【――Side on Asassinaters――】
コーヒーの味わい深い香りが宙を漂い、誘われるようにアサシンが顔を上げ、赤紫の目を向けてくる。
眠たげではあるが、いつものことだ。綺礼はアサシンの前にカップを置いてやり、自分用にはやや濃く淹れた物を用意する。
「…………」
テーブルのカップに顔を近付けたアサシンが、白く立ち昇る香気にどことなく幸せそうな無表情で目を細める。だが堪能した直後、隠し持っていたらしいチョコレートの塊をぼちゃんと投入。ぐるぐるかき混ぜて溶かす作業に没頭する。
コーヒーの匂いだけは好きなようだ、と綺礼はまた一つアサシンについて学んだ。
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遠坂時臣が目論見通り最強のサーヴァントを引当てた翌朝、空もまだ暗い内に綺礼は璃正と共に遠坂邸を辞し、一旦冬木教会へと移動した。初老の璃正に徹夜は堪えたらしく、しばらく奥の寝所で休むそうである。
父を送り届けたのち、綺礼は自らの拠点へと車を移動させる。未遠川の下流近く、遠坂邸とも冬木教会ともおよそ等距離にある土手沿いの空き物件。元は酒造業の工場だったのか、戦闘に耐え得るほどスペースを取った空っぽの工場と、母屋にはワインセラーと思しき地下まで備え付けられていた。
一応工房を敷設したものの、綺礼は魔術の探求に興味がない。結界の維持と時臣との通信ぐらいにしか、今のところ利用価値はなかった。
二階建ての母屋でアサシンと向かい合い、コーヒーで眠気を追い払った綺礼は口を開く。
「今後の話だが、アサシン。以前語ったことは覚えているか?」
「…………どれ?」
「契約の時、お前に語ったことだ」
声を潜めた綺礼に、アサシンがかき混ぜていた手を休め、傾聴の姿勢を取る。
それは契約を交わした夜に取り決めた内容だ。聖杯戦争が始まる際、綺礼と時臣は師弟関係から決別し敵対した――という偽情報を流し、裏では変わりなく癒着した状況を整えた。そもそも綺礼が聖堂教会から魔術協会へ出向し、時臣の下で魔術を学んだのは、聖杯戦争で時臣に協力するため。何年も前からの予定を実行しただけである。
しかしその理屈を馬鹿正直にアサシンへ説明してしまえば、綺礼の首は瞬きの時間も許されず胴体と泣き別れることになる。
本来、サーヴァントにとって己のマスター以外はすべからく敵だ。あらゆるサーヴァントは聖杯を求め、万能の願望器に望みを託して現界する。一時の同盟を容認しても、いずれ滅ぼし合い激突する定めにある。確たる願いも無く聖杯戦争に参加している綺礼が異常なのだ。
アサシンの願いが何かは聞いていない。だが召喚の呼びかけに応えた以上、聖杯を求めているのは疑いようがない。だからこそ綺礼はアサシンを納得させるだけの理屈を必要とした。
それが時臣・アーチャーの火力ペアと、綺礼・アサシンの裏方ペアによる分業体制。矢面で戦う者とバックアップする者、互いに足りない部分を補い合うという同盟だった。
加えて、アサシンを時臣に引き合わせる際、こう耳打ちしてある。
『私は、いずれ師を裏切る』
それまで精々、利用するとしよう、と。
高潔な騎士相手には通じない手段だった。だが汚れ仕事を厭わぬアサシンならば、裏切りを前提とした協力体制に不満を持つことなく歩調を合わせるだろう。そういう目論見があった。そして事実、多少扱いに難のあるものの、時臣の召喚したサーヴァント・アーチャーとは比べるまでも無く御しやすい。
その論理は、綺礼がアサシンの正確な能力を秘したことで真実味を増した。筋力などのパラメータはそのまま伝えたが、固有スキルと宝具については事実を伏せた。――でなければプライドの高い時臣の面目を潰してしまう。綺礼が引き当てたアサシンは、その能力までもがイレギュラーに過ぎた。
潜入・隠密に優れたサーヴァント、調査・索敵に特化した宝具――という、偽証。アサシンにもそう振る舞うよう言い含めている。時臣の顔を立てると同時に、アサシンを納得させるためだった。……師に隠し事をしている事実は変わらないが、これも師のためであると綺礼は自分を誤魔化している。
