Ark Fantasy   作:山田山彦

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 それからが一ヶ月と少しが過ぎた。

 私は灰色の部屋の中で、無機質な閉塞感に揺られている。起きて、生きて、寝る。その繰り返し。暖かい陽が射しているのか、朧げな月が照らしているのか、窓のない部屋では答えを求める術はない。部屋から出る気が起きず、一日中ぼうっとしている。もし出たいと思っても、扉の錠を外してくれるかはわからないが。

 給仕が老いたこと以外は、前から何も変わっていないのに。私には、自身のことが理解できなかった。

 外に出たい。新しいものを発見したい。そう願っていたはず。しかし、希望に満ちた欲求が見つからない。見つからない、というより見えなくなった、と表現する方が正しいか。まるで黒い光を浴びているように、空洞になった心臓は、自身の知らないところへと逃げ込んでしまったようだ。身体のどこかにあるはずなのに、制御することができない。何度も思い出して掬い上げようとfするが、指の間をすり抜けて、流れ落ちてしまう。

 それを取り戻したい訳ではなかった。もし失ったとしても、あまり悲しくはない。むしろ自我が安定して好都合だと考えるようになった。勇者である以上、些細な心の揺れに惑わされていては務まらない。

 しかし、理解できなかった。なぜ私は冷静でいられるのだろう。以前の自分はこれほど強靭ではないのに。泥細工のように脆く、孵りたての雛のように弱々しかった。

 拒絶されたからか?

 受け入れたからか?

 幾ら私の頭が思考で埋め尽くされても、解答が顕示することはない。思念の骸達が積み重なって山を作り、至る所で悲鳴を上げていた。私が望んでいるものは、今も奥深くで胎動しているようだ。

 考えていると、どこからか声が聞こえてくる。小鳥の囀りより小さく、言葉として認識できないくらいの声。部屋の中には一人しかいないのに、私の頭蓋に強く響いてくる。知っているはずだった。必ず聞いたことがある。特に身近な存在で、忘れてはいけない。そんな感覚。

 その声を聞く度に思い出そうとするが、浮かび上がってくるのは無感動な感情。冷たく、凍え切った反応が返ってくる。勇者にとって、取るに足らない物だと、身体のどこかが判断しているのかもしれない。

 今日も、私は閉塞感に包まれて生きる。

 いつまで続くのか。そんな事はあまり気にしていなかった。世界が勇者を必要とする時が来るだろう。確信に近い直感は、現実となって未来を象る。

 扉から錠の音が聞こえた。給仕が食事を持ってきたようだ。彼女が来るのは私が目覚めてから二回目だ。たぶん今は日が昇っている頃なのだろう。部屋の中は相変わらず薄暗い。

 今日は試行錯誤の音が三回程で止んだ。回数を重ねる度に上達の兆候が見られる。

 錠が外れ、扉が開くと、木製のトレイを持った給仕が姿を現す。それを持ったまま片手で扉を閉め、私の方へと向かってくる。私は揺り籠から降りて、絨毯の上に座った。寝衣のままなので、寒さが少しだけ肌を刺す。部屋の中にあるものといえば揺り籠と扉だけだ。収納する所も置く所もない。

 四角いトレイは私の前に置かれた。花柄の装飾が入った陶器の皿が二枚と、無地のカップが乗っている。皿の上にはパンと燻製した肉が乗せてあった。熱さを保ったままの肉から湯気が立っている。それは私の僅かな欲求を刺激し、冷え切った頭に光を灯すようだった。

 肉を裂くためのテーブルナイフがトレイの端に添えてある。銀の調度品で、私がよく見ているものだった。無地のカップにはミルクが淹れてあり、こちらもまだ温かいようだ。

「食べなさい」

 私とトレイの前に立ったまま呟く。給仕はそれだけ言うとくるりと後ろを向き、扉へと戻って部屋から出ていく。背中から見ると線が細いことがわかった。

 今日は揺り籠の交換がなく、給仕の顔を見るのは後一回だ。もう一度食事をすると、湯浴みの後すぐに部屋の明かりが消され、私は眠りに落ちる。空虚な繰り返しに慣れていく自分に違和感を感じつつも、それを至極瑣末なものとして考えてしまう。既に受け入れてしまったようだ。

