――それは忘れもしない10年前の出来事。
その日、第一管理世界《ミッドチルダ》の首都、クラナガンは未曽有の混乱のまっただ中にあった。昨今世間を騒がせている謎のテロリスト集団「影の教団」が時空管理局に宣戦布告。この日にクラナガンを襲撃すると宣言し、市街地での戦闘を予測して地上本部はクラナガンに住む住民を避難させようと計画していた。しかし、それは「教団」が思い描いたシナリオ通りの展開で、管理局を効率よく排除するべく避難しようとしていた住民を拉致。これにより人質を取られた地上本部は防戦一方となってしまい、多くの武装隊員が重傷を負ってしまった。
これにより、当時の地上本部トップは頑なに拒んでいた本局武装隊の増援を認める他なく、エースと称される優秀な魔導師が多数投入されことによってテロは鎮圧の方向へと向かっていった。
「にげ……なきゃ……」
住民が拉致され、監禁されている施設の一つ、数年前に廃業した養護施設の中を一人の少年が足音を殺して歩いていた。この施設では「教団」によるある実験が行われており、拉致された被害者はその実験の犠牲となり、命からがら実験場から逃げ出した少年以外は既に息絶えていた。
ただ一人の生き残りとなってしまった少年はまだ幼く、学校に通い始めているかどうかといった年齢であるのは明らかで。そんな少年が悲惨な実験現場を見て正気を保っていられたのは奇跡かもしれない。だが、まだ安心はできない。「教団」の構成員が見張っている出入り口からは出られそうにもなく、だからといってどこかに隠れていてはいずれ見つかってしまう。まだ幼い少年なりに必死に考えた生き残るための術は、誰にも見つからずにここを脱出することだ。
「うっ……」
脳裏によぎるのは見知らぬ犠牲者の最後の光景。血みどろになった死んでいく初老の男や、全身を黒く変色させて消滅した少女など、見せつけられた絶望がトラウマとなって少年の心を傷つけていく。だが、彼に立ち止まることは許されていない。立ち止まったとき、彼は研究者に見つかって最後の実験台にされてしまうだろう。
重い足取りで進む少年はやがて、トイレの上にある大きな窓に目をつけた。子供一人ならなんとかくぐれそうなそこには、幸運なことに鍵が掛かっていない。
――ここしかない。
少年は閉められた便器の蓋から窓へとよじ登ろうとするが、身長が足りなくて登れそうにない。それでも彼は諦めず、精一杯背伸びをし続ける。心に深く刻まれた生き残るという意志。それだけが今の少年を突き動かしていた。
「やった!」
努力は実った。手がなんとか窓の縁に届いたのだ。少年はそのままなんとかよじ登り、窓を潜り抜ける。脱出することができた、そう思った少年を待っていたのは――
「おめでとー、ぼうや」
「え……?」
脱出した彼の目の前にいたのは、そこにいるはずのない「教団」の構成員。人を馬鹿にしたような邪悪な笑みを浮かべるローブ姿の男はまるで少年がここから脱出するのを知っていたかのようで、少年はただ混乱するしかなかった。
「なんでここにいるのか分からないって顔してるねぇ。おにーさん親切だから教えてやるよ。ぼうやは偶然窓が開いてると思ったあの窓な、おにーさんがわざと開けてたんだよ。その絶望に染まった顔が見たくてさぁ」
まだ幼い彼には絶望などという言葉の意味を理解できない。だが、男にそんなことは関係ない。重要なのは脱出ゲームがつまらない結末を迎えたことと、少年がとてもいい具合に負の感情に染まったことなのだ。
「さぁ、最後の実験を始めよう」
そう言って、男が指を鳴らした瞬間。少年の四肢は漆黒の禍々しい光を放つ輪に拘束された。魔導師が対象を拘束する際に用いられるバインドと呼ばれる魔法だ。人を見下したような笑みを顔に張り付けて一歩、また一歩と男が近付き、壁際に倒れ込む少年に手を伸ばす。
そのとき、彼は諦めていた。もう無理だと。助かる見込みはない。誰かが助けに来てくれる可能性もゼロに等しい。あの動かなくなった人たちと同じ末路を辿るのだと。
「なぁに、痛くはないさ。それを感じる間もなく……ぐおっ!?」
故に、何が起こったのか、理解できなかった。ただ、少年の目の前まで迫っていた男は突如背後から強い衝撃を受け、壁に叩きつけられた事実だけ。
「良かった、間に合ったようだね」
