ビフォア・ゴールド   作:Yuki_Mar12

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【2】

「それじゃ、この湖の周りを巡って戻ってくるんだよ、いいね」

 ARIAカンパニーの創設者であり先輩でもあるグランマは、やんわりとした調子でそう問うた。水際に浮かぶ小舟に乗り、オールを手に携えているわたしは「はい」と頷いて答えた。満々と張る湖の水面は、初夏の麗しい晴天を反射し、きらきらと眩しいくらい輝いている。

 わたしは、水の妖精(ウンディーネ)の研修のため、ネオ・ヴェネツィアのある島とは違う島へと遠征していた。そこは山野が広がるのどかなところだった。

 小舟を漕いで湖の周囲を巡るのが、ウンディーネになって間もない未熟な訓練生に課される研修であった。小舟はゴンドラのように華麗ではなく、至って質素で、湖に気晴らしに来る人達が、ちょっとした非日常を楽しむために借りるような造りだった。研修はしかしそんな人達のように悠然と出来るものではない。湖の周りは数キロもあり、かなり長い。ゴンドラ漕ぎの練習は、たっぷり時間が掛かりそうだ。そういう予測のため、小舟にはお昼に食べるお弁当と幾らかの荷物が載っている。黄色の大きなハンカチにくるまれた四角い数段の弁当箱と、水筒と、小さなナップザックを見ると、どうにも自分が研修ではなく、レジャーに来たような錯覚を覚える。が、やっぱりそうではない。

 ぐずぐずしていても仕方がない。そう思ったわたしはためらうのをやめ、小舟に乗ると、オールを水に差し、進めだした。いくぶん怯えがにじむ「行ってきます」というわたしの言葉に、グランマは送別の言葉ではなく、「ちゃんと戻ってこれるかい」という問いで返した。どうやらわたしの怯えは感付かれたらしい。気弱なところを見抜かれ、恥ずかしい感じを覚えるが、率直に言って、感付いてもらえて嬉しかったことは否めない。わたしは無事にこの地点へと帰ってこられるか疑わしかった。ゆっくり行けば、変に急いだりしなければ大丈夫と思う。だが、所詮そんなものは推測に過ぎず、実際無事に今日の行程を終えられるかは不明だ。

 背後のグランマの親切な問いに答えない間に、小舟は徐々に陸より遠ざかっていく。確かな足場と、親のような指導者よりどんどん離れていく。わたしはまだ不安だった。オールの捌き方がうまく定まらず、またぐらぐらする感じがまだ慣れず、気持ち悪く、船体が転覆することを恐れる。実際そんなトラブルが起きたことは前に何度かある。もしもそうなると、服や髪はすっかり水浸しになって恥ずかしいし、舟は流れて行ってしまうし、大変だ。何より漕ぎ手のくせに小舟から落ちてしまうというのがものすごく無様に思う。わたしはまだ半人前の漕ぎ手で、操船においては拙い。そのため、いかなるトラブルが起きても不思議ではなく、注意深く研修に挑む必要がある。果たしてわたしは、そつなく今日の航路を行き切ることが出来るだろうか? 不安だった。

 あまりにも不安なため、わたしは段々と姿が小さくなっていくグランマを、半ば無意識の内に振り返ってしまった。そうしてしまった理由には、他に、彼女に甘えたいという思いもあった。励ましが足りない、出来ればそばに付いていて欲しい。自信に乏しい迷子のようなわたしは、色々と思い惑った。

 振り返って見た、背の低い小柄の彼女は、柔和な微笑みでわたしの今日の出発を見守ってくれている――あぁ、あの表情だ。わたしは改めて悟る。あのグランマの慈しみに満ちた表情は、いつでもわたしの不安な心を癒してくれ、落ち着かせてくれる。その恵みに浴すれば、どんな不利な心境もたちどころによくなってしまうものだ。

 わたしは、堅い表情を和らげ、グランマに習った、水の妖精としての、普通よりなお柔和な笑顔を浮かべ、ちゃんと戻ってこられると答えた。すると彼女は、その笑顔より更になお柔和な笑顔で、後輩を送り出してくれるのだった。

