無理やり完結させる恋姫†無双   作:キューブケーキ

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稟ちゃん、あのね

あらすじ

 

 それは戦乱のただなかでこそ見つけられた、たったひとつの愛のかたち。

 軍師と百姓、才女と凡夫。

 不釣り合いな二人の、いびつで、だからこそ純粋な恋物語。

 

 

 

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 この人の指先が好きだった。

 力強く土を掘り、草を抜き、濡れた大根の泥を払う仕草がどうしようもなく、好きだった。

 陽翟の朝はいつも静かだった。町に立ち込める市場の喧騒は、ここまで届かない。

 霧のような霞が畑を包み、苗の葉先に露が光る。

 あれから何度こうしてこの庭の風景を見たろう。私が来て、彼が笑い、季節がひとめぐりして、もう三年。

 彼蔣済(しょうさい)。字を子通。だが私にとっては、ただの「マスオさん」。

 出会いは、偶然に近かった。仕官話を断る口実に田舎へ逃れた私が、ふとした縁で救った男だった。

 馬に蹴られ、泥にまみれ、瀕死だった人が、今はこんなにも逞しく、土を愛おしむように生きている。

 

「良い出来だ」

 

 彼の声は相変わらず優しく、野良着の袖で汗を拭う横顔が、ふと少年のように無垢に見えた。

 私がかつて都で夢見た主は、こんな人ではなかった。

 才を尊び、志を語り、天下の動乱を制する器に仕えること。それが私の道だと信じて疑わなかった。

 だがこの男は、ただ畑を耕し、夕餉を炊き、陽翟の風に目を細めるだけの人だった。

 それなのにどうして、私はこんなにも、この人の隣が心地よいのだろう。

 

「おかえり、稟ちゃん」

 

 ふと、彼の声に現を抜かれていた思考が戻る。

 鍬を立てた彼が笑って振り向いていた。そうして私は、自分の両手がわずかに震えていたことに気づく。

 

「……ただいま、マスオさん」

 

 軍師を目指す私が、情人として呼ばれることを初めは恥じていた。だがいまはそう呼ばれるたび、心が柔らかくなる。甘く、とろけるように。

 夕餉の支度をする台所。私は火をおこし、彼は大根を刻んでいる。

 ふたりで囲むのは、稗と粟の雑炊だけ。それでも愛する彼と食べるそれは、どんな膳よりも美味しい。

 食卓の向こうで彼が静かに言う。

「稟ちゃんは、きっと立派な軍師になるよ」

 私は笑って、こう返す。

「でもマスオさんの雑炊ほどには、誰かの心を温められませんよ」

 心は、ゆっくりと溶けていく。

 仕官の志と愛する人の笑顔のあいだで、私はまだ答えを出せずにいた。

 火がパチパチと小さく弾ける音を聞きながら、私は湯気の立つ鍋を見つめていた。

 今日の雑炊には、昼間マスオさんが収穫していた大根をたっぷり入れた。

 色味のために青菜も少し加えてみたけれど、彼はきっと気づかない。

 けれどそれでいいと思った。気づかれなくていい。些細な手間に気づかれないままの優しさがあると知っているから。

 

「いい香りだね」

 

 そう言ってマスオさんは私の隣に腰を下ろした。肩がわずかに触れる。

 それだけで胸が少し高鳴るのを、私はもう否定できなかった。

 

「お腹、空いてるでしょう?」

「うん、たくさん働いたからね」

 

 鍋をよそいながら私は目を伏せた。これから言うべきことを考えると、雑炊の湯気がやけに眩しく思える。

 

「実は……」

「うん?」

「私と風は……袁家に仕官するつもりでいます」

 

 匙を止めたマスオさんの横顔に、陰りが差したように見えた。

 だけどそれはほんの一瞬で、すぐに彼はいつものように穏やかな微笑を浮かべた。

 

「そうかい。君たちならきっと大丈夫だよ」

 

 その言葉の奥にある本当の思いを私は知っていた。

 だから胸が痛んだ。これ以上、甘えてはいけない。ぬくもりに溺れてはいけない。仕官すると決めたのは自分の意志だったのだから。

 

「ありがとうございます」

 

 感謝の言葉を口にしながら、私は小さく震える指先を膝の上で握った。

 

「それでね、マスオさん……」

「うん?」

「マスオさんは、ここに残られるんですよね」

「そうだね。僕は稟ちゃんほどの才は無いから。ここで畑を耕して、生きていければそれで十分だよ」

 

 寂しいと思った。わがままだとわかっていても、彼にもついてきてほしいと思った。

 けれどマスオさんは主に仕えるという言葉を持たない人だった。

 彼は誰かのために戦うより、隣の人と笑うことを選ぶ人だ。それを否定してはいけないと、私は何よりも自分に言い聞かせていた。

 

「……マスオさん」

 

 気づけば私は彼の名を呼びながら、手を重ねていた。

 熱が移る。鍋のせいではなく、心の奥がじわりと滲むように熱くなる。

 

「ありがとう。これまで、ずっと……」

「こちらこそ。君がいてくれて、僕は……とても幸せだった」

 

