ビフォア・ゴールド   作:Yuki_Mar12

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【1】

 春というのは気強い季節である。それまで長いあいだ冬の厳しい寒さに苦しんでいた人は、青く小さな新芽や、太陽のぽかぽかした暖かさに励まされる気持ちになり、ともすれば、何か達成しがいのある困難なことに挑戦しようと意気込むものだ。

 太陽を高みにいただくネオ・ヴェネツィアの空は晴れ渡っており、随所には幾つかの綿雲が浮かび、その青い面の上をのどかに滑っている。

 列となって並ぶ桜が、時折吹く風に貝殻のような花びらを散らす水路を、一艘の豪奢なゴンドラが緩やかに前進している。その上には漕ぎ手であり水の妖精(ウンディーネ)であるアリシア・フローレンスと、その客らしい青年が乗っている。

 へらのような形の長いオールを捌くアリシアは船尾に立って微笑を湛え、柔らかな物腰で街の歴史や観光名所の詳細をガイドとして説き、客席に座っている青年は慣れた口振りの彼女の話にじっくりと聞き入っている。

 彼女の透き通るような清潔な肌がまとう、青のラインの入った白のセーラー服とその帽子は、陽気で爽やかな日和と周りの風光に似合っており、彼女のいる辺りを遠くの視点から見れば、あたかも聖女を描いた一幅の絵画のように見えるに違いない。

 時に、アリシアを見た者は、きっと彼女を美人と称えるだろう。安寧を象徴するような弓なりの口元の笑みと、春の光を宿した穏やかな瞳と、それ単体でもう美しいと言える複雑に結われた日色のロングヘアーは、一人の乙女を、美を司る神の子のように、神々しいくらいに輝かせている。いわばアリシアは生きた一つの宝石であり、容易に得がたい可憐な花であった。彼女に惹かれずに済む男などいようものか。いるとすれば、それはよほどひねくれた男だろう。

 客の青年はそうではなかった。彼はいつしか水の妖精に惚れ込み、その姿に魅惑され、目を奪われ、最初は打っていた相槌を、彼女への憧れのためにもう打たなくなっていた。

 ゴンドラはやがて水路を広大な海へと移動し、『ARIA COMPANY』という看板を掲げた水上の施設に着こうとした。ネオ・ヴェネツィアでささやかな水先案内業を営むその会社では、アリシアと同じ服と帽子を身に付け耳の下まで桃色の髪を伸ばしている彼女の後輩が、桟橋近くの露台に立ち、笑顔で手を振ってゴンドラを迎え入れようとしている。水無灯里だった。その様子を見て微笑むアリシアの大人びた表情と、灯里の無邪気そうな表情とは、それぞれ19歳と15歳である彼女らの姉妹のような年の差と、その性格の違いをくっきりと表していた。

 水平線のすぐ上に掛かる太陽は、夕方の黄色い輝きを放っていた。すでに夜と同じ闇が底より浮かびあがってきている黒い海は、夕凪の頃で、水面が静かだった。ゴンドラが桟橋に着くと、ウンディーネの水先案内は終わり、アリシアと客の青年はゴンドラを降りた。

「ありがとうございました」とアリシアは青年に向かって頭を下げ、来店への謝意を示した。別離の時間だった。アリシアのガイドはそつなく、客は満足して帰るだろう。しかし青年はすぐに去ろうとしなかった。彼はしばらく物言いたそうに呻くと、人差し指で頬を掻き、火照った顔で、アリシアに対しストレートな表現で好意を表白した。青年の顔は、夕焼けと同じ色になっていた。

 ――こういうことは、頻繁にあることではない。アリシアに恋する者は多いが、大抵はその思いを胸に秘めて帰っていく。彼女の眩しいまでの美しさは、男達を魅了し引き付けると同時に、彼らに卑小の念と罪悪感を抱かせるのだ。多くの男達はアリシアの目の前ではすっかり自信を失ってしまい、それゆえに青年のようなことはしないのだ。彼らにとってそれは僭越なことなのである。

 しかし彼はした。それは、やはり春の陽気に助けられたお陰だろう。自分の胸に萌した恋心という新芽を、彼は軽視するわけには行かなかった。それは告白され、回答を得ることを切に求めていた。青年は勇気を奮い、アリシアにその言葉を投げかけた、「好きです」と──。

 そばで傍観している灯里は驚き、両手で口を覆って瞠目した。突然のプロポーズなので、無理もなかった。がしかし、アリシアはくすりと余裕を思わせる微笑みを見せた。そよ風が彼女の長い髪を微かに揺らし、バラバラになった髪の一本一本が、空中に金色に輝く線のカーブを描いた。

 春はあまねく生き物に始動のためのエネルギーを与えてくれるが、そのエネルギーで行うチャレンジの成功の保証までは、どうやらしてくれないようだ。

 アリシアは眉を下げ、困ったような面持ちになると、「ごめんなさい」と申し訳なさそうに言い、青年のプロポーズを断った。

「お気持ちは大変ありがたいんですが、わたしには……」

 アリシアはそう言って青年に、すでに自分に好きな人のいることを教えた。それを聞いた青年は苦笑いをこぼし、恋を諦めた。相手が飛び切りの高嶺の花なので、諦めを付けるのは造作もないことのようだった。

