ビフォア・ゴールド   作:Yuki_Mar12

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【4】

「そういうものなんですねぇ」

 しみじみ納得するように、灯里はそう言った。恋についての観念的な推測は、彼女によい夢を見た時のような甘美な感覚を与え、それに浸らせた。

「灯里ちゃんにも、分かるかしら?」

 アリシアが尋ねると、灯里はのぼせたようなぽかんとした表情で唸るだけで、何も答えなかった。アリシアは、どうやら後輩が同じ経験をするには、当分待たないと行けないようだと考え、微笑んだ。

 アリシアは、天井を見上げてまだ唸っている灯里のそばを離れ、キッチンへと行き、軽食とドリンクを机に用意した。灯里は先輩の気遣いに気付くと、不毛な思案をやめ、礼を述べた。アリシアは、灯里と小腹を満たし、喉を潤した後、逸話の続きを始めた。

 

 

 晃ちゃんにメールを送ったのは、昨夜のことだ。夜が明けて朝受信ボックスを確かめてみたが、彼女の返事は来ていなかった。晃ちゃんも日々お勤めに精を出している身で、他のことにかかずらう余裕はあまりない。休日はあるにはあるが、そんなに多いわけではないので、わたしと合致するということは、ほとんどない。たぶん、彼女は昨日ゴンドラ漕ぎをしたりガイドの訓練を受けたりしていたと思う。わたしの電子メールは、彼女に読んでもらえたとは思うが、返事の早く来ることは、そんなに期待しないのがよいだろう。大体、晃ちゃんはアウトドア派とか体育会系とか、そういったタイプの人間で、読書とか手芸などの、細やかな技術の必要なことは、得意でないのだ。ただ一つ、料理だけは、ずば抜けてじょうずで、例外だけど。そういうわけで、彼女は文通も同様に得意でなく、筆まめでないのである。返事は、気長に待とうと思う。

 今日の空は、昨日と違い、からりと晴れている。朝の空気は新鮮で、爽快で、時々吹く、強く涼しい風は、木々の青葉で、快い音楽を奏でていた。

 わたしは、湖で小舟を漕いでいて、一日ぶりの練習に励んでいる最中だ。扱えば扱うほど重くなっていたオールは、一日の休日というインターバルを挟んだことで、すっかり軽く戻っており、わたしの手に、すっと馴染む。わたしは今、箸で食べ物を持ったり、団扇で微風を起こしたりする時のように、慣れた風に、オールで舟を漕いでいる。オールの水に浸かった、平たい部分で、水を掻く。握力や、腕力など、結構な力が必要だ。以前はよく舟がおかしな方へと進んだものだが、今は板に付いてきたようで、聞かん気だった舟は、手懐けて、だいぶん思う通りに動かせるようになった。調子がよいだけかも知れないが、グランマの指導と、積み重ねてきた練習の賜物であろう。もうそろそろ、自分の操船術には、自信を持ってもよいのかも知れない。

 上機嫌でそんなことを考えつつ、ウォーミングアップを終えようとする頃、わたしはふとある人影を陸に見つけ、ハッとした。幸運な発見だった。それは、アキヒトさんだった。彼は、誰かと共に、木立の中で並んで歩いており、和気藹々とした雰囲気で、何かを話している様子だ。わたしは、何となく会いたいと思っていた彼を再見し、嬉しくなった。そうして、練習中のため、本当はいけないのに、小舟を陸に付けて降りると、抜き足差し足で、適当な木陰に忍び込んで、そこから、アキヒトさんと誰かのやり取りを、こっそり窺った。

 わたしは、ショックを受けた。というのは、彼の話している相手が、若い女の人だったせいである。今までアキヒトさんに意識が集中し、注意が偏っており、こうして接近するまで、相手がどんな人なのか、まるで眼中になかった。アキヒトさんと睦まじく話す相手は、悔しいけれど、綺麗であることは否めない。それは、飾り気がなく、生来の、天然の綺麗さのようで、わたしはますます彼女に対し、悔しい思いを高めた。

 二人の間柄は、どういうものなのだろう? やきもちを感じるのは、ずいぶん久しぶりのことだ。心の中に、もやもやした生ぬるい霧が立ち込め、刺々しく、熱をもった何かが、お腹の中で転がり、わたしを内側から傷付ける。次第に、気分が悪くなってきた。やきもちの、胸をむかつかせるような、イライラさせるような感じは苦手だ。不信と憎しみで、心臓がぎゅっと締め付けられる。

 二人は仲良さげに話しているが、その内容は風と、湖の波の音に紛れていて、曖昧だ。また、彼らが歩いており、声が遠ざかるので、それは、時間が経つごとに、どんどん聞き取りにくくなって行った。そうして、気になって注視している人達の話は、それが曖昧であるために、わたしの興味をいよいよ高じさせ、同時にまた、苛立ちを募らせた。更にその状況は、わたしの想像力を働かせもし、そしてそれで浮かび上がるビジョンは、すこぶる不快なものであった。

