私は、閉鎖された都市の中央聖殿で生まれた。その時だけは、きっと私の目にも両親が映っていたはずだ。今は、もう顔も覚えていないが。
白い壁に並んだステンドグラスが、陽光を様々な色彩へと変化させている。その光を浴びて、勇者の誕生に熱狂する人々。藁織りのみずぼらしい恰好をした農民。それを汚らわしい目で見ている平民。絹で織られた立派な外套を身に包んだ商人。棘の付いた首輪で引きずられる奴隷。
この人達を守る為に生きるなんて、まだ理解できるはずもなく。
興奮が最高潮に達し、拍手が沸き、喝采が飛び交う。真っ白な石で建てられた聖殿は幸福な民衆で満たされて喜んでいるように見えた。出生と同時に、閉鎖された都市はこの日を境に崩壊への道を歩むことになる。まだ、当分先の話だが。
勇者の誕生を祝う祭典が開かれ、民衆は三日三晩の間騒ぎ続けた。祝福の意を声に代替して張り上げた。露店は昼も夜も交代で開き続け、この時の為に、と磨き続けてきた個人の催し物や出し物が惜しむことなく披露された。初日は興奮が収まる所を知らず、酒と雰囲気に乗せられ、勢い余って殴り殺された人が何人か居たようだ。
その後は落ち着きを取り戻していき、徐々に普段の祭典に戻っていく。多少の悪戯は目を瞑っていた警兵達だったが、これ以上平和が乱れてはならないと考え、危険な行動をする民衆を捕らえ始める。
すると三日後の日暮れには、いつも通りの静寂が、都市内を包んでいた。誰も、誰とも話さない。飽きるほど地面を見つめて、視線を合わせないようにする。人と混じり合わず、無益な争いを忌避する閉鎖された都市の民衆。
ここは、風の吹かない街。
私はというとすぐに両親から遠ざけられ、王宮のとある区画の一室へと隔離されていた。灰色の壁に囲まれた部屋。天井から明度の低い吊灯が下げてある。窓はなく、部屋の奥に扉が一つだけあった。白い絨毯の上に木組みの揺り籠があるだけの殺風景な場所。その中で揺られている私。
これから生きていく上で、帰るべき場所がこの部屋になった。空虚で、孤独な密室に。世界に入ってくるのは貧乏くじを引いた給仕と、日々顔が変わる、私の知らない人達。
その人達は口を揃えてこう言った。
「君は、勇者だ」
まるで呪文のようだった。
新しく来る人も、何度も来て知っている人も、同じ言葉を唱え続ける。笑顔で、頭を撫でながら、嬉しそうに、楽しそうに。まだ文字も言葉も理解できないのに、狂気の残滓だけが私の瞳を曇らせる。その重圧に段々と侵食されていくようで、不安な気持ちを感じたことを覚えている。知らない人達に撫でられる度に何かが溢れ出し、隔離された私の心に強く響いていく。
しかし、未熟な私はそれを伝える術を持たない。純粋な祈りは届くはずもなく、塞き止めた感情は、水滴になって頬を濡らす。そして彼らは離れていくばかり。必死に手を伸ばしても、喉を震わせて叫んでも、届きはしない。私に背を向けて、自身の世界へと戻っていく。平和と安穏に満ちた世界へと。彼らが生み落とした残酷な汚れの一部が、私の身体へと降り注ぐ。
ミルクや食事は給仕に与えられていて、その頃は彼女が一番親しい人間だと思っていた。私を生かしてくれる人間を、護ってくれる存在だと思い込んだ。すぐに違うと気づいたが。
給仕は肩から足先までを包む聖胴衣を着ていて、鮮やかな金色の髪を毛編みのベールを内側に収めている。まだ若く、たまに私を見て笑う事もあった。それは悪い意味ではなく、つい心の底から漏れたものだということは幼心にもわかる。
でも、勘違いをせずにはいられなかった。
近づこうとすると、突き放される。既に笑顔は消えていて。凍り付いたように、私を見る。