 青年はしょんぼりと礼を言い、ARIAカンパニーと、二人の水の妖精のもとを去って行った。涼しい風が吹き、それはどこか青年の心境を暗示しているようだった。熱の冷めた恋の余韻に浸っている彼は、しばらく憂鬱だろう。敗北した挑戦者は悔しい思いを嘗めるだろう。しかし彼は不幸だろうか? 好意を裏切ったことが後ろめたいのか、しめやかな微笑みをたたえるアリシアの隣で、青年の哀愁に染まった背中を仮面のような顔でじっと見つめている灯里は、いいやそうではないと思った。灯里は彼が卑屈になり切らず、恋が成るか否かという懸念や、差し出がましいという引け目などの高いハードルを越えて、おのれの意を伝えきったので、幸せとは言えないにせよ、達成感を得てある程度は満足しているだろうと量った。勇気を奮うというのは、一つの激しい、劇的な経験である。そういう経験は激しいゆえに、ある種の快感をその後経験の主にもたらす。彼は大丈夫だろう。そう思って青年の背中を見つめる表情は、安堵のために、アリシアと同じ表情へと段々と和らいで行った。

 その後灯里は、横目でちらりと先輩の横顔を、何かを確かめるように、興味がある様子で見た。

 彼女は、意外の念を持っていた。灯里には、さっきアリシアの言ったことは、長く一緒にいるのに露も知らないことであった。彼女の言葉は――すなわち、彼女に好きな人がいるというのは、本当だろうかと、灯里は、いささか胸をドキドキとさせて訝った。

 青年の背中が見えなくなる頃には、辺りはもう寒いと思うくらい気温が下がっており、空には黒い夜の帳が下り始めていた。二人のウンディーネは頷き合い、一緒に社屋の中へと入って行った。

 

 

 真っ暗な夜のドームの下で、窓を照明で明るくしているARIAカンパニーのダイニングでは、アリシアと灯里がテーブルに付いて夜食を取っていた。適度に交わされる話が、食事を円滑に進めるよい潤滑剤となった。ダイニングの大きくまるい窓には、外の、弱く波立つ海の景色が切り取られている。

 やがて全てを食べ終えて落ち着いた頃、灯里は気になっていたことを考え、テーブルを挟んで目前にいるアリシアに向かって、俯きがちに、上目遣いをして、「あの、アリシアさん」と呼びかけた。彼女は小首をかしげ、その後を促した。

「あのお客様に言った話は、ホントですか? つまり、アリシアさんに好きな人がいるっていう話は」

 問われた彼女は、テーブルに両肘を突いて手で頬を持つと、にっこり笑い、「どうかしらね」といくぶんいたずらっぽく答えた。それは問いに取り合おうとする懇切な態度ではなかったが、後輩はかまわず追及の手を伸ばし続けた。

「そんな話、わたし初めて聞きましたよ。ARIAカンパニーに来てからずいぶん経ちますけど、ぜんぜん知りませんでした」

 そう灯里が言うと、柔和な二本の曲線で灯里に微笑んでいるアリシアは、目を開いた。表情が変わらない彼女のその眼差しは、灯里ではなく、彼女よりずっと遠くを眺めているようだった。そんなぼんやりした様子のアリシアには、灯里がその様子を気にして首を捻っている姿が見えなかった。

「昔ね」、とアリシアは言った。「わたし、ある男の人と出会ったの。とっても素敵な人でね、その人のことは、今でも時々思い出すのよ」

 灯里はしんみり納得するように頷いた。

 そう語るアリシアの昔を懐かしがる顔の目は、彼女が言った男を見ているようだった。灯里はその目から、先刻アリシアに思い切って告白した青年の情熱的で、それでいて怯えた眼差しを思い起こし、ある知覚に打たれた。アリシアの今の遠くへの眼差しは、恋する者のそれであり、彼女は、思い出の中の恋人を、まるで雄大な景色を見つめるように、夢中になって見つめていた。そう悟った灯里にとって、先輩は一人の女の子であり、恋のとりこであり、甘い苦悩の森の冒険者であった。今や彼女はウンディーネの先輩ではなく、親しい友達であり、また、自分が未だ経験したことのない恋の先駆者であった。今まで見たことのない先輩のそんな珍しい様子に、灯里は魅惑され、彼女ににわかに興味を起こした。

 アリシアは、眼差しを思い出から現実に戻すと、目前の後輩を見、「ねぇ灯里ちゃん」と呼びかけた。

「その人の話、聞きたい?」

 問われた灯里は間を置かずに、まるでずっと以前より期待していたかのように、首を縦に振った。まばたきするのも忘れている興奮気味の後輩がおかしくて、先輩は思わず「うふふ」と上機嫌そうな笑いがこぼれた。

 熱心な聴き手を得て、アリシアは思い出話の一つをぶつことにした。灯里の注意と関心を一手に握る、黄金に相当する若い淑女の恋の逸話が、語られ始めた。アリシアの過去の日々が、今より若いその姿が、背の低い、まだあどけなさの残るその雰囲気が、追想のビジョンとして、彼女の口よりとうとうと流れてきた。

「それはね、わたしがまだ見習いのウンディーネだった頃のことで……」

 明るい部屋の外では、段々と夜が深まっていた。


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