天井から滴り落ちたしずくが頬を叩く。
小さな感触――だが、満潮はぼんやりと宙空を見つめるだけでそれに一切気付かなかった。
「……こんなの、ドック入りにはまだ早いわ」
誰にも聞き耳をたてられることのない少女の呟きは、ドックを薄く曇らせる水蒸気の中へと消えていく。
◆ ◆ ◆
遠征からの帰り道、小規模な深海棲艦の部隊と遭遇した。小型の駆逐艦が二隻と最初に発見した満潮はその旨を報告して、交戦無用の判断を下した。敵艦とは距離が随分離れていたし、向こうも積極的に交戦を仕掛けてくる様子も無い。それに、遠征の復路で燃料の残量も心配だった。
満潮が所属する第八駆逐隊はどれもちびっ子だが交戦意欲だけは旺盛で、敵艦と知れば全速で向かっていくだろう。だが陸地までは距離もあったし、洋上でガス欠なんて事態は考えたくない。
だから、旗艦の権限を以て、満潮は深海棲艦の無視を決め込んだ。
実際、その駆逐艦二隻は追ってこなかった。
朝潮も荒潮も大潮も不満顔だったが、これで良かったのだと納得させた。資源収集を目的とした遠征で入渠して資源を消費するなんて本末転倒は避けたかったのだ。
しかし――ホッとしたのもつかの間、間隙を縫って忍び寄っていた潜水艦タイプの深海棲艦に死角から雷撃されて、あろうことか、満潮が被雷した。
幸い被害は致命的ではなく中破程度で済み、直後に朝潮たちによって敵潜水艦は撃沈。やり過ごした駆逐艦が追ってくることもなかったものの、鎮守府へ帰投の後、提督の命令で満潮はドックに放り込まれた。
残りの三名は補給を済ませた後、もう日が変わるような時間帯にも関わらず、満潮抜きの編成で次の遠征へと出発することになった。
致し方ないとはいえ、文字通りの置いてけぼりだった。
◆ ◆ ◆
「じゃあ鍵はここに置いておきますね、お疲れ様です」
「はいよ。お疲れ、大淀さん」
鎮守府正面の内海に突き出した数ある桟橋の中でも、帰投した艦隊が接舷する桟橋は決まっている。被害の大きな艦があれば、緊急で処置が出来るよう、設備の整った船渠を併設しておく必要があるからだ。
船渠内の備品チェックを終え、職員に挨拶を済ませた大淀は自室のある寮へと戻るべく、建物内の廊下を歩いていた。ツンと鼻を突く鉄や油の臭いがいくらか薄れ、息苦しさがなくなっていく感覚に大淀は小さく息をついた。
艦娘候補、という立場の彼女には、軽巡洋艦の寮に住む権利は無い。半端者にはちょっと厳しい、しかし厳格な鎮守府のルールだ。船渠を出て、鎮守府を出て、隣接する職員用の寮へと帰る必要がある。
「あら?」
ふと、大淀は船渠の玄関前に設けられたロビーに灯りがついていることに気付いた。もう日を跨ぐようなこの時間、船渠には最低限の緊急要員を残して、あとはロビー付きの当直職員以外は誰もいないはず。
大型のテレビと、大の大人数名は余裕で座れる巨大なソファが置かれたロビー。ソファの手すりに半ばもたれかかるような格好で、小さな艦娘が座っていた。
「満潮ちゃん?」
半分眠っていたのかもしれない。艦娘――満潮はハッとした表情になって、大淀にその大きな瞳を向けた。
「な、なに?」
「なにって……」
大淀は言葉に迷った。どうして駆逐艦の艦娘が一人でこんなところにいるのだろうか。駆逐艦寮には門限があるし、当直の職員もそれは理解していて追い返すはずだ。
当直室を覗くと、職員は何食わぬ顔で新聞を広げ、湯気の立つ湯飲みに口をつけていた。
「もう寝る時間よ? どうしてここに?」
「フン、あんたには関係ないでしょ」
