ビフォア・ゴールド   作:Yuki_Mar12

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【3】

 思い出話に区切りが付いたところで、灯里は感慨深そうに頷いた。

「アリシアさんにも、見習いの時期があったんですねぇ」

「えぇ」、と彼女は相変わらず、手で頬を持った、リラックスした状態で答えた。「もう、ずいぶん前のことだけどね、あの頃のわたしは、本当、青かったわ、いい意味でも、悪い意味でも」

 アリシアは灯里の方ではなく、そっぽを向いて、窓の外に広がる海景を、しっとり見惚れるように眺めている。彼女の目は、海の果てのように遠い、過去の記憶を見つめている。初夏の風景や、慣れない研修や、アキヒトとの出会いが、彼女の脳裏を駆け巡っていた。

 そんな彼女に、灯里は言った。

「男の人に不慣れなアリシアさんなんて、想像出来ないです」

 そう言われて、くすりと無声に笑む彼女は、窓を向く顔の目だけを灯里に向け、「本当のことなのよ」、と答えた。

 灯里は、手に支えられた頬を正面にする先輩のその面差しに、伝説として語り伝えられる、絶世の美女の面影を認めた気がして、陶然とした。少し気だるそうに机に肘を突くアリシアの姿に、灯里は、普段知っている水の妖精(ウンディーネ)とは違う、別のパーソナリティの彼女を見た。それは、お酒を飲んで陶酔し、上機嫌である時といくぶん似ていたが、それとはまた異なるようだった。その時よりは、しめやかだった。

「アキヒトさんは」、とアリシアは言った。「わたしが初めてしっかり接した異性と言ってもいいくらいの人なの。アキヒトさんには、不思議と、他の男の人とは違って、気を張らずに済んだわ。どうしてかしらね?」

 アリシアはそこまで言うと、少し沈黙し、その後顔を灯里の方に俯けた。

「話の中で言ったように、アキヒトさんは、初めて偶然出会った人のはずなのに、親友じみた感じがあった。そのお陰でわたしは、彼と難なく打ち解けることが出来た。でも、実際はそうじゃなくて、赤の他人だった。不思議ね。どうして彼には、そんな親しみやすい感じがあったのかしら?」

 アリシアは顔を上げ、問うた。

「灯里ちゃんには、その理由は分かる?」

 問われた灯里は、首を傾げた。まだうぶだったので分からず、彼女は、飼い主に話しかけられたが、言葉を理解出来ないせいで答えられない小動物のように、オロオロした。その様子は、どこか昔の自分と似通った部分があるように見え、アリシアは懐かしい感じがして、頬を緩めた。

 灯里は、「どうしてなんでしょう」と尋ね返した。

 アリシアは考え込むように唸り、答えた。

「たぶん、わたし達の間には、緩衝材のようなものがあったんでしょうね。それは、あるいは縁と言うべきものなのかも知れない」

 灯里はにこりと笑んで、目と口の合わせて三本の曲線を作り、「縁ですか。すてきですね」、と素直そうに述べた。

 アリシアは「ふふ」、と息を弾ませるようにきみよく笑み、逸話の続きを話すことにした。灯里は、目を開いて耳を澄まし、楽しみなその話に対し、静聴の態度を取った。

「その縁はね、その日で終わりじゃなかったのよ。その後の日にも、わたしはアキヒトさんと会ったのよね……」

 

 

 修行中とはいえ、たまに休日がある。毎日毎日すべきことに従事しなければいけないというのは、ひどく息苦しいので、わたしは、そのたまの休日が非常にありがたかった。

 アキヒトさんと出会い知り合った後のある休日、わたしは、グランマと宿泊している旅館を出て、外をぶらぶら散歩していた。わたし達の泊まる旅館は、少し古いということ以外とりたてて特徴のない、低い丘のふもとにあるものだった。

 天気は曇りだった。先日は青く晴れていた空には、灰色の雲がみっちり満ちており、ある種の混雑状態を成していた。遠くの、わたしが研修を行った湖は、天気の影響を受けてどんよりしている。せっかくの休みなのに、そんな天気なので、わたしは、所在ない思いにふて腐れていた。