 しかし、それはあくまでビジョンに過ぎず、わたしが気付かれないように近付いて行って、アキヒトさんと綺麗な女の人の話を盗み聞きすれば、何もかも、わたしの知りたがっていることは、疑いの余地のない情報として、手に入るのだ。

 そのことは、確かに理解していた。理解していたけれど、わたしは、及び腰で、一本の木の陰から、たった一つの歩みさえ運ぶことが出来なかった。怯えていた。わたしは、自分のした、嫌な想像を、ほとんど現実と受け取っていたので、それを、確かな現実として、知りたくなかった。それを知ろうと試みるのは、どれだけ勇気を振り絞っても、臆病で、怖がりのわたしには、出来ないだろう。

 わたしは、悲観的な想像を、思い描いている。出来ればそれは、否定して消し去ってしまいたい。このままそう出来ず、その想像を負担し、旅館へと持ち帰り、夜まで、不眠状態になるまで、それに苛まれたくない。でも、もしその想像が、現実だった場合、わたしは結局、同じ状態、いや、それよりひどい病的状態になり、悶々と苦しむだろう。そうだ、違いない。そうしてわたしは今、自分の想像を、現実と思い込んでいる。

 状況は八方塞がりだった。励ましや元気や活発さのある方面は、すっかり塞がれていた。

 もしも、アキヒトさんの一緒にいる女の人が、彼の恋人だったら、どうしよう? もしもそうだった場合、わたしの彼への好意はどうなるのだろう? どうすればよいのだろう?

 そういう風に思い詰めて、わたしはもう、我慢が出来なかった。二人の間柄が気になって、でも真実は突き止めたくなくて、わたしは、自分のすべきことと、すべきでないことが、一体何なのか分からず、混乱した。冷静とか、正気をぎりぎり保てる限界まで、精神は追い詰められていた。その場に佇んでいることは、もう出来なかった。

 結局わたしは、自分の悲観を持ち帰ることにし、現実より逃げだして、急いで小舟に戻ると、慌ててオールを手に取って、漕ぎ出した。その時のわたしは、怯え切って、諦め切って、弱い小動物が猛獣より逃げる時そっくりだったろう。実際その時のわたしは、弱っていたし、それに、怯えていた。

 しばらくして、周りの陸からだいぶん離れた、湖の中ほどまでやって来ると、そこで舟の速度を落とした。

 ゆっくりと水面を進みながら、わたしは憂いを覚えていた。まだ、そばに、アキヒトさんと彼の恋人らしき女の人がいる気がした。その映像が、執拗に目に焼き付いて、消えようとしなかった。

 練習に身は入らなかった。昼食を取ることさえ、わたしは忘れてしまった。何もかも億劫だった。今日の研修の行程もそうだった。

 わたしは、えんえんゆっくりと小舟を漕ぎ続けて、もうすっかり暗くなり、空気のひんやりとしている遅い夜に、ようやく出発点へと帰着した。本当は、もっと早くに着いていなければならなかったのに、何という失態だろう。わたしは不届き者の水の妖精(ウンディーネ)であった。

 しかし、グランマは、仄明るいランプを提げて、何か事故を起こしたかも知れないと危惧されるくらい、帰りの遅い後輩を、じっと待ち焦がれてくれていた。彼女は、「遅かったね」と言うだけで、怒りはしなかった。それがどうしてか、怒られるよりも、ずっと身に沁みた気がする。わたしは、ある程度の小言を覚悟していた。グランマは元より温厚な人柄だが、今日のようなまずい行程の終え方には、そんな彼女でも、多少の苦言を呈すはずだ。

 変に思って、わたしはグランマの顔を見てみた。ところが、彼女の顔は、ランプの照明がぎりぎり照らせる範囲の外だったので、よく見えなかった。妙に静かだった。それはどこか、彼女が全てを悟っているようだった。実際、彼女はそうだったのだ。グランマは聞いた。

「こんなに遅れて帰ってくるということは、アリシア、何か足止めを喰らったんだね」

 わたしは、こくりと頷き、「実は」と言って、事情を明かそうとした。するとグランマは、わたしを制し、詳しいことは旅館で聞くと言った。

 そういうわけで、わたしはグランマと共に旅館へと戻り、グランマの、落ち着けるような香煙の漂う部屋で、話し合いをした。わたしは座布団の上に、グランマは小高い椅子の上に、それぞれ座って、わたしはじっくりと、順を追って、アキヒトさんとの出逢いと、彼に惚れ込んだことと、今日幻滅を味わったことを説き明かした。グランマは、親身になって、話を聞いてくれた。わたしは、彼女のその態度と、部屋の雰囲気に助けられて、すっかり、胸中に溜まっているわだかまりを、全て吐き出せたような気がする。