まるで二重スパイだが、上手くやるしかない。
「これよりしばらくは情報収集に専念する。鞘当て程度ならばまだしも、宝具――特にお前の“能力”を使った戦闘は許さん」
「…………衝撃波は?」
「必須でない限り使うな。時臣師と事を構えるまで手札の温存を心掛けよ」
「…………先に、全員、赤くするのは?」
茫漠とした赤紫の瞳が、血塗れた殺意に蕩ける。眠たげな無表情をほとんど動かさないまま、恍惚とした殺戮への喜びが滲んでいた。これで精神汚染スキルを持っていないのだから世の中は不思議で満ちている。
殺せるだろう、このアサシンならば。
贔屓目なしに、極めて客観的に綺礼は断じる。誰がどんなサーヴァントを引き当てようが無意味だ。十重二十重の結界も万夫不当の守護者もアサシンは意に介さない。全てをすり抜け、世界の裏側からマスターだけを
有り得ざるイレギュラー。
招いた瞬間に勝利を約する例外中の例外。
故にこそ、勝利を求めぬ綺礼は慎重に慎重を期し、言葉を選ぶ。最悪礼呪を消費する羽目になろうと、答えを間違えれば綺礼の
だが案ずるなかれ。チェスでポーンがクイーンに昇格するように、何ら価値を感じていなかった駒が切り札と化すこともある。
綺礼はテーブルを回ってアサシンの肩を叩き、耳元で悪魔となって囁いた
「聖杯戦争の早期終結。それは即ち、お前が拾って来た娘を楽しむ時間も早く終わるが、それでよいのか?」
「バックアップ、頑張る」
ちょろい。
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【――Another side――】
畳敷きの居間で煎茶を啜りながら、もう十年も前なのかとセイバーは時の経過を思う。セイバーの主観からすれば、赤紫の少年と出会ったあの日からまだ一月も経っていない。
ほら、目を閉ざすだけで思い起こせる。
――眠たげな瞳に隠された、背筋が粟立つほどの狂気を。
「時期的に聖杯戦争の関係者と見て間違いない。多分、サーヴァントだ」
書斎。
奇妙な箱型の絡繰が置かれた部屋で、セイバーは奇妙な感慨に囚われていた。
黒檀のテーブルに寄り掛かるような、座るような、中途半端な姿勢でぱらぱらと資料をめくる男はセイバーのマスター、衛宮切嗣に他ならない。
だが昼前の一件――鮮血色の外套を翻す少年に襲撃されてからというもの、それまで口を利くどころか視線さえ合わせようとしなかった切嗣の頑なな態度が、やはり奇妙としか言えない変貌をもって融解していた。
セイバーからすれば望むべき変化である。髪の一筋まで騎士であらんとするセイバーにとって、仮にもマスターと仰ぐ男が自分を無視し続けるのは不本意だった。腹立たしいまでに。
しかしこうして面と向かい合い、言葉を交わせる段に至ってセイバーは薄々と気付きつつあった。
この男とはソリが合わない。水と油。火薬に湿気。致命的に相性が悪いという、雲行きの怪しい事実に。
「……サーヴァントと断ずる根拠はあるのですか? 確かにあの相手は一時と言えど私に拮抗しました。取り逃がした身で何を言うかとお思いでしょうが、これだけは言えます――」
「あの敵から、サーヴァントの気配は感じなかった?」
台詞を先回りされ、む、とセイバーは口を噤む。
切嗣は資料をめくる手を止めて、セイバーをまっすぐ見つめた。
「確かに僕から見てもあの少年にサーヴァントと断定できる証拠はなかった。マスターとしての透視力も働いていない。だが君の言う通り、彼はセイバーとまともに打ち合って、傷一つ負うことなく逃げおおせた。……分かるかい? 君と、騎士王と正面から戦って、無傷で撤退できる人間がサーヴァントのほかに居るなんて、僕は考えたくもない」
「……意外です。あなたが、私をそれほど高く評価していたとは」
一つ一つ言葉を選び、慎重に返した。
またいつ因縁を吹っかけられるか分かったものではないのだ。召喚に応え馳せ参じたセイバーが女で、年端もいかぬ少女だった、ただそれだけの理由で無視を決め込まれた理不尽は記憶に新しい。
「そう構えないでほしい……と言っても難しいだろうね。まずはこれを見てくれ」
