Ark Fantasy   作:山田山彦

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異質編
記憶


 お腹が空いた。

 私の頭は、何度もその感覚を訴えてくる。空腹の波は限界を超えて、吐き気と気持ち悪さを伴うようになっていた。歩みを進める度に、空になったお腹から、何かがせり上がってくるのを感じる。つばを飲み込んで、必死に抑えていた。

 早く、食べなければ。

 考えられるのは、それだけだった。視界に映る浮浪者達も、街を包む悪臭も、背景と同化している。私の意識は、食べ物とそうでないものの二種類に分けられているようだ。

 しばらく陽は落ちることはない。それまでに何とかしなければ、今夜にでも凍え死んでしまうだろう。死ぬことが嫌なのではなく、苦しいことは嫌なのだ。このまま夜を迎えて、寒さと空腹に苛まれながら命を散らすことは、想像するだけでも恐ろしい。

 もう少しで空腹は終わる。

 根拠のない自己暗示を重ねて、私は足を動かす。ただ、それを盲信する。

 細い通りを抜け、居住区と呼ばれている場所に辿り着いた。丁度、人一人が入れるくらいの小屋が、所狭しに建てられている。その殆どが廃棄された木材を使っているようで、どれも形状が歪なものばかりだ。隙間も多く、これでは風も防ぐことができない。

 現在は、ちらほらと浮浪者が見えるだけで、小屋に入っている人は多くない。働きに出ているか、食べ物を調達しに離れているのだろう。

 食べ物を盗むなら、今のうち。

 そう考えて、すぐにその思考を打ち消す。そんなことをしてしまったら、何をされるかわかったものではない。ルールも戒律もないスラム街では、力がある人間が正義なのだ。

 歩みを進めても、希望は見えてこない。気力も尽きかけている。あと少しで、倒れてしまいそうだ。

 その時、鈍くなった嗅覚に反応があった。どんな匂いだったのかはわからなかったが、害のあるものではない。直感で、私の命を繋ぎ留めるものだと、判断することができた。

 匂いは近くの小屋から漂ってくる。幸い、近くに人がいることはなく、私は身を縮めて、発生源の小屋を探した。着ていた服に泥が付いてしまったが、気にしてなどいられない。もうじき、この服も捨てなければいけない。

 近くで、物音がした。一瞬、心臓が高鳴って、私は音の方へと視線を向ける。

 小屋の中に、まだ人がいたようだ。髭と髪に覆われた男が、横たわっているのが見える。けれど、いびきをかきながら熟睡しており、大きな音を出さなければ起きることはないだろう。改めて、殺されるかもしれない緊張を感じる。他人の領域に侵入し、食料を奪うのは、それほど罪深いことなのだ。私はいくつか、それを見てきた。

 しかし、それでも、本能には逆らえない。ここで食料を盗まなければ、今夜中に私は死ぬ。確信めいた直感が、頭の中を支配した。そしてそれは、生き延びるという決意に変化する。

 どうやら、匂いの発生源は、熟睡している男の、隣の小屋からのようだ。私は慎重に足を運び、中を覗く。

 小さなテーブルと椅子。そして、藁の寝床。床などという大層なものはなく、地面は土続きだった。中には誰もいなかったが、テーブルの上には、探していたものが乗っている。それを見るだけで、私の心臓は、おかしくなってしまったかのように、暴れだす。耐え難い空腹の苦痛と、制裁の恐ろしさが、頭の中で巡っている。けれど、どちらにしても、死が近いことに変わりはなく、選択することに意味はないのではないかと考えた。迷ってしまえば、ここで終わってしまう。まだ、死ぬことはできない。

 せめて、奴等を殺してから。

 小屋の周囲を確認し、人が見ていないことを確認すると、私は中に入り、テーブルの上に乗っている食料を、口の中に放り込んだ。その食料は焼いた肉のようだったが、味も感触もよく覚えていない。命を繋ぐものを取り込むことができた。考えているのは、それだけだった。

 しかし、一気に食べたせいか、飢餓状態の身体がついていかず、取り込んだ肉を吐き出してしまう。テーブルの上に、固形物の混じった流体が付着し、やがて地面に滴り落ちる。

 けれど、嫌悪感を抱かなかったので、すくい上げて体内に戻した。泥をしっかりと落とし、食料でないものを、取り込まないようにする。食料でないものが混じっていなければ、何だっていい。