 私の時間は、止まっている。

 錠の音が鳴った。堅牢な錠ゆえ、外すのは難しいが掛けるのは容易だ。自分に近しい事象と似ているな、とも思った。

 視線をトレイに移し、空腹感を埋めるために食事を摂ることにする。

 灰色がかったパンを左手で掴み、口に入れた。独特な酸味と反発する食感の為、喉を通る形になるまで解すのに時間がかかる。美味とは言えないが、食べれないほどでもない。多少の我慢を強いられながら、咀嚼と嚥下を繰り返していく。飲み込む度に喉が潤いを求めているのがわかる。うっすらと酸味の後味が残り、唾を飲み込むのを躊躇してしまった。

 右手でカップの取っ手をつまみ、まだ温かいミルクを飲む。乾いた喉にほのかな甘味と温かさが広がり、舌に残っていた僅かな酸味がどこかに流されてしまったようだ。

 半分程になったパンを皿の上に戻し、テーブルナイフを手に取る。燻製した肉は楕円の形に切られており、厚さもなかなかなので食べ応えがありそうだった。湯気が立っているそれを、縦に九等分する。切れ味がいいのか、肉の質が良いものなのかはわからないが、とても柔らかく、切り込んだナイフは繊維を容易に裂いていった。

 切り口から、燻製特有の匂いが鼻孔に入ってくる。轟々と燃え盛る火から生み上がる煙の匂い。最初は違和感を感じていたが、何度か食べていると、いつの間にかその匂いに惹かれていた。血は全て落ちていて、肉全体がしっかりと燻されているようだ。

 一番左の切り分けた肉をテーブルナイフに乗せ、半分ほど噛み千切る。歯と歯で繊維を絞るたびに脂と肉の汁が溢れ、重厚な香ばしさが私の頭に響いてくる。僅かに振りかけられた香辛料が口の動きを活性化させ、一切れ、二切れと次々に喉に放り込んでいく。

 私が摂る食事の中で、一番気に入っているのが燻製した肉だ。原始的な食欲を煽り、生物としての働きを訴えかけてくる。その感覚が好きだった。

 四切れ辺りは脂で厳しくなり、ミルクを飲みながら食べることにした。すると、肉を食べ終わる頃には空腹感がなくなっている。ナイフを置き、息を吐く。

 肉の匂いとミルクの甘い後味を感じる。既にパンの酸味は消えていた。半分だけパンが残っているが、また空腹感を感じた時に食べればいいだろう。もし必要なければ給仕に処理してもらえば問題ないはずだ。

 トレイを持ち上げ、扉の近くまで運んでいく。開いたときに当たらないような位置に置いて、部屋の中を歩く。石造りの壁に沿って絨毯の上を歩いた。何となくだが、すぐに身体を横にするのは良い事ではないと思っている。

 外に出ようかと考えたが、少し肌寒いのと、錠が掛かっているので諦めた。給仕がいなければ錠は外から掛けられており、私にはどうすることもできない。

 しばらく歩いた後、揺り籠の中に戻り、毛布を被る。寝ても寝なくてもどちらでもいいが、出来る事なら何も想像したくはない。思考する能力がある人間よりは、存在するだけの植物になりたい。

 毛布の暖かさで肌寒さがなくなり、空腹が満たされ、必然的に心地よさが私の身体を包んでいった。瞼が下がり始め、身体の至る部位がどこか深い所に沈んでいく。

 自然と、意識が手元から離れていった。

 

 ふと目を開けると、誰かの背中が見えた。ぼやけた視界の中、それが老いた給仕だと理解するまでに時間を要した。給仕は部屋の中央付近に立っており、相変わらず吊灯をじっと見つめて微動だにしない。

 彼女はこちらに気づいていない。少しだけ様子を伺うことにした。

 私は揺り籠の中で横になったまま身を潜めている。音を立てればすぐに気づかれてしまいそうだ。後姿なので表情はわからないが、一体何を見ているのか。薄暗い部屋の中では明かりしか見るものがないのだろうか。

 給仕の顔から身体へと視線を移していく。裾の長い聖胴衣で身を包み、皆同じベールを纏っている。若いほうの給仕も同じ格好をしていた。今は何をしているのだろう。

 ほんの少し気になったが、なぜか頭がうまく回らず、疑問は四散した。あれから顔を見ていないので、考える価値がないように思える。

 細い背中はまだ動く気配を見せない。食事を持っていないので、三回目の来訪ではないと認識した。

 では、何のために来たのか? 

