がれる。
だからこの手紙は、祈りではなく、約束。
必ず、あなたのもとに還ります。そう、胸の内に確かに刻まれた、私の心の証。
陽翟へ戻る道は、かつてよりも遠く感じた。
けれど、それは疲れや距離のせいではなかった。
私の心があまりにもたくさんの想いを抱えてしまっていたからだ。
勝利という報せを手土産に帰るはずなのに、足取りはどこか臆病だった。
あの人がもし笑ってくれなかったらどうしよう。
あの手紙が、もし届いていなかったら。
それでも私は帰る。たとえ何も変わっていなくても、私は帰りたい。
あの庭へ、あの囲炉裏の匂いへ。
村の空気は変わっていなかった。
誰もが少し陽焼けして、日々を繰り返すことで時を重ねていた。
見上げた空は高く、秋の風がススキを揺らしている。
私は、家の前でしばらく立ち尽くしていた。
戸口には、布が干されていた。
それだけで、涙が出そうになった。
ここに、まだ私の生活がある。私の帰る場所が、消えていない。
戸を開ける音に気づいたのだろう。
囲炉裏の向こうから、彼の声がした。
「……おかえり」
その声に、もう耐えられなかった。
私は走るように駆け寄って、彼の胸に飛び込んだ。
ただ泣いた。
声もなく喉が震えるだけで。
けれど彼は何も言わず、ずっと背中を撫でてくれていた。
「手紙……見たよ」
耳元で、そう囁かれた。
私はただ、頷いた。
「僕で、いいの?」
「……誰よりも、あなたがいい」
「戦場には、もう行かない?」
「分からない。でも帰ってくる場所はここって決めたの」
彼の胸の音が、私の涙を溶かしていく。
言葉にならない気持ちが、指先に宿って彼の手を握った。
その夜も私たちは、以前の様に囲炉裏を囲んで、粗末な雑炊を食べた。
だけど大根が甘くて、少し泣きそうになった。
「今度の畑は、少し広げようかと思ってるんだ」
「私も、何か育てようかな」
「稟ちゃんは草取りが下手だから……」
「うるさい」
笑い合って湯呑を重ねる。
その音が、まるで夫婦の合図みたいで、私の胸がぽっと熱くなった。
「ねえ、マスオさん」
「ん?」
「……籍、入れませんか?」
彼は驚いた顔をしたあと、すぐに、照れたように笑った。
「うん。君さえよければ」
ただそれだけ。
飾り気も、儀式もなかったけれど、私たちにはそれで十分だった。
この家があって、囲炉裏があって、私たちがふたりでいるという、それだけの確かな形。
夜更け、寝床で彼の腕に包まれながら、私はぽつりと呟いた。
「あなたの国に、仕えていいですか」
「……え?」
「私はもう軍師じゃない。ただの女。でも、あなたという主のもとに、一生仕えるつもりです」
彼は少し黙ってから、そっと額に口づけてくれた。
「僕の方こそ、一生、君に仕えさせてください」
その夜、私たちは何度も名を呼び合い、何度も、指を絡めた。
この愛が、誰に誇る必要もないものだとしても、
ふたりの間では、きっと永遠に灯り続けるだろう。
洗った大根を陽に干していると、袖口が風で揺れた。
春はまだ浅く、空気には冷たさが残っているのに、太陽の光は優しかった。
庭の隅に、小さな花が咲いていた。
誰が植えたわけでもない。風に運ばれた種が、土に根を下ろしたのだろう。
それを見た瞬間、なぜか涙が出そうになった。
戦場では、どれだけ多くの命が地に倒れたか、もう数えられない。
なのに、この花は、誰にも見られなくても、黙って咲いている。
それが、あの人に似ていると思った。
「稟ちゃん」
振り向けば、マスオさんが、湯気の立つ茶碗を手に立っていた。
「冷えるから、温かいものを飲んだ方がいいよ」
「ありがとう」
手を伸ばして受け取ると、指が触れ合った。
その瞬間、胸がきゅっと鳴る。
まだ慣れない。
こんなにも近くに居るのに、彼の優しさに触れるたび、まるで初めて恋をした日のように胸が波立つ。
「少し散歩でもしませんか」
「いいね。干し大根もすぐには逃げないし」
手をつないで、畦道を歩く。
道をただ並んで歩くだけなのに、どうしてこんなに満たされてしまうのだろう。
「ここに居ると忘れてしまいそう」
「何を?」
「私が誰かに仕えて、策を巡らせて、戦ってきたこと」
マスオさんは少しだけ考えるような顔をして、ゆっくりと言った。
「忘れていいんじゃないかな。君は今、僕の隣に居る。それだけで充分だよ」
その言葉に胸の奥がふわりとほぐれた。私は、もう役職で愛される必要はない。
戦で得た名誉も、政で築いた信頼も、ここでは何の意味も持たない。
ここでは、ただの稟であればいいのだ。
掌を握る力を少しだけ強くした。返すように彼も指を絡めてくれた。
どこにも行かなくていい。誰にも認められなくていい。
この人の隣で、日が暮れて、季節が巡ればそれだけで私は十分に幸せだった。
春の風がふたりの髪を優しく撫でていった。
私は草を抜きながら微笑んだ。それは日常。けれど永遠に続いてほしい。
その日々が続く限りふたりの物語は、静かに、優しく、暮れていく。