先程まで目の前まで迫っていた男のせいで見えなかった視線の先、そこには右手には漆黒の、左手にはこちらに照準を向けた純白の双銃を構えた一人の青年が立っていた。未だ何が起こったのか理解できていない少年の様子に苦笑を浮かべ、
「遅れてごめんね。助けに来たよ」
言葉と同時に放たれた二つの魔力弾。一つは少年を拘束するバインドを打ち破り、もう一つは少年の背後から襲いかからんとしていた白衣の男の体に直撃し、老朽化の進んだ壁を貫いて倒れる。そこからピクリとも動かないことから、完全に意識を失ったようだ。
「あの……人は?」
「意識を失ったみたいだね。それより、大丈夫かい?」
「うん……」
「そっか。じゃあ、少し歩いたら管理局の優しいお姉さんがお父さんとお母さんのところに連れて行ってくれるから、そこまで一緒に行こうか」
笑顔でそう言って、青年は少年に手を差し伸べる。恐る恐るその手を握り、人の体の温かさに触れて、彼はやっと本当の意味で助かったのだと分かり――
「う、うぅ……」
「わっ、どうしたんだ?どこか怪我してるのかい?」
「わぁぁぁぁぁぁぁぁん!!」
今まで押さえつけていた恐怖、助かったという安心感。いろいろな感情がごちゃ混ぜになって。少年はそれから暫く慌てる青年をよそに泣き続けた。
――そんなことがあって、僕は思ったんだ。いつか、あの人のように、誰かを守れる。誰かを救うことができる強い魔導師になるんだって。
――魔法少女リリカルなのはStrikerS ASUKA、始まります。
新暦75年、4月。ミッドチルダの廃棄都市街区の中にある廃ビルの屋上に一人の青年が立っていた。癖っ毛で外側にハネた黒髪に真紅の瞳の青年は、モスグリーンのロングコートに白いシャツ、チャコールのミリタリーパンツというデザインのバリアジャケットを纏い、右手に銀色の銃を握ったまま左腕に巻いた腕時計に視線を落としている。時折、そのデザインに不釣り合いな機械的な足甲を地面にトントンと叩き、何かを待っているような様子だ。
『後数分もしないうちに時間だ。準備はよろしいか、ユーザー』
「大丈夫だよ、フルクラム」
握った銃――彼のデバイスであるフルクラムから聞こえる低音の男性型電子音声に頷く青年は何気なく空を見上げる。今日は春という季節にふさわしく、青空が広がっている。まさに絶好に試験日和だろう。
そんなことを考えながら、視線を再び腕時計に戻した瞬間、青年の目の前に空間投影型のモニターが展開され、一人の少女を映し出した。
「おはようございますっ。魔導師試験の受験者さんですか?」
「はい」
「では、確認しますね。時空管理局陸士108部隊所属の、アスカ・フィルダー二等陸士」
「はい!」
「所有している魔導師ランクは陸戦Cランク、本日受験するのは陸戦魔導師Bランクへの昇格試験で間違いないですか?」
「はい、間違いありません」
「はいっ。本日試験官を務めますのは私、リインフォースⅡ(ツヴァイ)空曹長です。よろしくですよ~」
「よろしくお願いします!」
目の前のモニターに映し出されている水色の髪の少女の言葉に青年、アスカは敬礼を返して答える。見た目は若干幼くとも上官に変わりはないので、失礼があってはならないという当然といえば当然の考えによるものだ。
「フィルダー二士はここからスタートして、各所に設置されたポイントターゲットを破壊。あっ、もちろんダミーターゲットは破壊しちゃだめですよ?妨害攻撃に気をつけて、全てのターゲットを破壊!制限時間内にゴールを目指してくださいですっ。質問はありますか?」
「ありません」
「では、スタートまで後少し。ゴール地点で会いましょう、ですよっ」
最後にウインクをする少女を映して、モニターはアスカの前から消え去った。その様子に忙しい人だな、などと考えている暇もなく、彼の目の前に試験開始まであとわずかだと知らせるシグナルが現れ――
「GO!」
シグナルが消え、試験開始の合図と共にアスカはターゲットの反応が多数確認された前方の廃ビルに向かって走り出す。そもそも、助走距離があってもただの跳躍では届くはずもない距離にあるビルにここから向かうのは、陸戦魔導師の彼にとってメリットのない行為に思われるが、アスカは何か考えがあるのか、むしろさらに速度を上げ、屋上の縁の柵を蹴って空へと踊り出る。