資料から抜き取られた数枚の紙を受け取り、そこにプリントされた写真を目にした瞬間、セイバーは怜悧な眉を曇らせた。
「言峰綺礼……聖杯に選ばれたマスターの一人ですか。嫌な目をしている」
「目?」
「正常から外れた人間の目です。どんな壊れ方をしたのかまでは分かりませんが、私の時代でも何度か見かけました。この男は、危険です」
「王としての観察眼とやらかい? とは言え、僕も同意見だ。こいつはきっと僕達が聖杯戦争を戦い抜く中で最大の敵になる。付け加えると元教会の代行者――即ち、黒鍵の使い手でもある」
なるほど、とセイバーは呟いた。
「話が見えてきました。あの少年との関連性を疑っているのですね?」
「杞憂ならいいけどね。……一通り見て回ったけど、壊された結界は一つもなかった。敷地内で戦闘までしたというのに、敵の侵入にも脱出にも城の魔術師は誰一人気付いていない。異常だ」
結界を無為と化す――うすら寒い感覚がセイバーの背筋を伝い落ちる。それはつまりどれほど厳重な警戒網を張り巡らせても、気付かぬ内に指呼の間合いに踏み込まれることを意味する。最悪、寝首を掻かれる恐れすらある。
だがそこで一つ、疑問が生じた。
「なぜ……敵はわざわざ姿を見せたのでしょう」
大仰に切嗣が頷く。
「そう、そこが分からない。あれだけ気配を隠し通せるなら、僕を後ろから刺すぐらい何でもないことのはずだ。だがそうはせず、姿を晒す危険まで冒して、その上適当に戦っただけで引き上げていった。一体何が目的なんだ?」
「……」
自問の体をなす切嗣の言葉に考え込む振りをして、セイバーは少年との戦闘を思い返した。いや、あれは戦闘ですらない。あの少年は実力の片鱗さえ覗かせないまま、ゆらゆらと掴みどころなく、押しては引き、引いては返し、雪上に赤の残影を曳きながら、一合さえ打ち合わず立ち去った。
『…………すごい』
投げ打つ端から回収し、尽きせぬ飛刀の群舞を浴びせかけていた少年は、その悉くを打ち払うセイバーに感嘆を漏らす。
『ちょっと…………当たる気、しない』
『ならば来るがいい。幼子までも狙う貴様の腐った性根であろうと、その刃、ともすればこの身に届くやもしれんぞ』
『…………』
これまでのように、少年が眠たげな無表情で沈黙する。
元来、感情表現が豊かでないか、苦手なのだろう。寡黙とはまた違う手合いだが、じっとしているとまるで置物のように自然と気配が消えてしまう、奇妙な相手だった。こうして見合っている今でさえ、ふとした拍子に背景と混同してしまいそうな透明感があった。
やりづらい。じりじりと間合いを推し量りながら、胸の内で呟く。
強い弱い以前に、戦いづらい。剣の届く距離に決して踏み込まず、間合いの外から刀剣をばら撒き、切嗣へ繋がる門の前から動く訳にもいかないセイバーがじれったくなるほど、徹底した戦いぶりだった。
……それに、こいつはどこかおかしい。
何が、と明確に説明できるほど掴めている訳ではないが、少年が動く都度、あるはずの物がないような違和感を覚えてならない。それは陰影を描き忘れた写実画のような、些細だが決して無視し得ない物のはずだった。
……何だ。私は、何を見落としている?
門を守る都合上、待ちの構えを崩さず観察するセイバー。見合いに飽きたのか、少年がゆらりと動き、雪を踏んだ。降り積もった氷の結晶が踏み固められる、ザクッという音が…………音……が?
瞬間、戦慄と共にセイバーは悟る。
『……貴様、“足音”をどこに置き忘れた?』
ぴたり。
しまった、と言いたげに無表情を僅かに崩し、少年が固まる。
赤紫の少年が初めて見せた隙であった。だが当のセイバーはその隙を見逃さざるを得ないほど、激しい困惑の裡にあった。
それは少年が立ち去ったのち、切嗣と話し合う中でも言及されたことと同じ。衛宮切嗣、あるいはアインツベルンの縁者を狙いながらそれを成さず、わざと失敗するかのように振る舞う目的が全く見えて来ないためであった。少年が聖杯戦争の関係者であろうとなかろうと、確実に始末できる人間をわざわざ見逃し、こっそり侵入したはずの城に警戒をもたらす理由など果たしてあるのだろうか?