 頭の中で合理的な解答を求めようとするが、私には無理なようだ。

 仕方なく毛布をどかし、揺り籠から降りる。給仕の目がこちらに向く。視線が交差した。冷たく、乾ききった瞳。その瞳から逃れようと、私は彼女の足元に視線を落とす。

 絨毯の上に、温度を持たない存在が顕現している。

「着いてきなさい」

 短い命令が耳に入る。彼女の足が回り、扉の方へと歩いていく。顔を少し上げて、離れていく給仕の背中を見つめていると、不意に我に返る。

 どこに、行くのだろう。前もって伝えられておらず、全く心当たりがない。忘れているのかもしれないと、記憶を辿ってみるが、徒労に終わった。考えても無駄だと思い、足を動かす。給仕の背中に着いていく。扉は既に開いており、彼女は闇に消えていった。光が見えないので、部屋の中よりも暗いようだ。

 扉と外の境目に、以前使った革の靴が置かれており、それを履いて外に出る。

 風のない、静かな世界だった。空では星が瞬きを繰り返し、弧を描いた月が妖艶に輝いている。記憶の中の景色とは、また違った印象を覚えた。

 高い城壁は黒一色に染まり、大きな影の化け物のように見える。明るいうちは頼もしかったが、暗くなるとその影に呑まれそうで畏怖してしまう。

 目の前にあったはずの緑の丘も、暗闇に包まれて見えなくなっていた。

 左の道に沿って立てられた篝火が狭い範囲を照らしている。それに従って歩いていくのかもしれない。

 給仕は扉の近くに立っていて、靴を履いて出てくるのを待っていたらしい。私の存在を確認すると、扉を開け放したまま篝火の道へと行ってしまう。

 取り敢えず扉を閉め、給仕の背中を追って歩いていく。興味本位で篝火に近づくと、予想以上に熱かったので、すぐに離れた。彼女の影を踏まないように注意する。

 明かりのない場所は全く視界が効かず、足を踏み入れたら沈んでしまうような錯覚に捉われた。出来るだけ目に見える道を進んでいくことにする。

 歩くスピードは遅く、私に合わせてくれているのかと思った。

 十灯ほど篝火を通り過ぎると、城壁に辿り着いた。黒に染まった、高い壁。給仕は腕を組んで立ち止まった。明かりがここまで届いておらず、彼女の後姿もぼんやりとしている。

 ここから出るのだろうか。単純に決めつけていたが、よく思い出してみると、ここには門がない。部屋を囲む壁から、出る方法がないことに気づく。

 給仕の行動に注視していると、何かを取り出した。腕を組んでいたのではなく、胸元を探っていたのだ。背中から見ているのでわからなかった。

 腕を掲げ、壁に何かをかざすと、微かに青い光が漏れる。手に持っているのは丸い水晶のようなもので、開くための鍵になるのかと考えた。門が存在しないのはどうしてなのかという疑問も同時に氷解する。

 今しがた私達の周囲は静寂に包まれていたが、いつの間にか粘液を混ぜ合わせるような音が聞こえてくる。水の流れる音のように軽く涼しげな音ではなく、一定の熱を持ち、互いの存在を溶かし合う。そんな音だった。

 すると、壁は不自然な隙間をつくり、そこから微かな光が漏れてくる。音が大きくなるにつれて隙間も大きくなり、次第に壁の向こうの景色が視認できるようになった。細いものが引き千切れて道を作ったようにも見え、仕組みも何となくだが理解できた。

 壁の内部は無数の触手で構成されているようだ。それは人間の指ほど細く、縦横無尽に這い回ることができる。もし知性があれば生物を捕らえ、消化液と粘液で行動を封じながら時間をかけて溶かしていくだろう。