彼女に何を求め、与えられようとしたのか。その頃は影も形も理解していなかった。身体の内側に埋めてほしい隙間がある。しかし、私はそれの埋め方を知らない。他の人間に近づき、痛みを知ってもらう以外に自分を示す手段がなかった。
結局は仕事、命令なのだろう。感情を持たない方が、後々楽になる。きっと、そのはず。
好意を寄せてくる何かから一定の距離を保ち、要求された内容を従順に遂行していく。仮面を被った表情の内は、何を考えているのかわからない。不必要で、不自然な関係。
傷ついていく度に、慣れていった気がする。いや、それが辛いことだと感じなくなっただけなのか。
私と給仕の関係は親子でも主従でもなく、生きていくための食糧と知識を運んでくるだけの存在だった。とても冷たくて、希薄な関係。それほど大事でもない。しかし存在しなければ生きていけない。曖昧な基準の狭間で揺れ動いていた。
一日に三回、給仕はこの部屋にやってくる。私にミルクを与え、何かを語り掛け、たまに揺り籠を交換して帰る。それ以外は、見たことがない。
私の知っている給仕は、一種類。
私の知っている景色も、一種類。
ずっと、当たり前のことだと思っていた。
私は一切の病気に罹らず、健やかに育っていく。見える景色が灰色の天井から石造りの壁に変わっていった。
給仕に揺り籠から出してもらい、部屋の中を探索する。知らない人達に撫でられることは沢山あったが、私を抱き上げたのは給仕が初めてだった。探索するといっても、固い壁に触れてみたり、柔らかい絨毯の上に寝転がったりするだけだが。白い絨毯は動物の毛で織られているようで、とても柔らかく、暖かかった。灰色の壁はごつごつとしており、頭をぶつけたら痛そうだ、と思った。吊灯の光は弱く、窓もないので部屋の隅は暗い。たまに給仕の顔が影で見えなくなることもある。
しかし、いつもと違った角度から物事を経験し、肌で感じることがとても幸せに思えた。知らない感覚が、また一つ、また一つと頭の中に刻み込まれる。私が、私自身を取り戻していくように。集合意志の傀儡であるという事実を、この頃から心の奥底では拒んでいたのかもしれない。
やがて自分の足で立てるようになり、給仕に教わった言葉を少しずつ覚えていくと、行動範囲が広くなった。
灰色の部屋から、扉の外へ。初めて見る外の世界の明るさに圧倒されてしまったことを、よく覚えている。正確には初めてではないが、私は物心がつくまで外に出たことがなかった。
給仕に外に出たい、とお願いすると困った顔をされたが、少しだけならと許しをもらえた。鍵を外して扉を開くと微かに風が吹き込み、髪がふわっとなびく。見たことのない、鮮やかな光が差し込んできた。私はその光に魅せられたかのように歩いていく。
そして部屋と外の境目に置かれた革の靴を履き、その一歩を踏み出した。
「勇者様、これが外の世界でございます」
その日は、透き通るような青空だった。春の陽気に包まれた、暖かい一日。差し込んでいる太陽の光が眩しいくらい。柔らかな風で、一面に広がる緑が穏やかに揺れていた。目の前の草原の丘では、パタパタと忙しなく羽根を動かす小さな生き物が、虹色に輝く鱗粉を撒いている。
しばらくはその光景に見とれていたが、歩きだして振り返ってみる。すると、二つの事が理解できた。
まず一つ、私のいた部屋は草原に囲まれていて、更にそれを高い城壁が囲んでいるようだ。
二つ、部屋の外装も変わらず無機質な灰色の石造りだったが、この雄大な景色の一部と捉えれば悪くないかもしれない、と思った。
ふと足元が気になったのでしゃがんでみる。地面から細い茎が数えきれないほど伸びており、所々に緑色の葉を付けていた。その頃はまだ名前も知らない何か。きっと、この子達には名前と生きる意味があるんだろう。