つれない返事に、大淀は小さく息を吐く。そして、思い出した。
つい数時間前に帰投した遠征部隊、その旗艦だった満潮がひとり中破クラスの被害を負っていたこと。彼女一人がドックへと連れて行かれ、残りの第八駆逐隊が再び遠征へと向かっていったこと。
「もしかして、待ってるの?」
「…………。」
満潮は答えようとしなかったが、逸らされた視線は眠そうではあったがどこか沈んでいるようでもあり、大淀は自分の予想が間違っていないことを何となく確信することが出来た。
「多分、夜が明ける頃にならないと帰ってこないわよ、みんな」
「…………。」
「寮の門限もあるし、明日は駆逐艦合同訓練じゃないの?」
「…………。」
「はぁ」
思わずため息が漏れる。どうやら大淀の言葉を聞く気もなければ、会話に応じる気もない様子だった。唐突に話しかけられては無理もないが、つれない扱いになんだかしょんぼりとする大淀。
「休息も準備の内ですよ。寮まで送るから――」
そこまで言って、やめた。
たかが艦娘”候補”である半端者の自分に、艦娘である満潮にどうこう言う権利は無い。それに、よく考えれば駆逐艦寮が建てられている区域に立ち入る権利も、大淀には無かった。なんとも物悲しい。やるせない虚しさが去来して、ますますしょんぼりとしてしまう。
大淀は何も言うまいと思い、立ち去ろうとして、ふとソファと共に置かれている足の短いテーブルの上に目を遣った。乱雑に置かれた雑誌の類はどれも船渠の職員が読むような男性向けのものばかり。満潮は読もうとして、結局興味すら湧かなかったのだろう。
こんなところに一人で、しかも暇つぶしの手段も無く、朝まで待つと言うのだろうか。未練がましくその表情を覗こうとしたが、伏せられた満潮の顔からは、何も伺うことが出来なかった。
「…………。」
大淀はきびすを返した。
玄関とは反対方向、当直室のドアを開けて、中へと入っていく。驚いた表情の当直と何やら二言、三言と会話と交わし、にっこりと微笑んでみせた。
◆ ◆ ◆
時計の分針と時針がそろそろ重なろうとしているのをぼんやりと眺める。
「眠そうね」
「っひゃ!?」
突然、頬に何かを押し当てられた。熱い、と感じる前に声が出て、続いて身体が反応した。なにかと見上げればまたあの女性――大淀がこちらを覗き込んでいた。
目の前に差し出されているものに目を向ける。白く無機質な印象のマグカップ。中に入っているのはコーヒーのようで、湯気に乗って香ばしい香りが鼻孔をくすぐった。
「……何の真似?」
なるべくドスを効かせたつもりだったが、眠気が勝って呂律が回らなかった。艤装を背負い、海上を駆けているうちは眠気とは無縁だが、いざ丘に上がってしまうとこの体たらくだ。まぶたが信じられないくらいに重かった。
「まだ朝まで何時間もありますよ」
大淀が言う。もう片方の手にもマグカップが握られていて、それがどういう意味を持つか満潮は一瞬理解が追いつかなかった。思考が巡り始める前に大淀は押し付けるようにマグカップを満潮に手渡し、その隣に腰を下ろした。
怪訝な表情の満潮を見ようともせず、大淀はカップに口を付けて「あっつ」と短く漏らした。口を尖らせてふぅふぅと息を吹き付けている。
「あの……大淀、さん?」
「飲まないの? 満潮ちゃん」
問われて、満潮はもごもごと口ごもる。大淀の顔とコーヒーの表面に揺れる自分の顔を交互に見遣って、少し迷ってからおずおずとカップに口を付けた。
「……熱い」
大淀はくすくすと喉を鳴らした。
