Ark Fantasy   作:山田山彦

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 重い瞼を開け、意識を取り戻そうとする。油断すると睡魔に覆われてしまうので、毛布をどけて身体を起こし、部屋の寒さで目を覚まそうとした。ぼうっと座ったままの状態でいると、次第に感覚が明瞭になってくる。

 今日はいつもより起きるのが遅かったようだ。既に部屋の吊灯には明かりが灯っており、揺り籠の隣に木製のトレイが置いてあった。その上に食事が乗っている。野菜を煮込んだスープと琥珀色に焼けたパイ、それと珍しく紅茶が用意されていた。給仕は既に帰ってしまっていて、扉は閉められている。スープや紅茶から湯気が立っているので、それほど時間は経っていないのだろう。もしかしたら錠の掛かる音で目を覚ましたのかもしれない。

 目覚めた直後なので、喉が渇いていた。紅茶の淹れてあるカップをつまみ、淀んだ喉に流し込んでいく。前にも数回飲んだことがあり、少し癖のある味だった。甘いような、酸っぱいような香りのする紅茶で、起き抜けに喉を潤す飲み物としては最上級のものだと思っている。半分ほど流し込むと、カップをトレイに戻す。喉に心地良い酸味が残った。

 食事をどうするか悩んだが、冷めてしまっては美味しくないので、食べることにした。

 揺り籠の中で座ったまま、パイを手に取る。熱が残っていたので、両手を使って支える。そして、少し冷ましてから齧る。焼きたての軽い食感が口の中に広がり、パイ皮に包まれていたペースト状の肉が生地の隙間から溢れだしてくる。しばらく食べていなかったせいか、とても美味しく感じる。齧る度に肉の匂いが鼻先をくすぐった。起き抜けに食べている為、うっすらとしか感じられなかったが。

 パイを食べ終わると、指先に付いた生地の欠片をトレイの上で払い落とす。少しだけ喉が渇いたので紅茶を飲んだ。

 次はスープに目を移す。まだ湯気が立っていて、色彩豊かな野菜が煮込まれている。平べったい皿に入れられているので零さないように注意しながら持ち上げた。トレイの脇に添えられているスプーンで野菜を掬い上げる。そのまま口に運ぶと、十分に煮込まれた野菜はスープと共に溶けていった。何度かそれを繰り返し、すぐにスープも飲み終わってしまった。

 少々物足りなさを感じたが、二回目の食事まで我慢すればいい。空になったトレイを扉の近くまで運んでいく。少しだけ部屋の中を歩いてから揺り籠に戻る。毛布をどかして座り、扉の方を見つめた。

 段々と目を覚ます頭は、昨晩の夢について考え始める。

 柔らかな光が差し込むカーテン。ゆらゆらと浮遊している天使達。鉢に植えられた赤い花。扉の向こうにある暗闇。緑色の苔が蠢く侵入者の眼。私によく似ている。

 記憶に縫い付けられた視界をもう一度思い出す。

 見たことがあるような、ないような。無意識の内に眠っていた存在が混ざり合う。そんな曖昧な世界が広がっていた。

 そしてその全て渦を巻き、溶融する。私はどこか深い場所に落ちていく。しかし、薄れゆく意識はそこまで長く保たなかった。その辺りから記憶がぼんやりとしていて、次に起こったことを思い出すことができない。きっと、目を覚ましてしまったのだろう。

 久しぶりに夢を見た。悪夢、とも呼べるような理解し難い夢を。昨日は様々な出来事の影響だろうか。あまり良い傾向ではないと感じた。

 私の頭は勝手に思考を続けているが、既に意味を為していない。いつもなら止まることのない思考が、なぜか今日はすぐに遮られてしまう。今一つ冷静な思考ではなかった。黒く淀んだ澱が溜るように沈んでいて、その上澄みしか汲み取れないような。そのもどかしい感覚に頭を掻き毟ったが、痛みしか残らなかった。本当に振り払いたいものは、こびりついたまま。

 揺り籠での中で仰向けになる。私の目に写るものは灰色。無機質で装飾のない天井の景色が視界を支配する。人間が造ったはずなのに人間味の欠片も見当たらない。それを私が知らないだけなのか。自分でもよくわからなかったが、きっと世界の外側に存在して、まだ見たことも感じたこともないのだろう。