正体不明の物体に好奇心を抱くと同時に、幸せな気分が心の底から湧き上がってくる。
また、新しいことがわかった。誰かに与えられたものではない。私自身が一人で発見し、理解した。一人きりだが、独りよがりではない。世界は、私が思っていたほど手狭なものではなかった。きっと、あの城壁の向こうにも知らない世界が広がっているはずだ。
想像をしているだけで、期待に胸が膨らんでいく。
自らの衝動を抑えきれなくなり、思うがままに草原の中を駆けまわる。頬を撫でる風が心地よい。足首に草が触れてくすぐったかった。腕を振って、息を切らして、足を忙しなく動かす。
茫洋で広大な場所に一人でいるときに感じる、自由への快感を目一杯噛み締めて。陽の光を浴びると、私のどこかに火が灯ったように感じた。それほど、気分が高揚している。
敷地を囲む城壁まで辿り着く。
私の何十倍かわからないほどの背丈で、逃げようとする者の意志を砕く力を持っていた。風貌は泥々しいが、その威風堂々たる佇まいは荘厳で、剛毅で。
黒っぽい耐呪岩の間に、粘性の高い土を挟んで塗り固め、それを厚く幾重にも積み重ねていた。その為表面が不揃いになっていて、でこぼことしている。一瞬登ってみようかと考えたが、落ちたら痛そうだったので諦めた。
いつか、この世界からも出られるのだろうか。城壁と青空の境目を見上げ、思案する。翼を持つ者でなければ越えることはできない、高く、立ち塞がる壁。
更に視線を上に向ける。清廉で、どこか物悲しげな青空。そこには、鳥も天使も飛んでいない。雲の流れはゆるやかで、今にも止まってしまいそうだ。雲を掴もうと思い、手を真上にかざし、開いたり、閉じたり。感触はなく、ただ空を切るのみ。
そのうちに、城壁の向こうへと流れていってしまった。腕を下ろし、目の前の壁を見つめる。
敷地は、囲まれているのだ。高い、高い、壁で。ほんの少しだけ心に重りを乗せられたかのような気分になったが、すぐに振り払う。
今はまだ気にしなくても大丈夫。そう自分に言い聞かせた。
そして反対側の城壁まで走る。敷地は広く、先ほど駆けまわっていたこともあり、途中で疲れたので歩くことにした。聞こえてくるのは私の呼吸と、風の音。
大地を踏みしめるたびに、緑が悲鳴を上げて苦しんでいたので、可能な限り優しく歩いた。さっきまで踏んでいた緑達に申し訳ない気持ちになり、心の中で詫びる。
反対側の城壁も全く同じだった。よく考えてみれば当然の事なのだが。
壁の荘厳さも、空の清廉さも変わらない。間違いを見つけるとした汚れぐらいのものだが、耐呪岩と土で構成されており、滅多な事では壊されないだろう。
敷地の中には、私の棲む部屋があるだけ。その他は、何もない。
けれど、出られるはずだ。ここからではなくても、他の出口から。
そんな思いがよぎる。僅かな可能性に縋っているのか、諦観から生まれる希望なのか私にもわからない。
くるりと振り返り、また別の方向に向かって歩き出す。色々な物を観察しながら歩いていると、給仕が近づいてきて、
「そろそろ、部屋の中へお戻りください」
と言われてしまった。私は腕を引かれながら、空虚で、無機質な世界に連れ戻されてしまった。しかし、悲しくはない。希望を持てたのだ。煌々たる輝きを放つ、本来の人間が持つ魂の力を。
部屋の中に入り、絨毯の上に横になる。しばらくは余韻に耽っていた。給仕は扉の鍵を閉め、静かに揺り籠の交換を始める。
熱の灯された身体は、そう簡単に冷めることはない。くすぐったさを発散しようと絨毯の上を転がってみたりする。柔らかい繊維は、それを受け止めてくれた。