 静かな部屋に、二人の息づかいだけが重なっていく。

 指がそっと触れて、頬を撫でて、彼が私に口づけた。やさしく、まるで何かを封じるように。

 私はその唇を受け止めながら、もう一度だけ願ってしまう。どうか、このひとときが終わらなければいい、と。

 けれど朝は来る。陽は昇り私たちを引き離す。

 だからせめて今夜だけは。

 私は自分の手をそっと彼の胸に置いた。彼の温もりがそこにあった。

 世界がどう変わろうと、たった一人を愛することは罪ではない。

 この胸の奥に確かにあるものは、主君に仕える志と同じくらい――いや、それ以上に、強く、熱い。

 寝室の灯りは落とされていた。狭い部屋の中で、私は彼の胸に身を預けていた。

 衣擦れの音ひとつすら、はばかられるような静けさの中で。

 

「……寒くはない?」

 

 私の肩を抱く彼の手がそっと掛け布を引き寄せた。

 

「ううん、大丈夫」

 

 ぬくもりは、もう十分すぎるほどだった。むしろ胸が詰まって苦しい。

 息を吸うたびに彼の匂いが胸いっぱいに満ちて、何かが溢れそうになる。

 

「マスオさん……」

「ん?」

「私……やっぱり寂しい」

 

 自分の声がまるで他人のようだった。震えて、湿って、哀しみと執着が滲んでいる。

 こんなに弱い自分を彼に見せたことがあっただろうか。

 

「僕もだよ」

 

 そう言って彼は私の頬に口づけた。

 そっとまぶたに、頬に、首筋に。やさしくて、あたたかくて、触れるたびに心がほどけていく。

 私は彼の胸に手を這わせた。鼓動が速くなるのを感じる。

 それは私と同じ。私たちはどこまでも似た者同士だった。

 夜の深さに紛れるように、私たちは肌を重ねた。

 それはただの悦びではなかった。

 明日、違う道を選ぶふたりが、ひとつの場所にとどまれる最後の灯だった。

 彼の掌が私の腰にまわり、指先が背をなぞるたび、私はこのぬくもりを覚えておこうと思った。

 何度も、何度も、愛されて、包まれて、私は声も出せず涙を流していた。

 ああ、愛している。こんなにも誰かを想う心があったなんて。

 でも私は行かなければならない。私は軍師で、志を胸に宿した人間だから。

 だから今夜だけは。せめて今夜だけは、女として、彼に抱かれたかった。

 朝が来て、私は静かに身支度を整えた。眠る彼の横顔を見つめて髪を指で梳いた。

 昨夜の名残が肌に、喉に、子宮に残っている。けれどそれも私の一部になっていた。

 火の落ちた囲炉裏の前で、私は小さく深呼吸をしてから振り返る。

 

「休みには、帰ってきます」

 

 その声に目を覚ましたマスオさんが、眠たげに微笑んだ。

 

「うん。君の部屋はそのままにしておくよ」

 

 笑いながら言うその言葉に、胸が締めつけられた。もう涙を見せるわけにはいかなかった。

 

「ありがとうございます」

 

 私は彼の腕のぬくもりを振り切るように、家を出た。

 少し歩いた先で、風が待っていた。あどけない寝顔を覗き込むと、私はそっとその肩に顔を埋めた。

 

「稟ちゃん?」

「……言ったのに、誘ったのに、あの人は仕官しないそうです」

「うーん、やっぱりそうでしたか」

「マスオさんは風以上にぐーたらですからね」

「ちょっと風!」

 

 笑って、拗ねて、冗談を言って、けれど胸の奥でまだ燃えている火があった。

 それは後悔ではない。諦めでもない。

 これは誓い。私が帰る場所は、あの庭の向こうにあると、そう信じて。

 

 

 

 

 城門をくぐったとき私は息を止めた。

 気がつけば、あれほど憧れていた「仕官」という言葉が妙に遠く感じられたからだ。

 ここは、袁本初の城下。武と智の者が日々行き交うこの地に、私は今、ようやく一歩を踏み出した。

 望んでいたはずだった。夢見ていたはずだった。

 

「稟ちゃん、緊張してる?」

「……していないわ」

 

 隣で肩をすくめる風に、わざと素っ気なく返す。けれど足元は少しだけ震えていた。

 私は戦うために来たのだ。志を示し、才を証明し、主の道を照らす軍師として。

 その覚悟を胸に刻んできたのに、どうしてだろう。

 瞼の裏にあの人の笑顔がふと浮かぶ。

 土を払いながら「良い出来だ」と言っていた、あの声のぬくもり。

 静かな夕暮れに並んで食べた、粟の雑炊の味。

 

「……何をやっているの、私は」

 

 首を振って思いを振り払う。過去に縋ってはきっと前に進めない。

 これは恋などではない、と自分に言い聞かせる。あれは一時の情に過ぎなかったと。

 けれど夜は嘘をつけなかった。

 城の一室を与えられ、簡素な寝具に身を沈めても眠りは浅い。

 耳が、指が、肌が、あの人のぬくもりを求めてしまう。

 まるで心が置いてきぼりにされたみたいに。

 文をしたためた。差し出し人の名を書いて、封をする。

 手が震えた。けれど止められなかった。

 