 考えることが億劫になり、意識を手放そうとするが、目覚めた直後なのでなかなか眠ることができない。

 仕方なく仰向けになり、ぼうっと天井を見つめていることにした。

 

 試行錯誤の音が三回響いたのち、錠が外れる。

 以前より解錠が早くなっているようだ。老いた給仕も、成長している。日々何かを感じ取り、それを自身の内側に取り込む。知識は蓄積し、技術は熟達する。素晴らしいことだと思う。ふと私はどこが成長しているのかと考えてみたが、何も思い浮かばなかった。

 扉が開き、いつもと同じ聖胴衣を身に纏った給仕が現れる。彼女は二回目の食事を持っていなかった。こちらに向かって歩いてくる。私とは目が合わない。後ろの壁の方を見ているようだ。僅かな安心感を覚える。

 揺り籠で横になっている私の前で立ち止まると、

「着いてきなさい」

 そう呟く。昨日も同じような言葉を聞いたような気がするが、何故か思い出せない。

 彼女は背を向け、扉から出て行く。私は一人残された。

 外に出たらこの鬱屈とした気分も晴れるだろうか。そんな事を考えながら立ち上がる。扉に向かって歩き出した。光が差し込んでいたので、今は昼間なのだと理解する。内と外の境に置かれた革の靴を履き、薄暗い部屋を後にする。

 久しぶりに外に出た為、眩しく感じた。目が慣れてくると、視界に写る景色が見えるようになる。

 私を暖かく包み込む陽光。そよ風に揺れる草原の丘。見上げるほど高い壁。記憶の中に残り、何度も復唱した景色。それよりも雄大で、爽やかだった。覚えていることはあまり当てにならないのかもしれない。

 柔らかな風が頬を撫で、肩までかかった髪をなびかせる。淀んだ澱が流れ落ちていくような感覚だった。しばらくここで立ち止まっていたいと思ったが、そうはいかないようだ。

 彼女は昨日通った篝火の道を進んでいた。昼間なので火は灯されておらず、薪組が置かれている。彼女は振り返ることもなく歩いて行く。

 景色は歩きながらでも見れるからいいかと思い、扉を閉め、彼女の後を着いて歩く。私に合わせてくれているのかはわからないが、多少遅かった。薪組を十ほど過ぎると、壁の下に到着した。私の何十倍もある壁が、行く手を阻んでいる。

 給仕は胸元から水晶を取り出し、力を込めて青い炎を灯す。すると粘液の絡み合う音が聞こえてくると共に、壁に穴が開いていく。彼女は穴を通り抜け、道の先へと進んでいく。

 腐りきった負の遺産が、私の知らない場所で使われている。それを見ているだけで気分が悪くなるので、足早に穴を通り過ぎる。

 背後で穴を塞ぎ、再び壁を構成する音が聞こえたが、振り返らずに進んでいく。前を向いて歩いていれば、汚れたものを見る必要はない。

 いつの間にか石で造られた道になっていて、その先には大きな建物があった。黒に近い灰色の城。たぶんあれは王宮なのだろう。私が持っている知識ではそれしか理解することができなかった。

 昨日来たときは暗くてわからなかったが、ここも高い壁で囲まれているようだ。区画ごとに壁が造られているのだろうか。

 石の道を踏み外すと、底のない深淵へ沈み込んでしまうような感覚に陥る。昼間だというのに。昨晩歩いた記憶が残っているようだ。そんなことは起こらない、と自身に言い聞かせる。

 歩いていると煉瓦造りの通路が見えてくる。そこでやっと疑問に思い、周囲を見渡す。

 昨日と同じ場所へ行くのか?