緑と陽光の匂い、自由に駆け回る開放感、そびえ立つ壁、広がる世界。覚えた感覚をもう一度思い出す。目を閉じると、景色や感触と共に蘇ってくる。心地良い残響に包まれて、沈むように身を任せた。すると、言いようのない暖かさと共に、懐かしいような、僅かに悲しげな感情が湧き上がってきた。理由はわからないが、もしからしたら初めて経験したものではないのかもしれない。そんなことを考えながら夢想の世界に浸っていく。
しばらくすると不意に、耳の近くでぶうん、と音が鳴った。何かが近づいてきて、その後遠ざかっていく。身体を起こし、部屋の中を見渡す。灰色の壁、明度の低い吊灯、木組みの揺り籠。特に変化はなく、音もいつの間にか消えている。給仕はせっせと揺り籠の中の毛布や敷物を取り換えていた。
よくわからなかったが、もう一度横になる。給仕がいる側とは反対側の方を向く。どんな音だったか思い出そうとする。細かな振動が連続で刻まれているように聞こえた。音はそれほど大きくなく、その発生源は小さい存在だろう。先ほどの正体は何だったのだろうか。
考えているうちにもう一度、それは訪れた。また何かが震えている音が聞こえてくる。次は遠ざかることはなく、私の近くで鳴っていた。
たぶん、後ろに何かがいる。寝返りを打ち、音のする方向を見た。すると、一匹の黒い何かが絨毯の上に降りるところだった。私の指ほどの、小さな何か。それを虫と呼ぶことを知ったのは、私が大きくなってからだった。
羽根が全部で四枚あり、胴体からは細長い脚が六本ほど生えている。腹の一部分が白い毛で覆われており、触ってみたい欲求に駆られた。目だけが異様に細長く出っ張っており、先端の方は垂れ下がってしまっている。その部分に眼球が何個も生えていて、ほんの少しだけ気持ち悪い。
黒い虫が絨毯の上に降りた。白い繊維の中に、不純物である黒色が混じり、とても目立っている。可愛げはないが、私は興味津々だった。できるだけ動かずにその虫を見つめる。脚を器用に動かし、狭い範囲で絨毯の上を徘徊している。すると虫は私の方を向いて動きを止める。飛びかかってくるのではないかと思ったが、そうではなかった。
次の瞬間、黒い虫は狂ったように暴れ出す。呼吸機能を奪われた人間のように。
全ての脚を様々な方向に動かし、捩じる。羽根を羽ばたかせるが、飛ぶ様子はまったく見られず、ただ転がり回ることしかできない。私の視線は狂乱する虫に釘付けだった。
羽根がもげ、脚が折れ、出っ張った目が曲がり、千切れた眼球が繊維に絡まる。ちらほらと絨毯に緑色の体液が染み付いていく。黒い虫の一部だったもので、汚れていく。あとで給仕が綺麗にしてくれるだろう。その一つ一つを、よく観察する。形や色はもちろん、指で触って温度や感触も確かめる。脚や羽根は特に気になる所はなかったが、なぜか体液だけは異様に熱かった。少し経つと冷えてしまうが、本体から流れ出したばかりの新鮮な体液は、つい指を引っ込めてしまうほど熱い。痛みはなかったが、触れた部分が赤くなっている。
次第に黒い虫の動きが静かになっていく。転がる回数が減り、細かく痙攣しているのがわかる。動きが止まるまで時間の問題だと思い、最後ぐらいは見届けてやることにする。
だが、動きが止まることはなかった。
小さく乾いた音がする。破裂したような音が。給仕が不意にこちらを見た。
胴体が、飛び散った。比喩ではない。文字通り黒い虫の胴体が弾け飛んだのだ。熱を持った体液を撒き散らしながら。しかし範囲は広くないので、かかる心配はなかった。虫の胴体があった場所を中心として、波紋状に緑色が塗られている。その中に、胴体だったであろう黒い表皮が散り散りになっていた。このような装飾もいいかなと思う一方で、好奇心と共に疑問が幾つか湧いてくる。