『今夜は冷えます。そちらはお変わりありませんか。私のことなどすぐ忘れて、どうかお元気で』

 

 本心ではなかった。でも伝えてしまえば、きっと戻れないと思った。

 恋という言葉を使えば、私のすべてが崩れてしまいそうで。

 だから私は、また言えずに終わる。

 

「どうでした? 今日の軍議」

 

 夜更け、風がふらりと部屋を訪ねてきた。

 

「大したものではないわ。皆、言葉を装飾するばかりで、芯の通った策を語る者はいなかった」

「さすが稟ちゃん。で……その顔はなに?」

 

 風の声に、私は眉を寄せた。

 

「顔?」

「うん。たぶんだけど、恋してる女の顔だと思う」

 

 そう言って笑う風は、どこか寂しげだった。

 

「……貴女だって忘れられない人がいるでしょう?」

 

 その一言に、風ははっと息を呑み、視線を逸らした。私が気づいてないと思ったのか。

 

「……でも、だから仕官したの。誰かに頼らず、自分の足で立てるようになりたかった」

 

 その言葉は私の胸にも深く届いた。

 恋を理由に何かを諦めたくはない。恋に逃げて、才を濁らせたくはない。

 けれど、それでも。

 恋は心を満たしてしまうものなのだ。

 才能も、志も、野望も、すべて霞んでしまうほどに。

 その夜、私はまた筆を取った。

 今度の文には、宛名を書かなかった。ただ、胸の奥に残っていた言葉を、そっとしたためた。

 

『あなたのことを思い出すたびに、私は弱くなる。でも、それでも、好きです』

 

 誰にも渡さないつもりだった。

 だけどいつか、きっとこの気持ちは、何かを変える力になる。

 私はそう信じて、筆を置いた。

 文をしたためた夜、私はほとんど眠れなかった。

 天井を見つめながら、何度もまぶたを閉じたのに、夢に落ちることはなかった。まるで眠ってしまえば、大切な何かが遠くに行ってしまう気がして。

 こんな夜は、音が鋭い。

 羽虫の羽ばたき、遠くの犬の声、布が擦れる音ですら胸の奥に響く。

 そうして思い出してしまうのだ。あの人と過ごした、音のない夜を。

 あの夜、私は女になった。

 誇りでもなく、羞恥でもなく、ただ一人の男に抱かれて、あたたかく満ちて愛された。

 それだけの事実が今も私を形作っている。

 私は、女として彼に抱かれたことを悔いていない。

 むしろあの夜があったからこそ、私は自分の弱さを知ったのだ。

 彼の手は、不器用で優しかった。

 口づけも、抱擁も、熱の重なりも、すべてがぎこちなくて愛おしかった。

 あの人のことを、どうしても「主」とは呼べなかった。

 けれど、それでも、彼が私にとって何よりも「帰る場所」だったことは、もう疑いようがない。

 ……それでも私は、ここにいる。

 あの人の腕から離れ、武門の中で言葉を戦わせている。

 信じた道を歩むために。たとえ心の一部を置いてきたとしても。

 翌朝、私は風と共に城の書庫に向かった。

 陽が昇り切る前の空気はひんやりとして、眠らなかった体には少し堪えた。

 

「稟ちゃん」

「なに?」

「昨日の夜、また文を書いてたでしょう?」

 

 振り向くと、風は少しだけいたずらっぽく微笑んでいた。

 

「……見てたの」

「声をかけようと思ったけど、あまりに真剣だったから」

「……見られてたなら、もう言い訳もしないわ」

「それで、届くの?」

「分からない。出してもいないから」

 

 風が私の横に立って、ふうっと長く息を吐いた。

 それは自分自身のための深呼吸のようでもあった。

 

「ねえ、稟ちゃん。恋って、あんがい弱さを教えてくれるものなんですね」

 

 私は黙って、彼女の横顔を見つめた。

 風の瞳の奥にほんの少しだけ水の光が揺れていた。

 

「私も、たぶんカツオさんのこと、一生忘れられないと思います」

 

 その言葉は、私の胸の奥にそっと届いて、あたたかく広がった。

 わかる。私もきっと同じだから。

 

 

 

 夜、私はようやく文を封じた。

 けれど宛先はまだ書けなかった。

 そのかわり文の最後にそっと付け加えた。

 

『あなたがこの文を読まなくても、私はあなたを忘れません』

 

 言葉にすることで、少しだけ前を向ける。

 書き記すことで、揺れる心が静まってゆく。

 たとえ今は遠くても、想いはどこかでつながっている。

 そう信じて私は蝋燭の火を吹き消した。

文を封じた夜、私は久しぶりに夢を見た。

 それはあの庭の夢だった。

 朝露に濡れた土。収穫された大根。瓦に落ちる雨の音。

 そしてひとつぶの笑い声。私のではなく、マスオさんの。

 何を言ったのかは覚えていない。ただ、その声だけが胸に残って、夢の中で私は泣いていた。

 目覚めたとき枕が濡れていた。

 こぼれた涙の温度すら冷めていたのに、胸の内はまだ湿ったままだった。

 翌日、稟は袁家の朝議に出席した。

 上座に並ぶ武官たちの顔を見ながら思う。

 この場に私は何を持ち込めるだろうか。

 軍略、政、言葉。それらを操る自信はある。

 だが、どれほど頭で優位に立てたとしても、この心に巣くう恋という名の感情が、静かに重石となっているのを自覚していた。

 主君に仕える。それは、人生を託すということ。

 けれど託せなかったとき、自分はどうなるのだろう。

 愛した人のもとへ、帰ることは許されるのだろうか。

 思考が濁った時、風の声が後方から届いた。

 