 辺りにそれらしいものはなく、彼女も煉瓦造りの通路に向かっているようだった。一体何の為に向かうのか見当もつかなかったが、とりあえず着いて行く。

 給仕が煉瓦造りの通路に入っていった。入り口に設置されていた篝火は消されている。

 私も続いて通路に入る。確かここからはずっと一本道で、階段が一つあるだけだ。曖昧な記憶を掘り返す。昨日の事なのに、と嘆きたくなった。

 松明が一定間隔で配置されていて、内部を全体的に照らしている。給仕の背中が暗くなったり、明るくなったり。周期的に変化していく。

 すると、彼女の進行方向が左に変わった。壁の中にその身体が消えていく。私にはそう見えただけで、給仕は突きあたりを左に曲がっていった。

 真っ直ぐには、進めない。通路があった場所に煉瓦の壁ができていた。

 驚きと共に疑問が湧き上がる。確か昨日通った時、曲がり角は一切存在しなかった。死者の部屋まで直線の通路が続いていたはずだ。

 なぜ、曲がり角が存在する? どうして、直線の通路が塞がれている? 

 忘れていただけなのか。見落としていただけなのか。希望的解釈が頭をよぎるが、すぐに否定されてしまう。あり得ない。私は確かにこの通路を通った。それは、覚えている。

 昨日の夜。

 彼女と共に。

 この足で。

 理解できない思考に捕らわれつつも、彼女に続いて突きあたりを左に曲がる。通路は続いているようだ。

 しかし、少し進むと今度は右に折れる。給仕の後に続いて、私も右に曲がる。

 その後も、曲がり角は続いた。

 右、左、右、右……。一体幾つ曲がれば目的の場所に到着するのか。いい加減うんざりしてきた頃、通路が開けた。部屋に着いたようだ。

 剣。盾。鎧。武器や防具と呼ばれるものが貯蔵してある場所に到着した。武器庫のようだ。

棚がいくつも置かれていて、武具が保管されている。そのほとんどに魔方陣が掛けてあり、様々な場所から力を感じる。盗みを働く輩を自動で撃退する仕組みになっているのかもしれない。

 給仕は棚と棚の間を抜け、部屋の中へと入っていく。周囲に置かれた武具を眺めながら、私もそれに続く。どれも綺麗な状態で、まだ使われたことがないように思える。右の棚の三段目に一本だけ保管されていた白い剣は、何故か見たことがあるような気がした。

 武器庫はそこまで広くなく、棚の間を抜けると給仕は奥の部屋に入っていった。ここと繋がる部屋がもう一つあるらしい。私はそこから一段と強い力を感じた。

 奥への入り口を抜けた先は、小さい部屋だった。

 中央に設置された台座に銀白色に輝く剣が寝かされている。刀身が細く、刃が僅かにカーブを描いていた。なので左右対称の造りではないようだ。

 それを囲む魔方陣の数も尋常ではなく、台座を埋め尽くすほどの量だった。

 私が感じていた力は、この剣が発している。強烈で、どこか親和性のあるそれは、懐かしいものだ。その正体は雲を掴むようにあやふやだったが。

 給仕は台座に近づいていく。光り輝く魔方陣を踏まないようにして、私も着いていった。

「これは、白金の剣」

 剣を眺めながら呟く。なぜか言葉の内に仄かな暖かさが混じっていたように思えた。

「勇者の剣よ」

 彼女は皺だらけの手を伸ばして、銀白色の刀身を撫でる。まるで何か大切な物を愛でるように。そこまで愛しいものなのだろうか。私にはわからなかったが、きっと彼女には何か思う所があるのだろう。崩れそうになる表情を必死に抑えているようだ。悲しいような、安心したような。そんな表情。

 しかし、一つだけ気になる部分があったので聞いてみることにする。

「それは、私が使うもの?」

 彼女は冷静な表情を保ったまま、こちらを振り向く。一瞬の沈黙の後、口を開いた。

「ええ、貴女のものよ」

 胸元から青色の水晶を取り出し、魔方陣の上に置くと、力がそれに吸い取られているかのように抜けていく。感じていた力は、水晶の中へと消えてしまったようだ。

 白金の剣を手に取り、壁に掛けられていた鞘の中にしまった。そして、それを私に差し出してくる。なぜか、彼女に違和感を感じた。

「持ってみなさい」

 私はそれを両手で受け取る。意外と重く、落としそうになった。金属で出来ているので当然なのだが。鞘のざらざらとした感触が伝わってくる。

「これ、抜いていい?」

 初めて見て触るものだったが、自然と何に使うものなのかは理解できた。

「ええ」

 給仕に許可をもらったので、柄を掴み、鞘を引き剥がして床へ落とす。刀身が露出した。

「綺麗……」

 間近で見た最初の言葉がそれだった。左手に柄を持ち、右手で刀身を支える。

 銀白色に輝き、刀身に私の顔が半分ほど写っている。よく磨かれているのか、もしくは使われていないのか、汚れ一つない金属は澄んでいた。洗練された刃は、触れるだけで皮が斬れてまいそうで。