何故私の傍に降りてきたのか。何故暴れ出したのか。何故弾け飛んだのか。
熱を持った体液は黒い虫の体液だった。この虫は、自身の熱に苦しんでいたのだろうか。体内の温度が上がり、自らの熱に焼き殺される。そんな虫の気持ちを想像する。
だとすると、熱はどこから来たのか。その考えに及ぼうとした瞬間、
「勇者様!」
ヒステリックな声が部屋の中に響く。顔を上げると、給仕が怖い顔をして目の前に立っていた。身体が持ち上がる。私は抱きかかえられ、虫だったものから遠ざけるように部屋の隅に下ろされた。
給仕は死骸の傍に近寄り、胸元から小瓶を取り出す。外形はガラスで作られた円筒だが、意匠の凝った装飾がされており、高級そうだ。中には透明な水が入っていて、そこから強い力を発しているように感じる。コルクの蓋を開け、体液と表皮の絡んだ繊維の上に数滴垂らす。
すると、絨毯の上に広がった汚れが消えていき、再び真っ白になっていく。飛び散った表皮すらも、なくなっていた。
「……あぁ」
給仕は俯き、大きく息を吐く。その横顔が悲しげに見える。なぜそのような表情をしていたのだろう。見知らぬ虫が息絶えて、誰かに害があるわけでもないのに。
私はさっき考えていたことも忘れ、もう一度この虫を観察してみたいと思った。きっと外から入ってきたはずなので、探せば見つかるだろう。虫のいた場所を凝視している給仕に、次はいつ外に出られるのかと聞くと、視線を逸らしながら、明日も少しだけなら出てもいいと言ってくれた。その言葉を聞いた瞬間。私はとても嬉しくなって給仕の首に抱きついてしまった。そのまま顔を上げると、視線が交差する。驚きに満ちた給仕の瞳と、嬉しそうな私の目。
勢いに任せてやってしまったので、子供心なりに恐怖心が後からついてきた。今まで自身の感情を真っすぐに表現したことがなく、後悔の念が沸々と湧いてくる。
少しだけ気まずくなって目を逸らす。
すると、何かに包まれた。優しく、大きなものに。久しぶりに、この温度に触れた気がする。
私は、給仕に抱きしめられていた。背中に腕を回し、大きな手を頭に置いて、肩までかかった髪を撫でてくれる。柔らかくて、暖かい手。誰かに撫でられることはあったものの、これほど慈愛に満ちた抱擁はなかっただろう。
唐突に抱きしめられたので、何も反応できなかった。こんな事になるなんて、予想もしていなかったからだ。さっきとはまた違った感情が、私の内側から拡散していく。寂しいような、溶けていくような、ほんのりとした微熱を伴ったものが。
自分自身が一番驚いていた。
幾度も幾度も押し潰した、あの感情。
誰もいない、私には必要のなかったもの。
忘れたくて、消えてほしくて、頭の隅から取り除いても、いつの間にか元に戻っている。
何故、今頃になって思い出してしまったのか。
凛と張られた弓の弦が、音もなく弛んでいくように。
誰かに認めてほしかった。私が生きていることを。
「勇者」ではなく、本当の「私」の事を。
普通の人間は、もっと早くに処分してしまうはず。
十分すぎるほど与えられ、持て余し、捨ててしまう。
私は、十分ではない。
それに気づいた時には、もう遅くて。
溢れ出す涙は、止められそうになかった。
未踏の奥底に潜んでいる、「私」自身が剥き出しになっていくように。
初めて、声を上げて泣いた。彼女に抱かれながら。寂しいのか悲しいのか私にもわからない。ただ、救いを求めていた。都市は勇者を必要としている。生まれた時から、押し付けられてきた。
ならば私は何を必要としている? 誰に救われればいい?