「稟ちゃん、上手く流しましたね。あの老臣、絶対に貴女に食ってかかると思ってたのに」

「論で負けたら、軍師など名乗れないわ」

「……それでも、貴女、なんだか疲れて見えますよ」

 

 風の言葉に私は笑ってみせた。そう、誰にでも通じる微笑み。

 だが、その裏にあるものは、私自身にさえまだ言葉にできなかった。

 

「……少し、風にあたりたいわ」

「うん、付き合いますよ」

 

 城の外庭へ出ると、秋の風が頬を撫でた。

 少しずつ色を変え始めた木々の中で、私たちは黙って立っていた。

 

 その沈黙の中、ふと、風がぽつりと呟く。

 

「私ね。やっぱり思うの。恋と志って、両立できないのかなって」

「どうして?」

「だって、どちらかを選んだら、もう片方が、ずっと遠くへ行っちゃう気がして」

 

 私は答えなかった。けれど同じことを、もう何度も考えていた。

 私たちは軍師であり女である。

 でもこの世界では、そのふたつはしばしば対立する。

 愛されるために生きるか、仕えるために生きるか。

 どちらかを切り離さなければならないような錯覚。いや現実。

 けれど、どちらも諦めきれない私は、弱いのだろうか。

 空を見上げると、雲が流れていた。

 手を伸ばせば届きそうな、けれど絶対に掴めない場所に。

 私の想いもあの雲のように、遠くで揺れていた。

 その夜、私はひとりで文机に向かっていた。

 灯を落とした部屋に、蝋燭の炎だけが揺れている。

 静かすぎて、筆がすれる音すら胸に沁みた。

 袁家での月日は、短いながら濃かった。

 智を振るい、言葉を尽くし、軍議の座でも声を持った。

 けれど、何度言葉を重ねても、心のどこかが満たされなかった。

 ここに仕えても、私は誰の人生も照らせない。

 そう思ってしまった自分が、ひどく冷たい人間に思えた。

 でも、きっと違う。これは、私が誰のために才を尽くしたいのかを知ってしまったから。

 あの庭で、あの雑炊を囲みながら、彼の「美味しいね」の一言に、全身がほどけたあの時間を知ってしまったから。

 私はもう、ただの才ではいられない。

 筆を置いた。

 目を閉じて静かに息を吐く。

 そして決意を封じた辞表を懐にしまった。

 そのとき、扉が静かに開いた。風だった。

 

「……書いたの?」

「ええ」

「そっか」

 

 短く返した彼女は私の隣に座った。

 しばらくふたりで黙って炎を見つめる。

 

「風」

「なに?」

「私、曹孟徳様の下へ行くつもり」

「やっぱり」

 風は驚かなかった。ただ頷いてみせた。

 

「稟ちゃんはね、最初から主を選ぶ目をしてた。だから、きっと袁本初様じゃないって、どこかで分かってたんだと思いますよ」

 

「……ごめんなさい」

「謝ることじゃないですよ。私も、一緒に行きますから」

「……いいの?」

「うん。稟ちゃんが選んだ場所なら、私も迷わないと思います」

 

 その言葉に胸が熱くなった。

 いつだって私たちは共にあった。泣きながら剣を握った日も、夢を語り合った夜も。恋をした相手も。

 だからこれからも。

 私たちは立ち上がり、蝋燭を吹き消した。

 さあ、行こう。

 才を使うために。愛に応えるために。

 彼のためでも、私自身のためでもなく、きっとそれは誰かを照らすための道になるから。

 

 

 

 

 華琳様は涼やかな目で私たちを見下ろしていた。

 その眼差しに、私も風も自然と背筋を正す。

 まるで自分の芯の強さを映すかのように、彼女の静謐な気配が部屋を満たしている。

 

「貴女たちが稟と風ね。話は聞いているわ。二人とも、才ある者だと」

 

 厳しい声ではなかった。けれど、それだけに逆らえない強さがあった。

 華琳様のもとでなら、きっと私は軍師として生きることができる。

 それを確信した瞬間だった。

 

「それと、ひとつ──」

 彼女がわずかに顎を引いた。

「貴女たちが推挙した、蔣子通とかいう者。彼のことも興味があるわ」

 

 その言葉に胸がすうっと冷える。

 

「……彼はただの農民です。私たちが私情で名を挙げてしまっただけ」

「才ある者にただのなど無いわ。興味を持った以上、こちらから会いに行かせましょう」

 

 止められなかった。

 あの人は、政治の場に出る人間ではない。仕官など、きっと望んでいない。

 それでも、華琳様の言葉に否を返す勇気は、そのときの私にはまだ、持てなかった。

 陽翟。

 そこはもう、私にとって思い出になりつつあった土地。

 けれど彼は今もそこに生きていた。いつもと変わらぬように。

 