 それを理解した後に湧き上がるのは激しい嫌悪感と、世界に対する失望。表面は耐呪岩で迷彩されているが、ひとつ外皮を剥げば醜悪なその姿が露わになる。見栄えのいいものは、得てして汚れているものなのだろうか。昼間感じた荘厳さの内側は、忌み嫌われた負の遺産で淀みきっていた。

 触手の壁が穴を作った。人間二人が通れるくらいの大きさで、向こう側にも篝火が立っており、道はまだ続いていた。その先には大きな建物が見える。

 給仕は水晶を胸元にしまい、私の方をちらりと見て、壁の外へと歩き出す。私のことが気になったというよりは、着いてきているかどうか確認しただけに思える。

 その背中を追うように壁の穴を抜けた。粘液が垂れてこないか心配だったが、杞憂に終わったようだ。穴を通り抜けて後ろを振り向くと、再生と結合を繰り返しながら堅牢な壁を造っている触手の姿があった。

 見てて気持ちいいものではなく、すぐに視線を前へと向けた。周囲に蔓延る暗闇は変わらないが、道の先に目をやると、とても大きな建物が目に入る。まだ陽は昇っておらず、その黒に染まった影しか認識することはできない。何の建物だろう。と思った。壁に囲まれた部屋の中では、それすらも分からなくて。

 前を歩く給仕の速度が早まったような気がする。目的の場所が近いのだろうか。足の動きが忙しなくなり、私との距離が開く。彼女の影を踏む心配がなくなり、私も少しだけ早く歩いた。

 周りを見渡しても、暗闇。そこにあるのは、暗闇。篝火で照らされた場所にしか、進めない。

もし黒い地面に踏み込めば、足をとられて戻れなくなり、そのまま闇に呑まれてしまう。嫌な想像が頭をよぎるが、自分が立っている場所を再確認して、落ち着こうとする。

 私が立っているのは、石の舗装された道。私を支え、今も踏まれ続けている道。決して消えない。落ちることはない。土が泥へと変化するようなこともなく、少なくとも私が通っている間くらいはこの状態を保ってくれるだろう。僅かな安心感と頼もしさを取り戻しながら、歩みを進める。しばらくはとりとめもない想いに身を委ねていた。

 私は誘導されている。篝火の明かりと石の道に導かれている。頭を使わないだけ気が楽だが、それを望んでいる訳ではなかった。自由に選択できるほど、沢山の道は存在しない。いつも一本に纏められていて、私はその道を通ることしか許されていないのだ。

 道の先には、知らない人達が諸手を上げて待っている。表情は幸せに満ちているが、湧き上がる不快感は抑えることができなかった。

 しかし、道の途中には、誰もいない。何も存在しない。本当は誰かが居たはずなのに。影も形も残っていない。

 生を享受する上で、その形を象る重要な人間や場所が、その途中に現れるはずだ。振り返ったとき、記憶のままの姿でその背中を押してくれる。帰るべき場所がいつでもそこにある。そうして人間の心は構成されている。

 故に、茨の道も真っ暗な道も痛みを覚悟して進めるのだ。自身の背中を見ている、大事な存在の為に。

 知らない人達は、始まりと終わりしか作っていないのかもしれない。考えるのが面倒なのではなく、あってはいけないものだから。

 人間に中間は必要だが、私という存在に中間は必要なかった。

 ぼんやりと考えていると、大きな建物が近づいてくる。篝火の道を早歩きで歩いてきた。給仕は息を切らせているようで、足音と呼吸だけが静まり返った世界に響いていく。まだ周囲は暗く、朝日が昇るまでもう少しかかるようだ。

 石の道は固く、予想以上に足が疲れることが分かった。革の靴を履いているからなのかもしれない。

 道は大きな建物の中へと続いていた。外観は全く見えなかったが、入り口は篝火に照らされている。私は今からそこへ入っていくのだろう。

 入り口の両脇に篝火が立ててある。煉瓦造りの通路が照らされており、内部にも幾つか光源が見えた。給仕は振り返ることもなく通路へと入っていく。私もそれに続いた。

 通路内は狭く、人がすれ違うのがやっと、という印象だった。煉瓦の壁には一定の感覚で松明が設置されており、ゆらゆらと揺らめく炎は、すぐにでも消えてしまいそうなほど弱々しい。 けれど何故か篝火より明るいので、視界がよく利くようになった。