 あまり車の通らない、田舎の道路のわきを歩きつつ、わたしは、何となくアキヒトさんを頭に思い描いていた。そうして、彼にまた会ってみたいというような気分になった。

 わたしにはあまり自覚はなかったが、その気分は、知らない内に段々と強まり、わたしは自然と、先日アキヒトさんと出会ったのと似たような木立へと足を向けていた。

 木立の中には、人がいて、それは男の人だったので、わたしはすぐにハッとし、胸のときめきを覚えたが、他人と悟った時は、心底がっかりした。

 わたしは少し遠くまで歩くと、近くの木陰に腰を下ろし、考え事をした。それは勿論、アキヒトさんについての考え事だった。目の前には鉄のような色をたたえる湖の面がある。湖は不規則に波を立て、その波は岸に打ち寄せ、快い水の音を立てていた。

 アキヒトさんの素性について、考えをめぐらした。彼の服装や、髪型や、顔付きなどの特徴から、彼がどんな人で、どんな生活を送っているのか、色々と当て推量してみた。それはどこかゲームじみた面白さがあった。しかしそうするのは、わたしにそこはかとないバツの悪さを感じさせた。わたしはこの島へ一体何をしに来たんだろう? 水の妖精の研修のためではないのか? 問うまでもない。そうである。なのにわたしは、恋愛感情に(うつつ)を抜かしている。そんなのは、他の無邪気な女の子達のすることだ。わたしは、そうではない。ネオ・ヴェネツィアの水の妖精になりたいと志願し、許しを得、見習いとなり、今こうして研修に来ているわたしは。そうだ。研修に来ているのだ。恋愛などしに来たのではない。

 しかしそう言い聞かせたところで、葛藤は止まなかった。苦悩でわたしは、耳を塞ぐようにして、両手で頭を抱え、俯いた。

 休日なので、何をしようが任意なのに、その日その時のわたしは、どうしてか、自分の恋愛感情を、毛嫌いするように嫌悪し、汚らわしく、また鬱陶しく感じていた。その感情は、わたしの夢に干渉し、そのための努力を妨げ、破ろうとするように、侵略者的に思えた。それがひどい思い過ごしだということに、その時のわたしは、ある種の妄想にとり付かれていて、気付けなかった。そんな状態だったのは、ひとえに、わたしがその感情に慣れ親しんでいなかったせいだ。その感情に、どう接していいのか分からなかったせいだ。

 ――でも、わたしには、その感情を抱くことがしょっちゅうある気がする。いや、間違いなくある。そんな経験は、事実、何度も繰り返してきた。その経験は、一つ一つ、遺漏なく、全て今も覚えている。そうして、毎度わたしは、今と同じように、対処法に惑い、苦悩していたことも覚えている。

 ということは、ひょっとすると、その、ある男の人と出会い、彼に恋愛感情を抱き、苦悩するという経験は、実は経験ではなく、わたしの習性、ないしは習慣なのかも知れない。

 そこまで考えが到ると、わたしは「そうだ」と、あることを思い出して呟いた。そうして立ち上がったわたしは、きびすを返して、旅館へと戻った。

 古風な門をくぐり、建物の中に入り、自分の部屋へと向かった。隣のグランマの部屋は、扉にロックが掛かっており、外出しているようだ。

 わたしは畳の上の座椅子に座ると、漆塗りのぴかぴかした黒い低い机のパソコンを付け、スクリーンに向かった。

 電子メールを書こうと、思い付いたのだった。わたしは少し文面を練った後、ぽつぽつと書き出した。宛先の名は、晃・E・フェラーリ。今ネオ・ヴェネツィアにいるだろう、いくぶん気性が荒く、その性質が険しい目付きに現れているが、よく気遣ってくれる優しい、わたしの同僚の名だった。彼女はARIAカンパニーではなく姫屋という水先案内店に所属し、そこでわたしと同じように、見習いの水の妖精として、日々修行にいそしんでいる。晃ちゃんとは、同僚のみならず、古い友達でもある。彼女とは、お互いに幼い頃から付き合っている。気の置けない彼女には、何でも話せる。恋愛感情が生じ悩みがちになった時、わたしは決まって、彼女に相談していた。それは別に、そういう決まりがあったわけではなく、自然の流れで、いつもそうなった。塞いだ面持ちでいるわたしが、晃ちゃんに悩みを感付かれ、問い質され、話し合いが発生するという成り行きで、その相談は行われる。晃ちゃんは結構勘が鋭い。しかし、電子メールのやり取りでも、果たしてその相談はうまく行くだろうか? 分からなかったが、とにかくわたしは自分の気持ちを画面につづって行った。