「良い出来だ」

 

 抜いた大根を陽にかざし、マスオさんは誰に見せるでもなく満足げに呟いた。

 土にまみれた指が、根菜のひとつひとつを撫でていく。

 その静かな日常を、彼女が来て壊した。

 

「貴様が、蔣子通か」

 

 馬上から声をかけてきたのは、鋭い眼光の女だった。

 鋼のような声で名を告げる。

 

「曹孟徳様が臣、夏侯元譲とは私のことだ」

 

 マスオさんは一瞬だけ目を細めた。けれど次には淡く笑った。

 

「それで……何のご用でしょうか?」

 

 彼の声は穏やかで、臆することがなかった。

 だがそれが、彼女には反抗に映ったのだろう。

 

「稟と風が貴様を推挙した。ゆえに私が迎えに来てやった」

「お断りします」

「……何?」

 

 場の空気が一瞬で変わる。

 

「私はただの民です。食べて生きていければ、それでいい。仕官など性に合いません」

 

 夏侯惇は、歯を食いしばる音をさせた。

 

「ふざけたことを……華琳様の命を無下にするのか!」

「命を軽んじているのは、貴女の方では?」

 

 次の瞬間、剣の柄で彼は打たれていた。

 倒れ伏したその身が土に転がる。

 

 意識を失った彼を馬に乗せながら、夏侯惇は静かに唇を歪めた。

 

「貴様の意志などどうでもいい。必要なのは人材だけだ」

 

 馬蹄の音が遠ざかる。

 陽翟に残されたのは、折れた大根と踏みにじられた(うね)だけだった。

 彼の姿を見た瞬間、私は言葉を失った。

 布団の上、蒼ざめた頬に殴打の痕。

 薄い額の傷から乾いた血が筋を描き、眉間にうっすら皺が寄っている。

 眠っている。けれど私はわかっていた。

 これは連れてこられたのだと。

 来たのではなく、拉致されたのだと。

 誰の手によって、など考えるまでもない。

 私が、彼の名を口にしたから。

 私が、推挙したから。

 私が……彼を巻き込んだのだ。

 

「……ごめんなさい」

 

 言葉にした途端、涙が零れた。

 これまでどんな戦場でも泣かなかったのに。

 どれだけの矢が飛び交っても震えなかった心が、今、崩れていた。

 

「稟……ちゃん……?」

 

 その声に、はっと息を飲んだ。

 彼が目を覚ました。

 

「どうして、泣いてるの?」

 

 問いかけは、いつもと同じ穏やかさだった。

 怒りも、怨みも、責める言葉すらなかった。

 

 ただ私のことを心配していた。

 拉致され、暴力を受けて、知らぬ地で目覚めたその人が、最初に口にするのが私の名前だった。

 

「私……貴方を……推したの……貴方のことが、好きで……」

 

 嗚咽に震える声が、部屋の静寂を乱した。

 彼はゆっくりと起き上がり、私の頬に手を伸ばした。

 

「僕も、稟ちゃんのことが好きだよ」

 

 その一言で、また私は泣いた。

 声にならないまま、肩が震える。

 この人は、どうしていつも、こうなのだろう。

 どうして、何も言わず、許してしまえるのだろう。

 

「春蘭がね、力尽くで……」

「うん、なんとなく察しはついたよ」

 

 柔らかな目が細く笑んだ。

 その笑顔に私は甘えてしまった。

 

「私、軍師として失格です……」

「どうして?」

「自分の大切な人を守れなかった」

 

 彼は首を横に振った。

 

「違うよ。君がいたから僕はここにいる。生きてる。そういうことだよ」

 

 不思議だった。

 こんなにも泣いて、こんなにも苦しいのに、胸の奥に、ふわりと灯がともるのを感じた。

 それは責任ではなく、絆という名の温もりだった。

 

「……ここに居てもらえますか」

 

 絞り出すように言った私に彼は頷いた。

 

「うん。君が戻る場所が、ここなら」

 

 たったそれだけで、私はまた、生き直せる気がした。

 軍師としてではなく、一人の女として、愛を信じてもいいと、そう初めて思えた夜だった。

 華琳様の間へ通されたのは、午後の陽が長く差し込む頃だった。

 磨き上げられた床の上に、私と風は並び、マスオさんは控えていた。

 顔の傷はかさぶたになり、痕跡が僅かに残るだけ。けれど私の心には、まだその痛みが鋭く残っていた。

 華琳様は、静かに茶を口にしていた。

 その仕草さえ美しい。

 だが、それは決して柔和ではない。強く、研ぎ澄まされた美しさ。

 

「蔣子通、というそうね」

 

 その声は、まるで水面に落ちる針のようだった。

 

「はい……」

 

 マスオさんは、ただ一言だけで応じた。

 緊張も、虚勢もなく、ただ事実を受け入れる人の声。

 

「あなたを、私の幕下に迎えるつもりはないわ」

 

 一瞬、場の空気が揺れた。

 思わず息を呑みかけた私の袖を、風がそっと握る。

 