 壁は赤茶けた煉瓦を積み上げて造られており、指で触れてみると赤い粉末が付着する。それだけ理解すると粉末を払い落とし、前方に目をやる。

 給仕が邪魔で見えにくかったが、かなり奥まで通路が続いている。直線の一本道で、曲がり角はここからでは見当たらなかった。目的の場所に到着するのはまだ先だろう。

 足音が反響し、呼吸が共鳴し、浮遊感のある雰囲気に包まれる。後ろを振り向くと、入ってきた所が粒ほどに小さくなっていた。変わり映えのしない景色に飽きてしまった私は、給仕の後ろ姿を注視する。

 黒地の聖胴衣は私が知っている一般的なもので、肩から足先まで包む上下一体の衣服だった。縦に二本の白い線がが入っており、右腕と右肩、腰の部分に紋章をあしらった刺繍がされてある。呼吸の音が響くたびに、そこから僅かな力を感じた。簡素なつくりだが、材質がいいものを使っているのか皺や折れ目がつくのを見たことがない。

 なぜそんなに疲れているのだろうか。息をつく給仕を眺めながら不意に小さな疑問が頭をよぎる。早く歩きはしたが、息を切らせるほどでもなかっただろう。私もそれに着いてきたのに疲れていない。足が痛いのは仕方ないとして。

 人間が老いを迎えるということは、こんなにも哀れなものなのだろうか。若い頃はあれだけ元気だったのに。少しだけ給仕に同情すると、老いに対する恐怖が生まれる。

 私もいずれはそうなる時が来る。自身の未来に黒い影を落とし込むのと同時に、辿り着くまでに消えているのかもしれない。と、直感的に淡い希望を抱いた。

 唐突に、前方を歩いていた給仕の足が消え、身長が一段下がる。驚いて目を見張り、よく観察すると、通路に階段が現れた。

 先ほどからそれほど時間は経っておらず、階段が近くにあったことが不思議だったが、給仕の姿が邪魔で見落としていたのかもしれない。そうでなければおかしいはずだ。

 給仕が一段、一段と足早に降りていく。疲れているのに危なくはないのかと考えながら、私もそれに続いて降りていった。

 しかし予想より短く、一層ほど下るとそこで階段は終わる。すると、鼻腔が激しく拒絶反応を起こすほどの、すえた臭いが立ち込めた。何の臭いかと思い、鼻を抑える。

 通路が広くなった。というよりは開けた部屋に着いたようだ。給仕は早歩きをやめて立ち止まる。振り向くのかと思ったが動かなくなってしまったので、彼女の横に行って顔を見ようとした、が。

 部屋に広がる光景を見て、私は吐き気を催さずにはいられなかった。気持ちの悪い汗が首元に流れ落ちる。残留した思念がゆらゆらと漂っているように感じ、思わず目を覆いたくなってしまう。

 死体。死体。死体。正方形の部屋の端から隅まで魂の抜け殻で埋め尽くされている。

 頭部の肉が削ぎ落とされ、白い中枢の骨が剥き出しになっている少年。

 老衰か餓死かはわからないが、痩せ細っており、自身の指を砕けた歯に挟んでいる老婆。

 綺麗に目と口をくり抜かれた女。近くに部品は見当たらない。

 顔から指が生えている男。どちらも同じくらいに腐敗している。

 中性的な顔立ちをした人間。その胴体を見ても、性別がわからない。

 部屋は私達が入ってきた階段と、奥に鉄の扉が一つあるだけの簡素なものだった。内装は異常を通り越して狂気の念で満ちていたが。

 壁は淡く発光しており、明るかったので松明は設置していなかった。何の材質で作られているのかはわからない。地獄とも形容できる部屋の中、似合わない白さを持っている。

激しい嘔吐の衝動に襲われて、床に膝をつく。胃の中のものが逆流しそうになっているのを必死に押し留めて、耐えていた。意識がぼんやりとして、視界が霞む。

 何だ。これは。私は、何を見ている?