「フルクラム、カートリッジロード!」
『Load cartridge.Boost on.』
その声に、右手に握られているフルクラムの銃身部分がスライド。腕に伝わる確かな振動と共に一発の空薬莢が排出され。瞬間、アスカの足を覆う装甲が展開しブースターが展開、同時に両肩に現れたブースターから吐き出す空色の魔力が彼の体を空中に引っ張り上げた。
「……見えた!」
前方にそびえ立つ廃ビルの屋上、そのすぐ下のガラスすら残っていない窓の残骸部分に破壊目標を姿を捉えたアスカは漆黒の小銃を構え、しかしこの距離では魔力弾が届かないことに気付く。上昇に比率を多く割いてしまい、想定していたほど飛行距離が伸びていなかったのだ。
「まずっ!?」
『ブースターの方向修正は気を付けろといつも言っているはずなのだがな……呆けている暇はない、このままでは地面に直撃だ』
「分かってるよ!もう一回、カートリッジロード!」
『全く、困った男だ』
いかなる時も冷静な愛機に指摘され、ブースターを再起動。ただし、その方向は真正面の窓ガラスに突撃するコースを取っていて、いつもながらの突撃思考にフルクラムは聞こえないように溜息を吐いた。
「うぉぉぉぉ!」
体を丸め、窓ガラスをぶち破って勢いよくビルの構内に突入したアスカを待ち受けていたのは十数機の試験用スフィア。球体の中心からは小さな砲口が取り付けられていて、これが試験官の言っていた妨害攻撃型だと理解した、その瞬間。砲口が一斉にこちらを向き、その先端に青い光が見え、
「遅いよ」
それより早く、フルクラムから放たれた弾丸がスフィアを一機残らず撃ち抜いた。突入した瞬間にスフィアの位置を把握し、目にも止まらぬ速さでそれら全てを破壊してみせたのだ。射撃型の中でも少々特殊な彼が他の射撃型魔導師と互角に渡り歩くために何年も鍛え続けているその技術がただのスフィア程度に遅れを取るはずもない。
『進路クリア。だが、予定した着地地点より低いせいでタイムロスが発生している』
「ああ、急ごう」
屋上の一つ下の階に設置されているターゲット、構内に突入する直前、外で見たそれを破壊すべく階段を上る彼の目の前に先程破壊したスフィアが10機、密集して現れた。
先と同じく一機ずつ撃ち抜くとその分無駄な時間を食ってしまう。この状況を視認したとき、アスカが取る策は一つに絞られていた。
「バレルチェンジ、バーストバレル!」
『チェンジ・バースト。拡散魔力弾、セット』
声を張り上げ、頭上に掲げたフルクラムを彼の魔力光と同じ空色のミッドチルダ式魔法陣が通過し、その姿が変化する。伸びた銃身とそれに伴い強固になった外装、二つに増えた銃口。変形したフルクラムを両手で構え、目の前に立ちはだかるスフィアの壁に引き金を引く。バーストの名の通り至近距離で弾けた弾丸がスフィアをぶち抜き、爆散する前に中央を突破して屋上へと急いだ。残り試験時間はまだ余裕がある、問題はない――はずだった。
「痛っ……厄介な相手だな……」
その後も順調にスフィアとターゲットを破壊し続けたアスカだったが、いよいよ残すターゲットは後一つ、というところでどこからか放たれた狙撃弾が右足に掠め、、ダメージを負いながら物陰に避難するしかなかった。幸い、フルクラムが狙撃位置を特定したため、スフィアの位置を把握できてはいるのだが、防御を貫いたその狙撃によって右足はほぼ使えそうになかった。
『どうする、ユーザー。今回は運が悪かったと諦めるか』
フルクラムから告げられたのは提案ではなく確認。アスカの状態と敵の能力から判断すると今の彼に勝てる見込みはほぼない。故に、合理的に考えれば今回は諦めることが得策といえるだろう。
「冗談。お前だって気付いてるよね、フルクラム。まだ手はある」
だが、アスカは痛みに耐えながらニヤリと笑う。得策でもなければ賭けのような一手だが、彼にはまだ一手だけ残されているのだ。悪手としかいえない、愚直過ぎる切り札が。
『分かった。今の所有者はお前だ、私はお前に従うまで』
「ありがとう、フルクラム。じゃあ――行こうか!」
痛みを忘れたわけじゃない。今も右足は痛いけど、そんなことは無視する。強くなるんだ、あのとき心に刻んだ思いは、こんなことじゃ折れはしない。だから、少しくらいの無茶くらい、成功させてみせる!
