服を着替えて、部屋を後にする。下の階からは、男の笑い声が響いていた。三階まで届くのだから、よほど大きな声で喋っているのだろう。はた迷惑な奴だ。二階の部屋の人は可哀想に。
そして、裏口から出る。外は晴れていて、気持ちのよい昼間だった。手すりを乗り越えて、飛び降りる。着地の瞬間にその名前を呼んで、衝撃を吸収する。あまり多用しすぎると、嫌われてしまうかもしれないが、まだその前兆はない。しばらくはこの便利さに甘えさせてもらおうと思った。
細い通りを抜け、人が行き交う大通りに出る。検問所が近いので、底辺の人間や、普通の人間が入り混じっている。どちらかというと、低い人間の方が多いが。
私は目的の本屋を目指して、大通りを歩いて行く。今日はまだ人通りが少ない。朝早く出たおかげか、何もない一日なのか、どちらかはわからないが、空いているに越したことはない。
十字路を左に折れて、少し歩くと、軽い人だかりができていた。近づいてみると、男の喚く声が聞こえてきた。複数人に絡まれている人間がいるようだ。そちらに視線を向けると、路地の暗がりで、いかにも浮浪者という身なりをした男が、暴行を受けていた。体格の良い三人は浮浪者を交代で殴り、蹴り、痛めつけている。
私は野次馬たちから少し離れ、それを眺めていた。誰も助けることはない。助ける義理も力も持っていないからだ。
浮浪者は叫ぶこともなく、反撃することもなく、ただ耐えていた。きっと、早く終わってくれと思っているだろう。
男の拳が、浮浪者の頬に直撃し、勢いよく倒れて、壁に頭をぶつけた。そして、そのまま倒れ込む。追撃を食らわせようとした男を、仲間が止めた。浮浪者が動かなくなったのだ。小さな痙攣を繰り返し、目は虚ろを見ている。
男達は小さな声で何かを話していた。すると、すぐに結論が出たようで、野次馬たちの方へと歩いてくる。物見高い人達は道を空け、彼等を通した。男達は早足でこの場を去っていく。
浮浪者は、まだ痙攣していて、口から泡を吹いている。
「うぅ……ぉ……おおぉぉー……」
呻き声をあげ、指は地面をがりがりと引っ掻いていた。傷ついた指から流れる血で、地面に赤い線が描かれていく。倒れているのに、まるで走っているかのように足をばたつかせる。きっと、浮浪者は無意識でこの動作を行っている。
おそらく、打ちどころが悪かったのだ。頭の中に入っているであろう、命を繋ぐ経路が千切れていく音を、彼は聞いている。
呻き声が大きくなる。血だらけの指で、首元を掻き毟った。よく見ると、右手の小指がはねられている。血が垂れて、切り損じの骨片が首元に付着した。
とても、苦しそうだ。
けれど、同情することはない。
野次馬からおぉ、という声が聞こえる。
このようなものは、既に見慣れてしまったからだ。けれど、動く死体を見るのは、久しぶりだった。この男も、すぐに物言わぬ存在に成り果てるだろう。
しばらくすると、痙攣が止まり、彼の動きも停止した。どうやら、終わったようだ。
私は興味がなくなり、本屋の方角に向かって歩き出す。
帰りはきっと、この通りは異臭に包まれているだろう。少し遠回りして帰ろうと思った。
目的の本屋は、検問所の近くに建っていて、その辺りは衛兵が非常に多い。いけ好かない連中なので、関わらないように歩く。少しだけ足早になった。
検問所の先は、通行証か大量の金貨がないと入れない。金貨なんて私が持っているはずもないし、通行証は王都でないと発行してもらえない。
検問所の奥は、工業都市が広がっている。入ったことはないが、なんでも魔力を動力源とした発光機や運搬装置を製造しているらしい。
どちらにせよ、私には関係のない話ではあるのだが。
歩いていくと、目的の本屋に到着した。石造りの家屋に本棚を並べただけの、シンプルな店だ。中に入ると、店主の老人がカウンターで本を読んでいた。私に気づくと、本を閉じて、
「いらっしゃい」
笑顔でそう言われた。客に愛想がいいと、こちらが恥ずかしくなるので、やめてほしい。私は軽く頭を下げて、本棚に目を向ける。目線を横にやると、店主はまた本を読み始めた。
私は安心して、目的の本を探し始めた。探しているのは勿論、銀蛆の誉れだ。
上巻が並んでいた場所を思い出し、そちらに向かう。すると、すぐに目的の本が目に止まった。それを取り出し、中身を確認する。上巻の続きであることがわかると、それを店主のところへと持っていく。