「ホントにね。当直さんったら、ワシは熱いのが好きなんじゃ! って譲らなかったのよ。知らないって、ねぇ?」
「…………。」
「あぁ、当直さんね、間宮羊羹美味しかったって言っていたわ。買収とは、満潮ちゃんやるわねぇ。提督に見つかったらお冠よ」
当直が、満潮がロビーに居座ることに無視を決め込んでいる理由はそういう事情だったらしい。あんな可愛い子に贈り物までもらったらもう何も言えないんじゃあ、とは本人の言。呆れた話だが、厳しい規律の合間でこういう根回しも成立するのが鎮守府の裏の顔でもある。
「フン、その時はその時、共犯者だって言ってあの人を盾にするだけだわ」
鼻を鳴らし、傲然と開き直ってみせる満潮である。
「まぁ。駆逐艦って粗暴なのね」
「大きなお世話よ、軽巡洋艦見習いさん」
ふふ、と大淀は笑った。満潮は怪訝な表情になる。
「何がおかしいの?」
「私を軽巡っていう人、珍しいなって思ってね」
「別に。事実じゃないの」
「見習いっていうのも、事実だから。これでも結構気苦労してるのよ」
「あっそ、知ったこっちゃないわ」
コップをテーブルへと置く。静かなロビーにその音は意外に鋭く響いた。
「あのね、同情とかいらないから」
満潮は吐き捨てるように口にした。
「これはケジメよ。あたしだけ不甲斐なく被害を受けて、あいつらに遠征を任せて……ホント、みっともないったらないわ。だから待つの。あいつらが帰ってくるまで待つの。駄目って言われたって待つんだから」
細い足を組み替えて、満潮は述べた。胸の前で固く組まれた腕は、何人の意見も許さぬ拒絶の意思の現れか。頑固者が多いという駆逐艦だが、満潮のそれは筋金入りのようだ。
「そんなつもりはないわ」
大淀はカップをすする。いくらか熱さに舌が慣れた。コクリと喉を鳴らして、ふぅっと息を吐いた。
「不安なんでしょう?」
「なっ……」
一瞬、信じられないものを見るような眼が大淀を向いた。眼鏡の半人前軽巡艦娘は視線を返そうとはせず、コーヒーの揺れる表面をじっと見つめている。
「仲間が出撃している中、自分だけ待っているのが不安なんでしょう」
「そんなこと、ない」
満潮がそっぽを向いた気配を感じ取って、大淀は口元だけで笑う。
「じゃあ、とびきり優しいのね。満潮ちゃんは」
「っ……!」
涼やかな大淀の声に、満潮の眉が跳ね上がった。
「ねぇ、あんた喧嘩売ってるの!? あたしはあんたと喋る気なんか無いんだけど? 勝手に横に座って、分かったような口利いて、にやにやして……一体何様なのよ!?」
鋭い怒声がロビーに響き渡る。当直が何事かとこちらを覗き込んでいた。
「何度も言うけど、同情なら勘弁して。これはあたしが勝手にやってるだけなんだから。それとも何よ、将来艦娘になった時のためのコネ作りか何かなの?」
辛辣な言葉だと自分でも思ったが、譲る気にはならなかった。
「私も何度も言うけれど。そんなつもりじゃないわ」
飄々と答え、
「じゃあなんなのよ!」
大淀の笑みがわずかに深まった。
「待つことの辛さは、私もよく知っているから、ね」
「……!」
一瞬、満潮は吐き出そうとしたありったけの罵声を飲み込んだ。
――待つことの辛さ。
その意味を頭の中で巡らせ、呆然として、改めて目の前の女性を見つめる。
どこか疲れたような女性の表情。目元には隈が浮かんでいて、手入れを欠かさなければ美しくしなやかであるだろう、その漆黒の長髪はどこか乱れ気味。カップを握る指にはペンだこが出来ていて、インクで汚れた肌はカサカサに荒れているようでもあった。