 頭に入ってくる情報と私の数少ない常識を照らし合わせてみても、答えは見つからない。

 必要な答えは、与えられないまま。変わらない鼓動を刻む。自身の内側に潜む思考に尋ねてみても、その反応すら返ってくることはない。微動だにしない空の箱に語り掛けても、意味を為さないのだから。

 私が見ているものは、死体。

 傷だらけで、尊厳を削り落とされた、人間。

 もう、それらに生は宿らない。魂が蘇生を望まない限り。

 万に一つも、可能性はないはずだ。

 彼らは、人間。人間なのに。私が護らなくてはいけないのに。

 傷つけ合うのが、人間なのか?

 傷つけなくては、生きていけないのか?

 人間で存在する限り、痛みは避けられないのか? 

 痛み、苦しみ、死んでいく。踏み台となる、存在理由。

 そうだとすれば、私は、何だ?

 私は、傷つける存在ではない。護る、為に生まれてきた。

 『勇者』だから。

 それは、一体何を意味する?

 わからない。私は、自分のことが理解できていない。たぶん他の人間に与えられるべきものなのだ。自身が信頼し、心を丸ごと明け渡せるような存在の人間に。

 私一人では、到底見つけられそうにない。

 必要な答えが、欲しい。こんなにも望んでいるのに。渇望しているのに。

 世界はどうして私を拒絶し、暗い影へと引きずり込もうとするのだろう。光の差す方へ向かっているのに、それを阻んで、声も届かない場所まで連れていかれる。

 叫びはどこか深いところで拡散し、何者にも届くことなく消え行く。光を求める鼓動は、代替するものを求める。自身以外の存在に、弱さに塗れた影を移すような。

 私ではない完璧な『勇者』が、きっとどこかにいるのに。

 その言葉を頭が理解した瞬間、何かが変わった。

 私ではなくても、いい?

 一筋の光を放つ閃きが嘔吐の衝動の中に混じり、飽和していく。徐々に浮かび上がる意識は、もう私には止めようがなかった。

 そうだ。私は、違う。

 何を勘違いしていたのだろう。

 私は、『私』ではないか。忘れていたのではない。思い出したのでもない。たった今蘇ったのだ。彼女は蘇生し、自らが手綱を握ることに成功した。次は振り落とされないように、しっかりと両手を握りしめる。

 抜け出すことができた。閉じた世界から。

 夜を待ちわびるだけの空虚な繰り返しはこれで終わり。

 次は、『私』が主導権を握る。

 やっと、眼が閉じられる。

 吐き気は依然として収まることを知らないが、気分は反転したかのように穏やかだった。

 膝を起こして立ち上がると、軽い眩暈を覚えた。心持ちだけではどうにもならない部分があるのだろう。自身の身体の脆弱さに呆れながら、もう一度周りを見渡す。

 晶融石で造られた発光する白い部屋は、私が入ってきた通路と、奥に扉が一つあるだけ。

 部屋の中には変わらず、廃棄された死体が佇んでいる。身体を壊され、死を汚された人間の成れの果て。それは何も喋らない。微動だにしない。ただ語り掛けてくる。

 私の頭に直接、死の戯言を。

 ああ、鬱陶しい。頭を左右に振って、死の匂いがこびり付いた言葉の汚れを落とす。

 給仕が隣に立っていることを思い出す。首を左に向ける。

「一体ずつ、見なさい」

 彼女は死体達を見ながら、呟く。私の方を、見ようともしないで。

 五月蠅い。何故私に命令しているのか。その訳を聞かせてほしいと思った。けれど、特に逆らう理由もなかったので、一つずつ死体を観察していくことにした。

 身体の至る部品を、着せ替え人形のように取り替えられた男は、逞しかったであろう肉体が不条理な形をしていてほんの少しだけ哀れになった。魂だけはまともな形をしているといいが。

 餓死している老婆はきっと自身の指を食べようとしていたのだろう。お腹が空いて死んでしまうのは辛いことなのだろうか。想像してみたが、分からなかった。

 顔から指が生えている男は、指を切られた後、傷だらけの顔に接着されて、そのまま血が通ってしまったのではないだろうか。腐敗する速度が同じということは、そういうことになる。よく見てみると、身体の様々な部品が、本来あるべき場所ではない所に接着されていた。ユニークな発想をしている。と思った。