抽象的な疑問が涙と共に零れ落ちていく。彼女に頭を撫でられると、思考が朧気として段々何も考えられなくなる。
「大丈夫よ」
私を抱きしめながらそう言った。しかし、彼女も泣いていた。凍り付いたと思っていた瞳から、涙がはらはらと落ちている。
勘違いをしていた。凍り付いてなどいなかったのだ。ただ、隠していただけ。悟られぬよう、平気な素振りをして。心の中では、私に対する感情も幾分かあったのだろう。想像でしかなく、その大きさを知る術はないが。冷たい仮面を被るのに疲れたのか。それとも孤独な子供が心を開いたことに驚いたのか。私にはわからないが、彼女の涙は嘘ではない。それだけははっきりと言える。
強く、身体を覆うように抱きしめられていた。自身の内側に秘めた、忘れかけていた感情が再び産声を上げる。まだ、消えてはいない。幾ら掻き消そうとしても、それは必死にしがみついたままで。気が付かないようにしていただけだ。入り混じる起伏の途中に、その一つを縫合して。初めて経験する暖かさと安心感に身を委ね、撫でられているうちに意識が薄れていくのを感じた。
例えようのない、幸せの反響を残したまま。
明日も、こんな一日になればいい。
そう願いながら、彼女の腕の中で瞳を閉じる。
ふと気がつくと私は沈んでいた。暗遁とし、底の見えない無意識のクレバスへと。
背中から落ちていく。
緩やかに、ゆっくりと。
溺れ、息絶えた人間が体内の空気を失い、曠然たる海の一部分へと姿を変えるように。
周囲は薄暗く、空の何倍も濃い青色の世界が広がっていた。崖のような壁に挟まれて、その間を沈んでいく。谷底から這い出てきた何かが私の身体に絡みついて、そのまま引きずり込まれてしまうような。本能は恐怖を発していたが、でもどこか安心していて。抵抗をする気は全くなかった。
自然な流れに逆らわず、ずっと落ち続けていたい。頭は、このままでは駄目だと認識しているが、酷い倦怠感に襲われ、唯一の理性は泡沫となって消えていく。
指先を動かしてみる。感触はなく、筋肉の軋みだけが伝わってくる。身体は問題なく動くようだ。何かをするつもりはないが。
上の方に微かな光が見える。だが私の手では届かないだろう。遥か彼方にあるように思えてならない。明滅を繰り返し、まるでそれが意志を持っているかのようだった。段々と光が遠くぼやけていく。それに従って周りが段々と暗くなり、遂には完全な暗闇が訪れる。
目に入ってくるものは黒一色で、動いているはずの腕や胴体すら見えなくなってしまった。本当はあるはずなのに、そこにはない。
上を向いているのか、下を向いているのか、はたまた何も見ていないのか理解できずに、自身の存在すらも不明瞭になっていた。
何も感じない。考える必要がない。無の世界に取り込まれた私は、どこをどう間違えたのか、心地良いという感情を導き出した。誰も、私の命を作らない。誰も、私の形を象らない。純粋で、無垢な場所。集合意志の干渉を遮断し、全てを拒み続ける。
必要なのは私と私を包む世界。たった二つだけで満たされていく。
人を殺せば死ぬように、教わらずとも理解できるような単純な仕組み。
何故、世界には二つ以上あるのだろう。まだ幼かった私は、疑問に思ったことを覚えている。
綺麗なものと汚れたものの、二つだけでいいのに。その中間に沢山あるから、皆で分担しなくてはならない。痛みを、苦しみを擦り付けずにはいられない。私だけではない。きっと他の誰かも同じような事を考えて、鼓動を刻んでいるだろう。
人間が存在するとは、そういうことなのだろうか。
自分の立っている位置を曖昧にして、他人という歯車との摩耗を減らす。壊れないように、止まらないように。いずれは腐食して棄てられる運命だが、存在して栄えある時間だけは、誰だって長いほうがいい。
今でも、その答えはわからない。わからなくなってしまった、という方が正しいか。未来は、既に絶たれてしまった。
次第に思考がぼんやりとし始める。存在を認識できない意識は、どうやら私の制御できない場所まで離れてしまったようだ。紡ごうとした言葉が途切れ、一つ一つの単語が分解し、散失する。言葉を失ってしまった以上、私は何かを考える術を持たない。
意識は、そこで途絶えてしまう。
次の日、目を覚ます。
いつも通りの黒に染まった視界。吊灯が消されているので、暗闇なのか天井なのか判別できない。かけられた毛布をどかし、上半身だけ起こす。すると、肌寒さを感じたので毛布を抱きしめた。横になったら寝てしまいそうだったので、我慢する。どこかから外の冷気が入ってきているのだろうか。