「これ、下さい」
私は本を差し出す。店主は私に視線を向けると、なぜか笑顔になって、下巻を手に取る。
「あいよ」
店主は本を受け取ると、繰り返し表紙と裏面を眺めて、
「あー……」
何やら困ったような表情を浮かべる。
「……どうかしたんですか?」
仕方なく、私が口を開くと、
「いや、なんでもないよ。えーと、銅貨六枚だね」
すぐに元の表情に戻って、そう言った。私は服のポケットから、必要な分を取り出して渡す。
「ん、どうも。丁度いただくよ」
買った本を服の中にしまい込み、店を出ようとする。すると、
「ハスノ君、だったか?」
目的の本も買うことができたので、古本屋を後にしようと思ったが、店主に呼び止められた。
「そうですけど」
なぜ私の名前を知っているのだろうか。少々不審な目で見てしまう。
「ああ、失敬。彼女、エマもここによく来るんだ」
毛髪の薄い頭を掻き、おどけるように言う。
「君の事をよく話していたよ」
「……そうですか」
普段話さない人と話すのは、疲れるので好きではない。
それにしても、エマがここに来ていたのか。酒場の経営を生きがいにしている彼女が。本を読む趣味があるとは思わなかった。見かけによらないこともあるものだ。
「あの人はしっかり働いている子には優しいからなあ」
優しい。本当にそうなのか。雇う側と雇われる側、その間に存在するのは優しさではなく、別のものではないのか。私は、彼の言うことがあまり信用できなかった。
「本が好きなのかい?」
「好き、という訳ではないですけど、やることもないので、まあ」
これは本心だった。自身の周りが安定してくると、外から情報を取り入れなければ退屈になってしまう。
「ふふ、それでいいんだ。君ならいずれ、本の魅力をわかってくれるよ」
「どうして、そう思うんですか?」
「読んでいる本の趣味が、僕と同じなんだ」
趣味が同じ。悪い気はしなかったが、それほど語り合いたいとも思わなかった。
「この店は、趣味でやっていてね、僕が昔集めていた本を並べて、貰ってくれる人を探しているだけなんだ」
「随分、読書家だったんですね」
「昔は暇だったからなぁ。特に勉強することもなかったから、僕も本の虫だったよ。一日一冊は読んでたかな」
暇な部分は似ているが、本を読む速さは全く異なっている。私は、五日に一冊のペースでしか読めない。速さはそこまで重要ではないと思うが、取り入れることのできる情報量が多いのはいいことだ。
「君が買った本も、そのとき読んでいたものだ。ハスノ君は、創作伝記は好きかな?」
「はい。他の種類よりは、好きです」
「それはいいことだ」
そう言うと、手元にあった本を摂り、パラパラとページをめくる。
「人の想像力は偉大だよ。こいつは私に、いつも斬新な発想を促してくれる」
「発想ですか?」
「そう。退屈な生活に必要なのは、想像であり未知への刺激だ。僕らは皆それを持っている」
この老人は夢を見ることが好きなのか。私もその時期があった気がするが、よく思い出せない。いつの間にか捨ててしまったようだ。
「……私にはよくわかりません」
「心配することはない。今はそうでなくても、いずれ思い出して、理解できる日がくる。誰でも、そういう頃はあるはずだよ」
それを思い出せば、何かが変わるのだろうか。現状の環境を考えても、解答は見えない。
「人は自分にないものを欲しがる習性があるからね。本を読む理由も、それぞれ変わるさ」
本を置いて、私の目を見る。
「ただ、君に本を読み続けてほしいと思っただけだ」
その方が売り上げが上がるからだろうか。私一人の稼ぎなど、たかが知れているというのに。
「引きとめて悪かったね」
「いえ」
エマ以外の人間の話を聞いたのは、久しぶりだった。今の感覚を端的に表すと、新鮮だった。私しかいなかった場所に、見知らぬ何かが芽生えたような。それの正体を知りたいと感じるのは、きっと正常な反応なのだろう。
「よかったら、またおいで」
「はい」
普段なら、少しだけ頭を下げて出ていくところだが、今日はなぜか返事をしてしまった。あまり他人と距離を近づけると、行動が不安定になるので、可能であれば避けたい。けれど、それほど嫌な気分でもなかった。
私は本屋を後にして、太陽の下に出る。用も済んだので、帰ることにした。