「貴方は、才を誇る者ではない。軍略も、剣も、経書の理も口にしない。だが」

 

 茶碗を置いた華琳様が、こちらへ視線を向けた。

 

「稟と風が、涙を流すほどに大切にしている。なら、それだけで、貴方は私の軍に必要だわ」

 

 私は目を見開いた。

 愛を肯定されたのだ。

 この胸に抱いた情が、軍師としての立場を崩すものではなく、むしろ力として認められた瞬間だった。

 

「ですが」

 

 華琳様は少し微笑みながら続ける。

 

「その代わり、蔣子通。あなたは稟と風の帰る場所であり続けなさい」

 

 マスオさんは、一拍置いて頷いた。

 言葉少なにして、最も重い誓いだった。

 

 それで、すべてが決まった。

 彼は仕官しない。けれど、ここに居る。

 私たちの戦に手を出さず、ただ隣で、灯を絶やさぬ人として。

 

「ありがとうございます」

 

 頭を下げる私に、華琳様はただ一言。

 

「軍師たる者、恋をしてはいけないなどと、誰が決めたのかしら」

 

 その言葉に私と風は微かに笑った。

 ああ、この人に仕えることを選んで、よかった。

 軍師としてではなく、女として。

 稟という一人の人間として、ようやく認められた気がした。

 その夜、彼と部屋をともにした。

 語らずとも伝わるものがある。指が触れ、髪を梳き、唇を重ねる。

 けれど今夜は熱くはならなかった。

 ただ抱き合って眠った。

 心と心が、静かに溶け合うだけで、すべてが足りた。

 愛されるということは、こういうことなのだ。

 戦のない夜に、ただ呼吸を合わせること。

 その幸せを、ようやく手に入れたのだと、私は知った。

 

 

 

 

 陣幕を打つ風の音に、私はふと顔を上げた。

 地図に落とした指先の熱が、まだ紙の上に残っている。

 彼我の将兵の配置、補給線の接続、策の展開……すべては思考通りに進んでいた。

 けれど風の冷たさが胸を掠めると、どうしても心は別の方角を向いてしまう。

 あの人は、いま何をしているだろう。

 畑の草を抜いているかもしれない。囲炉裏の火をいじっているかもしれない。

 あるいは、私の部屋をいつものように掃除しているかもしれない。

 そこに、私は居ないのに。

 

「……稟ちゃん」

 

 幕の外から声がして、風が入ってくる。

 鎧を脱ぎ、髪を解いた彼女の姿は、少し疲れて見えた。けれど、目だけは変わらずに強い。

 

「第一線の報告が届きました。敵の兆候は包囲の兆しを見せています。こちらの予測より早く動き出すかも」

「そう……対応を変えましょう」

 

 言いながら、私は彼女の顔をじっと見る。

 戦に身を置く風は、どこか凛としていて、昔よりも綺麗になった気がした。

 たぶん彼に恋をしてるから。それは私自身にも言えることなのかもしれない。

 少しずつ、私たちは「選ばれる側」ではなく、「選ぶ者」になっていく。

 軍師としての才を持ち、誰かの未来に影響を与える者として。

 

「……ねえ、稟ちゃん」

「なに?」

「マスオさんのこと、考えてたでしょう?」

 

 思わず息が詰まる。

 図星を刺されたわけではない。

 ただ、心を見透かされるのが、どこか怖かった。

 

「……少しだけ」

「ううん、いまの稟ちゃんは、どこか柔らかい。前は、いつも眉が吊り上がってたのに」

 

 風が笑う。からかうでもなく、諌めるでもなく、ただ親しみを込めた笑みだった。

 

「私は、変わったかしら」

「うん。優しくなった。……それって、きっと帰る場所ができたからだと思う」

 

 帰る場所。

 あの人の居る家。干した布団の匂い。大根の葉を刻む音。

 戦の終わる場所ではなく、日常へ戻る道のり。

 軍師として前に進むために、私には、後ろを守ってくれる人が必要だった。

 

「……風」

「うん?」

「ありがとう」

「なんで急に?」

「あなたがいてくれるから、私はここに居られる」

 

 風は目を伏せ、小さく笑った。

 何も言わなかったけれど、その沈黙が、返事のように心地よかった。

 夜、帳が下りるころ。

 私は自室で筆を取った。戦況報告でも、戦略案でもない。

 ただの私信。けれど、それは私にとって一番難しい手紙。

 

『マスオさんへ。こちらは、少しずつ冷え込んできました。そちらの畑はどうですか? 風は元気です。私も、なんとか頑張っています。帰ったら、また雑炊を作ってください。あの、大根の甘い味が忘れられません』

 

 最後に迷った末、ひとことだけ、追記する。

 

『好きです。ずっと』

 

 封をして灯を吹き消す。

 外は静かで、風が、また一度、幕を揺らした。

 