 スクリーンに映る箱の中に言葉を重ねていくわたしは、最初は訥弁だったが、段々と熱が入り、雄弁に変わっていった。すると、自然と笑みがこぼれた。わたしの書いた文章には、わたしのいる状況と心境が透けて見えることだろう。晃ちゃんは、わたしがまた、飽きもせず、恋煩いに罹り、それに悩んでいると知って、呆れることだろう。そして文面に濃密に漂う、わたしの14歳という年齢に相応しい、青春の香を嗅いで、半ば軽蔑し、半ば羨ましがることだろう。それは強情で、それでいてひっそり繊細な晃ちゃんらしい反応だ。そんな反応が反映された返事を、早く読みたいものだ。

 メールをつづりながら、わたしは改めて、自分に恋の経験の多いことを、どうしてか、異性との印象的な出逢いがたびたび起きることを、しみじみと感じた。

 恋。異性を恐れる心のあるわたしにとってそれは、その心ゆえに、きっと無縁であるべきはずのものだ。なのに、無縁どころか、わたしはよく、色んな出逢いをして、そこで迷路のような時間に迷い込む。中々すっきりと、朗らかな気持ちで、生きていけない。しょっちゅう男の人と知り合い、別れるが、また後に新たな人と出逢い、知り合い、その人のために思い煩い、自分のすべきことを疎かにしてしまう。あるいは男の人に慣れていないからこそ、惹かれてしまうのだろうか? よく分からないからこそ、よく分かりたいと思って、近付こうとして、心を寄せようとするのだろうか? ひょっとすると、そうなのかも知れない。アキヒトさんに対して抱いた感情は、これまで彼以外の人に対しても抱いたことがある。何度も、そうだ。でも、彼は少し特別だった。その他大勢の男の人とは違う成り行きを、わたしは彼と共に経た。それは少々滑稽で、だけれども劇的なものだった。少なくとも、わたしにとってはそうだった。

 晃ちゃんは返事をよこす時、きっと、説教の口調で、わたしを小馬鹿にしてくるだろう。わたしの頭に、晃ちゃんの、眉間にしわをよせた、般若ほどではないけれど、それに似たような、むっつりとした表情で、わたしを睨み付け、そうして小言をぶつける姿が思い浮かぶ。晃ちゃんは、わたしの欠点を挙げ、注意し、戒める。でもそうしてくれてもよい。こういう感情を持つのは、胸苦しいし、集中力が散漫になったりするけれど、ぞんがい悪いことではない。むしろその逆で、喜ばしいことのような気がする。

 最後までメールを書き終えて、何度か見直しをして、誤りのなさそうなことを確認すると、わたしは晃ちゃんへと送信した。

 長い文章を書いたと思う。少なくとも、わたしにとっては長かった。たったの一日、それも、昼食の時間しか接さなかった男の人のことを、こんなにも豊かに語れるということは、やっぱりわたしが、アキヒトさんに対して、好感を持っているということの証だろう。文書を書くことで改めて、わたしは彼への好感を確認した。

 あふれるような勢いで文書をしたためたものだから、少し疲れた。わたしは座椅子の背を倒すと、身体を横にして、目を休めるつもりで瞑った。瞑っている目の中の暗闇には、アキヒトさんの姿をした光が光っていた。快く思うと同時に、甘すぎるくらい甘い感情が、少し胸にひっかかって、いささか胸やけに似た気分をもよおした。

 あの人の魅力は、晃ちゃんもそうだが、恐らく他の人にも、伝わりにくいと思う。それは、わたしにしかはっきりと認識出来ないものだと思う。でも、そうであるからこそ、つまり、惚れた者自身にしか相手の魅力が分からないからこそ、恋というものは存在し、成立出来るのではなかろうか?


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