この賊は、ここで倒しておくべきだ。
決意も新たに、セイバーは聖剣を構え直す。追い払うだけでよいなんて甘い考えは捨て去る。今ここで仕留めねば、この聖杯戦争において最大の禍根を残すこととなる。直感がそう囁いていた。外れたことなど無きに等しい騎士王の勘だ。己の勘を、セイバーは信じる。
最悪宝具を解き放つことになろうとも、今後少年に狙われ続ける可能性を考えれば、森の一部を焦土に変えるぐらい安い代償だ。アインツベルンの魔術師には苦い顔をされるだろうが、そこは切嗣に頑張ってもらうとしよう。
召喚されてからこちら、先を除いて無視し通しだったマスターが弁明に苦慮する様を思い描き、溜飲を下げる。その間隙を狙った訳ではないだろうが、少年が自分の失敗を反省するように吐息して、両手の刃物を懐に収めたのは同時だった。
すわ逃げる気か、と眼光の鋭さを増すセイバーに対し、無表情を取り戻した少年が口を開く。
『名前』
『……何?』
『名前…………教えて』
『卑劣な賊の身で騎士に名をせびるか? 貴様から明かすのが筋だろう』
『僕は、ファン。ファン・イルマフィ』
一瞬、セイバーは動きを止めてしまう。意外な返答に、呆気に取られたのだ。
しかし駆け引きの末に得られた情報ならまだしも、これほどあっさりと告げられると信憑性は乏しい。それ以前に一人の英霊として、セイバーは少年の名に覚えがなかった。
『……その名乗りが真であったとしても、今の私に許された名はセイバーというクラス名だけだ。それ以上は言えん』
『じゃあ…………無理には、聞かない』
でも、と少年が続け、
『別のもの、もらってく』
刹那。
赤紫色をした眠たげな瞳が、目と鼻の先にあった。
『――っ!?』
一切の予兆を置き去りに、剣の間合いすら抜けて素手の領域に踏み込まれ、だが反射的にセイバーが選択したのは後退ではなく前進だ。現代風の衣装を纏う少年に甲冑を着込んだセイバーが衝突すれば、それだけで凶悪な武器となり得る。
正統なる騎士の決闘のみならず、実戦の中で身につけた泥臭い戦い方だった。好んで使うものではないが、とっさの判断としては最良と言えただろう。
その相手がファン・イルマフィでさえなければ。
(――な!?)
相手の踏み込みに合わせた“体当たり/チャージ”。敵が咄嗟に思いとどまったとしても、力学的なエネルギーを考慮すれば身を捻る余裕さえないはずのタイミングだった。
だが激突の瞬間、セイバーが感じたのは衝撃ではなく、羽根に包まれるような柔らかさ。そのまま背中に手を回され、セイバーは自分が抱き締められていることを知る。
傍から見ればセイバーが自分から少年の胸に飛び込んで行ったような光景だった。
何かを考える時間はなかった。反射が生じる間さえなかった。
須臾の狭間で、瞳に映る少年の赤紫。鼻が擦れ合う近さ。
まるで予定調和のように、セイバーの唇を柔らかいものが塞いだ。
『ッ!?!?』
脊髄の命令で全身から放出した魔力の奔流を先読みしたが如く跳び離れた少年に、セイバーは唇を拭いながら震える剣先を向ける。
『な……なん、何の真似だっ!!』
『キス』
身も蓋もなく言われた事実にかっと頬が熱くなる。
『…………顔、赤いよ?』
『この……っ!』
『ちゃんと…………女の子♪』
くふふ、と笑いながら身を翻し、森の奥へ駆けていく少年。
セイバーは追わなかった。騎士であらんとしながら、たかが粘膜の接触程度で動揺した自分にはらわたが煮えくり返って仕方なかった。
遠ざかる背中に向けてエクスカリバーを撃つべきか否か、大真面目に検討するほどに。
「……屈辱です」
「うん?」
「いえ」
なんでもありません、と顔を上げた切嗣にセイバーは素っ気なく返す。
無意識に、唇を拭いながら。