 それだけで、私は少しだけ眠れる気がした。

 翌朝、霧が地を這うように流れていた。

 天幕の隙間から光が差し込んでも、空はまだ白く、朝というには頼りない。

 私は机に置かれた前哨と斥候の報告をめくりながら、冷えた茶に口をつける。

 口内に広がる苦味は、どこか遠くの味を思い出させた。

 あの人が煮出してくれた、蓬茶の香り。春の野草を一緒に摘みに行ったあの日。

 ……思い出すまいと決めたはずだったのに。

 今の私は軍師。女ではなく、戦の理に従う者。

 それでも、思考の隙間にすぐ彼が現れるのは、きっと私の弱さなのだろう。

 そのとき、帳が揺れて風が入ってきた。

 目が合い、彼女がすっと眉を上げる。

 

「起きてたんだ。……やっぱり、眠れなかったのね」

「いくら策を練っても、眠れるとは限らないわ」

「策のせいだけ?」

 

 私は何も言わなかった。

 風は私の向かいに腰を下ろし、机の上に置かれた文箱に目を落とす。

 

「これ、また手紙?」

「……ええ」

「返事、来てるの?」

「いえ」

 

 返事がないのは当然だった。

 私がどこに居るかさえ、正確には告げていない。

 それでも送らずにはいられなかった。伝わらなくても、ただここに居ると知らせるだけで、心が少し楽になる。

 風がそっと呟く。

 

「手紙って、不思議ですよね。言葉にすれば壊れてしまいそうなことが、紙に書くと、少しだけ強くなれる」

「ええ……そうかもしれないわ」

 

 思えば、あの人に告げられなかった想いを、私は筆に託していた。

 戦の報告よりも丁寧に、慎重に、心を選びながら綴っていた。

 

「風」

「うん?」

「私、軍師として、まだ不完全だと思う」

「どうして?」

「愛を持ったまま、策を巡らせるのは、きっと、どこかで冷静さを損なう気がして……」

 

 風は目を細め、わずかに笑った。

 その笑みはどこか懐かしく、慈しむようだった。

 

「でも、その愛がなかったら、稟ちゃん、きっとここにいない。今の稟ちゃんは、誰かに帰りたいからこそ、歩いてるんだと思う」

 

 私の胸に、じんわりと何かが広がっていく。

 言葉にはならない温もり。

 たぶん、それが今の私を支えてくれているのだろう。

 

「……ありがとう」

「ふふ、たまには風だって良いこと言うのですよ」

「いつも言ってるわよ」

 

 小さく笑い合う時間が、たまらなく愛おしかった。

 この静けさも、明日には喧騒の中に沈んでいく。

 けれど私はもう迷わない。私には帰る場所がある。

 名も無い庭に咲く花の香りと、囲炉裏の火のぬくもりと、そして彼の声。

 風が吹いた。帳がわずかに揺れる。

 この風が過ぎ去った先に、きっと彼が待っている。

 そのことを、私はただ信じている。

 ──そして戦が終わった。頑強な敵の抵抗を排除して我が軍は勝利した。

 血は流れ、地は黒く焦げ、勝者は名を刻む。

 けれど私は、そのどれにも興味を持たなかった。

 ただ終わったこと。それだけが重要だった。

 戦いの翌日、私は一人、幕の外に腰を下ろしていた。

 空は晴れていた。草の香りが風に乗って、遠くの土の匂いと混ざり合っていた。

 私は行李から文箱を取り出す。

 いつもなら清書を考える。言葉を選び、文法を整える。

 でも今日は違う。

 今日はただ、思うままに筆を動かしたかった。

 

『マスオさんへ』

 

 私は書き出し、しばらく筆を止めた。

 その名前を書くたびに、胸の奥が不思議と温かくなる。

 

『私は、今日も生き延びました。そして、あなたのことを考えていました。この戦で私が得たものは勝利でも栄誉でもなく、帰りたい場所があるという確信です』

 

 思い出すのは、囲炉裏の火。刻んだ大根。

 そして、私の名を柔らかく呼ぶ声。

 

『次に帰るときは、一緒に庭の草取りをしましょう。あなたの大根が、またよく育っているといいな。私はまだ、土の匂いに慣れません。けれど、それが恋しくてたまらないのです』

 

 風が吹いた。頬をかすめ、髪を撫でる。

 その風があの庭を通ってきたような錯覚に、私は目を細めた。

 

『あなたがいない日々は、静かすぎて、少し寂しい。でも、あなたが待っていてくれると思えば、私はどこまでも歩けます』

 

 手紙の最後に、私は初めて、素直な言葉を綴った。

 

『今度帰ったら、ちゃんと言います。私、あなたの奥さんになりたいです』

 

 封をして口元を抑える。

 少しだけ涙が滲んだ。けれど、それは哀しみではなく安堵だった。

 私はもう誰かに認められるために生きていない。

 誰かを愛するために、戦っている。

 その誰かが、私の帰る場所で待ってくれている限り何度でも立ち上がれる。

 だからこの手紙は、祈りではなく、約束。

 必ず、あなたのもとに還ります。そう、胸の内に確かに刻まれた、私の心の証。

 

 

 