 わたしは気を持ち直して、オールを握る。そして恐怖でいくぶん震える手に、しっかりと力を込め、堅くオールの柄を握り、その震えをしずめる。すると、それまで倍くらい伸びてしまったように思えていた不自由な手が、鋭敏な感覚を取り戻し、髪をそっと撫でてその潤いの具合を確かめる時や、寒い時に息を吹きかけてその温もりを感じる時のように、ごく身近なものになった。

 調子が整ったようだ。乱れていた神経は調律され、わたしの意識は、不安のために落ち着きを失うことがなくなり、一定の強度を持って、研修として行うべき課題へと集中することが出来た。そうして、研修生としての自覚と、早く一人前の水の妖精になってやるという意気ごみを含む、堅固な心境は、わたしとグランマの間の距離を、どんな感傷さえ起こさずに広げていった。やがてグランマの姿は見えなくなった。が、わたしは別にもう不安には思わなかった。

 すいすいと順調に小舟を進めるわたしは、気持ちの余裕があり、航路を行きながら、湖を囲う周りの景色を眺めた。辺りに立ち並ぶ木々は、季節に相応しく、青葉を豊かに茂らせている。それらは、明るい日差しを浴びてエメラルドのような光彩を放っている。朝と昼の間で燦々と照る太陽は、気温をぐんぐん高めており、辺りは初夏の割に暑かった。最初は手汗しかかいていなかったわたしは、すぐに背中に、首に、額に、汗を浮かべた。水の妖精として働く場合、汗をかくのは、建設現場で鉄柱を運ぶ場合や、ランナーとして競技場のトラックで駆ける場合のように、よいことではない。お客様と直接接し、その人をもてなす立場の人間の汗は、きっと疲れとか体調不良を思わせ、些少の心配を負わせるだろう。そのため、水の妖精の肌は、常に乾いていなければならない。何より、汗は不潔をも思わせるため、神聖さや純潔さをそのイメージに含む水の妖精には、まったく相応しくないのだ。冷涼な雰囲気を心掛けていなければならないのだ。

 そのことを、頭ではちゃんと理解しているつもりだったけど、まだ見習いのわたしには、ほとんど防ぎようのない生理現象の制御は、未だ難しくて出来なかった。

 出発より数時間過ぎた頃、わたしは疲れと、手と腰の痺れを覚えたので、近くの岸に小舟を漕ぎ付け、そこより陸に上がった。ほんの数時間だけど、陸に足を付ける時の、土の柔らかいような堅いような感触は、じんわりと身体中に染み、懐かしいという感慨が起こった。水の妖精になり切れていないわたしには、まだ陸の方が好ましいようだった。

 小規模な木立の中を歩き回るわたしは、その中の長と言える、恐らく最長寿であろう立派な大樹を見つけると、涼しそうだったので、その木陰へと向かい、そこで綺麗な草地にシートを敷き、腰を下ろした。そうして持ってきたお弁当の包みを解き、箱を開け、昼食を始めた。自然の中で空腹を満たすのは、飛び切り幸せなことだった。それまでの労は溶けていくように癒えていった。加えて、木陰は本当に快適で、身体中にかいていた汗は、木立へと吹いてくる、恐らく遠方にそびえる山からのものだろう颪のお陰で、すっかり乾き、そして、その風は程よい涼感を持っていたので、わたしはお弁当を食べ終えた後、つい横になってしまった。そうするのは、ずいぶん心地よく、大樹の地上に剥き出しになった根が、少々堅かったものの、うまい具合に枕になってくれた。