 中性的な顔立ちをした人間は身体に穴が何十箇所も開けられている。顔はある程度無事なようだが、腕も足も腹も胸も判別がつかないほど滅茶苦茶になっていた。男の足の太さほどの打ち貫き機で身体に穴を作っていたのかもしれない。

 打ち貫かれて身体から離れた肉は綺麗な形をしていたのだろうか。視線を動かしたが、近くにそれらしいものは見当たらなかった。きっと処分されてしまったのだろう。少しだけ残念に思いながら死体巡りを続けていく。

 目が無い。鼻が無い。口が無い。耳が無い。腕が無い。足が無い。胴体が無い。心臓が無い。特徴のない死体は、感じることがあまりない。印象にも残らなかった。

 死の発想が麗しいものは、多少なりとも真剣に見ていた気がする。 

部屋の奥の扉付近に倒れていた特徴のない死体を見終わると、給仕の顔を睨む。別に怒っているわけではない。面倒なことを押し付けてきた給仕に反抗の意思を示しているだけだ。

 無表情で塗り固められた給仕の顔に僅かな驚きが混じった。その後、微笑が漏れる。私がそれを知覚する頃には既に元の表情に戻っていたが。もしかしたら気のせいだったのかもしれない。

 死体の観察が全て終了した。もう、やることはないだろう。

 給仕が死体を踏まないようにこちらに歩いてくる。帰るのではないのか。奥の扉の先に行くのか。目的が判然としないが、とても面倒に感じた。

 待っていると、彼女は私の側を通り過ぎて、扉の前に立った。木の扉で、簡易的な金錠が取り付けられている。どこからか取り出した鍵をそれに差し込んだ。

 カチャリ、と音がして、金錠が床に落ちる。給仕は扉を押し開け、私を一瞥し、

「この中よ」

 そう言うと、扉の中へと消えていった。何が、この中なのだろう。全く理解が追い付いていないが、仕方なく着いていく。

 今いた部屋より狭かったが、真ん中に棺桶が設置してある。聖十字や紋章など、様々な装飾が施されていて、傍から見ても普通の人間が葬られるべきものではなかった。なかなか大きく、私が三人ほど入りそうだ。壁の材質は同じ晶融石で、白く発光していた。

 給仕は扉の脇に立っている。中を覗けということだろうか。私は、部屋の中央に置かれている棺桶に近づいた。上面の一部が透明になっていて、中の様子を見ることができる。

 若い男が入っていた。勿論魂は抜けているが。目を閉じて、抜け殻だけがここに残っている。しかし、その顔色はまるで生きているかのように鮮やかだった。色とりどりの花に埋め尽くされ、胴体は視認することができない。髪は緑で、短く切り揃えられている。整った顔立ちをしていたが、少し鷲鼻気味だった。

「彼は、貴女と同じ」

 私と同じ? 給仕はいつの間にか私の後ろに居た。

 何を言っているのだろう。給仕の呟きの意味が汲み取れず、次の言葉を待つが、一向に出てこない。もう喋る気はないのだろうか。仕方なく私は頭を回し、この人間が何者なのかを考える。

 彼は、貴女と同じ。

 つまり、私と同じ。ということは、彼も『勇者』だったのか? 私の鈍い頭ではそれしか捻り出せなかった。なんと役に立たないものだろう。久しぶりに使った反動なのか、いまいちクリアな思考ではない。淀んでいて、澱が沈んでいるような感覚。しばらくすれば、元に戻るだろうか。今は、放っておくことにしよう。

 その後も棺桶の前でしばらく考えていた、しかし、思考にそれ以上の発展はなかった。

 そんな私を見た給仕が、

「一つ前の、勇者よ」

 小さな声で、告げてくれた。

「一つ前?」

 私は喉を震わせて音を発する。うまく喋れたかはわからないが、少なくとも声帯は腐っていなかった。給仕の顔を見ても、訝しげな表情をしていなかったので、僅かな安心感を覚える。

「ええ。彼は、失敗作」

 私の問いに答えているのか答えていないのか、曖昧な返事をする。

 凍り付いた瞳を棺桶に向け、息を吐く。

「彼は立派に戦った。その上で、手厚く葬られることを望んだ」

 それは、『勇者』としてなのか。一人の人間としてなのか。分かり切ったことを聞くのは嫌だったので、他の事を聞くことにする。

「私も、こうなる?」

 自身の未来に恐怖を感じたわけではない。ただ、気になっただけだ。私が辿り行く末を。勇者としての終末を。運命の収束点は、きっとここなのかもしれない。そう、直感的に感じた。