 きっと、これが人を殺す道具なのだろう。

「柄を両手で掴んでみなさい」

 言われるがままに柄を両手で掴む。しかし、刀身が重く、地面に剣先が落ちてしまう。力を込めるとなんとか持ち上がるが、取り回せるような状態ではなかった。

「重くて、振れない」

 私がこれほど重い剣を使えるのだろうか。もしかすると私より重いかもしれない。

「でも、大丈夫よ。扱い方が分かれば軽くなるから」

「扱い方?」

「そう。貴女が朱裝を展開することができたら、この剣は重量を手放し、真価を発揮する」

 昨日聞かされた不明な単語が、彼女の口から零れる。

「朱裝って?」

 今なら教えてもらえそうな気がしたので、聞いてみる。いつの間にか彼女と私の間に存在する壁が薄くなっているようだ。以前はその壁を叩いても何の返事もなかったのに、次第に反応が帰ってくるようになった。疑問とまではいかないが、変な感覚だった。

「貴女だけの武器よ。それだけ、覚えておけばいい」

 給仕は俯いて、呟く。答えづらい質問だったようだ。僅かに声色に動揺が混じっていた。

「もうじき勇者としての訓練が始まる」

 話を逸らすかのように俯いたまま口を開く。皺の寄った顔に影が差す。

「内包された朱裝も、きっとそこで目を覚ますでしょう」

 零れ落ちる言葉は、相変わらず掴みどころがない。

「その前に見ておく必要があった」

 説明しているのだろうか。価値を持たない情報の中に身を隠して、大事なことを悟られないように。私はさっき感じた違和感の正体を確かめるために、彼女に問う。

「それは、命令?」

 私にもなぜかわからないが、確信を持っていた。曖昧で不透明な感覚が、不思議と理解できるようになっている。

 これは、定められた道ではない。知らない人達が作った道ではない。彼女が、作った道だ。

私の手を引いて、行くべき場所へと連れて行ってくれる。そんな想像が頭をよぎった。

 問いを認識した彼女は、驚きの表情へと変化する。前にも一度だけ見たことがある気がしたが、よく覚えていない。その後、真顔に戻ったかと思えば、優しげな笑みを漏らす。何かを諦めたような雰囲気で、呟いた。

「違う。私の独断よ。貴女をここに連れて来て、白金の剣の感覚を記憶させる内容は、手順書には記されていない」

 表情が柔らかくなっている。張り詰めた神経が緩み、本来のものが表面に出てきているようだ。

「なぜ、ここに連れてきたの?」

「これは貴女に必要なこと。そう、感じたから」

 世界から抜けだして、剣に触れることが必要。今の私にはわからないけれど、彼女はそう感じている。きっと、経験がそうさせているのだろう。意外にも素早く納得することができた。

「貴女に覚えていてほしい」

 給仕が呟く。台座の前まで歩き、私を見つめる。視線が交差したが、なぜか怖くはなかった。瞳に少しだけ温度が宿っていたような気がしたからだ。

「この世界には、正しい事など存在しない」

 彼女の瞳は揺らがなかった。凍てついたものが溶け、そこには確かに意思が宿っていた。

「皆、誰しも間違っている。間違っていることを理解している人間もいれば、理解しようとしない人間もいる」

 剣先を床に立てた。紡がれる言葉に意識を集中させる。

「正義を掲げて殺しあう。押し付けて、奪いあう。それが一人ひとりの正義だから」

「一つの事実を、ある人間は間違いと言う。けれど、他の人間は正しいと考える」

「どちらも正しいはずなのに、その思想は反発する」

「そして、大多数の正義は少数の悪を生む」

「全ての人間に対して正しい事があるとすれば、争いなど起きるはずがない」

「まだ理解できなくても、これだけは覚えていて」

 彼女は一呼吸おいて、言葉を続ける。

「間違っているから、人は戦い続けるの」

 目を逸らして、地面を見つめる。私は、その意味を汲み取ることができなかった。間違っているのは、倒すべき敵達ではないのか? 都市に不利益を与え、害となる集団。正体は見たことがないが、きっと悪と呼べる存在だろう。勝手な思い込みだが、そう信じていた。