一人きり揺り籠の中。私以外誰も存在しない真っ暗な部屋。慣れたもので、特に何も思わなくなっていた。もしかすると暗さに怯えて泣いていた時もあったかもしれない。
時間はわからないが、もう少ししたら給仕が来るだろう。毎日同じ時間に入ってくるので、自然と体が覚えていた。
しばらく座ったまま、ぼうっとしている。頭の中は空っぽになり、余計な感情が生まれることはなく、私の生の中で唯一救われている時間かもしれない。せめてその一瞬を、長く享受し続けようと努力する。
そうしていると、扉から錠を外す音が聞こえた。給仕が来たようだ、が。
私はそこで違和感を覚える。なぜか、時間がかかっていた。いつもなら錠の音が一回か二回鳴ると外し終えるはずなのに、今日は五回近くも鳴らしている。堅牢な錠の為、特殊な仕組みになっているようだが、実際に見たことはない。寝惚けているのだろうか。彼女ならありうる話ではあるだろうが、五回も失敗しているのは些か多すぎる気がする。
試行錯誤の音が八回程鳴った後、錠が外れた。
静かに扉が開かれる。暗闇に支配された部屋に、手持ちランプの明かりが広がっていく。
次にその持ち主が光の後を追うように姿を現す。まだ光源が少ない為、認識することはできなかったが。部屋の中央に下げられた吊灯に仄かな火を移している。光が増えたので、視界も利いてきた。
吊灯に照らされるランプの持ち主の顔を見て、私は困惑する。
給仕の顔が変わった。
全く同じ聖胴衣を着ているのに、見たこともない顔になっている。かなり、老けたようだ。今までこんな事はなかった。気分によって表情が変わるのは知っているが、これほど大きな変化は見たことがない。頭部を丸ごと挿げ替えた人形のようだった。
私は揺り籠から抜け出して、異なる形をした者に近づいていく。すると外から入り込んできた冷気に身体を震わせる。毛布の中に戻りたくなった。
彼女は吊灯から目を離さない。私の存在に気づいていないのだろうか。魅入られたように固まってしまっている。足元まで来たのはいいが、何を言えばいいのかわからなかったので、仕方なく単純な質問を投げかけることにした。
給仕の変わり果てた顔を眺めながら、あなたは誰?と問いかける。仄かな明かりの吊灯を見ていた目は、私に向けられた。
元の給仕が戻ってきてくれる。気がした。
その瞬間、目の前に白い火花が散る。見ていた世界が弾け、身体だけが消失するような感覚。
初めての衝撃だった。身体がよろけて床に手をつくと、後からその感触が襲ってくる。
左の頬を、叩かれたのだ。顔を上げると、視線が交差する。驚きに満ちた私の目と、凍り付いた給仕の瞳。
私はそれを知っている。温度を。恐怖を。何より、痛みを。
ああ、まただ。
また、その目だ。
世界に潜む私を、拒絶する壁。
心臓の鼓動が早くなる。それに合わせて呼吸が困難になっていく。苦しい、苦しい。自然と手を喉元へあててしまう。そうすることで、楽になることはないのに。叩かれて座り込んだ私を、老いた給仕は観察するような目で見ていた。
視界が揺蕩っていて焦点が定まらない。給仕の瞳も、顔も、形も歪んでいってしまう。壁と人と僅かな光が渦のように混ざり合い、薄汚いコントラストを描いている。感覚すらも不安定になり、自我を保つことが困難になる。混濁する意識の中で、頭は一つの答えを導き出していた。
私は鳥籠の中に捕らわれている。窮屈で、明け透けな牢屋の中に。
知らない人達が、与える餌の量を調節して、適度な躾をして、成長の様子を観察している。
必死に抜け出そうとするが、彼らは不快な笑みを漏らすだけ。私を指さして、ひそひそと会話している。
反逆の芽を摘み取り、反抗の意志を磨り潰し、救いの手を振り払う。
殺戮の救世主には、愛も感情も必要ない。
「落ち着きなさい」
誰かの声が聞こえる。聞いたことのない声だ。低く、こもっているが、力強い囁き。
少しだけ意識が戻ってきた。喉にあてていた手の力が抜ける。自我を保てるほどには、和らいだようだ。いつの間にか、私の顔の近くに給仕の顔があった。互いの鼻が触れてしまうほどの距離で。私の視界からは、給仕と吊灯の位置が重なり、顔が影に覆われてよく見えなくなる。 しかし、その眼球だけは認識することができた。瞳孔が怖いほど見開いており、人間とは思えない大きな目で、大量の視線を浴びせられる。くずおれた私に合わせるように、膝を曲げてかがんでいた。酷くしなびた顔だが、その眼光だけは力に満ち溢れている。
少し間を置き、彼女は呪文を唱える。
「君は、勇者よ」
勇者?