「貴女は違う」

 棺桶から目を離さずに答える。

「……貴女は完成された勇者。資質。魔力。朱裝。全てが最高の純度で内包されている」

 聞き慣れない単語もあり、全ての意図を汲みとることが困難だったが、一つだけ感じ取ったことがある。

 彼女の表情が変わらない。口から聞こえてくる音もどこか単調で、まるで用意されていた台詞をそのまま吐き出しているようにも見える。

 完成された勇者とは、一体どういうことなのだろう。前にも勇者は存在したのだろうか。もし存在したのなら、彼はなぜ勇者になり、どうして失敗作として死臭のする部屋に葬られることになったのか。疑問を持つ部分は様々あったが、まずはそこから聞いてみることにした。

「どうして、失敗作?」

 彼女が棺桶から目を離し、こちらに視線を向ける。やっと目を合わせることができた。相変わらず皺だらけの瞳は凍り付いているが、今はその奥に潜んだ真意を汲みとるので精一杯だった。

「……彼は民衆への想いは誰よりも強かった。けれど、殺戮者としての自意識が脆かった」

 その瞳は、何も映さない。喋っているときも、決して揺れることはない。彼女には、感情が無いのだろうか。口から流れ落ちる温度の持たない言葉だけが、私の耳の中に入り込んでくる。

「生まれてくる世界を間違えたのでしょう。美しい器から、血が溢れ出してしまった」

 意味を考え、噛み砕く。彼女が伝えたいことを理解しようとする。

「死の導きを与えることに耐えられず、彼は自然と壊れていった」

 想像した。一人の人間に終わりを与え、自身の存在意義にも亀裂を入れていく毎日を。

 だが、私にはまだわからないのかもしれない。

「世界は依然として彼を求め続ける。救済はすぐ傍にあると妄信して。何も知らないまま」

 飾られた言葉にほんの少しだけ熱が籠る。彼女の話す物語の真偽がわからなくなっていった。

「そして、自ら死を望んだ。沢山の人間の命を背負いながら。全ての咎をその一身に受け止めて。脆い自意識を引き裂いた後に、心臓を突いて、消えていった」

 そう言い終えると、静かに息を吐いた。部屋の中は寒くないので白くはならなかったが、彼女の内側はどれだけ冷たくなっているのだろう。理解しようとするのは、限界がある。知性を持つ存在がお互いを完全に理解するのは、どんな相手であろうと不可能だ。人の考えていることを読み取れる者なら可能かもしれないが。そんな人間はいるはずがない。

 解答は、彼女の内側にある。しかし、私はそれを見つけ出すことはできない。皮を剥がしても、心臓を抉り取っても、影も形も見えないだろう。

 信じるしかないのだ。彼女が話す言葉を。物語を。私にはそれしか選択肢がない。進むべき道はいつだって纏められてきた。一本しか選べない。進んでも進んでも終着点は知らない人達の笑顔で埋め尽くされている。嫌で仕方ないが、そういうものなのかもしれない。

 私は話を聞いて、黙っている。何を言えばいいのかわからないのと、彼女に言うべき言葉など無い、と確信しているからだ。

 視線は交差しているが、彼女の瞳は揺らがない。凍り付いたまま。

 耳に入ってくる音も無くなった。透明で、悲しげな静寂。

 しばらく沈黙が続く。交わした視線も、止まっている。

「これで、今日は終わり」

 彼女の口が開き、静寂が破れる。ふう、と息を吐くと、入ってきた扉の方へと戻っていった。

 帰るのだろうか。その背中を見ながら考える。まだ聞いていないことがあるが、あの様子では教えてはもらえないだろう。それに、たぶん聞かなくてもわかるだろうと感じていた。

 今日は様々なことが起こったので、随分と疲れた。やっと表に出てこられて、鬱屈とした気分も晴れたようだ。

 彼女に続いて、この部屋を後にした。

 少しだけ、肌寒い。

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