歩き出そうとして、気づく。せっかく話したのだから、店主の名前を聞いておくべきだったと。次ここへ来たとき、どのように呼べばいいのかわからない。今更戻るのも何だか気恥ずかしいので、そのまま酒場へと足を進める。少しだけ遠回りして帰った。
酒場に帰ると、厨房で指示を出しているエマに呼ばれた。
「ハスノ、ちょっと来な」
「うん」
エマは倉庫の扉を開け、中に入っていく。私もそれに続く。中は昼間だというのに薄暗く、熱が籠っていた。酒の合間に摂る食材が、所狭しと並べられている。
「ここは、食べ物の倉庫には向いてないね」
彼女はそう一人ごちると、扉を閉め、私に向き直る。
「本屋に行ってきたのかい?」
怒られるのかと思ったが、そのような雰囲気ではなかった。
「読んでた本の続き、買ってきた」
「意外と渋いものを読むんだね、ハスノは」
そう言って、クスクスと笑う。彼女も、これを知っているのだろうか。
「……」
私はどう反応していいのかわからず、視線を逸らした。
「あぁ、ごめんごめん。呼んだのはね、なぜかお客さんがあんたを指名してるんだ」
「お客さんが?」
「そう、若い男だよ。昨日、あんたに会ったって言ってるけど、覚えてるかい?」
話した、ではなく。会ったという言葉を使っている。その意味は、そういうことだろう。
「たぶん」
「なら、いいんだけどね」
彼女は背を曲げて、私の眼戦を合わせる。
「ただ、気をつけな。変な男だ。あんたに会いに来るのもそうだが、どうにも読めない相手だよ」
仕事のときにしか見せない、真剣な顔でそう呟いた。
「それ、酷いと思う」
「冗談だよ。冗談。ハスノも、もう少し笑いな。そうすれば、こんな街でも、生きていくのが幾分か楽になるから」
「ちょっと、難しいかも」
「難しくても、頑張るんだ。辛いことだらけでも、やっていけるようにね」
「……うん」
エマはとても真面目に、私にそう告げた。それが、とても嬉しかった。自分では理由がよくわからない。
「けど、ハスノなら男が何しても反撃できそうだね」
「たぶん、大丈夫かな」
自分の力に絶対的な自信はなかったが、程度の低い人間であれば、軽くひねりつぶせるという自負はあった。
「じゃあ特に気を付けるようなこともないか。でも、もしどうにもならなかったら、私に相談するんだよ。いいね?」
「うん。ありがと」
「ここで働いている以上、私の娘みたいなもんなんだから」
そう言われて、嬉しいと思ったが、同時に不安も沸いてくる。働けなくなったら、きっと見放されてしまうだろう。私の場合、この力が失った時だ。
「よし。これで話は終わりだ。ご指名のお客さんは、二階のテーブル部屋で待ってるよ」
彼女は立ち上がり、扉を開けて、私の背中を押す。私は押されるままに外に出る。とても、大きな手だった。
「あと、本を読めるってのは凄いことだ。伸ばせる力は、今のうちに伸ばしちゃいな」
「エマも読めるのに」
「私は婆ちゃんだからいいんだよ。ああいう類のものは、若い時に吸収するから伸びるんだ」
頭を少し撫でられて、エマは厨房の指示に戻っていく。
彼女が言いたいことはわかるが、私にそれができるかは別の問題。少しは応えられたらいいな、と思う。
階段を上がり、テーブル部屋という名前の扉を開ける。私は入ったことがないので、中がどうなっているのかを知らない。開けてから、ノックをするのを忘れていたことに気付く。
部屋の中には、長テーブルが一つ、イスが六つ置いてあり、一人の男が座っていた。奥にある大きな窓から、日差しが差し込んでいる。いかにも外向き用の部屋のようだ。
予想した通り、泉を通りがかった男だった。
「えーと……ハスノ、さんでいいのかな」
男は立ち上がり、やわらかい笑顔を浮かべた。
「はい」
私は先ほどのエマの言葉もあり、無表情で答える。そして、対面の椅子に座った。
「その、昨日はすまなかったね。本当にたまたま通りがかっただけなんだ」
申し訳なさそうに言う。目を逸らして、部屋の隅を見つめている。彼に言葉を聞いてから、肌を見られたことを思い出す。けれど、そのことで動揺はしなかった。謝られることの方が面倒だとも思う。
「……別に気にしてませんので」
「どうか、許してほしい」
深く頭を下げる。この男は、音を聞く器官がないのだろうか。彼の側頭部を見てみると、耳がついていた。それとも、この状況の場合は、こういった行動をとるのが適切なのか。私にはよくわからない。
「大丈夫です」
「ありがとう」