聞き慣れた言葉なのに、何を意味しているのか理解できない。
本当はわかっているのに、受け入れる事が出来なかった。
私は、私ではなかったのか?
変わらず、給仕の目は見開いたまま。皺だらけの顔で、微動だにしない。その雰囲気に呑まれて、必死に拙い思考を巡らせる。意味のない自問自答が、生まれては消えていく。肌を刺す冷気は一層冷たさを増し、私を責め立てる。どうすればいいのかわからず、呆然としていた。
しかし、呪文は徐々に私の内側を侵食し、新しい形を象っていく。誰にも侵されない場所。他人は干渉することの出来ない私だけの領域。そこに本来なかったものが形成される。
不意に彼女の口が緩やかに開き、一つの言葉が零れ落ちた。
「……リオ」
低く、こもった声は私の中に浸透していく。初めて聞いたはずなのに、元は身体の一部であったかのような錯覚に陥った。まるで新しい身体に交換した後のように、頭に伝達される感覚が新鮮なものに思える。
たった二文字で、全てが反転した。
「……リオ・アクロイアンス。それが、貴女の名前」
名前。
私の存在。
それは、答え。
素晴らしく単純な、道しるべ。
彼女の言葉を反芻する。頭の中で唱え続ける。何度も、何度も。私の中に溶け込んでいくまで。ほの暗い吊灯の下で、二人はお互いの顔を見ていた。
私は、眼を開く。大きく。瞼が引き攣れるまで。
その眼は、閉じない。
「……ぁ」
口が勝手に形を作り、声が自然と漏れてしまった。意識していないのに、身体の反応が先行してしまう。何かが生まれ変わったような気分だった。今まで沈んでいたものが私を支配したような、爽やかな気分。
給仕はゆっくりと頷いた。全て、考えを読み取られているように。こちらの動向を窺い、次の言葉を待っていてくれている。しかし、心配することはない。そう伝えたかった。私が言うべきことは一つしかないからだ。
やっと理解することができた。
世界の在り方を。自身の存在の意味を。歪曲した幻想の答えを。
追い詰められて、『私』の殻に籠った。
『勇者』は、生まれて初めて言葉を口にする。
「……私の名前は、リオ・アクロイアンス」
瞳を閉じて、一呼吸置く。今にも溢れ出しそうな思考の奔流を抑えながら。
頭の深部では警鐘が鳴り響いているが、耳までは届かなかった。
しかし、『私』には聞こえているのかもしれない。
「この世界の……勇者」
それは決意。または自己暗示。曖昧とした感覚は自分にも判然としなかったが、全てを受け入れることを望んだ。
彼女は私を抱きしめる。優しく背中に腕を回し、もう一つの腕で頭を支えた。がさがさと荒れた手で頭を撫でてもらっている。多少痛いが、丁寧に。壊れ物を扱うように。しかし、昨日のような感覚は私の身体に染み込んではこない。距離はこんなにも近いのに、どうして離れているように感じるのだろう。
存在したはずの暖かさは、その形を急速に崩していった。