 わたしは、上の群葉の隙間に隠れる青空を見つめ、くつろぎつつ、水の妖精という一風変った仕事の苦難をしみじみ感じた。まず覚えなければいけない舟漕ぎの技術は、してみる前は、簡単と思っていたが、実際はそうではなく、それは先入見に過ぎなかった。イメージと現実の間に差異があったのだ。水を掻いて舟を前へ進めるだけと思っていたが、実地でやってみると、水に浮かぶ舟をきちんと思い通りに前に進ませるのは難儀で、舟はわたしを侮るかのように、不随意に動いて困らせた。わたしは甘く見ていた水の妖精の仕事に、鼻っ柱をへしおられたのだった。仕事は一筋縄では行かなかった。舟漕ぎの他にも、覚えるべきことは盛り沢山である。ガイドの話の説き方、その時の適切な仕草や表情、常に涼しげな面持ちを保つこと、ゴンドラを清潔に長持ちさせる手入れの仕方、ネオ・ヴェネツィアの地理、その歴史、等々。挙げれば切りがない。新人のわたしには、学び、修行し、こなさなければいけないことばかりだった。まだ、坂道の途中だ。何かある者になろうとし、それで一人前に認められるまでの道は、険しいものだ。

 木漏れ日が眩しい。将来への展望にあふれる難題を考えるわたしが、何度かため息を吐くのは止むを得ないことだった。

 ふと、草を踏む乾いた音が聞こえた。誰かいるらしく、わたしはハッとし、胴体を起こしてその方に目を向けた。

 隣の木陰に、一人の男の人が立っている。白いシャツを着てジーパンを履くラフな格好の彼は、わたしより年上だろう。たぶん、そんなに年齢差はなく、二つか三つくらいだけ年上と思う。

 その男の人を見た時、何だか不思議な感慨の波が、わたしの中に湧き起こった。それは、こんな人気のない環境で人に出くわしたということが主因と思うが、別にその感慨は、幽霊を見た時のようなものではない。何と言えばいいのか分からず、少し悩む。明らかなのは、ある種の嬉しさを、わたしが感じていることだ。それは、ずっと会っていなかった親しい友人と再会するような感覚に似ている気がする。そうだ。わたしが覚えているのは、そんな感覚なのだ。わたしは、まるでもうすぐ楽しい遊びが始まるのを予感する子どものような、心臓を弾ませるような、そんな大きな興奮を、今胸に抱いているのだ。

 男の人は、わたしの方を見ている。彼は会釈し、暑いと、にこやかな表情で、社交辞令的に言ってきた。それが彼の挨拶のようだった。わたしはそれに言葉ではなく、首を縦に振って頷くことで応じた。何だか焦っていることが自分ではっきりと分かっていた。そんな様子は彼を笑わせる原因となった。

 男の人は、わたしへと近付いてきて、隣に座ってもいいかどうか尋ねてきた。わたしはぎょっとし、恐らく素っ頓狂な声だったと思うが、「えっ」、と呆れたように発した。が、わたしのそんな様子にかまわず、彼は話した。

「何だかあなたのそばにいる木が、この木立の中で一番大きいように見えるんです。僕、昼食を取れる場所を探してて。ほら、大きい木のそばにいると、安心するでしょう?」

 男の人は、わたしがその陰に憩っている木の上を見上げて言った。わたしは頷いて納得する振りをしたが、実際のところ、彼の言い分はよく分からなかった。人間の心境に木の大小がどの程度関わるかなんて、宇宙の辺境にある惑星の生態と同じだった。

 男の人は、アキヒトと名乗った。わたしと同じく「ア」で始まる名前に、何となく親近感を覚えた。わたしは礼儀に即して彼に名乗り返した。

 アキヒトさんは、自己紹介を終えるとわたしの隣に、まだ容認していないのに、どっかと無遠慮に座り、手に持っている丸いアルミホイルを剥いて、中のおにぎりを食べ始めた。わたしは急いで身体を起こし、木陰にぴったりと背を付け、三角座りの姿勢で座った。ダンゴムシのように小さくなり、両手で膝を抱え、胸と膝小僧の隙間に顔をうずめた。

 彼のために、すっかり間が悪くなってしまった。親しい友人との久しぶりの再会のような、アキヒトさんとの出会いへの感慨と、イニシャルの同じ彼の名前への親近感。その二つを覚えたのは、確かなことだが、わたしは、どうしても彼への引け目を拭うことが出来なかった。というのは、その頃のわたしがまだ異性に慣れておらず、うぶだったせいだ。髪のじょうずな結い方さえ知らない14歳のわたしにとって、男の人というのは、前は身近に感じていた存在のはずなのに、いつからか、急によそよそしく、そして怖く感じる相手となってしまった。その原因には、いわゆる思春期の問題があったのだと思う。 