艦娘と、艦娘候補には大きな隔たりがある。その隔たりを体現する者が、目の前にいる。
「あんた……」
「私だって待っているのよ。不安と期待と、悔しさと……色々な感情はあるけど、いまはまだだ、と言い聞かせて。ずっとずっと待っているの」
大淀の視線が満潮のそれとぶつかった。
「これも艦娘を目指した者の、ケジメだから」
十二時を告げるチャイムがロビーに鳴り響く。
◆ ◆ ◆
夜が明けて。
「あ、あんたたち、無事だったようね」
帰投した第八駆逐隊の面々に、満潮はたどたどしく声をかけた。
「満潮! 出迎えに来てくれたんですか?」
朝潮が喫驚した様子で寄ってくる。その後ろに続く荒潮、大潮も目を丸くしていた。
「あらあらぁ、可愛いところあるのねぇ。今日は槍が降るかしらね」
「ばっ、馬鹿言ってんじゃないわよ。大潮、私が居なくて大泣きしてたんじゃないでしょうね」
「それは大潮、心外ですよ! お二人の背中はこの大潮がきっちりお守りしましたから!」
「大潮は立派でした。満潮が居ないのは確かに不安だったけれど」
「フ、フン。これで私の必要性がよく理解できたでしょ。次からまたビシビシ行くから」
「怖いわねぇ。満潮こそ、みんなが居なくて寂しかったんじゃなぁい? 泣いてなかった?」
「うっさいわよ! んなわけないでしょ!?」
「満潮さんたら、耳真っ赤ですよ」
「う、うるさーい! 見るな、馬鹿!」
黄色い声のやりとりを、大淀は仕事の傍ら遠く見つめていた。
結局満潮は一睡もせず、大淀もそれに付き合って徹夜することとなった。流石に疲れが酷く何度も船を漕ぎかけたが、満潮の挑発的な表情に負けるものかと気を奮い立たせて、どうにか乗り切った。
第八駆逐隊の帰投を告げるチャイムが鳴ると、満潮は大淀に何も言わず船渠の中へと駆けて行ってしまった。憮然としなかったといえば嘘になるが、実際、大淀が自分で勝手にしたことなので何も言うまいと思った。
「大淀さん! こっちのパーツ足りなくなりそうなんですけど、在庫ありますかー?」
「あ、はーい、ただいま!」
船渠の中から声がかかって、大淀は手元のボードに視線を落とした。
図面がごちゃごちゃと並んだリスト。今はここが大淀の戦場だった。艦娘となって海上に出られるようになるまで、後どれくらいかかるのだろう。鎮守府に来てから溜め込んだ情報を総出にしても、その答えは出ない。
待つのだろう。
待つしかないのだろう。
「それでは第八駆逐隊、休憩に入ります!」
元気よく大潮が叫んで、船渠のあちこちから「お疲れ」という声が口々に飛んだ。任務を果たした艦娘たちには、男たちも最大限の賛辞を送る。それは自然なことだ。大淀にとっては眩しく、羨ましい光景である。
ふと、満潮がこちらを見ていることに気付いた。
最初は船渠を見渡しているのかと思ったが、大淀の姿を捉えて、その視線は真っ直ぐこちらに向けられていた。大淀が手をひらひらと振ると、満潮はうろたえた様子で視線を泳がせ、
「どうしたの、行きますよ満潮」
背後からかかった声に何やら応えて、
べぇっ。
と、大淀に向けて舌を出して、何を言うでもなく駆けて行った。
「やれやれ……」
肩をすくめて、大淀は作業に戻る。どっと押し寄せてきた疲れを誤摩化すように大きな欠伸を漏らす。倦怠感こそあるが、不思議と気持ちは憂鬱ではなかった。
言い聞かせるようにつぶやく。
「絶対に見返してやるんだから」
いつの日か、艦娘として戦いに身を置くその日まで。
大淀は待つ。
全力で待ち続ける。