 けれど、彼女はそれを否定する。

 皆、間違っている。

 間違っているから、争いは終わらない。

 確かに、その通りだと思う。しかし、本当に正しさは存在しないのか。彼女には、見えていないだけではないのか。

 勇者は正義の為に戦う。押し付けられた正しさを遂行する。もし間違っているのなら、私は何のために戦えばいい? 

 考え込んでいる私の頭に、がさがさとしたものが触れた。そのまま後頭部へと移動していく。

彼女が近くに来て頭を撫でてくれているようだ。手から力が抜けて、白金の剣が床に落ちる。

不快な金属音が響いた。

「大丈夫」

 少し前に味わった、感覚を思い出す。あの日に崩れ去ったはずの暖かさは、その形を取り戻していった。心臓のある場所が、ほんのりと熱を持っているような気がする。張り詰めた気分が、和らいでいく。床に落ちた剣のことは、既に意識の外側へ放り出されていた。

「考える必要はないわ」

 私は見上げて、老いた給仕の顔を見る。優しげな、表情だった。

「……どうして?」

 頭でこねくり回したものとは違い、胸の奥から湧きだす言葉は、うまく制御出来そうにない。

「きっと、受け入れられるから」

 その言葉は、私の深い場所へと滑らかに染みこんでいく。自身が踏み込むのを拒んでいた領域に。そこで乾燥して干からびた芽が、水気を与えられて立ち上がる。微かな希望を与えられて。

 強く、元気に。

「貴女は、優しい」

 彼女の呟きが聞こえた。すると、視界がぼやけていることに気づく。目が悪くなったのかと思い、手で擦ってみると、生暖かい水滴がついた。

「え?」

 一瞬、それが何かわからなかった。見たことはあるのに、名前だけ抜け落ちているような。

「本当に、勇者なのね」

 私の目から溢れ出しているもの。それが何だったのか。

「ごめんなさい」

 彼女の腕に包まれる。抱きしめられているのだ。暖かくて、心地が良い。

「これしか、私にはできない」

 頬を伝う水滴を、認識することができなかった。それを涙と呼ぶことは知っていたはずなのに。

「助けてあげられなかった」

 私が涙を流す理由も、わからない。寂しくもない。悲しくもないのに。どうしてだろう。

「リオ」

 彼女が、私の名前を呼ぶ。呼ばれたのは、初めてだった。

「貴女は、勇者よ」

 慈愛の響きは、私の鼓膜を共鳴させる。

 押し付けられたのではない。きっと、預かったのだろう。

 間違っていると主張した彼女の正義を。

 私の涙が聖胴衣を濡らす。泣き声は出ないのに、流れる水滴は留まる所を知らない。彼女に抱かれ、包まれている。いつかの悲しみを思い出しながら。

「ねえ」

 彼女の胸の中で呟く。

「私で、いいの?」

 孤独。恐怖。絶望。そのどれにも当てはまらない。虚ろな感情だけが、そっと這い出して。

「ええ」

 強い意思。短い返答に、その多くが込められていた。私の胸の奥が揺らぐ。

 頭を優しく撫でられている。荒れた手のはずなのに、暖かい。

「貴女に生きていてほしい」

「もう、死んでるのに」

 言いたくない。けれど、言わずにはいられない。穴の空いた箱からは、様々なものが流れ落ちる。必要のないもの。言ってはいけないもの。分類無く全て。

 思考の片隅では、理解していたのかもしれない。勇者という存在を。

「違う。一人だけよ。今ここで生きている貴女だけ」

 言葉を期待して、受け止める。調度よく、都合よく、自身の傷を癒やしていく。

「……うん」

 小さく、返事をする。

 彼女は私を離し、肩を両手で掴む。そして、視線を交わした。

「帰りましょうか、リオ」

 見たことのないような、優しい瞳だった。

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