 陽翟へ戻る道は、かつてよりも遠く感じた。

 けれど、それは疲れや距離のせいではなかった。

 私の心があまりにもたくさんの想いを抱えてしまっていたからだ。

 勝利という報せを手土産に帰るはずなのに、足取りはどこか臆病だった。

 あの人がもし笑ってくれなかったらどうしよう。

 あの手紙が、もし届いていなかったら。

 それでも私は帰る。たとえ何も変わっていなくても、私は帰りたい。

 あの庭へ、あの囲炉裏の匂いへ。

 村の空気は変わっていなかった。

 誰もが少し陽焼けして、日々を繰り返すことで時を重ねていた。

 見上げた空は高く、秋の風がススキを揺らしている。

 

 私は、家の前でしばらく立ち尽くしていた。

 戸口には、布が干されていた。

 それだけで、涙が出そうになった。

 ここに、まだ私の生活がある。私の帰る場所が、消えていない。

 戸を開ける音に気づいたのだろう。

 囲炉裏の向こうから、彼の声がした。

 

「……おかえり」

 

 その声に、もう耐えられなかった。

 私は走るように駆け寄って、彼の胸に飛び込んだ。

 ただ泣いた。

 声もなく喉が震えるだけで。

 けれど彼は何も言わず、ずっと背中を撫でてくれていた。

 

「手紙……見たよ」

 

 耳元で、そう囁かれた。

 私はただ、頷いた。

 

「僕で、いいの?」

「……誰よりも、あなたがいい」

「戦場には、もう行かない?」

「分からない。でも帰ってくる場所はここって決めたの」

 

 彼の胸の音が、私の涙を溶かしていく。

 言葉にならない気持ちが、指先に宿って彼の手を握った。

 その夜も私たちは、以前の様に囲炉裏を囲んで、粗末な雑炊を食べた。

 だけど大根が甘くて、少し泣きそうになった。

 

「今度の畑は、少し広げようかと思ってるんだ」

「私も、何か育てようかな」

「稟ちゃんは草取りが下手だから……」

「うるさい」

 

 笑い合って湯呑を重ねる。

 その音が、まるで夫婦の合図みたいで、私の胸がぽっと熱くなった。

 

「ねえ、マスオさん」

「ん?」

「……籍、入れませんか?」

 

 彼は驚いた顔をしたあと、すぐに、照れたように笑った。

 

「うん。君さえよければ」

 

 ただそれだけ。

 飾り気も、儀式もなかったけれど、私たちにはそれで十分だった。

 この家があって、囲炉裏があって、私たちがふたりでいるという、それだけの確かな形。

 夜更け、寝床で彼の腕に包まれながら、私はぽつりと呟いた。

 

「あなたの国に、仕えていいですか」

「……え?」

「私はもう軍師じゃない。ただの女。でも、あなたという主のもとに、一生仕えるつもりです」

 

 彼は少し黙ってから、そっと額に口づけてくれた。

 

「僕の方こそ、一生、君に仕えさせてください」

 

 その夜、私たちは何度も名を呼び合い、何度も、指を絡めた。

 この愛が、誰に誇る必要もないものだとしても、

 ふたりの間では、きっと永遠に灯り続けるだろう。

 洗った大根を陽に干していると、袖口が風で揺れた。

 春はまだ浅く、空気には冷たさが残っているのに、太陽の光は優しかった。

 庭の隅に、小さな花が咲いていた。

 誰が植えたわけでもない。風に運ばれた種が、土に根を下ろしたのだろう。

 それを見た瞬間、なぜか涙が出そうになった。

 戦場では、どれだけ多くの命が地に倒れたか、もう数えられない。

 なのに、この花は、誰にも見られなくても、黙って咲いている。

 それが、あの人に似ていると思った。

 

「稟ちゃん」

 振り向けば、マスオさんが、湯気の立つ茶碗を手に立っていた。

「冷えるから、温かいものを飲んだ方がいいよ」

 

「ありがとう」

 

 手を伸ばして受け取ると、指が触れ合った。

 その瞬間、胸がきゅっと鳴る。

 まだ慣れない。

 こんなにも近くに居るのに、彼の優しさに触れるたび、まるで初めて恋をした日のように胸が波立つ。

 

「少し散歩でもしませんか」

「いいね。干し大根もすぐには逃げないし」

 

 手をつないで、畦道を歩く。

 道をただ並んで歩くだけなのに、どうしてこんなに満たされてしまうのだろう。

 

「ここに居ると忘れてしまいそう」

「何を?」

「私が誰かに仕えて、策を巡らせて、戦ってきたこと」

 

 マスオさんは少しだけ考えるような顔をして、ゆっくりと言った。

 

「忘れていいんじゃないかな。君は今、僕の隣に居る。それだけで充分だよ」

 

 その言葉に胸の奥がふわりとほぐれた。私は、もう役職で愛される必要はない。

 戦で得た名誉も、政で築いた信頼も、ここでは何の意味も持たない。

 ここでは、ただの稟であればいいのだ。

 掌を握る力を少しだけ強くした。返すように彼も指を絡めてくれた。

 どこにも行かなくていい。誰にも認められなくていい。

 この人の隣で、日が暮れて、季節が巡ればそれだけで私は十分に幸せだった。

 春の風がふたりの髪を優しく撫でていった。

 私は草を抜きながら微笑んだ。それは日常。けれど永遠に続いてほしい。

 その日々が続く限りふたりの物語は、静かに、優しく、暮れていく。

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