 段々と身体が熱を取り戻していく。失われかけていた生命力が、再び息を吹き返す。その感覚は、とても心地よいものだった。身体が慣れてくると、無我夢中で焼けた肉を取り込んだ。

 そして、少しだけ時間が経っただろうか。

 その時の私は、食料が三枚の皿に分けられている意味を、理解することができなかった。

 身体に強い衝撃が走る。身体が宙に浮き、一瞬だけ意識が飛んだ。

 藁の寝床がクッションになり、私の身体を受け止める。脇腹に、鈍い痛みが走っていた。それを堪えながら、何とか上半身を起こす。

 見知らぬ男が、二人立っていた。片方は斧を持っており、汚れた肌着にズボンという、何ともスラム街らしい格好だった。

 もう片方は水桶を両手に抱えていて、服装は同じだが、腕や足が丸太のように太い。あんなものに潰されたら、ひとたまりもないだろう。

 彼らは、害虫を見るような目で、こちらを眺めていた。その視線に萎縮し、身動きをとることができない。動こうとしたら、まず間違いなく蹴り飛ばされるだろう。

 すると、斧の男が隣の小屋へ行き、熟睡している男を叩き起こした。斧の男の怒声が、居住区に響き渡る。

 どうやら、話の内容から察すると、熟睡している男は食料の番をしていたようだ。けれど、昼間ということもあり、居住区に人は来ないだろうと考え、彼は眠ってしまう。そこで、私が来て、食料に手を付けてしまった。

 話の内容は、こんなところなのだろう。既に、私の意識は現実から目を背けていた。身体は、依然として動かない。鈍い痛みは、脇腹を蝕み続ける。

 太い男は、抱えた水桶を地面に降ろし、私との距離を縮める。自分より何倍も大きい存在が、敵意を剥き出しにして近づいてくる。すると、本能的な恐怖が痛みを凌駕し、身体を動かすことができるようになった。

 すぐさま、男の脇を抜けようとした。が、それは叶わない。見た目より俊敏な動きで、私の側頭部を平手で打つ。視界に火花が散り、平衡感覚を失った。また、藁の寝床に倒れ込む。頭がぐらぐらして、起き上がることすらできない。

 斧の男が戻ってきて、太い男と話し始めた。おぼつかない意識の中で聞き取れたのは、いくつかの単語。

 子供。腕。指。四本。二本。 

 それらが意味するところは、私にはわからない。その後、嫌でも感覚に刻み付けられることになるのだが。今は、揺らぐ意識を留めるだけで精一杯だった。

 太い男が近づいてきて、私の右手を掴み、小指だけを伸ばす。他の指は自然と握る形になった。そして、そのまま地面に押し付けられる。

 斧の男は、私の右手の前まで来ると、手に持っているソレを、軽く振り上げる。

 そして、ようやく、私はその意味に気づいた。

 いや、もっと前から気づいていたのだろうが、最後まで、意識は現実を受け入れようとしなかった。きっとなんとかなる。そう思っていたことを、ひどく後悔する。状況は既に手遅れで、結局のところ、今の私ではどうすることもできないのだが。

 現実を自分のものとして捉えた瞬間、あまりの恐怖に叫び声を上げてしまった。半狂乱になりながら、必死に許しを乞う。

 助けて。お願い。どうか、助けてください。

 そう言って、救われた人間は、どれだけいたのだろうか。僅かな記憶を辿ってみても、見つからない。自身の罪を塗り潰し、救済だけを望む。自分勝手な、人間。私はそれを、いくつか見てきたはずなのに。

 それでも、こう思わずにはいられなかった。

 全てなかったことになればいいのに、なんて。 

 私は叫んで、喚いて、暴れた。けれど太い男は、抵抗を全て吸収する。丸太のような腕は、微動だにしない。

 そして、斧の男は舌打ちをした。

 本当に、醜い音を立てて。

 害虫に対する嫌悪。

 食料を奪う者への憎悪。

 全てが、それに込められていた。

 きっと私は、人間ではない。

 人間の形をした、なにか。

 直感なのか、確信なのか、わからない。

 唯一理解できたのは、その一つだけ。

 

 そして

 振り上げたソレは

 私の小指を

 

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