「フルクラム!カートリッジフルロード!」
『Load cartridge.Boost on.Spiker set!』
リロードし、マガジンに込められた10発のカートリッジ全てが地面に落ち、乾いた金属音を響かせる。同時に足のバーニアと肩のブースターが展開。魔法陣を通過したフルクラムの銃身から太く鋭い刃が出現する。
『カウント開始。5、4……』
カウントダウンが始まる。この賭けに勝つことができれば全ターゲット破壊も制限時間以内のゴールも可能だが、負ければ手痛い反撃を食らい、そのまま試験不合格となる。そのせいか、緊張で心臓の鼓動が早まるのを感じながら、少しでも落ち着くように目を閉じて息を深く吐いた。
『3、2……』
目を見開く。肩と足に装備した装甲から力が伝わってくる。もう、迷っている時間はない。
『1……』
覚悟は決まった。後は、このまま一気に――駆け抜ける!
『「GO!」』
その衝撃に彼が身を潜めていた瓦礫が弾け飛び、空色の弾丸と化したアスカがビルに突入したときとは比べものにならない速度で飛び出す!高速で迫る対象を察知したスフィアはすぐさま対象に照準を合わせ、先ほど彼に大きなダメージを与えた魔力弾を放つが、アスカの脅威的なスピードに弾速が追い付かない。
脅威的なスピードの空色の弾丸はそのままスフィアが設置されているビルの中に突っ込み、90度の急激な方向転換により真っ直ぐ上へと突き進む。
「うっ……!」
『無理をし過ぎだ。倒れても知らんぞ』
「これくらい、どうってことないよ……!」
ぐにゃりと一瞬だけ視界が歪む。最低限の保護フィールドだけでは方向転換時の衝撃を殺し切ることができず、そのダメージが彼を襲ったのだ。だが、アスカは止まらず上昇を続ける。もともと防げると思っていないのだ。余計なことは考えず、今はただ上を目指すだけ。
次々とフロアをぶち抜き、遂にスフィアを下からかち上げることに成功する。だが、刃が貫いたのは全体を覆っていたバリアと一部の外装のみ。スフィアを破壊するには至っていない。アスカの賭けは失敗した――かのように見えた。
「掛かったね」
肩で息をしながら、それでも彼はニヤリと笑う。人間ならばその様子に何か感じたかもしれないが、相手は機械仕掛けの砲台。故に、スフィアは気付かなかった。賭けはアスカの勝利で終わっていたことに。
『Joker steak.』
「ジョーカーステークッ!!」
轟音と共に放たれたのは切り札の名を冠した刃!バリアの内側で深々と突き刺さったそれは引き金を引いた瞬間、爆発的な加速で対象を撃ち貫く!
「吹き飛べッ!」
スフィアの急所を的確に貫いた刃がもう一度引かれた引き金に連動して高速でスライド。その衝撃で吹き飛んだスフィアは火花を散らしながらビルの外壁をぶち抜いて宙に投げ出され、そのまま落下することなく爆散した。
その様子を見つめていたアスカは、破壊されたことを確認して膝から崩れ落ちる。分かっていたことだが、全力を注いだあの一撃はやはり体力と魔力を著しく消費する。正直なところ、今すぐにでも倒れるように眠ってしまいたいほどの疲労感に襲われているのだが、まだ試験は終わっていない。
「はぁ……行こう、フルクラム。ゴールまでもうすぐだ」
『途中で倒れてくれるなよ』
「そんなヘマはしないさ……」
極度の疲労でうまく動いてくれない足で、それでも少しでも早くゴールに着くことができるように。アスカは再び歩き始めた。制限時間はまだある、多少歩みが遅くなっても充分間に合うだろう。そして――
「試験終了ですー!」
最後のターゲット、特に妨害手段のないただの破壊対象を撃ち抜き、ゴールラインを通過して三歩ほど歩いたところで力尽き、地面に座り込んだアスカの目の前にスタート前に見た試験官――のミニチュアのような少女が現れ、彼の試験の終わりを告げた。
「え……?」
「どうしたんですか、フィルダー二士?」
「い、いえ……なんでもないです」
かわいらしく首を傾げる少女を見て、アスカは目の前の小人のような少女がリインフォースⅡなのだと理解した。つまり、彼の試験は終わったのだ。
「やっ……たぁ……」
「フィルダー二士!?どうしたんです……って、寝てるです」
ようやく終わったという安心を得て緊張の糸が緩んだのか、アスカはそのまま地面へと倒れ込み、静かな寝息を立てて眠りについてしまった。かくして、アスカはBランク試験を無事に終了させることができたのだった。