男は安心したように息を吐く。
「そうだ、自己紹介がまだだったね。僕はモーゼル・ヘイレン。流れの騎士をしている」
私も自分の名前を教えるべきだろうか。それを口にするのは気分が悪くなるので、できれば避けたい。迷っていると、男が話を続ける。
「けれど、僕の事はどうでもいい」
「いきなりで申し訳ないけれど、もう一つ、君に伝えなくてはならないことがあるんだ」
「君は、刻印持ちだろう?」
「刻印?」
「ああ、刻印ではわからないか」
「簡単に言うと、一体のゴーレムを操ることができる力だ」
私は身を強張らせる。なぜ、この男がそれを知っている。決して、エマ以外には知られてはいけないことなのに。やはりあそこで潰しておくべきだったか。
しかし、男も全てを理解しているわけではないようだ。私が操ることのできる対象は一体ではない。性質の異なるゴーレム二体を操作することができる。
私の様子を見ると、男は慌てて、
「いや、落ち着いてくれ、僕が何かしようというんじゃない。今日は君に、頼み事があって会いに来たんだ」
男はテーブルに手をついて、私の方へ身を乗り出す。
「僕と一緒に旅へ出よう」
真剣な目で、私を見る。反射的に、言葉が漏れてしまう。
「……嫌です」
「ああ! 詳しく話すから慌てないでくれ!」
「本当に僕の悪い癖だ。つい結論だけ聞こうとしてしまう…」
変な人間だな。と思った。
「まずは、どこから話したものか」
「僕は、ある組織から依頼を受けていてね」
「その内容は、指定された対象を無力化して、魔力核を回収すること」
「要するに、そいつを殺して。器官を一つ奪ってこいってことだ」
「その依頼に協力してほしい。もちろん、成功したら報酬は山分けだ」
「王都に行けば、もっと強い人がいると思う」
「それじゃダメなんだ。対象は魔力を吸収する力を持っている。魔導や朱裝を攻撃の要にしている人達では、とても太刀打ちできない」
「加えて、僕は王都に入れないから……」
騎士であるにも関わらず、王都に入ることができない。どういうことなのだろうか。流れの騎士とはそういうものなのだろうか。
「だから、刻印持ちの人間を探しているんだ」
「私のほかにも、それらは沢山いるの?」
「数は少ないよ。依頼主が把握しているだけで、世界に百人ほどしかいない。それ以外にも少しは存在するだろうけど、調べている組織自体が大きいから、この人数で合っていると思う」
「ただ、戦闘に特化した刻印持ちは更に限られてくる」
「僕も、刻印なんて半信半疑だったけどね。でも、その力を見てから、信じざるを得なかった。あれは、魔力を運用してどうこうできる力ではない」
「どうして、貴方は私の事を知っていたの?」
「そこは伏せさせてほしい。依頼主の意向もあるから」
「実は、君の前にも二人の刻印持ちに会ってきたんだ。その人たちにも依頼したんだけど、断られてしまってね」
「どちらも性格は違ったけど、過保護な人達だったよ」
「だから、後は君だけなんだ。僕が教えられている最後の一人は、なぜか姿をくらましていてね。依頼することすらできない」
「今決める必要はない。僕はしばらくこの近くに留まっているから、また会いに来るよ。時間は特に決めないから、考えておいてくれないか」
ここで断ってしまってもよかったが、私の力を知られている以上、逆上される可能性を下げなければならない。私は、とりあえず頷いておく。
「ありがとう。話の通じる相手で助かったよ」
また、深く礼をして。
「じゃあ、僕はこれで」
そう言うと、部屋から出ていく。ドアを閉める音は小さい。苛立ってはいないようだ。その事実に、少しだけ安心する。
金は確かに大事なものだが、怪しげな男の奇妙な依頼を受けるほど、私の意識は鈍くない。
私も部屋を出て、一階に降りると、エマがこちらに気付く。
「ハスノ、大丈夫だったかい?」
「うん」
「何者なんだろうね、あの男」
「話もよくわからなかった。依頼がどうとか、言ってたけど」
「へぇ。そういう話だったんだ。となると、あんたの力のことを知っていたんだろう?」
「みたい。どこから知ったのかは教えてもらえなかった」
「うーん。次来たら追い返すかい?」
「……いや、自分で断るよ」
「偉い。そうした方がいいかもね。ああいう男はしつこそうだから」
肩をぽん、と叩くとまた厨房に戻っていく。私も部屋に戻って、買ってきた本を読もうと思った。