 わたしは、肩身の狭い思いに苛まれつつ、遠くの水際に浮かぶ、近くの木にロープで繋がれた自分の小舟を見た。小舟は、湖の波に従って小刻みにぐらぐらと揺れている。水面に浮かぶあらゆるものを運ぼうとするその水の力に、小舟は、ロープを通じて木にすがることで、あらがっている。わたしは、じっとその様子を見て、そこに意識を注ごうとしたが、その大半は、完全に隣の異性へと引き寄せられていた。

 アキヒトさんは、米粒を頬張りながら、わたしに尋ねた。

「アリシアさんは、レジャーに来られたんですか?」

 それは、見当違いだった。わたしは訂正した、緊張気味に。

「いえ、実はわたしは船乗りなんです。水の妖精と呼ばれている、ネオ・ヴェネツィアという街の、ちょっぴり変わった職種なんです」

 そう答えると、アキヒトさんは感心したように頷いた。

「聞いたことありますよ、水の妖精。ネオ・ヴェネツィアにはまだ行ったことがありませんけどね。何でもマンホームの古都を移設して出来た街だそうですね」

 わたしは頷いた。

「水の妖精とは言っても、わたしはまだ半人前で、修行中の身なんです。色々と難しいことが多くて、さっきまで、考え込んでたんです。自分から望んでこの道を選んだけど、本当に最後まで歩き続けられるのかなぁ、って」

 それは、率直な気持ちだった。わたしは怪訝に思った。どうしてそんな気持ちを、見ず知らずの異性に吐露出来るのだろう? だが、あんまり怪訝に思わなくてよかったかも知れない。アキヒトさんとの出会いは、親友との再会のようだったのだ。親友には、率直な気持ちは打ち明けられる。それだけのことだった。難しく考えなくてよかった。実際、こんな回答が彼から得られたのだし。

「僕にもそのお気持ち、分かりますよ」

 だけどそれは、少し意外で、わたしはまた、さっきと同じ様子で、「えっ」と発した。

「……と言うと、恩着せがましい男みたいで、ちょっと気持ち悪いですかね? でも、僕もあなたと似たようなことを、しょっちゅう考えますからね」

 彼は苦笑いを混ぜて、そう言った。

 目を下に向けていたわたしは、少し顔を上げ、彼を見た。

「アキヒトさんも?」

 彼は「えぇ」と言って頷いた。もうじき昼食は終わりそうだった。

 会話はそこで途切れた。わたしは、残り少ない昼食を取っている彼の隣で、静かにぼうっと湖の水面を眺めた。小舟は、今も揺れていた。

 木立の中に初夏の涼やかな風が、子どもを寝かせる子守歌のように、やさしく吹いてくる。徐々に、眠気が高じてくる。と同時に、隣の人への親近感も。わたしは、日差しのせいなのか、もしくは他の何かのせいなのかよく分からない、あたたかく快い気分で、ひどくリラックスして、微かに揺れる小舟を見つめている。ゆりかごのようなそれを囲う視界のふちは、どんどん中心へと迫ってくる。

 うとうとして、わたしは、自分がいつしか眠っていたことに気が付かなかった。我に返ったわたしは、木の幹に預けているやや熱くなった身体を離し、うんと伸びをした。うたた寝をした割に、時間はそんなに経ってはいないようだった。そのため、堅い幹のせいで身体を痛めるようなことはなかった。

 わたしは気になって、辺りをきょろきょろ見回した。アキヒトさんを探したのだが、さっきまですぐそばにいた彼は、もういなくなっていた。彼のいないことを知ったわたしは、何となく、寂しい気持ちに駆られた。が、いないものはいないのであり、認めるほかなかった。

 わたしは、乾いた喉を水筒の水で潤すと、立ち上がり、小舟へと向かって練習を再開した。

 練習中、わたしはずっと陸にアキヒトさんの姿がないかと、常に視覚を研ぎ澄ませて見張っていた。そのため、練習にはあまり身が入らなかった。


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