 長々と話し込んで、話し合いは終わった。とは言っても、話したのは主にわたしで、グランマはもっぱら傾聴するだけだった。その後わたしは、自分の部屋へ移ると、遅れた夕食を取ったり、シャワーを浴びたりして、就寝すべく、布団にもぐりこんだ。仲居さんが敷いてくれた、新しい、ふかふかの、少し冷たい布団を温めながら、わたしは、終わったばかりの、グランマとの対話を思い起こしていた。彼女は、わたしの悩みを聞いて、それはひどく幼稚で、いかにも女の子じみた、甘ったるいものだったが、納得するように、頷いてくれた。

「成るほど、それはあなたらしい悩みね」

 今回、わたしの慣習的な悩みは、通例とは違い、晃ちゃんでなく、グランマに聞いてもらうことになったわけだが、わたしは、今までそんなに砕けた関係を彼女と持ったことがなかったので、間が悪かった。「恥ずかしいです」、と、わたしは率直に述懐した。

「恥ずかしがらなくてもいいのよ。アリシア。あなたの悩みは、若い女の子には、よくあるものだもの。わたしにも、昔あったわ。だけど、あなたの場合は、その悩みを抱えることが、ことによくあるわね」

 わたしの習性は、グランマにはすでに知られているようだった。

「本当、わたしは自分のことが、ひどく愚かしいと思います」

 そう卑下すると、グランマは目を瞑って、首を左右に振った。それは、しずしずとしていたが、力強く、また優しい、気遣いのこもった所作だった。そうして、彼女は目を開けた。彼女の二つの目は、穏やかな光をたたえ、澄んでおり、わたしは、もう一人の自分を――すっかり意気阻喪した不憫な少女を、その中に見出す気がした。

「そうじゃない。決して、そうじゃないのよ。アリシア、むしろあなたは賢いの。それも、賢過ぎるくらいにね。そうして、賢い人ほど、よく悩むものなのよ、あなたのようにね」

 その言葉は、わたしの心に染み入り、わたしの全身を満たして、そして揺すぶった。

「だからね、自信を持ちなさい。自信を持って、うんと悩みなさい」

 そう言われて、何だか、涙が出そうになった。わたしは顔を俯けて、視線を、座布団の上の、膝の上に落とした。

「わたしは、本当に同じ悩みを抱えることが多いですよね。しょっちゅう男の人に恋をして、楽しい想像をして、やきもちをやいて、幻滅して、わたしは、落ち着かないですよね」

 そう自嘲するわたしの目は、少し潤んでいた。

「それでいい」、と、グランマは、わたしを肯定するように答えてくれた。「あなたはそれでいいのよ、アリシア。わたしには分かる。恋多き女の子は、きっと将来、素敵な淑女になれるのよ」

 一滴だけ、わたしの目元にたまった涙が、グランマの言葉の後、頬を伝って流れた。一滴だけだったので、温かいそれが肌の上を滑る感覚は、きわめてはっきりと伝わった。その一滴をきっかけに、溜まっていた涙があふれだし、鼻水が流れだし、わたしの頬は、しとどに濡れた。わたしは、グランマのお陰で、悩んでいる自分を認めることが出来たし、恋患いが多いという習性を納得出来たし、嬉しかった。安心することが出来た。しかし、何より嬉しかったのは、グランマが、わたしにそうさせてくれたことだった。悩みの暗闇から、救いの明るみへと、脱け出せるよう導いてくれたことだった。

 わたしは、晃ちゃんを思い出した。二人共、恋の相談の相手であるが、グランマは、晃ちゃんと違った。その違いは、明らかなものだった。晃ちゃんには、同じ水の妖精として、また幼馴染として、信用出来るし、頼れもするが、彼女は、わたしの打ち明ける悩みに、あまり共感はしてくれなかった。ちゃんと耳を傾けてくれるし、頷いてくれるが、性格のくっきりした違いのせいか、晃ちゃんは、わたしの悩みの一部は理解出来ても、全部までは、難しかった。それは、仕方のないことだと思うし、別にわたしは、そのことについて、ぜんぜん不満ではない。彼女は、わたしの悩みを経験しておらず、そのせいで、よく知らないのだ。彼女は、それでよい。晃ちゃんは、好きな友達だし、水の妖精の仲間だし、きっとこれからも、わたしは、悩みを抱えた時、彼女を頼りにすると思う。

 グランマは、わたしの悩みを知っていた。そうしてわたしの悩みに、共感してくれた。過去にわたしと同じ経験を持ち、同じく苦しんだようで、わたしの悩みに対して、理解力を持っていた。

 彼女は椅子を降りて、哀しむわたしを、正面よりそっと抱擁してくれた。

 グランマの励ましの言葉は、わたしの耳にずっと余韻を響かせ、その温もりは、まだ冷めずに、全身に生き生きと残っていた。わたしは、グランマの言ったように、素敵な淑女に、立派な水の妖精になろうと思った。早くそうなりたいと焦がれた。

 布団の中のわたしは、窓の外の夜空に散らばる星あかりを、ぼんやり眺めた後、さっぱりした気持ちで、明日の練習も頑張ろう、グランマのために精進しようと、そう意気込んで、安らかに眠りに就いた。


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